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2022-02-05

ホームレスが宗教ビジネスで運命を引っくり返す/『砂の王国』荻原浩


・『明日の記憶』荻原浩

 ・ホームレスが宗教ビジネスで運命を引っくり返す

 路上に寝て街を眺めれば、人生観は確実に変わる。

【『砂の王国』荻原浩〈おぎわら・ひろし〉(講談社、2010年/講談社文庫、2013年)以下同】

 ハードカバーの表紙がいいので紹介しよう。

 

 見返しには以下の記載がある。

 烏山由美
 ぼくたちの東京ストーリーズ。No.2
 2010
 カンヴァスに鉛筆、インク、アクリル絵具
 ©KARASUMARU Yumi

 何度も確認したが「烏山」で「からすまる」と読むのだろうか? 検索したが情報らしい情報が皆無だ。淡い色づかいが移ろいやすい都会の輪郭を巧みに捉えている。そして時に優しく時に儚(はかな)い。

 荻原浩といえば『明日の記憶』が有名だが、私は二度挫けている。映画は名作である。特に樋口可南子の演技が眼を引いた。

 本書は今年に入り再読した。面白いものは二度読んでも面白い。ホームレスが宗教ビジネスで運命を引っくり返すストーリーもさることながら、人を集めるマーケティング手法に説得力がある。新興宗教の運営が上手くいったにも関わらず、主人公が行き詰まるのもストレス耐性のない現代人を諷刺しているように感じた。

 短いパラグラフに寸鉄人を刺す趣がある。

 空腹は怒りを生む。

 この世には神も仏もない。あるのは運と不運だけだ。

 一度すべてを失うと、何かを取り戻したところで、完全にもと通りになるわけではない。

「気づいたよ。信じると、見えなくなっちまうんだ。信じることをやめれば、何が本当かがすぐに見えてくるんだ」

 現実の宗教に関しては以下の書籍が参考になる。

『カルトの子 心を盗まれた家族』米本和広
『ドアの向こうのカルト 九歳から三五歳まで過ごしたエホバの証人の記録』佐藤典雅
『杉田』杉田かおる

 信じる者は救われる。そして信じる者は掬(すく)われる。足を。更に信じる者は巣食われる。財布を。

 

2022-01-08

読むに耐えない翻訳/『青い眼がほしい』トニ・モリスン


 尼僧たちは情欲のように静かに通りすぎ、醒めた眼をした酔っぱらいが、グリーク・ホテルのロビーで歌っている。

【『青い眼がほしい』トニ・モリスン:大社淑子〈おおこそ・よしこ〉訳(早川書房、1994年/ハヤカワepi文庫、2001年)】

「情欲のように静かに」で挫ける。多分、女性の感覚なのだろう。男の場合は炎のようにパッと燃え上がる。たったそれだけのことではあるが、翻訳センスが表れている。読むに耐えない。

2021-12-12

死こそが永遠の本源/『出星前夜』飯嶋和一


『汝ふたたび故郷へ帰れず』飯嶋和一
『雷電本紀』飯嶋和一
『神無き月十番目の夜』飯嶋和一
『始祖鳥記』飯嶋和一
『黄金旅風』飯嶋和一

 ・死こそが永遠の本源

『狗賓童子(ぐひんどうじ)の島』飯嶋和一

キリスト教を知るための書籍

 キリシタンに対する火あぶりの刑は、1本の太柱に手足を後ろで縛りつけ、周囲に薪を積んで、初めは遠火にてあぶり、次第に薪を受刑者の縛られている柱へ寄せていく。後ろ手と両足に縛りつけた藁縄(わらなわ)は1本だけで、それも緩(ゆる)く、背後には薪を積まず、いつでも逃げ出せるように退路を確保してある。燃えさかる灼熱(しゃくねつ)の苦痛に逃げ出せば、それは棄教したことと見なされ、そこで刑の執行は取りやめられる。刑を受ける者にとっては何より殉教への意志が試されることとなっていた。マグダレナはもちろん、6人ともが逃げる素振りも見せず業火に身をよじりながら絶命したと秀助は青ざめた顔で語った。鯨脂を焼いたような臭いが胸に溜(た)まり、突き上げてきた嘔吐(おうと)感を抑えきれず恵舟〈けいしゅう〉はその場でもどした。

【『出星前夜』飯嶋和一〈いいじま・かずいち〉(小学館、2008年/小学館文庫、2013年)以下同】

 島原の乱を描いた時代小説だが天草四郎時貞は脇役である。主役は庄屋の鬼塚甚右衛門と医師の外崎恵舟〈とのざき・けいしゅう〉、そして弟子の北山寿安〈きたやま・じゅあん〉の3人である。

キリシタン4000人の殉教/『殉教 日本人は何を信仰したか』山本博文

 よく言われることだが、「交通事故でさえスローモーション映像にすればホラー映画たり得る」。死は恐ろしい。恐ろしいがゆえに生きる者は想像力を働かせてしまう。そこに罠がある。戦後教育を受けると「生きる権利」という錯覚にとらわれる。生きることが権利であれば、死ぬことはその権利を奪われることになる。だから我々は死を理不尽なものとして受け止める。なぜなら死は「生を奪う」からだ。死は終焉(しゅうえん)であり、不幸であり、悲劇である。そう考えてしまうところに現代の不幸があるのだろう。

「棄教すれば許す」というところに日本的な優しさがある。西洋の魔女狩りとは全く異なる精神風土である。ただし、少ならからぬ人々を殉教に走らせる社会的要因があったのは確かだろう。閉塞感や鬱積が日常から跳躍させるバネとして働く。それが殉教であったり、テロであったり、クーデターであったりするのだろう。

「寿安さん」喜平の幼子が呼んだ声音を思わず真似(まね)ていた。大勢の病んだ子どもらが皆そう呼んだ。今ここにいる「寿安」が、やっと現実(うつつ)のことに感じられた。幼い頃は耐えがたいものを感じていた呼び名は、いつの間にか少しの抵抗も感じられなくなっていた。蜂起でも、傷寒でも、赤斑瘡でも、多くの生命が目の前で消えて行った。死こそが実は永遠の本源であり、生は一瞬のまばゆい流れ星のようなものに思われた。その光芒(こうぼう)がいかにはかなくとも、限りなくいとおしいものに思えた。

 恵舟と寿安は感染症と戦った。飢餓と病気は人類史において最大のテーマである。それは死に直結しているためだ。私からすれば、「死は永遠」というよりも「死は無限」と感じる。既に亡い人は数百億人に及ぶだろうし、動植物や細菌を含めれば天文学的な数字になるだろう。量子世界で時間にはプランク時間という最小単位が切り取り線のように連なっている。信じ難いことだが時間は直線的につながってはいないのだ。ひょっとすると瞬きするたびに我々は生と死を繰り返しているのかもしれない。

2021-12-11

父は悪政と戦い、子は感染症と闘った/『狗賓童子(ぐひんどうじ)の島』飯嶋和一


『汝ふたたび故郷へ帰れず』飯嶋和一
『雷電本紀』飯嶋和一
『神無き月十番目の夜』飯嶋和一
『始祖鳥記』飯嶋和一
『黄金旅風』飯嶋和一
『出星前夜』飯嶋和一

 ・父は悪政と戦い、子は感染症と闘った

『日本の名著27 大塩中斎』責任編集宮城公子

日本の近代史を学ぶ

 奥座敷で供された二つの塗り物膳(ぜん)には、季節の飛び魚の吸い物から黒鯛(くろだい)の刺し身、あわびの膾(なます)、焼き茄子(なす)などが所狭しと並べられ、白米の飯と素麺(そうめん)、清酒まで出して庄三郎がもてなした。
 弥左衛門〈やざえもん〉にすすめられ常太郎〈じょうたろう〉は初めて酒を口にした。陣屋からここまでずっと己(おのれ)の身を案じてついてきた島民達といい、科人(※とがにん)として流されてきた先で思いがけないもてなしを受け、戸惑いばかりが深まっていた。
「……流人の身でありますのに、なにゆえ皆様方がこのように温かくお迎えくだされるのかがわかりません」
「貴殿は何の罪も犯していない。それに西村履三郎〈※にしむら・りさぶろう〉様の倅殿だから」
 常太郎は顔を上げて目を見開いた。はるばる流されてきたこの島の人々が、父親の名を知っていることに驚いたようだった。
「河内随一と言われる大庄屋だったお父上が、大塩平八郎先生とともに、なぜ何もかも捨てて挙兵されたか、それを島の者たちはよく知っています」(中略)
「誰のためにお父上は蜂起に身を投じたのか? 出鱈目な幕政の結果、困窮し飢餓に瀕している民のためだ。お父上は、民のためにすべてを捨てて戦ってくれた。この島の民も同じく困窮している。お父上は、自分たちのために戦ってくれた、言ってみれば恩人なのですよ。そして、それゆえに貴殿がこんな目に遭(あ)うこととなった。お父上に対する感謝と貴殿への申し訳ないとの思いです。大塩先生の檄文はご覧になったことは?」
「いいえ。……存じません」
「もちろん知るはずがない。周りにいた方々も常に監視されて、とても常太郎さんにそれを伝えることなどできなかったはずだ。大塩先生の檄文には、『やむを得ず天下のためと存じ、血族の禍(わざわい)をおかし、この度、有志の者と申し合わせ、下民(かみん)を悩まし苦しめている諸役人をまず誅伐(ちゅうばつ)いたし、引き続き驕(おご)りに増長しておる大坂市中の金持ちの町人どもを誅戮(ちゅうりく)におよぶ』とある。『血族の禍をおかす』すなわち、貴殿や母上、親類縁者にも禍がおよぶことはお父上もわかっていた。貴殿は、当時数え六つ。可愛(かわい)い盛りだ。お父上も断腸も思いだったろう……。(後略)」

