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2018-12-23

香る言葉/『ストーナー』ジョン・ウィリアムズ


『あなたに不利な証拠として』ローリー・リン・ドラモンド

 ・香る言葉

東江一紀
楡井浩一

 図書館では、何万冊もの本を収めた書庫のあいだを歩き回って、革の、布の、そして乾きゆくページのかびくささを、異国の香(こう)のようにむさぼり嗅(か)いだ。ときおり足を止め、書棚から一冊抜き出しては、大きな両手に載せて、いまだ不慣れな本の背の、硬い表紙の、密なページの感触にくすぐられた。それから、本を開き、この一段落、あの一段落と拾い読みをして、ぎこちない指つきで慎重にページをめくる。ここまで苦労してたどり着いた知の宝庫が、自分の不器用さのせいで万が一にも崩れ去ったりしないようにと。
 友人はなく、生まれて初めて孤独を意識するようになった。屋根裏部屋で過ごす夜、読んでいる本からときどき目を上げ、ランプの火影(ほかげ)が揺れる隅の暗がりに視線を馳(は)せた。長く強く目を凝らしていると、闇が一片の光に結集し、今まで読んでいたものの幻像に変わった。そして、あの日の教室でアーチャー・スローンに話しかけられたときと同じく、自分が時間の流れの外にいるように感じた。過去は闇の墓所から放たれ、死者は棺から起き上がり、過去も死者も現在に流れ込んで生者にまぎれ、そのきわまりの瞬時(ひととき)に、ストーナーは濃密な夢幻に呑み込まれて、取りひしがれ、もはや逃れることはかなわず、逃れる意思もなかった。

【『ストーナー』ジョン・ウィリアムズ:東江一紀〈あがりえ・かずき〉訳(作品社、2014年)】

 平凡な男の平凡な一生が稀有な文章で綴られる。何ということか。物語は語られる対象のドラマ性に拠(よ)るのではなく、実はその語り口にあるのだ。脳は因果というストーリーを志向するのだが、好悪を決めるのは文体(スタイル)だ(『書く 言葉・文字・書』石川九楊、『漢字がつくった東アジア』石川九楊)。すなわちメロディーとリズムの関係といってよい。感情を高めるのはメロディーだが体を揺するのはリズムである。

 香る言葉が至るところに散りばめられ、青葉の露を想わせる何かが滴(したた)り落ちる。巧みな画家は路傍の石を描いても傑作にすることができる。小林秀雄が岡潔との対談『対話 人間の建設』で紹介している地主悌助〈じぬし・ていすけ〉は石や紙を題材に描く。つまり作品は表現で決まるのだ。

 長い生命を勝ち得た思想を支えているのも文体だ。仏典、聖書、四書五経に始まり、ありとあらゆる宗教や哲学に後世の人々が心を震わせるのは時代を超えたスタイルに魅了されるためだ。セネカショウペンハウエル三木清を見よ。書かれた内容よりも文体に魅力があるのは明々白々だ。

 いかなる人生であろうとも物語られる価値がある。もしもあなたがつまらない日々を過ごしているならば、それは語るべき言葉が乏(とぼ)しいためだ。語彙(ごい)数ではない。視点の高さから豊かな言葉が生まれる。

 本書は東江一紀の遺作である。ラストで物語と翻訳家の人生が交錯し、現実とドラマが完全につながる。「あとがき」から読むことを勧める

ストーナー
ストーナー
posted with amazlet at 18.12.23
ジョン・ウィリアムズ
作品社
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英「今年の本」は50年前に絶版の小説、翻訳版で一躍ベストセラーに | ロイター

2012-06-23

ドン・ウィンズロウ


 1冊読了。

 33冊目『犬の力(下)』ドン・ウィンズロウ:東江一紀〈あがりえ・かずき〉訳(角川文庫、2009年)/上巻で受けた印象は変わらず。物語の展開は明らかに失速している。ミステリにおけるプロパガンダ本は意外と多い。私が長らくユダヤ人に肩入れしてきたのも、モサドものを始めとするミステリの影響が大きい。ま、半世紀近くも生きていれば、もう簡単には騙されないけどね。

