ぶったまげた。私の想像力がいかに静止的かつ平面的であるかを思い知らされた。それにしても何と力強い動きだろう。諸行無常とは宇宙のダイナミズムを表しているのかもしれない。
・螺旋蒐集家
・仏教的時間観は円環ではなく螺旋型の回帰/『仏教と精神分析』三枝充悳、岸田秀
・太陽系の本当の大きさ/『人類が知っていることすべての短い歴史』ビル・ブライソン
ブログはメモ程度で十分だと思う。どうせ大した読まれないのだから(笑)。本になるわけでもない。だから自分の心に起きた変化や、ちょっとした感動を綴ってゆけばよいと思う。10年近くブログを更新してきたが、アイディアの70%くらいは書かずに失われている。
— 小野不一 (@fuitsuono) February 15, 2013
結局のところ自分専用のデータベースを作るつもりで行うのがベストだと思う。
— 小野不一 (@fuitsuono) February 15, 2013
ブログ格言:温め続けたネタは翼が生えて飛び去ってしまう。
— 小野不一 (@fuitsuono) February 15, 2013
ブログ格言:文章の長さとページビューは反比例する。すなわち長い文章ほど読まれない。
— 小野不一 (@fuitsuono) February 15, 2013
「五穀で元気!」が美味い。 http://t.co/FNocMuxuke
— 小野不一 (@fuitsuono) October 30, 2013
【12個セット】木村 五穀で元気 3枚×14袋 |
つまり、うまく歩けないときには、ガマンして乗り切るのではなく、少し浅めの深呼吸をして力を抜くのである。力をこめることは誰にでもでき、また反射的な対応は力をこめてしまっている。だが、力を抜くためには、少しエクササイズ(練習)がいる。
【『哲学、脳を揺さぶる オートポイエーシスの練習問題』河本英夫〈かわもと・ひでお〉(日経BP社、2007年)以下同】
本書で展開しようと思うのは、こうした身体行為を含めたイメージの活用法であり、【イメージを通じて経験の動きに自在さを獲得することである】。
ここで重要なのは、「学習」と「発達」を区別しておくことである。
視点や観点の選択肢が一つ増えることは、学習の成果である。それに伴って知識も増える。しかし、能力そのものの形成や、能力形成の仕方を修得するのでなければ、テクニックが一つ増えるだけにとどまってしまう。(中略)【本来、課題になっているのは、能力を形成することであり、発達を再度リセットすることである】。
個々人の肺でさえ、酸素吸着能力はトレーニングによって7倍もの開きがでてくる。
【手は外に出た脳であり、身体は外に出た脳の容器である】。
【発達のリセットには、わかるとは別の仕方で「できるようになる」という広範な視野がある。こうした領域ではイメージが決定的に利いている】。
歴史は、一定の長さと、一定の隔たりを必要とする。ある隔たりがなければ歴史とは言わない。そこで「1秒の歴史」という語を、無理やりひねり出してみる。
身体の感覚は、不要であるものをおのずと無視するようにできている。
立てた途端に終わっている問いは、本当は問いではない。
【実は狭い問いに拘泥してしまって、どうにも前に進めなくなってしまう人はとても多い】。
日常の余り部分としての余暇ではなく、本当に楽しい日々であれば、楽しさのなかになにかを発見するものである。ただ楽しいというのは、偽りの楽しさにすぎないのかもしれない。そのため玉手箱のような封印が必要なのである。そうだとするとあの玉手箱の意義は、偽りの楽しさの代償である。
【見いだしてしまった問いによって自分の経験の仕方がいくぶんかでも変化すれば、それは良い発見を行ったのである】。
賢明さと優秀さは別のことである。
次元を一つ増やすと、実はもう一つの見え姿がある。
うまい事例を出せる人は、うまく経験を処理できる。
目盛りの単位を、測度(メジャーメント)という。測度は空間的な大きさだけではなく、感覚質の目盛りの細かさに関連している。
【測度を変えて生きるには、それまで見えていなかったものが見えてきたり、それまで見えていたものが消滅するような経験が必要である】。
スケール変換では、視野だけではなく視界まで変わる。
1軒の家の一部屋だけは、「柔(軟)らかい部屋」というのをつくってみることにする。
