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2020-08-31

瀬島龍三と堀栄三/『消えたヤルタ密約緊急電 情報士官・小野寺信の孤独な戦い』岡部伸


『情報なき国家の悲劇 大本営参謀の情報戦記』堀栄三
『インテリジェンスのない国家は亡びる 国家中央情報局を設置せよ!』佐々淳行
『シベリア抑留 日本人はどんな目に遭ったのか』長勢了治

 ・瀬島龍三と堀栄三

・『「諜報の神様」と呼ばれた男 連合国が恐れた情報士官・小野寺信の流儀』岡部伸
・『バルト海のほとりにて 武官の妻の大東亜戦争』小野寺百合子
・『杉原千畝 情報に賭けた外交官』白石仁章
『日本のいちばん長い日 決定版』半藤一利
『機関銃下の首相官邸 二・二六事件から終戦まで』迫水久恒
『昭和陸軍謀略秘史』岩畔豪雄
『田中清玄自伝』田中清玄、大須賀瑞夫
『陸軍80年 明治建軍から解体まで(皇軍の崩壊 改題)』大谷敬二郎
『徳富蘇峰終戦後日記 『頑蘇夢物語』』徳富蘇峰

日本の近代史を学ぶ
必読書リスト その四

 クリミアのヤルタで密約が交わされる4ヶ月前の1944年10月10日、ハルゼー提督率いるアメリカ海軍の太平洋艦隊第三艦隊の艦載機が、沖縄、奄美諸島、宮古島などを爆撃した。12日からは台湾にある飛行場が集中的に攻撃された。しかし、これは、レイテ島上陸作戦を敢行するためのアメリカ側の陽動作戦だった。当時の大本営はそれに気づかず、連合艦隊司令部は、この爆撃に対して、傘下の空母の航空部隊や南九州に控えていた第二航空艦隊の爆撃機にハルゼー艦隊を攻撃するように命じたのだった。
 そこで12日からの4日間で、総数約900機の航空機が空母や各航空基地から飛び立ち、ハルゼー艦隊への攻撃を行った。
 攻撃から帰還したパイロットの報告を受けて日本海軍は多大な戦果を挙げたとして、大本営発表は5回にわたり続けられ、19日の6回目の発表では、「5日間にわたる猛爆。空母19、戦艦4など撃沈破45隻、敵兵力の過半を壊滅、輝く陸空一体の偉業」という大戦果とされた。戦況が悪化の一途を辿っているなかで、日本軍が久々の大戦果と言うことで大本営にも国民にも異様な興奮があった。そこで戦局の行方にも期待が高まった。
 台湾沖航空戦の大戦果に基づいて、捷(しょう)一号作戦として準備されていたルソン決戦は急遽レイテ決戦に変更された。
 しかし、作戦は失敗する。陸軍は第十四方面軍の精鋭部隊や内地からも部隊を送ったが、大本営発表とは逆にほとんど無傷だったアメリカ艦隊に補給路を断たれ、結果としてレイテ島も玉砕、10万人近くの日本兵が戦死する莫大な人的損害を出した。連合艦隊は事実上壊滅した。
 台湾沖航空戦の戦況認識に誤りがあったからだ。正確な戦果が判明するのは戦後になってからだが、実際には重巡洋艦2隻が大破にしたにすぎなかった。大戦果というのはまったくの虚報であった。その虚報をやみくもに信じた参謀本部の参謀たちの誤りによって、レイテ決戦の悲劇は引き起こされたのだった。
 ところが、この「台湾沖航空戦の大戦果」に疑問を持ち、「点検の要あり」という電報を出張先から大本営に打って報告していた人物がいたのである。これが大本営情報参謀だった堀栄三である。レイテ決戦から42年を経た1986(昭和61)年、大本営の元参謀だった朝枝繁春が明らかにしたのだった。
 第十六師団があるフィリピンに出張を命じられ、陸路で九州に向かった堀は、44年10月13日、フィリピンへの出発地である新田原(にゅうたばる)飛行場(陸軍航空機基地)に到着するや、同航空戦の影響と、悪天候のため離陸不可能と知らされた。そこで偶然にも台湾沖航空戦の本拠地となっていた鹿屋(かのや)飛行場に転進すると、事情の違いに驚かされた。帰還したばかりのパイロットから話を聞いてまわると、華々しい戦果の根拠が薄弱であることを突き止め、その場で参謀本部情報部長あてに、「戦果はおかしい。よく点検して作戦行動に移す必要あり」との暗号電報を打った。
 惜しむらくは堀の情報は参謀本部首脳に届かず、作戦行動に生かされることはなかった。打った電報は戦後も行方不明のままとなっていた。
 しかし、堀は、1958(昭和33)年になって、その電報の顚末について意外な人物から告白を受ける。その人物がシベリアから帰国した2年後のことであった。戦後、自衛隊に入っていた堀は第十四方面軍の元同僚から連絡を受け、虎ノ門にあった共済会館の地下食堂に向かい、その人物と対面した。

「そのとき【かれ】が言うんです。『ソ連抑留中もずっと悩みに悩み続けた問題の一つは、日本中が勝った勝ったといっていたとき、ただ一人それに反対した人がいた。あの時に自分が、きみの電報を握り潰した。これが捷一号作戦の根本的に誤らせた。日本に帰ったら、何よりも君に会いたいとずっと思っていた』と。握り潰したという言葉は、このとき初めて私が耳にした言葉でした。これが事実です」(保阪正康『瀬島龍三 参謀の昭和史』)

「握り潰した」という言葉を聞いて堀は言葉を失った。この意外な人物に、死活的な情報が大本営上層部に届けられる前に抹殺されていた。誤った過大な戦果情報を訂正することなく、その情報をもとにルソン決戦をレイテ決戦に作戦変更し、日本軍は玉砕し、幾万の命が散って行ったのであった。
 この人物こそ大本営作戦参謀だった瀬島龍三であった。開戦時から参謀本部作戦課に所属していた瀬島は、いうまでもなく堀が書簡で指摘した「奥の院」の実力者であった。
 堀は、この瀬島の告白を長い間、胸に収めて伏せていた。瀬島と同じ大本営作戦参謀だった朝枝には伝えたが、公表することはなかった。その朝枝が1986年になって初めて公にしたのだった。
 ところが、瀬島は後に、この告白を覆している。
「堀君の誤解じゃないかなあ」「記憶がない」
 多くのインタビューでは、否定を貫いた。自伝『幾山河』では、「この時期、自宅療養中」のため参謀本部にいなかったことにして、やはり、「堀君の思い違いではないないか」と告白したことを否定している。
「瀬島さんが父に告白したことは間違いありません。実は、その場(虎ノ門の共済会館地下食堂)に私も同席して聞いていましたから」
「賀名生(あのう)皇居」の屋敷で筆者を向かえてくれた堀の長男、元夫は柔和な笑顔で断言した。堀の電報を握り潰したことへの贖罪意識があったのだろうか、瀬島は、元夫に就職の斡旋を持ちかけた。大手商社マンだった元夫は断わり、その代わりに夫人が、瀬島が会長まで上り詰めた伊藤忠商事に勤務することになったという。瀬島が“手打ち”をしたのかもしれない。(中略)

 証言の確認は取れていないが、大本営参謀の間で密かに語られている次のような事実がある。

「堀の暗号電報は解読されたうえで、作戦課にも回ってきた。この電報を受けとった瀬島参謀は顔色をかえて手をふるわせ、『いまになってこんなことを言ってきても仕方がないんだ』といって、この電報を丸めるやくず箱に捨ててしまったという。そのときの瀬島の異様な表情を作戦課にいた参謀たちは目撃しているというのである」(『瀬島龍三』)

 瀬島が属していた超エリート集団である大本営作戦部作戦課は、堀が「奥の院」と指摘するように、どうにもならないほどに硬直化していた。自分たちが立てた作戦に合致する情報だけを選択し、それ以外は不都合なものとして抹殺していたのである。あくまで作戦上位、そのため主観的願望に溺れるということだ。この許し難い官僚主義こそ情報軽視の本質であった。それは日本型官僚機構が持つ倨傲(きょごう)であった。堀の電報握り潰し事件は、瀬島ひとりの責任ではなく、官僚化した作戦課という「奥の院」が生んだ悲劇であったのかもしれない。

【『消えたヤルタ密約緊急電 情報士官・小野寺信の孤独な戦い』岡部伸〈おかべ・のぶる〉(新潮選書、2012年)】

 戦後日本を振り返ると瀬島龍三はキーマンの一人であると考える。瀬島は戦前の超エリートで陸軍中枢にいた。大東亜戦争はエリートが判断を誤ったところに大きな敗因があった。終戦後はシベリアに抑留されソ連に洗脳を施された。帰国後、堀栄三に謝罪したのはまだ良心の炎が辛うじて消えていなかったのだろう。彼の転向・二枚舌・無責任・経済的成功が日本の姿とピッタリと重なる。

 田中清玄入江相政侍従長から直接聞いた話として、「先の大戦において私の命令だというので、戦線の第一線に立って戦った将兵達を咎めるわけにはいかない。しかし許しがたいのは、この戦争を計画し、開戦を促し、全部に渡ってそれを行い、なおかつ敗戦の後も引き続き日本の国家権力の有力な立場にあって、指導的役割を果たし戦争責任の回避を行っている者である。瀬島のような者がそれだ」という昭和天皇の発言を自著に記している(Wikipedia)。

【『田中清玄自伝』大須賀瑞夫〈おおすが・みずお〉インタビュー(文藝春秋、1993年/ちくま文庫、2008年)】

 この無責任こそが新生日本の方向を決定づけた。善悪を不問に付して政策は経済一辺倒に傾き、国防はアメリカに委ねた。高度経済成長を経てバブル景気に至る中で国民が憲法改正を望むことはなかった。占領期間に日本から牙を抜くことが戦後レジームだとすればそれは見事に成功した。

 小野寺信〈おのでら・まこと〉はバルト三国の公使館附武官を兼務した後、スウェーデン公使館附武官となりヤルタ会談の密約を入手し日本に打電したが、これを揉み消された。ここにも瀬島龍三が関与していると考えられる。その後、スウェーデン国王の仲介による和平を推し進めたが岡本季正〈おかもと・すえまさ〉駐スウェーデン公使の妨害で頓挫する。外務省の罪を検証する必要があるだろう。

 戦後レジームから脱却できない理由はただ一つだ。それは我々日本国民が自分たちの手で敗戦の責任を問うていないためだ。その意味から申せば、国民による「新東京裁判」が必要であると考える。

2020-07-31

シベリア抑留を援護射撃した社会党


シベリア抑留 > 日本側の対応

 1945年(昭和20年)11月になって日本政府は関東軍の軍人がシベリアに連行され強制労働をさせられているという情報を得る。1946年(昭和21年)5月、日本政府はアメリカを通じてソ連との交渉を開始し、同年12月19日、ようやく「ソ連地区引揚に関する米ソ暫定協定」が成立した。

 1952年(昭和27年)に緑風会の高良とみが収容所を訪問した。このとき健康な者は営外作業に出され、重症患者は別の病院に移されるなどの収容所側による工作が行われ、高良の「他の収容者はどうしたのか」との問いに対し、所長は「日曜日なのでみな魚釣りか町へ映画を見に行った」と平然と応えている。