【『狗賓童子(ぐひんどうじ)の島』飯嶋和一〈いいじま・かずいち〉(小学館、2015年/小学館文庫、2019年)以下同】

 父親の履三郎は蜂起の後、伊勢から「仙台、江戸へと渡り、江戸で客死」した。幕府は墓所から遺骸を取り出し、大坂の地で処刑した(大塩ゆかりの地を訪ねて④「八尾に西村履三郎の故地を訪ねる」: 大塩事件研究会のブログ)。

10月例会・フィールドワーク「西村履三郎・常太郎ゆかりの地を訪ねる」: 大塩事件研究会のブログ

 御科書(ごとがしょ)には「十五歳」とある。満年齢だと十四歳か。西村家は土地を没収され、一家断絶となる。まだ幼かった常太郎と謙三郎は親戚預かりを経て、15歳で配流(流罪)の処置が下った。

 飯嶋作品は歴史的事実に基づく小説である。言わば事実と事実の間を想像力で補う作品である。それを可能にしてしまうところに作家の創造性が試されるのだろう。

 大塩平八郎の乱が鎮圧され、1か月後に潜伏先を探り当てられて大塩が養子格之助とともに自害した際、火薬を用いて燃え盛る小屋で短刀を用いて自決し、死体が焼けるようにしたために、小屋から引き出された父子の遺体は本人と識別できない状態になっていた。このため「大塩はまだ生きており、国内あるいは海外に逃亡した」という風説が天下の各地で流れた。また、大塩を騙って打毀しを予告した捨て文によって、身の危険を案じた大坂町奉行が市中巡察を中止したり、また同年にアメリカのモリソン号が日本沿岸に侵入していたことと絡めて「大塩と黒船が江戸を襲撃する」という説も流れた。これらに加え、大塩一党の遺体の磔刑をすぐに行わなかったことが噂に拍車をかけた。

Wikipedia

 幕府の恐れと影響力の大きさが窺い知れる。京の都が餓死者で溢れ、流民が大坂へ流れて治安が悪化したという。政治は無策から暴政へ様変わりしていた。大塩平八郎はもともと怒れる人物であった。激怒は憤激と焔(ほのお)を増し、自ずと立ち上がらざるを得なくなったのだろう。英雄とは民の心に火を灯す人物だ。その輝きこそが未来への希望となる。

「最後に言っておきますが、もうあなたが本土の土を踏むことはないと思います。赦免だの何だのを願えば、苦しむだけのことです。そんなことはありえないと、覚悟を決めるしかありません。もちろん全く道理に反することをわたしが申し上げていることもわかります。ただこの島へ来て苦しみ早く死ぬのは、本土へ戻ることばかりを願っている者たちです。それでは生きられない。苦しみしかないのです。本当の人生などどこかにあるものではありません。ここで生きていることが真のあなたの姿であり、あなたの本当の人生だと思ってください。まことに申しわけないことですが。
 もちろん、あなたがこれまで誰にも教えられなかったこと、大塩先生の蜂起に関して、わたしが知っている限りのことはお教えします。あなたには知る権限がある。なぜお父上が蜂起し、なぜあなた自身がここへ流されて、ここで生涯を送ることになったのかを。それを知らなくてはとても生きていけないこともわかります。わたしが知る以上のことを知りたければ、わたしの朋輩(ともがら)に託します。それは約束します」

「淡い期待は持つな」との戒めである。弥左衛門は「幼さを許さなかった」とも言える。つまり大人として遇したのだろう。現実が苦しくなると人の思考は翼を伸ばして逃避する。虐待された子供は幻覚が見える(『消えたい 虐待された人の生き方から知る心の幸せ』高橋和巳)。大人だって変わりはあるまい。苦しい現実から目を逸(そら)して都合のよい妄想に浸(ひた)る。弥左衛門は「生きよ」と伝えたのだ。「ただ、ひたすら生きよ」と。


 常太郎が流されたのは島後島(どうごじま)で、隠岐諸島(おきしょとう)の一つである。常太郎は狗賓童子(ぐひんどうじ/島の治安を守る若衆)としての訓育を受け、更に医学を学んだ。父は悪政と戦い、成長した子は感染症と闘った。

 私が全作品を読んだ作家は飯嶋和一だけである。丸山健二は途中でやめた。『神無き月十番目の夜』以降の作品を読むと、圧政-抵抗という図式が顕著で戦前暗黒史観(進歩の前段階と捉えるマルクス史観)と同じ臭いがする。「ひょっとしてキリスト教左翼なのか?」という懸念を払拭することができない。

2021-12-08

心が弱くなるとオバケを創り出す/『株式会社タイムカプセル社 十年前からやってきた使者』喜多川泰


・『賢者の書』喜多川泰
・『君と会えたから……』喜多川泰
『手紙屋 僕の就職活動を変えた十通の手紙』喜多川泰
『心晴日和』喜多川泰
『「また、必ず会おう」と誰もが言った 偶然出会った、たくさんの必然』喜多川泰
『きみが来た場所 Where are you from? Where are you going?』喜多川泰
・『スタートライン』喜多川泰
・『ライフトラベラー』喜多川泰
『書斎の鍵 父が遺した「人生の奇跡」』喜多川泰

 ・心が弱くなるとオバケを創り出す

『ソバニイルヨ』喜多川泰
『運転者 未来を変える過去からの使者』喜多川泰

「人間が創り出す新しいものというのは、なにも、世の中に役立つ素晴らしい発明品ばかりではないということだと、僕は思っています」
「というと?」
「オバケです。僕たちは、あまりにも想像力がたくましすぎるので、自分が経験したことを総合して、この世に存在しないオバケを創り出してしまうのです。あんなことになっちゃうんじゃないか、こうなったらどうしよう、きっとこう思っているはずだって、起こったこともない、ほとんど起こりもしない状況を頭の中で想像しては、それを怖がることに人生を費やす。社会全体がオバケを創り出す雰囲気になっている時代っていうのは、エネルギーを、新しい発明や発見を進めるほうに使うよりもむしろ、別の新しいものを創り出すことに使われたんじゃないかと思うんです。たとえば、ありもしないオバケを創るのに忙しい時代だったとか……。今の森川さんのように」

【『株式会社タイムカプセル社 十年前からやってきた使者』喜多川泰〈きたがわ・やすし〉(ディスカヴァー・トゥエンティワン、2015年)】

 バブル景気が弾けてからというもの日本全体をうっすらとした閉塞感が覆っている。雇用のあり方が変わったためと思われるが、努力が報われない・再チャレンジの機会が少ない・いつリストラされるかわからないといった心理情況と、非正規化や平均収入の低下に加えて増税の影響が大きい。つまり可処分所得が減り続けているわけだ。

 資本主義社会において「公務員の待遇を羨む」のは明らかにおかしい。まして小学生が将来「公務員になりたい」などと思うのは世も末と断言していい。今後、デジタルトランスフォーメーション(DX)によって雇用は縮小する。AIやロボットに仕事を奪われるのだ。経営者は人件費をコストと見なし、賃金を上げずに内部留保を溜め込んでいる。こうした動きや背景を踏まえると、世界の潮流は緩やかな社会民主主義を目指すように思われる。

 タイムカプセル社は10年後の自分に宛てた手紙を預かり、10年後にそれを届けることを業務にしている。人それぞれの10年がある。その変化が主題である。過去の自分と向き合った時、人は驚くほどたじろぎ、うろたえ、感慨の波に飲まれる。それを一つの結果ではなく、新たなスタートして描いているところに喜多川泰の技量がある。

2021-06-28

「一隅を守り、千里を照らす」人のありやなしや/『ビルマの竪琴』竹山道雄


『昭和の精神史』竹山道雄
『竹山道雄と昭和の時代』平川祐弘
『見て,感じて,考える』竹山道雄
『西洋一神教の世界 竹山道雄セレクションII』竹山道雄:平川祐弘編
『剣と十字架 ドイツの旅より』竹山道雄

 ・敗戦の心情
 ・「一隅を守り、千里を照らす」人のありやなしや

『人間について 私の見聞と反省』竹山道雄
『竹山道雄評論集 乱世の中から』竹山道雄
『歴史的意識について』竹山道雄
『主役としての近代 竹山道雄セレクションIV』竹山道雄:平川祐弘編
『精神のあとをたずねて』竹山道雄
『時流に反して』竹山道雄
『みじかい命』竹山道雄

日本の近代史を学ぶ
必読書リスト その一

 私はよく思います。――いま新聞や雑誌をよむと、おどろくほかはない。多くの人が他人をののしり責めていばっています。「あいつが悪かったのだ。それでこんなことになったのだ」といってごうまんにえらがって、まるで勝った国のようです。ところが、こういうことをいっている人の多くは、戦争中はあんまり立派ではありませんでした。それが今はそういうことをいって、それで人よりもぜいたくな暮らしなどをしています。ところが、あの古参兵のような人はいつも同じことです。いつも黙々として働いています。その黙々としているのがいけないと、えらがっている人たちがいうのですけれども、そのときどきの自分の利益になることをわめきちらしているよりは、よほど立派です。どんなに世の中が乱脈になったように見えても、このように人目につかないところで黙々と働いている人はいます。こういう人こそ、本当の国民なのではないでしょうか? こういう人の数が多ければ国は興(おこ)り、それがすくなければ立ち直ることはできないのではないでしょうか?

