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2021-12-22

物語の解体/『手にとるようにNLPがわかる本』加藤聖龍


物語の本質~青木勇気『「物語」とは何であるか』への応答
『嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え』岸見一郎、古賀史健
『悩んで動けない人が一歩踏み出せる方法』くさなぎ龍瞬
『反応しない練習 あらゆる悩みが消えていくブッダの超・合理的な「考え方」』草薙龍瞬
『自分を許せば、ラクになる ブッダが教えてくれた心の守り方』草薙龍瞬

 ・物語の解体

『NLPフレーム・チェンジ 視点が変わる〈リフレーミング〉7つの技術』L・マイケル・ホール、ボビー・G・ボーデンハマー
『未処理の感情に気付けば、問題の8割は解決する』城ノ石ゆかり
『マンガでわかる 仕事もプライベートもうまくいく 感情のしくみ』城ノ石ゆかり監修、今谷鉄柱作画
『ザ・ワーク 人生を変える4つの質問』バイロン・ケイティ、スティーヴン・ミッチェル
『人生を変える一番シンプルな方法 セドナメソッド』ヘイル・ドゥオスキン

必読書リスト その五

 NLPとは、Neuro Linguistic Programingの頭文字を取ったもので、日本語では「【神経言語プログラミング】」と訳されます。
 Nは「【ニューロ】(Neuro)」、脳の働きです。私たちがどのように「【五感】」(視覚、聴覚、身体感覚、嗅覚〈きゅうかく〉、味覚)で感じ、考えるかを意味します。
 Lは「【リングイスティック】(Linguistic)」、つまり「【言語】」です。これには、普通に話している「言葉」のほかに、「非言語」も含まれます。非言語とは、「表情」「動作」「姿勢」「呼吸」「声のトーン」など、言語以外で表現する情報のことです。
 そして、Pは「【プログラミング】(Programing)」を意味します。これはその人その人の脳に組み込まれた行動や感情のパターン、記憶のことです。
 NLPは「【五感と言語による体験が脳のプログラムを作り、行動を決定づける】」ことにより、原因(もととなる体験)から結果(現在の状態)へのプロセスに注目していきます。
 そしてNLPでは、プログラムそのものをさまざまな手法で書き換えていくことで、結果をより望ましいものへと変化させることを可能にし、より自分の能力を発揮できる状態へと導いていくのです。
 NLPにはたくさんの考え方やスキルがあります。ただし、その基本にあるものは「【幸福で、成功した人間になるために必要なステップを見つけるテクノロジー】」なのです。

【『手にとるようにNLPがわかる本』加藤聖龍〈かとう・せいりゅう〉(かんき出版、2009年)以下同】

 NLP関連書は数冊読んだがあまりよいものがない。しっくりきたのは本書くらいである。

 直観的に仏教の唯識(ゆいしき)や五蘊(ごうん)を示唆していると受け止めた。ただし仏教では部分から集まるシステムとして捉えるのは同じだが、プログラミングを書き換えるという発想はない。ただ欲望が作動する実体を見つめて、そこから離れることを目的としている。NLPの概念はプラグマティズムを踏襲するもので目から鱗が落ちる。

 NLPの誕生は、1970年代中頃のアメリカです。当時、カリフォルニア大学サンタクルーズ校で言語学の助教授をしていた【ジョン・グリンダー】と同大学心理学と数学を研究していた【リチャード・バンドラー】によって研究されました。この2人がNLPの共同創始者、つまり生みの親です。
 2人は当時、独創的で劇的な治療成果を誇っていた、【ゲシュタルト療法フリッツ・パールズ家族療法バージニア・サティア催眠療法ミルトン・エリクソン】という3名の天才的なセラピスト(心理療法家)に注目しました。
 そして、バンドラーとグリンダーは、彼らのセッション内容を撮影し、言語パターンや姿勢、声のトーン、クライアントに対する反応を徹底的に観察し、分析したのです。その結果、タイプの異なる3人のセラピストから治療に有効だと考えられる多くの「共通パターン」を見つけだしました。
 そして、バンドラーとグリンダー自身もそのパターンを習得し、従来のセラピー以上に短時間で治療を施すことを可能にしました。これらのパターンを体系化したものが、NLPの始まりです。
 その効果は、「PTSD」といわれる心の病に苦しむベトナム戦争体験者をはじめ、長年改善されなかった「恐怖症」などの症状に劇的な変化をもたらし、一度のセッションで治療が完了したこともあるほどでした。

 情報処理をシステムとして捉えるのはサイバネティクスオペレーションズ・リサーチの影響があるのだろう。コンピュータの第三世代が登場するのが1965年である。第二次世界大戦から20年を経て、文明は新しいフェーズに入った。

 成果から技術を求めるところにプラグマティズムの精神が垣間見える。

 西暦1700年か、あるいはさらに遅くまで、イギリスにはクラフト(技能)という言葉がなく、ミステリー(秘伝)なる言葉を使っていた。技能をもつ者はその秘密の保持を義務づけられ、技能は徒弟にならなければ手に入らなかった。手本によって示されるだけだった。

【『プロフェッショナルの条件 いかに成果をあげ、成長するか』P・F・ドラッカー:上田惇生〈うえだ・あつお〉編訳(ダイヤモンド社、2000年)】

「ミステリー(秘伝)」とは密教である。鎌倉仏教の影響もあるのだろうが、日本文化における技や術は個人に限られていて、組織的なアプローチによる研究など望むべくもなかった。一子相伝的な色彩が濃い。

 実は、私たちの【脳は「現実」と「想像」を区別することができません】。
 いま、頭に思い描いているものが「想像」であろうと「現実」であろうと、同じ神経回路を使って処理され、各器官に指令が出されるのです。(中略)
 このように、ある体験を思い出したり、想像したりしているときも、脳にとっては現実に体験しているのと同じ作用が働いています。【何かをイメージするということは、脳にとって現実に体験していることと同じ】なのです。

 つまり、夢を既に実現したものとして感覚的に味わうことで、未来を手繰り寄せる営みである。こうなると因果倶時(いんがぐじ)や本因妙(ほんにんみょう)に近い。

 脳機能をIC(集積回路)になぞらえることで秘密の扉は開いた。デジタルトランスフォーメーションが加速すればヴァーチャル(仮想)とリアリティ(現実)の差は消失する。このバーチャル即リアリティの中心に脳が存在しているのだ。計算は創造へと飛翔する。それでも人間の欲望が変わることはないのであるが。

2021-05-19

「私」という表層/『ユング自伝1 思い出・夢・思想』カール・グスタフ・ユング:アニエラ・ヤッフェ編


 人間は、人間が統制することのない、あるいはただ部分的に支配するに止まる心的過程である。したがって我々は、自分自身についてもあるいはまた我々の一生についても何ら最終的な見解をもたないのである。

【『ユング自伝1 思い出・夢・思想』カール・グスタフ・ユング:アニエラ・ヤッフェ編:河合隼雄〈かわい・はやお〉、藤繩昭〈ふじなわ・あきら〉、出井淑子〈いでい・よしこ〉訳(みすず書房、1972年)】

 何かの本でエピグラフとして紹介されていた一文である。結果的にこの文章を確認するだけで終わってしまった。フロイトやユングにはさほど興味がない。

 ゲーテは自伝を『詩と真実』と名づけた。ユングのテキストはゲーテの向こうを張るものだ。「私」という表層にとらわれてしまえば全体を見失う。我々は無意識や深層心理を自覚できない。「私」は飽くまでも大脳新皮質の範疇(はんちゅう)に収まっている。生存を支えているのは大脳辺縁系や脳幹だ。生まれたばかりの人間がタブラ・ラサ(白紙状態)であるのは飽くまでも大脳新皮質の次元であって、システムは下部の爬虫類脳に埋め込まれている。

 ユングのテキストは人間の可能性を示唆したものだ。それを自分自身にも敷衍(ふえん)したのは慧眼以外のなにものでもない。

2020-11-12

人類史の99%以上は狩猟採集生活/『売り方は類人猿が知っている』ルディー和子


『なぜ美人ばかりが得をするのか』ナンシー・エトコフ
『予想どおりに不合理 行動経済学が明かす「あなたがそれを選ぶわけ」』ダン・アリエリー

 ・人類史の99%以上は狩猟採集生活

『ソクラテスはネットの「無料」に抗議する』ルディー和子

必読書 その三

 うつ病、不安障害、パニック障害といった心の病に悩む人たちが多くなっているのは、私たちの脳が、現代の環境にまだ適応していないからだといわれます。
 200万年前ごろに始まったとされる旧石器時代に生きていた先行人類のころから、私たちは、進化の歴史の99%以上を狩猟採集生活をして暮らしてきました。農業文明や工業文明になってからの歴史は1%にも満たないのです。私たちの脳は、まだ、群れをつくって狩猟採集生活をしていたころに適応していた心の仕組みから、現代の環境に合った仕組みには変わってきてはいないのです。
 遺伝子解説技術の発達によって、現生人類の中には10万年ほど前から故郷アフリカを出て、世界に広がっていったグループがいたことがわかっています。中東・中央アジアに進出したグループもあり、その一部が1万年以上前に日本にたどりつきました。その日本においても長い間狩猟採集生活が続いたわけで、稲作は紀元前3500年ごろには始まっていたといわれてはいますが、農業文明の始まりとなれば紀元前500年ごろでしょう。日本人の場合は、長い進化の時間の中で農業文明や工業文明が占める割合は0.1%です。

【『売り方は類人猿が知っている』ルディー和子(日経プレミアシリーズ、2009年)】

 ナンシー・エトコフを思わせるほどの出来映えだ。マーケティング本の枠に収まらない広汎(こうはん)な知識がわかりやすい文章で綴られている。

 アメリカでパレオダイエットが持て囃(はや)されている。パレオとはパレオリシック=旧石器時代の略だ。原始人ダイエットとも称する。ダイエットは食習慣の意味だ。加工食品が体に悪いことは以前から指摘されていたが、グルテンフリー~パレオダイエットの流れはそれを不自然な穀物食にまで拡張したものだ。