 1955年(昭和30年)に当時ソ連と親しい関係にあった社会党左派の国会議員らによる収容所の視察が行われた。視察はすべてソ連側が準備したもので、「ソ連は抑留者を人道的に扱っている」と宣伝するためのものであったが、調理場の鍋にあったカーシャを味見した戸叶里子衆議院議員は思わず「こんな臭い粥を、毎日食べておられるのですか」と漏らしたという。過酷な状況で強制労働をさせられていた収容者らは決死の覚悟で収容所の現状を伝えたが、その訴えも虚しく視察団は託された手紙を握りつぶし、記者会見や国会での報告で「"戦犯"たちの待遇は決して悪くはないという印象を受けた。一日八時間労働で日曜は休日となっている。食料は一日米三百グラムとパンが配給されており、肉、野菜、魚などの副食物も適当に配給されているようで、栄養の点は気が配られているようだった」などと虚偽の説明を行った。元収容者らが帰国後に新聞へ投書したことから虚偽が発覚し、視察団団長の野溝勝らは海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会で追及を受けている。

Wikipedia

 もはやソ連の手先といってよい。かような政党を1990年の土井ブームまでのさばることを許した自民党と国民の責任は大きい。しかも弱小政党になったとはいえ、まだ消滅していないのだ。

 野溝勝のページには次の記述がある。

シベリア抑留問題への対応

 シベリア抑留問題では未だ1000人余の未帰還者がいる状況であった1955年に超党派の訪ソ議員団が結成され、このうち社会党左派の議員のみハバロフスクの戦犯収容所への訪問がソ連側から許された。野溝はこの視察団の団長となるが、この視察はすべてソ連側が準備したもので、「ソ連は抑留者を人道的に扱っている」と宣伝するためのものであった。

 一方、抑留者らは議員の来訪を察知し、営倉入りを覚悟の上でサボタージュを行い、議員との面会にこぎつけた。なお、以前に行われた高良とみの収容所訪問では健康な者は営外作業に出され、重症患者は別の病院に移されるなどの収容所側による工作が行われ、高良の他の収容者はどうしたのかとの問いに対し、所長は「日曜日なのでみな魚釣りか町へ映画を見に行った」と応えている。

 議員らに対し収容者を代表して挨拶を行った尾崎清正元中尉は、決死の覚悟で収容所の実態を伝えるとともに自分たちを犠牲にしてもかまわないのでソ連の脅しに屈することなく国策の大綱を誤まらないで欲しいと訴え、数人がこれに続いた。これに対し、浅原正基が発言をしようとして他の収容者から野次や怒号を浴びた。騒然とした様相に視察団は呆然としていたが野溝は「思想は思想で戦うようにし、同胞はお互いに仲良くしてください」とお茶を濁した。野溝は収容所の売店に立ち寄り、所長の中佐から「日本人は賃金をたくさんもらうので、日常こんな品物を自由に買って、生活を楽しんでいる」という説明を受けたが、その場で所長の言葉を通訳した朝鮮人収容者から「みんな出鱈目ですよ。あなた方に見せるため昨日運び込んだもので、あなたがたが帰られたらすぐに持って行ってしまうものです」と言われて苦笑したという。

 日本人抑留者らは視察団に家族への手紙を託したが、仲間の釈放のための外交努力を求めるとともに将来の日本の国策のためならば祖国のためにこの地に骨を朽ちさせても悔いはないとする収容者らの決意を認めた国民や議員に宛ての7通の手紙も一緒にこのとき手渡されている。しかし、野溝らはこれら7通の手紙を握りつぶし、議員団団長である北村徳太郎への報告もしなかった。抑留者らが帰国後に新聞へ投書したことから虚偽が発覚し、野溝らは海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会で追求を受けている。これに対し野溝は「発表の技術等の不手ぎわの点についてのおしかりならば、私は大いに考えなければならぬし、その点について不徳の点があるならば、私は大いに反省をいたします。」としながらも他意はなかったと弁解している。稲垣武は、野溝がこのような破廉恥な行為を敢えてしたのは、公表すれば自分たちに都合が悪いと思ったからであろうとしている。

 帰国の途上、野溝は戸叶里子と共に香港で記者会見を行い、知っていたはずの真実を隠匿し収容所側の説明に沿うかたちで以下のような発言をしたことが新聞に記載されている。

・「"戦犯"たちの待遇は決して悪くはないという印象を受けた。一日八時間労働で日曜は休日となっている。食料は一日米三百グラムとパンが配給されており、肉、野菜、魚などの副食物も適当に配給されているようで、栄養の点は気が配られているようだった」
・「戦犯の生活として、カロリーは科学的に計算されているという事で、皆んな元気そうな顔付であるのにホットした。顔付は、普通人並でラーゲルとしては普通といってよいだろう。」
・「ソ連人一般の悩みでもあるが、冬に生野菜が欠乏するのをかこっていた。食堂、調理とも清潔で、ここには罐詰等も配給があり集合所にも使われていた。」

Wikipedia

 野溝は縛り首にすべき人物であると私は考えるが、なんと勲章(正三位勲一等瑞宝章)を授与されている。大東亜戦争終盤における指導階級の混乱はそのまま戦後も維持されたと認めざるを得ない。

 旧社会党勢力は民主党に紛れ込み、現在は立憲民主党と改称している。在日外国人の通名みたいなものだ。同胞を売った売国奴どもを私が許すことはない。

2020-07-04

日本罪悪論の海外宣伝マン・鶴見俊輔への告発状  「ソ連はすべて善、日本はすべて悪」の扇動者(デマゴーグ)/『悪魔の思想 「進歩的文化人」という名の国賊12人』谷沢永一


・『書斎のポ・ト・フ』開高健、谷沢永一、向井敏
・『紙つぶて(全) 谷沢永一書評コラム』谷沢永一
『「悪魔祓い」の戦後史 進歩的文化人の言論と責任』稲垣武
『こんな日本に誰がした 戦後民主主義の代表者・大江健三郎への告発状』谷沢永一

 ・進歩的文化人の正体は売国奴
 ・日本罪悪論の海外宣伝マン・鶴見俊輔への告発状 「ソ連はすべて善、日本はすべて悪」の扇動者(デマゴーグ)
 ・日本の伝統の徹底的な否定論者・竹内好への告発状 その正体は、北京政府の忠実な代理人(エージェント)

『誰が国賊か 今、「エリートの罪」を裁くとき』谷沢永一、渡部昇一
『いま沖縄で起きている大変なこと 中国による「沖縄のクリミア化」が始まる』惠隆之介
『北海道が危ない!』砂澤陣
『これでも公共放送かNHK! 君たちに受信料徴収の資格などない』小山和伸
『ちょっと待て!!自治基本条例 まだまだ危険、よく考えよう』村田春樹
『自治労の正体』森口朗
『戦後教育で失われたもの』森口朗
『日教組』森口朗
『左翼老人』森口朗
・『売国保守』森口朗
『愛国左派宣言』森口朗

 この本(※鶴見俊輔著『戦時期日本の精神史 1931-1945』)を一貫する方針としていちばん目立つのは、共産主義ソ連が日本人に加えた仕打ちはことごとく正しくて、すべて日本人が悪いことをしたからそうなったのだという強烈な主張です。その姿勢を押しだした最も代表的な表現が、つぎの一句です。

 戦争が終ったとき(中略)ソビエト・ロシア領内に残されているはずの60万人が長いあいだ帰ってきませんでした。(134頁)

 まことにものは言いよう、ですなあ。共産主義ソ連が戦争終了にもかかわらず、捕虜を無法にも引っ捕えてシベリアに連行して監禁し、「長いあいだ」苛酷な強制労働を課した、この残忍な事実を、けっして事実として認めない、鶴見俊輔のこの熱烈な弁護の志向は感嘆に値します。共産主義ソ連が帰らせなかったのではなく、日本人が「帰ってきませんでした」と言いくるめる語法の見えすいた苦しさ。鶴見俊輔の言い方は、日本人捕虜60万人が60万人全員の意向によって帰りたくなかったのだとほのめかしているようにも受けとれます。
 しかも、このねじまげた論法は、実は、次のように述べたてるための伏線だったのです。

 60万人の人たちがまだ帰ってこないということは、戦後の日本人のあいだに不安と苛立たしさを生み、それが戦後の日本政府によって長い年月にわたって植えつけられてきた。また戦後新たに米国の占領軍政府によって取り除かれていない赤色恐怖と結びついて、戦後のひとつの潮流をつくり出しました。(134頁)

 つまり「帰ってきませんでした」ことを怨(うら)んだり嘆いたりしてはイケナイのです。そうですか、共産主義ソ連にもいろいろご事情がありましょうから、と平静に、安穏な気持ちで受けとめるべきだったんですねえ。それなのに国民が「不安と苛立たしさ」に赴(おもむ)いたものですから、そのため「戦後のひとつの潮流」、すなわち共産主義ソ連への反感が募ったのです。
 それは昔の「赤色恐怖と結びついて」いるイケナイ考え方であるぞよ、と鶴見俊輔は婉曲(えんきょく)に説教を垂れます。いかなる事情に基づくにせよ、いかなり理由があるにせよ、共産主義ソ連を憎んではならないんです。事態が発生した根源の理由は、ただもう絶対にただひとつ、日本人が、日本人だけが、ワルイことをしたのですから。

【『悪魔の思想 「進歩的文化人」という名の国賊12人』谷沢永一〈たにざわ・えいいち〉(クレスト社、1996年/改題『反日的日本人の思想 国民を誤導した12人への告発状』PHP文庫、1999年/改題『自虐史観もうやめたい! 反日的日本人への告発状』ワック、2005年)】

 文体が独特でとっつきにくいのだが、ひょっとすると小室直樹の影響かもしれない。1996年に刊行されているが「新しい歴史教科書をつくる会」の結成と同じ年だ。前年の大江健三郎批判本といい時代情況を思えば、その勇気を過小評価してはなるまい。

 私は鹿野武一〈かの・ぶいち〉の生きざまに強く影響を受け、深く感化された。日ソ中立条約を踏みにじってソ連が終戦間際のどさくさに紛れて日本を侵攻したこと、満州の地で日本人女性を強姦しまくったこと、そしてシベリア抑留を思えば、断じてロシアと友好条約を結ぶべきではないと考える。敗戦以降、経済を優先してきた成れの果てが現在の日本である。経団連を始めとする財界は労働力をコストと見なし、その削減のために外国人労働者をどんどん日本に呼ぼうと企んでいる。国の行く末を憂えるような経済人は皆無だ。自分の懐勘定しかできないような輩は国家に巣食う寄生虫のような存在だ。

 それにしても鶴見俊輔の文章は巧妙で老獪(ろうかい)の悪臭が漂う。左翼は自らの知識をもって嘘を真実(まこと)にする詐術に富んでいる。侮れないのは彼らが「物語の力」を理解している点だ。知識の悪用とコンプレックスの利用が左翼の得意技である。

