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2013-10-02

真のコミュニケーション/『集合知の力、衆愚の罠 人と組織にとって最もすばらしいことは何か』アラン・ブリスキン、シェリル・エリクソン、ジョン・オット、トム・キャラナン


『新・人は皆「自分だけは死なない」と思っている』山村武彦
『人が死なない防災』片田敏孝
『無責任の構造 モラルハザードへの知的戦略』岡本浩一
『最悪の事故が起こるまで人は何をしていたのか』ジェームズ・R・チャイルズ
『生き残る判断 生き残れない行動 大災害・テロの生存者たちの証言で判明』アマンダ・リプリー
『死すべき定め 死にゆく人に何ができるか』アトゥール・ガワンデ
『失敗の科学 失敗から学習する組織、学習できない組織』マシュー・サイド
・『群衆の智慧』ジェームズ・スロウィッキー

 ・集合知は群衆の叡智に非ず
 ・集合知は沈黙の中から生まれる
 ・真のコミュニケーション

『オープンダイアローグとは何か』斎藤環著、訳
『まんが やってみたくなるオープンダイアローグ』斎藤環、水谷緑まんが
『隠れた脳 好み、道徳、市場、集団を操る無意識の科学』シャンカール・ヴェダンタム
『予想どおりに不合理 行動経済学が明かす「あなたがそれを選ぶわけ」』ダン・アリエリー

必読書リスト その五

 本書を読んでいると人と人とのつながりを考えさせられる。果たして我々の日常に「対話」と呼べる行為があるだろうか? また他人に対しては傾聴を求めがちだが自分は傾聴しているだろうか? そして集合知が求められるのはどのような場面だろうか?

 多くの人は自らの完全性を、自らの宗派の完全性と同じく絶対のものだと確信しています。あるフランス人女性は、ちょっとした姉妹喧嘩で「でも、つねに正しい人など会ったことがないわ。私以外はね」と言いました。(ベンジャミン・フランクリン)

【『集合知の力、衆愚の罠 人と組織にとって最もすばらしいことは何か』アラン・ブリスキン、シェリル・エリクソン、ジョン・オット、トム・キャラナン:上原裕美子〈うえはら・ゆみこ〉訳(英治出版、2010年/原書、2009年)以下同】

 その意味では誰もが何らかの「信仰」を持っていると考えてよい。信者の辞書に「自問自答」は存在しない。もちろん「懐疑」も。

 フランクリンは、(中略)言葉数は少ないながら、宗教の不可謬性と、「自分はつねに正しい」と思いたがる人間ならではの性質を並べて論じてみせた。不可謬性を信じるのは時代遅れであり、民主主義が求めるものとは真っ向から対立すると主張し、個人または少集団がつねに正しい、または唯一の解決策を持っていると考えると、集団は危険な存在となると警告した。

 ただし民主主義も多様性から一気に衆愚へ傾く場合がある。特に不況で国民の間にストレスが蔓延している時は要注意だ。

 民主主義は脆弱な同意だ。集団の力と技術、そして理性を共有する人の力に依存している。だが真の民主主義はパワーになる。他者の意見に耳を傾けることを通じて、互いの差異と団結とを意識することのできる新しい集合体が生まれる。

 マスメディアが正常に機能していない以上、間接民主制(代議制)が集合知を発揮するとは思えない。種としてのヒトのコミュニティはやはりインディアンなどの部族程度が望ましいのではないだろうか。直接「声が届かなければ」集合知には至らないと私は考える。

「真の対話(ダイアログ)とは、ふたり以上の人間が、相手の前で自分の確信を保留できることによって生じる」(デヴィッド・ボーム)

