2015-01-31
黒人はサンタになれない? 教員の発言で物議
米ニューメキシコ州のハイスクールに通うアフリカ系米国人の中学生が、教員から肌の色を理由にサンタの服装を否定されたと訴えている。
CNN系列局のKOATによると、同州クリーブランドハイスクール1年生、クリストファー・ロッジ君は、学校の仮装大会でサンタの服装をしていたところ、男性教員から、サンタは白人なのでロッジ君はサンタにはなれないと言われたという。
父親のマイケルさんは、息子が恥をかかされ、クリスマスを楽しめなくなったと憤る。問題の教員は謝罪の電話をかけてきたが、それだけでは不十分だと主張、教員の解雇を求めると語った。
学校区はこの教員の発言について、「不適切であり、言ってはならないことだった」との見解を発表した。教員本人も「愚かな過ち」を犯したと認め、校長に報告して本人と両親に謝罪し、懲戒処分を受けたという。学校側は、別の担任のクラスに替えてほしいという求めにも応じたと説明している。
サンタの肌の色を巡っては、白人として描かれるサンタ像に疑問を投げかける意見をフォックスニュースが取り上げたことをきっかけに、ちょっとした論争が起きていた。
【CNN 2013-12-17】
アイディアにストーリーが引き摺られて失敗/『RUBICON 陰謀のクロスワード』
見覚えのある顔だった。おお、キンバリー・バウアーの恋人(『24 -TWENTY FOUR-』)ではないか。坊主頭じゃなかったので気づくのが少し遅れた。ザイアンスの法則に導かれて、ついつい1シーズン13話を見てしまった。
オープニングの映像がよくできてシナプスを刺激する。クロスワード・パズルというアイディアもよい。ただしそこまで。2時間にまとめれば秀作となったことだろう。初めにアイディアありきで、ストーリーが引き摺られてしまっている。
とにかく冗長で場面展開が遅く、登場人物の色分けが曖昧で、尚且つ一つひとつのエピソードがきちんと完結しないというお粗末ぶりを露呈している。視聴率が低迷し、シーズン1で打ち切られたのも大いに頷ける。
APIというアメリカのシンクタンクを描いた陰謀ものだがプロットに斬新さはない。かつて『24 -TWENTY FOUR-』ではアメリカ大統領までもが陰謀に加担したという設定があり、これを超えるストーリーをひねり出すことは難しいだろう。主役の天才性も巧く描けていない。
アメリカの多くの国民が9.11テロに政府首脳の関与があったことを疑っている(Wikipedia)。戦争やテロで巨利を得る人々が存在する。彼らが絵を描けば直ちにメディアが後押しする。映画やドラマが視聴者の感情をコントロールするように彼らは国民感情をわけもなく操作する。
インテリジェンス(諜報)といえば聞こえはいいが、「すべてを知る」ことへの欲望は全知を目指したもので、欧米が神となって全能を果たす構造となっている。つまり「神に取り憑かれた病」なのだろう。
腐敗した首脳陣がマッチで火を点けてはポンプから水を放つ。しかも彼らは国益を語りながら私企業の利益獲得に狂奔する。そこに私はアメリカの凋落(ちょうらく)を見る。やがて衰退し滅び去ることだろう。新しい文明がどこから誕生するかはわからないが、その兆しとして必ず新しい文化の台頭が起こるはずである。
2015-01-24
脳神経科学本の傑作/『確信する脳 「知っている」とはどういうことか』ロバート・A・バートン
長期にわたってものを考えるとき、その考えを維持するために、推論の連鎖から十分な報酬を引き出す必要がある。しかし一方で、柔軟さも維持して、その考えに矛盾する証拠が出てきたら喜んでそれを捨てられるようでなければならない。けれども、長い間考えていて、報酬の感覚が繰り返され、発達してくると、思考と正しいという感覚とを結びつける神経連結がしだいに強化されていく。このような結びつきは、いったん形成されるとなかなか断てない。
【『確信する脳 「知っている」とはどういうことか』ロバート・A・バートン:岩坂彰訳(河出書房新社、2010年)以下同】
まだ読んでいる最中なのだが覚え書きを残しておく。脳神経科学本の傑作だ。『脳はいかにして〈神〉を見るか 宗教体験のブレイン・サイエンス』アンドリュー・ニューバーグ、ユージーン・ダギリ、ヴィンス・ロース、『集合知の力、衆愚の罠 人と組織にとって最もすばらしいことは何か』 アラン・ブリスキン、シェリル・エリクソン、ジョン・オット、トム・キャラナン、『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』ジュリアン・ジェインズ、『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』トール・ノーレットランダーシュ、『動物感覚 アニマル・マインドを読み解く』テンプル・グランディン、キャサリン・ジョンソンなどと、認知科学本を併読すれば理解が深まる。
