シオニスト政権によるレバノン攻撃、パレスチナ人迫害を見て見ぬふりをするアラブ諸国指導者への非難をこめた、アラブ民族の抵抗の歌。ジュリア・ブトロス(Julia Boutros)はレバノンの歌手でマロン派キリスト教徒。母はパレスチナ出身のアルメニア人。
この歌が胸の内側で鳴り響いて止むことがない。朝、目を覚ます前に耳の中で炸裂するほどだ。
1886年にドイツの技術者、カール・ベンツによって創設された世界最古の自動車メーカーの一つ。1886年に世界初の自動車として初の特許を取得している。当時は自動車の有用性に気が付く者はなく、交通の主役であった「馬を怖がらせる邪魔者」であった。
そうした中、妻のベルタ・ベンツは、夫の発明がすばらしいことを世間に認めてもらいたいと考え1888年8月5日、夫が寝ている間に二人の息子と自動車に乗りマンハイムの町を出発した。当時の道は舗装されたものではなく、空気タイヤもまだ自転車用が発明されたばかりで、その過酷さは余りあるものだった。ガソリンスタンドなどもなく、薬局でシミ抜き用のベンジンを購入しそれを給油しながら旅行を続けた。やがて陽の暮れる頃、106km離れたプフォルツハイムの町に到着する。自動車の回りには人々が集まり、ベルタたちに賞賛の声を送った。この時の速度(距離と時間)は当時の馬車で、10頭以上の馬を乗り換えなければならないほどのもので、この成功によりカールの発明は知られるようになり、ベルタは世界初の女性ドライバーとして、自動車長距離旅行の歴史にその名を残すことになる。
【Wikipedia】
フェイスブックにあったリンクを踏んで、島田裕巳のテキストを読んだ。大いに後悔した。
— 小野不一 (@fuitsuono) 2012年2月26日
オセロの中島知子さんが、霊能者と称する女性に食い物にされており
統一教会は世界的な組織だが、霊能者はひとりの個人にすぎない。統一教会には開祖もいれば教義もあり、日本では宗教法人として認証されている。そうした組織による行為と、霊能者個人の行動とを同列に考えることには無理がある。
果たして洗脳やマインドコントロールという概念をそこまで拡張して用いていいのか。
洗脳と言うと、暴力的な手段を用いて、強制的に特定の思想やイデオロギーを注入するというイメージがある。たしかに、中国共産党は自由を奪われた人間をその対象としたのだが、必ずしも暴力的に人格を改造しようとしたわけではない。
たとえば、マインドコントロールと教育はどこで違うのか、それを説明することが難しい。
@fuitsuono 読みました。洗脳やマインドコントロールという概念を使うことに、宗教学者はずっと否定的でした。それから、創価学会はいろいろな角度から調査はしています中に飛び込むというのは、もうさすがにできません。また、目的を偽ってそうしたことをするのは倫理的にも問題でしょう。
— 島田裕巳@『日本の8大聖地』光文社知恵の森文庫 (@hiromishimada) 2012年2月27日
《すでに死は覚悟していた。31日、1回目の拷問を受けた。そのときだった。眉毛と睫毛を引き抜かれたのは。翌1日、2回目の拷問。「爪を引き剥がされた、両手と両足の爪を。そして日向(ひなた)にさらされた。その痛みは、おまえには想像できないだろう。だが、わたしは耐えた。わたしの口から嘆きの言葉は洩れ出なかった。」2日、3回目の拷問。「火をつけた蝋燭を何本も足に立てられた。気がつくと、わたしは椅子に縛りつけられていた。髪の毛は1本残らず灰色になってしまったが、ついに口を割らなかった。そしてそれも終った。」4日、運びこまれた部屋のなかにテーブルがあって、その上に寝かされ、首にコードを巻きつけられ、10分間電流を通された。そして6日まで、3日間、同じ拷問を繰り返され、夕方5時には、自分の感じたことを残らず書きとめたかと問われた。しかしわたしはまだ何も答えていない。ただ、自分がどういう最期を遂げねばならないのかだけを知りたい。そしてあの恐ろしい処刑を言い渡された。が、毅然とした態度を示そうとした。しかしあの恐ろしい監房にまたしても運びこまれたとき、わたしはひざまずいて、泣きだしてしまった。手のなかにはおまえの写真を握りしめていた。けれども溢れ出る涙と口づけでおまえの顔は見えなくなってしまった。いとしいアンナ、これだけは許してくれなければいけない。この非道な犯罪に強く耐えて、勇気を出してくれ。おまえの愛する者は背中から銃で撃たれるだろう。だが、神は土曜日だけでなく、毎日、償いをしてくださるだろう。しっかりするのだよ、アンナ、時は過ぎて二度と帰らない。そして死が近づいてくる》
