日は沈み、また昇る。そして必ず、花咲く時が訪れる。
・福島の夕焼け
「起きたことだけのリストを見れば、まるで起こりそうもない一連の出来事のように思えます。でも、それは数霊術の世界の話。人は同じことだけを捜して、異なることをすべて無視する。(中略)
こんなふうに類似性を探して、それについて想像を膨らませ、似ていることだけを数えあげるなら、誰であれ地球上の二人の間には、驚くほどたくさんの共通点を見つけられるでしょう」(イアン・スチュアート教授、イギリス)
【『本当にあった嘘のような話 「偶然の一致」のミステリーを探る』マーティン・プリマー、ブライアン・キング:有沢善樹、他訳(アスペクト、2004年)以下同】
イギリス騎兵隊の将校メジャー・サマーフォードは、第一次世界大戦最後の年、フランドルの戦場において、稲妻に打たれて落馬した。それ以降、彼は腰から下がマヒしてしまう。6年後、メジャーはカナダのバンクーバーに移住する。そして、川釣りをしているときに、ふたたび落雷に遭い、右半身がマヒしてしまう。
2年後、彼は地元の公園で散歩できるようにまでなった。ところが、1930年のある日、みたび稲妻が彼を襲った。それにより、彼の体は全身マヒになった。彼が死んだのは、それから2年後である。
ゼウスはそれでもメジャー・サマーフォードを許さなかった。4年後、稲妻が彼の墓を直撃したのである。
デレク・シャープはイギリス空軍のパイロットという職業柄、一般人より死の危険に直面する確率が高いが、それにしても多すぎる死の危険にこれまで直面してきた。しかも、ふつうなら死んで当然という状況から必ず生還した。これを単なる偶然の結果と片づけるのは無理というものだろう。(中略)
彼が死と一戦まじえた経験は何度もあるが、最初のがいちばん劇的だったと言えるだろう。あれは1983年2月に起こった事故だった。レズ・ピアースという訓練中の航空士を同乗させ、ケンブリッジシャーの町や村の上空を時速1000キロで飛んでいたとき、二人が乗っていたイギリス空軍のホーク戦闘機にマガモが激突したのである。
マガモは飛行機の風防を突き破り、デレクの顔を直撃した。衝撃で彼の左目が眼窩から飛び出し、首の骨が折れ、顔の骨と神経が大きな損傷を受けた。機上の二人にとって、死は確実かつ差しせまったものに思えた。
シャープが覚えているのは「ドン!」という感じの衝撃だけである。「頭部全体を誰かに濡れた毛布で引っぱたかれた感じでした。ぼくは本能的に操縦桿を引き戻したんです。低空で緊急事態に陥ったときにはそうしろと訓練されていたからですよ。そうすれば、高度が上がって考える時間ができますからね」
「次の瞬間、意識を失いました。ぼくが意識を失っている間に飛行機がどこまで行ったか、誰にもわかりません。でも、最低2~3分は意識を失っていたはずです。気がついたときには、高度が1500メートルにまで堕ちていましたからね」
しかも、恐ろしいことに目が見えない。「最初は、目に風防の破片が入ったのだと思いました……顔を拭ってそれを取り除こうとしたんですが、指にべたべたしたものが付着するじゃありませんか。じつのところ、私が拭い取ろうとしていたのは、自分の顔の〈破片〉だったんですよ。痛みはまったく感じませんでしたが、左目が眼窩から飛び出していたんです」
定年
ある日
会社がいった。
「あしたからこなくていいよ」
人間は黙っていた。
人間には人間のことばしかなかったから。
会社の耳には
会社のことばしか通じなかったから。
人間はつぶやいた。
「そんなこといって!
