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2021-06-22

自動車には事故に遭いやすい色と遭いにくい色がある/『眠れないほど面白い 「道路」の不思議 路線、地図、渋滞、取締り……』博学面白倶楽部


『高速道路の謎 雑学から知る日本の道路事情』清水草一

 ・自動車には事故に遭いやすい色と遭いにくい色がある

 じつは、事故にあいやすい色とあいにくい色があるといわれているのだ。ニュージーランドのオークランド大学やアメリカのミズーリ大学の調査報告によると、車の色によって事故率が大きく異なるという。
 事故にあいにくいのは「白」や「シルバー」。白系の色は光の反射性が高い。そのため、他車から見やすく、事故率が低いのではないかと考えられている。
「黒」も事故率が低い。黒には高級感があり、乗っている人もそれ相応の人物だというイメージがあるからか、他車のドライバーが緊張感を持ち、意識を高めて運転するからではないかと推測されている。
 逆に事故率が高いのが「青」、そして「赤」や「橙」「黄色」などの派手な色。(中略)寒色系の車は暖色系に比べて後退して見えるという特徴がある。車間距離が実際より遠く感じられて、事故が起きている可能性があるのだ。(中略)
「赤」や「橙」「黄色」などの色、特に赤を好む人は攻撃的な性格の人が多いとされる。

【『眠れないほど面白い 「道路」の不思議 路線、地図、渋滞、取締り……』博学面白倶楽部(王様文庫、2016年)】

 これは意外である。派手な色は目につきやすいと思いきや、「後退して見える」とは。スピードを出しやすい人は交差点を曲がる時にわかる。交差点直前で十分な減速をして曲がっている間はアクセルを踏むのが基本である。クルマの不安定な動きをタイヤのしっかりとした動きでコントロールするのだ。ハンドルを切りながらブレーキを踏むのが最悪でわざわざスリップさせるような真似である。

 交通事故は交差点が一番多いことは誰でも知っていると思うが、もう一つは自宅周辺が多い。つまり走り慣れた道路が危ないのである。更に自宅駐車場で我が子が犠牲になる事故も少なくない。一種の正常性バイアス状態に陥るのだろう。

 クルマを「足」と思えば、「走る凶器」であることを忘れる。時速60kmの衝撃はビルの5階から落ちるのと同程度である。


 私は「運転が上手い」とよく言われるが、トラックやタクシー、はたまたバイクの後ろを走らないよう心掛けている。あとは危険予知もさることながら、落下物や飛び石に対して漠然とした注意を向けている。

「よく見る」と言われるが、むしろ見ることによって失われる情報を想像できるかどうかである。前を見れば後ろは見えないし、右を見れば左は見えないのである。「見る」ことは「見えない」ことを含んでいる。だからこそなるべく窓は少し開けて音や空気の振動を感じる状態にするのが望ましい。

2021-06-21

過給ダウンサイジングと年金問題/『博士のエンジン手帖3』(モーターファン別冊)畑村耕一


・『軽トラの本』沢村慎太朗
『営業バンが高速道路をぶっ飛ばせる理由』國政久郎、森慶太
・『営業バンが高速道路をぶっ飛ばせる理由2 逆説自動車進化論』國政久郎
・『別冊モータージャーナル 四輪の書』國政久郎、森慶太

 ・過給ダウンサイジングと年金問題

2007年の排ガス規制~ホンダPCX125の登場(2010年)がビッグスクーターブームに止めを刺した

「日本のメーカーがやるべきことは、まず過給ダウンサイジングの土俵に上ること。技術を深めるのはそこからの話じゃ」
 博士がこう話したのは2012年、スバルが投入した新世代水平対向エンジン、FA20DITを前にしてのことである。排気量は2.0lで、ツインスクロールターボやEGRなど、過給ダウンサイジングの定番技術を採用している。フォレスターに乗ってFA20DITの出来映えを検証した際の感想は『博士のエンジン手帖2』を参照いただくとして、当時から小型排気量版の登場を予見していた博士は「1.6lが本命。はよ乗りたい」と繰り返し語っていた。

【『博士のエンジン手帖3』(モーターファン別冊)畑村耕一〈はたむら・こういち〉(三栄書房、2015年)以下同】

 運転は好きなのだが、特別クルマに興味があるわけではない。仕事でハイエースや2トントラックに乗っていたことがあり、荷物を運ぶクルマに関心があった。そこで上記書物を読んだというわけ。

