2013-10-31

実際には螺旋を描く太陽系惑星の公転軌道


 ぶったまげた。私の想像力がいかに静止的かつ平面的であるかを思い知らされた。それにしても何と力強い動きだろう。諸行無常とは宇宙のダイナミズムを表しているのかもしれない。




螺旋蒐集家
仏教的時間観は円環ではなく螺旋型の回帰/『仏教と精神分析』三枝充悳、岸田秀
太陽系の本当の大きさ/『人類が知っていることすべての短い歴史』ビル・ブライソン

ブログに関する覚え書き




2013-10-30

「五穀で元気!」が美味い


 賞味期限は約1年後。非常食によいと思う。リッツやビスコよりも美味い。


2013-10-28

ちょっとお手上げ/『哲学、脳を揺さぶる オートポイエーシスの練習問題』河本英夫


 読んだ時は確かに昂奮した。だが抜き書きしたテキストを読み直しても何ひとつ思い出せない。しかもテキストはいずれも短いときたもんだ。加齢のせい、ではない。多分。きっとオートポイエーシスよりも著者の表現力に胸をときめかしたのだろう。そもそも私は本書を読んだにもかかわらずオートポイエーシスを説明することができない。つまりオートポイエーシスという生命システム論は私の脳を書き換えるまでに至らなかったわけだ。

 読書履歴でいうと認知運動療法からアフォーダンス理論を辿ってオートポイエーシスに至ったわけだが、ちょっとコースを誤ったかなという印象を拭えない。もちろん私の知的エンジンの馬力が低いためだ。

 検索し、あちこち見回したのだがそれでもダメだった。オートポイエーシスが理解できん。というわけで「必読書」からも削除した。もういっぺん読んで判断し直そうと思う。

 というわけで、抜き書きの羅列とリンクの紹介で誤魔化すことを許されよ。

 つまり、うまく歩けないときには、ガマンして乗り切るのではなく、少し浅めの深呼吸をして力を抜くのである。力をこめることは誰にでもでき、また反射的な対応は力をこめてしまっている。だが、力を抜くためには、少しエクササイズ(練習)がいる。

【『哲学、脳を揺さぶる オートポイエーシスの練習問題』河本英夫〈かわもと・ひでお〉(日経BP社、2007年)以下同】

 本書で展開しようと思うのは、こうした身体行為を含めたイメージの活用法であり、【イメージを通じて経験の動きに自在さを獲得することである】。

 ここで重要なのは、「学習」と「発達」を区別しておくことである。
 視点や観点の選択肢が一つ増えることは、学習の成果である。それに伴って知識も増える。しかし、能力そのものの形成や、能力形成の仕方を修得するのでなければ、テクニックが一つ増えるだけにとどまってしまう。(中略)【本来、課題になっているのは、能力を形成することであり、発達を再度リセットすることである】。

 個々人の肺でさえ、酸素吸着能力はトレーニングによって7倍もの開きがでてくる。

【手は外に出た脳であり、身体は外に出た脳の容器である】。

【発達のリセットには、わかるとは別の仕方で「できるようになる」という広範な視野がある。こうした領域ではイメージが決定的に利いている】。

 歴史は、一定の長さと、一定の隔たりを必要とする。ある隔たりがなければ歴史とは言わない。そこで「1秒の歴史」という語を、無理やりひねり出してみる。

 身体の感覚は、不要であるものをおのずと無視するようにできている。

 立てた途端に終わっている問いは、本当は問いではない。

【実は狭い問いに拘泥してしまって、どうにも前に進めなくなってしまう人はとても多い】。

 日常の余り部分としての余暇ではなく、本当に楽しい日々であれば、楽しさのなかになにかを発見するものである。ただ楽しいというのは、偽りの楽しさにすぎないのかもしれない。そのため玉手箱のような封印が必要なのである。そうだとするとあの玉手箱の意義は、偽りの楽しさの代償である。

【見いだしてしまった問いによって自分の経験の仕方がいくぶんかでも変化すれば、それは良い発見を行ったのである】。

 賢明さと優秀さは別のことである。

 次元を一つ増やすと、実はもう一つの見え姿がある。

 うまい事例を出せる人は、うまく経験を処理できる。

 目盛りの単位を、測度(メジャーメント)という。測度は空間的な大きさだけではなく、感覚質の目盛りの細かさに関連している。

【測度を変えて生きるには、それまで見えていなかったものが見えてきたり、それまで見えていたものが消滅するような経験が必要である】。

 スケール変換では、視野だけではなく視界まで変わる。

 1軒の家の一部屋だけは、「柔(軟)らかい部屋」というのをつくってみることにする。

 火の強さの度合いはおのずとわかるのである。この度合いを「強度」と呼ぶ。
 ある意味で感覚的に捉えられたこの強度を、目盛りによって計量された測度に置き換えていく作業が、経験科学の営みだったのである。

 人間の世界は、見えないものに満ちている。あるいはほとんどの現実は見えるものではなく、見て知るようなものでもない。【かたちや色は見えるが、それ以外の物性(素材の本質)のほとんどは見えない】。唾液のなかのつやの素は見えず、樹皮に含まれる染料も見えない。働きや活動は、通常見えない。胃は見えるが消化は見えない。脳は見えるが思考は見えない。細胞の構造は見えるが、細胞の働きそのものは見えない。見えないものは恐らく無数にある。眼前に机がある。この机は炭素でできている。しかし、炭素は見えない。

 現実は一つには決まらないのだから、非決定論なのか。実はそうではない。マッチを擦るような単純な事態でも、うまく擦れて火が点くことも、煙だけ立って火が点かないことも、マッチ棒が折れてしまうこともある。いずれの場合でも、物理法則は貫いている。しかし、現実に起こることは、当初の初期条件から見て、一つに決まらないのである。

 直交する角をもつものは、衝撃が垂直に当たり、しかも部材構造のなかに衝撃が吸収されにくい。
 外からの衝撃に強い構造は、内的に生じる力学的撹乱に対しても吸収できる構造をもっている。これに最も対応するのが、平面図形では三角形であり、立体では正四面体である。どこに圧力をかけても図形全体に分散し、図形そのものが変形する可能性は低い。