脳神経科学は身体反応に拠(よ)っている。つまり「目に見える科学」である。ただし全ての身体反応を科学が掌握しているわけではあるまい。見落としている反応もたくさんあるに違いない。その限界性を弁える必要があろう。
ロバート・A・バートンは小説を物(もの)する医学博士である。こなれた文章で困難極まりないテーマに果敢なアプローチを試みる。
急いで書こうとしたのにはもちろん理由がある。以下のテキストと関連が深いためだ。
・英雄的人物の共通点/『生き残る判断 生き残れない行動 大災害・テロの生存者たちの証言で判明』アマンダ・リプリー
「報酬」とは具体的には中脳辺縁ドーパミン系の活性化である。
1990年代前半に、エルサレムにあるヘブライ大学の生化学者リチャード・エブスタインらはボランティアを募り、各自が持つ、リスクや新奇なものを求める志向を評価してもらった。その結果、このような行動のレベルが高い人ほど、ある遺伝子(DRD4遺伝子)のレベルが低いことが分かった。この遺伝子は、報酬系の中脳辺縁系の重要な構造においてドーパミンの働きを調整する。そこでエブスタインらが立てた仮説は、ドーパミンによる報酬系の反応性が弱い人ほど、報酬系を刺激するために、よりリスクの高い行動や興奮につながら行動をとりやすい、というものだった。
その後エブスタインらは、非利己的、あるいは愛他的な行動をとりがちだと自己評価する被験者では、この遺伝子のレベルが高いことも発見した。この遺伝子をたくさん持っている人は、これを持たない人よりも弱い刺激から一定の快感を得ることができるとも考えられる。
薬物やアルコールなどの依存症、暴走族や犯罪傾向が顕著な人物を思えば理解しやすいだろう。アマンダ・リプリーが「英雄的人物」と評価した人々を支えていたのは遺伝子である可能性が考えられる。「救助者たちは概して民主的で多元的なイデオロギーを支持する傾向があった」(アマンダ・リプリー)事実は、特定の宗教や思想・信条といった狭い世界ではなく、より広い世界から報酬を得られることを示唆している。
私はよく思うのだが、自分が正しいと主張し続けることは、生理学的に見て依存症と似たところがあるのではないだろうか。遺伝的な素因も含めて。自分が正しいことを何としても証明してみせようと頑張る人を端から見ると、追求している問題よりも最終的な答えから多くの快感を得ているように思える(本人はそう思っていない)。彼らは、複雑な社会問題にも、映画や小説のはっきりしない結末にも、これですべて決まり、という解決策を求める。常に決定的な結論を求めるあまり、最悪の依存症患者にも劣らないほど強迫的に追い立てられているように見えることも少なくない。おそらく、実際そうなのだろう。
正義を主張する原理主義者は脳内で得ることのできない報酬を、特定の集団内で得ているのだろう。
やや難しい内容ではあるが、かような傑作を見落としていた自分の迂闊(うかつ)さに驚くばかりである。
秀逸な文体を味わう/『ダニー・ザ・ドッグ』ルイ・レテリエ監督
『名探偵モンク』のような秀作を見ると、他のドラマを見る気が失せる。元々、『ブレイキング・バッド』は数回見て挫け、『パーソン・オブ・インタレスト 犯罪予知ユニット』はシーズン2の途中でやめ、『プリズナーズ・オブ・ウォー』、『Dr. HOUSE』、『メンタリスト』、『チョーズン:選択の行方』、『ALPHAS/アルファズ』と挫折が続いた。
「カネをかけてヒット作を狙う」あざとい精神がリアリティを見失っているのだろう。視聴者をただ驚かせようとしていて、共感を排除する傾向が顕著だ。
疲れ果てた私が思い出したのは映画『ダニー・ザ・ドッグ』であった。
「超映画批評」の前田有一氏が秀逸なレビューを書いている。
・『ダニー・ザ・ドッグ』20点
「我が意を得たり」という批評である。それでも尚、面白いものは面白いのだ。私が映画作品を二度見ることは滅多にない。
『ダニー・ザ・ドッグ』は荒唐無稽なストーリーを秀逸な文体(脚本)で描いた作品だ。しかも場面展開が速いので最後まで飽きることがない。
はっきりと書いておくが最大の問題は有色人種であるダニー(ジェット・リー)を犬扱いしていることで、拭い難い人種差別意識に蔽(おお)われている。ダニーを救うサム(モーガン・フリーマン)は黒人だが、娘のヴィクトリア(ケリー・コンドン)と血のつながりはない。そしてダニーの首輪を外したのがヴィクトリアである事実を思えば、やはり抑圧された人種を救う白人という構図が浮かんでくる。尚且つ、ダニーは文化と無縁という設定になっている。