 メカニズムに関しては更に蒙(くら)い。動画「クラッチの仕組みとは?」を視聴してもピンと来るものがなかった。まして過給ダウンサイジングの意味など知る由もない。

ダウンサイジング過給エンジン:なぜエンジンをダウンサイジングすると効率が良くなるのか?|Motor-FanTECH

 多分、人を運ぶエンジンサイズの適正化ということなのだろう。人間一人を移動させるだけなら50ccの原動機で十分だ。実際の馬が4馬力で、人間が0.3PS~1.5PSという(人間は何馬力? | 教えて!goo)。自転車なら8メッツ程度だ(METsとは?|松本協立病院)。

「1.6リッターが本命」ということは5人乗りであれば一人あたり300ccに相当する。車重を踏まえれば250ccバイクに乗ると考えられるから妥当だろう。

「エンジン屋にとって、過給ダウンサイジングを理解するのはよっぽど難しいんかと思う。ワシの場合はもともとエンジン屋じゃのうて電気自動車屋、パワートレーン屋じゃけ、エンジンはトランスミッションとセットで走りを考えにゃいけんことがわかっとる。クルマは気持ち良う走ることが大事で、そのためには低速トルクが要るんだということは実際に体験してみるのが一番じゃ」

 読んだ時は訛(なま)りに違和感を覚えてならなかった。「お前は猪熊滋悟郎か?」とも思った(YAWARA! - Wikipedia)。編集部としては生(なま)の畑村を伝えようとしたのだろうが完璧な失敗だ。

【「技術屋がわかってもクルマは変わらん。企画する人間や営業が変わらねば」
 これも博士の口癖だ。】

 理系特有の本質に切り込む視点が参考になる。特に驚かされたのは年金に対する考え方だ。

 効率を求めない、成長を求めないのが、これからの国のかたち、人の生き方じゃろう。成長を続けることが本当にええことなんかどうかをよく考えにゃいけん。これ以上成長したら地球はもたんようんになるのは目に見えとるからじゃ。面白いことに、年金がきちんと出て老後が保障されるようになると、子供を持つ理由がないようになる。だから、先進国は人口が減っていく。一方、年金が整備されていない国は自分の老後を子供に託すしか道がないけえ、子供を増やす。貧しい国では子供が育たんこともあるんで、リスク対応でたくさん産む。だから、貧しい国はどんどん人口が増えていく。
 世界はいま、そういう状況に陥っとる。この流れを断ち切るには、年金をやめにゃいけん。物事の本質を見誤ると、ほころびが出てくる。年金制度がなぜ破綻するかというたら、年金制度があるからじゃ。働き手が少ないからという指摘もあるが、年金が十分に受け取れるなら子供に面倒を見てもらう必要がないけ、子供は減り、働き手が減って年金は破綻するに決まっとる。
 年金制度は、老後はみんなで面倒を見ましょうという話。子供が自分の親の面倒を見るんじゃのうて、他の親も含めて面倒を見にゃいけん。その一方で、子供がいある親だけが子供の面倒を見る必要がある。そんな不公平な状況だから、だったら子供は要らんという話になる。年金制度で老人の面倒を見るんなら、子供の面倒もみんなで見る制度を一緒に整備せにゃいけん。子育て支援など当たり前じゃ。

 つまり社会保障のダウンサイジング化ということなのだろう。その辺の政治家よりも遥かに高い見識の持ち主で、こうした人々が日本のものづくりを支えてきたことを思うと胸が熱くなる。



エンジンコンサルティング|畑村エンジン研究事務所(広島市南区)

2021-06-19

サグ渋滞/『高速道路の謎 雑学から知る日本の道路事情』清水草一


 ・サグ渋滞

『眠れないほど面白い 「道路」の不思議 路線、地図、渋滞、取締り……』博学面白倶楽部

 週末や連休の各高速道路で発生する渋滞は、その6割以上が“サグ”を先頭にした自然渋滞です。一見何も障害がないところを先頭に、渋滞が発生するのです。
“サグ”とは、くぼ地のこと。高速道路が、下り坂から上り坂に差し掛かるポイントを言います。かつては、知る人ぞ知る専門用語でしたが、現在は一般常識になりつつあります。
 道路が、ドライバーが気付かないほどゆるやかな上り坂に切り替わると、意識しないうちにスピードが落ち、追いついてしまった後続車がブレーキを踏むなどして急激に速度が低下。その連鎖により渋滞が発生します。

