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2019-06-07

小室直樹に予言されていた私/『あなたも息子に殺される 教育荒廃の真因を初めて究明』小室直樹


『評伝 小室直樹』村上篤直

 ・小室直樹に予言されていた私

『三島由紀夫と「天皇」』小室直樹

 さて、以上の分析によって、私たちが直面している校内暴力・家庭内暴力の何たるかを、いっそう明確に分かっていただけたと思う。それは新左翼や行動右翼、構造的汚職犯罪人、そして戦前の軍事官僚や戦後の高級官僚、エリート・ビジネスマンなどに連なる一大アノミー症候群の一つの峰であって、それ自身で存在するものではない。(中略)
 では、前人未到の程度にまで激甚化した暴力は、今後どこへ行く。かかる暴力を生み出したアノミーは、どこまで昂進する――それを考えるには、差し当って、若者がもう一度イデオロギーを取り戻した時が、一つのメルクマールとなろう。
 この2~3年、日本のイデオロギー状況は、大転換をみせた。左翼イデオロギーが、人びとの間で、完全に魅力を失ってしまったのである。それとともに、従来は左翼イデオロギーに出口を求めてきた若者のアノミーは、行き場を失い、無イデオロギーの暴力に結集することになった。
 これが、校内暴力・家庭内暴力だ。校内暴力・家庭内暴力が、この2~3年、急速に猖獗をきわめるようになった理由も、まさにここにある。
 しかし、若者は理想を求める。永年、イデオロギー無き状態に放置されていることはできない。イデオロギーこそは、若者にとって、生活必需品の一つなのだ。
 では、イデオロギー無き現代の若者に、再びイデオロギーが帰ってくるとすれば、それはどんなものだろうか。
 そこで最後の予言。
 それはおそらく、三島由紀夫であろう。マルキシズムが再び青年の心をとらえることはできない。在来の右翼思想は、すっかり古色蒼然たるものになってしまったし、虚妄の戦後デモクラシーに惹力はない。
 が、より根本的理由は、右の思想のいずれもが、戦後日本の基礎となった、急性(アキュート)アノミーとの対決を回避しているからである。
 この急性アノミーは、敗戦と天皇の人間宣言によって発生したものであったが、三島由紀夫のみが自著『英霊の声』(ママ)において、これとの対決をみごとになしとげた。

【『あなたも息子に殺される 教育荒廃の真因を初めて究明』小室直樹(太陽企画出版、1982年)】

 この箇所は『評伝 小室直樹』で知った。私が三島由紀夫に辿り着いたのは一昨年のことである。つまり36年前の予言が的中したわけだ。恐るべき慧眼(けいがん)と言わざるを得ない。

 アノミーとはエミール・デュルケームが用いた社会学的概念で通常は「無規範」と訳されるが小室は「無連帯」とした。ヒトが社会的動物であれば無連帯は孤独や不安を醸成する。元々は敗戦~天皇陛下の人間宣言が日本に国家的規模の集団アノミーを発生させた。その真空領域にマルクス主義が侵入し、新興宗教が蔓延(はびこ)った。小室が指摘する校内暴力・家庭内暴力が芽生えたのは私の世代(1963年生まれ)である。北海道で一番最初に校内暴力が報道されたのは私の中学で、教員に暴力を振るったのは私の友人であった。

 当時、我々の世代は三無主義(無責任・無関心・無感動)とか新人類などと呼ばれた。バブル景気が弾けるとフリーターはニートや引きこもりとなり、援助交際から一転して自傷行為が目立ち始めた。就職氷河期に遭遇した「失われた世代」(団塊ジュニアとも。1971-1974年生まれ)が抱いた社会不信も後々深刻なダメージとなって社会を毀損した。

 新しい歴史教科書をつくる会(1996年)や小林よしのり作『新・ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論』などを中心とする近代史の見直しを背景に、東日本大震災(2011年)で国内には再び尊皇のエトス(気風)が復活した。問題は令和となったこれからである。

 三島由紀夫の問題意識は現在の日本をも射抜いている。憲法改正の機会を失ったと判断した三島は自衛隊員に呼びかけてクーデターを目論んだ。ところが二・二六事件の頃とは違って日本は高度成長を遂げていた。義務教育ではアメリカがデモクラシーを与えてくれたと教えていた。三島は割腹自決を遂げることで不朽の存在となった。明年は三島の死からちょうど半世紀となる。三島の演説は今もなお私の魂を振動させる。



時間の連続性/『決定版 三島由紀夫全集36 評論11』三島由紀夫

2018-11-08

読書は「世の中を読む」行為/『社会認識の歩み』内田義彦


 ・学問は目的であっても手段であってもならない
 ・読書は「世の中を読む」行為

『読書について』ショウペンハウエル:斎藤忍随訳

 本が面白く読めたというのは、本を読んだのではなく、本で世の中が、世の中を見る自分が読めたということです。逆にいえば、世の中を読むという操作のなかで始めて本は読めるわけですね。

【『社会認識の歩み』内田義彦(岩波新書、1971年)】

 実に含蓄深い一言である。「目が変わった」といってもよい。やはり、「知は力」(フランシス・ベーコン)なのだ。人は学び続ける限り若さを保つことができる。

 世の中を単なる政治や経済の機構と勘違いしてしまえば人間を見る瞳が曇ってゆく。一番大事なのは「人の心」を読み、察することだ。その人の痛みや悲しさを自分の心にありありと浮かべることだ。読むことは感じることにつながる。

 私はブッダやクリシュナムルティを読んできたが、読めるかどうかは全くの別問題である。



翻訳と解釈/『ファストフードが世界を食いつくす』エリック・シュローサー
孫子の兵法 その二/『湖底の城 呉越春秋』宮城谷昌光