 外見上、【上下の区別がつかないことは、形態が運動とは独立に形成された可能性が高い】。運動するものは進行方向があり、それによって前と後ろが決まり、上下方向の回転をしないかぎり、上下も決まる。

 クジラも肺呼吸だが、一度陸に上がった形態がある。陸に上がりカバの類縁として暮らしていたようだが、再度海に戻っている。

 陸に上がったとき、浮力がなくなるために、自動的に体重は7倍になる。水圧がなくなり血流を圧迫するものがないから、十分な血液を供給でき、大気中に増えた酸素を活用できる。陸に上がる利点は、身体運動の多様性が一挙に増すことである。行動のパターンが新たな次元に入っている。【体重の重さを身体運動の多様性に転化できないものは、陸にいる意味がない】。そのため再度海に戻ることになる。身体運動に直結するのが音である。音感と運動感は、起源は同じである。

 実際、自然選択には、いくつもの問題点がある。しかし、【問題点をそのまま探求課題に転化できれば、それはそのままプログラムとして活用することができる】。

 目の出現は、何度か異なる回路で試みられた生命史の果敢な挑戦なのである。

 片目を閉じても世界は半分になるわけではない。

(※進化において)敗北の原因は決定できるが、勝利の原因は決定できない。

 知覚とは実践的には、予期である。動くものを捉えるさい、知覚はあるものを「それとして」捉えてしまっている。だが、動くものを捉えているかぎり、この知覚は誤った現実を捉えていることになる。捉えたと思った途端、ボールは既に動いているからである。

 動きを誘導しようとして外から強制力をかけてしまうのが普通で、これを通常治療的介入と呼んでいる。

【知覚は見るべきものが既に決まっている】。多くの場合、見えるものが見えているだけである。【それに対して注意は、見るということが出現する働き】であり、見るという行為が起動する場面を想定している。ある意味で注意は知る能力ではなく、知ることが成立する実践的な能力である。

【新たなものを見いだすことは、知覚ではなく、注意が向くかどうかに依存している】。

 金米糖は、砂糖の結晶が自動的にできるだけで、あのかたちになる。

【体験的世界は、知よりももっと根の深い行為の世界に基づいている】。

【湿感や温感はなにかに触れているが、触れたものにはかたちがない】。

 18世紀ヨーロッパで百科全書が編纂されていた頃、知識の全体的配置という意味で、システムという語が用いられるようになった。この語がドイツ観念論に継承され、全体的統合や、自らを組織化するもの、あるいはそれ自体で動きの継続を行いながら自己形成するものというような意味がこの語に加えられることになった。この語が日本語に導入されるさい、体系と訳されることが多いのは、哲学用語として導入されたからである。今日では系とだけ訳すことが多い。

【どのような行為であれ二重に自ら作動する】。

 言ってみれば、パラダイム転換は、歴史の傍観者の主張であり、対岸の火事を見ているようなものである。
 実際、転換のさなかにあってこの転換を成し遂げている人たちは、視点の転換のようなことはしていないはずである。後に視点に要約されていくものを、繰り返し試行錯誤を通じて形成しているのであって、転換すれば済むような視点はどこにも存在しないからである。

哲学、脳を揺さぶる オートポイエーシスの練習問題

オートポイエーシスとは何か|システム論アーカイブ論文編|永井俊哉
オートポイエーシス
「オートポイエーシス」に対する批判的書評
オートポイエーシス - digital-narcis.org
「オートポイエーシス論」の法学分野への応用
オートポイエーシスと時間 : 情報学ブログ
オートポイエーシスとアフォーダンス(PDF)
オートポイエーシスって何なのよ?~社会学における応用篇~|自分内対話
pooneilの脳科学論文コメント: オートポイエーシスと神経現象学 アーカイブ
わかりやすいオートポイエーシス(自己生産)
オートポイエーシス論のポイント
オートポイエーシス : クオリアの風景
精神分析的主体のオートポイエーシス

2013-10-27

真理をどう捉えるか/『法華経の省察 行動の扉をひらく』ティク・ナット・ハン


 覚え書きを残しておこう。特筆すべき内容はない。言い回しや表現の仕方にキラリと光るものはあるが、斬新さを欠く。ティク・ナット・ハンは『小説ブッダ いにしえの道、白い雲』が傑作すぎて、他の本はあまり面白味がない。読み物としてはアルボムッレ・スマナサーラの方がお薦めできる。

 われわれは形式上は釈尊がその晩年にインドの霊鷲山(りょうじゅせん)において『法華経』を説いたとしているが、実際には近代の文献学的研究や調査から、この経典が釈尊の死後約700年ごろ、おそらくは紀元2世紀の終わりごろに現在の形に編纂され、書きとめられ、流布したことがわかっている。

【『法華経の省察 行動の扉をひらく』ティク・ナット・ハン:藤田一照〈ふじた・いっしょう〉訳(春秋社、2011年)以下同】

 まず大前提として大乗非仏説は正しい。次に大衆部(だいしゅぶ=大乗)を信じるのであれば、それはブッダの教えから派生した思想を信じることになる。とすると社会の変遷(コミュニティの変化)に伴って新しい仏教が誕生することを認めたも同然だ。

 何が厄介かというと、結局のところ「真理をどう捉えるか」というテーマに帰着するのだ。例えば日蓮を本仏と仰ぐ宗派がある。彼らにとってはブッダが迹仏(しゃくぶつ)となる。迹とは「かげ」の謂(いい)だ。ま、それなりに理論武装をしているのだが、いずれにせよ「真理が変わった」ことを意味している。明らかにマルクス主義の進歩史観と似た思想傾向が見てとれる。つまり遠い将来――あるいは近い将来――日蓮も迹仏となる可能性を秘めているのだ。