【『高速道路の謎 雑学から知る日本の道路事情』清水草一〈しみず・そういち〉(扶桑社新書、2009年)】


 本書でサグ渋滞という言葉を知った。これは錯視というよりは運動神経の鈍さによるものだろう。自転車であれば緩い坂道に入る直前から加速するのは当然である。クルマも同様だ。上手な運転とは一定の速度をキープすることだ。なるべくブレーキを使わないことも含まれる。ただし車重の重いトラックであれば減速することはあり得る。

 事故を防ぐためには道路状況を把握する必要がある。危険予測もさることながら、こうした一般的なドライバーの癖を知っておけば事故を回避できる。特に人間の視力は正面の距離をつかみにくい傾向がある。早めの減速が生死(しょうじ)を分ける場合もある。

2021-05-31

同じ走行距離を望むならガソリンの15倍もの重さのバッテリーを積む必要がある電気自動車/『「水素社会」はなぜ問題か 究極のエネルギーの現実』小澤詳司


『自動車の社会的費用』宇沢弘文
『リサイクル幻想』武田邦彦

 ・同じ走行距離を望むならガソリンの15倍もの重さのバッテリーを積む必要がある電気自動車

 前世紀の二つの世界大戦は、石油による石油のための戦争だった。自動車の技術を応用した兵器が実用化されて実戦で使われたが、そのために石油は不可欠の戦略資源となった。アジア太平洋戦争における日本の開戦と敗戦もまた石油と大きく結びついていた。
 敗戦後の日本は、朝鮮戦争の特需をきっかけに、奇跡の経済成長を遂げる。その牽引役の一つが自動車産業であった。日本の自動車メーカーのいくつかは、軍需産業の解体から出発した。

【『「水素社会」はなぜ問題か 究極のエネルギーの現実』小澤詳司〈おざわ・しょうじ〉(岩波ブックレット、2015年)以下同】

 ブックレットという判型はあまり好きじゃないが本書はおすすめできる。

(※『Who Killed The Electric Car?(誰がその電気自動車を殺したのか?)』(監督:クリス・ペイン、ソニーピクチャーズ)の内容を紹介し)スチュードベイカーエレクトリックからEV-1に至るまで、市販されたEVは数多いが、いずれもベストセラーにもロングセラーにもなることはなく消えてしまった。効率がよくクリーンで静かで運転もしやすいのに、EVはなぜ受け入れられないのか。
 それはガソリン車と比べてみるとよくわかる。ガソリン自動車は燃料としてガソリンをタンクに積む。EVは同じように電気をバッテリーに充電する。ガソリンの発熱量は1リットルあたり約8000キロカロリー=9300ワット時。これを40-50リットルのタンクに積むと、車種や走行条件にもよるが、フルタンクで400-500キロメートル走り続けることができる。
 一方、バッテリーに充電できる電力量を体積(リットル)あたりでみたエネルギー密度は、鉛バッテリーが40-100ワット時、ニッケル水素バッテリーが100-300ワット時、リチウムイオンバッテリーでも300-600ワット時ほどである。リチウムイオンバッテリーであってもガソリンの15分の1から30分の1でしかない。さらに重量あたりのエネルギー密度で比べると、ガソリンのわずか2%以下だ。つまりガソリン自動車と同じ航続距離(1フル充電あたりの走行距離)を稼ごうとすると、エンジン効率とモーター効率の差を考えても、ガソリンの15倍もの重さのバッテリーを積まなくてはいけないことになる。また、その充電にも長い時間がかかる。これは非現実的だ。
 このバッテリーの性能問題が電気自動車の最大のウィークポイントであり、その普及を妨げてきた理由なのである。

 同様のことは太陽光発電にも言える。10年分の太陽光電気代で太陽光発電パネルを作ることはできないだろう。所詮はコスト(費用)とベネフィット(便益)の問題である。私が知る限りでは武田邦彦が一番最初に、「国際的な脱炭素社会に向けた電気自動車への動きはトヨタ潰しである」と喝破した。要は欧米自動車メーカーがトヨタの技術に太刀打ちできない背景がある。競争に敗れれば、自分たちが有利になるようルールを変更するのが白人の流儀だ。

 いずれにしても電気を使うから、その電機をどうやってつくるかという問題がある。電気そのものが何らかのエネルギー源を使って起こさなければならない二次エネルギーだから、それによってつくる水素は三次エネルギー、その水素で起こす電気は四次エネルギーということになる。最初のエネルギー源が化石燃料であればCO2発生は免れないし、コストが大変高いものになる。

 私は電気に関する知識はそこそこあるので最初から気づいていた。いずれにせよ脱炭素への動きはグレートリセットを先取りするもので、世界の仕組みを変える意志を示したものだろう。

