2020-01-20

一切皆苦/『苦しみをなくすこと 役立つ初期仏教法話3』アルボムッレ・スマナサーラ


『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ
『怒らないこと2 役立つ初期仏教法話11』アルボムッレ・スマナサーラ
『心は病気 役立つ初期仏教法話2』アルボムッレ・スマナサーラ

 ・一切皆苦

『無(最高の状態)』鈴木祐

 では、仏教が生きることを研究して出た答えはなんでしょうか?
 それが「苦」という答えなのです。「生きることはとても苦しい」ということです。
 ヨーロッパ人は、形而上学的な立場で生きることについて、命について、いろいろ考えています。一方、仏教はとても具体的に合理的にこの問題を考えます。どちらかというと、経験論に基づいて生きるとは何かと発見するのです。それで「生きるとは感じることである」と語っています。それは感覚のことです。感覚があることが生きることです。物事を感じたり考えたりすることは生きることです。人は「感じては動く、感じては動く」ということです。
 ではなぜ動くのでしょうか? それは、感じることが苦しいからです。
 ずっと立っていると苦しくなるから歩く。ずっと歩いていると苦しくなるから座る。ずっと座っていると苦しくなるから寝る。ずっと寝ていたら苦しくなるからまた起きる。お腹が空くと苦しくなるから食べる。食べると苦しくなるから止める……。これが生きることなのです。息を吸うだけだと苦しいのです。だから吐くのです。吐いたら苦しいから吸うのです。
 このように感覚はいつでも「苦」なのです。
 だから必死に動いています。生きることは「動き(モーション)」でもあります。こう考えると、我々が思っている「生きる」という単語は曖昧で正しくありませんね。

【『苦しみをなくすこと 役立つ初期仏教法話3』アルボムッレ・スマナサーラ(サンガ新書、2007年)】

 スマサーラを初めて読んだのは2012年のこと。私が受けた衝撃は大きい。日本仏教の欺瞞が暴かれたような心地がしたものだ。クリシュナムルティを知ったのが2009年で仏教に対する熱はかなり冷めていた。しかしながら仏教とブッダの教えは違った。南伝仏教(上座部、テーラワーダ)は生き生きとしたブッダの言葉を伝える。

 日本の仏教界が私ほどの衝撃を受けたかどうかは知らぬが、今や仏教系信徒でスマナサーラを読まぬ者は田舎者(←差別用語)と蔑まれても致し方ない。仮にもブッダを師と思うのであれば胸襟を開いて傾聴すべきだ。

 スマナサーラ本を読んで私は初めて四法印の「一切皆苦」(いっさいかいく)がわかった。しかもパーリ語のドゥッカに「不完全」というニュアンスがあるとすれば、それこそ「満たされない」状態を示しているのであろう。苦と苦の合間を我々は快楽と錯覚するのだ。夢や希望が苦からの逃避であるケースがあまりにも多い。

 生の実相が苦であることは病院や老人ホームに行けば誰もが理解できよう。誰の役にも立てなくなった時、人は絶望を生きるしかない。

 現実の苦に対する無自覚こそが現代人の不幸なのだろう。だからこそ病んで死を宣告された時に命の尊さを知り、残された時間を嘆くのだ。我々は漫然と「永久に生きられるかのように生きている」(セネカ)。

 苦は欲望という油を注がれて深刻の度合いを増す。日蓮は「苦をば苦とさとり、楽をば楽とひらき、苦楽ともに思ひ合はせて、南無妙法蓮華経とうちとなへゐさせ給へ。これあに自受法楽にあらずや」(「八風抄」真蹟は断簡のみ)と書いているがそれは自受法楽ではない。わかりやすい教えには落とし穴がある。

 苦しみをなくすためには欲望の火を消す他ない。これを涅槃(ねはん)とは申すなり。(amazonの価格が1880円になっているのはどうしたことか?)

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