2014-02-27

憲法は慣習法/『消費税は民意を問うべし 自主課税なき処にデモクラシーなし』小室直樹


『新戦争論 “平和主義者”が戦争を起こす』小室直樹
『日本教の社会学』小室直樹、山本七平

 ・下位文化から下位規範が成立
 ・税金は国家と国民の最大のコミュニケーション
 ・イギリス革命は税制改革に端を発している
 ・憲法は慣習法

『税高くして民滅び、国亡ぶ』渡部昇一
『消費税減税ニッポン復活論』藤井聡、森井じゅん

 アメリカの例でも明らかであるが、また、ヒットラーも同じである。
 ヒットラーは4年(全権委任法で定められた期間)経っても、権力を国民に還(かえ)す積(つも)りなんか全然なかった。
 それどころか、独裁権力は、増々強力にされるばかりであった。
 それでも、ワイマール憲法が改正される事はなかった。
 より正確に言うと、改正の手続きが取られる事はなかった。
【形式上】、ワイーマール憲法は【生きていた】。
 しかも、【実質的】にはワイマール憲法は【死んだも同然】であった。
 こんな時、どう解釈する。
 ワイマール憲法は改正されたのか、未だ改正されてはいないのか。
 この場合、ワイマール憲法は改正された。
 こう解釈される。
【憲法学者は、全権委任法成立の時点を以って、ワイマール憲法は廃止された】。こう解釈する。
 1933年3月24日を以ってワイマール憲法は死んだ。
 そして、ヒットラーのドイツ第三帝国が生まれた。
 ワイマール憲法改正の為の手続きが取られようと取られまいと、そんな事は結局どうでもいい事なのである。
 憲法は、本質的には慣習法である。
【前例が慣習として確立されると、それは憲法の一部となる】。
 と言う事は、【憲法改正したも同じ事だ】。
 こう言う事なのである。
 この際、形式的に憲法改正の手続きが踏まれようと踏まれまいと、それは所詮どうでもいい事なのである。

【『消費税は民意を問うべし 自主課税なき処にデモクラシーなし』小室直樹(ビジネス社、2012年)以下同/カッパ・ビジネス、1989年『消費税の呪い 日本のデモクラシーが危ない』・天山文庫、1990年『悪魔の消費税』を改訂・改題】

 PKO(国際連合平和維持活動法案(1992年のPKO国会)がこの典型か。それまで平和と福祉を標榜してきた公明党が外交政策を転換して賛成に回った。後に自衛隊はインド洋イラクにも派遣される。

 また昨年暮れに自民党は自衛隊の海外武器携行制限を撤廃する方針を決めた。

 憲法とは国家権力に対する国民からの命令である。既に解釈改憲がまかり通っている以上、国家は民意に背いているといってよい。つまり憲法も民主主義も死んでしまったのだ。どおりで原発もなくならないわけだ。

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2014-02-25

イギリス革命は税制改革に端を発している/『消費税は民意を問うべし 自主課税なき処にデモクラシーなし』小室直樹


『新戦争論 “平和主義者”が戦争を起こす』小室直樹
『日本教の社会学』小室直樹、山本七平

 ・下位文化から下位規範が成立
 ・税金は国家と国民の最大のコミュニケーション
 ・イギリス革命は税制改革に端を発している
 ・憲法は慣習法

『税高くして民滅び、国亡ぶ』渡部昇一
『消費税減税ニッポン復活論』藤井聡、森井じゅん

 イギリスこそがデモクラシーの元祖開山である。
 日本人は、大概こう思っている。
 その【イギリス革命は税制改革に端を発している】。
 1649年の清教徒革命。イギリス諸革命の中でも最初にして最も根本的(ラディカル)と言われる【清教徒革命は、1634年の建艦税(シップ・マネー)に始まった】。(中略)
 チャールズ1世は、絶対君主たる王の命令に依って、中世封建的税制を改革しようとした訳であった。
 が、この税制改革には、待ったが掛かった。
 地主達の猛反対に遭遇(そうぐう)する羽目(はめ)になったのであった。
 ジョン・ハムプデンは、20シリングの建艦税を支払う事を拒絶した。ハムプデンは、「建艦税は、違法なり」として、裁判所に訴えたのであった。
 過半数の判事は、王によって任命され、王の影響下にあった。建艦税は合法である。「非常の際に於いては、王の大権は制限を受ける事がない」
 こう判決が下った。
【この判決に、清教徒達は抗議した】。王の圧政に抵抗したと、ジョン・ハムプデンは、一躍英雄になった。
 この建艦税騒動が、1649年における清教徒革命の発端(ほったん)となったのである。

【『消費税は民意を問うべし 自主課税なき処にデモクラシーなし』小室直樹(ビジネス社、2012年)以下同/カッパ・ビジネス、1989年『消費税の呪い 日本のデモクラシーが危ない』・天山文庫、1990年『悪魔の消費税』を改訂・改題】

 もちろん税はきっかけであって、それだけでピューリタン革命が成ったわけではない。社会の歪みが税という形に極まり、民の怒りが沸点に達したのだろう。そして新しい思想(宗教)が興(おこ)る。

 先代のジェームズ1世の迫害から逃れたピルグリム・ファーザーズの渡米が1920年だから、ほぼ同時と見てよい。

 圧政や苛政は必ず税となって民を苦しめる。そして民の忍耐が限界に達すると革命が起こる。ただし日本の場合は江戸時代が長すぎて、黒船(=外圧)を待つ傾向が強い。

【清教徒革命のテーマは、「国民の同意抜きの税制改革には応じられない」ここにあった】。(中略)
 この際の【イギリス国民の同意とは、議会の議決と言う事である】。

 議会の議決にはこれほどの重みがある。ジョン・ハムデンはたった20シリングの税を拒むことでピューリタン革命の端緒を開いた。この4月から消費税は5%から8%にアップする。我々は3月までに駆け込みで大きな買い物を済ませ、4月から倹約するだけでよいのだろうか? 消費税は低所得者になればなるほど痛税感が高まる。その「痛み」を私が許した覚えはない。一方では法人税引き下げの検討が活発化している。孔子は政治を行う上で最も大切なものを「民信無くば立たず」と示した(『論語』)。立たねば倒れるのみ。

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亡き父を思い…励ましに感謝 暴風雪遭難1年、北海道・湧別の岡田さん「楽しく学校生活」


【湧別】昨年3月の暴風雪で遭難し、父親が最期まで守ったオホーツク管内湧別町の岡田夏音(なつね)さん(10)が、事故から1年になるのを前に、自筆のメッセージを北海道新聞に寄せた。全国から寄せられた多くの激励に対する感謝と、父への思いがつづられている。

 夏音さんは昨年3月2日、2人暮らしだった父の幹男さん=当時(53)=と車で帰宅途中に暴風雪に見舞われ、視界のきかない中で遭難。翌朝、農業用倉庫の前で幹男さんが夏音さんにかぶさるように亡くなっているのが見つかった。

 直後から夏音さんのもとには全国から励ましのメールや手紙、贈り物が相次ぎ、これまでに約450件が町を通じて届けられた。

 メッセージは便箋3枚で、学校での様子や、身を寄せる親類とともに旭川市の旭山動物園に出かけたこと、今でも時々、父親を思い出すことなどをつづっている。最後に「たくさんの人からの応援を忘れず、人を想(おも)える大人になれるようがんばります」「もうだいじょうぶです。ほんとうにありがとうございました」と結んでいる。

 夏音さんは現在、漫画に熱中しているといい、スケッチブックにコンピューターゲームの怪獣を描いたり、「ごんぎつね」に触発されて自分で考えた物語を書いたりしている。同級生とスキーをしたり、学校の休み時間に友達とゲームをするのも楽しみという。

 親類の女性(64)は「ご恩を忘れることなく、成人した時に恩返しできる子に育ってもらえるようにしたい」と話し、「これからは静かに見守ってほしい」と願っている。

 岡田夏音さんが北海道新聞に寄せたメッセージの全文は以下の通り(原文のまま)。



 応援してくれた全国のみなさまへ。

 今わたしはとても元気です。毎日、30分位かかる雪道を、友達と二人で学校へ行き、勉強、スポーツと、毎日楽しく学校生活を送っています。学校では、友達とボードゲームをしたりします。

 今育ててもらっているおじさん、おばさんに温泉や旭山動物園に連れて行ってもらいました。動物園では、ペンギンのお散歩を見ました。

 昨年の3月、ふぶきでわたしはお父さんと2人、道にまよって気がついたら病院にいました。お父さんがふぶきの中、わたしを守って亡くなったと聞いて、とても悲しくなみだがポロポロ流れました。

 3月22日退院してから、たくさんの人達から、はげましのお手紙がたくさんとどき、おばさんに聞くと、わたしが一人ぼっちになってしまった事をかわいそうに思い、全国のみなさんが応援してくれているのではと言われ、とてもびっくりし、心からうれしく思いました。

 とてもやさしかったお父さんの事も夜ベッドに入ると、ときどき思い出します。わたしを思っていろいろと注意してくれたのに、わたしはあまえて、お父さんの言う事を何も聞かなかったので、お父さんの気持ちもわからないできた事を、「お父さん、ごめんなさい」と思い、なみだがでたりします。

 これからは、おじさん、おばさんの言う事をよく聞き、たくさんの人達からの応援がある事をわすれず、お父さんが遠くから安心して見守ってくれるよう、人を想える大人になれるようがんばります。

 全国のみなさま、わたしはもうだいじょうぶです。ほんとうにありがとうございました。 岡田夏音

北海道新聞 2014-02-20


北海道・暴風雪から娘を守るため10時間抱き続けた父の最期
暴風雪で娘・夏音(なつね)さんを守った父・岡田幹男さん!童謡サッちゃんの替え歌で励ましてくれた! - NAVER まとめ
暴風雪で父に守られた少女「前だけ見る」 | 日テレNEWS24

2014-02-24

税金は国家と国民の最大のコミュニケーション/『消費税は民意を問うべし 自主課税なき処にデモクラシーなし』小室直樹


『新戦争論 “平和主義者”が戦争を起こす』小室直樹
『日本教の社会学』小室直樹、山本七平

 ・下位文化から下位規範が成立
 ・税金は国家と国民の最大のコミュニケーション
 ・イギリス革命は税制改革に端を発している
 ・憲法は慣習法

『税高くして民滅び、国亡ぶ』渡部昇一
『消費税減税ニッポン復活論』藤井聡、森井じゅん

「消費税の呪(のろ)いに依(よ)って、日本資本主義は破綻(はたん)するだろう。デモクラシーも滅びるだろう」と小室は予告する。

 その理由は、第一に伝票(インヴォイス)方式を採用しなかったからである。
 伝票方式にすると、仕入れと販売のエッセンスは、丸(まる)でガラス張りになる。
 少なくともその重要な部分は見え見えになる。消費者にも税務署にもお金の流れがはっきりするから、税金を誤魔化(ごまか)す余地は非常に少なくなる。
 伝票方式の最大の良い処(ところは)、脱税がし難(にく)くなる事である。
 誰しも一番頭に来る事は、脱税のチャンスの不平等である。【クロヨン】(9-6-4)、【トーゴーサンピン】(10-5-3-1)と言う例のあれだ。
 サラリーマンや著述業などの所得が殆ど100パーセント透明ガラス張りなのに、中小企業は曇りガラス。農業等は雨戸張り。(中略)
 武田信玄は、租庸(そよう/税金)の取り方に付(ママ)いて言った。
【「租庸で大切な事は、重きにあらず軽きにあらず、公平にあり」】と。(中略)
 徴税(税金を取り立てる)の不公平となると、根本的に違ってくる。
 それは【不公平であるだけでなく、不正でもある】からである。
 特に、デモクラシー諸国に於いては致命的である。
【デモクラシー諸国に於いては、税金の遣(や)り取りこそ国と国民との最大のコミュニケーションである】からである。
【税金こそ、デモクラシーの血液】である。
 血液の循環に依って身体が保たれる様に、税金の循環に依ってデモクラシーは保たれる。
 血液の循環が詰まれば大変である。脳血栓(のうけっせん)、脳梗塞(のうこうそく)等の重病となる。町税が出来なくて税金の循環が詰まれば、デモクラシーは死に兼ねない。