 嘘を嘘と見抜くことが智恵の第一歩である。虚実を盛り込んだ左翼の言論に惑わされてはならない。





満州事変を「関東軍による陰謀」と洗脳する歴史教育/『愛国左派宣言』森口朗

2019-12-31

瀬島龍三スパイ説/『シベリア抑留 日本人はどんな目に遭ったのか』長勢了治


『生きぬく力 逆境と試練を乗り越えた勝利者たち』ジュリアス・シーガル
『夜と霧 ドイツ強制収容所の体験記録』ヴィクトール・E・フランクル:霜山徳爾訳
『それでも人生にイエスと言う』ヴィクトール・E・フランクル
『アウシュヴィッツは終わらない あるイタリア人生存者の考察』プリーモ・レーヴィ
『イタリア抵抗運動の遺書 1943.9.8-1945.4.25』P・マルヴェッツィ、G・ピレッリ編
『石原吉郎詩文集』石原吉郎

 ・第二次世界大戦で領土を拡大したのはソ連だけだった
 ・瀬島龍三スパイ説

日本の近代史を学ぶ
必読書リスト その四

 瀬島龍三は関東軍高級参謀であり、ジャリコーヴォの停戦会談に同行し、東京裁判にソ連側承認として出廷するなど、シベリア抑留では何かと話題になった人物である。瀬島についてはシベリ抑留密約説やソ連スパイ説のような疑惑が根強く流されている。
 しかし、スパイとなった菅原(道太郎)は昭和22年に、志位(正二)は昭和24年に帰国していることからもわかるように、「スパイに同意すれば早く帰す」が条件だった。そうでなければ帰国後スパイとして利用価値のある高い地位に昇進できないからだ。現に、「日本新聞」編集長だったコワレンコは、シベリア抑留者から徴募する「エージェントの条件は、まず頭が切れる人、そして帰国後高い地位に就ける人だ」とし、そういう人を【早期に帰還する】グループに入れたとインタビューで証言している。(共同通信社社会部編『沈黙のファイル』)。
 瀬島は「戦犯」として長期間勾留され11年後に帰還しているが、対日スパイなら監獄で長々と無駄飯を食わせず早期帰国させたはずだ。瀬島は職業軍人と受刑者という人生経験しかないのに48歳という中年で伊藤忠商事に入社し、20年でトップの会長にまで上り詰める異例の出世を遂げたし、中曽根内閣でブレーンになるなど政治の世界でも活躍した。結果的には「帰国後高い地位」に就いたとはいえ、これをしもKGBの深慮遠謀とはいえまい。

【『シベリア抑留 日本人はどんな目に遭ったのか』長勢了治〈ながせ・りょうじ〉(新潮選書、2015年)】

瀬島龍三はソ連のスパイ/『インテリジェンスのない国家は亡びる 国家中央情報局を設置せよ!』佐々淳行

 歴史の評価もさることながら人物の評価ですらかくも難しい。瀬島が寝返るのに11年を要したと考えれば長勢の見方は崩れる。一方、佐々淳行〈さっさ・あつゆき〉は印象や状況証拠に基づいており具体性を欠く。

 佐々は父の弘雄〈ひろお〉が近衛文麿のブレーンであり尾崎秀実〈おざき・ほつみ〉と親しかったことが人生に長い影を落としている。また親友の石原慎太郎を「一流の政治家」とする判断力に蒙(くら)さを感じないわけでもない。それでも捜査現場で培ってきた勘を侮るわけにはいかない。個人的には「スパイの可能性がある」にとどめておきたい。

 ある情報を上書き更新するためには古い情報を上回る情報量が必要となる。例えば私が東京裁判史観から抜け出すためには数十冊の本を必要とし、100冊を超えてからは確信に変わり、200冊を上回ってからは国史から世界史を逆照射することができるに至った。学校教育やメディアから受けてきた些末な左翼思想を払拭するのにもこれほどの時間を要するのである。

 本書は過剰な形容がないため見過ごしてしまいそうな箇所に重要な事実が隠されている。440ページの労作が電車賃程度の値段で買えるのだから破格といってよい。敗戦の現実、列強の横暴、共産主義の非道、日本人の精神性の脆さ、国家の無責任を知るための有益な教科書である。

2019-12-26

第二次世界大戦で領土を拡大したのはソ連だけだった/『シベリア抑留 日本人はどんな目に遭ったのか』長勢了治


・『シベリア捕虜収容所』若槻泰雄
・『収容所(ラーゲリ)から来た遺書』辺見じゅん
・『スターリンの捕虜たち シベリア抑留』ヴィクトル・カルポフ:長勢了治訳
・『二つの独裁の犠牲者 ヒトラーとスターリンの思うままに迫害された…数百万人の過酷な運命』パーヴェル・ポリャーン:長勢了治訳
・『シベリア抑留全史』長勢了治

 ・第二次世界大戦で領土を拡大したのはソ連だけだった
 ・瀬島龍三スパイ説
・『知られざるシベリア抑留の悲劇 占守島の戦士たちはどこへ連れていかれたのか』長勢了治

日本の近代史を学ぶ
必読書リスト その四

 第二次世界大戦の結果、連合国のアメリカ、イギリス、フランス、オランダは少しも領土を広げていないどころかむしろアジア・アフリカ諸国の独立によって広大な植民地を失うことになるが、ソ連だけはバルト三国、ポーランド東部、東プロイセンの一部(ケーニヒスベルク)、ルーマニア東部(北ブコヴィナ、ベッサラビア)、チェコスロヴァキア東部(ルテニア)、フィンランド東部(カレリア地方)、日本の樺太・千島を併合して領土を拡大した。さらにヤルタ協定によって東欧諸国(東ドイツ、ポーランド、チェコスロヴァキア、ルーマニア、ハンガリー、ユーゴスラヴィア)を勢力下におき共産化した。
 戦後になって領土を拡大した国がもうひとつある。中国である。戦後、満州はそもそも八路軍の拠点となり、国共内戦中の昭和22(1947)年には早くも「内モンゴル自治区」が成立して、昭和24(1949)年10月に中華人民共和国が成立するや満州も内モンゴルも領土に組み込まれた。新疆地区には共和国成立後に人民解放軍が侵攻して昭和30(1955)年に「新疆ウイグル自治区」として編入した。チベットには昭和25(1950)年10月に人民解放軍が侵攻し、翌昭和26年5月のチベット協定で「チベット自治区」などとして中国に編入した。
 シナが他国を乗っ取るときに使う伝統的手法が「洗国」である。まず国内の流民を「他国」に数十万人規模で移住させ、次々に漢人を送り込んで漢人に同化させる(この入植政策を毛沢東は「砂を混ぜる)と呼んだ)と同時にその他国人の一部をシナ国内に強制的に移住させてシナ人の大海に埋没させる。やがてシナから官僚を送り込んで支配下に置く。まず満州が洗国されて満州人が民族としてほとんど消滅する運命をたどり、今は内モンゴル自治区、チベット自治区、新疆ウイグル自治区が洗国にさらされて内モンゴル人、チベット人、ウイグル人が「民族浄化」の危機に直面している。「洗国」は洗脳と並んでシナが用いる危険な手法で人口侵略といえよう。
 北、西、南の陸地に領土を拡大してきた中国はいま南シナ海(南沙諸島など)と東シナ海(尖閣諸島)、そして沖縄へと海洋への領土拡大を狙っている。中国はロシアと並ぶ拡張主義の国なのである。

【『シベリア抑留 日本人はどんな目に遭ったのか』長勢了治〈ながせ・りょうじ〉(新潮選書、2015年)】

 著者の長勢了治は北海道美瑛町〈びえいちょう〉生まれ。北大を卒業後、サラリーマンとなり退職してからロシア極東大学函館校でロシア語を学んだ人物。その後シベリア抑留研究者として現在に至る。『シベリア抑留全史』(原書房、2013年)は日露双方の厖大な資料に基づき、抑留の実態を検証した労作で決定版といってよいだろう。それを一般向けに著したのが本書である。

 シベリア抑留については冷戦時代から体験者の手記などを中心に多数の本が刊行されたが、「肝心のソ連側の資料が利用できず、全体像解明が困難だった」と指摘。確かな研究書は実質的に『シベリア捕虜収容所』(若槻泰雄著)1冊しかないという状況が長く続いていた。「ソ連崩壊後、公文書を使ったロシア人研究者の本が1990年代後半から出始めた。だが日本の研究者の反応は鈍く、日本の方が2周くらい遅れた状況」。日本での本格的研究は、実はまだ始まったばかりだという。

翻訳家の長勢了治さん「シベリア抑留」刊行 日露の資料駆使、悲劇の全容に迫る - 産経ニュース

 第二次世界大戦で領土を拡大したのはソ連だけであったという事実は意外と見落としがちだ。武田邦彦がよく「大東亜戦争は3勝1敗だ」と語る。日本はアメリカには敗れたがイギリス・オランダ・フランスは斥(しりぞ)けたことを指摘したものだ。

 そのソ連だが実は第二次世界大戦で最も多くの死者を出している。その数なんと2660万人である。日本人の死亡者数は310万人であった(Wikipedia戦争による国別犠牲者数図録▽第2次世界大戦各国戦没者数【まとめ】第二次世界大戦(WW2)の国別死者数(犠牲者数)と激戦地一覧)。ソ連の死亡者で見逃せないのは軍人よりも民間人が多いことである。このような事態は多分ソ連だけだと思われる。日本は軍人2:民間人1の比率だ。

 ソ連は領土を拡げたものの最大の死者を出した。つまり第二次世界大戦の勝者は存在しない。

 私は石原吉郎〈いしはら・よしろう〉を通してシベリア抑留に眼を開いた。長年にわたって引っ掛かっていた多田茂治〈ただ・しげはる〉の記述(「戦利品」の一つとして、日本人捕虜のシベリヤ強制労働の道は開かれていた)も本書で経緯が明らかになった。また「関東軍文書とシベリア抑留密約説」についても本書で完全に否定されている。

2019-08-19

常識を疑え/『内なるシベリア抑留体験 石原吉郎・鹿野武一・菅季治の戦後史』多田茂治


『石原吉郎詩文集』石原吉郎
『望郷と海』石原吉郎
『シベリア抑留とは何だったのか 詩人・石原吉郎のみちのり』畑谷史代

 ・石原吉郎と寿福寺
  ・寿福寺再訪
 ・常識を疑え
 ・「戦利品」の一つとして、日本人捕虜のシベリヤ強制労働の道は開かれていた

『シベリア抑留 日本人はどんな目に遭ったのか』長勢了治
『シベリア鎮魂歌 香月泰男の世界』立花隆

 しょくん、しょくんは、テンノウとかコウシツとかゆうものをもち出されると、畏れ多いと頭を下げる。
 しかし、考えろ、いったい、テンノウがなぜ尊いのか? と。
 そんなことを考えちゃいけない、と言うやつがいる、また考えたってわかるもんじゃないなどとも。けれども、ほんとに尊く畏れ多いものなら、それを考えれば考えるほど、尊さありがたさがしみじみ魂にしみこむものでなければならないはずだ。
 しょくん、ごまかされちゃいけない。よく考えろ。それを考えるな、などとゆうのは、何か後ぐらいところがあるんだ。手品の種が、ばれそうなんだ。(※菅季治が京大で学びながら、京都府立五中の嘱託教師をしていた頃、試験問題の裏に鉛筆で書いた文章。1943.11.20)

【『内なるシベリア抑留体験 石原吉郎・鹿野武一・菅季治の戦後史』多田茂治〈ただ・しげはる〉(社会思想社、1994年/文元社、2004年)※社会思想社版は「シベリヤ」となっている】