 後半の14章は本源的次元(「本門」)を扱っている。本源的次元では、釈尊が前半とは全く異なった次元、つまり時間と空間についてのわれわれの通常の見方をはるかに超越した次元にいることが示されている。それは生きたリアリティとしての仏、つまり法の身体(法身〈ほっしん〉、ダルマカーヤ)としての仏である。本源的次元においては、生まれることと死ぬこと、来ることと行くこと、主体と客体といった二元的観念にもはや関わることがない。本源的次元はそういったあらゆる二元論を超えた真のリアリティ、涅槃、法の世界(法界〈ほっかい〉、ダルマダートゥ)なのである。

『法華経』はそれぞれの章で、また一つの章のなかでも異なった場面で、歴史的次元と本源的次元のあいだを行ったり来たりしている。

 霊山会(りょうぜんえ)を歴史的次元、虚空会(こくうえ)を本源的次元と捉えるのは卓見だ。法華経のSF的手法。

 根本(オリジナル)仏教(あるいは「源流〈ソース〉仏教」とも呼ばれる)は歴史的仏である釈迦牟尼が生きている間に説いた教えから成り立っている。これが最初の仏教である。

 個人的には「最初の仏教」だけでよいと思う。大衆部の教えは政争の臭いを発している。本来の仏教は武装を目的とした理論ではなかったはずだ。とはいうものの正確無比な「最初の仏教」は現存していない。ゆえに上座部(じょうざぶ=小乗)を手掛かりとしてブッダの悟りにアプローチする他ない。

(※初期大乗の空という考えは)言い換えれば、いかなる物も単独では存在しないこと、どのような物も固定的な状態にとどまってはいないこと、絶えず変化している原因(「因」)と諸条件(「縁」)の集合によってはじめて生起するということなのだ。これは相互的存在性(インタービーイング)の洞察に他ならない。

 因縁生起(=縁起)と諸行無常。

 出家者の僧伽は五つのマインドフルネス・トレーニング(五戒)と具足戒(プラーティモクシャ。波羅堤木叉)をその拠り所としていたが、菩薩修行の独自の指針はまだつくられていなかったのだ。

 とすれば修行は目安でしかない。

 したがって、この三つの世界のどこにいても本当の平安と安定を見出すことはできない。それは、罠や危険がいっぱいある燃えている家のようなものだ。(「三界は火宅なり」)
 檻の中にいるにわとりの一群を想像してみよう。かれらはえさのとうもろこしを奪い合ってお互いにけんかをしている。そして、とうもろこしのほうがおいしいか、それとも米のほうがおいしいかをめぐって争っている。数粒のとうもころし、あるいは数粒の米をめぐっってお互いに競い合っているあいだ、かれらは自分たちが数時間後には食肉処理場に連れて行かれるということを知らないでいる。かれらと同じように、われわれもまた不安定さに満ちた世界に住んでいる。しかし、貪欲さや愚かさにがっちりと捕らえられているためにそのことが少しも見えていないのだ。

 まるで仏教内で争う各宗派の姿を思わせる見事な喩えだ。我々は三毒という煩悩の檻に囚(とら)われた存在だ。すなわち囚人なのだ。

監獄としての世界/『片隅からの自由 クリシュナムルティに学ぶ』大野純一

 この声聞の道の成果である涅槃は、文字通りの意味はろうそくの炎を吹き消すように、「吹き消す、滅する」である。それは、流転輪廻という燃えている家をきっぱりと去って、もう決して生まれ変わらないということだ。しかし、愚かさを捨て去ること、涅槃を「消滅」と考えることはまだ真の解脱ではない。それは解脱の最初の部分ではあってもその全体像ではないのだ。涅槃とは消滅であるという考えはあくまでも、人々をして修行の道へと入らせる方便の教えなのである。

諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅為楽」(『涅槃経』)だ。涅槃(≒悟り)とは何かを実現することではない。煩悩の炎を吹き消すことなのだ。

 本当に誰かを愛しているなら、その人を自由にしておかなければならない。もしその人を自分の愛情のなかに閉じ込めておこうとするなら、たとえその絆が愛からできていたとしても、その愛は本物ではない。

 これが慈悲。

 話を戻そう。真理は理法である。真理を具体化したのが涅槃であるならば、真理とは「ある状態」を意味する。理は理屈というよりも、「ことわり」であり「道」と捉えるべきだろう。その一点においてブッダとクリシュナムルティは完全に一致している。だから経典を弄(もてあそ)んで学術的な論争をするよりも、クリシュナムルティを辿ってブッダを見つめる方が手っ取り早いというのが半世紀生きてきた私の現時点における結論だ。

法華経の省察―行動の扉をひらく

歴史的真実・宗教的真実に対する違和感/『仏教は本当に意味があるのか』竹村牧男

2013-10-26

『 南京事件「証拠写真」を検証する』東中野修道、小林 進、福永慎次郎(草思社、2005年)





南京事件「証拠写真」を検証する

「南京大虐殺」とは、昭和12年12月の南京戦のさいに、6週間にわたって日本軍による虐殺、暴行、略奪、放火が生じたとの主張だ。近年の研究によってその根拠は揺らいできた観があるが、先日、南京市にある「南京大虐殺記念館」をユネスコの世界文化遺産に登録申請しようという構想が報道されたように国際社会では史実として定着しつつある。これについては今日まで「大虐殺の証拠写真」として世に出た写真の果たした役割が小さくない。

 本書は東中野修道・亜細亜大学教授と南京事件研究会写真分科会がこうした写真143枚をとりあげ、3年がかりでその信頼度をはかった検証報告だ。いわゆる「証拠写真」の総括的検証がなされたのは初めてのこと。延べ3万枚を超える関連写真との比較検証・照合からわかったことは、これらの写真の半数近くが、南京戦の翌年に中国国民党中央宣伝部が戦争プロパガンダ用に作った2冊の宣伝本に掲載されたものだったことだ。しかもそのうちの数枚は『支邦事変画報』など、当時日本の写真雑誌に載った従軍カメラマン撮影の写真をそのまま使い、略奪や無差別爆撃、強制労働の写真であるかのようなキャプションに付け替えられていた。「日本兵」の軍服の細部や被写体の影の有無から合成あるいは演出写真と判明したものもある。さらに戦後、南京裁判に提出されたという16枚の写真については、写っている人物の身長と影の比率から、撮影時期を5月末か6月初めと特定。「大虐殺」発生時との矛盾が判明した。また16枚の画面サイズの計測によってフィルム本数を割り出し、写真提供者の証言との食い違いを明らかにしている。こうして著者たちは、あらゆる角度から検証を加えたうえで「証拠として通用する写真は1枚もなかった」との結論を導き出した。本書の公正な検証プロセスを読めば、この結論には誰もが頷かれることだろう。