 磨製石器の誕生によって新石器革命と名づけられているが重要なのは農耕(1万年前)と牧畜(5000年前)である。どちらも長い歴史を経て品種改良が施された。と同時に定住革命が起こる。

 一般的には第二次世界大戦以後(1945年)を現代と呼ぶが、それ以前の人類は貧困と飢餓を克服していなかった。日本人が食うのに困らなくなったのはたぶん昭和31年(1956年)あたりからだろう(「もはや戦後ではない」が流行語。ついでに書いておくと日本で公害問題が表面化したのも1950年代から60年代にかけてのこと)。

 で、鱈腹(たらふく)食べられるようになると今度は食べ過ぎで健康が阻害される羽目となった。中庸や少欲知足は難しいものだとつくづく思う。有吉佐和子が高齢者の認知症問題を取り上げたのが1972年である(『恍惚の人』)。

 食べ過ぎているなら食べる量を減らせばいいのだが食欲を抑えるのはかなり難しい。意志の強弱と考えられがちだがそうではあるまい。飢餓を回避する回路が埋め込まれているためだろう。もしも明日、世界から食料が消え失せれば、デブの方が長生きできることは明らかだ。

 糖質制限は元々糖尿病患者の食事療法であったが、狩猟生活が長かった人類の歴史を思えば理に適っている。農耕は穀物を食べることを強制する。穀物はいずれも高でんぷん質で消化された後ブドウ糖(糖質)となる。

 GI値(グリセミック・インデックス)は食品による血糖値上昇の度合いに注目した指数だが、「主な食品のGI値」を見ると高GI(70以上)の食品は狩猟民族が容易に食べられるものではないことに気づく。穀物の収穫は秋になるまで待つ必要があるし、根菜やイモ類も毎日見つけることは難しいだろう。さほど神経質になることもないと思うが、「食欲の秋」と言うくらいだから秋から冬(貯蔵食品に頼る季節)にかけては、むしろ高GIが望ましいのかもしれない。

 マラソンランナーは大会数日前から炭水化物を多く摂取する。軍隊の特殊部隊も同様で作戦数日前からは一切の訓練をやめて炭水化物漬けの食事を摂る。体力を使う場合は好きなだけ米を食べればいい。

 我々が伝統と考えていることは人類史のわずかな期間に過ぎない。文明に依存すればするほど家畜化が進む。狼なら大自然の中で生きてゆけるが座敷犬には無理だろう。内なる野生の声に耳を傾けよ。

2020-04-19

見ることは理解すること/『時間と自己』木村敏


『異常の構造』木村敏
・『自己・あいだ・時間 現象学的精神病理学』木村敏

 ・見ることは理解すること

・『あいだ』木村敏

 外部空間の【もの】とは、【見る】というはたらきの対象となるようなもののことである。もちろん眼に見えないものも多い。しかしそれは、われわれの眼の能力に限界があるためであって、そのものが原理的に見えないということではない。それと同じように、内部空間の【もの】についても、「見る」という言いかたが許される。われわれが頭の中で考えをまとめようと努力しているときなど、われわれは自分の考えが浮かんでくるありさまをじっと見続けているわけである。
 外部的な眼で見るにしても内部的な眼で見るにしても、【見る】というはたらきが可能であるためには、ものとのあいだに【距離】がなければならない。見られるものとは或る距離をおかれて眼の前にあるもののことである。それが「対象」あるいは「客観」ということばの意味であり、【もの】はすべて客観であり、客観はすべて【もの】である。景色を見てその美しさに夢中になっている瞬間には、景色もその美しさも客観になっていないということがある。景色や美しさのあいだになんらの距離もおかれていないから、われわれはその景色と一体になっているというようなことがいわれる。主観と客観とが分かれていないのである。そのような瞬間には、われわれの外部にも内部にも【もの】はない。われわれは【もの】を忘れた世界にただよっている。しばらくして主観がわれに帰ると、そこに距離が生まれる。景色や美しさが客観になる。そしてわれわれは、美しい【もの】を見た、という。あるいは美しさという【もの】を余韻として味わうことになる。
 古来、西洋の科学は【もの】を客観的に【見る】ことを金科玉条としてきた。「理論」(theory)の語の語源はギリシャ語の「見ること」(テオリア)である。西洋では、見ることがそのまま捉えること、理解することを意味する。そしてこれが、単に客観的観察とする自然科学だけではなく、哲学をも含めた学一般の基本姿勢なのである。

【『時間と自己』木村敏〈きむら・びん〉(中公新書、1982年)】

 クリシュナムルティの参考文献として紹介しよう。木村の文章が苦手である。思弁に傾きすぎて言葉をこねくり回している印象が強い。ドイツに留学したせいもあるのだろう。西洋哲学も同様だが思弁に傾くのは悟性が足りないためだ。

 主観と客観とが分かれたところに分断が生まれ、好悪(こうお)が生じ、欲望が頭をもたげる。見ることに満足できない我々は美しい景色をカメラで撮影したり絵に描いたりする。続いて「もっと美しい景色はないだろうか」とあちこち探す羽目となる。

 物理の世界においてすら見る行為=観測そのものが量子に影響を及ぼしてしまう。量子の位置と速度は同時に測定することができない。原子核の周囲を飛び回っている電子は惑星のように存在するのではなく、雲のように浮遊し確率論的にしか示すことができない。なぜなら量子は波と粒子の二重性を併せ持つからだ。

 マクロの世界も同様である。宇宙の年齢は138億年であるが、現在観測されている最も遠い銀河は131億光年のEGS-zs8-1である(すばる望遠鏡が発見した銀河団は130億光年)。胸躍る発見ではあるが今見えているのは131億年前の光である。EGS-zs8-1の現在の姿は131億年後までわからない。

 もっと卑近な例を挙げよう。我々が見ている太陽は8分20秒前のもので、月は1.3秒前の姿だ。見るとは光の反射を眼で受容することだ。つまり何を見たところで光速度分の遅れがあるわけだ。

 現在にとどまる瞑想の意味はここにある。「観に止(とど)まる」と書いて止観とは申すなり。

2020-03-08

宗教は集団形成のツールに過ぎない/『予言がはずれるとき この世の破滅を予知した現代のある集団を解明する』L・フェスティンガー、H・W・リーケン、S・シャクター


『失敗の科学 失敗から学習する組織、学習できない組織』マシュー・サイド

 ・宗教は集団形成のツールに過ぎない

 キリストのはりつけ以来、多くのクリスチャンがキリストの再来を望んできたのであり、それが実現する特定の日付を予言した運動はまれではなかった。しかし、最初期にみられた運動の大部分については、予言のはずれがわかったときに信者たちが経験したかもしれないリアクションに関連して、確実だと思われる形での記録はない。そのようなリアクションについては、ヒューズがモンタヌス派に関して次のような記述を残したように、歴史家がたまたま何かのついでに触れていることがある。

 モンタヌスは2世紀の後半に現れたが、信仰上の問題に関する革新者として現れたのではない。彼が当時の世間に対して行なった個人的な貢献は、我が主の再来が間近に迫っているという固い確信であった。それは、ペブツァ――現在のアンゴラに近い――で起きるはずであった。そして、我が主の真の信者たちは皆、そこへ向かうべきであった。彼の言葉を権威づけるものは言わば内的な霊感であり、新たな予言者としての人格と雄弁によって彼は多数の信奉者を獲得したが、おびただしい数の信奉者が約束の地に群がり、彼らを受け入れるべく新しい町が出現した。【再臨が遅れたことも、その運動に終焉をもたらさなかった。むしろ逆に、そのことは運動に新たな生命と形態を与え】、一種の、選ばれた者たちのキリスト教となった。彼らにとっては、彼らに直接働きかける聖霊のほかには、どんな権威も彼らの新生を導くことはなかったのである……〔傍点は引用者による〕

 この短い記述のなかに、典型的なメシア運動の基本的な要素がすべて含まれている。すなわち、固い信念を持った信者たちがおり、彼等はそれまでの自らの生活を根絶やしにし、新たな場所へ行き、そこに新たな町をつくるという形でコミットする。だが、再臨(さいりん)は起こらない。しかし、我々が注目するように、その運動は止むどころか、この予言のはずれが運動に新たな生命を吹き込むのである。

【『予言がはずれるとき この世の破滅を予知した現代のある集団を解明する』L・フェスティンガー、H・W・リーケン、S・シャクター:水野博介〈みずの・ひろすけ〉訳(勁草書房、1995年/原書は1956年)】

『失敗の科学 失敗から学習する組織、学習できない組織』で引用されていた一冊だ。原書刊行が昭和31年である。戦勝国アメリカの余裕が咲かせた花のひとつといっていいだろう。日本では経済企画庁が「もはや戦後ではない」と経済白書に記述し流行語となった頃である。

 キリスト教の代表的な予言(預言とは異なる)はキリスト再臨と終末(ハルマゲドン)である。未だ来ない未来のことは誰にもわからない。そこに人々は不安と希望を抱く。感情がプラスとマイナスに動く要因は経済だ。経済が低迷すると世の中を不安が覆う。ここに予言者が登場する。優れたリーダーとは大なり小なり予言者的性格を帯びている。「確かな未来」を指し示すのがリーダーの役割であるからだ。

 予言を信じて集まった人々が予言の成否を問題としないばかりか、外れても尚強固な結びつきを維持する実態に驚かされる。ヒトの脳にはそうした癖があるのだろう。つまり客観的な合理性よりも、主観的な納得に優位性があるのだ。検証や吟味を不問に付す様を見ると、我々は自分が信じる物語を貫くためならどんな嘘も無視することができる。結局、「予言の好きな人々のコミュニティ」が形成されているわけである。