火の強さの度合いはおのずとわかるのである。この度合いを「強度」と呼ぶ。
ある意味で感覚的に捉えられたこの強度を、目盛りによって計量された測度に置き換えていく作業が、経験科学の営みだったのである。
人間の世界は、見えないものに満ちている。あるいはほとんどの現実は見えるものではなく、見て知るようなものでもない。【かたちや色は見えるが、それ以外の物性(素材の本質)のほとんどは見えない】。唾液のなかのつやの素は見えず、樹皮に含まれる染料も見えない。働きや活動は、通常見えない。胃は見えるが消化は見えない。脳は見えるが思考は見えない。細胞の構造は見えるが、細胞の働きそのものは見えない。見えないものは恐らく無数にある。眼前に机がある。この机は炭素でできている。しかし、炭素は見えない。
現実は一つには決まらないのだから、非決定論なのか。実はそうではない。マッチを擦るような単純な事態でも、うまく擦れて火が点くことも、煙だけ立って火が点かないことも、マッチ棒が折れてしまうこともある。いずれの場合でも、物理法則は貫いている。しかし、現実に起こることは、当初の初期条件から見て、一つに決まらないのである。
直交する角をもつものは、衝撃が垂直に当たり、しかも部材構造のなかに衝撃が吸収されにくい。
外からの衝撃に強い構造は、内的に生じる力学的撹乱に対しても吸収できる構造をもっている。これに最も対応するのが、平面図形では三角形であり、立体では正四面体である。どこに圧力をかけても図形全体に分散し、図形そのものが変形する可能性は低い。
外見上、【上下の区別がつかないことは、形態が運動とは独立に形成された可能性が高い】。運動するものは進行方向があり、それによって前と後ろが決まり、上下方向の回転をしないかぎり、上下も決まる。
クジラも肺呼吸だが、一度陸に上がった形態がある。陸に上がりカバの類縁として暮らしていたようだが、再度海に戻っている。
陸に上がったとき、浮力がなくなるために、自動的に体重は7倍になる。水圧がなくなり血流を圧迫するものがないから、十分な血液を供給でき、大気中に増えた酸素を活用できる。陸に上がる利点は、身体運動の多様性が一挙に増すことである。行動のパターンが新たな次元に入っている。【体重の重さを身体運動の多様性に転化できないものは、陸にいる意味がない】。そのため再度海に戻ることになる。身体運動に直結するのが音である。音感と運動感は、起源は同じである。
実際、自然選択には、いくつもの問題点がある。しかし、【問題点をそのまま探求課題に転化できれば、それはそのままプログラムとして活用することができる】。
目の出現は、何度か異なる回路で試みられた生命史の果敢な挑戦なのである。
片目を閉じても世界は半分になるわけではない。
(※進化において)敗北の原因は決定できるが、勝利の原因は決定できない。
知覚とは実践的には、予期である。動くものを捉えるさい、知覚はあるものを「それとして」捉えてしまっている。だが、動くものを捉えているかぎり、この知覚は誤った現実を捉えていることになる。捉えたと思った途端、ボールは既に動いているからである。
動きを誘導しようとして外から強制力をかけてしまうのが普通で、これを通常治療的介入と呼んでいる。
【知覚は見るべきものが既に決まっている】。多くの場合、見えるものが見えているだけである。【それに対して注意は、見るということが出現する働き】であり、見るという行為が起動する場面を想定している。ある意味で注意は知る能力ではなく、知ることが成立する実践的な能力である。
【新たなものを見いだすことは、知覚ではなく、注意が向くかどうかに依存している】。
金米糖は、砂糖の結晶が自動的にできるだけで、あのかたちになる。
【体験的世界は、知よりももっと根の深い行為の世界に基づいている】。
【湿感や温感はなにかに触れているが、触れたものにはかたちがない】。
18世紀ヨーロッパで百科全書が編纂されていた頃、知識の全体的配置という意味で、システムという語が用いられるようになった。この語がドイツ観念論に継承され、全体的統合や、自らを組織化するもの、あるいはそれ自体で動きの継続を行いながら自己形成するものというような意味がこの語に加えられることになった。この語が日本語に導入されるさい、体系と訳されることが多いのは、哲学用語として導入されたからである。今日では系とだけ訳すことが多い。