 自動車はそもそも過剰性能ではないのか。買い物や通勤・通学のために、最高時速180キロメートル、航続距離400キロメートル、4-7人乗りなどという性能が必要なのだろうか。PHVにせよFCVにせよEVにせよ、日常用途も休日のドライブも1台の車で満たそうとするのは欲張りすぎなのではないか。
 実は自動車と自動車中心社会がもたらす数々の問題を解決するうまい方法がある。それは自動車を小さく、軽く、そして遅くすることだ。自動車の消費エネルギーは、空気抵抗と転がり抵抗に大きく左右される。空気抵抗は速度の二乗に比例し、転がり抵抗は重さに比例する。つまり速度を遅く、重量を小さくすれば、それだけエネルギー消費が少なくてすむのである。
 実際、乗用車1台あたりの月間平均走行距離は380キロメートル、うち58%が300キロメートル以下である。すなわち、乗用車の6割近くは1日平均10キロメートル以下しか走っていないことになる。そして、8割以上が二人以下の乗用人数なのである。

 つまり自動車は税負担を増やすだけの道具と化したわけだ。二重三重の課税は完全な憲法違反である。

 それでも人々は移動の自由を欲する。国家も道路を整備してそれに応える。自動運転は運転する喜びを奪う愚行だ。

 効率を目指すのであれば路面電車を張り巡らすのが一番いいと思う。自動化も可能だろう。



2021-04-05

クルマの触感/『営業バンが高速道路をぶっ飛ばせる理由』國政久郎、森慶太


・『軽トラの本』沢村慎太朗

 ・クルマの触感

・『営業バンが高速道路をぶっ飛ばせる理由2 逆説自動車進化論』國政久郎
・『別冊モータージャーナル 四輪の書』國政久郎、森慶太
『博士のエンジン手帖3』(モーターファン別冊)畑村耕一

「自分の意志に関係なく出現した、あるいは変化した状況への対応。必要な操作。いまを逃したら危ない、というときが、簡単にいってしまえば常にありうるわけです。たとえば包丁だったら、なにかを切っていてマズいと思ったら、その切る操作をやめることもできます。でも、走っているクルマでそれと同じようなことが常に同じようにできるかというと……」

――たとえば1.5トンある物体が、60km/hとか100km/hで動いているわけですね。もしなにかマズいことがあったら、指先に切り傷ができるぐらいでは済みません。

「ということは、そのいま、ここでやらないといけない操作が適切にできるだけの仕込みが、クルマという道具の側にはされていないと絶対にいけないわけです。人間の感覚と上手く繋がったかたちで。そこはきわめて重要なところです」

――いわゆる緊急回避とか、そういう……。

「そうではなくて、速度がゼロではなくなった瞬間からすでに始まっているわけです。もっというと、止まっているときからすでに」
――んー……。

「包丁でいうと、いまどんなものを切っているか手応えでわからない包丁は、あまりないですよね。あるいは、切るものに刃が当たっているそのところでなにが起きているかがわからない包丁は」

――はい。

「では、それと同じぐらい、クルマというのは人間にとって扱いやすい道具になっているでしょうか。たとえば、いまの速度がどれぐらいか、メーターを見なくてもちゃんと把握できるか。あるいは、いま走っている路面がどのぐらい滑りやすいのかが、滑る前にわかるかどうか。そういう、ほしい情報が感覚で得られるかどうか。それだけの、いわば触感がちゃんと備わっているか」

【『営業バンが高速道路をぶっ飛ばせる理由』國政久郎〈くにまさ・ひさお〉、森慶太〈もり・けいた〉(三栄書房、2015年)】

 國政久郎はサスペンションの専門家で、相模原市でオリジナルボックスという会社を経営している(※本書では厚木市になっている)。見識に支えられた言葉がどこかオシムやイチローを思わせる。

 本書で國政が推し、実際に試乗しているのはトヨタのプロボックスである。ただし次作の『営業バンが高速道路をぶっ飛ばせる理由2 逆説自動車進化論』では新型を否定している。年式によっても評価が異なるので注意が必要だ。

 数年前のことだが4t車の助手席で乗り心地のよさを感じたことがあった。すかさず運転手に告げたところ、「そうなんだよね。長距離を走っても疲れないよ」と答えた。もちろん足回りが固いので乗用車と比べると路面の衝撃が伝わりやすく上下動は多い。不思議な気がした。本書を読んで即座に私は理解した。「クルマの触感」が確かだったのだ。視覚情報と体感の一致といってもいいだろう。しかも人体の根幹をなす骨は横揺れよりも上下動に耐性がある。