ケリー・コンドンは17歳という設定だが実に可愛い。まるで「赤毛のアン」さながらである。決して美人ではないのだが、髪型やファッション(モーガン・フリーマンもそうだがカーディガンが非常によい)はもとより目尻の皺まで愛らしく見える。
ジェット・リーのアクションも見もので、『ボーン・アルティメイタム』のトイレでの格闘シーンは明らかに本作品のパクリである。
尚、ボーン・シリーズのサイドストーリーとして『ボーン・レガシー』という映画があるが、ほぼ『ボーン・アルティメイタム』の焼き直しとなっている。
そういえば「記憶の欠如」という点でもこれらの映画は似ている。要は自分探しと救いの物語である。
モーガン・フリーマンとケリー・コンドンという善人に対抗するのが、バート(ボブ・ホスキンス)で、この悪役ぶりが秀逸だ。特に彼の「善意を装った言葉」が悪を際立たせている。
デタラメなストーリーであるにもかかわらず面白い作品を私は「文体映画」と呼びたい。例えばポール・フェイグ監督の『アイ・アム・デビッド』など。
ストーリーと文体が一致した稀有な作品には『アメリ』や『ドッグヴィル』、『善き人のためのソナタ』、『灼熱の魂』などがある。
2015-01-21
日本人人質動画に合成疑惑
今、ISIS(イスラム国)が日本人の人質を取って身代金を要求というNEWSが流れているけど、どう見ても合成のヤラセです。
陰の向きが左右の人物で逆になっていて、自然光の下ではこうなりません。 pic.twitter.com/x1Qfa18odB
— 多田星彦 (@bakuchyan) 2015, 1月 20
2015-01-20
生きるとは単純なこと/『ブッダの教え一日一話 今を生きる366の智慧』アルボムッレ・スマナサーラ
・『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ
・『怒らないこと2 役立つ初期仏教法話11』アルボムッレ・スマナサーラ
・『心は病気 役立つ初期仏教法話 2』アルボムッレ・スマナサーラ
・何も残らない
・生きるとは単純なこと
・『未処理の感情に気付けば、問題の8割は解決する』城ノ石ゆかり
・『マンガでわかる 仕事もプライベートもうまくいく 感情のしくみ』城ノ石ゆかり監修、今谷鉄柱作画
・『ザ・メンタルモデル ワークブック 自分を「観る」から始まる生きやすさへのパラダイムシフト』由佐美加子、中村伸也
1月1日 生きるとは単純なこと
生きるとは、複雑なようであって、じつはとても単純です。
歩いたり座ったり喋(しゃべ)ったり、寝たり起きたり。それ以外、特別なことは何もありません。
この単純さを認めないことが、苦しみの原因のもとなのです。
この単純さ以外に、何か人間を背後から支配している「宇宙の神秘」のようなものがあると思うのは、妄想です。
人生とはいともかんたんに、自分で管理できるものなのです。
【『ブッダの教え一日一話 今を生きる366の智慧』アルボムッレ・スマナサーラ(PHP研究所、2008年/PHP文庫、2017年)】
本年より書写行を開始。セネカ著『人生の短さについて 他二篇』を終えて、本書と取り組む。新書サイズで上下二段。1ページに2日分の内容となっている。何の解説もないのだが、たぶんスマナサーラ本からの抄録であろう。このエッセンスを理解するには、ある程度スマナサーラ本を読む必要あり。手軽に読んでしまえばかえって理解から遠ざかることだろう。
業(ごう)とは行為を意味する。日本だと悪業の意味で使われることが多いが善業も含む。その基本は歩く・座る・寝るの三つである。言われてみると確かにそうだ。健康の最低限の定義は「歩ける」ことだろう。身体障害の厳しさは歩くことを阻まれている事実にある。
悩みがあろうとなかろうと、幸福であろうと不幸であろうと、人間の行為がこの三つに収まることは変わりがない。
一方には豪華なソファに座る人がいて、他方には擦り切れた畳の上で胡座(あぐら)をかく人がいる。資本主義というマネー教に毒された我々は所有でもって人を測る。だが「座る」ことに変わりはない。つまり「座る」という姿こそが真理なのだろう。
後期仏教(いわゆる大乗)は絢爛(けんらん)たる理論を張り巡らせ、「宇宙の神秘」を説くことでヒンドゥー教再興に抵抗したというのが私の見立てである。結果的にブラフマンとアートマンを採用した(梵我一如)ことからも明らかだろう。
この神秘主義はなかなか厄介なもので、スピリチュアリズムと言い換えてもよいだろう。後期仏教を密教化と捉えれば神秘主義が浮かび上がってくる。そこには必ずエソテリズム(秘伝・秘儀)の要素が生まれる。