 宗教は集団形成のツールに過ぎない。もちろん始めに宗教があるわけだが、その宗教は社会や時代という背景から生まれるのだ。ブッダの教えは教団を通して仏教に変質する。教団は教勢を拡大し領土を巡る攻防が繰り広げられる。インドにおいて仏教が廃(すた)れヒンドゥー教が永らえたのも、インド国民の集団形成にはヒンドゥー教の方が相応(ふさわ)しかったのだろう。国民の嗜好や風土に左右される問題で宗教的な正邪は関係がない。

 日本人の占い好きも予言の一種と考えることができよう。私と同世代であれば花びらを千切りながら「好き、嫌い」とやった人も多いはずだ。ま、最後の花びらが「嫌い」で終わると何度でもやり直すからデタラメ極まりないが。

 あらゆる宗教が幸福を約束する。高級な布団が安眠を保証するように。そして信者は不幸に目をつぶる生き方を強いられるのだ。彼らが説く幸福とは不幸への耐性に他ならない。

2019-11-28

『悪魔の飽食』事件の謎/『悪の超心理学(マインド・コントロール) 米ソが開発した恐怖の“秘密兵器”』倉前盛通


『小室直樹vs倉前盛通 世界戦略を語る』世界戦略研究所編
『悪の論理 ゲオポリティク(地政学)とは何か』倉前盛通
『新・悪の論理』倉前盛通
『西洋一神教の世界 竹山道雄セレクションII』竹山道雄:平川祐弘編
『情報社会のテロと祭祀 その悪の解析』倉前盛通
『自然観と科学思想』倉前盛通

 ・『悪魔の飽食』事件の謎

『悪の運命学 ひとを動かし、自分を律する強者のシナリオ』倉前盛通
『悪の戦争学 国際政治のもう一つの読み方』倉前盛通
『悪の宗教パワー 日本と世界を動かす悪の論理』倉前盛通

 レフチェンコが表情の撮影を拒否していると聞いた時、思い出したのは“『悪魔の飽食』ニセ写真事件”の時の記者会見の様子だった。
 57年夏にニセ写真の使用が暴露された際、『悪魔の飽食』の著者・森村誠一氏は、取材パートナーと称する下里正樹氏と共に、写真提供者A氏なる人物を正面に出して、弁明の記者会見を行なった。その時のA氏の様子たるや、珍妙さを通り越して異様な印象を与えるものであった。
 ホテルの室内にもかかわらず、ハンチングをかぶり、黒いサングラスにガウン姿、ボクサーやレスラーではあるまいに、こんな奇妙な姿で記者会見に臨んだ人物が、かつてあっただろうか。森村氏らは、石井部隊(旧関東軍の細菌部隊で別名731部隊)関係者にA氏の身許が割れて危険が及ばないための措置としているが、そこに大いなる作為を感じるのである。(中略)
 そもそも、『悪魔の飽食』の誕生からして、マインド・コントロールの臭いがぷんぷんしているのである。日本共産党の幹部党員のもらしたところによれば、『悪魔の飽食』の赤旗日曜版への連載は、当時の宮本顕治委員長(現・最高幹部会議長)の一存で決まったという。
 当時、森村誠一氏は赤旗日曜版に小説『死の器』を連載中であった。連載開始は55年6月22日で、完結は56年9月27日である。この完結直前の56年7月19日から、74回にわたる『悪魔の飽食』の連載が突如開始される。
 同じ紙面に同じ筆者の連載が2ヵ月半にわたって続く形になるのだが、これはいかに党機関紙とはいえ、ブルジョワ・マスコミにできるだけ近い紙面形態を採ろうとしている赤旗にしては、異常なことである。ある幹部党員は、その背後の事情を“ミヤケンのツルの一声”と説明していた。
 日共にとって、『悪魔の飽食』の空前のヒットは、日本国民に対するマインド・コントロールという意味から、絶大なる効果を持つ戦略兵器となり得る存在であった。日米同盟の強化と“日本の右傾化”に対して、日本国民に戦時中の悪夢を思い起こさせ、警戒の念を抱かせるのに、これほどの効果的な“紙爆弾”はないと考えていたのだろう。
 この一大戦略に従って、流行大衆作家であり日共シンパの森村氏に白羽の矢が立てられたのである。しかし森村氏には泣所があった。取材力に乏しく、ノンフィクションを書く素養があまりないという点である。
 そこで、取材パートナーという形で、筋金入の党員が実質的な筆者として送り込まれた。それが下里正樹氏である。日共内での正式な肩書は、赤旗特報部長とういレッキとした幹部党員で、囲碁、将棋の世界ではかなり有名な観戦記者でもある。

 しかし、日共の一大野望も“ニセ写真事件”によって破綻してしまった。否、破綻したというよりむしろ、アメリカ側のマインド・コントロールに乗せられて“悪魔の飽食作戦”を開始した日共が、アメリカ側のスケジュール通りに陥穽にはまったと見たほうが正確かもしれない。
 問題になった例のニセ写真は、終戦直後の戦犯裁判用に中国の国民党や共産党が大量に作成したという経緯がある。その大部分が、日露戦争のあと、満州でペストが大流行したとき、その救援活動を日本赤十字と日本軍が協力して行なった当時の写真を修正したものであった。それを森村・下里チームは、前述のA氏から提供されたと主張している。
 だが、日共の幹部党員によれば、取材開始時点での1ヵ月にわたるアメリカ取材旅行の際、下里氏が米軍関係者もしくはアメリカの情報筋から入手したものだという。日共としては“米軍提供”と書くわけにはいかず、提供者A氏なる人物をデッチ上げたのではないか。
 それにしても、あの抜け目のない日共が、あんな粗悪なニセ写真にだまされたのか、あるいは知っていてもわざと使ったのかは別にして、この事実は、なによりも日共そのものがアメリカのマインド・コントロール下に置かれていたとでも考えるほかないのではなかろうか。日共は、米ソ双方からマインド・コントロールされているのかもしれない。
 また、森村氏自身についても、不審な点がある。ヒューマニズムと正義を売り物にしている森村氏にもかかわらず、「ああいう写真を見付け出すのが、ゾクゾクするほどうれしい」と語っている。これは異常な表現ではないか。人間なら心が痛むような写真である。ゾクゾクするとは尋常ではない。
 これには、焼跡左翼の野坂昭如氏も、「ゾクゾクするほどうれしいとは何事か」とカミついていた。これが当り前の人間の反応であろう。良心の痛みもなくあいいう発言をした森村氏自身、中国はソ連を旅行した際、なんらかの形でマインド・コントロールを受けた可能性はないか、自己点検してみてはいかがだろうか。

【『悪の超心理学(マインド・コントロール) 米ソが開発した恐怖の“秘密兵器”』倉前盛通〈くらまえ・もりみち〉(太陽企画出版、1983年)】

 このテキストの直前にラストポロフ事件が紹介されている。佐々淳行〈さっさ・あつゆき〉の著書も関連書として挙げておく。

『インテリジェンスのない国家は亡びる 国家中央情報局を設置せよ!』佐々淳行
『私を通りすぎたスパイたち』佐々淳行

 志位正二〈しい・まさつぐ〉の名を初めて知った。日本共産党の志位和夫委員長の伯父に当たる人物だ。ラストボロフ事件発覚後、志位正二は自首した。その後航空機内で急死する。親交のあった倉前は「殺(や)られた!」と確信する。それがKGBによるものかCIAによるものかは不明だ。

『悪魔の飽食』は私も若い頃に読んだ。当時は本多勝一〈ほんだ・かついち〉を読んでいたこともあり、若き精神は反日に傾いていた。本多の山本七平批判がカッコよく見えた。私の歴史館は『中国の旅』に染められていた。『週刊金曜日』も創刊号から購入していた。私が戦後史観の迷妄から覚めたのは数年前のことだ。

 本書は竹村健一が企画した「日本の進路シリーズ」の一冊で、軽めの読み物となっている。超心理学とはマインド・コントロールと超能力のことで、ヒカルランド系の内容だ(笑)。

 尚、下里正樹〈しもざと・まさき〉はかつて松本清張の秘書を務めた人物らしい。

2019-08-13

社会心理学における最初の実験/『服従実験とは何だったのか スタンレー・ミルグラムの生涯と遺産』トーマス・ブラス


『服従の心理』スタンレー・ミルグラム

 ・服従心理のメカニズム
 ・キティ・ジェノヴィーズ事件〜傍観者効果
 ・人間は権威ある人物の命令に従う
 ・社会心理学における最初の実験

『権威の概念』アレクサンドル・コジェーヴ

権威を知るための書籍

 社会心理学の起源は古いが、実験科学としての社会心理学の歴史は新しく、たかだか100年程度のものに過ぎない。社会心理学における最初の実験は、ノーマン・トリプレットという心理学者によってなさたとされて、その論文は、1897年の『アメリカン・ジャーナル・オブ・サイコロジー』に掲載されている。トリプレットは、人が釣り竿のリールを回すという作業をするときには、一人でするよりも、他の人と競争するときの方がもっと早いということを実験によって示して見せた。

【『服従実験とは何だったのか スタンレー・ミルグラムの生涯と遺産』トーマス・ブラス:野島久男、藍澤美紀〈あいざわ・みき〉訳(誠信書房、2008年)】
 これはマラソンでも同様の結果が出る(『「大転子ランニング」で走れ!マンガ家 53歳でもサブスリー』みやすのんき)。一方、自転車のロードレースの場合は空気抵抗を避けるために先頭が入れ替わる。

 競争するから早くなるというよりも同調性が働くのだろう。一種の共鳴・共振である。

 社会心理学は実験によって科学となった。ところが心理学そのものは実証性を欠いたまま物語の位置にとどまっている。精神科ほどデタラメな仕事はない。ただ大量の薬を処方して患者を無気力にしているだけだ。しかもこの業界は製薬会社にコントロールされている(『精神疾患は脳の病気か? 向精神薬の化学と虚構』エリオット・S・ヴァレンスタイン )。