【『ビルマの竪琴』竹山道雄(中央公論社ともだち文庫、1948年/新潮文庫、1959年)】

「最もよき人々は帰ってこなかった」(『夜と霧 ドイツ強制収容所の体験記録』V・E・フランクル:霜山徳爾訳)。きっとそういうことなのだろう。

 若き特攻隊員たちは花と散った。そして瀬島龍三のような連中が生き残った。当初、自主憲法の制定を悲願とした自民党も変節した。

「一隅を守り、千里を照らす」(最澄「山家学生式」)人のありやなしやを問う。

2021-04-25

ロストジェネレーション=就職氷河期世代/『半沢直樹3 ロスジェネの逆襲』池井戸潤


『半沢直樹1 オレたちバブル入行組』池井戸潤
『半沢直樹2 オレたち花のバブル組』池井戸潤

 ・ロストジェネレーション=就職氷河期世代

・『半沢直樹4 銀翼のイカロス』池井戸潤
『隠蔽捜査』今野敏
・『ザ・ラストバンカー 西川善文回顧録』西川善文

 しかし、それはまったく根拠のない希望的観測に過ぎなかった。どれだけ待っても、また期待しても、景気は一向に回復する気配を見せなかったのだ。株価も地価も下落を続け、不景気という名の怪獣の長い尻尾は、ついに森山が大学を卒業するときまで、いやそれ以降も、就職難という形で、立ちはだかったのである。
 就職氷河期の真っ只中に就職活動をすることを強いられた森山は、数十社にもおよぶ面接を受けて、落ちた。
 就職が難しいことはわかっていたから、学生時代から自己啓発に努め、英会話だけではなく証券アナリスト試験などの資格を得るための勉強にも余念がなかったつもりだ。授業はほとんど皆勤。成績はほとんど「優」――それでも落とされる。
 なんで落とされたのか、理由が判然としないことも多かった。
 不可解というより、理不尽。
 相次ぐ不採用の知らせに、森山の腹に渦巻いたのは、やり場のない怒りだった。
 森山の中学から高校にかけての好景気がバブルと呼ばれ、その後の不景気がバブル崩壊と名付けられたのもこの頃であった。
「泡」(バブル)と形容されるほど、奇妙な時代を作り上げ、崩壊させたのは誰なのか?
 その張本人は特定できないが、少なくとも森山たちの世代ではない。なのに、満足な就職もできずに、割りを食っているのは自分たちなのだ。
 就職の面接を受けるたび、プライドも自信もズタズタに引き裂かれながら、不平ひとつこぼす余裕もない。そのときの森山は、将来の不安と戦いながら、ただ打たれても這い上がるだけのつらい日々を耐えるしかなかった。
 大手ではないが、最終的にこの東京セントラル証券への内定が出たとき、森山が抱いたのは深い安堵感だった。もう、就職先が一流とか二流とか、そんなことはどうでもよくなっていた。どこか自分が身を置く場所さえ見つかればそれでいい。最後まで就職先が決まらず、留年して翌年の活動に備える友人もいる中での内定獲得でもあった。
 森山が経験した氷河期と呼ばれる就職難は、その後も長く続き、この2004年も状況は変わっていない。
 世の中全体が、バブル崩壊後の不景気という名のトンネルにすっぽりと入り込んでしまい、出口を見出そうともがき苦しんでいたこの10年間。1994年から2004年に亘(わた)る就職氷河期に世の中に出た若者たち。その彼らを、後に某全国紙の命名により、「ロスト・ジェネレーション」、略してロスジェネ世代と呼ぶようになる。
 しかし――。
 身を削るような就職活動をくぐり抜けて会社に入ってみると、そこには、大した能力もないくせに、ただ売りて市場だというだけで大量採用されてた危機感なき社員たちが、中間管理職となって幅をきかせていたのだ。
 バブル入社組である。
 森山にとって彼らは、ただ好景気だったというだけで大量に採用され、禄(ろく)を喰(は)むが能はないお荷物世代だ。
 大量採用のおかげで頭数だけはいるバブル世代を食わすため、少数精鋭のロスジェネ世代が働かされ、虐(しいた)げられている。
 世の中は、森山たちの世代に対して、なにもしてくれなかった。まして、会社が手を差し伸べてくれるとも思えない。
 バブル世代は、自分を守ってくれるのは会社だと思い込んでいるかも知れない。
 しかし、森山らロスジェネ世代にとって、自分を守ってくれるのは自分でしかあり得ない。

【『半沢直樹3 ロスジェネの逆襲』池井戸潤〈いけいど・じゅん〉(ダイヤモンド社、2012年/文春文庫、2015年/講談社文庫、2019年)】

 少し文章の揺れが見受けられるが(「余念がなかった【つもりだ】」など)見事な描写だと思う。「ロスジェネの逆襲」はそろそろ政治的課題として浮き上がってくることだろう。この世代から戦後レジームを変える本格派のリーダーと、破壊的な価値観を有する有象無象が出現すると私は考えている。

 ロストジェネレーション=就職氷河期世代とは、団塊ジュニア(1971-74年生まれ)の次に生まれたポスト団塊ジュニア(1975-81年生まれ)である。

「超氷河期」と呼ばれた2000年を見ると、1975年〜1981年生まれが該当する15歳〜24歳の失業率は、外の世代よりも格段に高い。2000年1月31日時点の失業率は、全体が4.7%なのに対して、1975年〜1981年生まれが該当する15歳〜24歳の男性が8.7%、15歳〜24歳の女性が6.5%にまで上昇した。同じく2000年3月31日時点の失業率も、25歳〜34歳が5.8%なのに対して、15歳〜24歳が11.3%に達した。

Wikipedia

「そして、東日本大震災(2011年)などが起こった2010年代も一貫して、1975年〜1981年生まれの世代は苦難の道を歩み、しばしば40歳を過ぎても非正規雇用を続ける『非正規ミドル』になっている」(同頁)。

 彼らの無念を思えば、間もなくロスジェネ政党「氷の会」が立ち上げられ、やがては政権を握り、バブル景気を謳歌した団塊世代から年金を召し上げ、彼らに死ぬまで雇用を義務付ける措置をとったとしても驚くに値しない。

 経済的な格差が国家に深刻な亀裂を入れる。その後もグローバリゼーションの大波によって富の偏在は激化の一途を辿った。世界は王と奴隷の時代に戻りつつあるのだろうか。

 就職氷河期は災害と同様、形を変えた戦争と考えていいだろう。努力が通用しない困難の中から必ず人間が再生する。復興とは人間に冠した言葉であるべきだ。苦しい思いをしたロスジェネ世代こそ日本を変革する世代であると密かに期待している。

 尚、私が読んだのは講談社文庫だが、同社は反日傾向が顕著なため文春文庫の画像リンクに差し替えた。文春版の方が100円ほど安くなっている。

2021-02-10

読書讃歌/『書斎の鍵 父が遺した「人生の奇跡」』喜多川泰


・『賢者の書』喜多川泰
・『君と会えたから……』喜多川泰
『手紙屋 僕の就職活動を変えた十通の手紙』喜多川泰
『心晴日和』喜多川泰
『「また、必ず会おう」と誰もが言った 偶然出会った、たくさんの必然』喜多川泰
『きみが来た場所 Where are you from? Where are you going?』喜多川泰
・『スタートライン』喜多川泰
・『ライフトラベラー』喜多川泰

 ・読書讃歌

『株式会社タイムカプセル社 十年前からやってきた使者』喜多川泰
『ソバニイルヨ』喜多川泰
『運転者 未来を変える過去からの使者』喜多川泰

必読書リスト その一

 部屋着に着替えた浩平は、ダイニングに行き、料理をしている日菜にカウンター越しに話しかけた。
「ママ、今日俺は目覚めたよ」
「何言ってるのよ」
 日菜は鼻で笑って相手にしなかった。
「本当だ。俺はこれまでの俺の生き方を改める」
 いつになく強い口調に、日菜は手を止めて浩平を見た。

【『書斎の鍵 父が遺した「人生の奇跡」』喜多川泰〈きたがわ・やすし〉(現代書林、2015年)】

 必読書の一冊目にした。本を取り巻く物語であり、傷ついた男性が再生するドラマである。小説の途中に『書斎のすすめ 読書が「人生の扉」をひらく』という90ページほどの解説がある。この読書礼賛が私の趣味に合わない。本好きが昂じて古本屋にまでなってしまった私にとっては、書物が「人生の扉を開く」のは確かだが、「部屋の扉が開かなくなる」のもまた確かなのだ。私に言わせれば読書はただの病気に過ぎない。

 浩平は人々との出会いを通して逝去した父親の思いを知る。従姉妹の洋子、営業先の志賀会長、部下の加藤、上司の井上部長に導かれて答えは自(おの)ずから得られた。鍵が開けたのは「自分の心」であった。

 両親が結構本を読んでいたこともあって私は幼い頃から本が好きだった。文字が読めない頃から本を開いていた記憶がある。絵本はたくさんあったし、小学校に上がると小学館の『世界の童話 オールカラー版』を毎月1冊ずつ買ってもらった。


 小学校の高学年で図書室の本の半分以上の図書カードに私の名前があったはずだ。本を借りすぎて怒られたこともあった。誰もが恐れるオールドミスのヨシオカ先生に職員室で叱責され、反省文を提出する羽目となった。