 クリシュナムルティと対談している割にはボームの『ダイアローグ 対立から共生へ、議論から対話へ』は面白くなかった。

 集まっていたごく普通の人たちが、「聞く耳がある」ではなく、「聞く力がある」という態度で、互いの意見に耳を傾けた。

 ここは「聴く力」とすべきである。「聴」の字は「聡」や「徳」に通じているような気がする。それにしても見事な表現だ。

 集団の構成員は、それぞれが独自の目で世界を見ている。それぞれの情報はすべて貴重であり、同時に、全体を構成する一部でもある。場合によっては厄介だ。

 それぞれの情報は「部分情報」なのだ。ゆえに部分を統合させる作業が必要となる。各人が部分に固執してしまえば全体を見失う。「聴く」ことが石段となって高い視点を生み出す。

 そして集合知に欠かせないのは「よい方向への逸脱(ポジティブ・デビアンス)」であるという。逸脱が豊かな幅を形成する。

「どんなコミュニティや組織にも、あるいは社会的集団の中にも、例外的なふるまいや行動をして、よい結果を得ている存在がいる。……こうした“ポジティブ・デビアント(よい方向に逸脱した人たち)”は、自分では意識することなく、集団全体に成功をもたらす道を見つけている。彼らの秘密を分析し、分離し、のちに集合全体で共有すればいいのだ」(デヴィッド・ドーシー)

 一言でいえば「ユニーク」ということだ。多彩な表現力が新たな発見につながる。

 そして、特定のスタンスから一歩下がれば、全体の秩序やパターンも見えてくる。

「下がる」とは「離れる」こと。自分の部分情報から離れて全体の景色を見るのだ。

 エマソンは生の全容を、その矛盾と変則性を、学びに向けた欠かせない道として受け入れていた。神が作ったすべてのものにはヒビがあり、そのせいで人は未完成であると同時に、その裂け目から光が入る、と考えていたことは有名だ。

 エマソンは上手いことを言う。世界は神が造った不良品だ。

「精神は、それぞれに自分の家を建てる」(エマソン著『自然論』)

 その家を外から眺める人の何と少ないことか。皆、家の中から窓の外を眺めている。

 分断と細分化へ向かうのではなく、いつわりの合意、見せかけの団結に向かおうとする。このパターンにおいて、集団の構成員は沈黙と服従を選ぶ。集団内の不一致を明らかにするよりも、団結の幻想を守りたいと考える。

 これこそ集合知を阻む一凶である。知性を眠らせて隷属に向かう同調圧力が働くのだ。太鼓持ちやスネ夫タイプがいると集合知は生まれ得ない。

 ヘウムに住む賢者たちは愚か者だ、と言う者がいます。信じてはいけません。ただ、いつも愚かな出来事が彼らに起きるだけなのです。
  ――ソロモン・シモン『ヘウムの賢者たちと、その楽しいお話』より

 邦訳未完。知の力は内省的なものだ。無知の自覚が知の扉を開く。独善性は世界を歪める。北朝鮮やオウム真理教の正義を参照せよ。

 何かが真実であると確信すると、確証バイアスの呪いのもと、人はそのバイアスを裏付けるデータだけを探そうとする。真実であると思っていることに逆らうかもしれないデータは、すべて否定するか、「意訳」しようとする。

 一を聞いて十を知る人もいれば、一を見て9.9を失う人もいる。人間とは解釈する動物である。もちろん自分の都合に合わせて。認知レベルの誤謬を我々は自覚することができない。

誤った信念は合理性の欠如から生まれる/『人間この信じやすきもの 迷信・誤信はどうして生まれるか』トーマス・ギロビッチ

「わたしは人間だ。人間にかかわることなら何だって、ひとごととは思えない」
 共和制ローマの劇作家テレンティウス(紀元前195?~159年)の戯曲『自虐者』より

「私は人間である。人間のことで私に関係のないものなど何もない」(プビリウス・テレンティウス・アフェル

 テレンティウスはアフリカ人でかつて奴隷だった人物。自分が受けた苦しみを通して人類にまで眼(まなこ)を開いた。他者と関わり合う姿勢の中に集合知の萌芽がめばえる。

 衆愚は引力だ。あらゆる集団に発生し、知と反対の方向へと引きこもうとする。

 衆愚は黒々とした奔流となって暴走する。衆愚は声高に正義を叫びながら人々を邪悪な方向へと導く。大衆は考えることよりも走ることを好む。パンとサーカスがあれば完璧だ。

「思慮深く意欲的な少数の人間の集まりだけが世界を変えられる」マーガレット・ミード

 とすると野次と怒号が飛び交う国会はやはり人数が多過ぎるのだろう。群衆は責任を欠く。人影の後ろから石を投げるようなのばっかりだ。

 ボストン・フィルハーモニーの指揮者ベン・ザンダーは、(中略)「シンフォニー」という言葉はもともと「シン(共に)」と「フォニア(響く)」を組み合わせた言葉だと説明した。