 過去の僧侶は現代の医師へと姿を変えた。人々はただ信じ、額づき、そして犠牲となる。

2019-08-12

人間は権威ある人物の命令に従う/『服従実験とは何だったのか スタンレー・ミルグラムの生涯と遺産』トーマス・ブラス


『服従の心理』スタンレー・ミルグラム

 ・服従心理のメカニズム
 ・キティ・ジェノヴィーズ事件〜傍観者効果
 ・人間は権威ある人物の命令に従う
 ・社会心理学における最初の実験

『権威の概念』アレクサンドル・コジェーヴ

権威を知るための書籍

 このびっくりするような実験は、今現在に至るまで心理学の歴史のなかで重要なものとして、議論を巻き起こし続けている。なぜならば、人は権威のある人物に命じられれば、力で強制されなくても破壊的な行動をしてしまうことがあること。そして、悪意もなく異常でもない人が、非道徳的で非人間的な行為を行うことがあり得ると言うことが明らかになったからである。さらにいえば、ミルグラムの実験は、個人の道徳性について私たちが思っていたことを根本から揺るがせてしまった。道徳的なジレンマに直面したとき、普通は、人は良心に従って行動すると考える。しかし、権力が社会的な圧力を加えているような状況では、私たちが持っている道徳概念などはたやすく踏みにじられてしまうことをミルグラムの実験は劇的な形で示したのである。

【『服従実験とは何だったのか スタンレー・ミルグラムの生涯と遺産』トーマス・ブラス:野島久男、藍澤美紀〈あいざわ・みき〉訳(誠信書房、2008年)】

 道徳心を塊(かたまり)にしたような若い男がミルグラム実験に参加したと仮定しよう。彼は被験者に与える電圧の上昇を頑なに拒んだ。「続行してください」。若者は突如として恐るべき勢いで白衣の男に襲い掛かった。まず小指の骨を折り、軽く鼻の下にパンチを加え、猛然と喉仏に手刀を叩き込んだ。白衣の男は既に事切れていた。若者は実験に関与していた人々を全て殺害し、更にはミルグラムをも撲殺した。こうして人間の道徳心は見事に証明された。

 心理学の実験が胡散臭いのは人々の反応を見下す実験者の眼差しが原因だ。彼らは箱庭みたいな特殊な状況を設定し、易々(やすやす)と人間を語ってみせる。ミルグラム実験によっていくばくかの死人が出てしまうと思い込んでしまえば、上述したような男性が出てきてもおかしくはない。とすると極限状況における暴力やテロ行為を容認せざるを得ない結果となろう。

 私が知る限り良心を行動に移せるのは暴力的傾向の強い男性である。例外は鹿野武一〈かの・ぶいち〉くらいなものだろう。

内気な人々が圧制を永続させる/『服従の心理』スタンレー・ミルグラム


 ・服従の本質
 ・束縛要因
 ・一般人が破壊的なプロセスの手先になる
 ・内気な人々が圧制を永続させる
 ・アッシュの同調実験

『服従実験とは何だったのか スタンレー・ミルグラムの生涯と遺産』トーマス・ブラス
『権威の概念』アレクサンドル・コジェーヴ
『マインド・コントロール』岡田尊司
『マインド・ハッキング あなたの感情を支配し行動を操るソーシャルメディア』クリストファー・ワイリー

権威を知るための書籍
必読書リスト その五

 圧制を永続させるのは、自分の信念を行動に移せない内気な人々である。

【『服従の心理』スタンレー・ミルグラム:山形浩生〈やまがた・ひろお〉訳(河出書房新社、2008年/河出文庫、2012年/同社岸田秀訳、1975年)】

 すなわち倉前盛通〈くらまえ・もりみち〉が言うところの小善人である(『悪の論理 ゲオポリティク(地政学)とは何か』)。「寄らば大樹の陰」という生き方は消極的になることで遺伝的優位性を確保する戦略なのかもしれない。戦乱の中で勇気を発揮する者はほぼ確実に死ぬ。戦時であれば臆病者の方が生存率が高まる(『病気はなぜ、あるのか 進化医学による新しい理解』ランドルフ・M・ネシー&ジョージ・C・ウィリアムズ)。

 近代において最も圧制(圧政)・服従に成功したのは社会主義国家であった。ナチスドイツ、ソ連、中国に共通するのは粛清の嵐である。ヒトラーは600万人の大量殺戮を行ったが、スターリンや毛沢東に至っては数千万単位で自国民を虐殺している(※中国は政策ミスによる餓死も含む)。

 去る参議院選挙でNHKから国民を守る党が1議席を取った。これは強制的に受信料を徴収するNHKの【圧制】に「ノー!」という声を上げた国民が一定数存在した事実を物語る。かつてNHK受信料を拒否していたのは左翼であった(『NHK受信料拒否の論理』本多勝一、1977年)。ところが放送終了時に流していた国旗国家放映の阻止に成功すると今度は番組が反日に傾いた。その後、NHK本局内には中国共産党の中央電視台日本支部が同居するに至った。これは中共の謀略機関である。他にも韓国放送公社、アメリカABCテレビ、オーストラリア放送協会にスペースを貸しているようだがスパイ防止法のない日本で外国メディアとの協力関係は情報漏洩の危険が高すぎる。

 NKHK受信料の支払いが国民の義務であればそれは税と考えてよかろう。一特殊法人に徴税権があるのはどう考えてもおかしいし、一特殊法人のための法律(放送法)があるのはもっとおかしい。


2019-08-10

一般人が破壊的なプロセスの手先になる/『服従の心理』スタンレー・ミルグラム


 ・服従の本質
 ・束縛要因
 ・一般人が破壊的なプロセスの手先になる
 ・内気な人々が圧制を永続させる
 ・アッシュの同調実験

『服従実験とは何だったのか スタンレー・ミルグラムの生涯と遺産』トーマス・ブラス
『権威の概念』アレクサンドル・コジェーヴ
『マインド・コントロール』岡田尊司
『マインド・ハッキング あなたの感情を支配し行動を操るソーシャルメディア』クリストファー・ワイリー

権威を知るための書籍
必読書リスト その五

 おそらくこれが、われわれの研究の最も根本的な教訓だろう。特に悪意もなく、単に自分の仕事をしているだけの一般人が、ひどく破壊的なプロセスの手先になってしまえるということだ。さらには、自分の作業の破壊的な効果がはっきり目に見えるようになっても、そして自分の道徳の根本的な基準と相容れない行動をとるよう指示されても、権威に逆らうだけの能力を持つ人はかなり少ない。権威に服従しないことに対する各種の抑止力が働くために、その人物は自分の立ち位置を変えることはない。

【『服従の心理』スタンレー・ミルグラム:山形浩生〈やまがた・ひろお〉訳(河出書房新社、2008年/河出文庫、2012年/同社岸田秀訳、1975年)】

 朱に交われば赤くなる。村にはしきたりがあり、企業には社内文化がある。教団にはタブー(禁忌)があり、学校には校則がある。組織や集団には人々を額づかせる力がある。自分の自由を制限することと何らかのリターン(報酬)を交換するところに帰属の理由があると考えられる。

 あらゆる組織には必ず目的(理想)がある。そして目的(結果)のために手段を選ばないことが往々にして見受けられる。運動部で行われる体罰やしごき、成績不振の営業マンに浴びせられる上司の罵声、大手企業から中小企業に突きつけられる無理な値引き交渉。集団内で生き延びるためには順応する必要がある。

 これを「権威に逆らうだけの能力」で判断することは難しい。またこの記述自体が当該研究の古さを示すものだ。もう一つの可能性としては遺伝子の関与を挙げるべきだろう。つまり「権力に逆らう」ことは生まれつきの資質と見ることもできるのだ。正義感は教えられるものではない。どれほど多くの情報を与えたところで人の感受性を変えることは難しい。

 いじめを支えているのは傍観者である。「やめろよ!」と声を挙げる同級生が一人でもいればいじめから救われる。とすれば90%程度の人々は傍観者と考えてよかろう。ヒトラーの下(もと)でユダヤ人大虐殺を遂行したアイヒマンは1961年に行われた裁判で自分の行為を「命令に従っただけ」と述べた。彼は極悪非道の殺人鬼ではなかった。普通の真面目な公務員(中佐)であった。

 ミルグラム実験(アイヒマンテスト)は「一般人が破壊的なプロセスの手先になる」ことを証明した。ナチスの罪は万人の罪となって開かれた。


2019-08-04

小賢しい宗教批判/『幸せになる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教えII』岸見一郎、古賀史健


『アドラー心理学入門 よりよい人間関係のために』岸見一郎
『嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え』岸見一郎、古賀史健

 ・小賢しい宗教批判

・『失敗の科学 失敗から学習する組織、学習できない組織』マシュー・サイド
『ザ・ワーク 人生を変える4つの質問』バイロン・ケイティ、スティーヴン・ミッチェル

青年●わかります。人間の「心」にまで踏み込んでいくのが哲学であり、宗教である、と。それで両者の相違点、境界線はどこにあるのです? やはり「神がいるのか、いないのか」という、その一点ですか?

哲人●いえ、【最大の相違点は「物語」の有無】でしょう。宗教は物語によって世界を説明する。言うなれば神は、世界を説明する大きな物語の主人公です。それに対して哲学は、物語を退(しりぞ)ける。主人公のいない、抽象の概念によって世界を説明しようとする。

青年●……哲学は物語を退ける?