 圧力や熱は物質を変化させる。シベリア抑留は人々の地金(じがね)を炙(あぶ)り出し、純化した。

 菅季治〈かん・すえはる〉が上記文章を書いたのは1943年(昭和18年)のことである。日本が開戦以来初めて大敗を喫したミッドウェー海戦の翌年にあたる。戦局が日増しに厳しくなる中で26歳の青年が放った疑問は軍部の焦りを見事に照射している。仮に管が共産主義にかぶれていたとしても決して安易な天皇批判になってはいない。彼が批判したのは「盲信」であった。

 石原吉郎・鹿野武一・菅季治は三者三様の戦後を歩んだ。否、瀬島龍三〈せじま・りゅうぞう〉も香月泰男〈かづき・やすお〉も内村剛介〈うちむら・ごうすけ〉もそれぞれの道を歩んだ。シベリア抑留は人間を変えた。二度と元に戻ることはなかった。

 菅季治はシベリアで何を見たのだろうか? それが何であったにせよ、彼はもっと悲痛なものを帰国した日本で見たに違いない。プリーモ・レーヴィと同じだ。真の地獄はありふれた平和な日常の中にこそあるのだ。人間は人間の邪悪に絶望する。信じられるものがなくなった時、人間は人間であることをやめる。

2019-07-20

管季治〈かん・すえはる〉-徳田要請問題


『シベリア鎮魂歌 香月泰男の世界』立花隆

 ・管季治〈かん・すえはる〉-徳田要請問題

 2009年8月18日に関連リンク集を作成したのだがあまりにもリンク切れが多いため、若干のテキストコピーと共に紹介する。

 しかし、上京して間もない同年2月中旬、日本共産党の徳田球一が在外同胞引き揚げの妨害をしたとする「徳田要請問題」が彼の身に降りかかった。これは「徳田書記長から、捕虜が民主的な分子となってから還してくれるようにという要請がきている」との発言をシベリア収容所のソ連将校から聞いた抑留者が帰国後に真相究明を求めて衆議院に訴えたもので、この問題に際し、彼は抑留時、意図的に誤った翻訳をしたのではないかという嫌疑を掛けられ、国会で証人喚問を受けることになる。菅は「要請」について否定も肯定もせず「将校の講話は(徳田の言葉の引用については)『反動分子としてではなくて、よく準備された民主主義者として帰国するように期待している』というものであった」、「ナデーエツァというロシア語には『期待する』という意味はあるけれども『要請する』という意味はない」という内容の手記を参議院に提出し、共産党機関紙『アカハタ』はこれをもって「徳田要請は否定された」とした(菅はこの件で共産党に対し抗議した)。また、このとき「天皇制についてどう思うか」と問われ、菅が「天皇制に対して私は批判的です」と答えると、「(天皇制を認めている日本)共産党以上の本物の共産党じゃないか」と罵倒されている。

 続いて同年4月5日に菅は衆議院に証人喚問された。このときハルビン学院の第一期卒業生を自称する調査員が登場し「訳したければ『期待する』と訳すことも可能だが『要請する』と答えるのが自然だ」として、「菅は『要請』というロシア語を(恣意的に)『期待』と訳したのではないか」[4]と厳しい質問を浴びせ(菅があたかも共産党のシンパであるかのようにアピールし、その証言が信用できないことを印象づける戦術であった)、菅は精神的に追い込まれた。この結果、翌4月6日の夜、彼は自宅近くの吉祥寺駅付近で鉄道自殺を遂げた。このとき、同居する弟の学生服の上着を着て、ポケットには岩波文庫の『ソクラテスの弁明』が入っていたという。友人の石塚為雄と弟の忠雄に宛てた遺書には、自らの身の潔白と、事実が通らないことに対する絶望が書かれていた。享年32。

 菅の自殺事件は社会的に大きな反響を呼び、木下順二がこの事件をテーマとする戯曲『蛙昇天』(背景も含めすべて蛙の世界の出来事に置き換えたもの)を書いている。またこの事件は証人喚問が証人自身に多大なる精神的苦痛を与えた例とされ、これ以降、国会は菅のような一般人に対する証人喚問には慎重な姿勢を取っている。

菅季治 - Wikipedia



 これに関連し抑留時、ソ連将校の講話を通訳していた哲学者菅季治は、「要請」について否定も肯定もせず「将校の講話は(徳田の言葉の引用については)『反動分子としてではなくて、よく準備された民主主義者として帰国するように期待している』というものであった」という内容の手記を参議院に提出し、共産党機関紙『アカハタ』はこれをもって「徳田要請は否定された」とした(菅はこの件で共産党に対し抗議した)。このため1950年4月5日に菅は衆議院に証人喚問され「『要請』というロシア語を(恣意的に)『期待』と訳したのではないか」と厳しい質問を浴び(菅があたかも共産党のシンパであるかのようにアピールし、その証言が信用できないことを印象づける戦術であった)、翌日鉄道に飛び込み自殺した。

徳田要請問題 - Wikipedia



 その後、彼は連合軍司令部に幾度も呼び出され、国会にも証人喚問されることになりました。
 自分が通訳したのは「要請」ではなく「期待する」であった事実を、孤立無援のまま、誠実に繰り返し証言しましたが、認められず、果ては「ソ連式共産党員」とのレッテルを貼られ、脅迫状まで寄せられるようになりました。昭和25年4月6日、彼は吉祥寺付近で列車に飛び込み自殺してしまいました。親友石塚為雄氏あての遺書には「あの事件で、わたしはどんな政治的立場にもかかわらないで、ただ事実を事実として明らかにしようとした。しかし政治の方ではわたしのそんな生き方を許さない。わたしは、ただ一つの事実さえ守り通し得ぬ自分の弱さ、愚かさに絶望して死ぬ。/わたしの死が、ソ同盟や共産党との何か後暗い関係によることでないことを、信じてくれ。/(中略)/人類と真理のために生命をささげようとしながら、わたしは、ついに何一つなし得なかった。しかし、死ぬときには、/人類バンザイ!/真理バンザイ!/と言いながら、死のう。」と書かれていました。享年32歳でありました。

ヌプンケシ103号 | 北見市



「わたしはまじめに自分の死について考えてみた。(中略)そして、次のような結論を得た。自分は凡人である、社会を変革したり、歴史の大波を押し返したりすることはできない。そうだとすれば、わたしの生涯でよい事としては、日常の小さな善行の総和以外にない。だから、もうすぐ死ぬ者として、死ぬまでの短い期間にできるだけ多くの日常的善行を積まなければならない。」菅はこう考えて、行動をおこしました。
hango まず私的制裁=リンチを禁止しました。初年兵に「私的制裁の事実があったらすぐ自分の所に知らせろ。」といい、「下士官や古年次兵は大いに不満だった。『なぐられない兵隊は強くならない』という信条が彼らを支配していたのである。わたし自身は軍隊で人をなぐったことはない。」
「見習士官は官物の被服をもらう。兵隊のと同じ型だがもちろん新しく、軍隊用語で『程度のいい』品物である。わたしは、朝鮮人の中でも最も悪い被服を着ている者を呼び寄せる。上衣の悪い者には自分の上衣を、ズボンの悪い者には自分のズボンを、シャツの悪い者には自分のシャツを与える。そしてわたしは、彼らの悪い上衣、悪いズボン、悪いシャツを身につける。自分にあるだけの布ぎれを修理材料として与える。同僚の見習士官はいやな顔をする。わたしだってこんな行為は、前には偽善的に感じたろうけれど、その時は、死の近づきがわたしを勇気づけたのである。」また、兵士に不満や希望を無記名で書かせ、解決できることは直ぐに実行しました。「わたしという見習士官は、中隊で、ひどい変り者と評判されるようになった。」

ヌプンケシ104号 | 北見市



 戦時中から「私的制裁」に反対していた菅には、これら将校たちの行為は目に余るもので、「収容所における軍隊機構改革の必要を感じた。」ものの、菅自身も将校の一人であり、「どうしていいかわからなかった。わたしは、自分だけ階級章を着けず、『五箇條』を唱えなかった。わたしに敬礼する兵隊に『なぜ敬礼するんだ?』と問うた。」と記しています。

ヌプンケシ105号 | 北見市



ヌプンケシ106号 | 北見市」を読めば書き手が左翼であることがわかる。



 私は日本へ還ってから平凡で真面目な国民の一人として生きようとした。今度の事件でも私はありのままの事実を公けにして国民の健全な判断力に訴えようとしたのである。しかし私を調べた人々には私とソ同盟、私と日本共産党との間になにか関係があると疑って、私の証言の純粋さを否定しようとする。いまの世の中は、ただ一つの事実を事実として明らかにするためにも多くのうそやズルさと闘わねばならぬ。しかし闘うためには私は余りにも弱すぎる。(中略)私はただ悪や虚偽と闘い得ない自分の弱さに失望して死ぬのである。私は人類のために真理のために生きようとした。しかし今までそのため何もしていない。だがやはり死ぬときには人類万歳、真理万歳といいながら死ぬ。(菅季治著「語られざる真実」戦争と平和 市民の記録19 1992.5.25)

蛙昇天



 1917年7月19日、愛媛県に生まれた彼は、6歳(数え)のとき、北海道にわたり、尋常少学校、旧制中学校に進みました。学業成績は非常に良く、中学卒業時には、「開校以来の神童」とうたわれたそうです。

蛙昇天



 翌1949年5月、ソ連は、日本人捕虜全員を11月までに送還すると発表、6月27日から引揚が再開されました。この再開第一回目の引揚船は、出迎えた人々を驚かせることになります。労働歌を合唱し、出迎えの家族にふりむきもせずスクラムを組んで、集団で共産党に入党しようとする、ソ連の思想教育の影響を大きく受けた人々だったのです。これらの人々は「赤い引揚者」と呼ばれ、この年に帰国した人の多くが、そうした引揚者でした。この頃の引揚者は、共産主義にかぶれているという先入観が人々の中に生まれていく中、菅季治も11月に帰国します。

 翌年の1950年の引揚船は、一転して様子が変わりました。右派、いわゆる反ソ組が圧倒的に増えたのです。 1950年1月23日の朝日新聞を見てみましょう。

蛙昇天



 衆議院考査特別委員会は1950年4月5日、菅季治を再度、国会に証人として呼びます。参議院で踏み絵を踏むことを拒否した菅に対して、衆議院は、菅に「共産主義者」というレッテルを貼ることに腐心しました。

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  左派社会党視察団は、過酷な状況で強制労働をさせられていた日本人抑留者から託された手紙を握りつぶし、帰国後、「とても良い環境で労働しており、食料も行き渡っている」と国会で嘘の説明を行った。抑留者帰国後、虚偽の発言であったことが発覚し、問題となる。

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2018-06-06

「もしもあなたが人間であるなら、私は人間ではない。もし私が人間であるなら、あなたは人間ではない」/『石原吉郎詩文集』石原吉郎


『「疑惑」は晴れようとも 松本サリン事件の犯人とされた私』河野義行
『彩花へ 「生きる力」をありがとう』山下京子
『彩花へ、ふたたび あなたがいてくれるから』山下京子
『生きぬく力 逆境と試練を乗り越えた勝利者たち』ジュリアス・シーガル
『夜と霧 ドイツ強制収容所の体験記録』ヴィクトール・E・フランクル:霜山徳爾訳
『それでも人生にイエスと言う』ヴィクトール・E・フランクル
『アウシュヴィッツは終わらない あるイタリア人生存者の考察』プリーモ・レーヴィ
『イタリア抵抗運動の遺書 1943.9.8-1945.4.25』P・マルヴェッツィ、G・ピレッリ編