 ずっと本を読んできたが病の度合いが本格化したのは、やはり上京して神田の古書街に足を運んだことが切っ掛けとなった。やがてブックオフが登場する(1990年)。私にとっては安価なドラッグが現れたようなものだ。直ぐに10冊以上買う癖がついた。やがて20冊となり、クルマを持つと30~40冊と増えていった。30代で3000冊、40代に入ると5000冊を数えた。5000冊がどの程度の量かというと、3部屋の壁ほぼ全部が本棚で各段には前後2列ずつ並べても収まらない。床は林立する本で覆われつつあった。書籍のビルはやがて都市を形成し、残されたのは奥の細道のような通路だけであった。決して笑い事ではない。2年に一度くらいの割合で書籍の重みによって床が抜けたというニュースが報じられているのだ。

 私にとって本を読む行為は人に会うことと同じである。問われるのはコミュニケーションの深さである。文字をなぞり、受け取るだけが読書ではない。優れた書籍は必ず開かれた精神で書かれている。本物の一書は答えに窮する問い掛けをしてくる。読み手は何をもって応答するのか? それは個性に他ならない。

 為になる本は読んできた。感動した本も多かった。しかしながら私の周囲にいる人々の魅力を上回ることはなかった。それほど私は人間関係に恵まれていた。『ルワンダ大虐殺 世界で一番悲しい光景を見た青年の手記』(レヴェリアン・ルラングァ著)を読んだのは45歳の時だ。私は完膚なきまでに打ちのめされた。『夜と霧 ドイツ強制収容所の体験記録』や『アウシュヴィッツは終わらない あるイタリア人生存者の考察』は過去の歴史であった。だがルワンダ大虐殺の場合、私は同時代を生きていた。「なぜ切り刻まれたツチ族の叫び声が私の耳には聴こえなかったのか?」と我が身を苛(さいな)んだ。あまりの残酷に宗教や哲学の無力を思い知った。生きる意味は殺す意味に呆気なく踏みにじられた。

 1年ほどの煩悶を経てクリシュナムルティと出会った(『私は何も信じない クリシュナムルティ対談集』)。『子供たちとの対話 考えてごらん』を通して私は初めてブッダの教えを理解した。心の底から「本を読んできてよかった」と思った。

 だからといって私がルワンダ大虐殺やクリシュナムルティを布教するつもりはない。ただ静かに胸の内に仕舞って今日を生きるだけのことである。

2020-11-18

物々交換/『手紙屋 僕の就職活動を変えた十通の手紙』喜多川泰


・『賢者の書』喜多川泰
・『君と会えたから……』喜多川泰

 ・物々交換

『心晴日和』喜多川泰
『「また、必ず会おう」と誰もが言った 偶然出会った、たくさんの必然』喜多川泰
『きみが来た場所 Where are you from? Where are you going?』喜多川泰
・『スタートライン』喜多川泰
・『ライフトラベラー』喜多川泰
『書斎の鍵  父が遺した「人生の奇跡」』喜多川泰
『株式会社タイムカプセル社 十年前からやってきた使者』喜多川泰
『ソバニイルヨ』喜多川泰
『運転者 未来を変える過去からの使者』喜多川泰

 私は、やはり欲しいものを手に入れる方法の基準は、

『物々交換』

 じゃないかと思っているんです。
 貨幣が流通の中心である、現代社会に住んでいる私たちは、そのことを忘れがちですが、やはり私たちが毎日やっているのは単純な『物々交換』でしかないのです。
 こんな話をすると、「今の日本で物々交換で手に入れられるものなんてないよ」とか「最近そんなのしたことない」と感じるかもしれませんね。でも今も昔も、そして世界中のどこであっても、私たちが欲しいものを手に入れる方法というのは、『物々交換である』というのが事実なんです。
 驚きましたか? わかるように説明しましょう。
 私たちがしている行為は、以下のように説明できます。ゆっくり読んでみてください。

『相手の持っているものの中で自分が欲しいものと、自分が持っているものの中で相手が欲しがあるものとを、お互いがちょうどいいと思う量で交換している』
(中略)
『相手の持っているものの中で自分が欲しいものと、自分が持っているものの中で相手が欲しがる“お金”とを、お互いがちょうどいいと思う量で交換している』
(中略)
『会社が持っているものの中で自分が欲しい“お金”や“安定”と、自分が持っているものの中で相手が欲しがる“労働力”や“時間”を、お互いがちょうどいいと思う量で交換している』

【『手紙屋 僕の就職活動を変えた十通の手紙』喜多川泰〈きたがわ・やすし〉(ディスカヴァー・トゥエンティワン、2007年)】

 就職活動中の大学生が喫茶店で奇妙な広告を見つける。「手紙屋」を名乗る広告主は10通の手紙で「あなたが人生で実現したいことを実現するお手伝いをさせていただきます」と書いていた。

 今となっては古いコミュニケーション手段と思われがちな手紙だが、CC(カーボンコピー)ができない個別性の価値が失われることはないだろう。

 私の世代だと小学生の頃から年賀状を書く作業はかなり重要な仕事だった。大学進学で東京や地方へ旅立っていった友人とも手紙でつながっていた。そもそも1990年代まで愛の告白は専らラブレター(恋文)で行われていたのだ。私が上京してからは弟妹にも手紙を認(したた)めたことがある。最後に書いたのは昨年だ(仲好しだったオバアサンへの手紙)。

 私より前の世代だと月刊誌で文通相手(ペンパル)を募集することは日常的な光景だった。見知らぬ人であっても、書く時間は相手へ真っ直ぐに向かっている。その時間と行為が手紙という結晶になる。

 喜多川泰が意図的に「物々交換」や「量」と書いたのは、決して質や情を無視したわけではなく「時間」に重きを置いたのだろう。利他とは誰かのために割いた時間の具体性を意味する。無私の人は欲望という様々な色を脱ぎ捨て、光のように透明化して他人を照らす存在となる。

 戦没学生や特攻隊の遺書が時代を経ても我々の心を打ち続けるのは、それが「後世に対する手紙」であるからだ。

『きけ わだつみのこえ 日本戦没学生の手記』日本戦没学生記念会編
『国民の遺書 「泣かずにほめて下さい」靖國の言乃葉100選』小林よしのり責任編集
『新編 知覧特別攻撃隊 写真・遺書・遺詠・日記・記録・名簿』高岡修編

 喜多川のメッセージは、「欲しければ施せ」「施せば得られる」と解釈することも可能だろう。では特攻隊が差し出した命と引き換えに彼らが得られたものは何だったのか。それを想わずにはいられない。

 対価を求めれば損得の関係性にとどまる。我々の幸福は経済的価値に引きずられ過ぎている。だが、「百年の後に知己を待つ」生き様がもっとあっていいのではないか? 無理解に苦しむのは対価を求めているためだ。仕事で苦労や悩みが絶えないのは賃金に支配されている証拠である。もっと超然と軽やかに生きればいい。対価など求めるな。施せる限り施し、分け与え、すってんてんになって死ぬのが望ましい。裸で生まれてきたのだから裸で死ぬのが正しい生き方だ。

2020-10-27

銀行合併の内情/『半沢直樹2 オレたち花のバブル組』池井戸潤


『半沢直樹1 オレたちバブル入行組』池井戸潤

 ・銀行合併の内情

『半沢直樹3 ロスジェネの逆襲』池井戸潤
・『半沢直樹4 銀翼のイカロス』池井戸潤
『隠蔽捜査』今野敏
・『ザ・ラストバンカー 西川善文回顧録』西川善文

 旧Sだの旧Tだのという出身に、半沢自身、過剰反応しているつもりはまったくない。産業中央銀行出身だろうと東京第一銀行出身だろうと、肝心なのは銀行員としての姿勢であり資質である。出身銀行で色分けすることに何ら意味のあるはずもない。  ところが、行内世論がそうならないのは、イザ相手と膝を交えて仕事をしたとき、往々にして互いの企業文化がすれ違いを生むからである。結果的に、一枚看板にまとめられたはずの銀行員の間に、出身行別の一線が引かれることになる。  お互いの違いというのは、大きなことではなく、むしろ日常業務の小さなことに起因して、意識付けされる。たとえば、業務上の用語の違い――信用保証協会の保証付き融資のことを産業中央銀行は「協保」(きょうほ)と呼んでいたが、東京第一銀行では「マル保」。「代金取立手形」(だいきんとりたててがた)は、旧Sが「代手」(だいて)で、旧Tが「取手」(とりて)。  ちなみに旧Sの呼称である「代手」は、新入行員として銀行に入ったときに耳にすると最初、目が点になる。先輩のお姉さん行員から、「ねえ、だいてちょうだい」といわれるからである。「こんな昼間からですか」という失言もあったりする。

【『半沢直樹2 オレたち花のバブル組』池井戸潤〈いけいど・じゅん〉(講談社文庫、2019年/文藝春秋、2004年『オレたち花のバブル組』改題/文春文庫、2007年)】

 日本人の村意識は根深い。内と外を巡る独特の意識がある。少し前まで外人という言葉が普通に使われていた。「外野は黙ってろ」なんてのは現在でも耳にする。家には「うち」の読みもある。

 バブル景気が絶頂に向かったその時、「24時間戦えますか。」と謳ったCMがテレビを席巻した。


 余裕のある時代にネタとして扱われたキャッチコピーは巧まずしてその後登場するワーキングプアを予見していた。かつてのモーレツ社員は企業戦士に変貌した。

 社内文化については次の書籍が参考になる。

社内主義から社外主義への転換/『スーパーサラリーマンは社外をめざす』西山昭彦
社内文化に染まっている人は「抵抗勢力」となる/『制度と文化 組織を動かす見えない力』佐藤郁哉、山田真茂留