【『消費税は民意を問うべし 自主課税なき処にデモクラシーなし』小室直樹(ビジネス社、2012年)/カッパ・ビジネス、1989年『消費税の呪い 日本のデモクラシーが危ない』・天山文庫、1990年『悪魔の消費税』を改訂・改題】

 資本主義は資本を所有する者が強者となる世界だ。で、強者は自分に都合のよい仕組みをつくりだす。経団連を見れば一目瞭然だ。多分インボイス方式を採用しなかったのは竹下登首相(当時)による政治的配慮だろう。

 一方で国民はものわかりがよい。「ま、国も赤字で困っているようだから仕方がない」と財布を開くたびに消費税を支払う。一片の疑問を抱くこともなく。

 トータルの税金で日本は既にスウェーデンを抜いている。

消費税率を上げても税収は増えない

 実に所得の55.4%が税という名目で奪われているのだ。にもかかわらず福祉大国ではない事実がおかしい。富の再分配が偏っていることは明らかだろう。人体に例えるなら、きっと心臓から上の方にしか血液が回っていない状態だ。足はとっくに壊死状態だ。

 よき国家であれば、国民は税を支払うことに誇りをもつことだろう。だが資本主義はそれを許さない。なぜなら企業の目的は利潤の最大化にあるからだ。

 巨大資本は多国籍企業となり、タックス・ヘイヴン経由で租税を回避する。アメリカもイギリスも国内にタックス・ヘイヴンが存在する。資本は税を嫌うのだ。

 そして今や、ショック・ドクトリンによって発展途上国の予算やIMFからの融資金を一部の多国籍企業が簒奪(さんだつ)する。資本主義とは不平等の異名である。人類の限界に至るまで差別を助長するに違いない。

 たとえ世界大戦が起こったところでこの仕組みが変わることはない。なぜなら実際の資本は既に眼に映らぬオンライン上に存在するからだ。銀行にある現金は預金の20%程度といわれる。

 この邪悪な資本主義金融体制を倒すためには、スーパーリッチと呼ばれる連中を死刑にするしかない。私に浮かぶアイディアはそれくらいだ。


力の強いもの、ずる賢いものが得をする税金/『税金を払わない奴ら なぜトヨタは税金を払っていなかったのか?』大村大次郎
マネーと言葉に限られたコミュニケーション/『お金の流れでわかる世界の歴史 富、経済、権力……はこう「動いた」』大村大次郎

2014-02-23

アインシュタイン、鴻上尚史、岩崎允胤、山竹伸二、他


 6冊挫折、1冊読了。

カミと神 アニミズム宇宙の旅』岩田慶治(講談社学術文庫、1989年)/民俗学的かつ文化人類学的なカミ学といってよいだろう。10年前なら読んだ。私の興味は既に進化宗教学という方向へ向かっているため志向が合わず。この分野が好きな人は安田喜憲と併読するのがいいだろう。

「認められたい」の正体 承認不安の時代』山竹伸二〈やまたけ・しんじ〉(講談社現代新書、2011年)/近頃「承認欲求」という言葉が目立つので開いてみた。胸が悪くなって直ぐ閉じた。一般的な人々は本当にこんな情況なのか? 承認なんざどうでもいいから、何か自分の好きなことをやるべきだ。他人の視線に合わせて生きる必要はない。

ヘレニズムの思想家』岩崎允胤〈いわさき・ちかつぐ〉(講談社学術文庫、2007年)/良書。力のこもったヘレニズム哲学の解説書。セネカを調べるために開いた。立派な教科書本。時間がある時に再読する予定。

知の百家言』中村雄二郎(講談社学術文庫、2012年)/原文を書き換えている時点でダメだと思う。著者は翻案のつもりか。我田引水が過ぎる。

孤独と不安のレッスン』鴻上尚史〈こうかみ・しょうじ〉(大和書房、2006年/だいわ文庫、2011年)/鴻上が数年前に書いた成人の日のエッセイが素晴らしかったので読んでみた。ちょっと文章の余白が大きすぎると思う。普段本を読まない若者向けに書かれたのだろう。高校生くらいに丁度よいと思う。

あなたの魅力を演出するちょっとしたヒント』(講談社、2000年/講談社文庫、2003年)/読み物としてはこちらの方が上だ。感情と声の演出は劇作家・演出家ならではの視線だろう。特に若い女性は外面よりも中身を磨くべきだ。自信のない者ほど飾り立てる傾向が強い。7~8年ほど前に鴻上とモノレール内で擦れ違ったがオーラのかけらもなかった。そこがまたいい。

 10冊目『アインシュタイン150の言葉』ジェリー・メイヤー、ジョン・P・ホームズ編(ディスカヴァー・トゥエンティワン、1997年)/薄っぺらい上に余白だらけという代物。ツイッターのbotでも読めるのだが、やはり原典に当たらずにはいられないのが本読みの悲しい性だ。翻訳モノだから致し方ないとは思うが、それにしても作りがデタラメだ。訳者もわからず。紹介されている言葉のソースも不明。文庫で300円が妥当な値段だ。ただし、アインシュタインの言葉は燦然と光を放って読者の脳を撹拌(かくはん)する。一読の価値はある。

下位文化から下位規範が成立/『消費税は民意を問うべし 自主課税なき処にデモクラシーなし』小室直樹


『新戦争論 “平和主義者”が戦争を起こす』小室直樹
『日本教の社会学』小室直樹、山本七平

 ・下位文化から下位規範が成立
 ・税金は国家と国民の最大のコミュニケーション
 ・イギリス革命は税制改革に端を発している
 ・憲法は慣習法

『税高くして民滅び、国亡ぶ』渡部昇一
『日本国民に告ぐ 誇りなき国家は滅亡する』小室直樹
『消費税減税ニッポン復活論』藤井聡、森井じゅん

 小室は消費税の簡易課税制度(※売上の20%を付加価値と見なし、これに消費税を課す。残りの80%は仕入れと原材料費と見なされる)が脱税の温床であると指摘する。それどころか「脱税制度そのもの」であると言い切る。

 そして企業間で脱税が日常茶飯の社会行動と化す時、事業計画の中で「重要な変数」として扱われる。脱税プログラミングが開発され、悪徳数学者と悪徳経済学者と悪徳弁護士らが跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)し、手を組んで、やがて日本経済を危機に陥れる。これが小室の懸念だ。

【定常的な犯罪集団が形成されると、そこに下位文化(サブ・カルチャー)が生まれる。】
 犯罪者集団独自の下位文化だ。この下位文化は、確(しっか)りと成員の行動を規定する(縛り付ける)。
 そして、各成員は、斯くの如く規定された行動をする事が当然だと思い込む様になる。それが正しいと思ってしまうのである。【ここが恐ろしい】。
 ぞっとしても足りない程である。
 社会にとっては紛(まぎ)れもなく犯罪に違いない事も、犯罪者集団は全く正しい事だと思い込む様になってしまうのである。
 と言う事は、どう言う事か。
 犯罪者集団の成員は、堂々と犯罪行為を行なうと言う事だ。堂々と、良心の呵責(かしゃく)なんか何もなく。
 社会全体の人々にとって、これより恐ろしい事は、またと考えられない。
 だって、そうだろう。
 普通、犯罪者と雖(いえど)も良心の呵責に苛(さいな)まれる。こんな事、心ならずも仕出かしてしまったが、本心ではやりたくはなかったんだ。
 これこそ、犯罪に対する最大・最強の歯止め、バラバラな犯罪者の行為が、それほど恐ろしくないと言うのも、右の理由に因(よ)る。が、犯罪者集団が、定常的に、存在するとなると、事情は根本的に変わってくる。この犯罪者集団の中に下位文化が発生する事になると、尚更(なおさら)の事だ。
 そうなると、下位規範(サブ・ノルム)が成立するであろう。詰(つ)まり、社会全体の規範(ノルム)とは全く違った規範が成立してしまうんのだ。これは大変である。
 社会全体が正しいと思った事でも、この犯罪者集団では正しくない。社会全体が許さないと言ったところで、この犯罪者集団でなら許される。
 犯罪者集団の構成員は、確信を以(も)って犯罪行為を遂行する。
 決して、オドオドしたりしない。後悔を感じたりはしないものなのである。
 確信を以って、所謂(いわゆる)「犯罪行為」を遂行する。オール確信犯と言って良い。

【『消費税は民意を問うべし 自主課税なき処にデモクラシーなし』小室直樹(ビジネス社、2012年)/カッパ・ビジネス、1989年『消費税の呪い 日本のデモクラシーが危ない』・天山文庫、1990年『悪魔の消費税』を改訂・改題】

 脱税が常態化した企業内部のメカニズム原理を見事に抽出している。小室の文体には独特の臭みとしつこさがあるが、何も考えずに慣れた方がよい。漢字表記についても同様だ。

 小室は学問の原理に忠実な人物であった。一切の妥協を許さなかった稀有な学者であった。弟子の一人である宮台真司は常々「天才」と絶賛している。あの宮台がである。

 このテキストが凄いのは、あらゆる閉鎖的集団の内部構造を説明しきっているところだ。例えば政治的談合、あるいは省益・庁益のために働く官僚、そしてコンプライアンスを無視して利益のみを追求する企業。はたまたブラック企業・健康食品のマルチ商法、更には宗教団体やテロリスト集団にまで適用可能だ。

 下位文化から下位規範が成立する。その規範とは「村の掟」だ。村人たちにとって「村の掟」は法律よりも重い。なぜなら彼らはそこに住み、生きてゆく他ないからだ。

 人間の脳は同調圧力に対して屈する傾向が強い。それを社会心理学的に証明したのがソロモン・アッシュの同調実験であった。

アッシュの同調実験/『服従の心理』スタンレー・ミルグラム

 ヒトの社会性は本能に同調を促し、集団生活に収まることで生き延びる確率を高めたのだろう。つまり「集団に属する」ことは「その集団に同調する」ことを意味すると考えてよい。

 我々は「皆がやっていることだから」という事実に基づいて自分自身をたやすく免罪する。営業マンを見れば一目瞭然だ。不自然なハイテンション、リスクに触れることのない説明、特定商取引法第16条を無視した営業トーク。あいつらは売れさえすればそれでいいのだ。自分のグラフを伸ばすためならどんなことでもやりかねない。