 乗用車の大半はモノコック構造となっている。これに対してトラックや一部のオフロード車はラダーフレーム構造を踏襲している。シャシー(車台)の上にボディが載っているのがフレーム構造で、車軸周りとボディが一体化しているのがモノコック構造だ。住宅に例えればモノコックが2×4(ツーバイフォー)でフレームは在来工法だ(【車の構造】ボディ構造について | 車の大辞典cacaca)。

 こちらのクルマのサスペンション構成がどのようなものなのか調べておりませんが、CTの方ではサスペンション・ロワーアームとアッパーアームの長さが極端に違うことから、サスの伸び縮みに伴ってトーが変化するので、車体の上下動により絶えずリヤが揺すぶられる症状が出るとのことです。これは、モーターファン・イラストレイテッドという本のサスペンション特集号である今月号での、国政久郎氏というサスのスペシャリストと呼ばれる方の解説です。

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 國政久郎が「気持ちの悪いクルマ」とはこういう状態を指すのだろう。揺れの消し方を間違えているのだ。クルマの触感とは「ドライバーに必要な揺れ」なのだろう。サスペンションは人体であれば関節や腱に該当する。國政の視点は関節という立ち位置から筋肉と骨格の両方に目配りが行き届いている。

2020-01-10

知覚の限界/『交通事故学』石田敏郎


『自動車の社会的費用』宇沢弘文
『交通事故鑑定人 鑑定暦五〇年・駒沢幹也の事件ファイル』柳原三佳
『記者の窓から 1 大きい車どけてちょうだい』読売新聞大阪社会部〔窓〕

 ・知覚の限界

 自動車が発明されて拍手喝采で世の中に迎えらられたとき、将来大変なことになる、と言った心理学者がいたそうである。彼の心配は、人間はその知覚特性から見て、動いているものの速度や距離の見積もりが非常に苦手ということだった。予言は的中し、毎年世界中で何十万人もが自動車事故で亡くなっている。

【『交通事故学』石田敏郎〈いしだ・としろう〉(新潮新書、2013年)】

 私自身、若い頃から「人間が走る以上のスピードで移動する時、何かがおかしくなるのではないか?」と思ってきた。ジェット機に乗ったスー族は魂の到着を待った(『裏切り』カーリン・アルヴテーゲン)。我が意を得たりと膝を打った覚えがある。一方、本川達雄〈もとかわ・たつお〉は「エネルギーを使えばつかうほど時間が早く進む」と言う(『「長生き」が地球を滅ぼす 現代人の時間とエネルギー』)。相対性理論と逆行するようだが言いたいことはわかる。距離と時間は時空と言い換えてよい。文明は人生の時空を拡大し、情報の密度を高めた。ただし、それがもたらした結果はよくよく吟味する必要があるだろう。我々の社会は自動車という利便性のために交通事故の死傷者を受容している。戦争で死者が出るのは当然だが、文明の発達もまた死者を必要とする。果たしてそんな考えでいいのだろうか?

 もう一つ昔から考えているのは、犬や猫がタイヤの音に反応できないことである。昔はクルマに轢(ひ)かれた犬猫を見ることは珍しくなかった。普段は人間以上にすばしっこい動物がなぜクルマを避(よ)けることができないのか不思議に思っていた。やがてタイヤが原因であることに気づいた。動物は足音には反応するが滑らかに転がるタイヤには対応できないのだ。

 交通事故を防ぐためには、1.自動車と歩行者の分離、2.運転未熟ドライバーの排除、の二本柱で望むのがいいと思う。1については時間を要するだろうが、まず自宅に駐車するのをやめて500メートル区画ほどの住宅地はクルマの進入を禁止する。運送・配送・緊急車両のみ通行可とし制限速度は20kmとする。2は簡単だ。運転することには公的責任が伴うためプライバシーを制限する。全車にカーナビ&GPS及びドライブレコーダーを義務づけ、明らかにおかしな運転をする者を検知できるシステムを構築する。これで95%くらい事故を減らすことができるだろう。

 日常の移動手段としては路面電車程度の速度が最も望ましい。自動車を減らして路面電車網を全国に張り巡らすのが私の考える理想である。

2019-07-16

クラッチの仕組みとは?