哲人●あるいは、こんなふうに考えてください。真理の探究のため、われわれは暗闇に伸びる長い竿(さお)の上を歩いている。常識を疑い、自問と自答をくり返し、どこまで続くかわからない竿の上を、ひたすら歩いている。するとときおり、暗闇の中から内なる声が聞こえてくる。「これ以上先に進んでもなにもない。ここが真理だ」と。

青年●ほう。

哲人●そしてある人は、内なる声に従って歩むことをやめてしまう。竿から飛び降りてしまう。そこに真理があるのか? わたしにはわかりません。あるのかもしれないし、ないのかもしれない。ただ、【歩みを止めて竿の途中で飛び降りることを、わたしは「宗教」と呼びます。哲学とは、永遠に歩き続けることなのです】。そこに神がいるかどうかは、関係ありません。

【『幸せになる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教えII』岸見一郎、古賀史健〈こが・ふみたけ〉(ダイヤモンド社、2016年)】

 文章の巧みな詭弁で小賢しい宗教批判といってよい。そもそも「竿の上を歩く」という喩えが悪い。竿で想起されるのは釣り竿や物干し竿でその上を歩くという行為がピンと来ない。そもそもあんたが書いている対話自体、物語だろーが(笑)。

 多分頭のどこかに「哲学は神学の婢(はしため)」という言葉があったのだろう(河野與一『哲学講話』)。もちろん心理学はそれ以下だ。

 古賀史健は「抽象の概念」もまた物語であることを見落としている。すなわちアドラーが行う心理療法は「物語の書き換え」に過ぎない。しかも岸見はアドラーに依存し、古賀は岸見に依存しているのである。そこを見過ごしておきながら宗教の物語性を否定するとは片腹痛い。

 社会心理学はアッシュやミルグラムによって巧みな実験が行われてきた(『服従の心理』スタンレー・ミルグラム)。だが心理学や心理療法の世界で厳密な検証やフィードバックが行われているとは言い難い。フロイトは無意識を発見して西洋でもてはやされたが仏教では2000年前からの常識である。何でもかんでもリビドーや性欲に結びつける考え方は拙劣極まりなく、既に過去の人物といった印象が強い。

 一片のデータすら示さずに宗教を批判する姿勢は、新興宗教が既成宗教を批判する手口と一緒だ。マシュー・サイド著『失敗の科学』ではカール・ポパーによるアドラー批判が紹介されている。

2019-07-31

「原因論」と「目的論」の違い/『嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え』岸見一郎、古賀史健


『アドラー心理学入門 よりよい人間関係のために』岸見一郎

 ・「原因論」と「目的論」の違い

『幸せになる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教えII』岸見一郎、古賀史健
『失敗の科学 失敗から学習する組織、学習できない組織』マシュー・サイド
『手にとるようにNLPがわかる本』加藤聖龍
『NLPフレーム・チェンジ 視点が変わる〈リフレーミング〉7つの技術』L・マイケル・ホール、ボビー・G・ボーデンハマー
『未処理の感情に気付けば、問題の8割は解決する』城ノ石ゆかり
『マンガでわかる 仕事もプライベートもうまくいく 感情のしくみ』城ノ石ゆかり監修、今谷鉄柱作画
『ザ・ワーク 人生を変える4つの質問』バイロン・ケイティ、スティーヴン・ミッチェル

必読書リスト その二

哲人●そこでアドラー心理学では、【過去の「原因」ではなく、いまの「目的」】を考えます。

青年●いまの目的?

哲人●ご友人は「不安だから、外に出られない」のではありません。順番は逆で「【外に出たくないから、不安という感情をつくり出している】」と考えるのです。

青年●はっ?

哲人●つまり、ご友人には「外に出ない」という目的が先にあって、その目的を達成する手段として、不安や恐怖といった感情をこしらえているのです。アドラー心理学では、これを「【目的論】」と呼びます。

青年●ご冗談を! 不安や恐怖をこしらえた、ですって? じゃあ先生、あなたはわたしの友人が仮病(けびょう)を使っているとでもいうのですか?

哲人●仮病ではありません。ご友人がそこで感じている不安や恐怖は本物です。場合によっては割れるような頭痛に苦しめられたり、猛烈な腹痛に襲われることもあるでしょう。しかし、それらの症状もまた、「外に出ない」という目的を達成するためにつくり出されたものなのです。

青年●ありえません! そんな議論はオカルトです!

哲人●違います。これは「原因論」と「目的論」の違いです。あなたのおっしゃる話は、すべてが原因論に基づいています。【われわれは原因論の住人であり続けるかぎり、一歩も前に進めません】。

【『嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え』岸見一郎〈きしみ・いちろう〉、古賀史健〈こが・ふみたけ〉(ダイヤモンド社、2013年)】

 読む量が多すぎて書く量が少なすぎると書評した本がわからなくなる。挙げ句の果てには自分で検索して「おかしいな」を連発する有り様だ。本書は古賀史健が岸見一郎の『アドラー心理学入門』を対話という形式でわかりやすく解説したものである。にもかかわらず軽々と岸見本を凌駕している。古賀は言うならばリライト名人なのだろう。ただ、丁寧や端正が行き過ぎて鼻につく嫌いがある。

哲人●【アドラー心理学では、トラウマを明確に否定します】。ここは非常に新しく、画期的なところです。たしかにフロイト的なトラウマの議論は、興味深いものでしょう。心に負った傷(トラウマ)が、現在の不幸を引き起こしていると考える。人生を大きな「物語」としてとらえたとき、その因果律のわかりやすさ、ドラマチックな展開には心をとらえて放さない魅力があります。
 しかし、アドラーはトラウマの議論を否定するなかで、こう語っています。「いかなる経験も、それ自体では成功の原因でも失敗の原因でもない。われわれは自分の経験によるショック――いわゆるトラウマ――に苦しむのでやなく、経験の中から目的にかなうものを見つけ出す。【自分の経験によって決定されるのではなく、経験に与える意味によって自らを決定するのである】」と。

 私の頭が悪くてスッと入ってこないのだが、ブッダやクリシュナムルティに通じる価値観の転換がある。特に最後の一言は重要だ。これをもっと簡明かつダイナミックにしたのがバイロン・ケイティである。


 意味とは妄想である。不幸も幸福も妄想だ。脳という錯覚装置が織り成す感情のタペストリーを我々は人生と名づける。

 妄想は無明から生まれる。本書は無明を自覚させてくれる良書である。

2017-08-20

社会は常に承認を求める/『「認められたい」の正体 承認不安の時代』山竹伸二


『孤独と不安のレッスン』鴻上尚史

 ・社会は常に承認を求める

『3歳で、ぼくは路上に捨てられた』ティム・ゲナール

 また、積極的にこうした排除に荷担することで、自分の存在価値をより一層高めようとする場合もある。仲間と一緒に他の人々の欠点をあげつらい、蔑視することで、自分たちだけは特別だ、というような一段高い位置に身を置くことができるからだ。先に例を挙げた女子中学生Hの地味なグループへの蔑視も、こうした心理から生じている。それは、自分とは無関係に思える人々を蔑(さげす)むことで、自らの存在価値の底上げを図ろうとする行為にほかならない。
 求められているのは「自分は価値のある人間だ」という証であり、その確証を得て安心したいがために、身近な人々の承認を絶えず気にかけ、身近でない人々の価値を貶め(おとしめ)ようとする。見知らぬ他者を排除することで、自らの存在価値を保持しようとする。たとえそれが悪いことだと薄々気づいていても、仲間から自分が排除されることへの不安があるため、それは容易にはやめられない。そして底なしの「空虚な承認ゲーム」にはまってしまうのだ。

【『「認められたい」の正体 承認不安の時代』山竹伸二(講談社現代新書、2011年)】

「いじめ自殺」という言葉が登場したのはは1979年だという(PDF:子どもの自殺の実態)。いつの時代もいじめはあったわけだが、その質が変わったと感じたのは鹿川君訴訟(中野富士見中学いじめ自殺事件、1986年)が報じられた時だった。近所の高校生に尋ねたところ、「自分の周囲ではそれほどでもないが、別の学校に通っている友達のクラスでは生卵をぶつけられたり、学校内のプールに落とされたり、ゴルフクラブで殴られている生徒がいる」という話であった。

 皆が不安を抱えているからこそ攻撃の度合いが苛烈さを増すのだろう。ボス猿(アルファオス)が強ければ群れは安定する。強さが法(基準)として機能するためだ。

 家族が機能不全に陥っているとどこかで誰かに認められる必要が生じる。「空虚な承認ゲーム」とあるが社会は常に承認を求める。「お前さんはどこの馬の骨だ?」ってわけだよ。

 親から愛情も受けず、友情も知らぬ子供が果たしてどんな大人になるのか。冷え冷えとした気持ちにならざるを得ない。

 人生は出会いによって色彩が変わる。人を求める気持ちがあれば必ず何らかの出会いはあるものだ。真の友は一人いればよい。そのために恥ずかしくない自分を築くべきだ。

「認められたい」の正体 ― 承認不安の時代 (講談社現代新書)
山竹 伸二
講談社
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2017-08-11

ソフトパワーとしてのマインド・コントロール/『マインド・コントロール』岡田尊司


『カルト村で生まれました。』高田かや
『洗脳の楽園 ヤマギシ会という悲劇』米本和広
『カルトの子 心を盗まれた家族』米本和広
『ドアの向こうのカルト 九歳から三五歳まで過ごしたエホバの証人の記録』佐藤典雅
『杉田』杉田かおる
『小説 聖教新聞 内部告発実録ノベル』グループS

 ・ソフトパワーとしてのマインド・コントロール

『服従の心理』スタンレー・ミルグラム

宗教とは何か?