もう四十年も働いて来たんですよ」
人間の耳は
会社のことばをよく聞き分けてきたから。
会社が次にいうことばを知っていたから。
「あきらめるしかないな」
人間はボソボソつぶやいた。
たしかに
はいった時から
相手は会社、だった。
人間なんていやしなかった。
【『石垣りん詩集』石垣りん(ハルキ文庫、1998年)】
グッピーを、コクチバスと出会わせたときの反応によって、すぐ隠れる個体を「臆病」、泳いで去る個体を「普通」、やってきた相手を見つめる個体を「大胆」と、三つのグループに分ける。それぞれのグループのグッピーたちをバスと一緒に水槽に入れて放置しておく。60時間ののち、「臆病」なグッピーたちの40パーセントと「普通」なグッピーたちの15パーセントは生存していたが、「大胆」なグッピーは1匹も残っていなかった。
【『病気はなぜ、あるのか 進化医学による新しい理解』ランドルフ・M・ネシー&ジョージ・C・ウィリアムズ:長谷川眞理子、長谷川寿一、青木千里訳(新曜社、2001年)】
では恐怖とはなんでしょう。恐怖をもたらす要因とはなんなのでしょう。やがて大河となるたくさんの細流や小川――恐怖をもたらす細流とは何か。そこには恐怖の凄まじい活力の源があるのです。
恐怖のひとつの原因は比較でしょうか。つまり自分をだれかと比べるということですか。
そのとおりです。ではあなたは、自分をだれとも比較しないで生きることはできるでしょうか。私の言っていることがおわかりですか。
イデオロギーのうえでも、心理的にも、また肉体的にさえも、自分をだれかと比べるとき、そこには相手のようになろうとする懸命な努力があり、そしてそうはなれないかもしれないという恐怖があるのです。実現したいという願望があるのに、実現できないかもしれない。――比較があるところにはかならず恐怖があるのです。
ではたずねます。人はなんらかの理想や価値観に近づこうとして、美醜、公正・不正などといった比較に囚われるわけですが、そうした比較をいっさいせずに生きていくことはできるでしょうか。現実には絶えることのない比較がつづいています。それで私たちはたずねているのです。比較が恐怖の原因なのか、と。
明らかにそうなのです。そして比較があるところには決まって追随があり、模倣があります。ですから比較や追随や模倣が恐怖の有力な原因だといえるわけです。いったい人は心理的に、比較や模倣や追随などせずに生きることができるのでしょうか。
もちろんできます。もしこれらが恐怖の有力な原因であるなら、そしてあなたが恐怖の終焉にとりくむなら、内的には比較はなくなります。何かになろうとしなくなるのです。比較とは、より良く、より高く、より高貴に思える何かになろうとすることにほかなりません。したがって比較とは、何かに「なろうとする」ことなのです。これは恐怖の要因のひとつでしょうか。ご自分で見いだしてください。
【『恐怖なしに生きる』J・クリシュナムルティ:有為エンジェル〈うい・えんじぇる〉訳(平河出版社、1997年)以下同】
私たちはたいてい社会的地位を確保することで満足を得ようとしています。自分が無名の人間のままで終わることを恐れるからです。立派な地位にある人はきわめて丁重にあつかわれ、一方、地位をもたない人は粗末にあつかわれるように社会は作られています。それでだれもが、社会的地位や家庭内の地位を欲し、あるいは神の右手に座する地位を求めるわけです。でもこの地位は周囲によって認められるべきもの、そうでないと、それは決して地位とはいえないからです。私たちはいつも高いところに坐っていたい。内面では惨めさや苦悩が渦巻いているだけに、外では偉い人物として尊重されることがなんとも快いからです。このように、なんらかの形で傑出していると社会に認められようとして地位や威信や権力を渇望することは、言い換えれば他人を支配したいという願望にほかならず、この支配欲が攻撃性の一形態なのです。聖者はその気高さにふさわしい地位を求めますが、それはまるで鶏が農園で終始餌をつっつくのと同じくらい攻撃的だといえます。では何がこのような攻撃性を生みだすのか。それは恐怖心ではないでしょうか。
恐怖は人生の最大の課題のひとつです。恐怖に捕らえられた心は混乱と葛藤に陥るために、暴力的になったり、歪められたり、攻撃的になったりするのです。そうした心には自身の思考形態から離れる勇気がありません。これが偽善を生みだす原因なのです。恐怖から解放されるまでは、たとえ最高峰に登り、あらゆる種類の神を考えだそうとも、私たちは無知の闇をさまようだけでしょう。
