寝間着姿――高価な絹のパジャマやネグリジェ――の者もいれば、Tシャツ姿の者もいる。裸の男女がひと組――情交のあとの睦(むつ)まやかな眠りを引き裂かれたのか。かつて愛欲だったものが、今は剥(む)き出しの猥褻(わいせつ)と化した。
向かいの壁の沿って、亡骸(なきがら)がひとつ、ぽつんと横たわる。老人。家長。おそらく最後に撃たれたのだろう。家族が殺されるのを見届けたあと、みずからもあの世に送られた。慈悲の計らい? これは一種のゆがんだ慈悲なのだろうか? しかし、そのとき、アートの目が老人の手をとらえる。爪が剥(は)ぎ取られ、指が切り落とされている。老人の口は悲鳴の形に開いて硬直し、何本かの指が舌にへばりついている。
敵はつまり、この一家の中に“指”(デド)――密告者――がいると考えていた。
そう考えるように、わたしが仕向けたせいで。
神よ、赦(ゆる)したまえ。
アートは特定の一体を捜して、屍をひとつひとつ検分していく。
捜し当てたとき、胃の腑(ふ)が揺さぶられ、喉(のど)へ突き上げてきた嘔気(おうき)を懸命に抑えつける。その若者の顔が、バナナのように皮を剥かれていたからだ。生皮が首から醜く垂れ下がっている。これが息絶えた【あと】に施された仕置きであることをアートは願ったが、そう甘くはあるまい。
若者の頭蓋(ずがい)の下半分が吹き飛ばされている。
口を撃たれたということだ。
反逆者は後頭部を、密告者は口を撃たれる。
敵はこの男を密告者だと考えた。
まさにおまえが仕向けたとおりだ、とアートは胸に言い聞かせる。見るがいい――おまえが意図したとおりになったのだ。
だが、わたしは想定していなかった。連中がこんなことをするとは。
【『犬の力』ドン・ウィンズロウ:東江一紀〈あがりえ・かずき〉訳(角川文庫、2009年)】
世界は主観で構成される。だから人の数だけ世界が存在する。つまり私が言いたいのはこうだ。書評は当てにならない。優れた書評本ですら鵜呑みにすると痛い目に遭う。例えば『狐の書評』で一躍有名になった山村修など。米原万里〈よねはら・まり〉すら信用ならない。ま、そんなわけで私は抜き書きを多用しているのだ。
このテキストを慎重に読み解けば本書の内容は窺える。吉川三国志の劉備玄徳を思わせる優柔不断さである。暗に良心の呵責を盛り込むことで主人公を読者の側に近づけたつもりなのだろう。私の目には単なる小心としか映らない。
一言でいえばメキシコのドラッグ・ウォー(麻薬戦争)を舞台にしたアメリカ・プロパガンダ本である。アート・ケラーはDEA(アメリカ麻薬取締局)のエージェントだ。麻薬戦争については以下のページを参照せよ。
・殺戮大陸メキシコの狂気(1)麻薬に汚染されてしまった国家(記事末尾に関連記事リンクあり)
既にメキシコのマフィアは軍隊並みの武器を保有しており、警察が手をつけられるような状態ではない。そこでエンターテイメント小説の出番となるわけだ。たぶん各所に目立たぬ真実が書かれている。大衆の位置からは現実の全体像が見えない。映像やテキストによるプロパガンダ作品の目的は「どうせ映画や小説の話」として喧伝するところにある。そして我々はフィクションであることに安心して、事実から目を逸(そ)らして日常生活に戻るのだ。
アメリカが正義の味方だと思ったら大間違いだ。かの国こそ世界で最も邪悪な国家と言い切ってよい。本書のプロパガンダを見抜くのは意外と簡単で、ジョン・パーキンス著『エコノミック・ヒットマン 途上国を食い物にするアメリカ』と、ナオミ・クライン著『ショック・ドクトリン 惨事便乗型資本主義の正体を暴く』を読むだけで十分だ。
ドン・ウィンズロウは『ストリート・キッズ』が秀作であっただけに残念だ。嘘を見抜く力を養うためには有益な作品といえよう。
・ストーリー展開と主人公の造形が雑/『流刑の街』チャック・ホーガン
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