百人斬り競争
「百人斬り競争」事件について日本人が知らなければならない「本当」のこと:渡邉斉己

真剣な言葉が胸を打つ/『PRAYERS』『TOTAL』Tha Blue Herb


 BOSS THE MC(ILL-BOSSTINO)はいつでも本気で真剣な言葉を吐く。その青々しいまでに真っ直ぐな姿勢が胸を打つ。



PRAYERS [DVD]



TOTAL

【HMVインタビュー】 ILL-BOSSTINO ( THA BLUE HERB ) 『PRAYERS』|HMV ONLINE

自由と所有/『怒り 心の炎の静め方』ティク・ナット・ハン


 ブッダとその時代の僧や尼僧たちは三着の衣と一つの鉢しか持っていませんでしたが、彼らはとても幸せでした。それは、彼らには最も貴重なもの――自由があったからです。

【『怒り 心の炎の静め方』ティク・ナット・ハン:岡田直子訳(サンガ、2011年)】

 ティク・ナット・ハンは世界を代表する仏教者の筆頭格ともいうべき人物である。「行動する仏教」または「社会参画仏教」(Engaged Buddhism)の命名者でもある。映像からは温厚篤実そのものといった印象を受ける。話し方も実に穏やかで威圧感がまったくない。たぶん権威を嫌う人物なのだろう。

 これを三衣一鉢(さんねいっぱつ)と称する。出家とは世俗の象徴である家庭生活を捨てることだ。そして修行僧は乞食行(こつじきぎょう)を営む。彼らが目指す山頂は悟りの境地である。そのために物欲の否定からスタートするわけだ。

 今、恐るべきスピードで富の集中が進んでいる。先進国における格差拡大の要因はそれ以外に見当たらない。つまり格差の拡大は富の収奪を意味する。

 富裕層が使いきれないほどの富を更に膨らませている。人間の欲望には限りがない。世界から飢えがなくならないのも欲望が膨張し続ける証拠であろう。

 大航海時代(15~17世紀)に始まる資本主義こそは欲望のビッグバンともいうべき大事件であった。その後は植民地主義、黒人奴隷、インディアン虐殺、アメリカ建国まで一直線上にある。

 余談が過ぎた。富裕層は心の安心を富で量る。逆から見れば彼らの富は不安に支えられているといってよい。なぜなら富が失われてしまえば彼らには何も残らないからだ。後継者が失敗する可能性もある。それゆえ彼らは独自のネットワークを形成する。ま、秘密結社やサロンみたいな代物だ。ヨーロッパの歴史は教会と秘密結社の歴史といっても過言ではない。

 不安ゆえにネットワークを作る。そして不安ゆえに秘密を共有する。そんな彼らが落ち着いてぐっすりと眠れるわけがない。彼らの富は貧しき者たちの疲弊と死によって築かれているのだから。

 富める者は富によって不自由である。所有と自由は相反する価値であることを我々は知らねばならない。

怒り(心の炎の静め方)

怒りは人生を破壊する炎
所有
無である人は幸いなるかな!/『しなやかに生きるために 若い女性への手紙』J・クリシュナムルティ

トム・ロブ・スミス、綿本彰、矢上裕、金哲彦、ル・クレジオ、ファリード・ザカリア、他


 11冊挫折、5冊読了。

民主主義の未来 リベラリズムか独裁か拝金主義か』ファリード・ザカリア:中谷和男〈なかたに・かずお〉訳(阪急コミュニケーションズ、2004年)/竜頭蛇尾。ただし4分の3だけ読んでも十分お釣りがくる。民主主義の発生についてはフランス・ドゥ・ヴァール著『あなたのなかのサル 霊長類学者が明かす「人間らしさ」の起源』が参考になる。

秘密結社』綾部恒雄〈あやべ・つねお〉(講談社学術文庫、2010年)/アウトライン的内容。たぶん労作だ。巻末の「世界秘密結社事典」が有益。

儀礼としての消費 財と消費の経済人類学』メアリー・ダグラス、バロン・イシャウッド:浅田彰〈あさだ・あきら〉、佐和隆光〈さわ・たかみつ〉訳(講談社学術文庫、2012年)/たぶん良書。ひょっとしたら名著かも。しかしながら私の知識ではついてゆけず。

意味の変容・マンダラ紀行』森敦(講談社文芸文庫、2012年)/文章がしつこい。

海を見たことがなかった少年 モンドほか子供たちの物語』ル・クレジオ:豊崎光一、佐藤領時訳(集英社文庫、1995年)/訳文が肌に合わず。ある作家の初めて読む作品に挫折してしまうと他の作品を読む気が失せる。その意味でも翻訳が重要だ。

悪魔祓い』ル・クレジオ:高山鉄男訳(岩波文庫、2010年)/こちらは翻訳が素晴らしい。ル・クレジオによるインディアン讃歌だ。類を見ない文体の華麗さである。後半は飛ばし読み。ちょっと濃過ぎる。

ボルツマンの原子 理論物理学の夜明け』デヴィッド・リンドリー:松浦俊輔訳(青土社、2003年)/翻訳名は統一してもらいたいもんだ。『そして世界に不確定性がもたらされた ハイゼンベルクの物理学革命』(デイヴィッド・リンドリー)と比較すると控えめな内容で華に欠ける。3分の1ほどで挫ける。