たとえば私たちの受けている競争を土台とした教育、これもまた恐怖を引き起こします。堕落した愚かな社会の中ではだれもがみな、なんらかの恐怖にさいなまれながら日々を送っています。恐怖は、私たちの暮らしをねじ曲げ歪め退屈なものにしてしまう、恐るべき存在なのです。
失敗してみたらどうですか。発見してみたらどうでしょう。ところが恐れている人はいつも「正しいことをしなくては。人から立派に見れらなくては。あいつは何者だとか、とるにたりないやつだなんて世間からばかにされてはならない」などと考えるのです。そういう人は実際、根底から怯えきっているのです。野心的な人間とは、ほんとうは怯えている人のことです。そして怯えるているものには、愛や思いやりもありません。それはまるでびくびくと家の中に閉じこもっているようなものです。
リンドバーグはヒトラーを「疑いなく偉大な人物」とたたえた。これにこたえて、ナチス・ドイツは1936、38、39年の3回リンドバーグを招いた。リンドバーグは、ドイツ空軍を視察して、その能力を高く評価した。
多くのアメリカ人は、
「リンドバーグはナチのシンパ」
と思っていた。
【『秘密のファイル CIAの対日工作』春名幹男(共同通信社、2000年/新潮文庫、2003年)】
千島列島の海辺の葦の中で救出されたあと、リンドバーグ夫妻は東京で熱烈な歓迎をうけるが、いよいよ船で(どうして飛行機ではなかったのだろう。岸壁についた船とその船と送りに出た人たちをつなぐ無数のテープをえがいた挿絵をみた記憶があるのだが)横浜から出発するというとき、アン・リンドバーグは横浜の埠頭をぎっしり埋める見送りの人たちかが口々に甲高く叫ぶ、さようなら、という言葉の意味を知って、あたらしい感動につつまれる。
「さようなら、とこの国々の人々が別れにさいして口にのぼせる言葉は、もともと「そうならねばならぬのなら」という意味だとそのとき私は教えられた。「そうならねばならぬのなら」。なんという美しいあきらめの表現だろう。西洋の伝統のなかでは、多かれ少なかれ、神が別れの周辺にいて人々をまもっている。英語のグッドバイは、神がなんじとともにあれ、だろうし、フランス語のアディユも、神のもとでの再会を期している。それなのに、この国の人々は、別れにのぞんで、そうならねばならぬのなら、とあきらめの言葉を口にするのだ」(※ 『翼よ、北に』アン・モロー・リンドバーグ著)
【『遠い朝の本たち』須賀敦子(筑摩書房、1998年/ちくま文庫、2001年)】
ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮ぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例(ためし)なし。世の中にある人と、栖(すみか)とまたかくのごとし。(『方丈記』鴨長明)
あなたがテレビ番組の『ペイウォッチ』を見ているとする。さて『ペイウォッチ』はどこに局在しているのだろうか? テレビの画面で光っている燐光体のなかにあるのか、ブラウン管のなかを走っている電子のなかにあるのか。それとも番組を放送しているスタジオの映画用フィルムやビデオテープのなかだろうか。あるいは俳優にむけられたカメラのなかか?
たいていの人は即座にこれが無意味な質問であると気づくだろう。もしかすると、『ペイウォッチ』はどこか一カ所に局在しているのではなく(すなわち『ペイウォッチ』の「モジュール」というものは存在せず)、全宇宙に浸透しているのだという結論をだしたくなった人もいるかもしれない。だがそれもばかげている。それは月や、私の飼い猫や、私が座っているソファには局在していないからだ(電磁波の一部がこれらに到達することはあるかもしれないが)。燐光体やブラウン管や電磁波やフィルムやテープは、どれもみなあきらかに、月や椅子や私の猫にくらべれば、私たちが『ペイウォッチ』と呼んでいるシナリオに直接的な関係がある。
この例から、テレビ番組がどんなものかを理解すれば、「局在性か非局在性か」という疑問が力を失い、それに代わって「どういう仕組みになっているのか」という疑問がでてくるのがわかる。
【『脳のなかの幽霊』V・S・ラマチャンドラン、サンドラ・ブレイクスリー:山下篤子訳(角川書店、1999年/角川文庫、2011年)】
1.ある存在は、〈それ自身が持ち上げることのできない石〉を作ることができるか、できないかのどちらかである。