人間の脳は論理で満足することがない。どこかで不思議を求めている。ミステリーがマジックと結びつくと人は容易に騙される。宗教・占い・通販の仕組みは一緒だ。「物語の書き換え」によって人間を操作する。大衆消費社会を維持するのは広告なのだ。
歩く、座るといった振る舞いに何かが表れる。颯爽と歩く人には風を感じるし、猫背でとぼとぼと歩く人には暗い影が見える。小学生の歩く姿をよく見てみるといい。悩みがある子は直ぐにわかるものだ。
これに対して幼児はほぼ全員が歩くこと自体を喜びと感じている節(ふし)がある。だから見ているだけでこちらまで楽しくなってくる。きっと立った瞬間に、また歩いた瞬間に脳は激変している。そりゃそうだ。「見える世界」が変わったのだから。二足歩行を始めた人類の歴史が窺える。
「人生とは単純なものだ」と決めてしまえば、心の複雑性から解き放たれる。怒り、嫉妬、憎悪を生むのは心である。そこに宗教や思想が火をつけ、油を注ぐことも珍しくはない。
我々は「自分の人生」を失ってしまった。他人に操作された人生を送るがゆえに争いの人生を強いられている。決して心が安らぐことがない。絶えず不安の波が押し寄せる。
今、大事だと思っていることが、年を重ねるに連れてそうでもないことに気づく。手放せるものはどんどん捨ててしまえ。不要な物を捨て、不要な欲望を捨て、最後は自我まで捨ててしまえというのがブッダの教えである。
【追記】竹内敏晴は「人間が生きている、ということは、基本的には『立って』動いていることである」と指摘している(『ことばが劈(ひら)かれるとき』)。とすれば、人の行為は大別すれば、寝るか・起きるかに分けることができそうだ。
2015-01-17
安冨歩、谷沢永一、外山滋比古、陳舜臣
2冊挫折、2冊読了。
『実録 アヘン戦争』陳舜臣〈チン・シュンシン〉(中公新書、1971年/中公文庫、1985年)/陳舜臣とは相性が悪く、かつて何冊か手にしたことがあるが一冊も読み終えたことがない。どうも文体が私の脳に馴染まない。
『思考の整理学』外山滋比古〈とやま・しげひこ〉(ちくま文庫、1986年/筑摩書房、1983年『ちくまセミナー 1』の文庫化)/昔、読んだような読んでいないような……。ヒラリヒラリと舞う文章が心地よく、それだけに騙されているような気がする。巧みすぎて印象が薄い。そこにどうしても嘘を感じてしまう。例えば元宮内庁長官の羽毛田信吾〈はたけ・しんご〉という人物は名文を書くが、人物としての評価は非常に低い。私が尊敬する菅沼光弘は宮内庁時代の仕事を問題視し、あまり尊敬していない副島隆彦に至ってはボロクソに書いている。アクの強い個性を好む私にとってはどうでもいい本だ。
3冊目『こんな日本に誰がした 戦後民主主義の代表者・大江健三郎への告発状』谷沢永一〈たにざわ・えいいち〉(クレスト社、1995年/ワニ文庫、1997年)/大江健三郎のノーベル賞受賞後に刊行された。『完本・紙つぶて』と比べると文章の劣化が目立つ。しかも後味が悪いときている。表紙見返しで渡部昇一〈わたなべ・しょういち〉が「傑作」とエールを送っているが、気分が滅入るだけだ。それでも読む価値がある。なぜというに、東京裁判史観に毒された進歩的文化人の正体を明快に解き明かしているためだ。俎上(そじょう)に乗せられたのは主に大江の海外講演で、彼は天皇陛下や日本を貶めることに全力を傾注してきた事実がわかる。公の場に引きずり出して公開討論させるべきだろう。ノーベル賞の授与も歴史ある日本の皇室を苦々しく思っている西洋白人の思惑が働いているとしか思えない。
4冊目『幻影からの脱出 原発危機と東大話法を越えて』安冨歩〈やすとみ・あゆむ〉(明石書店、2012年)/続『原発危機と「東大話法」』である。安冨歩にはしなやかな「生の流儀」がある。その態度に私は感銘を受ける。論より振る舞いが重い。真実は挙措(きょそ)の中に表れる。現役の東大教授が同じ東大の原発御用学者を真正面から批判している。なかなか出来ることではない。安富は数少ない真の教師であると思う。
2015-01-16
日露友好の土壌/『なぜ不死鳥のごとく蘇るのか 神国日本VS.ワンワールド支配者 バビロニア式独裁か日本式共生か 攻防正念場!』菅沼光弘、ベンジャミン・フルフォード、飛鳥昭雄
・『日本はテロと戦えるか』アルベルト・フジモリ、菅沼光弘:2003年
・『この国を支配/管理する者たち 諜報から見た闇の権力』中丸薫、菅沼光弘:2006年
・『菅沼レポート・増補版 守るべき日本の国益』菅沼光弘:2009年
・『この国のために今二人が絶対伝えたい本当のこと 闇の世界権力との最終バトル【北朝鮮編】』中丸薫、菅沼光弘:2010年