【『イタリア抵抗運動の遺書 1943.9.8-1945.4.25』P・マルヴェッツィ、G・ピレッリ編:河島英昭、他訳(冨山房百科文庫、1983年)以下同】
さあ、ほんとうにもう、ペンをおかねばならない。両手は傷だらけで、血が流れているから。
別れの挨拶と口づけを。わたしのために祈っておくれ、わたしも天からおまえのために祈っている。
ここで断っておくが、収集の過程で出会った何百もの人びとのうち、拷問に(あまりの拷問に!)抗しきれずに口を割り、同志の名前を明かしてしまった者は、わずか3名しかいなかった。それにひきかえ、抗しきれずに口を割ることを恐れ、みずから命を絶った者は、少なくなかった。ただひとりだけ、少年が、命の助かる可能性を前にして、敵の隊列に加わることを求めた。それにひきかえ、恩赦をもちかけられながら、それが妥協や裏切りにつながらないにもかかわらず、それをはねつけ、進んで同志たちの運命にならい、最後まで不屈の抵抗を貫いた者の数は、少なくなかった。最後の瞬間の模様が正確に知られている多くの人びとのなかで、男女を問わず、ひるんだり、気を失ったり、嘆願をした者などは、ただのひとりもいなかった。ある者はみずからの死刑執行人たちを嘲(あざけ)り、ある者は彼我の悲劇的な争いの虚しさを超えて同じ人間としての連帯を呼びかけた。なかにはまた、みずから「撃て」と号令をかける者、あるいは銃殺班に向かって「この胸を撃て」と叫ぶ者、さらには最初の一斉射撃が的をはずすと、すかさず「しっかり撃て」と叫ぶ者もいた。そして多くの者が、大多数の者が、「イタリア万歳」と叫んで死んだ。(「編者ノート」ピエーロ・マルヴェッツィ、ジョヴァンニ・ピレッリ)
【『イタリア抵抗運動の遺書 1943.9.8-1945.4.25』P・マルヴェッツィ、G・ピレッリ編:河島英昭、他訳(冨山房百科文庫、1983年)】
「もし、“人間共和”がいつ実を結ぶのかと聞かれたら、われわれはこう答えればよいのです。たとえば、まずあそこにひとつ、ここにひとつ、あるいはあそこの国、ここの国といったように、世界が“人間共和”をつくりあげるような下地が出てくれば、従来の世界を支配してきた権力は、こんどは“人間共和”によって支配されるようになるだろう、と」
【『永遠の都』ホール・ケイン:新庄哲夫訳(潮文学ライブラリー、2000年/白木茂訳、潮出版社、1968年)原書は1901年作】
暴言吐く被災者は警察へ通報 東松島市長
宮城県東松島市の阿部秀保市長は20日、被災者から理不尽とも言える苦情が相次いでいるとした上で、震災1年を機に威圧的な言動については警察に通報するとの方針を明らかにした。
同市によると、一部の被災者が電話で長時間不満を述べ、酒に酔って市役所を訪れて「はたく(たたく)ぞ」などと職員に暴言を吐く人もいるという。
東松島市は警察に対応を相談する一方、威圧的な言動や不当要求行為があれば警察に通報することを決めた。会話の内容を録音することも検討している。
阿部市長は「職員は長時間の電話にも我慢して対応していた」と説明している。
【共同通信 2012-02-20】
アフリカ中部ウガンダの小村トゥマング(Tumangu)でパトリックくん(14)は、真昼のうだるような暑さのなか裸の体を丸めて横たわり、自宅前で遊ぶ弟や妹たちを見上げようとして、できずにいた。1分ほどかけてようやく顔を上げた、そのとたん、パトリックくんの頭は前方へと崩れ落ちるように倒れ、やせ細った体はひきつけを起こした。
ウガンダ北部で今、3000人以上の子供たちが謎の奇病、通称「うなずき病」に苦しんでいる。トゥマングでは、ほぼ全家庭にうなずき病の患者がいる。
衰弱していく子供たち、なすすべなく諦める人々