2.もし、その存在が〈それ自身が持ち上げることのできない石〉を作ることができるならば、その存在は全能ではない。
3.もし、その存在が〈それ自身が持ち上げることのできない石〉を作ることができないならば、その存在は全能ではない。
1.その存在は、作った時点では持ち上げられない石を作ることができる。
2.しかし、その存在は全能であるから、その存在は後からいつでも、持ち上げられる程度に石を軽くすることができる。従って、その存在を全能であるというのは尚も合理的である。
1.全能者がアリストテレスの物理学に従う宇宙を創造する。
2.その宇宙で、全能者は自分自身が持ち上げられないほど重い石を作ることができるであろうか。
1.全能者は自分に持ち上げられない石(あるいは分割できない原子など)を作る。
2.全能者はその石を持ち上げられず、全能でない者になる。
1.その全能者は本質的に全能である、故に全能でない者になることはできない。
2.さらに、全能者は論理的に不可能なことをすることはできない。
全能者が持ち上げられない石を創造することは、上記の論理的不可能性にあたる。故に全能者がそのようなことを要求されることはない。
3.全能者はそのような石を創造することはできないが、それでも尚全能性を保つ。
1.全能者は論理的に不可能なことをすることができる。
2.全能者は自らが持ち上げられない石を作ることができる。
3.全能者は次いでその石を持ち上げる。
米国で20年ぶり死刑執行をビデオ撮影、残虐性検証のため
米ジョージア(Georgia)州で21日夜、死刑囚の刑の執行が約20年ぶりにビデオ録画された。
地元メディアによると、両親と妹を殺害したとして有罪となったアンドルー・デヤング(Andrew Grant DeYoung)死刑囚は、現地時間午後8時4分(日本時間22日午前9時4分)に薬物注射による刑を執行された。
ビデオ撮影を求めたのは、やはり同州で死刑判決を受けたグレゴリー・ウォーカー(Gregory Walker)死刑囚の弁護団。
米国の一部の州では、死刑執行に使用する薬物として、入手が困難なチオペンタールナトリウムの代わりに、動物の安楽死に使われるペントバルビタールの使用を認めている。しかし、ペントバルビタールの使用には残虐だとの批判があり、ウォーカー死刑囚の弁護団は残虐性の検証のため撮影を要請し、州最高裁の許可を得ていた。
米死刑情報センター(Death Penalty Information Center)代表は、「死刑執行の際に何が起きているのか、公開される情報は非常に限られている。ビデオ撮影によって、一般の人も何らかの知識が得られると思う」と語っている。
【AFP 2011-07-22】
米国の死刑、執行失敗例では中世並みの悶絶
※この記事はショッキングな表現を含んでいますのでご注意ください
米国の死刑といえば、医学処置による人道面にも配慮したものだと思われているが、ときに中世の拷問とも違わぬ陰惨な最期を悶絶しながら遂げる死刑囚もいる。
絶叫、体が焦げる匂い、あまりの残酷さに立会人たちは気絶する……「犬猫の殺処分のほうがもっと人道的です」。1992年にアリゾナ(Arizona)州で死刑に立ち会った記者カーラ・マックレーン(Carla McClain)は語った。このとき刑を執行されたドナルド・ユージーン・ハーディング(Donald Eugene Harding)死刑囚は、ガス室のなかで死ぬまで10分以上、のたうちまわり、もがき苦しんだ。
◆針刺し18回、2時間かけても注射できず
9月、ローメル・ブラウン(Romell Brown)死刑囚の刑執行では、致死薬注射が試みられたが、針を刺すのに連続18回失敗し、ブラウン死刑囚は執行室から生還した米史上2番目の死刑囚となった。執行官らが2時間かけてもうまく注射できず、オハイオ(Ohio)州当局が執行中止を命じたのだった。
過去25年間、米国で死刑に処された者のうち、執行の失敗で苦しんだ者は少なくない。肉を焦がされた者、血でシャツが真っ赤に染まった者。立ち会った人びとが、苦悶する死刑囚を目撃することもしばしばだ。
1999年、フロリダ(Florida)州最高裁のリーンダー・ショー(Leander Shaw)判事は、電気椅子で処刑されたアレン・リー・デービス(Allen Lee Davis)死刑囚の写真を見ておののき、「そのカラー写真には、どこから見ても、フロリダ州民に残酷な拷問を受け、死に至った男の姿が映っていた」と書いた。