 集合知が機能する人数の参考になりそうだ。

 4人の著者名から成る本書そのものが集合知の結晶と思えてならない。スコット・ペイジ著『「多様な意見」はなぜ正しいのか 衆愚が集合知に変わるとき』も開いたが全くレベルが違う。

 本書はビジネスに活かすような代物ではない。真のコミュニケーションを具体的に示した正真正銘の傑作である。



コミュニケーションの本質は「理解」にある/『自我の終焉 絶対自由への道』J・クリシュナムーティ

2013-09-15

集合知は沈黙の中から生まれる/『集合知の力、衆愚の罠 人と組織にとって最もすばらしいことは何か』アラン・ブリスキン、シェリル・エリクソン、ジョン・オット、トム・キャラナン


『新・人は皆「自分だけは死なない」と思っている』山村武彦
『人が死なない防災』片田敏孝
『無責任の構造 モラルハザードへの知的戦略』岡本浩一
『最悪の事故が起こるまで人は何をしていたのか』ジェームズ・R・チャイルズ
『生き残る判断 生き残れない行動 大災害・テロの生存者たちの証言で判明』アマンダ・リプリー
『死すべき定め 死にゆく人に何ができるか』アトゥール・ガワンデ
『失敗の科学 失敗から学習する組織、学習できない組織』マシュー・サイド
・『群衆の智慧』ジェームズ・スロウィッキー

 ・集合知は群衆の叡智に非ず
 ・集合知は沈黙の中から生まれる
 ・真のコミュニケーション

『オープンダイアローグとは何か』斎藤環著、訳
『まんが やってみたくなるオープンダイアローグ』斎藤環、水谷緑まんが
『隠れた脳 好み、道徳、市場、集団を操る無意識の科学』シャンカール・ヴェダンタム
『予想どおりに不合理 行動経済学が明かす「あなたがそれを選ぶわけ」』ダン・アリエリー

必読書リスト その五

 それでは集合知が生まれる場面を見てみよう。

 踏み込んだ質問が、踏み込んだ答えを引き出した。

【『集合知の力、衆愚の罠 人と組織にとって最もすばらしいことは何か』アラン・ブリスキン、シェリル・エリクソン、ジョン・オット、トム・キャラナン:上原裕美子〈うえはら・ゆみこ〉訳(英治出版、2010年/原書、2009年)以下同】

 議論が深まるのは皆に共通する疑問を探り当てた瞬間だ。問題は常に氷山の一角として現前する。表面化していない海中に実体を隠しながら。大切なのは「問い」の質である。

 筆者であるクレイグ・ハミルトンから取材を受けた別の女性は、自分が体験した集団体験についてこう語っている。
「誰かが喋ると、それはまるで自分が喋ったかのように感じられました。私が喋ると、そこには自分がまったく感じられませんでした。まるで、ほんとうは私じゃないみたいに。まるで、私よりも大きな何かが、私を通して喋っているかのように。室内の空気は、川の中にいるような感じでした。……私たちは、それまで考えたこともなかったことを喋り始めました……何かが開かれ、それがまた別の何かを開いていくようでした」
 こうした理解は、急に皆が次の行動を察せられるようになる、という形で表面化する場合がある。少ない言葉でも意思疎通ができ、連帯感や共通の目的意識が増幅されるのだ。
 この現象は「わからない」という状態から生じることが少なくない。わからないことがあれば、人はそれぞれ心の内で考えを深め、多様な視点に耳を傾ける。専門家たろうとするのをやめ、心を開こうとする。認知科学者のフランシスコ・ヴァレラは、これを、「断絶が起きる瞬間、すなわち、私たちが“知る者”ではなくなるとき……私たちは入門者のようになり、目の前の作業に馴染もうとする」からだと説明した。言い換えれば、世界が馴染みの薄いものとなる瞬間に、人は新たなる道を探し、新たな行動を起こすチャンスを手にするのだ。
 集団が進んでリスクを負い、「わからない」という事実を認めるとき、深い洞察力が生じやすいというのは、集合知のパラドックスのひとつである。