 テロリストたちは、一部の人が考えていたように、催眠状態のような意識が狭窄した状態で、あやつられてそうした行動をしたわけではなかった。彼らは、自らの覚悟と決心のもとで、そうした行動をとっていた。
 ただ、それは彼らがマインド・コントロールを受けていたことを、何ら否定する根拠にはならない。マインド・コントロールを受けたものは、自らが主体的に決意して自己責任で行動したと思うことが、むしろ普通だからだ。マインド・コントロールが上質なものであればあるほど、コントロールを受けた者(ママ)は、自分が望んでそうすることにしたのだと感じる。
 安っぽいマインド・コントロールの場合には、コントロールする側の作為が正体を現し、欺瞞の痕跡を残してしまう。そうした場合、いつか不信が芽生えた時、それが破れ目にもつながり、マインド・コントロールが解けてしまうことにもなる。
 だが、完璧な形でマインド・コントロールが行われた場合には、すべては必然性をもったことであり、それに出会う幸運をもったのだと感じ、喜び勇んでその行動を「主体的に」選択する。

【『マインド・コントロール』岡田尊司〈おかだ・たかし〉(文藝春秋、2012年/文春新書増補改訂版、2016年) 】

 一般的には閉ざされた環境で身体的抑圧(睡眠不足や暴力など)がある場合を洗脳、それ以外の心理操作および誘導をマインド・コントロールと考えればいいだろう。朝鮮戦争(1950-53年)で捕虜とされた米兵が共産主義を信奉するようになっていた。中国共産党が行ったこの思想改造が洗脳の嚆矢(こうし)である。

 マインド・コントロールという言葉が広く知られるようになったのは統一教会(世界基督教統一神霊協会→世界平和統一家庭連合)の霊感商法が社会問題化した頃だったと記憶する。有名な歌手や女性タレントまでが信者となったことでセンセーショナルな報道が繰り返された。もしも当局が厳格な対応をしていればオウム事件は防げた可能性がある。だが統一教会は勝共連合という下部組織を通じて保守層にがっちりと喰い込んでいた。

 岡田の指摘は重要だ。ソフトパワーとしてのマインド・コントロールが自主的・自発的な行動を導くというのだ。こうしてテロという犯罪が大義に置き換えられる。「必然性」とは完全な物語を意味する。自爆は使命にまで高められる。

 マインド・コントロールは何も特別のことではない。大衆消費社会における全ての広告は消費・購買への誘引で様々なテクニックが応用されている。購入価格を操作することも簡単だ(『予想どおりに不合理 行動経済学が明かす「あなたがそれを選ぶわけ」』ダン・アリエリー)。

 群れをなす動物は同調する。逆に言えば同調性を欠いた動物が群れをなすことはできない。つまり集団や社会そのものが形成するマインド・コントロールが存在する。一番わかりやすいのは教育だ。学校であれ家庭であれ教育は強制と矯正の2本柱で行われる。子供を家族や社会という鋳型(いがた)にはめ込み、大人の言いなりにするのが教育の目的である。かつて自由な環境(『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ)で行われた教育はない。枝打ちされて材木になるか、針金でぐるぐる巻きにされた盆栽になるかの違いがあるだけだ。我々は社会適応養成ギブスを着用した星飛雄馬なのだ。

 平均的な人間は自分が見た事実にも目をつぶって周囲の意見に合わせる(アッシュの同調実験)。日本社会でいえば「空気を読む」のが同調で、「KYだ」と認定されるのが同調圧力である。メガデス(大量虐殺)を可能にするのも同調性だ。

 我々を取り巻く様々な集団ごとにそれぞれの同調性が働く。国家を超えても尚、条約やグローバル・スタンダード(世界標準)という同調性が存在する。日本が慰安婦捏造問題を真っ向から否定することができないのも、アングロサクソンやキリスト教といった世界の主流に異を唱える羽目になるからだ。

 高度情報化社会ではあらゆる情報がプロパガンダと化しマインド・コントロールを試みる。人々を騙(だま)せば自分が得をする。高度な知性は「騙す」行為を通して最大限に発揮される。騙すためには相手に偽りの情報を信じさせる必要がある。つまり自分と相手が異なる信念の持ち主であることを理解する必要があるのだ(心の理論)。

 そして我々は騙されることを好む。だから手品を楽しむのだ。また映画・ドラマ・芝居・漫画・小説などのフィクションを楽しむのも同じ理由だ。騙したいエリートと騙されたい大衆で織り成す世界に我々は生きている。

2016-07-25

支離滅裂な文章/『子ども虐待という第四の発達障害』杉山登志郎


 ・支離滅裂な文章

『子は親を救うために「心の病」になる』高橋和巳
『消えたい 虐待された人の生き方から知る心の幸せ』高橋和巳
『生ける屍の結末 「黒子のバスケ」脅迫事件の全真相』渡邊博史

 徐々に筆者は、被虐待児は臨床的輪郭が比較的明確な、一つの発達障害症候群としてとらえられるべきではないかと考えるようになった。
 筆者は現在、被虐待児を【第四の発達障害】と呼んでいる。【第一は、精神遅滞、肢体不自由などの古典的発達障害、第二は、自閉症症候群、第三は、学習障害、注意欠陥多動性障害などのいわゆる軽度発達障害、そして第四の発達障害としての子ども虐待である】。

【『子ども虐待という第四の発達障害』杉山登志郎〈すぎやま・としろう〉(学研のヒューマンケアブックス、2007年)】

 杉山は発達障害の権威らしい。日本で軽度発達障害という概念を樹立した人物でもある。海外の研究や事例も豊富だ。しかし人間性が伝わってこない。本の体裁も変わっていてフォントが大きい二段組で読みにくい。尚、私が誤読しているかもしれないので、お気づきの点があればご指摘を請う次第である。

 障害と病気は異なる(※通常は「障碍」と表記しているが発達障害との絡みで今回は「障害」とする)。昔は精神障害を精神病と呼んだ。1982年(昭和57年)には山本晋也が口にした「ほとんどビョーキ」というセリフが流行語となった(流行語 共通史年表)。当時はまだ、普通でない=病気という感覚が支配していた。因みに「気違い」という言葉に苦情が出始めたのは1974年のことである(Wikipedia)。ただしマニアを意味する言葉としてカーキチや釣りキチなどは1980年代まで通用していたと記憶する。少年マガジンで『釣りキチ三平』の連載が終了したのは1983年であった。

 現在、精神障害の分類はアメリカ精神医学界が出版しているDSM(精神障害の診断と統計マニュアル)の第3版以降に基くが、2013年に発表された第5版についてはアレン・フランセス(第4版編集委員長)からの批判もある(『〈正常〉を救え 精神医学を混乱させるDSM-5への警告』)。この業界はきな臭い話が多い(『精神疾患は脳の病気か? 向精神薬の化学と虚構』エリオット・S・ヴァレンスタイン)。

「被虐待児は」→「一つの発達障害症候群」、「被虐待児」→「第四の発達障害」とあるが「人=障害」となっていて支離滅裂な文章だ。そもそも本書のタイトルが致命的で虐待には加害者と被害者が存在するわけだが、親なのか子なのかわからぬ「子ども虐待」という言葉を発達障害に直接結びつけている。

 上記引用箇所では「被虐」と読めるが、「表3 発達障害の分類」では第四群の定義を「子どもに身体的、心理的、性的加害を加える。子どもに必要な世話を行わない」とある。これだと「加虐」となる。学研には編集者がいないのだろうか?

 説明の拙さや言葉の曖昧さが読み手に不安を募らせる。こんな人物が本当に権威なのか?

 私の理解では杉山の主張は「被虐待によって脳がダメージを受け、発達障害と酷似した症状が現れる」ということなのだろう。それにしても被虐(状況)=障害(症状)という設定そのものがおかしい。

 拘留中の渡邊博史〈わたなべ・ひろふみ〉に香山リカが差し入れた一冊である。

2016-06-18

『イーリアス』に意識はなかった/『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』ジュリアン・ジェインズ


『動物感覚 アニマル・マインドを読み解く』テンプル・グランディン
『死と狂気 死者の発見』渡辺哲夫

 ・手引き
 ・唯識における意識
 ・認識と存在
 ・「我々は意識を持つ自動人形である」
 ・『イーリアス』に意識はなかった

『新版 分裂病と人類』中井久夫
『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』トール・ノーレットランダーシュ
『身体感覚で『論語』を読みなおす。 古代中国の文字から』安田登
『あなたの知らない脳 意識は傍観者である』デイヴィッド・イーグルマン
『奇跡の脳 脳科学者の脳が壊れたとき』ジル・ボルト・テイラー
『AIは人類を駆逐するのか? 自律(オートノミー)世界の到来』太田裕朗

 しかし、人間の進化は単純な直線をたどってきたのではない。人類の歴史をひともくと、紀元前3000年頃にひときわ目を引く不思議な慣習が登場する。話し言葉を変容させて、石や粘土板、パピルス(もしくは紙)に小さな印を使って記すようになったのだ、このおかげで、耳で聞くことしかできなかった話し言葉は、目に見えるものともなった。それも、そのとき聞こえる範囲にいた者だけでなく、万人のものとなった。

【『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』ジュリアン・ジェインズ:柴田裕之訳(紀伊國屋書店、2005年)以下同】

イエスの復活~夢で見ることと現実とは同格/『サバイバル宗教論』佐藤優

 人類の脳は約240万年前に巨大化した。言葉が生まれた時期については不明だが、7万5000年前には使用されていた証拠があるという(『人類進化の700万年 書き換えられる「ヒトの起源」』三井誠)。近代における情報革命は活版印刷(1455年)~カメラ-写真(1827年)~電信(1830年代)・電話(1876年)~映画(1895年:リュミエール兄弟ラ・シオタ駅への列車の到着』)と花開く。


 その後はラジオ(1906年)、テレビ(1926年)~インターネット(1969年)と続く。尚、カメラ以降の背景にはアレッサンドラ・ボルタによるボルタ電池の発明(1800年)を始めとする電気革命があった。彼の名に因(ちな)んで電圧を「ボルト」と呼ぶ。

アゴ弱り脳膨らむ、遺伝子レベルで裏付け…米チーム

 人類の脳が大きくなった原因につながる遺伝子を、米ペンシルベニア大などの研究チームが突き止め、25日付の英科学誌「ネイチャー」に発表する。この遺伝子は本来、類人猿の強じんなアゴの筋肉を作る働きがあったが、人類では偶然、約240万年前に機能を喪失。このため、アゴの筋肉で縛りつけられていた頭の骨が自由になり、脳が大型化するのを可能にしたらしい。
 人類は、約250万-200万年前に猿人から原人へ進化し、脳は大きさが猿人の2倍程度になったとされる。今回の遺伝子が機能を失ったのは約240万年前と推定され、原人への進化時期と一致する。
 これまでの化石研究などから、頭の骨が膨らんだのは、頭頂部に近い所から続いていた猿人のアゴの筋肉が弱くなり、解放されたためではないかと考えられていたが、この進化過程を遺伝子レベルで裏付ける証拠が見つかったのは初めて。
 チンパンジーやゴリラは今も、この遺伝子が働いていて、アゴの筋肉が頭部を広く覆っている。人類は原人に進化した段階で、硬い木の実に加え、軟らかい肉なども食べるようになり、アゴの筋肉の退化も不利にならなかったようだ。
 斎藤成也・国立遺伝学研究所教授の話「化石で見られる頭骨の形の変化を、遺伝子レベルで突き止めた成果で興味深い。遺伝子から人類進化を明かす研究はますます活発化するはずだ」