【どのような行為であれ二重に自ら作動する】。
言ってみれば、パラダイム転換は、歴史の傍観者の主張であり、対岸の火事を見ているようなものである。
実際、転換のさなかにあってこの転換を成し遂げている人たちは、視点の転換のようなことはしていないはずである。後に視点に要約されていくものを、繰り返し試行錯誤を通じて形成しているのであって、転換すれば済むような視点はどこにも存在しないからである。
われわれは形式上は釈尊がその晩年にインドの霊鷲山(りょうじゅせん)において『法華経』を説いたとしているが、実際には近代の文献学的研究や調査から、この経典が釈尊の死後約700年ごろ、おそらくは紀元2世紀の終わりごろに現在の形に編纂され、書きとめられ、流布したことがわかっている。
【『法華経の省察 行動の扉をひらく』ティク・ナット・ハン:藤田一照〈ふじた・いっしょう〉訳(春秋社、2011年)以下同】
後半の14章は本源的次元(「本門」)を扱っている。本源的次元では、釈尊が前半とは全く異なった次元、つまり時間と空間についてのわれわれの通常の見方をはるかに超越した次元にいることが示されている。それは生きたリアリティとしての仏、つまり法の身体(法身〈ほっしん〉、ダルマカーヤ)としての仏である。本源的次元においては、生まれることと死ぬこと、来ることと行くこと、主体と客体といった二元的観念にもはや関わることがない。本源的次元はそういったあらゆる二元論を超えた真のリアリティ、涅槃、法の世界(法界〈ほっかい〉、ダルマダートゥ)なのである。
『法華経』はそれぞれの章で、また一つの章のなかでも異なった場面で、歴史的次元と本源的次元のあいだを行ったり来たりしている。
根本(オリジナル)仏教(あるいは「源流〈ソース〉仏教」とも呼ばれる)は歴史的仏である釈迦牟尼が生きている間に説いた教えから成り立っている。これが最初の仏教である。
(※初期大乗の空という考えは)言い換えれば、いかなる物も単独では存在しないこと、どのような物も固定的な状態にとどまってはいないこと、絶えず変化している原因(「因」)と諸条件(「縁」)の集合によってはじめて生起するということなのだ。これは相互的存在性(インタービーイング)の洞察に他ならない。
出家者の僧伽は五つのマインドフルネス・トレーニング(五戒)と具足戒(プラーティモクシャ。波羅堤木叉)をその拠り所としていたが、菩薩修行の独自の指針はまだつくられていなかったのだ。
したがって、この三つの世界のどこにいても本当の平安と安定を見出すことはできない。それは、罠や危険がいっぱいある燃えている家のようなものだ。(「三界は火宅なり」)
檻の中にいるにわとりの一群を想像してみよう。かれらはえさのとうもろこしを奪い合ってお互いにけんかをしている。そして、とうもろこしのほうがおいしいか、それとも米のほうがおいしいかをめぐって争っている。数粒のとうもころし、あるいは数粒の米をめぐっってお互いに競い合っているあいだ、かれらは自分たちが数時間後には食肉処理場に連れて行かれるということを知らないでいる。かれらと同じように、われわれもまた不安定さに満ちた世界に住んでいる。しかし、貪欲さや愚かさにがっちりと捕らえられているためにそのことが少しも見えていないのだ。
この声聞の道の成果である涅槃は、文字通りの意味はろうそくの炎を吹き消すように、「吹き消す、滅する」である。それは、流転輪廻という燃えている家をきっぱりと去って、もう決して生まれ変わらないということだ。しかし、愚かさを捨て去ること、涅槃を「消滅」と考えることはまだ真の解脱ではない。それは解脱の最初の部分ではあってもその全体像ではないのだ。涅槃とは消滅であるという考えはあくまでも、人々をして修行の道へと入らせる方便の教えなのである。
本当に誰かを愛しているなら、その人を自由にしておかなければならない。もしその人を自分の愛情のなかに閉じ込めておこうとするなら、たとえその絆が愛からできていたとしても、その愛は本物ではない。
ブッダとその時代の僧や尼僧たちは三着の衣と一つの鉢しか持っていませんでしたが、彼らはとても幸せでした。それは、彼らには最も貴重なもの――自由があったからです。