 共感から連帯感が生まれ、連帯感が洞察に至る。発言と傾聴それ自体が一体となる様はまるで音楽のようだ。私も幾度か経験しているが、人とのつながりがシナプスのつながりに直接通じるような実感を覚えた。

「わからない」という自覚があるからこそ新たな視点が生まれる。

 人が心を開き、なおかつ自分の思うままにしようとせず、進んでその一分になろうとするとき、集合知は出現する。その成果は、たいていは予想外のものだ。当初は想像もしていなかったものが出てくる場合もある。(中略)「わかる」と「わからない」の狭間、新たな意味と視点が生じる小さな隙間に、知がたちのぼってくるのである。

「わかっている人」は傾聴することができない。他人を値踏みし、自分の発言の効果だけ考えている。

 集合知は会話によって導かれるが、それがもっとも強く意識されるのは、会話と会話のあいだに生じる沈黙においてである。

 ここ、アンダーライン。沈黙の中から集合知は生まれ、余韻から智慧が生じる。これはもう議論ではない。個々の存在を融合させる祈りの世界だ。

 集合知が生じるのは、自分たちが単なる外面的部品の総和ではないと理解したときだ。そこには個々の、集団の、そして大きな集合体としての内面的領域がある。傾聴するというのは、その人の中で、その集団の中で、大きな集合体の中で、何がほんとうに起きているのか好奇心を持つ行為だ。

 次から次へと閃(ひらめ)きはとどまることを知らない。傾聴は責任と好奇心に支えられていたのだ。

 皆で何かを生み出せるかどうかは、個人または小集団の「自分(自分たち)はつねに正しい」という意識を保留できるかどうかにかかっているのだ。確信を意識的に保留することで、その集団から新しいもの、たいていは予想外のものが出現する。

 これは正義感というよりも「行動の正しさ」を意味する。ライト・スタッフ(正しい資質)と言い換えてもよかろう。その雰囲気の中から「正しい声」が上がる。

 イロコイ族の言葉には「我らがひとつの心であるように」という表現があります。ひとつの心にならなければ、合意にはならないのです。
「あらゆる決断は、七世代あとに与える影響を考えて決めなければならない」という言葉は、ご存じの方も多いでしょう。
 リーダーには、民衆の心(ハート)と魂(スピリット)に糧を与える責任があります。きちんとした情報という糧です。
 部族の母には、冬を越せるように、そして仮に翌年が凶作となっても3年ぶんの冬を越せるように、とうもろこしの数を数えておく責任があります。それと同じように、心と魂を育む責任があるのです。(※ポール・アンダーウッド)

 この辺りに人間の適切なコミュニティの大きさを量るヒントがありそうだ。国家は大きすぎるし、議員の数も多すぎる。

(※ポール・アンダーウッドは5歳から、来客の話を繰り返す訓練を課せられた)
 すると父はこう言いました。
「とても上手になったな。あの方の心は聞けたかな?」
 どいういうこと?――と私は思いました。そこで数日ほど、いろんな人の胸に耳をくっつけてまわり、心臓の音を聞こうとしてみました。
 すると父は、私のためにもうひとつ学びの場を作りました。母に言って、新聞の記事を読みあげてもらうのです。そしてこう言いました。
「今の記事を理解したかっったら、行間を読まなくてはならないよ」
 なるほど、と私は思いました。行間、つまり、言葉と言葉のあいだに耳を澄ますのです。次にトンプソンさんの話を聞く機会がめぐってきたとき、私は彼の言葉と言葉のあいだに耳を傾けるようにしました。
 父が「お話はわかったかね。心は聞けたかな?」と言うと、私は「聞けた」と答えました。トンプソンさんは寂しかったのです。自分の思い出を共有してほしくて、何度も何度も話しに来るのです。それは、私の内側からごく自然に出てきた気づきでした。言い換えるならば、私の心がトンプソンさんの心と響き合ったのです。そのレベルで耳を傾けることができれば、聞こえてくるのは人々の声だけではありません。ほんとうに心から聞こうとすれば、森羅万象の声が耳に入ってくるのです。