 規範というものはある行動を規制しながらも別の行動を強く促す。集団内のモラルは時に世間のインモラルと化す。しかも官僚や企業の場合、賃金という形で返ってくる。どうせ労働力を売るなら高い方がよい。しかも多少我慢すれば一生面倒を見てもらえる。

 結局のところ我々全員が損得で物事を判断しているのだろう。賃金の上昇を望む人は多いが、モラルの上昇を望む人を見たことがない。時折、正義感を発揮して内部告発をする勇者が登場すると、「馬鹿だよなー。おとなしくしていれば安全な人生を歩めたのに」などとテレビ越しに見つめる人も多い。

 ザル法が日本経済を破壊することを覚えておこう。この春から消費税が増税される。デフレ脱却前に増税を決定したのは致命的な判断ミスだ。ワーキングプアも放置されたままだ。また消費税と自殺者数には相関関係があることも忘れぬように(『消費税のカラクリ』斎藤貴男)。

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読書人階級を再生せよ/『人間の叡智』佐藤優

バスの運転手が昏睡状態に~少年がとった咄嗟の行動







※CPR=心肺蘇生法

怒りの終焉/『怒らないこと2 役立つ初期仏教法話11』アルボムッレ・スマナサーラ


『仏陀の真意』企志尚峰
『日常語訳 新編 スッタニパータ ブッダの〈智恵の言葉〉』今枝由郎訳
『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳
『スッタニパータ[釈尊のことば]全現代語訳』荒牧典俊、本庄良文、榎本文雄訳
『原訳「スッタ・ニパータ」蛇の章』アルボムッレ・スマナサーラ
『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ

 ・怒りの起源
 ・感覚は「苦」
 ・怒りの終焉

『心は病気 役立つ初期仏教法話2』アルボムッレ・スマナサーラ
『苦しみをなくすこと 役立つ初期仏教法話3』アルボムッレ・スマナサーラ
『ブッダの教え一日一話 今を生きる366の智慧』アルボムッレ・スマナサーラ

「幸福」「幸せ」「楽しみ」というのは妄想観念です。なぜかというと、「生きることは苦」ですから、「幸福」「楽しみ」は、本当は経験したことがないのです。
 われわれはお腹が空くと苦しいから「嫌だ」と思います。そのとき、おいしいものを食べることが幸福だと思って、食べ物に飛びつきます。あるいは、子どもたちは好きなマンガやゲームを買ったりできれば幸せだと思ったりします。大人になっても同じです。お金に幸せあり。名誉に幸せあり。なにかの記録をつくることに幸せあり。人気があること、有名になることに幸せあり。権力に幸せあり。からだを美しく見せることに幸せあり……限りなく挙げることができます。
 このような生き方を、ブッダは、「それは智慧のない世間が探し求める道である」と説きます。「これがあれば幸せ」というのは、ぜんぶ「嫌だ」という気持ちから出発しているのです。

【『怒らないこと2 役立つ初期仏教法話11』アルボムッレ・スマナサーラ(サンガ新書、2010年/だいわ文庫、2021年)以下同】

 さ、書けるうちにどんどん書いてしまおう。ツイッターにうつつを抜かしている場合ではないぞ(笑)。

 現代人は幸福病に冒されている。我々は不幸を実感しやすい環境にあるのだろう。そもそも幸福という言葉は明治期の翻訳語であると思われる。元々「幸せ」は「仕合わせ」と書き「巡り合わせ」を意味した。すると生命の次元においては苦楽が本質なのだろう。たぶん幸福を産んだのは大量生産だ。

「これがあれば幸せ」というのが前々回に書いた「気分が良くなる条件」である。人は特定の条件下で幸福感を覚える。つまり無条件に怒りを抱えているのだ。「幸せになりたい」との願望が現在の不幸を雄弁に語る。幸せを誓った男女が幸せになることも少ない。限りなく少ないな(笑)。ま、幸せをチラつかせるような相手は最初っから信用しないに限る。

「生きることは苦」であり、人は苦から別の苦へ乗り換えているだけ。一度も幸福になったことはありません。経験していない「幸福」をイメージすることはできません。ですから、勘違いの幸福を求めているのです。
「嫌だ」という怒りから、勝手に自分が「幸福」だと思っているものを求めます。その結果どうなるかというと、幸せになるどころか、逆に苦しみ増えるのです。
 本当なら、求めるものを獲得すれば幸せになるはずですが、世間の幸福を求め続けるなら、どんどん苦しみが増えてしまいます。

「苦から別の苦へ乗り換えているだけ」との指摘が鋭い。チビがノッポになり、ハゲ頭がフサフサになり、出っ歯が矯正され、ブスが美女(あるいはブ男がハンサム)になり、病気が治り、老婆(あるいはジジイ)が若返ることが我々の幸福だ(女性差別とならぬよう配慮をした)。だったら後者は元々幸福なはずだろう。しかしそうは問屋が卸さない。皆が皆、それぞれの幸福を追い求めながら不幸をひしひしと感じているのだ。

 苦しみが増えるとは幸福の条件が増えることだ。幼い頃はキャラメル一粒でも幸せになれた。大人の場合そうはいかない。自動車の運転免許が欲しい、自動車が欲しい、もっと大きな自動車が欲しいと際限なく欲望は肥大する。で、ベンツを買った翌日に誰かをひき殺してしまえば、もう何のための人生かわからない。

「このシステムはなんなのだ?」と、とことん現象のあり方を観察してみると、瞬間、瞬間、ものごとが消えていることに気づくのです。滝のように、泡のようにはじけてはじけて、次々に新しい現象が生まれている。「なんだ、そんなものか」とわかるのです。「それならしがみついたって価値がないだろう」と諦めて、無執着の心が生まれるのです。それを仏教は「覚(さと)り」と呼びます。「覚り」にいたる道こそが、聖なる道なのです。「覚り」に至ることで、一切の苦しみがなくなるのです。それが運命的な怒りの終焉でもあります。

 これが諸行無常であり、である。そして諸法無我と悟れば涅槃寂静となる。怒りから希望へ向かう時、欲望が生じる。三悪趣(地獄、餓鬼、畜生)に三毒を対応すれば、瞋(いか)り→地獄、貪り→餓鬼、癡(おろ)か→畜生である。不幸の構図としてこれにまさる生命の実相はあるまい。

 日蓮は「当(まさ)に知るべし、瞋恚(しんに)は善悪に通ずる者也」(『諌暁八幡抄』)と説いた。日本の中世における個人意識の芽生えと受け止めることも可能だが、私はここに日蓮の限界があったと思う。似たようなことは三木清も言っている(『人生論ノート』)。日蓮が比叡山(延暦寺)で学んだのは天台ルールであった。折伏(しゃくぶく)という言論活動はディベートの様相を呈しており、日蓮は火を吐くように言葉を放った。彼は怒れる人であった。そこに弟子たちが分断・分裂を繰り返す要因があったのだろう。日蓮系教団がいつの時代も混乱に陥るのは日蓮の怒りに由来していると思われる。

 怒りは暴力への扉でもある。大虐殺も小さな怒りから始まる。怒りを正当化する思想を恐れ、忌避せよ。正義の名の下で人類が残虐の限りを尽くしてきた歴史を忘れてはなるまい。

2014-02-22

ナオミ・クライン


 1冊読了。

 9冊目『ショック・ドクトリン 惨事便乗型資本主義の正体を暴く(下)』ナオミ・クライン:幾島幸子〈いくしま・さちこ〉、村上由見子訳(岩波書店、2011年)/グローバリゼーションという現代史の闇に戦慄した。ミルトン・フリードマン率いるシカゴ学派が世界各地で惨事に便乗して経済的白紙状態を創造する。ブッシュ大統領が叫んだ自由と民主化は規制撤廃と民営化を意味した。そしてグローバル企業が行うのは「エコノミック・レイプ」に他ならない。彼らは惨事に便乗した挙げ句に更なる惨事を拡大再生産するのだ。それにしても凄まじい限りだ。米国内においても極端な民営化を進めるあまり国家が空洞化しているという。最終章で南米各国の希望的前進が描かれているが、やはり犠牲が大きすぎる。日本にもTPP加盟でショック・ドクトリンが処方されることだろう。それを防ぐためにはゆうちょ銀行・郵便局や水道事業などの民営化を阻止する必要がある。中道左派による社会民主制が望ましいが該当する政党が日本には存在しない。社共を含めた政界再編が求められる。本書を読まずして現代史に目を開くことはできない。

感覚は「苦」/『怒らないこと2 役立つ初期仏教法話11』アルボムッレ・スマナサーラ


『仏陀の真意』企志尚峰
『日常語訳 新編 スッタニパータ ブッダの〈智恵の言葉〉』今枝由郎訳
『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳
『スッタニパータ[釈尊のことば]全現代語訳』荒牧典俊、本庄良文、榎本文雄訳
『原訳「スッタ・ニパータ」蛇の章』アルボムッレ・スマナサーラ
『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ

 ・怒りの起源
 ・感覚は「苦」
 ・怒りの終焉

『心は病気 役立つ初期仏教法話2』アルボムッレ・スマナサーラ
『苦しみをなくすこと 役立つ初期仏教法話3』アルボムッレ・スマナサーラ
『ブッダの教え一日一話 今を生きる366の智慧』アルボムッレ・スマナサーラ

 立っていても苦痛です。座っていても苦痛です。ちょっと走るのも、走り続ければ苦痛になります。「今日は疲れたから」といって寝たとしても、寝過ぎればやはり苦痛です。
 食事も同じです。ちょっとお腹が空いたら、「空腹」という苦痛を感じます。だからといってごはんを食べ過ぎるとこれまたお腹がいっぱいで苦痛です。
 ですからはっきりしています。感覚は「苦」なのです。

 生きることは「感覚があること」、そしてその感覚は「苦」なのです。そして、この「苦」が消える瞬間はありません。ただ変化するだけです。
 たとえば、1時間ぐらい座っていると腰が痛くなってしまいます。そこで立ったら、立った瞬間は「ああ、楽になった」と思うかもしれませんが、実際に起こっていることというのは「座っている苦」から「立っている苦」への変化です。一瞬、それまでの「座っている苦」が消えますから、幸福に感じるかもしれませんが、それは勘違いです。ただ、新しい「苦」に乗り換えただけのことです。
 私達は瞬間、瞬間に、「苦」という感覚を味わっているのです。

 私たちは、いつも「苦」のなかにいます。しかし、ふだんは「苦」を感じていることに気づいていません。「とても苦しい」という感覚が起こって、はじめて苦痛を感じるのです。たとえば、お腹が空いても、ほんのちょっとの空腹だったら気にしないでしょう? ずっと放っておいて今にも倒れそうだったり、飢え死にするかもしれない状態になったりすれば、かなりの苦痛を感じます。
 それは、私たちに訪れる絶え間ない「苦」は、ある程度、大きくならないと気にならないというだけのはなしです。「苦」のレベルを表示するメーターがあって、そこに苦を認識する赤い水準線が付いているようなものです。絶え間ない「苦」がある程度大きくなって、赤いラインより上に振れたときにはじめて気にする、それまでは気にしないというはなしなのです。実際は「苦」のメーターがゼロになることはありません。