 そのシフトダウン時もクラッチを切ってギヤを下の段に入れ、そのままパッとクラッチをつなぐと回転差が生じガクッと大きなシフトショックが出てしまう……。そのシフトショックを軽減するために半クラッチを使う方法もあるが、できればシフトチェンジに合わせ軽くブリッピング(空ぶかし)をして回転数をシンクロさせてあげれば、半クラッチを使わずシフトショックのないシフトチェンジができるのでこれは鍛錬してもらいたい。

教習所で教わる半クラッチ! 無意味な多用は寿命を縮めるので要注意 – WEB CARTOP

MT車のクラッチ・ディスクを長くもたせる方法 シフトチェンジに伴うクラッチの繋ぎ方

2014-09-26

新自由主義に異を唱えた男/『自動車の社会的費用』宇沢弘文


『記者の窓から 1 大きい車どけてちょうだい』読売新聞大阪社会部〔窓〕
『交通事故鑑定人 鑑定暦五〇年・駒沢幹也の事件ファイル』柳原三佳

 ・行間に揺らめく怒りの焔
 ・新自由主義に異を唱えた男

『交通事故学』石田敏郎
『「水素社会」はなぜ問題か 究極のエネルギーの現実』小澤詳司

必読書リスト その二

 かつて、東京、大阪などの大都市で路面電車網が隅々まで行きわたっていたころ、いかに安定的な交通手段を提供していたか、想い起こしていただきたい。子どもも老人も路面電車を利用することによって自由に行動でき、街全体に一つの安定感がみなぎる。たとえ、道路が多少非効率的に使用されることになっても、また人件費などの費用が多くなったとしても、路面電車が中心となっているような都市が、文化的にも、社会的にもきわめて望ましいものであることを考え直してみる必要があるであろう。この点にかんして、西ドイツの都市の多くについて見られるように、路面電車の軌道を専用とし、自動車用のレーンとのあいだに灌木を植えて隔離し、適切な間隔を置いて歩行者用の横断歩道を設けているのは、大いに学ぶべきであろう。

【『自動車の社会的費用』宇沢弘文〈うざわ・ひろぶみ〉(岩波新書、1974年)以下同】

 宇沢弘文が亡くなった。新自由主義の総本山シカゴ大学で経済学教授を務めながら、猛然とミルトン・フリードマン(『ショック・ドクトリン 惨事便乗型資本主義の正体を暴く』ナオミ・クライン)に異を唱えた人物だ。

 本書は教科書本である。興味があろうとなかろうと誰が読んでも勉強になる。何にも増して学問というものがどのように社会に関わることができるかを示している。宇沢は日本社会が公害に蝕まれた真っ只中で自動車問題にアプローチした。

 高度成長がモータリゼーションを生んだ。だが政治は高速道路をつくることに関心が傾き、狭い道路をクルマが我が物顔で走り、人間は押しのけられていた。私が子供の時分であり、よく覚えている。

 自動車を極端に減らすことは難しい。さりとて道路行政も向上しない。そして人々は移動する必要がある。そこで宇沢が示したのは路面電車であった。眼から鱗が落ちた。何と言っても小回りが効くし公害も少ない。更に事故も少ないことだろう。現在、Googleなどが自動運転のクルマを開発しているが、むしろ路面電車の方が自動運転はしやすいのではあるまいか?

 そして、いたるところに横断歩道橋と称するものが設置されていて、高い、急な階段を上り下りしなければ横断できないようになっている。この横断歩道橋ほど日本の社会の貧困、俗悪さ、非人間性を象徴したものはないであろう。自動車を効率的に通行させるということを主な目的として街路の設定がおこなわれ、歩行者が自由に安全に歩くことができるということはまったく無視されている。この長い、急な階段を老人、幼児、身体障害者がどのようにして上り下りできるのであろうか。横断歩道橋の設計者たちは老人、幼児は道を歩く必要はないという想定のもとにこのような設計をしたのであろうか。わたくしは、横断歩道橋渡るたびに、その設計者の非人間性と俗悪さとをおもい、このような人々が日本の道路も設計をし、管理をしていることをおもい、一緒の恐怖感すらもつものである。

 今となっては歩道橋もあまり利用されていない。私なんかは既に10年以上渡った記憶がない。結局、経済成長を優先した結果、人が住みにくい環境になってしまった。戦後だけでも50万もの人々が交通事故で死亡している(戦後50万人を超えた交通事故死者)。この数字は原爆の死亡者(広島14万人長崎7.4万人)に東京大空襲の死亡者(10万人超)を足した数より多いのだ。まさに「交通戦争」と呼ぶのが相応しいだろう。