 ・究極のペシミスト・鹿野武一
 ・詩は、「書くまい」とする衝動なのだ
 ・ことばを回復して行く過程のなかに失語の体験がある
 ・「棒をのんだ話 Vot tak!(そんなことだと思った)」
 ・ナット・ターナーと鹿野武一の共通点
 ・言葉を紡ぐ力
 ・「もしもあなたが人間であるなら、私は人間ではない。もし私が人間であるなら、あなたは人間ではない」

『望郷と海』石原吉郎
『海を流れる河』石原吉郎
『シベリア抑留とは何だったのか 詩人・石原吉郎のみちのり』畑谷史代
『内なるシベリア抑留体験 石原吉郎・鹿野武一・菅季治の戦後史』多田茂治
『シベリア抑留 日本人はどんな目に遭ったのか』長勢了治
『失語と断念 石原吉郎論』内村剛介

必読書リスト その二

 鹿野の絶食さわぎは、これで一応おちついたが、収容所側は当然これを一種のレジスタンスとみて、執拗な追求を始めた。鹿野は毎晩のように取調室へ呼び出され、おそくなってバラックに帰って来た。取調べに当たったのは施(シェ)という中国人の上級保安中尉で、自分の功績しか念頭にない男であったため、鹿野の答弁は、はじめから訊問と行きちがった。根まけした施は、さいごに態度を変えて「人間的に話そう」と切り出した。このような場面でさいごに切り出される「人間的に」というロシア語は、囚人しか知らない特殊なニュアンスをもっている。それは「これ以上追求しないから、そのかわりわれわれに協力してくれ」という意味である。〈協力〉とはいうまでもなく、受刑者の動静にかんする情報の提供である。
 鹿野はこれにたいして「もしもあなたが人間であるなら、私は人間ではない。もし私が人間であるなら、あなたは人間ではない。」と答えている。取調べが終ったあとで、彼はこの言葉をロシヤ(ママ)文法の例題でも暗誦するように、無表情に私にくりかえした。
 その時の鹿野にとって、おそらくこの言葉は挑発でも、抗議でもなく、ただありのままの事実の承認であっただろう。だが、こうした立場でこのような発言をすることの不利は、鹿野自身よく知っていたはずである。私はまたしてもここで、ペシミストの明晰な目に出会うのである。私には、そのときの鹿野の表情がはっきり想像できる。そのときの彼の表情に、おそらく敵意や怒りの色はなかったのであろう。むしろこのような撞着した立場に立つことへの深い悲しみだけがあったはずである。真実というものは、つねにそのような表情でしか語られないのであり、そのような表情だけが信ずるに値するのである。まして、よろこばしい表情で語られる真実というものはない。
 施は当然激怒したが、それ以上どうするわけにも行かず、取調べは打切られた。爾後、鹿野は要注意人物として、執拗な監視のもとにおかれたが、彼自身は、ほとんど意に介する様子はなかった。
 私が知るかぎりのすべての過程を通じ、彼はついに〈告発〉の言葉を語らなかった。彼の一切の思考と行動の根源には、苛烈で圧倒的な沈黙があった。それは声となることによって、そののっぴきならない真実が一挙にうしなわれ、告発となって顕在化することによって、告発の主体そのものが崩壊してしまうような、根源的な沈黙である。強制収容所とは、そのような沈黙を圧倒的に人間に強いる場所である。そして彼は、一切の告発を峻拒したままの姿勢で立ちつづけることによって、さいごに一つ残された〈空席〉を告発したのだと私は考える。告発が告発であることの不毛性から究極的に脱出するのは、ただこの〈空席〉の告発にかかっている。

【『石原吉郎詩文集』石原吉郎〈いしはら・よしろう〉(講談社文芸文庫、2005年)】

「もしもあなたが人間であるなら、私は人間ではない。もし私が人間であるなら、あなたは人間ではない」――強靭な精神が発した言葉は強烈に私の魂を打った。極寒と飢えに苛(さいな)まれる最果ての地で、抑留された日本人は涙も凍りつき、感情を喪い、抵抗する意志を奪われた。そんな中にあって鹿野武一〈かの・ぶいち〉はただ独り闘った。彼はソビエト当局に反抗したわけではない。ただ必死に自分の人生を生きようと試み、そして生きた。

 本テキストの直前の文章は「ナット・ターナーと鹿野武一の共通点」で紹介している。竹山道雄を読んでから今まで見えなかったものが見えるようになった。

 私はシベリア抑留に関してそれほど読んできたわけではない。ただ抑留者であった石原吉郎、香月泰男〈かづき・やすお〉、内村剛介の三者三様の態度にすっきりしないものを感じていた。香月は「とにかく一切の指導者、命令する人間という者を信用しない。だから組織というものも右から左までひっくるめて一切信用しない」(『シベリア鎮魂歌 香月泰男の世界』立花隆)と叫んだ。内村は石原の沈黙を批判した。内村が左翼であるかどうは知らないが、左翼的思考の持ち主であることは確かだろう。佐藤優が推(お)しているので読む必要はないと判断する(内村剛介著『科学の果ての宗教』)。

 多田茂治は「『戦利品』の一つとして、日本人捕虜のシベリヤ強制労働の道は開かれていた」(『内なるシベリア抑留体験 石原吉郎・鹿野武一・菅季治の戦後史』)と書いているが、敗戦国の罪を論(あげつら)うことによってソ連の罪を相対化する愚を犯している。

 沈黙の裏側には間違いなく国家不信があったことだろう。北朝鮮による拉致被害者の心情を推し量ることができる。また抑留者が全く語らぬ一つの事実がある。それはソ連当局による洗脳だ。抑留者であった瀬島龍三はソ連のスパイだったという説がある(『インテリジェンスのない国家は亡びる 国家中央情報局を設置せよ!』佐々淳行)。彼らは二重の意味で国家に不信を抱いたことだろう。祖国にも敵国にも。

 本当の哀しみは深い穴の底に溜まった水のようなもので決して言葉にし得ない。その水を他人が汲(く)み上げることはできない。「絶望という名の悟り」とでも名づける他ない境地である。

 鹿野武一〈かの・ぶいち〉は指導者でもなければ英雄でもなかった。彼は単独者であった。

2014-12-22

瀬島龍三はソ連のスパイ/『インテリジェンスのない国家は亡びる 国家中央情報局を設置せよ!』佐々淳行


『彼らが日本を滅ぼす』佐々淳行
『ほんとに、彼らが日本を滅ぼす』佐々淳行

 ・瀬島龍三はソ連のスパイ
  ・瀬島龍三スパイ説/『シベリア抑留 日本人はどんな目に遭ったのか』長勢了治
  ・瀬島龍三と堀栄三/『消えたヤルタ密約緊急電 情報士官・小野寺信の孤独な戦い』岡部伸
 ・イラク日本人人質事件の「自己責任」論

『私を通りすぎた政治家たち』佐々淳行
『私を通りすぎたマドンナたち』佐々淳行
『私を通りすぎたスパイたち』佐々淳行
『重要事件で振り返る戦後日本史 日本を揺るがしたあの事件の真相』佐々淳行

 国際的な大事件も、時が経てば忘れられていく。戦後史に残る一大事件になった【「ラストポロフ事件」】も、今やほとんどの人が知らないのではないだろうか。
 1954(昭和29)年1月、駐日ソ連大使館のユーリ・ラストポロフ二等書記官がアメリカに亡命し、日本でスパイ活動をしていたことを暴露したのである。彼はNKVD(内務人民委員部)という情報機関に所属していたのだが、スターリンの死去によって、内務省内の粛清が始まると噂されており、自分もその対象になると恐れたらしい。
 ラストポロフの日本での任務は、シベリア抑留から帰国した日本人エージェントと接触し、コントロールし、スパイ網をつくることだった。ソビエトは抑留した日本人を特殊工作員としてリクルートし、教育・訓練していたのである。いわゆる誓約引揚者としてスパイになって帰国した日本人は、【「スリーパー」】になった。
「出世するまでスパイとしては眠っていろ」というわけで、何もスパイ活動をしない。むしろ逆に反ソ的言動、反共産主義的な言動を取るように教育されていた。
 政界、財界、言論界、あらゆるところにシベリア抑留からの復員者がいたから、それぞれ管理職なりしかるべき役職なりに就いた頃合いを見て、駐日ソ連大使館の諜報部員が肩をたたく。そこで目覚めてスパイ活動を始めるから【「スリーパー」】と呼ばれていたのである。
 ラストポロフは亡命先のアメリカで、36人の日本人エージェントを持っていたと供述したから大騒ぎになった。元関東軍参謀の中佐や少佐が自首してきたほか、外務省欧米局などの事務官らが逮捕されたのだが、事務官の一人が取り調べ中に自殺したり、証拠不十分で無罪になったりで、全容解明にはほど遠い結末だった。

【『インテリジェンスのない国家は亡びる 国家中央情報局を設置せよ!』佐々淳行〈さっさ・あつゆき〉(海竜社、2013年)以下同】

 旧ソ連は終戦後、日本人捕虜50万人を強制労働させたのみならず、共産主義の洗脳を施していた。唯物思想は人間をモノとして扱うのだろう。歴史の苛酷な事実を知り、私は石原吉郎〈いしはら・よしろう〉を思った。石原は沈黙と詩作で洗脳に抗したのだろう。鹿野武一〈かの・ぶいち〉の偉大さがしみじみと理解できる(究極のペシミスト・鹿野武一/『石原吉郎詩文集』~「ペシミストの勇気について」)。

 洗脳は睡眠不足にすることから始められる。酷寒の地で激しい肉体労働をさせられていたゆえに睡眠不足で死んだ人々も多かったことだろう。日本政府がはっきりとソ連に抗議してこなかったのも、やはり後ろ暗いところがあったためと思われる。