帰ってきたソクラテス』池田晶子(新潮文庫、2002年)/ソクラテスが現代社会の問題に答える、という設定が巧い。若い人にはオススメ。

唐詩選(上)』前野直彬〈まえの・なおあき〉注解(岩波文庫、2000年)/10年後に再読しようと思う。唐詩選偽作説についても率直に書かれている。ただ偽作であったとしてもこれに優る入門書はあるまい。

ディアスポラ』グレッグ・イーガン:山岸真訳(ハヤカワ文庫、2005年)/巨匠グレッグ・イーガンのSFはとにかく難しい。哲学書並みだ。

たいした問題じゃないが イギリス・コラム傑作選』行方昭夫〈なめかた・あきお〉編訳(岩波文庫、2009年)/全然面白くなかった。

 48、49冊目『エージェント6(上)』『エージェント6(下)』トム・ロブ・スミス:田口俊樹訳(新潮文庫、2011年)/トム・ロブ・スミスに外れはない。今のところは。レオ・デミドフ三部作の完結編。矛盾を抱えた家族が国家に翻弄される様を見事に描いている。ラストまでしっかり謎を残し、ミステリの王道をゆく。

 50冊目『DVDで覚えるシンプルヨーガLesson』綿本彰〈わたもと・あきら〉(新星出版社、2004年)/ヨガを習いにゆくと思えば安いものだ。入門書としてはよい出来だと思う。見ていると簡単そうなんだが、実際にやると中々きつい。私は「サルのポーズ」で一旦あきらめ、煙草を吸いながらDVDを見終えた。ヨガの難点は時間のかかるところ。

 51冊目『DVDで覚える自力整体』矢上裕(新星出版社、2005年)/あまりよくない。ヨガの方が断然いい。

 52冊目『「体幹」ウォーキング』金哲彦〈きん・てつひこ〉(講談社、2010年)/それほど大したことは書いていないのだが、肩甲骨と骨盤の姿勢について卓見が示されている。これだけでも読む価値あり。「胸を張る」のではなく「肩甲骨を寄せる」といううのがミソ。

2013-10-25

太陽の磁気フィラメントが爆発


 太陽の直径は地球の約109倍である。



太陽に何が起きているか (文春新書)

2013-10-23

『毛沢東の大飢饉 史上最も悲惨で破壊的な人災 1958▶1962』フランク・ディケーター:中川治子訳(草思社、2011年)

毛沢東の大飢饉  史上最も悲惨で破壊的な人災 1958-1962

「15年以内にイギリスを追い越す」と宣言した毛沢東が始めた「大躍進」政策は、人肉食すら発生した人類史上まれに見る大飢饉と産業・インフラ・環境の大破壊をもたらした。香港大学人文学教授が中国各地の公文書館を精査。同館所蔵の未公開資料と体験者の証言から「大躍進」期の死者数を4500万(大半が餓死者。うち250万人が拷問死、裁判なしの処刑死)にのぼると算出。中国共産党最大のタブーの全貌を明らかにし、北京が震撼した衝撃の書!

2013-10-22

Firefoxでブックマークの並べ替えができない~リセット~フォント設定



2013-10-20

『現代オカルトの根源 霊性進化論の光と闇』大田俊寛(ちくま新書、2013年)

現代オカルトの根源:霊性進化論の光と闇 (ちくま新書)

 ヨハネ黙示録やマヤ暦に基づく終末予言、テレパシーや空中浮揚といった超能力、UFOに乗った宇宙人の来訪、レムリアやアトランティスをめぐる超古代史、爬虫類人陰謀論――。多様な奇想によって社会を驚かせる、現代のオカルティズム。その背景には、新たな人種の創出を目指す「霊性進化論」という思想体系が潜んでいた。ロシアの霊媒ブラヴァツキー夫人に始まる神智学の潮流から、米英のニューエイジを経て、オウム真理教と「幸福の科学」まで、現代オカルトの諸相を通覧する。

神智学協会というコネクター/『仏教と西洋の出会い』フレデリック・ルノワール

2013-10-17

荒牧陽子【ものまね】本人映像合成


2013-10-13

LOGICOOL ステレオスピーカー Z120BW

LOGICOOL ステレオスピーカー Z120BW

 シンプルな接続と操作で、手軽に楽しめる◆パソコンやネットブック上のUSBポートから電源をとります。コンセントは不要です。◆3.5mmステレオミニジャックをもつ携帯音楽プレーヤーを含めた、多くのオーディオ機器・パソコンに接続することができます。◆見苦しいケーブルも収納機能により、すっきりとしたデスク周りを保てます。また、移動も簡単です。◆ボリュームと電源ON/OFFのシンプル操作で、手軽にリッチなサウンドを楽しめます。/※ご使用にはパソコン等のUSBポートからの給電が必要です。

2013-10-12

イラク女性の悲哀、裁判所が命じる「処女検査」


 未婚女性の貞操が重んじられるイラクでは、男性の申し立てに応じて裁判所が女性に「処女検査」を命じることが可能だ。

 中東では新婦が処女でなかった場合、名誉を傷つけられたとして新郎の親族が新婦を殺害することもあるほどで、結婚まで処女でいることは女性にとって文字通り「生死」にかかわる問題だ。

 イラクでは新郎が新婦が処女でないと疑いを持った場合、裁判所に申し立てをすることができる。申し立てを受けた裁判所は、バグダッド(Baghdad)の医療法務機関(Medical Legal Institute、MLI)に検査を命じる。

 検査の結果、女性側に婚前性交渉はなかったと判明する場合がほとんどだ。とはいえ、検査が女性にとってつらい体験であることに変わりはない。

 処女検査の実施機関や医師、弁護士らを、AFPが取材した。

◆検査の背景に誤った「処女」知識

 MLIでは1日平均数件の「処女検査」が行われている。MLIのムンジド・レザリ(Munjid al-Rezali)所長によると、検査要請は初夜の翌日が多い。要請は珍しいことではなく、「よくあることだ」という。

 MLIで検査を担当するサミ・ダウード(Sami Dawood)医師は、「男性たちは、初夜の後、女性は出血するものだと信じている。このため、出血しなかった女性は処女ではないと思ってしまう」と述べ、イラクにおける性教育と性に関する知識の貧しさを嘆く。