【『怒り 心の炎の静め方』ティク・ナット・ハン:岡田直子訳(サンガ、2011年)】
Firefoxでブックマークの並べ替えができない(異常) - Yahoo!知恵袋 http://t.co/TyRWes9Dtb
— 小野不一 (@fuitsuono) October 22, 2013
Firefox をリセットするには | Firefox ヘルプ https://t.co/nocRvfOMNo
— 小野不一 (@fuitsuono) October 22, 2013
自分用メモ:ツール→オプション→コンテンツ→詳細設定で、ゴシック体をメイリオに、最小フォントサイズを14に変更する。
— 小野不一 (@fuitsuono) October 22, 2013
あれ? と思ったら、声だけ荒牧だった。/▶ 荒牧陽子【ものまね】本人映像合成 Part1 21人 - YouTube http://t.co/Nelos3kKDr
— 小野不一 (@fuitsuono) October 16, 2013
恐ろしいほど違和感がない。/荒牧陽子【ものまね】本人映像合成 Part2 16人 - YouTube http://t.co/di8478YO5o
— 小野不一 (@fuitsuono) October 16, 2013
パキスタンの女子が教育を受ける権利を訴え、イスラム武装勢力タリバン(Taliban)に銃撃されたマララ・ユスフザイさん(16)/「死んでないことを神様に感謝」、マララさんが自伝出版 国際ニュース:AFPBB News http://t.co/Pcl2blkZNv
— 小野不一 (@fuitsuono) October 8, 2013
偉大な16歳。/マララさん「自分はノーベル賞に値しない」 国際ニュース:AFPBB News http://t.co/pE56hKJWOe
— 小野不一 (@fuitsuono) October 10, 2013
「大統領に米政府の教育支援への謝意を伝えた」としたうえで「無人機攻撃がテロを助長するとの懸念も伝えた。罪のない人が殺されパキスタン国民の恨みにつながっている」と指摘した。/マララさん:招待のオバマ米大統領に「感謝」- 毎日jp http://t.co/oTv72l86oP
— 小野不一 (@fuitsuono) October 12, 2013
明らかに空気が抜けていた。「いらっひゃいまへ」。ドラッグストアのレジにいたお嬢さんだ。年の頃は二十歳前後。私の手渡した小銭が間違っていた。「いやあ、この年になると足し算引き算も間違っちまうよ」といいわけをすると、「わたひもへふ」と応じてくれた。つい先程の出来事。
— 小野不一 (@fuitsuono) October 11, 2013
米ドル札の変遷―10月8日に新紙幣登場 - http://t.co/4fcXsQhQec http://t.co/yIBVFOAIQF
— 小野不一 (@fuitsuono) July 12, 2013
新100ドル札、10月に流通開始へ - http://t.co/4fcXsQhQec http://t.co/gSqVIUsOJx
— 小野不一 (@fuitsuono) July 12, 2013
デコの残日録 2010年5月に発行されるはずであった米国・新100ドル紙幣が、いまだ流通していないのはなぜか? http://t.co/OtFUxe2M3g
— 小野不一 (@fuitsuono) July 12, 2013
10月8日。/新100ドル札発行の真相 http://t.co/GmJxJJUiar
— 小野不一 (@fuitsuono) July 12, 2013
新100ドル発行で、100米ドル札のニセモノが大量流出との噂 http://t.co/FnGdPgiJuj
— Keisei Suzuki (@keiseisuzuki) October 8, 2013
多くの人は自らの完全性を、自らの宗派の完全性と同じく絶対のものだと確信しています。あるフランス人女性は、ちょっとした姉妹喧嘩で「でも、つねに正しい人など会ったことがないわ。私以外はね」と言いました。(ベンジャミン・フランクリン)