・『日本最後のスパイからの遺言』菅沼光弘、須田慎一郎:2010年
・『この国の権力中枢を握る者は誰か』菅沼光弘:2011年
・『この国の不都合な真実 日本はなぜここまで劣化したのか?』菅沼光弘:2012年
・『日本人が知らないではすまない 金王朝の機密情報』菅沼光弘:2012年
・『国家非常事態緊急会議』菅沼光弘、ベンジャミン・フルフォード、飛鳥昭雄:2012年
・『この国はいつから米中の奴隷国家になったのか』菅沼光弘:2012年
・『誰も教えないこの国の歴史の真実』菅沼光弘:2012年
・『この世界でいま本当に起きていること』中丸薫、菅沼光弘:2013年
・『この国を呪縛する歴史問題』菅沼光弘:2014年
・日露友好の土壌
・『日本を貶めた戦後重大事件の裏側』菅沼光弘:2013年
菅沼●ロシアと日本が協力できるのは単に経済的な関係だけではないんですよ。宗教的に見てもそうです。ロシア正教は一般的なキリスト教とちょっと違う。
例えば彼らが一番愛するのがアイコン(イコン)です。それに何が描いてあるかというと、マリア様です。マリア様は女性です。日本も、伊勢神宮内宮の祭神はアマテラスです。女性に対する畏敬の念ということではロシアと日本には共通性がある。
【『なぜ不死鳥のごとく蘇るのか 神国日本VS.ワンワールド支配者 バビロニア式独裁か日本式共生か 攻防正念場!』菅沼光弘、ベンジャミン・フルフォード、飛鳥昭雄(ヒカルランド、2013年)以下同】
ベンジャミン・フルフォードの言説には慎みがない。思ったこと、感じたことをそのまま吐いている。その軽薄さが彼の言論を単なる陰謀論に貶める。部分的な真実があったとしても私は彼の言葉を信用しない。このような子供染みた人物を相手にする菅沼の意図も理解しかねる。菅沼ファンであってもベンジャミン関連は読む必要なし。
アイコンについては小田嶋隆が秀逸な解説をしている。
・アイコンとは/『コンピュータ妄語録』小田嶋隆
「偶像崇拝」という言葉にはかくの如き西洋の歴史がある。一言でいえば「シンボルは神に非ず」ということだ。これは中々奥が深いテーマで宗教や脳機能の深淵に関わる問題が潜んでいる。
タレントとは本来「才能」を意味する言葉であるが、タレントのポスターが偶像である事実に気がつけば偶像崇拝はストンと腑に落ちる。例えば筋金入りのオタクがいたとしよう。彼は大好きなアイドルのポスターに向かって朝な夕な語りかける。ある時は悔しい思いを涙ながらに訴え、またある時は嬉しい出来事を輝く瞳で報告する。彼の脳内ではアイドルのポスターが実像と化している。幼い妹が誤ってポスターを破いてしまった事態を想定すればわかることだ。それはもう「ポスター」ではなくなっている。ご存じの人もいるだろうがアイドルとは「偶像」を意味する言葉である。
ここからもう一段深めるとシンボルとしての言葉に辿り着く。そこから横に移動すれば、表意文字としての漢字に込められた力、すなわち呪能が見えてくる。で、最終的には脳のアナロジー機能に行き着く。
・アナロジーは死の象徴化から始まった/『カミとヒトの解剖学』養老孟司
菅沼の指摘は「日本人とロシア人の脳が似ている」ことを示す。初耳だ。こんな話は聞いたことがない。聞いたことがないだけに鮮烈な説得力を感じる。
菅沼●ロシア人は、日本人に対して、イギリス人だとか何かみたいに人種的な偏見なんて全然ない。シベリアに抑留された人が現地のロシア人女性と一緒になって、帰ってこなかった例も随分ある。
言われてみると確かにロシアの美人は欧米の美人よりも日本人には取っ付きやすい印象がある。ただしロシアの女性と結婚すると性行為の回数が多くて日本男児では体が持たないと佐藤優が書いていた。1日3回とか。
菅沼●今まで日露関係は、イデオロギーや、北方領土の問題とかがあって、ギクシャクしてきたけども、そういうものが薄れてくると、ロシアと日本というのは、宗教的にも、人間的にも、また経済的にも非常にくっつきやすい条件ができつつあるわけですよ。
こういう卓見が随所にあるから菅沼本はやめられない。私は本来であればやはり東アジアを中心とした漢字文化圏が緩やかな共同体を目指すのが理想だと考えているが、中国との関係が上手くゆかない以上、日本とロシアが友好を深めることは望ましいと思う。
2015-01-15
目撃された人々 60
老夫婦と幼子が線路沿いの道を歩いていた。祖父が女児の手を、祖母が男児の手を引いていた。「あ!」と思った瞬間、私の目にはまざまざと十数年後の姿が見えた。中学生、高校生となった二人が祖父母の手を引いていた。同じ温もりを通わせながら。