【『怒らないこと2 役立つ初期仏教法話11』アルボムッレ・スマナサーラ(サンガ新書、2010年/だいわ文庫、2021年)以下同】

 多少を問わず仏教の知識がある人ならスマナサーラの卓越した説明能力がわかることだろう。しかも一読すればその説明能力が才覚ではなく、初期仏教(=上座部)の教えから導かれたものであることが理解できる。テーラワーダ仏教シャム派)は和製仏教(平安仏教および鎌倉仏教でありその実体は密教)を揺るがす破壊力を秘めている。


 八正道(はっしょうどう)よりも四諦(したい)の重要性を示したのは馬場紀寿〈ばば・のりひさ〉(『上座部仏教の思想形成 ブッダからブッダゴーサへ』春秋社、2008年)だ。

・苦諦(くたい):この世界は苦しみに満ちていると明らかにする
・集諦(じったい):苦の原因がなんであるかを明らかにする
・滅諦(めったい):苦の原因を滅すれば苦も滅することを明らかにする
・道諦(どうたい):苦の滅を実現する道を明らかにする

Wikipedia

 三車火宅の譬えで知られる法華七譬(ほっけしちひ)も元来は苦諦を示すものであったと推察される。だが大衆部(だいしゅぶ)は自らを「大きな乗り物」(=大乗)と位置づけるために「希望」を語って(=騙〈かた〉って)しまった。希望というプロパガンダは悟り(=自由)から離れて幸福を目指す。仏道修行は幸福実現のための手段と化した。これが和製仏教の実態であろう。

 仏法は個人(自分)の苦と向き合うところに基本がある。にもかかわらず大衆部は菩薩道などと称して布教を励行した。悟りから離れた人物の騙る希望が誤ったコースに導くことは避けようがない。

 生の本質は「苦に対する反動」である。何と重い指摘か。我々は「生きたい」から生きているのではなくして、「苦しみたくない」から生きているだけなのだ。何だか急に人生がつまらないものに思えてきた(笑)。

 生きるという仕事は、あらゆることすべてが「苦」と「苦は嫌」という働きで成り立っているのです。
 つねに無常で変化し続ける「苦」という感覚があり、その「苦」の感覚が嫌で、「変えなくちゃいけない」という希望があります。その二つの働きが「生きること」になるのです。
 もし、「苦は楽しい」と思ったら、死んでしまいます。ですから、「苦は嫌だ」と思わないと生きていられません。この「嫌だ」という反応が「怒り」です。これがいちばん基本的な怒りのポイントです。
 つまり、「怒りをもたずに生きることはできない」のです。人は、生命は、本来的にずーっと「怒り」をもち続けているのです。生きるとは、そのように基本的に怒ってしまう構造にはめられていることなのです。

「生きることは反応すること」というのが私の持論ではあるが、それが「怒り」に基いている事実にまでは思い至らなかった。生きとし生けるものは皆苦痛を回避する。釣り針を呑み込んだ魚みたいなものだ。そして溺れる者は藁をも掴み、財布の紐を緩め、高価な壷を買ってしまう。他人の苦に付け込むのがあいつらの手口だ。

 人生は思い通りには運ばない。肚(はら)の底に諸行無常を叩き込む。そうすれば上手くゆかなかったとしても「当然のこと」として受容できる。願ったりかなったりとなっても「単なる偶然に過ぎない」と達観することだろう。

 西洋では仏法が人生に消極的な態度を勧めるニヒリズムの教えと長らく誤解されてきた。最大の犯人はショウペンハウアー(1788-1860年)だ。

神智学協会というコネクター/『仏教と西洋の出会い』フレデリック・ルノワール

 キリスト教を始めとするアブラハムの宗教が天にまします神が軽やかに劇的に言葉を操るのに対し、仏法は生の水底(みなぞこ)に沈潜する。その積極性を見よ。深海のごとき生命の深層にブッダは座る。怒りの波に翻弄される人生を拒むのであれば、我々も海に潜らなければならない。

2014-02-21

怒りの起源/『怒らないこと2 役立つ初期仏教法話11』アルボムッレ・スマナサーラ


『仏陀の真意』企志尚峰
『日常語訳 新編 スッタニパータ ブッダの〈智恵の言葉〉』今枝由郎訳
『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳
『スッタニパータ[釈尊のことば]全現代語訳』荒牧典俊、本庄良文、榎本文雄訳
『原訳「スッタ・ニパータ」蛇の章』アルボムッレ・スマナサーラ
『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ

 ・怒りの起源
 ・感覚は「苦」
 ・怒りの終焉

『心は病気 役立つ初期仏教法話2』アルボムッレ・スマナサーラ
『苦しみをなくすこと 役立つ初期仏教法話3』アルボムッレ・スマナサーラ
『ブッダの教え一日一話 今を生きる366の智慧』アルボムッレ・スマナサーラ

 生命にはかならず怒りがあります。残念ながら例外はありません。なかなか納得できないことだと思います。なぜ生命は怒ってしまうのか、そのしくみをご説明したいと思います。いってみれば「怒りの起源」です。怒りが起こるには、明確な発生原因があります。それは「無常」ということです。ブッダのもっとも根本的な発見が無常です。そして、その無常こそが怒りの原因なのです。
 皆さんも無常という言葉をご存じだと思います。日本人は情緒的、感傷的にとらえているのですが、無常の本当の定義は「ものごとは瞬間、瞬間で変化し、生滅していく」ということです。自分も世界も、けっして一瞬たりとも同じではありません。無常とは、一切のものごとの真理です。私であろうが、他人であろうが、環境であろうが、世界であろうが、宇宙であろうが、すべて無常です。つまり、変わり続けているのです。そしてこの「変わり続けている」ということが、怒りを生む原因なのです。一切のものごとは無常であり、「無常が怒りの起源」だとすると、一切が怒りに通じているように聞こえるかもしれません。しかしその通りなのです。はっきりいってしまえば、実は、生命は基本的に怒りの衝動で生きています。
 怒りの衝動で生きるということは、悪いとか良いとかいえることではなく、われわれの生命はそういう構成になっているのです。

【『怒らないこと2 役立つ初期仏教法話11』アルボムッレ・スマナサーラ(サンガ新書、2010年/だいわ文庫、2021年)】

 怒りと逆の状態を考えればわかりやすいとスマナサーラは続ける。例として「気分が良い」場合を挙げる。色々な場面が想定できるわけだが、結局のところ「なにかの条件によって気分が良くなっている」。だがその状態は長く続かない。なぜなら人生も世界も無常であるからだ。更にもう一つの例として「希望」を挙げる。人は誰もが未来に向かって何らかの希望を抱いている。しかし希望通りに人生が進むことはない。無常は生老病死・成住壊空(じょうじゅうえくう)のリズムを奏で肉体は必ず衰えてゆく。

 スマナサーラは実にやさしい言葉で仏法の深淵を巧みに説く。私は30年近く仏教を学んできたが、怒りの起源が無常にあるという指摘は初耳だ。驚くべき卓見である。

 これは死を思えばもっとわかりやすい。例えば夭折(ようせつ)、事故死、自殺など不慮の死に遭遇した時、我々が覚えるのは怒りであろう。それが神の定めた運命であろうと過去世の宿命であろうと変わらない。理不尽・不条理に対する怒りがムラムラと沸き起こる。

 自分の死を想像してみよう。静かに安祥として息を引き取るわけにはいかない。絶対に。まだやり残したことがいっぱいある。その時になって初めて人生で得たものの貧しさに気づくかもしれない。死ぬ瞬間に怒りのマグマが噴出することだろう。目の前に神が現れたら迷うことなく石打ち刑にするよ。俺は。

 文明の発達や資本主義経済が怒りに拍車をかける。便利さや豊かさは恩恵に与(あずか)れぬ者たちに不幸の影を落とす。不幸とは怒りの異名だ。我々は満たされないから怒るのだ。

 無常を受け入れることは難しい。これにまさる困難はないといってよい。ありとあらゆる不測の事態、人生の荒波、逆境、リスクを引き受ける覚悟が求められるためだ。そこまで考えてやっと気づくのだが、我々は「自分の死」を受け入れていない。先にあることはわかっているのだが、絶対に見つめようとしないし、思ったり、考えたりもしない。だから日常の中で怒りに翻弄されるのだろう。

 怒りの感情が毒であり、戦争の原因であり、人々を不幸にする元凶であることを自覚しながら怒りから離れる。欲望よりも怒りから離れることの方が重要だ。徐々にとか少しずつではダメだ。「今日から怒らない」と決めた者が勝つ。

2014-02-20

正しい怒りなど存在しない/『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ


『仏陀の真意』企志尚峰
『日常語訳 新編 スッタニパータ ブッダの〈智恵の言葉〉』今枝由郎訳
『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳
『スッタニパータ[釈尊のことば]全現代語訳』荒牧典俊、本庄良文、榎本文雄訳
『原訳「スッタ・ニパータ」蛇の章』アルボムッレ・スマナサーラ

 ・「怒り」が生まれると「喜び」を失う
 ・「私は正しい」と思うから怒る
 ・正しい怒りなど存在しない

『怒らないこと2 役立つ初期仏教法話11』アルボムッレ・スマナサーラ
『心は病気 役立つ初期仏教法話2』アルボムッレ・スマナサーラ
『苦しみをなくすこと 役立つ初期仏教法話3』アルボムッレ・スマナサーラ
『ブッダの教え一日一話 今を生きる366の智慧』アルボムッレ・スマナサーラ

 正義の味方になるためには悪人を倒さなければなりませんね。では、人を倒したり殺したりするために必要なのは何かというと、「怒り」なのです。
 ということは「正義の味方」という仮面の下で、我々は「怒り」を正当化していることになります。正義の味方は「悪人を倒してやろう」などと、わざわざ敵を探して歩きまわるのですから、よからぬ感情でいっぱいというわけです。
 正義の味方までいかなくても、そういう「何かと戦おう」という感情が強い人は、すごくストレスが溜まっていて、いろいろな問題を起こします。(中略)
「悪に向かって闘おう」「正義の味方になろう」というのは仏教の考え方ではありません。「正しい怒り」など仏教では成り立ちません。どんな怒りでも、正当化することはできません。我々はよく「怒るのは当たり前だ」などと言いますが、まったく当たり前ではないのです。

【『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ(サンガ新書、2006年)以下同】

 私憤は否定しても公憤を肯定する人は多い。そこに落とし穴がある。そもそも私憤と公憤の間(あわい)は人によって異なり、グラデーションを描いている。ともすれば私憤を公憤に見せかける人もいる。「皆が困っている」と言いながら実は自分が一番困っていたりする。

 私は幼い頃から困っている人を見ると放っておけない。親切といえば聞こえはいいが、困らせている人物に対する怒りがとてつもなく激しい。中年期を過ぎてからは殺意にも似た感情が芽生えるようになってきた。怒鳴って引き下がるような相手ならいいのだが、それでもダメとなればいつでも実力行使をする準備ができているのだ。「感情には『どんどん強くなる性質』がある」とも書かれているが本当にその通りだ。私はゴミをポイ捨てする人を見ただけで「ぶっ殺してやろうかな」と思う。しかも本気で。