デービス死刑囚は、約160キロの彼の体躯(たいく)にあわせてしつらえられた特製の電気椅子にくくりつけられていた。処刑が執行され死を宣告されるまでに、口からあふれ出した血が白いシャツにぐっしょりとこぼれ、電気椅子に彼を縛り付けていたストラップのバックルの穴からもしたたっていた。
◆電気椅子ではなく火あぶり? ガス室の執行官は酔っ払い
コロラド大学のマイケル・ラデレット(Michael Radelet)教授は、米死刑情報センター(Death Penalty Information Center)と共同で、執行に立ち会いを求められた目撃者らから40件以上の失敗例に関する証言を集めた。
恐怖の失敗例は、現在米国で執行に使用されている一般的な方法、つまり電気椅子、薬剤注射、ガス殺のすべてに確認でき、そうした失敗のほとんどが人為的ミスによるものだった。
1983年にはアラバマ(Alabama)州で、電気椅子の発火事故があった。ジョン・エバンス(John Evans)死刑囚の足に取り付けられた電極が燃えあがったのだ。左のこめかみ近くに取り付けた電極もトラブルを生じ、顔を覆っていたフードの下から煙と火花がもれ出た。執行はやり直されたが、煙と体の焦げた匂いがたちこめるなか、エバンス死刑囚の心臓はまだ動いていた。3度目のスイッチが入れられたが、エバンス死刑囚がようやく息絶えたのは、それから14分後だった。
電気椅子による執行の失敗はその後も各地で続いた。
ガス殺では1983年ミシシッピ(Mississippi)州で、ジミー・リー・グレー(Jimmy Lee Gray)死刑囚が恐ろしくもだえ苦しんだため、当局が立会人室から人払いするほどだった。後に、グレー死刑囚の処刑の担当執行官は、酔っていたことを明らかにした。
◆死刑囚最後の言葉「これは処刑じゃない、殺人だ」
近年では薬剤注射は残酷だとして起こされている訴訟もいくつかあるが、全米の州では致死薬注射が最も一般的に使われており、最高裁も2008年に薬剤注射は合憲と判断している。
しかし、33分間を苦悶したベニー・デンプス(Bennie Demps)死刑囚にとって、薬剤注射による刑は激痛をともなった。執行官らが点滴注射が失敗した場合の予備にと別の静脈を探そうとしたのだ。デンプス死刑囚は最後の言葉で「わたしはここで切り刻まれた。ものすごい痛さだ。彼らはももに切り込みを入れ、足に切り込みを入れ、血は吹き出まくっている。こんなのは処刑じゃない。殺人だ」と言い遺した。
最近の失敗例のいくつかは、冒頭のブルーム死刑囚が処刑されたオハイオ州で起こっている。
「それじゃ、効かないよ! 効かないって」。ジョセフ・クラーク(Joseph Clark)死刑囚は2006年5月、執行官が22分かけて探し出した静脈が、注射が始まったとたんに破裂すると、すすり泣きながら叫んだ。
1年後も、オハイオ当局はクリストファー・ニュートン(Christopher Newton)死刑囚の静脈に針を刺すのに2時間かかった。あまりに長くかかったので、ニュートン死刑囚は途中でトイレ休憩を許可された。
米史上、死刑場から生きて戻った最初の人物は1940年代、ルイジアナ(Louisiana)州で電気椅子に座った若い黒人の男、ウィリー・フランシス(Willie Francis)死刑囚。彼は2度目、やり直された刑で死んだ。
【AFP 2009-10-18】
物質系や生命系の世界の複雑さは、「深さ」、つまり処分された情報量として記述できる。最大の情報量を持つもの、それゆえに最長の記述を要するようなものには、私たちは関心を抱かない。それは、無秩序や乱雑さや混沌と同じだからだ。また、あまりに規則正しく先の読めるものにも心を引かれない。そこにはなんの驚きもないからだ。
私たちの興味をそそるのは、歴史を持つもの、つまり、閉じて動かぬことによってではなく、外界と相互作用を行ない、途中で大量の情報を処分することによって長い間、存続してきたものだ。だから、複雑さや深さは、〈熱力学深度〉(処分された情報の量)またはそれと密接に関連した〈論理深度〉(情報の処分に要した計算時間)で測定できる。