 傾聴とは「言葉と言葉のあいだに耳を澄ます」ことなのだ。言葉尻を捉えて非難するところに集合知など生じるはずがない。心と心が響き合う様子が美しい音色の谺(こだま)を思わせる。

 集合知の出現を促すには、個人として、そして集団として、論理的な思考と象徴形式的(シンボル・メイキング)な思考の両方を持たなければならない。「象徴(シンボル)は扉です。その扉を通って、より大きな理解へと進むのです」とアンダーウッドは話している。順を追ったロジックと、自然に生まれる洞察、段階的な展開と、直感的な飛躍。箇条書きの説明と、詩的な描写。それらを包含し、より洗練された理解を生むための素地を作らなくてはならない。複数の知性が合わさり、しれにもとづいた健全な判断が生じるとき、集合知が形成されやすいのである。

 何ということか。集合知は瞑想とマンダラ的要素(シンボル)をも含んでいたのだ。共感的な沈黙の中から突如として智慧の稲妻が光る。あたかも人類が進化する瞬間を見ているようだ。

 いくつか参考リンクを示す。

チンパンジーの利益分配/『共感の時代へ 動物行動学が教えてくれること』フランス・ドゥ・ヴァール

 共感は智慧を生むが、時に単なる同調へと傾く場合もある。

アッシュの同調実験/『服従の心理』スタンレー・ミルグラム

コミュニケーションの本質は「理解」にある/『自我の終焉 絶対自由への道』J・クリシュナムーティ
比較が分断を生む/『学校への手紙』J・クリシュナムルティ
あなたは人類全体に対して責任がある/『学校への手紙』J・クリシュナムルティ

 あと一回書く予定である。



政党が藩閥から奪った権力を今度は軍に奪われてしまった/『重光・東郷とその時代』岡崎久彦

2013-09-13

集合知は群衆の叡智に非ず/『集合知の力、衆愚の罠 人と組織にとって最もすばらしいことは何か』アラン・ブリスキン、シェリル・エリクソン、ジョン・オット、トム・キャラナン


『新・人は皆「自分だけは死なない」と思っている』山村武彦
『人が死なない防災』片田敏孝
『無責任の構造 モラルハザードへの知的戦略』岡本浩一
『最悪の事故が起こるまで人は何をしていたのか』ジェームズ・R・チャイルズ
『生き残る判断 生き残れない行動 大災害・テロの生存者たちの証言で判明』アマンダ・リプリー
『死すべき定め 死にゆく人に何ができるか』アトゥール・ガワンデ
『失敗の科学 失敗から学習する組織、学習できない組織』マシュー・サイド
・『群衆の智慧』ジェームズ・スロウィッキー

 ・集合知は群衆の叡智に非ず
 ・集合知は沈黙の中から生まれる
 ・真のコミュニケーション

『オープンダイアローグとは何か』斎藤環著、訳
『まんが やってみたくなるオープンダイアローグ』斎藤環、水谷緑まんが
『隠れた脳 好み、道徳、市場、集団を操る無意識の科学』シャンカール・ヴェダンタム
『予想どおりに不合理 行動経済学が明かす「あなたがそれを選ぶわけ」』ダン・アリエリー

必読書リスト その五

 批判するべく本書を開いた。パラダイムシフトを促してきたのは抜きん出た人物の傑出した視点であり、集団から導かれるのは所詮平均値のみである、と。最初の章で目論見は潰(つい)えた。いつの間にか私は集合知を群衆の叡智と勘違いしていたのだ。