 怒りを甘くみてはいけません。怒りが生まれた瞬間に、からだには猛毒が入ってしまうのです。たとえわずかでも、怒るのはからだに良くないとしっかり覚えておいてください。怒りはまず自分を燃やしてしまいます。本当に自分のからだが病気になってしまうのです。
 陽気で、もう底抜けに明るいような人が深刻な病気になったという話はほとんど聞きません。そういう人はたとえ病気になっても、お医者さんとすぐに友だちになったりして治療効果も上がるので、治りが早いのです。入院したのが明るい人だったら、看護師さんたちも楽しくなって親切に面倒を見てくれるし、みんなが治るようにと願ってくれますからね。

 本書でも引かれているが「怒りが猛毒である」というのはスッタニパータ冒頭の指摘である。

蛇の毒/『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳

 つまり正当化された怒りとは毒に酔っている状態なのだ。魯迅は「水に落ちた犬は叩け」(「『フェアプレイ』はまだ早い」)と言った。婦女子だけは生かしておいて、男であれば幼児でも殺してしまう発想と一緒だ。林檎堂との論争でさすがの魯迅も筆の勢いが余ったか。

 相手を滅ぼそうとする怒りが実は自分を滅ぼす。仏法では迷い(≒不幸)の根本的な原因は三毒にあると説く。その筆頭が瞋恚(しんに/=怒り)だ。瞋恚は地獄の門を開く。地とは最低を表し、獄には束縛の意がある。すなわち地獄とは外部環境ではなく自分の生命が最低の境涯にあることを示す。

 怒りには明るさが伴わない。明るさとは智慧の異名だ。老子曰く「人を知る者は智なり、自ら知る者は明なり。人に勝つ者は力有り、自ら勝つ者は強し。足るを知る者は富み、強めて行なう者は志を有す」と。

 スマナサーラは具体的なアドバイスを欠かさない。

 けれどよく考えてください。ただ「お茶を入れなさい」と言われただけなのに、悩んだり苦しんだり、怒って自分の健康まで害したりするなんて、本当にバカげたことですよ。
「お茶を入れて」と言われたら、お茶を入れればいいのです。べつにどうということもありません。会社に行ったらどうせ終業時間まで会社に縛られているのですから、お茶を入れようが、便所の掃除をしようが、すべては給料のうちなのです。仕事をする時間は決まっていますし、その時間にできることも決まっています。ですから、「私にお茶を入れさせるなんて」などと考えずに、自然の流れの中で、できることをやればいいのです。

 確かにそうだ。怒りは合理性を見失わせる。怒りとは狂気なのだ。そして自分を傷つける凶器でもある。

 不殺生戒とは怒りの否定なのだろう。怒りっぽい仏など存在しない。本物の強さは穏やかな表情をしている。


天才博徒の悟り/『無境界の人』森巣博

女性パンクバンドを鞭打つコサック兵(ソチ)




プッシー・ライオット
プッシー・ライオットをソチで拘束:Bloomberg

2014-02-19

目撃された人々 54






「私」とは属性なのか?~空の思想と唯名論/『空の思想史 原始仏教から日本近代へ』立川武蔵

2014-02-18

「私は正しい」と思うから怒る/『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ


『仏陀の真意』企志尚峰
『日常語訳 新編 スッタニパータ ブッダの〈智恵の言葉〉』今枝由郎訳
『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳
『スッタニパータ[釈尊のことば]全現代語訳』荒牧典俊、本庄良文、榎本文雄訳
『原訳「スッタ・ニパータ」蛇の章』アルボムッレ・スマナサーラ

 ・「怒り」が生まれると「喜び」を失う
 ・「私は正しい」と思うから怒る
 ・正しい怒りなど存在しない

『怒らないこと2 役立つ初期仏教法話11』アルボムッレ・スマナサーラ
『心は病気 役立つ初期仏教法話2』アルボムッレ・スマナサーラ
『苦しみをなくすこと 役立つ初期仏教法話3』アルボムッレ・スマナサーラ
『ブッダの教え一日一話 今を生きる366の智慧』アルボムッレ・スマナサーラ

 怒らないほうがよいとわかっているのに、我々はなぜ怒るのでしょう。
 いつでも、我々には「こういうことで怒ったのです」という理由があります。その理由をひとつひとつ分析してみると、「自分の好き勝手にいろいろなことを判断して怒っている」というしくみがあります。
 人間というのは、いつでも「私は正しい。相手は間違っている」と思っています。それで怒るのです。「相手が正しい」と思ったら、怒ることはありません。それを覚えておいてください。「私は完全に正しい。完全だ。完璧だ。相手の方が悪いんだ」と思うから怒るのです。
 他人に怒る場合は「私が正しくて相手方が間違っている」という立場で怒りますが、自分に怒る場合はどうでしょうか。
 そのときも同じです。
 何か仕事をしようとするのだがうまくいかないという場合、すごく自分に怒ってしまうのです。
 たとえば「自分がガンになった」と聞いたら、自分に対して「なぜ私がガンになったのか」とずいぶん怒るのです。「なぜこの仕事はうまくいかないのか」「どうして今日の料理は失敗したのか」とか、そういうふうに自分を責めて、自分に怒る場合もあります。「私は完璧なのに、なぜ料理をしくじったのか。ああ嫌だ」「私は完璧に仕事ができるはずなのに、どうして今回はうまくいかないのか」と怒ります。

【『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ(サンガ新書、2006年)】

 この前に絶妙な例えで「怒りという感情が生じるプロセス」を教えている。美しいバラを見て「きれいだ」(愛情)と思う。再び目をやるとそこにゴキブリがいる。「ああ、嫌だ。気持悪い」(怒り)との感情が芽生える。これらの感情は誰のせいにすればよいのか、と。

 感情とはある対象への反応にすぎない。喜びも怒りも自分の内側から湧いたもので、バラが喜ばせてくれたわけでもなければ、ゴキブリが怒らせたわけでもない。ひょっとすると感情は妄想の可能性さえある。いや妄想なのだ。我々は自分勝手に周囲の世界を低いレベルで創造するから互いを理解し合うことができないのだろう。

 怒りの元(原因)は自分の中にある。何らかのきっかけ(条件/縁)によって、怒りという現象(結果)が生じ、自分と周囲に影響を及ぼす(報い)。これを因縁果報という。

 例えば韓国を憎むようになった「きっかけはフジテレビ」という人もいる。確かに。ま、一理ある。と私が思うのはフジテレビに対して同じ感情を抱いて、その物語に乗っかっているためだ。自分の憎悪や怒りそのものを正面から見つめることは決してない。

 とすれば、より多くの人々に共有される感情を煽り、皆が求める妄想を示すところに政治家、宗教家、芸術家、音楽家の役割があるのだろう。感情の手配師。

 またスマナサーラはバラの例えで「受け入れること」(愛情)と「拒絶すること」(怒り)と示す。自我の形成や社会における自己存在性もこうした条件に大きく左右される。

 ああ、わかった! 今書きながら悟った。「感情は比較から生まれる」のだ。

比較が分断を生む/『学校への手紙』J・クリシュナムルティ
比較があるところには必ず恐怖がある/『恐怖なしに生きる』J・クリシュナムルティ

 泥棒にとっては盗むことが正しいのだ。吟味されない正義が何と多いことか。

「怒り」が生まれると「喜び」を失う/『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ


『仏陀の真意』企志尚峰
『日常語訳 新編 スッタニパータ ブッダの〈智恵の言葉〉』今枝由郎訳
『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳
『スッタニパータ[釈尊のことば]全現代語訳』荒牧典俊、本庄良文、榎本文雄訳
『原訳「スッタ・ニパータ」蛇の章』アルボムッレ・スマナサーラ

 ・「怒り」が生まれると「喜び」を失う
 ・「私は正しい」と思うから怒る
 ・正しい怒りなど存在しない

『怒らないこと2 役立つ初期仏教法話11』アルボムッレ・スマナサーラ
『心は病気 役立つ初期仏教法話2』アルボムッレ・スマナサーラ
『苦しみをなくすこと 役立つ初期仏教法話3』アルボムッレ・スマナサーラ
『ブッダの教え一日一話 今を生きる366の智慧』アルボムッレ・スマナサーラ

 怒りというのは愛情と同じく、心にサッと現れてくるひとつの感情です。
 私達は自分の家族を見たり、自分の好きな人を見たりすると、心の中にすぐ愛情という感情が生まれます。何かを食べる場合、おいしい食べものを見たときも口に入ったときも、楽しい感情が生まれてきます。それは瞬時に起こるのです。怒りは、愛情と同じように人間の心に一瞬にして芽生える感情です。
 大雑把にいうと、我々人間はこの2種類の感情によって生きていると言えます。ひとつは愛情で、もうひとつが怒りの感情です。

 怒りを意味するパーリ語(お釈迦さまの言葉を忠実に伝える古代インド語)はたくさんありますが、一般的なのは《ドーサ》です。この《ドーサ》という言葉の意味は「穢れる」「濁る」ということで、いわゆる「暗い」ということです。
 心に、その《ドーサ》とうい、穢れたような、濁ったような感情が生まれたら、確実に我々はあるものを失います。それは、《ピーティ》と言って、「喜ぶ」という意味の感情です。我々の心に怒りの感情が生まれると同時に、心から喜びが消えてしまうのです。

【『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ(サンガ新書、2006年)】

 パーリ語は省略しカタカナを二重山括弧でくくった。

私のダメな読書法」で紹介した通り、気に入ったテキストを見つけると片っ端からデジカメで撮影し、SkyDriveに保存するというのが私のやり方だ。付箋を挟んだままにしておくと本が傷んでしまう。時に半分以上のページに付箋をつけることもあるため本の形が実際に変形したこともある。デジカメのカウンターを何気なく見たところ、既に2万枚を軽く超えていた。Windows8に買い換えたところ、なんと最初からSkyDriveが内蔵されていた。以前より格段に作業効率もアップ。ノートパソコンの15.6インチでも画面を2分割できるので頗(すこぶ)る重宝している。

 ただし問題が一つだけある。ウェブ上からログインできなくなってしまった。で、アップロードしたフォルダの更新日がなぜか全部一緒になっているのだ。タイトルをつけたフォルダーはあいうえお順で表示される。今のところ私に解決策はない。ってなわけでこれまでは読了順に紹介してきたわけだが、今後はランダムに展開してゆく予定である。

 スマナサーラの言葉は極めてやさしい。たぶん中学生でも理解できるだろう。ただしそこでわかったような気になるのが凡夫(ぼんぷ)の浅はかなところだ。人間の残酷さはすべて怒りから生まれる。怒りこそ暴力の温床だ。ゆえに我々の暴力的な現実世界を変革するためには、怒りのメカニズムを知り、勇気を出して怒りを捨て、怒りから離れることが重要なのだ。

 本書は微に入り細を穿(うが)つようにして怒りの様相を示す。短気な私にとっては耳が痛い話ばかりだ。「私が怒るのは怒るだけの理由があり、その理由は絶対に正しい」と誰もが思い込んでいる。これが国民の総意となるところに戦争が生まれる。日本では反中国・半韓国感情が昂(たかぶ)りつつある。中国や韓国の首脳が国際舞台で扇情的な日本叩きを続ければ、日本国民の間で静かに開戦への気運が高まることだろう。

 バブル景気が弾け、失われた20年の間にソフトな暴力が社会を雲のように覆った。貧富の格差、セクシャルハラスメント、パワーハラスメント、児童虐待、いじめ問題、銀行による貸し渋り・貸し剥がし、振り込め詐欺、検察の国策捜査、メディアリンチ、就職時の圧迫面接、増税……。鬱屈した思いや鬱積した感情がはけ口を求めている。そして慢性的な疲労が人々の判断力を誤らせる。

 暴力行為は必ず弱い者に向かう。これが暴力の法則だ。喧嘩っ早い私だって、相手が本物のやくざ者やプロレスラーであれば必ず下手(したて)に出る。日本は韓国や中国と戦争をする可能性はあるがアメリカとは絶対にやらない。

「怒り」が生まれると「喜び」を失う。ということは怒りこそが不幸の最たる原因と考えてよかろう。怒っている人と喜んでいる人とが喧嘩になることはない。「自分は大したものだ」との錯覚から怒りは生まれる。「自分なんて何者でもない」と自覚すれば諸法無我だ。怒りの恐ろしさはエゴを強化するところにある。そして強化されたエゴはどこまでも肥大化し、怒りの波に翻弄されてゆくことだろう。西洋の神を見よ。あいつは怒ってばかりいたよ。

聖書の中で、人を一番殺してるのは誰なの?