 前向きだった20代、後ろ向きの30代、俯(うつむ)くだけの40代。

 それがエリートサラリーマンの人生ならあまりにも侘(わび)しい。社内の出世競争に勝って得られるのは地位とカネであり、負けて味わわされるのは屈辱感と自己否定なのだろう。その姿は小学生の運動会と変わりがない。

 ストーリーは勧善懲悪と下剋上が基調となっていてありきたりなものだ。それでも面白く読めてしまうのは私の生きる世界が些末で戦いとは縁遠いゆえか。

2020-10-06

メタフィクションが表す真実/『シッダルタ』ヘルマン・ヘッセ


 ・メタフィクションが表す真実

『小説ブッダ いにしえの道、白い雲』ティク・ナット・ハン

ブッダの教えを学ぶ
必読書リスト その五

 シッダルタは端坐して呼吸を少なくすることを学んだ。わずかの呼吸で事足りることを学んだ。呼吸を止めることを学んだ。彼は呼吸から始めてさらに心臓の鼓動を制御することを学んだ。その鼓動を減らしてその数を少なくし、ついにはほとんど鼓動なきに至ることを学んだ。
 沙門の大長老に教えられてシッダルタは新しい沙門の定めに従って滅我を修め、観想を行(ぎょう)じた。一羽の鷺(さぎ)が竹林の空を飛んだ――とシッダルタはその鷺を自己の魂の中におさめ、森と山の上空を飛び、みずからすでに鷺そのものであり、魚を食らい、鷺の飢えを飢え、鷺の叫びを叫び、鷺の死を死んだ。一匹の豹(ひょう)が砂浜に横たわっていた、とシッダルタの魂はたちまちその亡骸(なきがら)に忍び入り、死せる豹として砂浜に横たわり、ふくれ上がり、臭(にお)いを発し、腐り、鬣狗 ( ハイエナ )に肉を食(は)まれ、禿鷹(はげたか)に皮を剥(は)がれ、骸骨となり、塵(ちり)となり、広野へ飛び散った。そして再びシッダルタの魂はもとに戻った。それはすでに一(ひと)たび死滅し、腐り、塵と化して、輪廻(りんね)の物悲しい陶酔を味わってきたものである。そして再び、新しき渇きに駆られて、輪廻の輪から脱(のが)れうべき隙間、因果の鎖が終わり、悩みなき永劫が始まるべき隙間を、猟師のように狙(ねら)うのであった。彼は五官の覚えを殺し、記憶を殺し、自我を脱け出て数限りない他の行像に忍び入り、獣となり、腐肉となり、石となり、木となり、水となった。そしてそのたびごとに覚醒めてまたその自己を見出した。日は照り、月は輝いていた。彼は再び彼であった。輪廻の中をめぐり、渇きを覚え、渇きに克(か)った。そしてまた別の新しい渇きを覚えた。

【『シッダルタ』ヘルマン・ヘッセ:手塚富雄〈てづか・とみお〉訳(岩波文庫、2011年/『シッタルタ』三井光弥訳、新潮社、1925年/『ジッタルタ 印度の譚詩』芳賀檀訳、人文書院、1952年/『悉達多』手塚富雄訳、『ヘッセ全集』三笠書房、1941年、のち角川文庫/『内面への道 シッダールタ』高橋健二訳、1959年、新潮文庫/『シッダールタ』岡田朝雄訳、草思社、2006年:草思社文庫、2014年/『ヘルマン・ヘッセ全集12 シッダールタ・湯治客・ニュルンベルクへの旅 物語集VIII 1948-1955』日本ヘルマンヘッセ友の会・研究会編訳、臨川書店、2007年/ 原書は1922年)】

 革新的な小説である。現代であれば実験的手法と評されることだろう。主人公のシッダルタはブッダではない。そうでありながらも悟る以前のシッダルタを踏襲しているのだ。「ブッダを描く」という構想から更なる構想が生まれたのだろう。すなわち手法としてのメタフィクションを選んだわけではなく、真実を表現するためにメタフィクションとならざるを得なかったのだ。私はそう読んだ。

 もう一つの読み方としてはタイムトラベルと受け止めればいい。つまりシッダルタは己心のブッダに邂逅(かいこう)したのだ。こう考えると法華経如来寿量品第十六における釈尊と久遠仏(くおんぶつ)の関係に近い。

 構想は神の視点で行われる。映画監督や小説の書き手は文字通り神の役割を果たす。登場人物の一言一句から生殺与奪まで意のままだ。ところが生命を吹き込まれたキャラクターが勝手に歩き出すことがある。創作の醍醐味はここにあるのだろう。ヘッセが本書で行ったのは一神教的構想の打破ではあるまいか。

「事実は小説より奇なり」(バイロン)と言うがそうではない。いかなる事実であれ、言葉に置き換えられた瞬間にそれは解釈された物語となる。解釈は構想に支えられ、構想は解釈によって膨(ふく)らみを増す。思考は時間に則(のっと)る。因果が示すのは時系列だ。歴史は過去から未来に向かって流れる。人生は川の流れに喩(たと)えられる。しかし川の外側に立ち、はるか上空の視点から川全体を眺めれば現在から過去や未来までを見渡すことができる。これが悟りだ。

 見たものに同化する、相手の内部世界を観じる――あるいは感じる――のはクリシュナムルティも書いている。

「観察」のヒント/『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー 3 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ

 後期仏教(大乗)ではこれを「同苦」と表現する傾向があるが、共感的な側面よりも、ありありと苦を見つめる意味合いが強いと私は考える。安っぽい慈悲の物語よりも現実に即した理知と受け止めるべきだろう。

2020-08-21

満洲建国と南無妙法蓮華経/『化城の昭和史 二・二六事件への道と日蓮主義者』寺内大吉


『石原莞爾 マッカーサーが一番恐れた日本人』早瀬利之

 ・満洲建国と南無妙法蓮華経

・『石原莞爾と昭和の夢 地ひらく』福田和也
・『死なう団事件 軍国主義下のカルト教団』保阪正康
・『血盟団事件 井上日召の生涯』岡村青
『日蓮主義とはなんだったのか 近代日本の思想水脈』大谷栄一

 旧満洲国時代、「爆破地点」と麗々しく記念標識を線路ぎわにかかげながら、その地点から「柳条湖」という固有名詞を抹殺し、存在もしない「柳条溝」としたことは日本名に書き替えたにひとしい。それこそ侵略である。
 こうした身勝手さが、無神経ぶりが明治人間には旋毛のようにこびりついている。徳川300年の鎖国から由来する蛮性であるか。

【『化城の昭和史 二・二六事件への道と日蓮主義者』寺内大吉〈てらうち・だいきち〉(毎日新聞社、1988年/中公文庫、1996年)以下同】

 寺内は浄土宗の坊さんである。尚且つ戦前を黒歴史と認識しているところから左翼史観に毒されていることが判る。ま、1990年代までの知識人はおしなべてこのレベルで批判するのがリベラルと錯覚していた。大東亜戦争を批判するのは一向に構わないのだが、白人帝国主義という時代背景を見落としている人物が多すぎる。

 ところがである。この記念スナップは、ただ一点で世にも不可思議な装飾を撮しだしていた。画面の右端で天井から垂れさがる達筆な七文字であった。

 ――南無妙法蓮華経

 不気味とも異妖でもある上貼りセロファン紙の説明がなければ特定の宗教結社の集会を思わせる。それにしては軍服姿が多すぎる。
「これ……何でしょうねぇ」
 改作は写真部長に指で示した。無論セロファン紙のそこに注釈、説明はなかった。
「知らんのかいな。お題目やがな」
 ことなげに言い捨てて、かえりみようともしない。
「わかってますよ、それくらいは……でもなぜ、こんなものが会場にぶら下がっているんだろう」
 建国会議のスローガンにしては面妖だし、さりとて関東軍が日常にぶら下げていたとしら、いよいよ奇怪である。
「そやなぁ、改作よ。石原参謀は熱心な法華信者やさかい、あの人が持ちこんだんとちがうかいな」
 写真部長は相変らずの無関心ぶりである。(中略)

 日中両国の共存共栄が、満蒙三千万無産大衆の楽園が、石原莞爾にあってはナショナリズムを超越した南無妙法蓮華経からみちびき出されるということになる。だからこそ国旗も軍旗も飾らない会場を染め上げtあ七文字の題目であった。
「改作よ。思い出した」
 写真部長はあわてて補足しようとする。
「何ですか」
「関東軍ハンが言うとったな。この2月16日は日蓮聖人の誕生日なんやと」
 この関東軍ハンは大連支局長のことだ。彼は石原莞爾から教えられたのであろう。
 日蓮聖人の誕生日だからお題目を会場へかかげた……いよいよその無神経さが疑われるではないか。曲がりなりにも建国会議は国際会議である。これを世界へ訴えて日本に領土的野心が絶無なことを理解してもらおうと意図もしている。
 そこへ個人の信教を持ち出して、押しつけようとする。公私混同も甚だしく、国際感覚はゼロにひとしい。


 主人公の改作は尾崎秀実〈おざき・ほつみ〉をモデルにしている(『大東亜戦争とスターリンの謀略 戦争と共産主義』三田村武夫)。ソ連のスパイに身を落とした尾崎もまた獄に囚(とら)われたのち法華経に傾倒している。改作という名前は池田大作をもじったものか。