— 小野不一 (@fuitsuono) 2015, 1月 14
2015-01-14
井波律子、永沢哲、佐々木閑、他
7冊挫折。1冊読了。
『タープ博士のトレード学校 ポジションサイジング入門』バン・K・タープ:長尾慎太郎監修、山下恵美子訳(パンローリング、2009年)/二度目の挫折。自分の商売に結びつけようとしてもったいぶった文章がくどすぎる。エッセンスは重要だが読む必要なし。
『日本語のレトリック 文章表現の技法』瀬戸賢一(岩波ジュニア新書、2002年)/例文が非常によい。で、本文が霞んでしまっている。読書案内として読めばいいだろう。
『マインドコントロール2 今そこにある情報汚染』池田整治(ビジネス社、2011年)/『水からの伝言』(江本勝著)を賛嘆している。所詮、そういうレベルだ。自衛官の知性を疑う。
『男どき女どき』向田邦子(新潮文庫、1985年)/遺著。上記瀬戸本で紹介されていた一冊。エッセイのみ飛ばし読み。
『ロマネ・コンティ・一九三五年 六つの短篇小説』開高健〈かいこう・たけし〉(文春文庫、1981年/新装版、2009年)/これまた瀬戸本で紹介されていた一冊。実は開高健の小説を読み終えたことがない。文章の技巧がかえって嫌な臭いを発している。あまりの嫌らしさに自分でもびっくりしたほど。
『日々是修行 現代人のための仏教100話』佐々木閑〈ささき・しずか〉(ちくま新書、2009年)/佐々木閑は苦手なのだが、「自殺は悪ではない」というコラムが目を惹いた。他はパラパラとめくっただけ。理系出身なんだから「お釈迦さま」という呼び方はやめてもらいたい。
『瞑想する脳科学』永沢哲〈ながさわ・てつ〉(講談社選書メチエ、2011年)/私が最も興味のある分野なのだが教科書的な文体についてゆけず。思考の飛躍に乏しいような気がする。
2冊目『論語入門』井波律子〈いなみ・りつこ〉(岩波新書、2012年)/『論語』関係は自分に合うテキストが少ないのだが、何とか読み終えた。親切な入門書。ただし文末が画一的で閃きに欠ける。研究は地を這うような姿勢で行ったとしても、蝶が舞うような表現に至るべきだろう。
2015-01-10
ドラマ『パーソン・オブ・インタレスト 犯罪予知ユニット』は神の物語
ジム・カヴィーゼルといえば『アイ・アム・デビッド』や『パッション』が思い出されるが、よもやこんな二枚目だったとは。しかもアクションまでこなしている。男振りがよすぎてミス・キャストだと思う。声もあまりよくない。
テロを阻止するための「マシン」がありとあらゆる国民を監視する。犯罪に巻き込まれそうな人を孤独な億万長者かつ天才プログラマーのハロルド・フィンチ(マイケル・エマーソン)が元CIAエージェント、ジョン・リース(ジム・カヴィーゼル)の助力を得て救うという筋書き。「パーソン・オブ・インタレスト」は直訳すると「興味の人」か。つまり彼らに「関心を寄せられた人」は助けられるわけだ。
監視という全知と救うという全能が「神の物語」であることを雄弁に物語る。
脚本の文学性が高く、映像も工夫が施され、スピーディーなテンポでドラマは進行する。構成が完璧すぎてヤマに欠けるほどだ。
『24 -TWENTY FOUR-』ほどの熱狂はなく、『Life 真実へのパズル』よりも中毒性は劣るが、手堅くまとまった好作品だ。「シーズン1」がamazonだとDVD6枚組で818円なのでレンタルするより安い。
ジム・カヴィーゼルは表情に乏しく、やたらと悲しそうな顔をする悪い癖がある。演技力は今ひとつ。
— 小野不一 (@fuitsuono) 2015, 1月 15
「パーソン・オブ・インタレスト 犯罪予知ユニット」シーズン2はまるでダメ。話にならん。
— 小野不一 (@fuitsuono) 2015, 1月 15
2015-01-08
米シェール企業、原油安で破綻 負債最大60億円
米メディアによると、テキサス州でシェール開発を手掛けるWBHエナジーが7日までに米連邦破産法11条(日本の民事再生法に相当)の適用を申請し、経営破綻した。昨夏以降の原油の急落局面で米シェール企業の破綻が明らかになるのは初めてとみられる。
4日付でテキサス州の連邦破産裁判所に申請したという。最大で5000万ドル(約60億円)の負債があり、原油安で想定通りの売上高が計上できず、資金繰りが悪化したとみられる。
米シェール開発会社は中小業者が多く、資金力も限られることから、開発費を借入金や社債に頼っている。中小会社は先物取引などを用いた価格ヘッジも十分でないケースがあり、原油安が業績に直撃しやすい財務構造になっている。加えて、米地方の金融機関が中小シェールに対する融資回収を急ぐとの見方も出ていることなどから、今後も同様の破綻が相次ぐ可能性がある。