 宇沢の声が政治家の耳に届いたとはとても思えない。交通事故の死亡者数が1万人を割ったのも最近のことだ。しかもその数字は24時間以内のものに限られている。碩学(せきがく)は逝った。だがその信念の叫びは心ある学徒の胸を震わせ、長い余韻を響かせることだろう。

2011-06-04

行間に揺らめく怒りの焔/『自動車の社会的費用』宇沢弘文


『記者の窓から 1 大きい車どけてちょうだい』読売新聞大阪社会部〔窓〕
『交通事故鑑定人 鑑定暦五〇年・駒沢幹也の事件ファイル』柳原三佳

 ・行間に揺らめく怒りの焔
 ・新自由主義に異を唱えた男

『交通事故学』石田敏郎
『「水素社会」はなぜ問題か 究極のエネルギーの現実』小澤詳司

必読書リスト その二

「生きた学問」は偉大なる感情に裏打ちされている。そのことを思い知った。宇沢は1964年にシカゴ大学経済学部教授に就任した人物。門下生の中にジョセフ・E・スティグリッツがいる(2001年ノーベル経済学賞受賞)。市場原理主義の総本山で、宇沢はシカゴ学派を批判した。気骨の人という形容がふさわしい。

 宇沢の怒りが青い焔(ほのお)となって行間で揺らめいている。本物の怒りは静かなものだ。熱い怒りは長続きしない。読み手はおのずから襟を正さずにはいられなくなる。

 しかし、このように歩行者がたえず自動車に押しのけられながら、注意しながら歩かなければならない、と言うのはまさに異常な現象であって、この点にかんして、日本ほど歩行者の権利が侵害されている国は、文明国といわれる国々にまず見当たらないと言ってよいのである。

【『自動車の社会的費用』宇沢弘文〈うざわ・ひろぶみ〉(岩波新書、1974年)以下同】

 文明が人間を押しのける。我々はテクノロジーの前にひれ伏す。昔であればきれいに舗装されたばかりの道路を歩くと、何となく遠慮がちになったものだ。

 日本における自動車通行の特徴を一言にいえば、人々の市民的権利を侵害するようなかたちで自動車通行が社会的に認められ、許されているということである。(中略)ところが、経済活動にともなって発生する社会的費用を十分に内部化することなく、第三者、特に低所得者層に大きく負担を転嫁するようなかたちで処理してきたのが、戦後日本経済の高度成長の家庭のひとつの特徴でもあるということができる。そして、自動車は、まさにそのもっとも象徴的な例であるということができる。

 これが本書のテーマである。社会的費用とは公害や環境破壊などにより社会が被る損失を意味する。

「低所得者層に大きく負担を転嫁するようなかたち」とは、国が税金でカーユーザーを経済的に支援してきたということであろう。

 ま、普通に道路を歩いていれば誰もが実感していることだ。歩行者優先は掛け声だけで、実際は邪魔だといわんばかりにクラクションを鳴らされる。

 近代市民社会のもっとも特徴的な点は、各市民がさまざまなかたちでの市民的自由を享受する権利をもっているということである。このような基本的な権利は、単に職業・住居の選択の自由、思想・信条の自由という、いわゆる市民的自由だけでなく、健康にして快適な最低限の生活を営むことができるという、いわゆる生活権の思想をも含むものである。このような基本的権利のうち、安全かつ自由に歩くことができるという歩行権は市民社会に不可欠の要因であると考えられている。
 近代市民社会の特徴はさらに、他人の自由を侵害しないかぎりにおいて、各人の行動の自由が認められるという基本的な原則が守られているということであるが、自動車通行によってまさにこの市民社会における最も基本的な原則を破られている。

 生活権という言葉に目から鱗(うろこ)が落ちる思いがする。そして、この国がいかに法の精神を蔑ろにしてきた実体がよく見えてくる。

 時折、真夜中にオートバイの爆音が聞こえると私は殺意を抱く。前もって来る時間がわかっていれば、バットか木刀を持って待ち受けるところだ。彼らは自分の好き勝手のために、病人や障害者に迷惑をかけている自覚すらないのだろう。っていうか、大体どうしてあんな騒音を撒(ま)き散らす物の販売が認められているのか? バイクショップやメーカーに規制をかけるべきだと思う。それから病人の生活権を守るために、オートバイの免許取得は30歳以上に引き上げるべきだ。

 カーユーザーの自由のために、他の人々の自由が損なわれている。その原因はどこにあるか?