怨みと怒り/『日常語訳 ダンマパダ ブッダの〈真理の言葉〉』今枝由郎
テーラワーダ仏教の歩み寄りを拒むクリシュナムルティ/『ブッダとクリシュナムルティ 人間は変われるか?』J・クリシュナムルティ

2014-02-16

香月泰男のシベリア・シリーズ/『シベリア鎮魂歌 香月泰男の世界』立花隆


真の人間は地獄の中から誕生する
・香月泰男のシベリア・シリーズ
香月泰男が見たもの
戦争を認める人間を私は許さない

 もう戦争が終ってから24年、シベリヤから復員して22年になる。
 22年前、私は満州での軍隊生活とシベリヤ抑留生活をモチーフに描きつづけてきた。帰国した翌年に発表した「埋葬」にはじまり、つい最近制作が終ったばかりの「朕」までで、すでに43点になる。いつのまにか“シベリヤ・シリーズ”の名がかぶせられ、私はその作者として多少知られることになった。
 もっとシベリヤを描けという人もいれば、そろそろシベリヤから足を洗ったらどうだとすすめる人もいる。そうはいわないまでも、なぜいつまでもシベリヤを描きつづけるのかという問いを受けることは始終ある。正直の(ママ)ところ、私自身、それがなぜなのかよくわからない。

【『シベリア鎮魂歌 香月泰男の世界』立花隆(文藝春秋、2004年)以下同】


 特筆すべきは本書に香月の『私のシベリヤ』(文藝春秋、1970年)が収められていることだ。「テキスト部分の復刻」となっているが全部かどうかはまだ確認していない。

 外野はいつだって勝手なものだ。マスメディア、評論家、美術品バイヤー、音楽プロダクション、そして客という名の大衆……。勝手なリクエスト、希望、願望を並べ立てる。本来、批評とは独善と無縁のものであらねばならない。

 ほとんど毎年のように、私はこれが最後の“シベリヤ・シリーズ”だと思いながら絵筆をとってきた。そしてそのたびに描いているうちから、「ああ、あれも描いておかなければ」と早くも次の絵の構想が自然にできあがってくる。描くたびに、こんなものではとてもオレのシベリヤを語りつくしたことにはならない、という気がしてくるのだ。

 香月がシベリアで目撃したものは何だったのか。それを我々は絵を通して見ることができる。真実とは彫琢(ちょうたく)された現実である。個の深き泉が大海に通じる。

 多分ずるずるとこれから先何年もシベリヤを描きつづけることになるのではないかという気がする。もしかしたら私は死ぬまでシベリヤを描くことになるかも知れぬ。

 この言葉通りとなった。否、香月は石原吉郎と同じくシベリアを生き続けたのだろう。描く営みは現在と過去の往還であり、生きることそのものであった。単なる回想から芸術作品は生まれない。創作とは常に現在性を刻印する作業であるからだ。

 私の個展を見にきてくれた戦友がこんなものはみたくないといった。もうシベリヤのことなんか思い出したくもない、といった。私にしたって同じことだ。シベリヤのことなんか思い出したくはない。しかし、白い画布を前に絵具をねるとそこにシベリヤが浮びあがってくる。絵にしようと思って絵にするのではない。絵はすでにそこにある。極端な言い方をすれば私のすることは、ただそこに絵具を添えていくことだけだといってもよい。

 本物の芸術は作為から解脱(げだつ)する。まさに無作(むさ)の境地といってよい。制作が創造へと飛翔する様が見てとれる。


「黒い太陽」に至ってはマンダラと言い切ってよいほどの荘厳さを湛(たた)えている。凡人の苦悩は時間を経ることで達観可能となる。しかし偉大な人物は苦悩した瞬間に苦悩そのものを達観する。悟りとは瞬間を開くものだ。であれば香月の絵は既にシベリアの地で生まれたものと考えてよかろう。

シベリア鎮魂歌 香月泰男の世界

2014-02-15

真の人間は地獄の中から誕生する/『シベリア鎮魂歌 香月泰男の世界』立花隆


『石原吉郎詩文集』石原吉郎

 ・真の人間は地獄の中から誕生する
 ・香月泰男のシベリア・シリーズ
 ・香月泰男が見たもの
 ・戦争を認める人間を私は許さない

 香月さんのシベリア・シリーズは、いうなれば、絵だけでは伝えきれない情念のかたまりなのである。だから香月さんは、このシリーズの絵に全点「ことば書き」をつけた。シベリア・シリーズは、絵とことばが一体なのである。シベリア・シリーズは、ことばによって付け加えられた情報と情念が一体となってはじめてわかる絵なのである。

【『シベリア鎮魂歌 香月泰男の世界』立花隆(文藝春秋、2004年)】

 香月泰男〈かづき・やすお〉は死ぬまでシベリアを描き続けた。シベリアとは地名ではない。それは抑留という名の地獄を意味する。

 戦争に翻弄され、国家から見捨てられたシベリア抑留者の数は76万3380人と推定されている。経緯については以下の通りである。

「戦利品」の一つとして、日本人捕虜のシベリヤ強制労働の道は開かれていた/『内なるシベリア抑留体験 石原吉郎・鹿野武一・菅季治の戦後史』多田茂治

 私は『香月泰男のおもちゃ箱』(香月泰男、谷川俊太郎)を読んでいたが、香月が抑留者であることは知らなかった。また彼の絵を見たのも本書を読んでからのこと。ブリキ作品とは打って変わった作風に衝撃を受けた。そこには石原吉郎〈いしはら・よしろう〉が抱える闇が描かれていた。彼らは言葉にし得ぬものや、描き得ぬものを表現しようとした。そして死ぬまでシベリアを生き続けたのだ。

 地獄の焔(ほのお)が特定の人々を精錬する。不信と絶望の底から真の人間が立ち上がるのだ。私の内側で畏敬の念が噴き上がる。

 鹿野武一〈かの・ぶいち〉は帰還から、わずか1年後に心臓病で死んだ。管季治〈かん・すえはる〉は政争に巻き込まれ、鉄路に身を投げた。

 国家と人間の不条理を伝えることができる人物は限られている。香月泰男もその一人だ。初めて画集を開いた時、ページを繰るたびに私は「嗚呼(ああ)――」と声を漏らした。「嗚呼、そうだったのか」と。

 香月が描く太陽は、どことなく石原が渇望した海を思わせる。

石原吉郎と寿福寺/『内なるシベリア抑留体験 石原吉郎・鹿野武一・菅季治の戦後史』多田茂治

 日の丸は抑留者を見捨てたが香月は太陽を描いた。シベリアの抑留者を決して照らすことのなかった太陽を描いた。

 善き人々に対して神は父親の心を持ち、彼らを強く愛して、こう言われる。「労役や苦痛や損害により彼らを悩ますがよい――彼らが本当の力強さを集中できるように」と。怠惰のために肥満した体は、労働のみならず運動においても動作が鈍く、またそれ自体の重量のために挫折する。無傷の幸福は、いかなる打撃にも堪えられない。しかし、絶えず自己の災いと戦ってきた者は、幾度か受けた災害を通して逞(たくま)しさを身につけ、いかなる災いにも倒れないのみならず、たとえ倒れてもなお膝で立って戦う。(「神慮について」)

【『怒りについて 他一篇』セネカ:茂手木元蔵〈もてぎ・もとぞう〉訳】

 香月は絵筆を振るい、石原はペンを握って戦った。その力はシベリアの地で蓄えられた。真の人間は地獄の中から誕生するのだろう。

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2014-02-14

快楽中枢を刺激する文体/『バガヴァッド・ギーター』上村勝彦訳


『世界の名著1 バラモン教典 原始仏典』長尾雅人責任編集
『ウパニシャッド』辻直四郎
『はじめてのインド哲学』立川武蔵

 ・快楽中枢を刺激する文体

・『神の詩 バガヴァッド・ギーター』田中嫺玉訳
『仏教とはなにか その思想を検証する』大正大学仏教学科編
『イエス』ルドルフ・カール・ブルトマン
『イスラム教の論理』飯山陽

 アルジュナはたずねた。
クリシュナよ、智慧が確立し、三昧に住する人の特徴はいかなるものか。叡知が確立した人は、どのように語り、どのように坐し、どのように歩むのか」

 聖バガヴァットは告げた。――
 アルジュナよ、意(こころ)にあるすべての欲望を捨て、自ら自己(アートマン)においてのみ満足する時、その人は智慧が確立したと言われる。
 不幸において悩まず、幸福を切望することなく、愛執、恐怖、怒りを離れた人は、叡知が確立した聖者と言われる。
 すべてのものに愛着なく、種々の善悪のものを得て、喜びも憎みもしない人、その人の智慧は確立している。
 亀が頭や手足をすべて収めるように、感官の対象から感官をすべて収める時、その人の智慧は確立している。
 断食の人にとって、感官の対象は消滅する。【味】を除いて……。最高の存在を見る時、彼にとって【味】もまた消滅する。
 実にアルジュナよ、賢明な人が努力しても、かき乱す諸々の感官が、彼の意(こころ)を力ずくで奪う。
 すべての感官を制御して、専心し、私に専念して坐すべきである。感官を制御した人の智慧は確立するから。
 人が感官の対象を思う時、それらに対する執着が彼に生ずる。執着から欲望が生じ、欲望から怒りが生ずる。
 怒りから迷妄が生じ、迷妄から記憶の混乱が生ずる。記憶の混乱から知性の喪失が生じ、知性の喪失から人は破滅する。
 愛憎を離れた、自己の支配下にある感官により対象に向いつつ、自己を制した人は平安に達する。
 平安において、彼のすべての苦は滅する。心が静まった人の知性はすみやかに確立するから。
 専心しない人には知性はなく、専心しない人には瞑想(修習)はない。瞑想しない人には寂静はない。寂静でない者に、どうして幸福があるだろうか。
 実に、動きまわる感官に従う意(こころ)は、人の智慧を奪う。風が水上の舟を奪うように。
 それ故、勇士よ、すべて感官をその対象から収めた時、その人の智慧は確立する。
 万物の夜において、自己を制する聖者は目覚める。万物が目覚める時、それは見つつある聖者の夜である。
 海に水が流れこむ時、海は満たされつつも不動の状態を保つ。同様に、あらゆる欲望が彼の中に入るが、彼は寂静に達する。欲望を求める者はそれに達しない。
 すべての欲望を捨て、願望なく、「私のもの」という思いなく、我執なく行動すれば、その人は寂静に達する。
 アルジュナよ、これがブラフマン(梵)の境地である。それに達すれば迷うことはない。臨終の時においても、この境地にあれば、ブラフマンにおける涅槃に達する。