ただ、中小シェール企業は足元では、資金流出を最小限に食い止めるため投資抑制も急いでいる。中堅シェールの一角であるオアシス・ペトロリアムは、2015年の投資金額を前年に比べ半減させる方針を先月に公表した。
体力のある大手シェール企業は引き続き15年も高水準の投資を実施し、原油生産については14年に比べ拡大計画を維持している企業もある。このため、仮に中小シェール企業の破綻が相次いだとしても、世界の原油需給の悪化要因になっている米原油生産の拡大傾向が、すぐに歯止めがかかるかどうかは不透明だ。
【日本経済新聞 2015-01-08】
【ニュース】アメリカの増産により、来年の原油価格は下落する見通し=EIA
http://t.co/FsO8ykFcVp
— 世界経済のネタ帳 (@ecodbnet) 2014, 9月 10
見逃せないニュースだ→「シェール・バブル」もはじける/日刊ゲンダイ|米国債の利回り低下は“リーマン・ショック再来”の足音か http://t.co/uD9D4Kppr6
— 小野不一 (@fuitsuono) 2014, 12月 15
超重要記事。コピーして保存。/原油価格下落が世界金融危機の引き金に?次の主役はジャンク債 囁かれる米国経済「大爆発」の危険性 http://t.co/Z93fNH0erx
— 小野不一 (@fuitsuono) 2014, 12月 18
セネカ
1冊読了。
1冊目『人生の短さについて 他二篇』セネカ:茂手木元蔵〈もてぎ・もとぞう〉訳(岩波文庫、1980年/ワイド版岩波文庫、1991年)/再読。本書より書写行を開始する。有徳の人物の気高き魂に触れると電流のようなものが伝わってくる。人の心を打つのは論理ではない。生きざまである。「よく生きる」ことはエベレストの山頂に立つことよりも難しいかもしれない。生死を分ける難所はきっと日常生活の中にもたくさんあることだろう。凡庸な精神、眠れる知性、怠惰な姿勢がそれを見過ごしているのだ。この一書を毎年正月に読もうと思う。
ぺんてる 水性ペン トラディオ プラマン
「プラマン」はプラスティック万年筆の略。評価の高い逸品である。オート万年筆を購入したのだが、長く書いているとペン先の引っ掛かりが気になる。これはペンの問題というよりも、私が普段ぺんてるのサインペンを使っているためだろう。軽い、筆圧不要、ペンを立てなくてもよい、微妙な線の表現という課題をクリア。黒・青・赤の3色があり、カートリッジは10本セットだと1634円。
2015-01-05
人類は進歩することがない/『人生の短さについて 他二篇』セネカ:茂手木元蔵訳
・我々自身が人生を短くしている
・諸君は永久に生きられるかのように生きている
・賢者は恐れず
・他人に奪われた時間
・皆が他人のために利用され合っている
・長く生きたのではなく、長く翻弄されたのである
・多忙の人は惨めである
・人類は進歩することがない
・『怒りについて 他一篇』セネカ:茂手木元蔵訳
・『怒りについて 他二篇』セネカ:兼利琢也訳
・必読書リスト その五
三十代の半ばを過ぎて「そろそろ人生も折り返し地点か」と気づいてはいたのだが、あっと言う間に五十の坂を越えてしまった。「あと何冊の本を読めるだろうか?」と計算すると余生の短さに愕然とする。1年に100冊読んだとしても2000冊か3000冊しか読めないのだ。本の冊数で計算するところが古本屋の悲しい性(さが)である。
まあそんなわけで、今年からしっかり勉強するべくノートを取ることにした。先ほど1ページ余り書いた。書きながら既にうんざりしている自分がいた。書く文字も少しずついい加減になってきて先が思いやられる。
今年はセネカから読み始めることにした。自由意志を「心の平静さ」に求めるセネカの姿勢はブッダの教えと相通ずる。何にも増して私はその文体に心酔する。彼こそは男の中の男だ。
しかし、われわれは短い時間をもっているのではなく、実はその多くを浪費しているのである。(9頁)
【『人生の短さについて 他二篇』セネカ:茂手木元蔵〈もてぎ・もとぞう〉訳(岩波文庫、1980年//ワイド版岩波文庫、1991年)以下同】
われわれは短い人生を受けているのではなく、われわれがそれを短くしているのである。われわれは人生に不足しているのではなく濫費しているのである。(10頁)
諸君は永久に生きられるかのように生きている。諸君の弱さが諸君の念頭に浮ぶことは決してない。すでにどれほどの時間が過ぎ去っているかに諸君は注意しない。充ち溢れる湯水でも使うように諸君は時間を浪費している。ところがその間に、諸君が誰かか何かに与えている1日は、諸君の最後の日になるかもしれないのだ。諸君は今にも死ぬかのようにすべてを恐怖するが、いつまでも死なないかのようにすべてを熱望する。(15頁)