「戦利品」の一つとして、日本人捕虜のシベリヤ強制労働の道は開かれていた/『内なるシベリア抑留体験 石原吉郎・鹿野武一・菅季治の戦後史』多田茂治

 ラストポロフの証言によって明らかになったスリーパーの中で、最大の要人となったのが、【元陸軍大本営参謀で、戦後は伊藤忠会長も務めた瀬島龍三〈せじま・りゅうぞう〉氏】である。自首してきた元関東軍参謀らとともに、捕虜収容所で特殊工作員として訓練されていた。
「シベリア抑留中の瀬島龍三が、日本人抑留者を前に『天皇制打倒! 日本共産党万歳!』」と拳を突き上げながら絶叫していた」という、ソ連の対日工作責任者の証言もある。抑留中、「日本人捕虜への不当な扱いに対し身を挺して抗議したために、自身が危険な立場になった」と瀬島本人は語っているが、多くの証言があり、事実ではない。
 戦後、彼はスリーパーであることを完全に秘匿(ひとく)して、経済界の大物になってしまった。さらには、中曽根政権では、第二次臨時行政調査会(土光臨調)委員などを務めたほか、中曽根総理のブレーンになったのである。
 私は警視庁のソ連・欧米担当の第一係長や、警視庁の外事課長も務めていたから、当然、瀬島龍三氏がスリーパーであることを知っていた。さまざまな会議は部会などで会う機会も多かったが、【彼は必ず目を逸(そ)らすのである】。お世辞を使った手紙をよこしたこともあった。
 内閣安全保障室長を辞めたとき、中曽根さんが会長を務める世界平和研究所の仕事を手伝ってくれと、ご本人からも熱心に頼まれたのだが、丁重にお断りしたところ、ほどなくして後藤田さんに呼ばれた。
「中曽根さんがあれだけ来てほしいと言って、礼を尽くして頼んでいるのに、どうしておまえは断るんだ」
「中曽根さんはいいけど、脇についているブレーンが気にくいません」
「たとえば誰だ?」
「瀬島龍三です」
「おまえはよく瀬島龍三の悪口を言っているけど、何を根拠にそう言ってるんだ?」
「私、外事課長だったんですよ。警視庁の」
 警視庁外事課が何をしていたのか一端を明かそう。KGBの監視対象者を尾行していると、ある日、暗い場所で不審な接触をした日本人がいた。別の班がその日本人をつけていったところ瀬島氏だったのだ。それを機に瀬島氏をずっと監視していたのである。
 彼が携わったと考えられるいちばん大きな事件が、1987(昭和62)年に発覚した「東芝機械ココム違反事件」である。
 東芝機械と伊藤忠商事は和光交易の仲介の下、1982年から84年にかけて、ソ連に東芝機械製のスクリュー加工用の高性能工作機械と数値制御装置やソフトウェア類を輸出した。これは対共産圏輸出統制委員会(ココム)の協定に違反していた。
 この工作機械によってソ連の原子力潜水艦のスクリュー音が静粛になり、米海軍に大きな脅威をもたらしたとして、日米間の政治問題に発展したのだが、【瀬島氏にとってはスターリン勲章ものの大仕事】だったはずだ。
 後藤田さんは「そうか。瀬島龍三は誓約引揚者か」と独りごちた。
 しばらくしたら、また後藤田さんが呼んでいるというので出かけていった。
「おまえの言っているのは本当だな。鎌倉警視総監を呼んで、佐々がこう言っているが本当かと聞いたら、『知らないほうがおかしいんで、みんな知ってますよ』と言っておった。君が言ってるのは本当だ」
「私の言うことを裏を取ったんですか、あなたは」
 そう言って苦笑したものだ。

 資料的価値があると考え、長文の引用となった。

 特定秘密保護法に反対する連中はこうした事実をどのように考えるのか? 報道の自由、知る権利、平和などを声高に叫ぶ輩(やから)は事の大小を弁(わきま)えていない。国家あっての自由であり、権利であり、平和である。

 この国は敗戦してから、平和という名の甘いシロップにどっぷりつ浸(つ)かり、その一方でアメリカの戦争によって経済的発展を享受してきた(アメリカ軍国主義が日本を豊かにした/『メディア・コントロール 正義なき民主主義と国際社会』ノーム・チョムスキー)。そして国家の威信は失墜した。既に国家の体(てい)を成していないといっても過言ではない。

 北朝鮮による拉致被害をなぜ解決できないか? それは憲法9条があるためだ。であれば、アメリカの民間軍事会社に救出を依頼してもよさそうなものだが、日本政府は指をくわえて眺めているだけだ。まともな国家であれば、直ぐさま戦争を起こしてもおかしくはない。それどころか日本政府は長らく拉致被害の事実すら認めてこなかったのだ。

 もちろん戦争などしない方がいいに決まっている。しかし戦争もできないような国家は国家たり得ないのだ。それでも平和を主張したいなら、パレスチナやチベット、ウイグルに行って平和を叫んでみせよ。



「瀬島龍三はソ連の協力者であった」(『正論』10月号)
マッカーシズムは正しかったのか?/『ヴェノナ』ジョン・アール・ヘインズ、ハーヴェイ・クレア
情報ピラミッド/『隷属国家 日本の岐路 今度は中国の天領になるのか?』北野幸伯
「もしもあなたが人間であるなら、私は人間ではない。もし私が人間であるなら、あなたは人間ではない」/『石原吉郎詩文集』石原吉郎
「児玉誉士夫小論」林房雄/『獄中獄外 児玉誉士夫日記』児玉誉士夫
丹羽宇一郎前中国大使はやっぱり"売国奴"だった

2014-03-08

戦争を認める人間を私は許さない/『シベリア鎮魂歌 香月泰男の世界』立花隆


真の人間は地獄の中から誕生する
香月泰男のシベリア・シリーズ
香月泰男が見たもの
・戦争を認める人間を私は許さない

 東京に出たいと願っていたことも、それと無関係ではあるまい。絵かき仲間との接触や交流に私は何を求めていたというのか。そんな所から新しいモチーフが生まれたとしても、新しい表現技術を学んだとしても、それは皮相のことでしかないだろう。必要なものは、外なるものではなく、内なるものであることを私は忘れていたのだ。
 シベリヤがそんな私を徹底的に叩き直してくれた。シベリヤで私は真に絵を描くことを学んだのだ。それまでは、いわば当然のことと前提していた絵を描くことができるということが、何物にもかえがたい特権であることを知った。それが失われたときはじめて私は水を失った魚のように自分の命を支えていたものを知ったのだ。描いた絵の評価、画家としての名声、そんなこととは一切無関係に、私はただ無性に絵が描きたかった。そして、以前は苦労して求めていたモチーフが、泉のように無限に自分の中から湧いてくるのだった。

【『シベリア鎮魂歌 香月泰男の世界』立花隆(文藝春秋、2004年)以下同】

 出征前、30歳の香月は中央進出を目指し、35歳までに画家としての地位を確立したいと考えていた。青年から壮年へと向かう季節だ。努力よりも結果が問われ、社会は「何ができるか」を求める。プロとは「それで飯を食ってゆける」人の異名だ。世間の評価を求めるのは決して不自然なことではない。だが違った。間違っていた。


 香月が求めていたのは技巧ではなかった。生きるか死ぬかという瀬戸際で技巧は通用しない。苛酷なシベリヤが「徹底的に叩き直し」たのは絵筆を握る握力そのものであった。強制収容所も香月の手から絵筆を奪うことはできなかった。そして抑留者を見放した祖国へ帰ってからも香月は絵筆を堅持し続けた。死して尚、香月は絵筆を握りしめていることだろう。

 私のシベリヤは、ある日本人にとってはインパールであり、ガダルカナルであったろう。私たちをガダルカナルに、シベリヤに追いやり、殺し合うことを命じ、死ぬことを命じた連中が、サンフランシスコにいって、悪うございましたと頭を下げてきた。もちろん講和全権団がそのまま戦争指導者だったというわけではない。しかし私には、人こそ変れ同じような連中に思える。指導者という者を一切信用しない。人間が人間に対して殺し合いを命じるような組織の上に立つ人間を断じて認めない。戦争を認める人間を私は許さない。
 講和条約が結ばれたこと自体に文句をつけるつもりはない。しかし、私はなんとも割り切れない気持をおぼえる。すると我々の闘いは間違いだったのか。間違いだったことに命を賭けさせられたのか。指導者の誤りによって我々は死の苦しみを受け、今度は別の指導者が現れて、いちはやくあれは間違いでしたと謝りにいく。この仕組みが納得できない。私自身が、そして戦争に参加した一人一人の人間が講和を結びにいくというのなら話はわかる。どこか私の知らないところで講和が決められ、私の知らない指導者という人たちがそれを結びにいく。いつのまにか私が戦場に引きずり出されていったのと同じような気がする。この仕組みがつづく限り、いつ同じことが起らないと保証できよう。
 とにかく一切の指導者、命令する人間という者を信用しない。だから組織というものも右から左までひっくるめて一切信用しない。学校の教師をしていた時代も、私は一人だけ組合に入らないで頑張り通した。命令されることは何事にまれ拒否するつもりだ。やることがあったら一人でやる。
 シベリヤホロンバイルインパールガダルカナルサンフランシスコ三隅(※現在は長門市)の町に住み、ここだけを生活圏としてはいるが、私はこの五つの方位を決して忘れない。五つの方位を含む故郷、それが、“私の地球”だ。

 芸術家の血を吐くような叫びだ。シベリア抑留の恨みを抑えた分だけ怒りの深さが伝わってくる。国家とはいつの時代も国民を使い捨てにするシステムなのだろう。戦争、増税、社会保障切り捨てと、手を変え品を変え国民から奪い続ける。国家とはブラックホールの異名か。

 人間は弱い。弱いから群れる。群れは一定の安全を保証してくれる。ただしその見返りとして魂の切り売りが求められる。組織の規模が大きくなればなるほど腐敗の度を深めてゆく。

 香月はシベリヤで目を覚ました。果たして私はどうか。

シベリア鎮魂歌 香月泰男の世界
立花 隆
文藝春秋
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香月泰男美術館
雪舟・香月泰男コレクションの山口県立美術館
「もしもあなたが人間であるなら、私は人間ではない。もし私が人間であるなら、あなたは人間ではない」/『石原吉郎詩文集』石原吉郎

2014-03-07

香月泰男が見たもの/『シベリア鎮魂歌 香月泰男の世界』立花隆


真の人間は地獄の中から誕生する
香月泰男のシベリア・シリーズ
・香月泰男が見たもの
戦争を認める人間を私は許さない

 シベリヤ抑留者の数だけ多くのシベリヤがある。私は全シベリヤ抑留者の気持を代弁してやろうなどというような大それた望みは持ったことがない。これからも持とうとは思わない。私には、香月泰男のシベリヤしかない。ごく個人的な体験を語る気持で、それを画布に表現してきた。

【『シベリア鎮魂歌 香月泰男の世界』立花隆(文藝春秋、2004年)以下同】

「代弁」してしまうと政治の臭いが立ちこめる。私が内村剛介を嫌う理由もそこにある。国家を糾弾するならまだしも、批判の眼差しは同じシベリア抑留者にも向けられる。収容所では共産主義者が優遇されていた(Wikipedia)。内村もその一人であったのかもしれない。


 生まれてから58年間、私はついに絵描きでしかなかった。軍隊にあっても、シベリヤの収容所にあっても、私は兵隊になりきり捕虜になるきることができなかった。帝国陸軍も、ソ連も、私をそこまでねじふせることはできなかった。
 私はいつも生きのびてやろうと思っていた。兵隊のときは死ぬこともあろうかという覚悟はあった。しかし、よし死ぬことがあろうとも最後には銃を握っては死なず、絵筆を持って死ぬつもりだった。帝国軍人としては死にたくないと思った。出征するとき持ってでた絵具箱は、帰国するまでかたときも手放したことがない。
 一人の絵描きとして、いつも私は普通の兵隊とは別の空間に住んでいた。生命そのものが危険にさらされている瞬間にすら、美しいものを発見し、絵になるものを発見せずにはいられなかった。頭の中に画面を想像してはモチーフをそこにおさめるための構図を考えつづけていた。人の死に直面しているときでも、頭の中でそんな作業をくりかえしている自分に、絵描き根性のあさましさを感じて思わずぞっとするときもあった。しかし、この絵描き根性があったがゆえに、ほかの兵隊たちが完全な餓鬼道に陥っているようなときにも、一歩ひいたところに身を持していることができたのだろう。絵描きであったことは、私の特権であり、私の幸せであったと感謝している。

