・『すばらしい新世界』オルダス・ハクスリー:黒原敏行訳
・『一九八四年』ジョージ・オーウェル:高橋和久訳
・本のない未来社会を描いて、現代を炙(あぶ)り出す見事な風刺
・『われら』ザミャーチン:川端香男里訳
・『とうに夜半を過ぎて』レイ・ブラッドベリ
・SFの巨匠レイ・ブラッドベリ氏が死去、91歳
・『アメリカン・ブッダ』柴田勝家
・必読書 その五
十数年振りの再読にも堪(た)える好編である。有名な作品だけに読まれた方も多いだろう。ブラッドベリの長編の中では一番好きな作品である。
未来社会のある国。ここでは本を読むことが禁じられていた。文明の発達によって、建築材は完璧な防火処理がなされていて火災が起こることはない。消防士を意味した「ファイアーマン」の仕事は焚書(ふんしょ/本を焼くこと)であった。
ジョージ・オーウェルの『一九八四年』(ハヤカワ文庫)と同様、人間が徹底的に管理されているという社会背景になっている。本書の主役は本である。書物が持つ意味をSFという物語を借りて堂々と謳い上げている。タイトルとなっている「華氏四五一度」とは紙が燃え出す温度を示している。
火の色は愉しかった。
ものが燃えつき、黒い色にかわっていくのを見るのは、格別の愉しみだった。真鍮の筒先をにぎり、大蛇のように巨大なホースで、石油と呼ぶ毒液を撒きちらすあいだ、かれの頭のうちには、血管が音を立て、その両手は、交響楽団のすばらしい指揮者のそれのように、よろこびに打ちふるえ、あらゆるものを燃えあがらせ、やがては石炭ガラに似た、歴史の廃墟にかえさせるのだった。
【『華氏451度』レイ・ブラッドベリ:宇野利泰〈うの・としやす〉訳(早川書房、1964年/ハヤカワ文庫、1975年/ 南井慶二〈みない・けいじ〉訳、元々社、1956年『華氏四五一度』/伊藤典夫訳、ハヤカワ文庫、2014年)以下同】
これが冒頭の書き出し。火は破壊の象徴であり、ホースから放出される「毒液」は権力の象徴に他ならない。破壊を「愉しむ」姿にぞっとするような人間の黒い心が垣間見える。
ファイアーマンのガイ・モンターグは、近所に住むクラリスという少女と出会う。クラリスは「水のようにきれいに澄んでいる」瞳を持った不思議な少女だった。クラリスの知的な質問にモンターグは徐々にイライラを募らせてゆく。
「たしかにあたし、あんたの知らないことを知っているわね。夜あけになると、そこら一面、草の葉に露がたまるのを知っていて?」
いきなりそういわれても、かれにはそれが、知識のうちにあるかどうかさえ思い出せなかった。
別れ際にクラリスは「あんた幸福なの?」と問いただす。その一言が彼を動揺させた。
「人間とは、たいまつみたいなものだ。燃えあがり、光輝をはなつが、燃えつきりまでの存在なんだ。他人のくせに、おれを捕らえ、おれにおれ自身の考えを投げつけてよこす! それも、ひとに知られず、内心のいちばんおくふかくでふるえている考えを」
未来社会の快適な生活は幸福を保証するものではなかった。
「あかるい場所でのかれは、幸福の仮面をかぶっているにすぎない。それをあの少女が、ひきはがしてしまったのだ」
モンターグはクラリスとの出会いによって変化の軌道を歩み出す。今まで考えようともしなかったことを考え始め、常識を疑い、自分の人生を自分の手に引き寄せようとする。
深く自分自身を見つめ直したモンターグは少しずつ変わってゆく。
「あんたの笑い声、まえよりは、ずっとあかるくなったわよ」
ある焚書現場でモンターグは好奇心に逆らうことができずに1冊の本を隠し持つ。本を発見された家の老婆は本と共に自ら炎の中に留まった。
家に持ち込んだ本の存在を知ったモンターグの妻は狂乱状態となる。妻は快適な生活に毒されて、自分の頭でものを考えることができなくなっていた。
「本のなかには、なにかあるんだ。ぼくたちには想像もできないなにかが――女ひとりを、燃えあがる家のなかにひきとめておくものが――それだけのなにかがあるにちがいない」
「あの女は、きみやぼくたちと同様に、まともな人間だった。いや、ぼくたち以上に、ちゃんとした人間だったかもしれない。それなのに、ぼくたちは彼女を焼き殺した」
モンターグは遂に目覚めた。
ファイアーマンという立場を捨てたモンターグは、本を知るフェイバー教授と知り合う。自分を導いてくれる知遇を得てモンターグは走り出す。
フェイバーは言う――
「すぐれた著者は、生命の深奥を探りあてる。凡庸な著者は、表面を撫でるにすぎん。劣悪な著者となると、ただむやみに手をつけて、かきまわすだけのこと、であとはどうなれと、捨て去ってしまうんです」
人間とは思想に生きる動物であろう。感覚的な快楽を追い求めるようになると、人間は自分でものを考えなくなる。本書に書かれた世界が遠い先のことだなどと誰が言えるだろう? 本を読むという行為は他人の思想に触れることに他ならない。コミュニケーション・ツールはどんどん発達しているものの、そこで交わされるのは意味のない会話であり、他愛のないデジタル文章である。映像文化は圧倒的な情報量を洪水のように溢れさせ思考を停止させる。燃やさずして本は消え去ろうとしているように思うのは私の錯覚であろうか?
モンターグが快適な生活を捨て、安定した職業を捨て、何も疑おうとすらしなかった自分を捨て、そうしてまで見つけようとしたものは何か。それは本当の自分であり、本来の自分の姿であろう。これこそ真の自由であり、そこにモンターグが戦う理由があったのだ。
「建設に従事しない男は、破壊を仕事にすることになる。(中略)それが古い真理ですからな」
破壊は一瞬、建設は死闘だった。モンターグの生き方に魅力を覚えるのは、自由であろうとすることが人間の幸福に直結していることを示しているからであろう。自分が何かに束縛されているのではと考えさせずにおかない本書を、生きている間にあと数回は読んでおきたい。