2000年という時を経てセネカの言葉が私の胸を打つ。文明は進歩しても人類は進歩することがない。なぜならば知識を与えることはできても、徳や豊かな感情を与えることはできないためである。やはりどう考えても人生は短い(笑)。
今日は満月である。冬の月は軌道が高い。人間が寝静まる世界を冴え冴えとした光で照らす。明日になれば月はほんの少し欠ける。やがて新月となる。過ぎ去った時間や残された時間を意に介することなく月は昇り、そして沈む。
宇宙における森羅万象が引力と斥力(せきりょく)の影響を受けながら回転している。その回転が螺旋(らせん)状に上がってゆくのか下がってゆくのが問われる。学べ。死ぬまで学べ。内なる精神の新しい地平を開くために。
2015-01-02
鏡餅は正月の花/『季語百話 花をひろう』高橋睦郎
・鏡餅は正月の花
・奇妙な中国礼賛
花に飾りの意味があるとすれば、正月の花の代表は鏡餅ではあるまいか。玄関の間、または屋内の最も大切な場所に、裏白(うらじろ)、楪(ゆずりは)を敷き、葉付蜜柑(はつきみかん)を戴(いただ)いて鎮座まします。一説に鏡餅のモチは望月のモチともいう。そして色は雪白(ゆきしろ)。ということは、一つに月・雪・花を兼ねていることになる。これを花の中の花といわず、何といおう。
【『季語百話 花をひろう』高橋睦郎〈たかはし・むつお〉(中公新書、2011年)以下同】
上古は餅鏡(もちいかがみ)と呼んだらしい。鏡は銅製神鏡を擬したものと高橋は推測する。
銅製神鏡。 pic.twitter.com/LZuxWNvLAK
— 小野不一 (@fuitsuono) 2015, 1月 1
世界は瞳に映っている。そこに欠けた己(おのれ)の姿を浮かべるのが鏡である。ひょっとすると神仏に供(そな)える水にも鏡の役割があったのかもしれない。
鏡は太陽を映すことから神体とされた。いにしえの人々がそこに神の視線を感じたことは決しておかしなことではない。視覚世界を構成するのは可視光線の反射であるからだ。光があるから世界は「見えるもの」として現前する。
鏡餅に神を映し、自分を映し、改まった気持ちで元旦を迎える。改(あらた)が新(あらた)に通じる。
一日の計は晨(あした)にあり、一年の計は春にあり、一生の計は勤にあり、一家の計は身にあり(『月令広義』〈げつりょうこうぎ〉馮應京〈ひょう・おうきょう〉)。晨とは朝のこと。これが転じて「一年の計は元旦にあり」となる。四計というが読みは「はかりごと」。
— 小野不一 (@fuitsuono) 2015, 1月 1
江戸時代の儒学者・安井息軒は「三計とは何ぞ。一日(いちじつ)の計は朝(あした)にあり。一年の計は春にあり。一生の計は少壮の時にあり」としている。巧みな翻案といえるが原典の方が香り高い。
— 小野不一 (@fuitsuono) 2015, 1月 1
現代では「はかりごと」に謀の字の印象が強いが計、量、測、図、諮がある。他にも課、画、擬、議、権、衡、商、称、諏、度、評、猷、略、料、忖、揆、鈞、銓などがある。
— 小野不一 (@fuitsuono) 2015, 1月 1
孫子の兵法は計篇から始まる。「之(これ)を経(はか)るに五事を以てし、之を校(くら)ぶるに計を以てして、其の情を索(もと)む」と。「ご利用は計画的に」という金貸しの宣伝は真理を衝いている。ゆえに多くの人が騙されるのだろう。
— 小野不一 (@fuitsuono) 2015, 1月 1
・計篇/『新訂 孫子』金谷治訳注
そんな鏡餅を「花」と見立てたところに興趣が香る。穏やかな気候に恵まれた日本は自然を生活に取り込み、共生してきた。その日本人が惜しげもなく自然を破壊していることに著者は警鐘を鳴らす。
季語は私たちが日本人であること、いや人間であること、生物の一員であることの、最後の砦(とりで)であるかもしれない。
都会だと四季の変化も乏しい。花は売り物だし、落ち葉はゴミとして扱われる。スーパーへ行けば季節外れの野菜や果物も売られている。そして風が匂わない。自然から学んできた智慧が失われれば、不自然な生き方しかできなくなる。
高橋に倣(なら)えば季節の風習の最後の砦は正月とお盆だろう。クリマスなんぞは一過性のイベントにすぎない。一月睦月(むつき)の由来は親族一同が集って宴をする「睦(むつ)び月」とされる。仲睦(むつ)まじく楽しみ合う場所から社会は成り立つのだろう。
そういう意味から申せばインターネットは修羅場に近い。仲のよい人々同士が集う場に棲み分けするのが望ましい。というわけで、本年も宜しくお願い申し上げます。