【『バガヴァッド・ギーター』上村勝彦〈かみむら・かつひこ〉訳(岩波文庫、1992年)】

 クリシュナムルティが常々虚仮(こけ)にしているヒンドゥー教の聖典だ。叙事詩『マハーバーラタ』(全18巻)の第6巻に編入されている。


(『マハーバーラタ』の場面を描いたオブジェ)

 実際に読んで私は驚嘆した。その華麗なる文体と思想の深さに。はっきりいって私程度のレベルでは仏教と見分けがつかないほどだ。もっと正確に言おう。「それってブッダが説いたんじゃないの?」と吃驚仰天(びっくりぎょうてん)する場面が随所にある。

 ってことはだよ、多分ブッダはヒンドゥー教的価値観の「何か」をスライドさせたのだろう。現代の我々が考えるように画然(かくぜん)と新宗教の旗を振ったわけではなかったのだろう。

 読むほどに陶酔が襲う。この文体(スタイル)が秘める力はアルコールや薬物に近い。快楽中枢(側坐核)を直接刺激する美質に溢れている。

 ブッダの弟子たちが根本分裂(大衆部と上座部に分裂した)に至った背景には、ヒンドゥーイズムの復興があったというのが私の見立てである。それゆえに大衆部(だいしゅぶ)はブッダの教えを理論化する過程でヒンドゥー教を仏教に盛り込んだのだろう。

 そして本当に不思議なことだが中国を経て日本に伝わった仏教は完全に密教化しており、その内容はヒンドゥー教と酷似している。和製仏教で世界的に評価されているのは座禅(瞑想の様式化)くらいのものだろう。マントラを仏教と見なすことは難しい。

 ま、バラモン教を安易に否定する仏教徒は一度読む必要がある。

 尚、余談ではあるがクリシュナムルティの名前は第8子であったため、8番目の神であるクリシュナ神に由来している。

バガヴァッド・ギーター (岩波文庫)

岩波書店
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2014-02-13

タコツボ化する日本の大乗仏教という物語/『インド仏教の歴史 「覚り」と「空」』竹村牧男


【大乗】人間は誰でも釈尊と同じ仏となれると考えられている。
【小乗(部派)】人間は釈尊にはほど遠く、修行してもとてもおよばないと考えられている。

【大乗】最終的に仏となり、自覚・覚他円満の自己を実現する。
【小乗】最後に阿羅漢となり、身と智とを灰滅して静的な涅槃に入る。

【大乗】一切の人々を隔てなく宗教的救済に導こうと努力し、利他を重視する。
【小乗】自己一人の解脱のみに努力し、自利のみしか求めない。

【大乗】みずから願って地獄など苦しみの多い世界におもむいて救済行に励む、生死【への】自由がある。
【小乗】業に基づく苦の果報から離れようとするのみで、生死【からの】自由しかない。

【大乗】釈尊の言葉の深みにある本意を汲み出すなかで、仏教を考えようとした。
【小乗】釈尊の言葉をそのまま受け入れ、その表面的な理解に終始する傾向があった(【声聞】といわれる。なお、声聞は本来、弟子の意である)。

【大乗】在家仏教の可能性を示唆した。
【小乗】明確な出家主義。

【『インド仏教の歴史 「覚り」と「空」』竹村牧男(講談社学術文庫、2004年)】

 実際の本文はページの上下に分けて一覧表記されている。テーブルタグの挿入が面倒であるため、このような書き方となった。

 竹村は大乗【主義者】である。そもそも今時「大乗」「小乗」などと表現すること自体が疑問だ。素人の私ですら「大衆部」(だいしゅぶ)「上座部」(じょうざぶ)と称しているのだ(尚、厳密には大乗=大衆部と言い切れないのだが、小乗というネーミングが大乗側のつけた貶称〈へんしょう〉である以上、大乗を採用するわけにはいかない。現代的に申せば大衆派と出家派くらいの意味合いで構わないだろう)。

 しかも「大乗」を上に置き、説明そのもので「小乗」を否定的に扱うという愚行を犯している。

 日本の仏教学者はいつまでこんな真似をするつもりなのか? 「天台ルール」(五時八教)という前提すらきちんと示さず、完全に密教化した平安仏教-鎌倉仏教を「大乗」と言い切っているのだ。学問として世界に通用するとは思えない。どちらかといえば文学や古典のレベルであろう。そもそも鎌倉時代に南伝仏教(≒上座部)は正確に伝わっていなかったはずだ。そろそろ文学や民俗学の次元から離れるべきだ。

「大乗仏教」と呼ぶから私の逆鱗(げきりん)に触れるのだ。「大乗思想」であれば構わない。

 あとは面倒なんで竹村宛ての簡単な質問を掲げて終えよう。

・「釈尊と同じ仏」はどこにいるのか?
・「最終的に仏」になった人は誰か?
・自己実現は諸法無我に反するのではないか?
・「宗教的救済」の内容を示せ。また「救済されていない」人が他人を救済することは可能なのか?
・「生死【への】自由」と「生死【からの】自由」の意味が不明。
・ブッダは「本意」を説かなかったということか?

 竹村の主張は思想・哲学を志向しているようでありながら、その実は仏教から派生したスピリチュアリズム(密教)を擁護する思考法となっているように映る。

 日本の仏教界は束になって掛かってもティク・ナット・ハンアルボムッレ・スマナサーラにかなわないことだろう。


インド仏教の歴史 (講談社学術文庫)

歴史的真実・宗教的真実に対する違和感/『仏教は本当に意味があるのか』竹村牧男

「原発稼働停止」の嘘/『原発洗脳 アメリカに支配される日本の原子力』苫米地英人


日本の原発はアメリカの核戦略の一環
・「原発稼働停止」の嘘

 しかし、実態は違います。「停止」あるいは「再稼働」という言葉に騙(だま)されてはいけません。
【日本の原発が停止したのは、「発電」だけです。】
 核燃料棒の「発熱」は続いていますし、原子炉を冷やす「冷却運転」も続いています。つまり、発送電が停止したにすぎません。
 原発というのは、「臨界」(りんかい)と呼ばれる核分裂の連鎖反応によって大きな熱を生み出して、発電をする仕組みです。
 制御棒を入れ絵、中性子の動きを止めることによって、核分裂の連鎖反応を止めることはできます。ですが、臨界は起きていなくても、ウランの燃料棒は崩壊熱を出し続けます。冷やさなければ、熱がたまりすぎて、過熱状態になることもあります。
 発熱が続いている状態を「稼働停止」の状態といえるでしょうか。

【『原発洗脳 アメリカに支配される日本の原子力』苫米地英人〈とまべち・ひでと〉(日本文芸社、2013年)】

 我々は日々流れてくるニュースに目を奪われ、これほど重要な事実も見失ってしまう。問題は「電気」ではなく「ウラン」なのだ。ここから目を逸らさせることが計画停電の目的であったのだろう。

 苫米地は更に「自動車のエンジンでいえば、空回りしている『アイドリング状態』」であり、「日本の原発は、単に発電を停止しただけであり、『出力ゼロ』になっているだけです」と続ける。そりゃそうだ。廃炉にする場合でも数十年かかるのだから。

 一度点(つ)けた神の火は簡単には消えない。原発を導入した政治家や東京電力にその覚悟があったとは思えない。彼らは夢と理想を語っただけだ。そして繰り返し「安全」を説き、神話のレベルにまで引き上げた。

 政治主導といえば聞えはいいが、民意が熟成するだけの時間は与えられていないし、そもそも情報公開がなされていない。政治のセンセーショナルな決断は常に国民を欺く性質を有する。

 去る東京都知事選では反原発候補二人が敗れた。だが選挙結果=民意ではいだろう。民意にはきちんとした情報開示とまともなジャーナリズムが必要不可欠だ。既に選挙は民意を問うものではなく、感情や感覚に動かされる衆愚のバロメーターと化しつつある。

 権力者は愚かな民を好む。そして愚か者同士が争い始めるのだ。

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苫米地英人

2014-02-12

クリシュナムルティの動画(英語)



日本の原発はアメリカの核戦略の一環/『原発洗脳 アメリカに支配される日本の原子力』苫米地英人


・日本の原発はアメリカの核戦略の一環
「原発稼働停止」の嘘

 なぜ、自民党は原発をやめることができないのでしょうか。
 それは、日本の原発がアメリカの核戦略の一環であることを自民党は熟知しているからです。
 第二次大戦後、アメリカは敗戦国日本を占領し、日本から徹底的に軍事力を奪う政策をとりました。そのアメリカが、何の理由もなしに、原爆製造につながりかねない原子力技術を日本に提供するはずがありません。
 日本は、アメリカの核戦略に全面的に協力することを条件に、見返りとして原子力技術を得たのです。
 アメリカとしては、日本に危険な技術を教える以上、日本を徹底的なコントロール下に置こうとするのは当然のことです。アメリカの意向を忠実に実現してくれる政党を支援し、アメリカの意向に沿った情報を流すメディアを育成しようとしました。
 その結果として、アメリカの意向に忠実な自民党が長年にわたって政権を握り続け、原発を推進してきたのです。
 また、アメリカは、電通などの広告代理店を通じて、日本の新聞・テレビの情報もコントロールしました。アメリカは、日本国民がアメリカに逆らわないように、政党支配とメディア・コントロールによって、日本国民を洗脳し続けてきたというわけです。

【『原発洗脳 アメリカに支配される日本の原子力』苫米地英人〈とまべち・ひでと〉(日本文芸社、2013年)】

 敗戦の事実はこれほど重いのだ。1945年(昭和20年)8月15日に敗戦。9月2日、東京湾上のアメリカ戦艦ミズーリ前方甲板において降伏文書に調印。この日からサンフランシスコ講和条約(1951年9月8日調印)が発効する1952年(昭和27年)4月28日までの約7年間、日本はGHQの支配下にあった。そしてGHQの実体はアメリカを筆頭とするアングロサクソン人であった。

 占領を経て日本の何がどう変わったのか。戦後の日本は経済成長に酔う中で歴史の検証を怠ってしまった。沖縄の米軍基地問題、クロスオーナーシップ、慰安婦問題などは敗戦に根を下ろした問題であろう。

 大体、北朝鮮による拉致被害者家族連絡会の切実な訴えに耳を貸す政治家は当初いなかった事実を思えば、この国は国家の体(てい)を成していない。

 日本経済が発展したのはアメリカが戦争を行うたびに日本の外需が増えたからだ。決して自力で先進国入りしたわけではない。それが証拠に日本が購入した米国債やドルは自由に売ることができない。またゴールドを保有することも制限されているといわれる。いつまで経っても食料自給率が上昇しないのも同じ理由だと思われる。我が国はアメリカに急所という急所を握られているのだ。


「♪洗脳はつづくーよ、どーこまでーも」ってわけだ。東京都知事選の結果がそれを雄弁に物語っている。原発はなくならない。たとえ日本がなくなったとしても。

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テレビ局と大手新聞社は原発利権の一部/『利権の亡者を黙らせろ 日本連邦誕生論 ポスト3.11世代の新指針』苫米地英人
官僚機構による社会資本の寡占/『独りファシズム つまり生命は資本に翻弄され続けるのか?』響堂雪乃