 石原莞爾〈いしわら・かんじ〉は国柱会(立正安国会)の信徒であった。「田中智学先生に影響を受けた人々」を見ると著名人が名を連ねている。田中よりも10歳年下の牧口常三郎は創価教育学会を立ち上げたが、これほどの影響は及ぼしていない。先が見えない動乱の時代にあって指導性を発揮し得た事実を単なるカリスマ性でやり過ごすことはできない。それなりの悟性が輝いていたと考えて然るべきだろう。

 一応私が過去に読んできた書物を列挙してみたが、やはり近代史の中で捉える必要があり、日蓮系の系譜に固執すると全体が見えなくなる。石原莞爾については大変面白い人物だとは思うが、昭和天皇ですら「わからない」と判断を留保した将校だ。小室直樹は「天才」と評価しているが、偏った傾向があまり好きになれない。岩畔豪雄〈いわくろ・ひでお〉の評価あたりが正確だと思われる。

2020-08-03

命のつながり/『きみが来た場所 Where are you from? Where are you going?』喜多川泰


・『賢者の書』喜多川泰
・『君と会えたから……』喜多川泰
『手紙屋 僕の就職活動を変えた十通の手紙』喜多川泰
『心晴日和』喜多川泰
『「また、必ず会おう」と誰もが言った 偶然出会った、たくさんの必然』喜多川泰

 ・命のつながり

・『スタートライン』喜多川泰
・『ライフトラベラー』喜多川泰
『書斎の鍵  父が遺した「人生の奇跡」』喜多川泰
『株式会社タイムカプセル社 十年前からやってきた使者』喜多川泰
『ソバニイルヨ』喜多川泰
『運転者 未来を変える過去からの使者』喜多川泰

 秀平は自分の命の重み、そしてつながりを感じていた。
 自分の人生は、自分以外のものに生かされてきた歴史だ。
 祖父の代が、命をかけてつないでくれた命を、両親がまた命をかけてつないでくれた。そして、それは子供たちのために自分の命をかける決意をしてくれた人たちの歴史でもあった。
 秀平は電車の中にいる見ず知らずの人たちの顔を見た。
 そこにいつもの顔ぶれはなく、多くは、お盆休みに入り、買い物に出かけるカップルや帰省のために大きなリュックをしょった小学生らしき子供を連れた家族連れだった。
 思わず、平壌に帰る汽車に乗っている、俊子を膝に抱えた正一と理津子と千鶴子、そして義雄、浪江の姿が脳裏に浮かんだ。
「ここにいる一人ひとりも一緒だ。俺のじいちゃんたちのように命をつないでくれた先人たちがいたからこそ、今ここにいるんだ」
 自分が知るはずもない時代の空気を吸うことによって肌で感じたのは、秀平が見た自分の家族の過去の歴史は、この国に住む、すべての家族の過去でもあるということだった。
 あの時代に、命をかけて家族の命を守り、命を捨てて家族の命を守ろうとしたのは、義雄や浪江、英司だけではない。
 あの時代のすべての人たちがそうだったのだ。
 誰一人として、安全なところにいて難を逃れた人などはいない。
 秀平は、見知らぬ人一人ひとりの肩をたたき、
「なあ、お互い、よくここまで命をつないでもらったよな。本当にありがたいよな」
 と言って回りたいほどの感動が波のように何度も押し寄せてきた。

【『きみが来た場所 Where are you from? Where are you going?』喜多川泰〈きたがわ・やすし〉(ディスカヴァー・トゥエンティワン、2017年/大和書房、2011年『母さんのコロッケ 懸命に命をぐなぐ、ひとつの家族の物語』改題・新作短篇)】

 2冊読む羽目になった。出版社の意向もあるのだろうが古い作品がわからなくなる改題には問題がある。タイトルに英文を入れるのも妙に気取った印象があって好きになれない。ゴーギャンのパクリっぽい。しかも新作短篇の出来があまりよくない。

 喜多川の小説は当たり外れがはっきりしているのだが本書は当たりだ。私塾を立ち上げる主人公には喜多川自身の経験が反映されていることだろう。

 キヨスクで偶然買った「ルーツキャンディ」を舐(な)めると祖父や父の体験が目の前で繰り広げられる。最初はわけがわからなかったが主人公は徐々に「自分がどこから来たか」を知る。歴史を学ぶと全てを知った気になるが実はそうではないことがわかる。我々は自分の父や祖父の感情の軌跡すら知らないのだ。自分の誕生をどれほどの喜びで迎えてくれたか。家族のためにどのような思いで戦争に臨んだか。そうした感情の一つひとつが人類の歴史を織り成しているのだ。

 命はつながり、そして流れる。人々の思いは確かな痕跡となって大河の方向を決めるのだろう。

2020-06-22

日本人の悪徳/『半沢直樹1 オレたちバブル入行組』池井戸潤


 ・日本人の悪徳

『半沢直樹2 オレたち花のバブル組』池井戸潤
『半沢直樹3 ロスジェネの逆襲』池井戸潤
・『半沢直樹4 銀翼のイカロス』池井戸潤
『隠蔽捜査』今野敏
・『ザ・ラストバンカー 西川善文回顧録』西川善文

 銀行には様々な人間たちがやってくるが、こと態度が悪いという点で国税はヤクザの比ではない。ヤクザならせいぜい店頭で怒鳴り散らすぐらいが関の山だが、こいつらは銀行の中にまで土足で入り込み、国家権力を笠に来て威張り散らした挙げ句、気に入らないことがあると「シャッター閉めるか?」と常套句と化した脅しの言葉を吐く。間違ったエリート意識、歪んだ選民思想の産物で、つまらぬ奴らに権力を持たせるとこうなる、の典型だ。テレビドラマの「窓際太郎」など現実には存在しない。

【『半沢直樹1 オレたちバブル入行組』池井戸潤〈いけいど・じゅん〉(講談社文庫、2019年/文藝春秋、2004年『オレたちバブル入行組』改題/文春文庫、2007年)以下同】

 全4冊を2日間で読んだ。テレビドラマの土下座シーンだけは見たことがあるが明らかなミスキャストだ。半沢役がひ弱すぎる。大和田役も大根すぎて見るに堪(た)えず。失われた20年で奮闘する銀行マンを主軸に「働く意味」を問いかける。

 日本人の悪徳は「弱い者いじめ」である。明治維新以降は薩摩・長州が会津をいじめ、陸軍では若い兵隊を散々ビンタし、やむなく帰還した特攻隊員は裏切り者扱いをされた。戦時中に思想を取り締まった特高警察も決して国民の味方ではなかった。旧内務省・軍需省が築いた経済システムは戦後も維持された。カルテル、株式持ち合い、系列など。そして大陸から引き上げてきた満州閥が政治・経済の第一線に返り咲いた。バブル崩壊後になると中小企業が大企業や銀行からいじめ抜かれた。

 警察や国税には捜査権という強大な権力がある。彼らが家宅捜索や税務調査をすると後片付けもしていかない。かつて日本は昭和初期まで世界有数のテロ国家であった。私からすれば殺害される国税専門官がいないのが不思議である。武士道が滅び、仇討ちの精神は跡形もなく消え去った。日本人はいじめと闘うことを知らず、ただ自裁するだけである。国全体がいまだに村の論理で動いている現実がある。

 池井戸作品は初めて読んだが時折キラリと光る言葉がある。

「夢を見続けるってのは、実は途轍(とてつ)もなく難しいことなんだよ。その難しさを知っている者だけが、夢を見続けることができる、そういうことなんじゃないのか」

 これはチト臭すぎる。半沢直樹はどこか竜崎伸也(『隠蔽捜査』今野敏)を想わせるところがある。

2020-04-19

出会いと別れの化学反応/『「また、必ず会おう」と誰もが言った 偶然出会った、たくさんの必然』喜多川泰


・『賢者の書』喜多川泰
・『君と会えたから……』喜多川泰
『手紙屋 僕の就職活動を変えた十通の手紙』喜多川泰
『心晴日和』喜多川泰

 ・出会いと別れの化学反応

『きみが来た場所 Where are you from? Where are you going?』喜多川泰
・『スタートライン』喜多川泰
・『ライフトラベラー』喜多川泰
『書斎の鍵  父が遺した「人生の奇跡」』喜多川泰
『株式会社タイムカプセル社 十年前からやってきた使者』喜多川泰
『ソバニイルヨ』喜多川泰
『運転者 未来を変える過去からの使者』喜多川泰

「なあ、兄弟、誰が何と言おうと、おまえの人生はおまえのもんや。誰かがやれと言うたからやる。やるなと言うたからやらん。そういう生き方をして、おまえは、自分の人生の責任をちゃんと自分でとる自信はあんのか?
 自分の決断に責任を持たない生き方は、まわりの大人によってつくられる。
 おまえはきっと学校では優秀なんやろう。
 先生がやれと言ったらやる、やるなと言ったらやらん。心の中ではこのおっさんの言うことはおかしいと思いながらも、従う理由は何か。
 恐怖か。それとも、打算か。
 怒られるのが怖いのか、それとも、反抗して成績が下がったり、嫌われたりすると大学に行けなくなるから言うことを聞くんか。まあ、どっちかやろ。
 今の場合もどちらかだったはずや。いや、もう、そういう習慣になっていて、何も考えずに、盲目的に言われたとおりにしただけかもしれん。でも、元々の思考回路は、このおっさん怒ったら怖そう、という感情か、言うこと聞かずにこの場で降ろされたらどうしよう、という打算や。
 ええか、そんな生き方はするんやないで、兄弟。
 先生だろうが、怖そうなおっさんだろうが、理不尽なこと言われたら断れ」