◆人類の脳の進化=約700万-600万年前に誕生した猿人の脳容量は350-500cc程度だったが、現生人類では約1400cにまで大きくなった。脳の大きさを制限していたアゴの筋肉の減少に加え、二足歩行で自由になった両手を使うことで、脳の発達が促されたとする説もある。

【YOMIURI ONLINE 2004年3月25日】

 487万年前±23万年に猿人が直立二足歩行を開始する。約260万年前には石器が使用される(『火の賜物 ヒトは料理で進化した』リチャード・ランガム)。脳の大型化は直後の約240万年前である(地球史年表:1000万年前-100万年前)。火の使用を始めた時期については判明していない(初期のヒト属による火の利用)。240万年前から使用したと考えてもよさそうなものだ。火がなければ肉食獣の攻撃を防ぐことはできなかったはずだ。調理同様、言葉もまた炉辺(ろへん)から生まれたと考えられている。

昆虫食が人類の脳の大型化に貢献した、ワシントン大セントルイス


 文字の歴史についてもまだまだ判明していないことが多い。現在、最古とされているのはメソポタミアの楔形(くさびがた)文字とエジプトのヒエログリフである(紀元前3200年頃)。

 言葉は空間を超えて複数の人々とのコミュニケーションを可能にし、文字は時間を超えたコミュニケーションを実現した。文字の発明は人間が歴史的存在になったことを意味する。

 私の仮説に関連して検討するにあたり、確実な翻訳が行なえる言葉で書かれた人類史上最初の著作は『イーリアス』だ。現代の研究では、血と汗と涙に彩られたこの復讐譚は、吟じ手(アオイドス)と呼ばれる吟遊詩人の伝統によって創り上げられたものと考えられ、その時期は、近年発見されたヒッタイト語の銘板から、作品の中に記された出来事が起こったと推定できる紀元前1230年頃から、作品が文字で記された紀元前900年頃ないし850年頃までの間ではないかとされている。本章では、この叙事詩をきわめて重要な心理学上の記録として取り上げることにする。そして、ここで投げかけるべき問いは『イーリアス』における心とは何か、だ。

 答えは、とても平静ではいられないほど興味をかき立てられるものだ。おしなべて、『イーリアス』には意識というものがない。


 とすると『イーリアス』は壁画であったのだろう。そこにはまだ「物語」がなかった。心は事実を解釈するに至っていなかった。つまり意識は存在しなかったのだ。



不確実性に耐える/『まんが やってみたくなるオープンダイアローグ』斎藤環解説、まんが水谷緑

2016-04-18

秘教主義の否定/『アドラー心理学入門 よりよい人間関係のために』岸見一郎


 ・秘教主義の否定

『嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え』岸見一郎、古賀史健
『幸せになる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教えII』岸見一郎、古賀史健
・『失敗の科学 失敗から学習する組織、学習できない組織』マシュー・サイド
『ザ・ワーク 人生を変える4つの質問』バイロン・ケイティ、スティーヴン・ミッチェル

 あるとき、ニューヨークの医師会がアドラーの教えだけを精神科の治療に使うために採用したい、ただし医師だけに教え、他の人には教えないという条件を提示したとき、アドラーはその申し出を断りました。「私の心理学は[専門家だけのものではなくて]すべての人のものだ」とアドラーはいいました。

【『アドラー心理学入門 よりよい人間関係のために』岸見一郎(ベスト新書、1999年)】

 書評を書いたところで内容が知れているので、思いつくまま記すことにしよう。私の場合、感じる能力は強いのだが説明能力が劣るためだ。一般的に考えられている頭のよさとはプレゼンテーション能力を意味する。あらゆるレビューに求められるのもこれだ。要旨をまとめ、違いを示し、動機を与え、行動を促す。ま、営業・販売や自己宣伝の能力だわな。

 昨日の書評(序文「インド思想の潮流」に日本仏教を解く鍵あり/『世界の名著1 バラモン教典 原始仏典』長尾雅人責任編集)に書き忘れたことも付け加えておく。

 岸見の著作を読むまで私はアルフレッド・アドラーアブラハム・マズローを混同していた。『嫌われる勇気』がベストセラーになっていたのは知っていたが、直ぐに手を伸ばさなかったのは「どうせ自己実現だろ?」と勝手に思い込んでいたためだ。が、それはマズローだった。

 アドラーはフロイトと共同研究を行っていたが、学問的見解を異にし、やがて袂(たもと)を分かつ。精力的に臨床を行った現場の人でもある。


 アドラーの言葉は「秘教主義の否定」であろう。ウパニシャッドに限らず大方の宗教には秘教的要素がある。宗教学ではエソテリシズムといい、インド宗教においては密教と名づける。

 西暦1700年か、あるいはさらに遅くまで、イギリスにはクラフト(技能)という言葉がなく、ミステリー(秘伝)なる言葉を使っていた。技能をもつ者はその秘密の保持を義務づけられ、技能は徒弟にならなければ手に入らなかった。手本によって示されるだけだった。

【『プロフェッショナルの条件 いかに成果をあげ、成長するか』P・F・ドラッカー:上田惇生〈うえだ・あつお〉編訳(ダイヤモンド社、2000年)】

 手工業の時代にあっては技能・技術すら秘教であった。もともと西洋の学問世界は秘伝として教えられた長い歴史がある。ピタゴラスの数学世界は五芒星を掲げる教団から生まれたものだ。西洋では大学が12~13世紀に生まれるが学問を支配していたのは教会であった。そして女性に学問は不要と考えられていた(『フェルマーの最終定理 ピュタゴラスに始まり、ワイルズが証明するまで』サイモン・シン)。

 グーテンベルクの印刷革命が1445年に狼煙(のろし)を上げる(※ただし活版技術を創案したわけではなく飽くまでも象徴である→世界史用語解説 授業と学習のヒント:金属活字)。最初に印刷したグーテンベルク聖書宗教改革の導火線となる。ドラッカーが指摘する年代は「百科全書」の作成時期(1751~1772年)と重なると見てよい。いよいよ「知識の時代」が到来したのだ。

 知識は紙を通して広まった。やがて科学革命が花開き、そして教会の権威が失墜する。秘伝が技能となり、秘教は知識となった。近代を開いた原動力がここにある。

 ブッダの遺言にこうある。

「アーナンダよ。修行僧たちはわたくしに何を期待するのであるか? わたくしは内外の隔てなしに(ことごとく)理法を説いた。完(まった)き人の教えには、何ものかを弟子に隠すような教師の握拳(にぎりこぶし)は、存在しない。『わたくしは修行者のなかまを導くであろう』とか、あるいは『修行僧のなかまはわたしに頼っている』とこのように思う者こそ、修行僧のつどいに関して何ごとかを語るであろう。しかし向上につとめた人は、『わたくしは修行者のなかまを導くであろう』とか、あるいは『修行僧のなかまはわたしに頼っている』とか思うことがない。向上につとめた人は修行僧のつどいに関して何を語るであろうか」

【『ブッダ最後の旅 大パリニッバーナ経』中村元〈なかむら・はじめ〉訳(岩波文庫、1980年/ワイド版、2001年)】

「何ものかを弟子に隠すような教師の握拳(にぎりこぶし)は、存在しない」――ブッダは秘教主義と無縁であった。更には指導者の存在をも否定している。ブッダは「自分よりも優れた人を友とせよ」と教えた。好き嫌いで選ぶ人間関係は互いを戒め合うことがない。気分や感情に流されがちで、自分自身を真摯に見つめる姿勢も生まれにくい。もしも尊敬し信頼するような人がいなければどうすればいいのか? 「どうしても仲間がいなければ、独りでいてください」(『原訳「法句経」(ダンマパダ)一日一悟』アルボムッレ・スマナサーラ、佼成出版社、2005年)。「犀の角のようにただ独り歩め」(『ブッダのことば スッタニパータ』中村元〈なかむら・はじめ〉訳、岩波文庫、1958年/岩波ワイド文庫、1991年))ばいいのだ。

 神智学協会から「世界教師」と目され、大切に育てられたクリシュナムルティが、自分のために設けられた「東方の星の教団」を解散したのは34歳の時であった。「真理は途なき大地である」(『クリシュナムルティ・目覚めの時代』メアリー・ルティエンス、高橋重敏訳、めるくまーる、1988年)と。真理が途(みち)なき大地であればガイド(案内人)は不要だ。そして「新しい獄舎(教団)をつくるつもりはない」と宣言した。その後、終生にわたって集団はおろか弟子の存在すら認めなかった。

 集団は内に向かって特殊な力学が働く。そして集団は必ず暴力性を伴う。「数は力」なのだ。爆音を鳴らしながら道路交通法を踏みにじる暴走族、熱狂的なファン、示威行為の自覚を欠いたデモ、整然と行進する兵士、教祖の話に耳を傾ける多数の崇拝者……。更に権威を成り立たせているのも多数の人間である。

 多数に従い、平均的であることは生存率を高める。進化過程では平均が有利なのだ(『病気はなぜ、あるのか 進化医学による新しい理解』ランドルフ・M・ネシー&ジョージ・C・ウィリアムズ、新曜社、2001年)。動物として生きるのならば群れに従うのが正しい。ただし、そこに自由と英知はない。

 コンピュータがパーソナル化され情報革命は拍車をかける。とはいうものの専門化した科学、形而上に向かう哲学はどこか秘教的である。そして本当に儲かる話はインサイダーしか知らない。