会話には情報交換が伴う。しかし、そのこと自体が重要なのではない。交わされる言葉にはわずかな情報しか含まれていない。肝心なのは、言葉になる前に行なわれる情報の処分だ。メッセージの送り手は大量の情報を圧縮し、情報量をごく小さくしてからそれを口にする。受け手はコンテクストから判断し、実際に処分された大量の情報を引き出す。こうして送り手は、情報を捨てることで〈外情報〉を作り出し、その結果生まれた情報を伝達し、相応量の〈外情報〉を受け手の頭によみがえらせることができる。
つまり、言語の帯域幅(毎秒伝達できるビット数)はいたって小さい。毎秒せいぜい50ビット程度だ。言語や思考で意識はいっぱいになるのだから、意識の容量が言語より大きいはずはない。1950年代に実施された一連の心理物理学実験から、意識の容量は非常に小さいことが判明した。毎秒40ビット以下、おそらくは16ビットを下回る。
感覚器官をを通じて取り込む情報量が毎秒約1100万ビットであることを思うと、この数字は桁外れに小さい。意識は、五感経由で間断なく入ってくる情報のほんの一部を経験するにすぎない。
とすれば、私たちの行動は、感覚器官を通して取り込まれながら意識には上らない大量の情報に基づいているはずだ。毎秒数ビットの意識だけでは、人間行動の多様性は説明できない。事実、心理学者は閾下知覚の存在を確認している。(ただし、このテーマに関する研究の歴史には奇妙な空白期間があり、その背景には、そうした研究から得られた知識が商業目的に悪用されることへの具体的懸念と、人間の得体の知れなさに対する獏とした恐れがあるようだ)。
【『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』トール・ノーレットランダーシュ:柴田裕之訳(原書、1991年/紀伊國屋書店、2002年)以下同】
結果に疑問の余地はなかった。〈準備電位〉が動作の0.55秒前に現れ始めたのに対し、意識が始動したのは行為の0.20秒前だった。したがって、決意の意識は〈準備電位〉の発生から0.35秒遅れて生じることになる。言い換えれば、脳の起動後0.35秒が経過してから、決意をする意識的経験が起きたわけだ。
数字を丸めれば(データの出所が明らかな場合はさしつかえなかろう)、自発的行為を実行しようという意図を意識するのは、脳がその決定を実行し始めてから0.5秒たった後という結論になる。
つまり、三つの事象が起きている。まず〈準備電位〉が発生し、ついで被験者が行為の開始を意識し、最後に行為が実行される。
体の触覚に関連する脳領域に電気刺激を与えると、体に触れられた、という感覚が生まれる。人間には、皮質への刺激を感知する触覚がない。通常は頭蓋骨が刺激から脳を守っているからだ。脳への刺激はけっしてないのだから、それを感知する生物学的な意味がない。頭蓋が開かれているとしたら、ほかにもっと憂慮すべきことがあるわけで、感覚皮質への刺激で爪先がうずくかどうかなど考えていられない。
意識とそれが基づく脳内の活動に関するリベットの研究は、大きく二つに分けられる。一つは、ファインスタインの患者に対する一連の実験であり、これが、意識が生じるまでには0.5秒の脳活動を要するという、驚くべき発見をもたらした。この研究の後に、さらに驚嘆すべき発見へとつながる。すなわち、意識は時間的な繰り上げ調整を行ない、その結果私たちは、外界からの刺激の自覚が、実際は刺激の0.5秒後に生じるにもかかわらず、あたかも刺激の直後に生じたかのように感じる。
意識はその持ち主に、世界像と、その世界における能動的主体としての自己像を提示する。しかし、いずれの像も徹底的に編集されている。感覚像は大幅に編集されているため、意識が生じる約0.5秒前から、体のほかの部分がその感覚の影響を受けていることを、意識は知らない。意識は、閾下知覚もそれに対する反応も、すべて隠す。同様に、自らの行為について抱くイメージも歪められている。意識は、行為を始めているのが自分であるかのような顔をするが、実際は違う。現実には、意識が生じる前にすでに物事は始まっている。
意識は、時間という名の本の大胆な改竄(かいざん)を要求するイカサマ師だ。しかし、当然ながら、それでこそ意識の存在意義がある。大量の情報が処分され、ほんとうに重要なものだけが示されている。正常な意識にとっては、意識が生じる0.5秒前に〈準備電位〉が現れようが現れまいが、まったく関係ない。肝心なのは、何を決意したかや、何を皮膚に感じたか、だ。患者の頭蓋骨を開けたり、学生に指を曲げさせたりしたらどうなるかなど、どうでもいい。重要なのは、不要な情報をすべて処分したときに意識が生じるということだ。