 本書で明らかにされているが香月泰男の『私のシベリヤ』(文藝春秋、1970年)は立花隆の手による聞き書きであった。どおりで文章がこなれているわけだ。今風にいえばゴーストライターである。ただし言うまでもないことだが、香月なくして『私のシベリヤ』は成立しない。

 アウシュヴィッツ強制収容所を生き延びたV・E・フランクルは「心理学者としての視点」を失わなかった(『夜と霧 ドイツ強制収容所の体験記録』V・E・フランクル)。フランクルは人間真理を観察し、香月は絵のモチーフを探し続けた。距離を置かねば観察することはできない。そして距離の長さこそが抽象度となるのだ(『心の操縦術 真実のリーダーとマインドオペレーション』苫米地英人)。何かを「見る」時、精神は対象へ傾注し、自分という存在は後方へ下がる。彼らは目の前に鏡があれば自分自身をも観察したことであろう。その哲学的態度が個人的な感情を斥(しりぞ)けるのだ。

 それにしても何という矜持(きょうじ)だろう。自分自身を知る者の強みがここにある。香月にとって絵を描く行為は職業ではなかった。生きることそのものであった。彼は金額に換算される芸術とは無縁であった。

 シベリヤを描きながら、私はもう一度シベリヤを体験している。私にとってシベリヤとは一体何であったのか。私の襲いかかり、私を呑みこみ、私を押し流していったシベリヤを今度は私が画布の中にとりこみ、ねじふせることによってそれをとらえようとする。肉体がシベリヤを体験しているとき、精神がその意味を把握するには状況はあまりにも苛酷であり、あまたりにもめまぐるしく変りつつあった。私の軍隊生活と俘虜生活とはあわせてたかだか4年半のことでしかない。すでにその4倍の時間を、4年半の体験を反省することに費やしている。


 短い抜き書きでやめようと思ったのだが書かずにはいられない。私が敬愛してやまない鹿野武一〈かの・ぶいち〉が生きたシベリアを知っておく必要があるからだ。シベリアの大地から香月泰男〈かづき・やすお〉や石原吉郎〈いしはら・よしろう〉が生まれた。だが鹿野武一は抑留以前から鹿野武一であった。香月が絵描きであることをやめなかったように、鹿野は終生にわたって鹿野自身であった。たぶん他の抑留者に比べて過去の記憶に苛まれることも少なかったことだろう。

 私が忠実でありたいと思うのはそこのところだ。私はシベリヤをむしってみる。ちぎってみる。色をはぎとってみる。枯させれてみせる。
 シベリヤをというよりは、シベリヤにあった私をというのが正しいかもしれない。感性の記憶を微細にたどっていく。例えば、見はるかすツンドラ地帯を夜となく昼となく走りつづけたあの護送列車の中で、宵闇が迫り、床に腰をおろし、膝を両手でかかえこんだまま、見るともなく目をやっていた自分の泥だらけの軍靴が、やがてそれと見分けもつかなくなり、■(くろ)い一つのかたまりと化していったとき、私がほんとうに見ていたものはんなんだったのだろうか。夜のガランとしたアトリエの中で一人画布に向いながら私はそれをもう一度見ようとする。

 それは巨大な穴であったのかもしれぬ(石原吉郎と寿福寺/『内なるシベリア抑留体験 石原吉郎・鹿野武一・菅季治の戦後史』多田茂治)。「■(くろ)い一つのかたまり」とは石原が書いた「完全に『均らされた』状態」(『石原吉郎詩文集』)と同じだ。香月は人類にひそむ巨悪を見たのだろう。それはあまりにも大きすぎて確かな全体像を結ぶことがなかったに違いない。

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2014-02-16

香月泰男のシベリア・シリーズ/『シベリア鎮魂歌 香月泰男の世界』立花隆


真の人間は地獄の中から誕生する
・香月泰男のシベリア・シリーズ
香月泰男が見たもの
戦争を認める人間を私は許さない

 もう戦争が終ってから24年、シベリヤから復員して22年になる。
 22年前、私は満州での軍隊生活とシベリヤ抑留生活をモチーフに描きつづけてきた。帰国した翌年に発表した「埋葬」にはじまり、つい最近制作が終ったばかりの「朕」までで、すでに43点になる。いつのまにか“シベリヤ・シリーズ”の名がかぶせられ、私はその作者として多少知られることになった。
 もっとシベリヤを描けという人もいれば、そろそろシベリヤから足を洗ったらどうだとすすめる人もいる。そうはいわないまでも、なぜいつまでもシベリヤを描きつづけるのかという問いを受けることは始終ある。正直の(ママ)ところ、私自身、それがなぜなのかよくわからない。

【『シベリア鎮魂歌 香月泰男の世界』立花隆(文藝春秋、2004年)以下同】


 特筆すべきは本書に香月の『私のシベリヤ』(文藝春秋、1970年)が収められていることだ。「テキスト部分の復刻」となっているが全部かどうかはまだ確認していない。

 外野はいつだって勝手なものだ。マスメディア、評論家、美術品バイヤー、音楽プロダクション、そして客という名の大衆……。勝手なリクエスト、希望、願望を並べ立てる。本来、批評とは独善と無縁のものであらねばならない。

 ほとんど毎年のように、私はこれが最後の“シベリヤ・シリーズ”だと思いながら絵筆をとってきた。そしてそのたびに描いているうちから、「ああ、あれも描いておかなければ」と早くも次の絵の構想が自然にできあがってくる。描くたびに、こんなものではとてもオレのシベリヤを語りつくしたことにはならない、という気がしてくるのだ。

 香月がシベリアで目撃したものは何だったのか。それを我々は絵を通して見ることができる。真実とは彫琢(ちょうたく)された現実である。個の深き泉が大海に通じる。

 多分ずるずるとこれから先何年もシベリヤを描きつづけることになるのではないかという気がする。もしかしたら私は死ぬまでシベリヤを描くことになるかも知れぬ。

 この言葉通りとなった。否、香月は石原吉郎と同じくシベリアを生き続けたのだろう。描く営みは現在と過去の往還であり、生きることそのものであった。単なる回想から芸術作品は生まれない。創作とは常に現在性を刻印する作業であるからだ。

 私の個展を見にきてくれた戦友がこんなものはみたくないといった。もうシベリヤのことなんか思い出したくもない、といった。私にしたって同じことだ。シベリヤのことなんか思い出したくはない。しかし、白い画布を前に絵具をねるとそこにシベリヤが浮びあがってくる。絵にしようと思って絵にするのではない。絵はすでにそこにある。極端な言い方をすれば私のすることは、ただそこに絵具を添えていくことだけだといってもよい。

 本物の芸術は作為から解脱(げだつ)する。まさに無作(むさ)の境地といってよい。制作が創造へと飛翔する様が見てとれる。


「黒い太陽」に至ってはマンダラと言い切ってよいほどの荘厳さを湛(たた)えている。凡人の苦悩は時間を経ることで達観可能となる。しかし偉大な人物は苦悩した瞬間に苦悩そのものを達観する。悟りとは瞬間を開くものだ。であれば香月の絵は既にシベリアの地で生まれたものと考えてよかろう。

シベリア鎮魂歌 香月泰男の世界

2014-02-15

真の人間は地獄の中から誕生する/『シベリア鎮魂歌 香月泰男の世界』立花隆


『石原吉郎詩文集』石原吉郎

 ・真の人間は地獄の中から誕生する
 ・香月泰男のシベリア・シリーズ
 ・香月泰男が見たもの
 ・戦争を認める人間を私は許さない

 香月さんのシベリア・シリーズは、いうなれば、絵だけでは伝えきれない情念のかたまりなのである。だから香月さんは、このシリーズの絵に全点「ことば書き」をつけた。シベリア・シリーズは、絵とことばが一体なのである。シベリア・シリーズは、ことばによって付け加えられた情報と情念が一体となってはじめてわかる絵なのである。

【『シベリア鎮魂歌 香月泰男の世界』立花隆(文藝春秋、2004年)】

 香月泰男〈かづき・やすお〉は死ぬまでシベリアを描き続けた。シベリアとは地名ではない。それは抑留という名の地獄を意味する。

 戦争に翻弄され、国家から見捨てられたシベリア抑留者の数は76万3380人と推定されている。経緯については以下の通りである。

「戦利品」の一つとして、日本人捕虜のシベリヤ強制労働の道は開かれていた/『内なるシベリア抑留体験 石原吉郎・鹿野武一・菅季治の戦後史』多田茂治

 私は『香月泰男のおもちゃ箱』(香月泰男、谷川俊太郎)を読んでいたが、香月が抑留者であることは知らなかった。また彼の絵を見たのも本書を読んでからのこと。ブリキ作品とは打って変わった作風に衝撃を受けた。そこには石原吉郎〈いしはら・よしろう〉が抱える闇が描かれていた。彼らは言葉にし得ぬものや、描き得ぬものを表現しようとした。そして死ぬまでシベリアを生き続けたのだ。

 地獄の焔(ほのお)が特定の人々を精錬する。不信と絶望の底から真の人間が立ち上がるのだ。私の内側で畏敬の念が噴き上がる。

 鹿野武一〈かの・ぶいち〉は帰還から、わずか1年後に心臓病で死んだ。管季治〈かん・すえはる〉は政争に巻き込まれ、鉄路に身を投げた。

 国家と人間の不条理を伝えることができる人物は限られている。香月泰男もその一人だ。初めて画集を開いた時、ページを繰るたびに私は「嗚呼(ああ)――」と声を漏らした。「嗚呼、そうだったのか」と。

 香月が描く太陽は、どことなく石原が渇望した海を思わせる。

石原吉郎と寿福寺/『内なるシベリア抑留体験 石原吉郎・鹿野武一・菅季治の戦後史』多田茂治

 日の丸は抑留者を見捨てたが香月は太陽を描いた。シベリアの抑留者を決して照らすことのなかった太陽を描いた。

 善き人々に対して神は父親の心を持ち、彼らを強く愛して、こう言われる。「労役や苦痛や損害により彼らを悩ますがよい――彼らが本当の力強さを集中できるように」と。怠惰のために肥満した体は、労働のみならず運動においても動作が鈍く、またそれ自体の重量のために挫折する。無傷の幸福は、いかなる打撃にも堪えられない。しかし、絶えず自己の災いと戦ってきた者は、幾度か受けた災害を通して逞(たくま)しさを身につけ、いかなる災いにも倒れないのみならず、たとえ倒れてもなお膝で立って戦う。(「神慮について」)

【『怒りについて 他一篇』セネカ:茂手木元蔵〈もてぎ・もとぞう〉訳】

 香月は絵筆を振るい、石原はペンを握って戦った。その力はシベリアの地で蓄えられた。真の人間は地獄の中から誕生するのだろう。

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戦場へ行った絵具箱―香月泰男「シベリア・シリーズ」を読む
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2013-09-08

内村剛介の石原吉郎批判/『失語と断念 石原吉郎論』内村剛介


 ゴリゴリの文体が嫌な臭いを放っていた。イデオロギーや教条(ドグマ)から見つめて人間を裁断するような印象を受けた。内村剛介もまたシベリア抑留者であった。そんな彼が同じ苦しみを生き抜いた石原吉郎を徹底的に批判している。