 アドラーは自分の名前が宣揚されることよりも、自分の理論がコモンセンスとなることを望んでいたという。ここに本物の人間の生き方があるように思う。

 本書に深く感動した20代の古賀史健〈こが・ふみたけ〉は、岸見とアドラーの決定版を作ることを夢見る。10年以上を経て岸見と直接見(まみ)え、遂に2013年、『嫌われる勇気』を刊行する。今年の2月、既に32刷となり累計で100万部を超えるベストセラーとなった。同書は韓国でもほぼ同じ売れ行きとなっている。

 クリシュナムルティの言葉が引用されていることも付け加えておく。

アドラー心理学入門―よりよい人間関係のために (ベスト新書)
岸見 一郎
ベストセラーズ
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2015-10-30

「心の病」という訴え/『子は親を救うために「心の病」になる』高橋和巳


『3歳で、ぼくは路上に捨てられた』ティム・ゲナール
『生きる技法』安冨歩

 ・子は親の「心の矛盾」もまるごとコピーする
 ・「心の病」という訴え

『消えたい 虐待された人の生き方から知る心の幸せ』高橋和巳
『生ける屍の結末 「黒子のバスケ」脅迫事件の全真相』渡邊博史
『累犯障害者 獄の中の不条理』山本譲司
『ザ・ワーク 人生を変える4つの質問』バイロン・ケイティ、スティーヴン・ミッチェル

虐待と知的障害&発達障害に関する書籍
必読書リスト その二

 苦しい生き方を強いられた子は、思春期になって苦しみを訴え、生き方を変えたい、助けてほしいと親に迫る。しかし、多くの親はその訴えを理解しない。なぜなら、親は長い間続けてきた自分の生き方に疑問を持っていないので、子どもが何を訴えているのか見当がつかないのだ。子どもが「辛い」と訴えれば、親は自分の人生観から「あなたには我慢が足りない」としか応えられない。親から見ると、子どもはただ「我がままを言い」「親に甘えて」自立していないように映る。親は「そんな子に育てた覚えはない」とイライラし、子どもは「親がいけないんだ」と言い返し、親子対立は激しくなる。
 子どもは分かってもらないと落胆し、挫折し、怒りの気持ちをどこに持っていったらいいか分からなくなる。
 そうして、彼らは最後の手段に訴え、「心の病」になる。

【『子は親を救うために「心の病」になる』高橋和巳〈たかはし・かずみ〉(筑摩書房、2010年/ちくま文庫、2014年)以下同】

『子は親を救うために「心の病」になる』というタイトルの核心部分である。子供がうつ病になって困っている親はたくさんいることだろう。ただおろおろしている親はもっと多いことだろう。舌打ちしながら冷たい視線で眺めている父親も少なくない。高橋和巳は「物語の書き換え」を迫る。

 以下はうつ病に関する情報である。

・ギリシャ時代に「メランコリー」と呼ばれていた「うつ」は、19世紀に入ってから病気としての概念が確立。
・うつ病の発症には、その人本来の性格や家庭・職場でのストレスなど、さまざまな環境が影響しますが、それ以上に大きな要因は、脳内の神経伝達物質が不足すること。
・そう考えれば、「心の病気」というよりも「神経の病気」と認識できる。
・不足している神経伝達物質を薬で補うことによって、症状は確実に改善される。
・2週間以上、落ち込んだ気分が続くようであれば、うつ病の可能性が考えられる。さらに、落ち込んだ気分と同時に何らかの身体症状があるのも特徴。
・うつ病の抑うつ気分や、意欲低下の症状は、午前中に強く現れる。

【『けんこうさろん』NO.156 2005-04-20発行】

 病院に置いてあったパンフレットみたいな代物のせいかデタラメ全開である。一昔前に「心の病は脳の病」という考え方が出回ったが「神経の病気」も同じ穴の狢(むじな)だろう。「薬で治せる」という製薬会社の企業戦略を推し進めるキャッチコピーだ。「驚くべきことに、ほとんどの精神疾患患者で、化学的なバランスのくずれがあるという確かな証拠はなにもない」(『精神疾患は脳の病気か? 向精神薬の化学と虚構』エリオット・S・ヴァレンスタイン、2008年)。ただし、うつ病(メランコリー)がギリシャ時代から存在したことは覚えておいてよい。

 いろいろな親子が思春期の「心の病」をかかえて、私のクリニックにやって来る。その問題とは、不登校、引きこもり、万引き、リスカ(リストカット=手首を切るという自傷行為)、拒食症、過食症、過呼吸発作、家庭内暴力、OD(オーバードース=薬を多量に飲んで自殺を図ること)、非行、ドラッグ(薬物)……などである。これらは、親から引き継いだ「心の矛盾」が子の中に生み出した「病」である。と同時に、教わってきた生き方を修正するために子どもたちが始めた抗議行動であり、親子関係を見直すためにとったぎりぎりの手段である。
 ここまでしないと、親は訴えを聞いてくれない。振り向いてくれない。
 子の苦しみは、親から受け継いだ苦しみである。だから、親の苦しみでもある。十数年間、無心に親に従ってきた子は、心の深いところで、親と一緒に治りたいと願う。親が生き方を修正して親自身の苦しさを取ってくれなければ、自分の苦しみも取れない、と知っている。

 病状ではなく病因を見つめる。家庭の内部には外から窺うことのできない闇がある。夫婦はたいていの場合、同じ価値観を共有しており、善悪を巡って争うことは稀だ。家庭には小さな暴力、小さな抑圧、小さな不正、小さな嘘が紛れ込んでいる。人の出入りが少ない家庭ほど風通しは悪い。まして少子化である。フォローできる横の関係も失われている。

 他人が親子関係に介入することは困難だ。どうしても親だけ、子だけへのアプローチとならざるを得ない。となればやはり専門家の門を叩くのが望ましいのだろう。

 高橋の説く物語はわかりやすい。例外はないのだろうか? また大人の精神疾患はどう考えればよいのか? 一つ答えが見つかると、別の新しい疑問が湧いてくる。

 視点を高めることで物語は上書き更新される。因果の書き換え作業だ。重要なのは「更新された物語」よりも「物語の解体」にある。つまり「書き換え可能性」を見出すことなのだ。

2015-10-18

子は親の「心の矛盾」もまるごとコピーする/『子は親を救うために「心の病」になる』高橋和巳


『3歳で、ぼくは路上に捨てられた』ティム・ゲナール
『生きる技法』安冨歩
『子ども虐待という第四の発達障害』杉山登志郎

 ・子は親の「心の矛盾」もまるごとコピーする
 ・「心の病」という訴え

『消えたい 虐待された人の生き方から知る心の幸せ』高橋和巳
『生ける屍の結末 「黒子のバスケ」脅迫事件の全真相』渡邊博史
『累犯障害者 獄の中の不条理』山本譲司
『ザ・ワーク 人生を変える4つの質問』バイロン・ケイティ、スティーヴン・ミッチェル

虐待と知的障害&発達障害に関する書籍
必読書リスト その二

 12歳のころまでは、子どもは無心に親を真似て、生き方を学び、それに従っていく。親を信じて疑わない。すべては親が基準である。それは、やがて大人になって生きていくときの大切な心の基盤となる。
 しかし、親も完璧な人間ではないから、気持ちの偏りや悪い心、嘘、辛い気持ち、間違った生き方をかかえている。子どもはそういった親の「心の矛盾」もまた無心に、まるごとコピーする。
 親の「心の矛盾」がそれほど大きくなければ、子は幸いである。コピーした生き方は、辛いものではなく、心の矛盾にも大して煩わされることなく、親の庇護の元で、安心して自分の興味を広げ、能力を伸ばしていくことができる。
 一方、親の「心の矛盾」が大きいと、それを取り込んだ子どもは親と同じ苦しみを生き始める。もちろん、子どもは無理なことを教えられているとは気づかずに、それに従う。(中略)
 かかえ込んだ心の矛盾は、しかし、次の思春期になって爆発する。

【『子は親を救うために「心の病」になる』高橋和巳〈たかはし・かずみ〉(筑摩書房、2010年/ちくま文庫、2014年)】

 我が身を振り返る。幼児期に埋め込まれた価値観、形成される反応、それが個性なのか? 兄弟が似ていないのは親の接し方が違ったせいなのか? 親だって人間なのだから子によって好き嫌いが分かれることもあるだろう。ほんのわずかな心の配り方で子供の人生は翻弄される。苗木についた傷は消えることがない。若木の枝が折れてしまえば樹木の形は変わる。

 私の驚くほど飽きっぽい性格は、きっと親に褒めてもらうことが殆どなかったことに起因するのだろう。粘り強さを発揮する前に、粘るだけの価値がないことを異様な速さで見極めてしまう。読書、スポーツ、友人からの相談事を除けば私の情熱を掻き立てるものはない。サラリーマン時代に月給が100万円を超えた時も「こんなもんか」と冷めた気持ちになったことを覚えている。カネも情熱の対象にはなり得なかった。

 その代わりと言っては何だが、人助けとなると尋常ならざる能力を発揮する。知恵と悪知恵を巡らせながら、暴力的な示威行為も平然とやってのける。これは完全に父親譲りの気質だ。

 上記リンクの安冨本を読んだ時、両親の愛情の薄さをはっきりと自覚した。そもそも愛情を感じたことがなかった。そのおかげだと思うが私には寂しいという感情が欠落している。もちろん友人や同僚が転居をした時など「あいつがいなくなると寂しくなるな」と口にすることはある。しかし心の中では「仕方がない」と割り切っている。

 親というモデルを子供は疑うことができない。これは重要な事実である。私は既に五十の坂を越える年齢となったが、いまだに「親の心の矛盾」を理解したとは言い難い。そう考えるとたぶん「平凡な家庭」など存在しないのだろう。千差万別の矛盾を抱えたそれぞれの家庭があるのだ。

 あれこれ考えると、まともな親なんて存在しないような気になってくる。ま、親に理想を求めてもしようがないのだが。



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