2014-03-23

アメリカ礼賛のプロパガンダ本/『犬の力』ドン・ウィンズロウ


 寝間着姿――高価な絹のパジャマやネグリジェ――の者もいれば、Tシャツ姿の者もいる。裸の男女がひと組――情交のあとの睦(むつ)まやかな眠りを引き裂かれたのか。かつて愛欲だったものが、今は剥(む)き出しの猥褻(わいせつ)と化した。
 向かいの壁の沿って、亡骸(なきがら)がひとつ、ぽつんと横たわる。老人。家長。おそらく最後に撃たれたのだろう。家族が殺されるのを見届けたあと、みずからもあの世に送られた。慈悲の計らい? これは一種のゆがんだ慈悲なのだろうか? しかし、そのとき、アートの目が老人の手をとらえる。爪が剥(は)ぎ取られ、指が切り落とされている。老人の口は悲鳴の形に開いて硬直し、何本かの指が舌にへばりついている。
 敵はつまり、この一家の中に“指”(デド)――密告者――がいると考えていた。
 そう考えるように、わたしが仕向けたせいで。
 神よ、赦(ゆる)したまえ。
 アートは特定の一体を捜して、屍をひとつひとつ検分していく。
 捜し当てたとき、胃の腑(ふ)が揺さぶられ、喉(のど)へ突き上げてきた嘔気(おうき)を懸命に抑えつける。その若者の顔が、バナナのように皮を剥かれていたからだ。生皮が首から醜く垂れ下がっている。これが息絶えた【あと】に施された仕置きであることをアートは願ったが、そう甘くはあるまい。
 若者の頭蓋(ずがい)の下半分が吹き飛ばされている。
 口を撃たれたということだ。
 反逆者は後頭部を、密告者は口を撃たれる。
 敵はこの男を密告者だと考えた。
 まさにおまえが仕向けたとおりだ、とアートは胸に言い聞かせる。見るがいい――おまえが意図したとおりになったのだ。
 だが、わたしは想定していなかった。連中がこんなことをするとは。

【『犬の力』ドン・ウィンズロウ:東江一紀〈あがりえ・かずき〉訳(角川文庫、2009年)】

 世界は主観で構成される。だから人の数だけ世界が存在する。つまり私が言いたいのはこうだ。書評は当てにならない。優れた書評本ですら鵜呑みにすると痛い目に遭う。例えば『狐の書評』で一躍有名になった山村修など。米原万里〈よねはら・まり〉すら信用ならない。ま、そんなわけで私は抜き書きを多用しているのだ。

 このテキストを慎重に読み解けば本書の内容は窺える。吉川三国志の劉備玄徳を思わせる優柔不断さである。暗に良心の呵責を盛り込むことで主人公を読者の側に近づけたつもりなのだろう。私の目には単なる小心としか映らない。

 一言でいえばメキシコのドラッグ・ウォー(麻薬戦争)を舞台にしたアメリカ・プロパガンダ本である。アート・ケラーはDEA(アメリカ麻薬取締局)のエージェントだ。麻薬戦争については以下のページを参照せよ。

殺戮大陸メキシコの狂気(1)麻薬に汚染されてしまった国家(記事末尾に関連記事リンクあり)

 既にメキシコのマフィアは軍隊並みの武器を保有しており、警察が手をつけられるような状態ではない。そこでエンターテイメント小説の出番となるわけだ。たぶん各所に目立たぬ真実が書かれている。大衆の位置からは現実の全体像が見えない。映像やテキストによるプロパガンダ作品の目的は「どうせ映画や小説の話」として喧伝するところにある。そして我々はフィクションであることに安心して、事実から目を逸(そ)らして日常生活に戻るのだ。

 アメリカが正義の味方だと思ったら大間違いだ。かの国こそ世界で最も邪悪な国家と言い切ってよい。本書のプロパガンダを見抜くのは意外と簡単で、ジョン・パーキンス著『エコノミック・ヒットマン 途上国を食い物にするアメリカ』と、ナオミ・クライン著『ショック・ドクトリン 惨事便乗型資本主義の正体を暴く』を読むだけで十分だ。

 ドン・ウィンズロウは『ストリート・キッズ』が秀作であっただけに残念だ。嘘を見抜く力を養うためには有益な作品といえよう。

犬の力 上 (角川文庫)犬の力 下 (角川文庫)

ストーリー展開と主人公の造形が雑/『流刑の街』チャック・ホーガン

2012-06-22

ドン・ウィンズロウ


 1冊読了。

 32冊目『犬の力(上)』ドン・ウィンズロウ:東江一紀〈あがりえ・かずき〉訳(角川文庫、2009年)/これは「文章巧者が描く邪悪なプロパガンダ本」である。評価の高いミステリだけに私は満を持して読んだ。手法としてはテレビドラマ『24 -TWENTY FOUR-』と同じで、部分的に真実を盛り込んで、アメリカの正義を体現する人物に共感させるような筋書きとなっている。ドン・ウィンズロウの『ストリート・キッズ』を読んだのは20年前のこと。警句のように引き締まった文章を散りばめながらも、登場人物は一様に平板だ。何といっても主役のアート・ケラーが最悪である。大体、「アート」って名前をつけるセンスを疑いたくなる。ま、出来損ないの劉備玄徳みたいな性格だ。メキシコのドラッグ戦争をギャングの抗争に矮小化する意図を感じた。中南米の暴力には全てアメリカが関与している。その事実から目を逸(そ)らさせる効果が本書にはある。