 処女検査の所要時間はおよそ15~30分。女性医師1人以上を含む3人の医師が処女膜の検査を行い、別の医師2人が結果を検証する。検査の結果は裁判所に直接送られ、第3者が閲覧することはないという。

 女性だけでなく、男性側の性的不全を検査することもある。というのも、自身の勃起不全を恥じた男性が、これを隠すために女性が処女ではないと主張することがあるからだ。

virginity tests copy

◆殺されるよりまし?「人権侵害」との批判も

「処女検査」について、ダウード医師は「ほとんどの場合、結果は女性側に有利なものだ」としたうえで、「こうした検査自体が不名誉なことだ」と批判的だ。

 それでも、ダウード医師は「昔は初夜のシーツに血が付かなかったことで女性たちが殺されていたことを考えれば、現在の男性たちは裁判所と処女検査を通じて解決を求めるようになったということだ」と、検査に利点があることも認めた。

 だが、弁護士のアリ・アワド・クルディ(Ali Awad Kurdi)氏は、「もしも女性が処女でないことを男性に告げずに結婚しようとした場合、その女性を保護する法律は(イラクには)ない」と指摘する。このような場合は、女性の家族が、贈り物や賠償金、それまでの交際費用などを男性に支払うことになるという。

 国際人権団体アムネスティ・インターナショナル(Amnesty International)の上級政策顧問、マリアンヌ・モルマン(Marianne Mollmann)氏も、処女検査が不当なうえ効果もないと批判する。

 モルマン氏は「処女検査を強要し、いわば裁判所を通じて合法とされた処女検査が問題なのは、非常に多くの人権侵害に当たるからで、断じて正当化できない」と主張。さらに「仮に合法的だとしても、(処女膜を検査する)処女検査では処女性は判断できない。処女膜はさまざまな原因で破れるからだ」と付け加えた。

 一方、イラクの司法当局者は、この問題について誰1人取材に応じていない。

AFP 2013-07-03

「処女検査」、高校入学条件に導入計画で批判続々―インドネシア・プラブムリ市

マララさん 銃撃事件の波紋~国連スピーチ


 胸を打つというレベルのスピーチではない。足が震えてくるほどだ。









セヴァン・カリス=スズキ(12歳) 環境サミット1992

2013-10-11

目撃された人々 47

2013-10-09

10月8日、新100ドル紙幣が発行


 個人的にはトリッキーな金融引き締めであると考えている。

New $100 Bill Printing Costs More than 120 Million Dollars





2013-10-08

Tax Dollars At War


 何となく理解できるが翻訳を切望。

ラーシュ・ケプレル


 2冊読了。

 46、47冊目『催眠(上)』『催眠(下)』ラーシュ・ケプレル:ヘレンハルメ美穂訳(ハヤカワ文庫、2010年)/2日で読了。傑作。個人的には『チャイルド44』以来のヒット。ラーシュ・ケプレルは匿名作家のペンネームだってさ。ところが本国スウェーデンで刊行される前に20ヶ国以上に翻訳権を売ったということで話題をさらい、ある新聞が正体を読み解いてしまったらしい。北欧ミステリにはリリシズムがある。たぶん冬から春の変化に敏感なためだろう、と道産子の私は考える。凄惨な一家惨殺事件から始まり、何と前半で犯人がわかる。カットバックを多用することで物語全体が不思議な複層を帯びる。中盤で精神科医である主人公エリックの過去が挿入される。やや長いのだがここが新たな展開の重要な伏線となっている。タイトルの催眠とは催眠療法のこと。夫婦関係の行き詰まりや、子供が特殊な病気であることもリアリズムを深めている。ひとつ難点を挙げると、ヨーナ・リンナ警部とエリックが「ぼく」を使用しているために二人のキャラクター分けが上手くいっていないことだ。時々どっちがどっちだかわからなくなる。ついでにもう一つ書いておくと、二人の犯人が異様に強すぎること。

2013-10-05

ブライアン・グリーン、ジェフリー・ディーヴァー、長崎新聞社「累犯障害者問題取材班」、他


 17冊挫折、4冊読了。

脳の探究 感情・記憶・思考・欲望のしくみ』スーザン・グリーンフィールド:新井康允監訳、中野恵津子訳(無名舎、2011年)/図はよいのだが文章がまるでダメ。「脳の本 紹介・書評」で知った1冊。

覚醒(上)』山本譲司(光文社、2012年)/初の小説作品か。何となく言いわけめいたものを感じたのでやめた。

賭ける仏教 出家の本懐を問う6つの対話』南直哉〈みなみ・じきさい〉(春秋社、2011年)/南は僧衣をまとった哲学者だ。彼が宗教者である必要はないだろう。

ヒトはなぜ神を信じるのか 信仰する本能』ジェシー・ベリング:鈴木光太郎〈すずき・こうたろう〉訳(化学同人、2012年)/冗長。あまりにも冗長すぎる。それだけで説明能力を疑ってしまう。これほどの期待外れも久々。

人生がときめく片づけの魔法』近藤麻理恵(サンマーク出版、2010年)/良書。読み終えていないのだが「必読書」に入れた。このお嬢さんは顔つきがよい。文体にもそれが表れている。

素人が書いた複式簿記』岡部洋一(オーム社、2004年)/時間がないため後回し。

シーシュポスの神話』カミュ:清水徹訳(新潮文庫、1969年)/西洋の哲学は「考え過ぎ」だ。ま、それだけ神の束縛が強いのだろう。最初とシーシュポスの件(くだり)だけ飛ばし読み。

動物農場 おとぎばなし』ジョージ・オーウェル:川端康雄訳(岩波文庫、2009年)/新訳。高畠文夫訳と比較しようと思ったのだが時間がなかった。悪くはないと思う。

チャンピオンたちの朝食』カート・ボネガット・ジュニア:浅倉久志訳(早川書房、1984年/ハヤカワ文庫、1989年)/文章が肌に合わず。ボネガットはまだ1冊も読んでない。