世界恐慌とテロに関する覚え書き
















腹切り問答


死のう団事件

ナオミ・クライン


 1冊読了。

 8冊目『ショック・ドクトリン 惨事便乗型資本主義の正体を暴く(上)』ナオミ・クライン:幾島幸子〈いくしま・さちこ〉、村上由見子訳(岩波書店、2011年)/今読み終えた。資本主義は遂に新自由主義という翼を得て、世界中をほしいままに侵略する。資本主義はもはや経済ではなく政治の根幹を成すといってよい。シカゴ学派を葬る経済学を樹立する必要がある。私はネルソン・マンデラを単なる人権の人形に変えた彼らに復讐することを誓った。

マンデラを釈放しアパルトヘイトを廃止したデクラークの正体/『ショック・ドクトリン 惨事便乗型資本主義の正体を暴く』ナオミ・クライン


『9.11 アメリカに報復する資格はない!』ノーム・チョムスキー
『エコノミック・ヒットマン 途上国を食い物にするアメリカ』ジョン・パーキンス

 ・資本主義経済崩壊の警鐘
 ・人間と経済の漂白
 ・マンデラを釈放しアパルトヘイトを廃止したデクラークの正体

『アメリカの国家犯罪全書』ウィリアム・ブルム
『アメリカ民主党の崩壊2001-2020』渡辺惣樹

必読書リスト その二

 怒りに駆られ眠ることができなくなった。そして今、脱力感に覆われている。不屈の闘士ネルソン・マンデラは27年半にわたって獄につながれた(1962年8月5日、逮捕~1990年2月11日、釈放)。マンデラを釈放し、アパルトヘイトを廃止したのはデクラーク大統領だった。1993年、マンデラと共にノーベル平和賞を受賞している。1994年、マンデラ政権が発足。デクラークは副大統領として起用された。そしてデクラークはANC(アフリカ民族会議)が長年にわたって掲げてきた「自由憲章」を骨抜きにし、白人の資産を完璧に守り抜き、マンデラ大統領の手足に枷(かせ)をはめたのだ。南アフリカの希望は線香花火のようにはかないものだった。

ネルソン・マンデラ。人種差別主義を超えたアフリカの偉人

 ではなぜ偉大な大統領が誕生したにもかかわらず南アフリカの状況が変わらないのか?

南アフリカの若いチンピラたちがひとりの男を殺す一部始終(※18禁、閲覧注意)

 その答えが本書に書かれている。


 和解とは、歴史の裏面にいた人々が抑圧と自由の間の質的な違いを本当に理解したときに成立するものです。彼らにとって自由とは、清潔な水が十分あり、電気がいつでも使え、まともな家に住み、きちんとした職業に就き、子どもに教育を受けさせ、必要なときに医療を受けられることを意味します。言い換えれば、これらの人々の生活の質が改善されなければ、政権が移行する意味などどこにもないし、投票する意味もまったくないのです。
   ――デズモンド・ツツ大主教(南アフリカ真実和解委員会委員長、2001年)

【『ショック・ドクトリン 惨事便乗型資本主義の正体を暴く』ナオミ・クライン:幾島幸子〈いくしま・さちこ〉、村上由見子訳(岩波書店、2011年)以下同】

 多くの黒人が望んだのはたったそれだけのことだった。最低限の人間らしい暮らしといってよい。ANCは1955年、5万人のボランティアを各地へ派遣し、「自由への要望」を集めた。ここから「自由憲章」が起草された。そこにはアパルトヘイトで奪われた富の再分配が高らかに謳われていた。ANC政権は権力を手に入れた代わりに経済政策を譲った。デクラークは白人保護の網を巧妙に張り巡らせ、マンデラは国際舞台へ登場するたびにワシントン・コンセンサスを頭に叩き込まれ、南アフリカはマーケットの動きに翻弄された。


 新政権発足後の数年間、マンデラ政権の経済顧問を務めたパトリック・ボンドは、当時、政府内でこんな皮肉が飛び交ったと言う――「政権は取ったのに、権力はどこへ行ってしまったんだ?」。新政権が自由憲章に込められた夢を具体化しようとしたとき、それを行なうための権限は別のところにあることが明らかになっったのだ。
 土地の再分配は不可能になった。交渉の最終段階で、新憲法にすべての私有財産を保護する条項が付け加えられることになったため、土地改革は事実上不可能になってしまったのだ。何百万もの失業者のために職を創出することもできない。ANCが世界貿易機関(WHO)の前身であるGATTに加盟したため、自動車工場や繊維工場に助成金を出すことは違法になったからである。AIDS(エイズ)が恐ろしいほどの勢いで広がっているタウンシップに、無料のAIDS治療薬を提供することもできない。GATTの延長としてANCが国民の議論なしに加盟した、WTOの知的財産権保護に関する規定に反するためだ。貧困層のためにもっと広い住宅を数多く建設し、黒人居住区に無料で電気を提供することも不可能。アパルトヘイト時代からひそかに引き継がれた巨大な債務の返済のため、予算にそんな余裕はないのだ。紙幣の増刷も、中央銀行総裁がアパルトヘイト時代と同じである以上、許可するわけはない。すべての人に無料で水道水を提供することも、できそうにない。国内の経済学者や研究者、教官など「知識バンク」を自称する人々を大量に味方につけた世銀が、民間部門との提携を公共サービスの基準にしているからだ。無謀な投機を防止するために通過統制を行なうことも、IMFから8億5000万ドルの融資(都合よく選挙の直前に承認された)を受けるための条件に違反するので無理。同様に、アパルトヘイト時代の所得格差を緩和するために最低賃金を引き上げることも、IMFとの取り決めに「賃金抑制」があるからできない。これらの約束を無視することなど、もってのほかだ。取り決めを守らなければ信用できない危険な国とみなされ、「改革」への熱意が不足し、「ルールに基づく制度」が欠けていると受け取られてしまう。そしてもし、これらのことが実行されれば通貨は暴落し、援助はカットされ、資本は逃避する。ひとことで言えば、南アは自由であると同時に束縛されていた。一般の人々には理解しがたいこれらのアルファベットの頭文字を並べた専門用語のひとつひとつが網を構成する糸となり、新政権の手足をがんじがらめに縛っていたのだ。
 長年にわたる反アパルトヘイト逃走の活動家ラスール・スナイマンは、こう言い切る。「彼らはわれわれを自由にはしなかった。首の周りから鎖を外しただけで、今度はその鎖を足に巻いたのです」。


 目に見えない経済という名の牢獄だ。米英を筆頭とする世界はかくも残酷だ。ハゲタカファンドではなく、ハゲタカが世界を支配しているのだ。貿易によって国家は栄え、そして今度は貿易に依存せざるを得なくなる。アメリカは軍需・金融・メディア・穀物、カルチャー、そして学問の大国である。更にアメリカの購買力が世界経済を支えている。第二次大戦後の国際的な枠組みは殆どがアメリカ主導で形成されてきた。既にIMFもシカゴ・ボーイズが自由に踊る舞台となった。

 それでも政権に就いて最初の2年間、ANCは限られた資産を用いて富の再分配という約束を実行しようと努めた。立て続けに公共投資が行なわれ、貧困層向けの住宅10万戸以上が建設され、数百万世帯に水道、電気、電話が引かれた。だがご多分に漏れず債務に圧迫され、公共サービスの民営化を求める国際的圧力がかかるなか、政府はやがて価格を上昇させ始める。ANC政権発足から10年経った頃には、料金を払うことのできない何百万もの人々が、せっかく引かれた水道や電気を利用できなくなった。2003年には、新しい電話線のうち少なくとも40%が使用されていなかった。マンデラが国営化すると約束した「銀行、鉱山および独占企業」も、依然として白人所有の4大コングロマリットに所有されたままであり、これらのコングロマリットはヨハネスブルク証券取引所上場企業の80%を支配していた。2005年には、同証券取引所上場企業のうち黒人が所有するものはたった4%にすぎなかった。2006年には、いまだに南アの土地の7割が人口の1割にすぎない白人によって独占されていた。悲惨きわまりないのは、ANC政権が500万人にも上るHIV感染者の生命を救うための薬を手に入れるより、問題の深刻さを否定するほうにはるかに多大な時間を費やしてきたことだ(2007年初めの時点では、いくらか前進の兆しが見られるが)。もっとも顕著にこのことを物語るのは、おそらく次の数字だろう。マンデラが釈放された1990年以降、南ア国民の平均寿命はじつに13年も短くなっているのだ。

 後にマンデラの後継となるムベキは公の場で言った。「私をサッチャー主義者と呼んでください」と。ANCは玉手箱を開けてしまった。革命の夢が実現した直後に志は崩れ去った。現実は変わらないどころか悪くなる一方だった。

 本書で次から次へと繰り出される衝撃の事実に感情が追いつかない。本物の事実は所感を拒絶する。我々はただありのままにそれを見つめる他ない。


 そのうえ、債務が具体的に何に使われている金なのかという問題がある。体制移行の交渉の際、デクラーク大統領側はすべての公務員に移行後も職を保障すること、退職を希望する者については多額の生涯年金を支給することを要求した。これは社会的なセーフティーネットと呼ぶべきものが存在しない国においては、まさに法外な要求だったにもかかわらず、ANCはこの要求をはじめとするいくつかの要求を「専門的」問題としてデクラーク側に委ねてしまったのだ。この譲歩によって、ANCは自らの政府と、すでに退職した影の白人政府という二つの政府のコストを負うことになり、これが膨大な国内債務としてのしかかっている。南アの年間の債務支払のじつに40%は、この大規模な年金基金に振り向けられ、年金受給者の大多数は、かつてのアパルトヘイト政権の政府職員で占められているのである。
 最終的に南アには、主客が逆転したねじれた状況が生じることになった。つまりアパルトヘイト時代に黒人労働者を使って膨大な利益を得た白人企業は【びた】一文賠償金を支払わず、アパルトヘイトの犠牲者の側が、かつての加害者に対して多額の支払いをし続けるという構図である。しかもこの多額の金額を調達するのに取られたのは、民営化によって国家の財産を奪うという方法だった。それはANCが交渉に同意するにあたって、隣国モザンビーク独立の際に起きたことをくり返さないために断固として回避しようとした「略奪」の現代版にほかならなかった。もっともモザンビークでは、旧宗主国の政府職員が機械類を破壊し、ポケットに詰められるだけのものを詰めて去って行ったのに対し、南アでは国家の解体と資産の略奪が今日に至るまで続いているのだ。

 マンデラの苦衷を思う。獄舎から放たれた後の方が苦しい人生だったのではあるまいか。

 昨夜から今朝にかけて私は密かに復讐を誓った。もちろん蟷螂の斧であることは自覚している。蟷螂の小野と呼んでくれ給え。寒い朝が白々と明けるなかで今日が2月11日であることに気づいた。24年前にマンデラが釈放された日だ。悲惨を生き続けるアフリカに太陽が昇る気配はまだない。地獄は続くことだろう。だが永遠に続く地獄は存在しない。マンデラの夢がかなうのはいつの日か。そして実現させるのは誰か。