 というのは、近代経済学の理論的支柱を形成しているのは新古典派の経済理論であるが、新古典派の理論的フレームワークのなかでは、一般に社会的費用を発生するような経済現象を斉合的に分析することは、その理論的前提からの制約によってすでに不可能であると言ってもよいからである。

 経済理論に穴が空いていたのだ。それでも人の健康や命に重い価値を置いていれば、賠償請求によって社会は軌道修正してゆくことができるはずだ。つまり、この国は人間を軽んじているのだ。それゆえ国策に乗じた大手企業は絶対に潰れることがない。原発や製薬会社を見れば一目瞭然だ。特に製薬会社は名前を変えて生き残っている。石井部隊の末裔(まつえい)は断じて死なない。

 自動車の普及のプロセスをたどってみると、そのもっとも決定的な要因のひとつとして、自動車通行にともなう社会的費用を必らずしも内部が負担しないで自動車の通行が許されてきたということがあげられる。すなわち自動車通行によって、さまざまな社会的資源を使ったり、第三者に迷惑を及ぼしたりしていながら、その所有者が十分にその費用の負担をしなくてもよかったということである。

 道路・信号・標識・横断歩道と排気ガス・騒音など。本来であれば、自動車税やガソリン税をもっと高くすべきなのだろう。結果的に自動車所有者が得をする仕組みになっていたわけだ。持てる者と持たざる者の間にアスファルトの道路が存在する。

 自動車の普及を支えてきたのは、自動車の利用者が自らの利益をひたすら追求して、そのために犠牲となる人々の被害について考慮しないという人間意識にかかわる面と、またそのような行動が社会的に容認されてきたという面とが存在する。

 利便性と所有欲が人間を犠牲にしてきたという指摘だ。そして車を所有できない人々は沈黙を強いられてきた。

 要するに、ホフマン方式によって交通事故にともなう死亡・負傷の経済的損失額を算出することは、人間を労働提供して報酬を得る生産要素とみなして、交通事故によってどれだけその資本としての価値が減少したかを算定することによって、交通事故の社会的費用をはかろうとするものである。
 このホフマン方式によるならば、もし仮りに、所得を得る能力を現在ももたず、また将来もまったくもたないであろうと推定される人が交通事故にあって死亡しても、その被害額はゼロと評価されることになる。また、こう所得者はその死亡の評価額が高く、低所得者は低くなることも当然である。したがって、老人、身体障害者などが交通事故にあって死亡・負傷したときにはその被害額は小さくなるのである。

 このような急速方法が得られるのは、人間をひとつの生産要素とみなすからである。労働サーヴィスを提供して、生産活動をおこない、市場で評価された賃金報酬を受取る、という純粋に経済的な側面にのみに焦点を当てようとする考え方が、その背後には存在する。この考え方はじつは、人間のもつさまざまな社会的・文化的側面を捨象して、純粋に経済的な側面に考察を限定し、希少資源の効率的配分をひたすらに求めてきた新古典派の経済理論の基本的な性格を反映するものである。

 蒙(もう)が啓(ひら)かれる。真の学問は光を発して周囲の世界を照らす。GDP(国内総生産)という発想も同様であろう。国家が最も必要とするのは労働者と兵隊である。生産要素とは納税者の異名でもある。すなわち国家は国民を搾取対象と見なすのだ。

 官僚が経済論を基準に法律を作成し、政治家が業界の意向を汲んで修正を加え、法律ができあがる。そこに人権への配慮はない。こうやって法の精神は魂を抜かれ、試験のために記憶するだけの条文と化すのだろう。

 法律が本当に機能しているのであれば、国家賠償訴訟などで世の中がよくなっているはずだ。しかしそんな気配は微塵もない。そもそも法律や憲法なんぞは宗教の教義みたいなもので、信じる人々の間で有効に働く程度の代物であろう。いつの時代にもアウトローは存在する。

 本当なら、大学が最後の砦(とりで)として世の中を正してゆくべきだと思うが、既に産学協同で大学は企業の下部組織となりつつある。「一緒にポーカーをやろうぜ」ってわけだよ。大学は優良企業へ就職するための通過点にすぎない。

 資本主義経済は人の命にまで値段をつけて差別をするのだ。経済学が欺瞞(ぎまん)の笛を鳴らし、国家はそれに合わせて踊るという寸法だ。世界経済を牽引(けんいん)するアメリカも中国も恐るべき格差社会となっている。極端な集中が崩壊の引き金となる。先行投資として社会保障を手厚くしておかなければ大変な事態に陥る。

 このままグローバリゼーションの波に乗っていれば、日本の優良企業や一等地はアメリカと中国に買われてしまうことだろう。

「パックス・アメリカーナの惨めな走狗となって」宇沢弘文