「群衆の叡智」の理論によれば、多様な人々の集団にみられる異なる意見を集めれば、ひとりの専門家に意見を聞く場合より、最良の結論に達する可能性がはるかに高い。たとえば、ある牛の体重を多様な集団に推測させれば、その平均値は実際の体重に非常に近くなる。多様なギャンブラーの集団に、たとえば大統領選挙の結果を予測させれば、その予測の平均が実際の結果になる可能性が高い。「群衆の叡智」がはたらかないのは、群衆を構成する人々がそれほど多様ではないときだ。

【『「ジャパン」はなぜ負けるのか 経済学が解明するサッカーの不条理』サイモン・クーパー、ステファン・シマンスキー:森田浩之訳(NHK出版、2010年)】

 その意味で以下の記事も誤っていると言わざるを得ない。

集合知から考える、これからの情報社会のかたち
「個人」と「集合知」
予測市場が「集合知」を生み出す驚異の仕組み

 集合知は群衆の叡智ではない。またビッグデータを意味しない。

 Wikipediaによれば「多くの個人の協力と競争の中から、その集団自体に知能、精神が存在するかのように見える知性である」と定義されているが、本書で競争という指摘はない。多分(既に読んでから2年が経過している)。

 知とは、人間の共同体が賢明な選択をし、未来は決して他人事ではないと実感し、それを軸に軌道修正していくことのできる力を意味する。知とは連帯のことだ。人と人、あるいは人と総体との結びつきのことだ。知は本質として相関的な概念であり、それを特定の人物と同一視しすぎれば沈下するものなのだ。(ピーター・センゲ

【『集合知の力、衆愚の罠 人と組織にとって最もすばらしいことは何か』アラン・ブリスキン、シェリル・エリクソン、ジョン・オット、トム・キャラナン:上原裕美子〈うえはら・ゆみこ〉訳(英治出版、2010年/原書、2009年)以下同】

 いきなりこれだよ。カウンター気味のフックだ。わかるとは「分ける」ことだ。ゆえに行き過ぎた分析を要素還元主義と批判したのではなかったか(その後量子論の台頭によって引っ込めたわけだが)。

「わかる」とは/『「分ける」こと「わかる」こと』坂本賢三

 しかし「知とは連帯のことだ」という指摘も頷ける。そもそも科学の発達自体が連帯を示している。先人の英知は確かに受け継がれている。

 開発援助の業界では今も、貧困や、いわゆる発展途上地域の課題を解決するため、大々的で機械的、中央集権的なアプローチがとられている。発展という名目の下、村や地域の人々は、共同体的な関係性を損なうような方法への適応を迫られる。(外部の人間によって)問題が解決されてしまうのだ――その地域の人々自身が発展の主体性を担うことの必要性は考慮されない。(マリアンヌ・クヌース)

 もちろんそうだ。開発は金を出す側の都合で決められる。事実上、発展途上国の要人に対する賄賂と化しているケースも目立つ。IMFや世界銀行の仕事は途上国を債務漬けにすることだ。

経済侵略の尖兵/『エコノミック・ヒットマン 途上国を食い物にするアメリカ』ジョン・パーキンス
世界銀行とIMFの手口

 こうして貧しい国々は強制的に「依存」させられるのだ。資源や労働力は先進国に奪われ疲弊の一途を辿る。

 検索してわかったのだが、ピーター・センゲとマリアンヌ・クヌースは「ALiA」という団体のメンバーらしい。

オーセンティック・リーダーシップ探求の旅|僕達はどうしたらもっと良く話し合えるだろう?