【『「また、必ず会おう」と誰もが言った 偶然出会った、たくさんの必然』喜多川泰〈きたがわ・やすし〉(サンマーク出版、2010年)】

 最初が辛い。主人公の中学生がクズ過ぎて。私の周囲には一人もいないタイプだ。想像を絶するダメ人間だ。そんなダメ男(お)が友人に小さな嘘をついたことから旅に出る羽目となる。あとは映画ジャンルのロードムービーものとなるわけだが、敢えて定型スタイルを選んだところに著者の意欲が窺える。

 中学生は次々と出会う大人から影響を受け、感化され、変貌してゆく。成長の坂道ではなく変貌の階段を登ってゆくのだ。ありふれたストーリーに光る言葉が埋め込まれている。現在では中二病などと揶揄される世代ではあるが、もっとも振幅に富む年代であり、人格の基底部が形成される季節でもある。

 私自身の中学時代を振り返ると、そこそこ恵まれた状況だったとは思うが大人の存在は皆無である。尊敬できる人物と巡り合ったのは十代後半になってからだ。そう考えると縦の関係性が乏しいことに気づく。小中学生の頃からモデルとなるような人物と接する機会を設ける工夫が必要だろう。

 尚、この作品は映画化されているが見る気はない。

2020-03-08

人は自分が探しているものしか見つけることができない/『心晴日和』喜多川泰


・『賢者の書』喜多川泰
・『君と会えたから……』喜多川泰
『手紙屋 僕の就職活動を変えた十通の手紙』喜多川泰

 ・人は自分が探しているものしか見つけることができない

『「また、必ず会おう」と誰もが言った 偶然出会った、たくさんの必然』喜多川泰
『きみが来た場所 Where are you from? Where are you going?』喜多川泰
・『スタートライン』喜多川泰
・『ライフトラベラー』喜多川泰
『書斎の鍵  父が遺した「人生の奇跡」』喜多川泰
『株式会社タイムカプセル社 十年前からやってきた使者』喜多川泰
『ソバニイルヨ』喜多川泰
『運転者 未来を変える過去からの使者』喜多川泰

「どんな仕事をしていても、自分にとって嫌なことや退屈なことはある。そういう人にとっては仕事そのものが作業であり、苦痛になる。ところが同じことでも誰かの顔を思い浮かべながら、その人に喜んでもらえるようにと考えながらやると、そのことは努力や苦労ではなくなる。その人にとって楽しくてたまらん時間になるんじゃ」
「確かにそうかもしれないわ。時間を忘れて写真を撮っていたもの」
「そうかい。それはよかった。今やお前さんは我々6人の心を癒してくれる専属カメラマンじゃの」
「そう言われると、なんだか嬉しいな。もっと撮りたくなっちゃう。また撮ってきてもいい?」
「もちろんじゃよ。それより、ちょっと話を聞かせてくれんかね? 写真を撮っていて何か気がつくことはなかったかい?」
「そうだなぁ。やっぱり嫌なことを忘れて集中することができたってことかなぁ」
「他にはないかい?」
「そうね、あとは……春らしいものを探して歩いていると、春らしいものって結構いっぱいあるってことね」
 伊之尾は満足げにうなずいている。
「そのことがわかったじゃろ?」
「えっ?」
「お前さんが春らしいものを探して歩いていると、道は春らしいものであふれていることに気づくじゃろ。ところがお前さんが歩いた道は、初めて歩くような外国の道じゃない。いつもお前さんが歩いている道じゃ。
 いつも歩いている道に、お前さんに貼るを感じさせるものがこんなにあふれているってことに以前は気がついていたかな」
「ううん。気がついていなかったわ」
「人間は、自分が探しているものしか見つけることができないんじゃよ」

【『心晴日和』喜多川泰〈きたがわ・やすし〉(幻冬舎、2010年)】

 タイトルは「こはるびより」と読む。いじめられている女子中学生が病院で老人と知り合う。老人は外に出ることができない自分のために春を感じられる写真を撮ってきて欲しいと頼む。新しい出会いを通して少女は少しずつ着実に変わってゆく。

 喜多川作品を読んで私は自己啓発を見直した。それだけではない。自己啓発には後期仏教(大乗)と同じ指向がある。幸福への扉は自分の内部にあるという発想だ。

「イギリス経験論~プラグマティズム~ニューソート~自己啓発」(密教化/『「原因」と「結果」の法則』ジェームズ・アレン)という流れで私は把握しているのだが、後期仏教(大乗)では唯識や華厳経が自己=世界を掘り下げている。

 ここまで見通せればアファメーションが華厳経の焼き直しであることが立ちどころに理解できる。「心は工(たくみ)なる画師(えし)の如く種種の五陰を画く。一切世間の中に法として造らざること無し」(華厳経第十)。世界は心の影なのだ。

アファメーションの解説書/『「言葉」があなたの人生を決める』苫米地英人

 思想が浅い分だけ自己啓発はわかりやすい。脳が妄想を離れることは困難だが自己啓発には妄想を解きほどく効果がある。

 余談であるがカバーのイラストがナンバ歩きになっていておかしい。

2020-01-15

行き交う過去と未来/『運転者 未来を変える過去からの使者』喜多川泰


・『賢者の書』喜多川泰
・『君と会えたから……』喜多川泰
『手紙屋 僕の就職活動を変えた十通の手紙』喜多川泰
『心晴日和』喜多川泰
『「また、必ず会おう」と誰もが言った 偶然出会った、たくさんの必然』喜多川泰
『きみが来た場所 Where are you from? Where are you going?』喜多川泰
・『スタートライン』喜多川泰
・『ライフトラベラー』喜多川泰
『書斎の鍵  父が遺した「人生の奇跡」』喜多川泰
『株式会社タイムカプセル社 十年前からやってきた使者』喜多川泰
『ソバニイルヨ』喜多川泰

 ・行き交う過去と未来

【死後の世界と交信】有名人を顧客に持つ凄腕霊媒師がタクシー運転手に扮して乗客を霊視!【占いタクシー】
『ソース あなたの人生の源はワクワクすることにある。』マイク・マクナマス

時間論
悟りとは
必読書リストその一

「いいから教えてくださいよ。岡田さんは運がいい方ですか? それとも……」
「フン、人生そうそういいことなんてないよ。運がいい人生なんて俺の人生とは無縁だね。ついてないことばっかりだ」
「そうですか。そんな人の運を変えるのが私の仕事です」
「どんな仕事だよ、それ」
「だから、運転手……です。最初から言ってるじゃないですか。私はあなたの運転手だって」
 修一は余計に意味がわからなくなった。
「俺の運を良くするのが仕事だって? 何を言っているのか余計にわからんよ。君の仕事は運転手だろ? 客が連れて行ってほしいところに車で連れて行くのが仕事じゃないのか?」
「違います。運を転ずるのが仕事です。だから私は、岡田さんが連れて行ってほしいところに、車を走らせるわけではありませんよ。岡田さんの人生の転機となる場所に連れて行くだけです」

【『運転者 未来を変える過去からの使者』喜多川泰〈きたがわ・やすし〉(ディスカヴァー・トゥエンティワン、2019年)】

 amazonレビューワーの評価を時折参考にしている。ただし星の数が多いからといって良書とは限らない。「お前らの目は節穴なのか?」と嘆くこともままある。

 本書は運を巡る物語である。凝った構成で未来から現在、そして現在から過去、更にもう一度現在から過去に戻って終わる。芸術とは人が想像したものを形にする作業だが、「思えば成る」というのは唯識のテーマでもある。人は「出来る」と思ったことしかできない。四十不或は今までやったことのないことに対する挑戦の気概を示した言葉である。老いとは「出来ない」ことを受け容れ、できなくて当然と思い込む心に始まる。

 自分が生きる狭い世界にも無限の可能性がある。ほんのちょっとしたきっかけで運命は転じ幸福の扉は開く。「そのためには上機嫌でいること」と運転者は説く。そして「誰かの幸せのために自分の時間を使う」こと。つまり自分の心を開けば転機はどこにでも転がっているのだ。

 もしも親の思いから祖父母の気持ちまでが完全に見通せたとしたら、我々の生き方は今と同じものではないだろう。まして父祖があの戦争をどう戦ったかを知れば、漫然と景気が上向くことを期待しながら無責任で自分勝手な日々を過ごすこともないだろう。

「孝」の字は老いた親を背負う姿に由来する。


 ホモ・サピエンスが登場したのは20万年前に遡(さかのぼ)る。重畳(ちょうじょう)たる歴史を思えば孝の厚みも地層のように増しそうなものだが、世代を重ねるごとに皮膜のような薄さとなっている。孝には「亡き祖先をも背負う」意味があるという。生命の連続性にまさる不思議はない。今生きている人は皆、遺伝的な勝者だ。先祖を辿れば40億年前の生命誕生にまで至る。受け継がれた生命のダイナミズムを父と祖父の生きざまから照射したドラマである。

 12月に本書を読み、その後喜多川作品を8冊読んだ。いずれもローからセカンドのギアに時間がかかるのと、登場人物のネーミングがよくない共通点がある。尚、駄作と判断したものにはリンクを貼っていない。