【『集合知の力、衆愚の罠 人と組織にとって最もすばらしいことは何か』アラン・ブリスキン、シェリル・エリクソン、ジョン・オット、トム・キャラナン:上原裕美子〈うえはら・ゆみこ〉訳(英治出版、2010年/原書、2009年)以下同】
フランクリンは、(中略)言葉数は少ないながら、宗教の不可謬性と、「自分はつねに正しい」と思いたがる人間ならではの性質を並べて論じてみせた。不可謬性を信じるのは時代遅れであり、民主主義が求めるものとは真っ向から対立すると主張し、個人または少集団がつねに正しい、または唯一の解決策を持っていると考えると、集団は危険な存在となると警告した。
民主主義は脆弱な同意だ。集団の力と技術、そして理性を共有する人の力に依存している。だが真の民主主義はパワーになる。他者の意見に耳を傾けることを通じて、互いの差異と団結とを意識することのできる新しい集合体が生まれる。
「真の対話(ダイアログ)とは、ふたり以上の人間が、相手の前で自分の確信を保留できることによって生じる」(デヴィッド・ボーム)
集まっていたごく普通の人たちが、「聞く耳がある」ではなく、「聞く力がある」という態度で、互いの意見に耳を傾けた。
集団の構成員は、それぞれが独自の目で世界を見ている。それぞれの情報はすべて貴重であり、同時に、全体を構成する一部でもある。場合によっては厄介だ。
「どんなコミュニティや組織にも、あるいは社会的集団の中にも、例外的なふるまいや行動をして、よい結果を得ている存在がいる。……こうした“ポジティブ・デビアント(よい方向に逸脱した人たち)”は、自分では意識することなく、集団全体に成功をもたらす道を見つけている。彼らの秘密を分析し、分離し、のちに集合全体で共有すればいいのだ」(デヴィッド・ドーシー)
そして、特定のスタンスから一歩下がれば、全体の秩序やパターンも見えてくる。
エマソンは生の全容を、その矛盾と変則性を、学びに向けた欠かせない道として受け入れていた。神が作ったすべてのものにはヒビがあり、そのせいで人は未完成であると同時に、その裂け目から光が入る、と考えていたことは有名だ。
「精神は、それぞれに自分の家を建てる」(エマソン著『自然論』)
分断と細分化へ向かうのではなく、いつわりの合意、見せかけの団結に向かおうとする。このパターンにおいて、集団の構成員は沈黙と服従を選ぶ。集団内の不一致を明らかにするよりも、団結の幻想を守りたいと考える。
ヘウムに住む賢者たちは愚か者だ、と言う者がいます。信じてはいけません。ただ、いつも愚かな出来事が彼らに起きるだけなのです。
――ソロモン・シモン『ヘウムの賢者たちと、その楽しいお話』より
何かが真実であると確信すると、確証バイアスの呪いのもと、人はそのバイアスを裏付けるデータだけを探そうとする。真実であると思っていることに逆らうかもしれないデータは、すべて否定するか、「意訳」しようとする。
「わたしは人間だ。人間にかかわることなら何だって、ひとごととは思えない」
共和制ローマの劇作家テレンティウス(紀元前195?~159年)の戯曲『自虐者』より
「私は人間である。人間のことで私に関係のないものなど何もない」(プビリウス・テレンティウス・アフェル)
衆愚は引力だ。あらゆる集団に発生し、知と反対の方向へと引きこもうとする。
「思慮深く意欲的な少数の人間の集まりだけが世界を変えられる」マーガレット・ミード
ボストン・フィルハーモニーの指揮者ベン・ザンダーは、(中略)「シンフォニー」という言葉はもともと「シン(共に)」と「フォニア(響く)」を組み合わせた言葉だと説明した。
空の色がかすかに青みを帯びた時間であった。バイクで角を曲がると、ヘッドライトの向こうに老夫婦が散歩をしていた。ご主人がつないでいた手を自分の身体の後ろ側に引き寄せた。二人の手には白い杖があった。きっと周囲の迷惑にならぬよう、こんな時間を選んだのだろう。
— 小野不一 (@fuitsuono) October 2, 2013
老夫妻は再び手をつないで横に並び、反対側の手で杖を振りながら歩いていった。二人の手と手に通うものを思う。よいことがあっても悪いことがあっても、夫婦喧嘩をしても二人は手をつないで歩いてきたのだろう。厚情はやがてただの温もりとなる。だが掛け替えのない温もりだ。
— 小野不一 (@fuitsuono) October 2, 2013