地元の人々によればこの数年で数百人の子供がうなずき病で死んだ。だが、病気の原因も、治療法もまだ見つかっていない。分かっているのは、発症するのは子供のみで、繰り返す発作、発育不良、手足の衰え、精神障害、飢えなどによってひどく衰弱していく病気だということだけだ。
パトリックくんも2年前に兄弟の1人をうなずき病で失っている。母親のルジーナさんは、もう1人のわが子の命が失われていくのを見守ることしかできない。「看病のため、必ず誰かが家にいなければなりません。あの子は病気のせいで、1人では食べることも水を飲むこともできないのです。恐ろしい病気です」
首都カンパラ(Kampala)から450キロ北にあるトゥマングで医療活動に取り組むボランティアのジョー・オットー(Joe Otto)さん(54)によると、人口約780人のこの村で現在、うなずき病を患っているのは97人。数キロ離れた保健センターに医薬品が届いたと聞けば、オットーさんは自転車をこいで受け取りにいく。だが、そうして入手した薬も効果は一時的でしかない。「カルバマゼピンなどの抗てんかん薬を処方していますが、この病気はてんかんではありません」
村人たちはもはや恐れを通り越し、諦めの境地に至っているという。「今では、亡くなった人は治ったのと同じだ、ついに病の苦痛から解放され安らかな眠りについたのだから、と話しています」とオットーさんは教えてくれた。
全力の原因究明、いまだ効果なく
伝染病学者や環境問題の専門家、神経学者、毒物学者、精神科医――幅広い分野の専門家たちが2010年以降、うなずき病の治療法を求めてさまざまな試験に取り組んでいる。原因についても、河川盲目症を引き起こす寄生虫や栄養不良から、数十年に及んだ内戦の後遺症まで、関連し得るあらゆる可能性が調査されている。
しかし「残念ながら、これという寄与因子もリスク要因も、まだ特定できていません」と、カンパラで疾病予防対策に取り組む世界保健機関(WHO)のMiriam Nanyunjaさんは話す。研究を進めれば進めるほど、答えに近づくどころか、むしろ謎が深まるばかりだという。
隣接する南スーダンやタンザニアでも類似の病気が流行しているが、ウガンダのうなずき病と関連があるのかは分からない。うなずき病がまだ拡大していくのか、それとも既にピークを迎えたのか、また、なぜ特定のコミュニティー内だけで発生するのか、いずれも定かではない。
地元議員らの要請を受けて、ウガンダ政府も動き出した。保健省は前月、うなずき病の原因特定と拡大阻止に向けた緊急時対応計画を策定した。
だが、原因や治療法が見つかるまでは、医師にできることは症状を緩和することだけだ。そしてパトリックくんには、どのような対策も手遅れかもしれない。それでも母親のルジーナさんは言う。「お医者さんたちが、治療法を見つけてくれると願っています。病気にかかってしまった子供たちの多くに、もう未来はありません。それでも、より幼い子供たちを救ってほしいです」
【AFP 2012-02-20】
イタリアの民衆はファシズムの試練に耐えた。その苦しみと、戦い抜いた喜びの上に、今日のイタリアの文化は築かれている。あまりにも重いこの歴史的事実への反省なしに、私たちはイタリアの文化を語ることができない。文学もまた文化の一環である以上、反ファシズム闘争への考察を抜きにしては、それを直接の基盤とする戦後イタリアの文学を、語ることができない。と同時に、イタリアの文学を検討する場合には、敢えて言うが、たとえばルネサンス文学の研究をするときにさえも、この視点をはずすわけにはいかない。ダンテを論ずるときにも、ペトラルカ研究を行なうさいにも、あるいはマンゾーニを紹介するときにも、この視点をはずして、私たちの文学的営為は一歩も前へ進めないだろう。
なぜならば、ファシズムの試練に耐えた今日のイタリアの文化が、絶えまなく、私たち自身の文化への反省を促すからであり、また他の文化への考察を進めれば進めるほど自国の文化への反省は深まってゆき、ある意味では外国の文化の研究ほど自国の文化の脆弱な基盤を明るみに引きだすものはないからである。その危うい緊張関係において、文学者もまたおのれの研究の基盤を築かねばならないのであり、虚ろな象牙の塔に籠って文化を説くことの滑稽さを、私たちは承知しているつもりだ。