2018-12-23

香る言葉/『ストーナー』ジョン・ウィリアムズ


『あなたに不利な証拠として』ローリー・リン・ドラモンド

 ・香る言葉

東江一紀
楡井浩一

 図書館では、何万冊もの本を収めた書庫のあいだを歩き回って、革の、布の、そして乾きゆくページのかびくささを、異国の香(こう)のようにむさぼり嗅(か)いだ。ときおり足を止め、書棚から一冊抜き出しては、大きな両手に載せて、いまだ不慣れな本の背の、硬い表紙の、密なページの感触にくすぐられた。それから、本を開き、この一段落、あの一段落と拾い読みをして、ぎこちない指つきで慎重にページをめくる。ここまで苦労してたどり着いた知の宝庫が、自分の不器用さのせいで万が一にも崩れ去ったりしないようにと。
 友人はなく、生まれて初めて孤独を意識するようになった。屋根裏部屋で過ごす夜、読んでいる本からときどき目を上げ、ランプの火影(ほかげ)が揺れる隅の暗がりに視線を馳(は)せた。長く強く目を凝らしていると、闇が一片の光に結集し、今まで読んでいたものの幻像に変わった。そして、あの日の教室でアーチャー・スローンに話しかけられたときと同じく、自分が時間の流れの外にいるように感じた。過去は闇の墓所から放たれ、死者は棺から起き上がり、過去も死者も現在に流れ込んで生者にまぎれ、そのきわまりの瞬時(ひととき)に、ストーナーは濃密な夢幻に呑み込まれて、取りひしがれ、もはや逃れることはかなわず、逃れる意思もなかった。

【『ストーナー』ジョン・ウィリアムズ:東江一紀〈あがりえ・かずき〉訳(作品社、2014年)】

 平凡な男の平凡な一生が稀有な文章で綴られる。何ということか。物語は語られる対象のドラマ性に拠(よ)るのではなく、実はその語り口にあるのだ。脳は因果というストーリーを志向するのだが、好悪を決めるのは文体(スタイル)だ(『書く 言葉・文字・書』石川九楊、『漢字がつくった東アジア』石川九楊)。すなわちメロディーとリズムの関係といってよい。感情を高めるのはメロディーだが体を揺するのはリズムである。

 香る言葉が至るところに散りばめられ、青葉の露を想わせる何かが滴(したた)り落ちる。巧みな画家は路傍の石を描いても傑作にすることができる。小林秀雄が岡潔との対談『対話 人間の建設』で紹介している地主悌助〈じぬし・ていすけ〉は石や紙を題材に描く。つまり作品は表現で決まるのだ。

 長い生命を勝ち得た思想を支えているのも文体だ。仏典、聖書、四書五経に始まり、ありとあらゆる宗教や哲学に後世の人々が心を震わせるのは時代を超えたスタイルに魅了されるためだ。セネカショウペンハウエル三木清を見よ。書かれた内容よりも文体に魅力があるのは明々白々だ。

 いかなる人生であろうとも物語られる価値がある。もしもあなたがつまらない日々を過ごしているならば、それは語るべき言葉が乏(とぼ)しいためだ。語彙(ごい)数ではない。視点の高さから豊かな言葉が生まれる。

 本書は東江一紀の遺作である。ラストで物語と翻訳家の人生が交錯し、現実とドラマが完全につながる。「あとがき」から読むことを勧める

ストーナー
ストーナー
posted with amazlet at 18.12.23
ジョン・ウィリアムズ
作品社
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英「今年の本」は50年前に絶版の小説、翻訳版で一躍ベストセラーに | ロイター

悪文極まれリ/『時のみぞ知る』ジェフリー・アーチャー


・『百万ドルをとり返せ!』ジェフリー・アーチャー
・『新版 大統領に知らせますか?』ジェフリー・アーチャー

 ・悪文極まれリ

『ぼくを忘れたスパイ』キース・トムスン

 クラスの女の子は一人残らず彼に首ったけだったけれど、それは彼が学校代表のサッカー・チームのキャプテンだというだけが理由ではなかった。
 学校時代のわたしにはちらりとも関心を見せなかったにもかかわらず、彼が西部戦線から帰ってきた直後に、それに変化があった。あの土曜の夜の《パレ》で、わたしとわかっていてダンスを申し込んできたのかどうかはいまだによくわからないけれども、公平を期すために言うなら、わたしも相手が彼とわかるまで、二度もその顔を見直さなくてはならなかった。

【『時のみぞ知る』ジェフリー・アーチャー:戸田裕之〈とだ・ひろゆき〉訳(新潮文庫、2013年)】

 7部作全14巻の1ページ目がこの悪文である。三度読み返しても理解できず、頭がおかしくなりそうになった。「首ったけだったけれど」という音の悪さ、「けれど~なかった~かかわらず~けれども~ならなかった」という否定形の連続が文章の行方をわからなくしている。なかんずく「直後に、それに」は致命傷だ。「彼が西部戦線から帰ってきた時に変わった」で構わないだろう。「一変した」でもよい。

 新潮社も落ちたものだ。

時のみぞ知る〈上〉―クリフトン年代記〈第1部〉 (新潮文庫)
ジェフリー アーチャー
新潮社 (2013-04-27)
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時のみぞ知る〈下〉―クリフトン年代記〈第1部〉 (新潮文庫)
ジェフリー アーチャー
新潮社 (2013-04-27)
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2018-09-11

中高年初心者は距離よりも時間を重視せよ/『サヴァイヴ』近藤史恵


『サクリファイス』近藤史恵
『エデン』近藤史恵

 ・余生をサドルの上で過ごす~55歳の野望

  ・中高年初心者は距離よりも時間を重視せよ

 ・ペダリングの悟り

・『キアズマ』近藤史恵
・『スティグマータ』近藤史恵
・『逃げ』佐藤喬

 もちろんこの程度の坂で速度が変わることもなく、足が乱れることもない。だが、感触の違いは脚に伝わってきて、それがおもしろい。徒歩ならば気づかないことが、自転車に乗っていればわかる。
 ロードバイクに乗り始めて、すでに10年以上経つ。今では、歩くよりも、ただ立っているよりも、自転車の上にいる方が楽だ。そう言えば多くの人は驚く。
 身体が自転車によって変えられるのだ。自転車に、乗る人間の癖がつくのと同じことだ。歩くのに必要な筋肉は次第に衰え、ペダルを回す筋肉だけが発達してくる。

【『サヴァイヴ』近藤史恵〈こんどう・ふみえ〉(新潮社、2011年/新潮文庫、2014年)】

 昨日は大山を目指したのだが雨に祟(たた)られて途中で引き返してきた。「裏切りの天気予報」というタイトルが浮かんだ。1時間ほどコインランドリーの軒下で雨宿りをしていたのだが、時折私は大山目掛けて大きく息を吐いた。ブラジルの蝶の羽ばたきがテキサスに竜巻を引き起こすなら、私の吐息が大山の雲を払うことも十分あり得ると考えたのだ。雨は強くなるばかりだった。多分山の反対側で誰かが息を吐いているのだろう。帰宅すると中華サイコンが成仏していた。

 伊東の川奈に富士急が開発した別荘地がある。海越しに小さい三角形の山がきれいに見える。道往く人に訊ねたところ、「あれは大山ですよ」と呆れ顔で答えた。私は胸の内で呟いた。「大山はのぶ代と倍達〈ますたつ〉しか知らねーよ」と。後日、江戸時代にはお伊勢参りに次いで関東で人気の高い山だったと物の本で読んだ気がする。

 今日も時間があったので再び大山を目指した。家を出てから道順を記したメモを忘れたことに気づいた。神奈川の県央地域は道路が入り組んでいる。マッカーサーが厚木飛行場(綾瀬市、大和市)から日本入りするためにこの界隈は爆撃を免れているという話がある。地図かメモがなければ辿り着くことは難しい。意外と起伏に飛んでいて山の姿も直ぐに見えなくなる。きっと山の神に嫌われているのだろう。

 中高年初心者は距離よりも時間を重視せよ、と申し上げたい。っていうか私が現在心掛けていることだ。距離を目標にするとどうしても疲れる。しかも私は山の中を走ることが多いので遭難しかねない。いや、ホントの話ですぜ。チューブ交換で済む程度のパンクならどうってことはないが、タイヤが破損したり、衝突でホイールが変形したり、クルマにひき逃げされたりした暁には徒歩で数十kmの道のりを歩く羽目となる。私は夜のサイクリストなのだ。

 ロードバイクを買う前から私の心はなぜか湖を目指していた。宮ヶ瀬湖、津久井湖、相模湖を制覇してわかったのだが、私が求めていたのは湖ではなくせせらぎの音だった。湖の近くを走っているとどこからともなく水の流れる音が聞こえてくる。生命を支えているのは水と空気だ。苦しみながらペダルを踏んでいると生きる実感が湧いてくる。

 しかも湖付近には必ず道がある。地図を見ていて不思議に思ったのだが多分湖が山の中でも低い位置にあるためなのだろう。それに気づいた瞬間、私の興味は峠に向かった。つまり地図で波打っている道路に注目したのだ。まあ、あるわあるわ。いくらでもある。日本の国土の7割は山間部といわれるのだから当然だ。一生困らないほど峠道はある。

 坂道をじっくりと登ることで脚力がつく。衰えつつある体に鞭を打ち、念仏を唱えるように「踏む、踏む」と呟くと、「不無、不無」という瞑想の境地に至る。更には「クランクを回せ、回せ」と念じていると「輪廻」(りんね)の文字が頭を支配するようになる。凡夫ゆえ転法輪(てんぽうりん)とならないところが悲しい。

 ひと月半ほどで700km走った。ふくらはぎの筋肉は造形が変わり、心拍は20近く減った。

 本書は短篇集で『サクリファイス』以前の物語も描かれている。最初に読んでも問題はない。

サヴァイヴ (新潮文庫)
近藤 史恵
新潮社 (2014-05-28)
売り上げランキング: 79,578