2018-11-09

翻訳と解釈/『ファストフードが世界を食いつくす』エリック・シュローサー


 ・アメリカ食肉業界の恐るべき実態
 ・翻訳と解釈

『小麦は食べるな!』ウイリアム・デイビス
『シリコンバレー式自分を変える最強の食事』デイヴ・アスプリー
『医者が教える食事術 最強の教科書 20万人を診てわかった医学的に正しい食べ方68』牧田善二
『医者が教える食事術2 実践バイブル 20万人を診てわかった医学的に正しい食べ方70』牧田善二
『DNA再起動 人生を変える最高の食事法』シャロン・モアレム

必読書リスト その二

 一世代前のアメリカでは、食費の4分の3が、家庭で用意される食事にあてられていた。今日では、食費の半分にあたる額が、外食店に――それも、主としてファストフード店に――支払われている。
 マクドナルド社は、現在アメリカ国内の新規雇用の90パーセントを担うサービス業の、大きな象徴となっている。1968年に、同社の店舗数は約1000だった。現在、世界じゅうに約2万8000店舗あり、毎年新に約2000店が開店している。推計によると、アメリカの労働者の8人にひとりが、いずれかの時期にマクドナルドで働いたことになる。同社が毎年新規に雇う約100万人という数は、アメリカの公営・私営を合わせたどんな組織の新規雇用数よりも多い。マクドナルドはわが国最大の牛肉、豚肉、じゃがいも購入者であり、2番めに大きい鶏肉購入者でもある。また、世界一多くの店舗用不動産を所有している。実のところ、利益の大半を、食品の販売からではなく家賃収入から得ているのだ。マクドナルドは、ほかのどんなブランドよりも多額の広告宣伝負を投じている。その結果、コカコーラの座を奪って、世界一有名なブランドになった。同社はアメリカのどんな私企業よりも、数多くの遊び場(プレイランド)を運営している。そして、わが国有数の玩具販売業者でもある。アメリカの小学生を対象に調査したところ、じつに96パーセントが、ロナルド・マクドナルド(日本では、ドナルド・マクドナルド)を知っていた。これよりも知名度の高い架空の人物は、サンタクロースぐらいのものだろう。マクドナルが今日のわれわれの生活に及ぼす影響の大きさは、誇張したくてもできないほどだ。黄金のアーチは、今やキリスト教の十字架よりも広く知られている。

【『ファストフードが世界を食いつくす』エリック・シュローサー:楡井浩一〈にれい・こういち〉訳(草思社、2001年/草思社文庫、2013年)】

 少し前にジョン・ウィリアムズ著『ストーナー』のあとがきで東江一紀〈あがりえ・かずき/ノンフィクションでは楡井浩一名義〉の逝去を知った。私は大体30~50冊ほどの本を併読するため、つまらない本が続くと楡井浩一、阪本芳久、水谷淳、林大〈はやし・まさる〉、太田直子らの翻訳本を探す羽目になる。

 翻訳は解釈であり、解釈は翻訳である。

読む=情報処理/『読書について』ショウペンハウエル:斎藤忍随訳
読書は「世の中を読む」行為/『社会認識の歩み』内田義彦

 エリック・シュローサーがアメリカ社会を読み解き、シュローサーの文章を楡井浩一が翻訳する。それを読者が解釈し新たな言葉を紡いでゆく。仏教伝播(でんぱ)の歴史で時折天才が登場するが彼らが行ったのは翻訳ではなく翻案であった。独創性が加えられているのだ。

 わざわざショウペンハウエルや内田義彦を引っ張り出したわけだが、二つのテキストを紹介している間に何を書こうとしていたのか忘れてしまった。ま、よくあることだ。

 本書のようなノンフィクションを読むと「やはり白人には敵(かな)わんな」との思いを強くする。構造をダイナミックに把握する能力が抜きん出ているのだ。仕組みや仕掛けといった発想が豊かなのは、全知全能の神がこの世界を創造したことと関係があるのかもしれぬ。

 マクドナルドが不動産事業で儲けている事実を明らかにしたのはロバート・キヨサキである(『金持ち父さん 貧乏父さん アメリカの金持ちが教えてくれるお金の哲学』)。つまりハンバーガー屋に見せかけた不動産屋ってわけだ。ボロい商売だ。購入した不動産の支払いをフランチャイズオーナーや客に支払わせているのだから。

 これをあこぎな真似だと思う多くの日本人は金持ちになることができない。「別にいいよ。カネよりも大切なものがあるから」と思うあなたは正しい。江戸時代の日本はヨーロッパのような階級社会ではなかったが身分は存在した。私はこの年になって思うのだが士農工商という序列は案外健全ではないだろうか。ビジネスなどと抜かしても所詮商人である。商人風情(←差別発言)がでかい顔をしているところに資本主義の過ちがあるのだ。現代だと武士に該当するのは官僚であるが彼らは一身の栄誉栄達しか考えていないので武士道にもとる。残された道としては速やかに憲法を改正して、軍人の身分を確立し、新たな武士階級として育成することだ。日本人は日本人らしく情緒とモラルで勝負すればよい。