ヒューマン なぜヒトは人間になれたのか』NHKスペシャル取材班(角川書店、2012年)/出だしの文章がよくない。まるでスピード感がない。

人間革命をめざす池田大作』高瀬広居〈たかせ・ひろい〉(有紀書房、1965年)/資料。確認したい文言があったため。

中国英傑伝(上)』海音寺潮五郎(文藝春秋、1971年/文春文庫、1978年)/宮城谷昌光が触れていたので読んでみた。過去に海音寺作品の数冊を手に取ったが読み終えた本は1冊もない。

複式簿記のサイエンス 簿記とは何であり、何でありうるか 簿記学対話』石川純治(税務経理協会、2011年)/知識のない私には難しすぎた。

カネと暴力の系譜学』萱野稔人〈かやの・としひと〉(河出書房新社、2006年)/文章の構成が悪い。萱野にしては雑な仕事だ。

身ぶりと言葉』アンドレ・ルロワ=グーラン:荒木亨訳(新潮社、1973年/ちくま学芸文庫、2012年)/こんなに厚いとは思わなかった。後回し。

「多様な意見」はなぜ正しいのか 衆愚が集合知に変わるとき』スコット・ペイジ:水谷淳〈みずたに・じゅん〉訳(日経BP社、2009年)/著者は集合知と群衆の叡智を混同している。日経らしくタイトルもおかしい。多様な意見が正しいのであれば、世界はとっくに平和になっているはずだ。

宇宙を織りなすもの 時間と空間の正体(下)』ブライアン・グリーン:青木薫訳(草思社、2009年)/詳細は下記に。

 42、43冊目『死の教訓(上)』『死の教訓(下)』ジェフリー・ディーヴァー:越前敏弥〈えちぜん・としや〉訳(講談社文庫、2002年)/佳作だが読む人を選ぶ作品だ。まだ人気がなかった頃の作品である。それでも面白かった。捜査主任のビル・コードが主人公だが本当の主役は娘のセアラだ。驚くべきことに読者が共感できるのは学習障害を抱えたこの少女に限られている。これは学習障害を理解させるために敢えて行った設定であろう。事件後の大学側の対応と比較するとより一層浮き彫りになる。

 44冊目『居場所を探して 累犯障害者たち』長崎新聞社「累犯障害者問題取材班」(長崎新聞社、2012年)/良書。新聞記事のため物足りなく感じるのは仕方あるまい。累犯障害者については本書から入り、次の順番で読むのがよい。『獄窓記』→『続 獄窓記』→『累犯障害者』→『自閉症裁判 レッサーパンダ帽男の「罪と罰」

 45冊目『宇宙を織りなすもの 時間と空間の正体(上)』ブライアン・グリーン:青木薫訳(草思社、2009年)/ブライアン・グリーンにも外れがない。血沸き肉踊る天才本だ。これこそ私が求めていた一書である。今まで知り得た科学知識も本書によって一段と整理された。が、しかしである。下巻で挫けた。チンプンカンプンだった。私の知識ではちょっと追いつけない。ってなわけで、2~3年勉強してから再び取り組む予定だ。こちらも「必読書」入り。

2013-10-02

真のコミュニケーション/『集合知の力、衆愚の罠 人と組織にとって最もすばらしいことは何か』アラン・ブリスキン、シェリル・エリクソン、ジョン・オット、トム・キャラナン


『新・人は皆「自分だけは死なない」と思っている』山村武彦
『人が死なない防災』片田敏孝
『無責任の構造 モラルハザードへの知的戦略』岡本浩一
『最悪の事故が起こるまで人は何をしていたのか』ジェームズ・R・チャイルズ
『生き残る判断 生き残れない行動 大災害・テロの生存者たちの証言で判明』アマンダ・リプリー
『死すべき定め 死にゆく人に何ができるか』アトゥール・ガワンデ
『失敗の科学 失敗から学習する組織、学習できない組織』マシュー・サイド
・『群衆の智慧』ジェームズ・スロウィッキー

 ・集合知は群衆の叡智に非ず
 ・集合知は沈黙の中から生まれる
 ・真のコミュニケーション

『オープンダイアローグとは何か』斎藤環著、訳
『まんが やってみたくなるオープンダイアローグ』斎藤環、水谷緑まんが
『隠れた脳 好み、道徳、市場、集団を操る無意識の科学』シャンカール・ヴェダンタム
『予想どおりに不合理 行動経済学が明かす「あなたがそれを選ぶわけ」』ダン・アリエリー

必読書リスト その五

 本書を読んでいると人と人とのつながりを考えさせられる。果たして我々の日常に「対話」と呼べる行為があるだろうか? また他人に対しては傾聴を求めがちだが自分は傾聴しているだろうか? そして集合知が求められるのはどのような場面だろうか?

 多くの人は自らの完全性を、自らの宗派の完全性と同じく絶対のものだと確信しています。あるフランス人女性は、ちょっとした姉妹喧嘩で「でも、つねに正しい人など会ったことがないわ。私以外はね」と言いました。(ベンジャミン・フランクリン)

【『集合知の力、衆愚の罠 人と組織にとって最もすばらしいことは何か』アラン・ブリスキン、シェリル・エリクソン、ジョン・オット、トム・キャラナン:上原裕美子〈うえはら・ゆみこ〉訳(英治出版、2010年/原書、2009年)以下同】

 その意味では誰もが何らかの「信仰」を持っていると考えてよい。信者の辞書に「自問自答」は存在しない。もちろん「懐疑」も。

 フランクリンは、(中略)言葉数は少ないながら、宗教の不可謬性と、「自分はつねに正しい」と思いたがる人間ならではの性質を並べて論じてみせた。不可謬性を信じるのは時代遅れであり、民主主義が求めるものとは真っ向から対立すると主張し、個人または少集団がつねに正しい、または唯一の解決策を持っていると考えると、集団は危険な存在となると警告した。

 ただし民主主義も多様性から一気に衆愚へ傾く場合がある。特に不況で国民の間にストレスが蔓延している時は要注意だ。

 民主主義は脆弱な同意だ。集団の力と技術、そして理性を共有する人の力に依存している。だが真の民主主義はパワーになる。他者の意見に耳を傾けることを通じて、互いの差異と団結とを意識することのできる新しい集合体が生まれる。