しかしながら、いつまでも覚えておこうと決意する、永遠の瞬間が、たちまちに日常の雑事の波間に見失われていくように、私たちはとかく歴史的事実のあいだに埋めこまれた真実を忘れがちである。戦後三十数年を経て、日本におけるイタリア文化の研究や紹介も、乏しいながら種は播かれた、と言ってよいであろう。そしてその望ましい種を実らせるためにも、彼我の文化の土壌になるべき反ファシズム闘争の差異を、その貴重な経験の有無を、ここに改めて確認しておく必要がある。そのために、ささやかながら、私たちは本書を訳出した。しかも私たちの意図は、いわば外面から考察を加える、状況や運動の研究あるいは分析に対して、民衆の個々人の心のなかのありさまを内面から少しでも明らかにしたい、という点にある。文学もまた、その固有な方法によって、歴史における文化研究の一端を、担わねばならないであろう。
【『イタリア抵抗運動の遺書 1943.9.8-1945.4.25』P・マルヴェッツィ、G・ピレッリ編:河島英昭、他訳(冨山房百科文庫、1983年)「解題」河島英昭、以下同】
それは断じて抵抗ではなかった。ファシズムへの攻撃であった、と「序」のなかでE・E・アニョレッティは書いている。「いまは慣例に従って、イタリアにおける解放運動を〈レジスタンス〉と呼んでおこう。だが、それが抵抗ではなく、あくまでも攻撃であり、主体的な行動であり、理念上の革新であって、何ものかを【保持しようとする試みでなかった】ことだけは、決して忘れないようにしたい」(本書8ページ、傍点は引用者)。この言葉には、みずから立ちあがって戦い抜いた者たちの、自信が漲(みなぎ)っている。そしてその結果の上に、イタリアの民衆は戦後の新しい文化を築いた。政治的にはまず国民投票によって君主制が廃止され、共和制が確立されたのである。
それにしても、イタリアにおいて、なぜ反ファシズム闘争が可能であったのか? 本書の《手紙》の老若男女の書き手たちは、どのようにして個人の苦しみと歴史の苦しみによく耐えたのか? この疑問に対する答えは、掛け替えのないこれらの魂の記録の一篇一篇の行間に、いわば無限の深淵となって、垣間(かいま)見えるであろう。それらを覗(のぞ)きこむたびに、私たちは目の眩(くら)む思いがする。それはあたかもすぐれた詩に出会ったときの衝撃に似ている。一瞬後に、私たちは閉じたおのれの瞼(まぶた)の裏に、永遠の暗い輪を認めるであろう。死が永遠であるがゆえに、それは死から発せられた一つの答えだ。思うに、本書ほど死の影に満ちみちた記録は少ない。しかも個々の戦士は、みずからの意志で、死に立ち向かったのである。
1920年代から40年代にかけて、イタリアの民衆はファシズムから反ファシズムへと、激しい思想の変革を遂げた。もちろん、A・グラムシやP・ゴペッティのように、すぐれた思想家や知識人たちが果たした指導的役割の重要なことは、言うまでもない。しかし、それに劣らず重要なのは、民衆が彼ら自身の生活のなかで、結果的に思想の変革を果たしたという事実である。その変革は日々のなかでの、個々人の精神の軌跡が、そして彼らの共通の理想を支えた叙事詩的クリフが、本書のなかには読みとれるであろう。
最後に、不幸にしてイタリアの民衆と同じく、困難な状況下におかれた日本人にとって、昭和18(1943)年から昭和20(1945)年にかけて、抵抗運動が、ましてや解放闘争が、ほとんど存在しなかった事実を、確認しておかねばならない。この甚だしく不幸な時期にあって、いわば体制の犠牲者としての魂が、なかったわけではない(たとえば『きけわだつみのこえ』のように)。だが、私たちは苦しい共感をもってそれらの記録に接することがあっても、それらが〈レジスタンス〉の記録で【なかった】ことだけは忘れないでおきたい。なぜならば、彼らの銃口は――たとえば学徒動員された兵士のそれは――【別の方角】へ向けられていたのであるから。本書の手紙本文や略歴から容易に読みとれることだが、イタリア抵抗運動のパルチザン兵のなかには、正規軍からの脱走者が数多く含まれていた。銃口の向きを変えるためには、おのれの肉体の消滅を賭けて、思想の変革を果たさなければならない。