 人との出会いから始まるのです。……どのように人と出会うかがすべてを決めるのです。相手のために最善を尽くそう、という前提で、人と出会っているでしょうか。人と人が結びつくという奇跡に関心を持って、それぞれに出会っているでしょうか。それとも、助けなければならないかわいそうな人間として、出会っているのでしょうか。(マリアンヌ・クヌース)

 同じ視線に立たなければ連帯することはできない。すなわち上下関係から集合知が生まれることはない。人と人とが対等に向き合う中から本物の英知が湧き起こる。

 紛争処理ファシリテーター、リーダーシップ・トレーナーの第一人者であり、『対立を通じたリーダーシップ』の著者マーク・ガーゾンは、次のような見解を寄せた。
「人間は知を求める。思いやり(コンパッション)ではない、愛でもない、平和でもない、優しさでもない――私の耳に何より入ってくるのは、知を求める声だ。それ以外の言葉には、いずれも深い意味があり、独特のパワーがある。だが、世界中の千差万別の領域で人の心をつかむのは、ほかでもない知であるらしい。私自身、この言葉に心を惹かれる。私は多種多様な環境を経験しているが、その多くにおいて、知こそが横断的なテーマであるからだ」

 これまた目から鱗が落ちる指摘だ。人は慰めを求める動物ではあるが、問題解決の過程では知を求めるのだろう。徳だけでは集団を救うことができない。

 では具体的に集合知が発揮された場面を見てみよう。

(※ホームランを打った選手が膝に痛みを感じて走塁中に倒れる。コーチが言った。「私がさわればアウトになる」。そしてチームメイトが支えた場合はホームランではなくヒットとなる)
 すると、セントラル・ワシントン大の一塁手で、他のチームからもっとも恐れられている選手、マロリー・ホルトマンが口をはさんだ。彼女はシンプルな解決策を提案した。サラがベースを回るのをチームメイトが助けられないなら、セントラル・ワシントン大の選手が助けたらどうか。審判は、敵の補助を禁じるルールはないと判断した。
(※ホームベースに達すると、ウエスタン・オレゴン大のチーム全員が泣いていた)

 集合知は敵味方の区別をも軽々と超越するのだ。真の英知は人々を結びつける。

「モンタナ州に、窓辺にメノーラー〔7本のろうそくを立てる燭台。ユダヤ教の祝日ハヌカの装飾に使われる〕を立てていたユダヤ人の家族がありました。あるとき、その家族の家が徹底的に荒らされてしまいました。すると翌朝には話が伝わり、その日の夕方までには、地域のすべての家で窓にメノーラーが飾られたのです。集合体で暴力が食い止められた例であり、団結行動によって暴力を食い止めた例でもありました」(アンジェレス・アライエン、文化人類学者)

 これぞ集合知の成せる業(わざ)。連帯は強くそして美しい。

 集合知は、本質的に言えば、「連帯」(コネクション)の体験を引き出すものである。大きな目的を感じ、正しい行動を皆で認識する。それは単なる知識でもなく、ひとりの理解だけにもとづいた認識でもない。ひとりの知識が集合知の形成に貢献することは多いが、連帯こそが知を集合させるのである。
 集合知は、人間の品性や社会的正義、精神的気づきを示す集団行動として表面化する。こうした行動が驚くべき影響をもたらしたり、単一の原因に帰すことのできない成果につながったりする例も少なくない。ときにはきわめて当たり前で、ときにはきわめて深い意味を持つ状況で、新たな視点と高い志が生じるとき、集合知は生まれる。多くの場合は、これまでと違う形で瞬間の即時性、すなわち「今」に注意が払われた際に、ふっと出現するのだ。

 即時性とは現在性+共時性と言い換えてもよかろう。つまり集合知とは一種の悟りなのだ。それは一つのテーマに即して人と人との脳がつながった瞬間でもある。何ということだろう。集合知は本当の意味で人類が一つになれることを示唆しているのだ。

 あと2回書く予定であるが、アマンダ・リプリー著『生き残る判断 生き残れない行動 大災害・テロの生存者たちの証言で判明』を先に読んでおくと本書の理解がより一層深まる。



脳神経科学本の傑作/『確信する脳 「知っている」とはどういうことか』ロバート・A・バートン
戦後民主主義は民主主義に非ず/『悪の民主主義 民主主義原論』小室直樹