 マスメディアが正常に機能していない以上、間接民主制(代議制)が集合知を発揮するとは思えない。種としてのヒトのコミュニティはやはりインディアンなどの部族程度が望ましいのではないだろうか。直接「声が届かなければ」集合知には至らないと私は考える。

「真の対話(ダイアログ)とは、ふたり以上の人間が、相手の前で自分の確信を保留できることによって生じる」(デヴィッド・ボーム)

 クリシュナムルティと対談している割にはボームの『ダイアローグ 対立から共生へ、議論から対話へ』は面白くなかった。

 集まっていたごく普通の人たちが、「聞く耳がある」ではなく、「聞く力がある」という態度で、互いの意見に耳を傾けた。

 ここは「聴く力」とすべきである。「聴」の字は「聡」や「徳」に通じているような気がする。それにしても見事な表現だ。

 集団の構成員は、それぞれが独自の目で世界を見ている。それぞれの情報はすべて貴重であり、同時に、全体を構成する一部でもある。場合によっては厄介だ。

 それぞれの情報は「部分情報」なのだ。ゆえに部分を統合させる作業が必要となる。各人が部分に固執してしまえば全体を見失う。「聴く」ことが石段となって高い視点を生み出す。

 そして集合知に欠かせないのは「よい方向への逸脱(ポジティブ・デビアンス)」であるという。逸脱が豊かな幅を形成する。

「どんなコミュニティや組織にも、あるいは社会的集団の中にも、例外的なふるまいや行動をして、よい結果を得ている存在がいる。……こうした“ポジティブ・デビアント(よい方向に逸脱した人たち)”は、自分では意識することなく、集団全体に成功をもたらす道を見つけている。彼らの秘密を分析し、分離し、のちに集合全体で共有すればいいのだ」(デヴィッド・ドーシー)

 一言でいえば「ユニーク」ということだ。多彩な表現力が新たな発見につながる。

 そして、特定のスタンスから一歩下がれば、全体の秩序やパターンも見えてくる。

「下がる」とは「離れる」こと。自分の部分情報から離れて全体の景色を見るのだ。

 エマソンは生の全容を、その矛盾と変則性を、学びに向けた欠かせない道として受け入れていた。神が作ったすべてのものにはヒビがあり、そのせいで人は未完成であると同時に、その裂け目から光が入る、と考えていたことは有名だ。

 エマソンは上手いことを言う。世界は神が造った不良品だ。

「精神は、それぞれに自分の家を建てる」(エマソン著『自然論』)

 その家を外から眺める人の何と少ないことか。皆、家の中から窓の外を眺めている。

 分断と細分化へ向かうのではなく、いつわりの合意、見せかけの団結に向かおうとする。このパターンにおいて、集団の構成員は沈黙と服従を選ぶ。集団内の不一致を明らかにするよりも、団結の幻想を守りたいと考える。

 これこそ集合知を阻む一凶である。知性を眠らせて隷属に向かう同調圧力が働くのだ。太鼓持ちやスネ夫タイプがいると集合知は生まれ得ない。

 ヘウムに住む賢者たちは愚か者だ、と言う者がいます。信じてはいけません。ただ、いつも愚かな出来事が彼らに起きるだけなのです。
  ――ソロモン・シモン『ヘウムの賢者たちと、その楽しいお話』より

 邦訳未完。知の力は内省的なものだ。無知の自覚が知の扉を開く。独善性は世界を歪める。北朝鮮やオウム真理教の正義を参照せよ。

 何かが真実であると確信すると、確証バイアスの呪いのもと、人はそのバイアスを裏付けるデータだけを探そうとする。真実であると思っていることに逆らうかもしれないデータは、すべて否定するか、「意訳」しようとする。

 一を聞いて十を知る人もいれば、一を見て9.9を失う人もいる。人間とは解釈する動物である。もちろん自分の都合に合わせて。認知レベルの誤謬を我々は自覚することができない。

誤った信念は合理性の欠如から生まれる/『人間この信じやすきもの 迷信・誤信はどうして生まれるか』トーマス・ギロビッチ

「わたしは人間だ。人間にかかわることなら何だって、ひとごととは思えない」
 共和制ローマの劇作家テレンティウス(紀元前195?~159年)の戯曲『自虐者』より

「私は人間である。人間のことで私に関係のないものなど何もない」(プビリウス・テレンティウス・アフェル

 テレンティウスはアフリカ人でかつて奴隷だった人物。自分が受けた苦しみを通して人類にまで眼(まなこ)を開いた。他者と関わり合う姿勢の中に集合知の萌芽がめばえる。

 衆愚は引力だ。あらゆる集団に発生し、知と反対の方向へと引きこもうとする。

 衆愚は黒々とした奔流となって暴走する。衆愚は声高に正義を叫びながら人々を邪悪な方向へと導く。大衆は考えることよりも走ることを好む。パンとサーカスがあれば完璧だ。

「思慮深く意欲的な少数の人間の集まりだけが世界を変えられる」マーガレット・ミード

 とすると野次と怒号が飛び交う国会はやはり人数が多過ぎるのだろう。群衆は責任を欠く。人影の後ろから石を投げるようなのばっかりだ。

 ボストン・フィルハーモニーの指揮者ベン・ザンダーは、(中略)「シンフォニー」という言葉はもともと「シン(共に)」と「フォニア(響く)」を組み合わせた言葉だと説明した。

 集合知が機能する人数の参考になりそうだ。

 4人の著者名から成る本書そのものが集合知の結晶と思えてならない。スコット・ペイジ著『「多様な意見」はなぜ正しいのか 衆愚が集合知に変わるとき』も開いたが全くレベルが違う。

 本書はビジネスに活かすような代物ではない。真のコミュニケーションを具体的に示した正真正銘の傑作である。



コミュニケーションの本質は「理解」にある/『自我の終焉 絶対自由への道』J・クリシュナムーティ

目撃された人々 46