 感性の磨耗ということに石原ほどに抵抗した者も少なかろう。

【『失語と断念 石原吉郎論』内村剛介〈うちむら・ごうすけ〉(思潮社、1979年)以下同】

 それは石原が詩人であったためではない。死んでしまった鹿野武一〈かの・ぶいち〉と共に生き、彼に恥じない生き様を貫こうとしたゆえであった。私にはそう思えてならない。

究極のペシミスト・鹿野武一/『石原吉郎詩文集』~「ペシミストの勇気について」

 希望が一切持てないにもかかわらず、なお他の精神をいたずらにそこなうようなことだけはさしひかえようとして沈黙する者がある。雄々しくみずから耐えることを強いるのである。彼は沈黙し耐えることによって絶望を拒否する。この沈黙は屈従ではない。迎合という名の屈従を拒むものが彼のうちにあって、それを支えとして沈黙し、絶望と格闘するのである。希望がないというだけではまだ絶望ではない。耐える力を、みずからのうちのこの支柱を失ったときはじめて絶望が訪れる。それまでは、その瞬間までは、私たちは耐えなければならない。むろん他に対してでなく自分自身に対して耐えるのである。

 私は猛烈な違和感を覚えた。石原の沈黙は能動的なものではあるまい。かといって強いられたものでもない。彼はただ「沈黙せざるを得なかった」のだ。なぜなら語るべき言葉を失ってしまったからだ。

ことばを回復して行く過程のなかに失語の体験がある
詩は、「書くまい」とする衝動なのだ/『石原吉郎詩文集』石原吉郎

 一方、鹿野武一〈かの・ぶいち〉は「絶望と格闘」したわけではない。鹿野は絶望を生きた。ロシア人の優しさに接した時、彼は自ら絶望に寄り添い、生きることを拒んだ。それ以降、誰に言うこともなく食を絶(た)ち、苛酷な強制労働に従事した。

ナット・ターナーと鹿野武一の共通点/『ナット・ターナーの告白』ウィリアム・スタイロン




 我々が通常考える幸不幸とは快不快でしかない。乙女の温かな人間性が多くの抑留者に希望を与えたことは疑う余地がない。しかし快は不快の裏返しでしかなかった。たちどころにそれを悟った鹿野は【希望を拒んだ】のだ。彼は人間の実存が特定の情況に左右されることを許さなかった。この瞬間において「世界から拒まれた者」は「世界を拒む者」へと変貌を遂げたのだろう。

 鹿野武一〈かの・ぶいち〉の沈黙は深海を想起させる。それに対して内村剛介は押し寄せる波のようにうるさい。

 人間を深く見つめる眼差しがなければ、我々は繰り返される革命や改革の歯車となってゆく。

失語と断念―石原吉郎論 (1979年)
内村 剛介
思潮社
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香月泰男が見たもの/『シベリア鎮魂歌 香月泰男の世界』立花隆

2012-08-26

寿福寺再訪


 鎌倉は風がいい。少し歩いただけで潮の香りと山の匂いを味わえる。颯々(さっさつ)という言葉がしっくりくる。

 ふた月ほど前に再び寿福寺を訪ねた。3年振りのことだ。

石原吉郎と寿福寺/『内なるシベリア抑留体験 石原吉郎・鹿野武一・菅季治の戦後史』多田茂治

 亀ヶ谷坂切通しを歩きたかったので、わざわざ遠回りした。鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)の左手を上り、道元鎌倉御行化顕彰碑をやり過ごし、建長寺を越えた辺りからまざまざと記憶が蘇る。切通しの入り口に迷うことはなかった。

 寿福寺に迫ると傍らの線路を電車が通過した。以前、「私は、〈走る留置所〉と呼ばれるストルイピンカを想った」と書いたが、その電車は何と総武線快速であった(※横須賀線も走っている)。私が長らく住んだ亀戸(かめいど)の隣町である錦糸町へ向かう電車だ。思わず「嗚呼(ああ)」という言葉を吐きそうになったが、ぐっと飲み込んだ。ひょっとしてこの線路が私と石原吉郎をつないでいたのかもしれぬ。

 寿福寺は木漏れ日を用意して私を迎えてくれた。あちこちにある鎌倉石が色鮮やかな苔(こけ)をまとっていた。私は足早に歩き、北条政子と源実朝の墓を一瞥した。新しい発見は何もなかった。

 階段を下りてゆくと私を呼ぶ声がした。振り向くと木漏れ日を揺らすように風が吹き渡った。

 鎌倉駅へ向かうと観光客がごった返していた。雑踏を柔らかい夕日が包み始めた。

 石原が何度も歩いた北鎌倉の道だったが私は一度で飽きた。それでも尚、いつの日か寿福寺を訪ねることになるだろう。なぜかそんな気がする。

2012-04-14

言葉を紡ぐ力/『石原吉郎詩文集』石原吉郎


『「疑惑」は晴れようとも 松本サリン事件の犯人とされた私』河野義行
『彩花へ 「生きる力」をありがとう』山下京子
『彩花へ、ふたたび あなたがいてくれるから』山下京子
『生きぬく力 逆境と試練を乗り越えた勝利者たち』ジュリアス・シーガル
『夜と霧 ドイツ強制収容所の体験記録』ヴィクトール・E・フランクル:霜山徳爾訳
『それでも人生にイエスと言う』ヴィクトール・E・フランクル
『アウシュヴィッツは終わらない あるイタリア人生存者の考察』プリーモ・レーヴィ
『イタリア抵抗運動の遺書 1943.9.8-1945.4.25』P・マルヴェッツィ、G・ピレッリ編

 ・究極のペシミスト・鹿野武一
 ・詩は、「書くまい」とする衝動なのだ
 ・ことばを回復して行く過程のなかに失語の体験がある
 ・「棒をのんだ話 Vot tak!(そんなことだと思った)」
 ・ナット・ターナーと鹿野武一の共通点
 ・言葉を紡ぐ力
 ・「もしもあなたが人間であるなら、私は人間ではない。もし私が人間であるなら、あなたは人間ではない」

『望郷と海』石原吉郎
『海を流れる河』石原吉郎
『シベリア抑留とは何だったのか 詩人・石原吉郎のみちのり』畑谷史代
『内なるシベリア抑留体験 石原吉郎・鹿野武一・菅季治の戦後史』多田茂治
『シベリア抑留 日本人はどんな目に遭ったのか』長勢了治
『失語と断念 石原吉郎論』内村剛介

必読書リスト その二

 以前から読んでいるブログが中断を経て再開された。

詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

 名前は〈やち・しゅうそ〉と読む。息の長いブログである。読むたびに「言葉のマッサージ」を受けているような気分になる。あるいは「言葉のリハビリテーション」と言ってもよい。ヒラリヒラリと舞う言葉が、直情径行型の私に変化を及ぼす。

 ふと詩を読みたくなった。そうだ、石原吉郎に会いにゆこう。

 しずかな肩には
 声だけがならぶのでない
 声よりも近く
 敵がならぶのだ
 勇敢な男たちが目指す位置は
 その右でも おそらく
 そのひだりでもない
 無防備の空がついに撓(たわ)み
 正午の弓となる位置で
 君は呼吸し
 かつ挨拶せよ
 君の位置からの それが
 最もすぐれた姿勢である(「位置」)

【詩集〈サンチョ・パンサの帰郷〉より/『石原吉郎詩文集』石原吉郎〈いしはら・よしろう〉(講談社文芸文庫、2005年)以下同】

 はっきり言ってしまえば意味はよくわからない。それでも構わないだろう。人間は外国語の歌にも感動することができる動物なのだから。

 空間の歪みと時間の頂点というコントラストが既成概念を揺さぶる。石原にとってシベリア抑留は歪んだ空間であったことだろう。しかし「歪んだ時間」ではなかったはずだ。なぜなら彼はシベリアで鹿野武一〈かの・ぶいち〉と出会ったからだ。

 石原自身は真面目で平凡な人物であったと思われる。その彼に「言葉を紡(つむ)ぐ力」を与えたのが鹿野であった。

 石原は言葉を失いかけた。否、失ったのかもしれない。

 人は大なり小なり国家に依存している。それは考えるまでもない事実である。国家のために命を賭して戦地へ赴き、挙げ句の果てに国家から見捨てられる。シベリアで抑留された人々はかような状態に置かれた。自分の生死をも不問に付された時、存在は透明化し抹消されたに等しい。

 人間は相手(=観測者)がいなければ言葉を発することすらできないのだ。

 さびしいと いま
 いったろう ひげだらけの
 その土塀にぴったり
 おしつけたその背の
 その すぐうしろで
 さびしいと いま
 いったろう
 そこだけが けものの
 腹のようにあたたかく
 手ばなしの影ばかりが
 せつなくおりかさなって
 いるあたりで
 背なかあわせの 奇妙な
 にくしみのあいだで
 たしかに さびしいと
 いったやつがいて
 たしかに それを
 聞いたやつがいあるのだ
 いった口と
 聞いた耳とのあいだで
 おもいもかけぬ
 蓋がもちあがり
 冗談のように あつい湯が
 ふきこぼれる
 あわててとびのくのは
 土塀や おれの勝手だが
 たしかに さびしいと
 いったやつがいて
 たしかに それを
 聞いたやつがいる以上
 あのしいの木も
 とちの木も
 日ぐれもみずうみも
 そっくりおれのものだ(「さびしいと いま」)

 慎ましい言葉の端々(はしばし)から、存在への憧憬(どうけい)が狂おしいまでに溢(あふ)れ出る。強制された孤独が完膚なきまでに自我を打ちのめす。変わらぬ自然の光景を「おれのものだ」と言わずにはいられない、その「さびしさ」を思う。

 憎むとは 待つことだ
 きりきりと音のするまで
 待ちつくすことだ
 いちにちの霧と
 いちにちの雨ののち
 おれはわらい出す
 たおれる壁のように
 億千のなかの
 ひとつの車輪をひき据えて
 おれはわらい出す
 たおれる馬のように
 ひとつの生涯のように
 ひとりの証人を待ちつくして
 憎むとは
 ついに怒りに到らぬことだ(「待つ」)

 腐敗でも発酵でもない。憎悪の純化だ。石原は憎しみを保ち続けることで、鹿野の死や時の経過と戦ったのだろう。忘却を拒む者の覚悟が屹立(きつりつ)している。

 世界がほろびる日に
 かぜをひくな
 ビールスに気をつけろ
 ベランダに
 ふとんを干しておけ
 ガスの元栓を忘れるな
 電気釜は
 八時に仕掛けておけ(「世界がほろびる日に」)

 ゲオルギウの言葉と一緒だ。

自分は今日リンゴの木を植える

 いつものように、そして今までどおりに生きる。淡々と平凡を貫ける人は偉大だ。

 生の意味を探し回ることは空虚だ。人生を改造するような真似も見苦しい。ただ生きる。川の水が流れるように。そんな生き方を私は望む。


私を変えた本

2011-08-21

「戦利品」の一つとして、日本人捕虜のシベリヤ強制労働の道は開かれていた/『内なるシベリア抑留体験 石原吉郎・鹿野武一・菅季治の戦後史』多田茂治


『石原吉郎詩文集』石原吉郎
『望郷と海』石原吉郎

 ・石原吉郎と寿福寺
 ・常識を疑え
 ・「戦利品」の一つとして、日本人捕虜のシベリヤ強制労働の道は開かれていた

『シベリア抑留 日本人はどんな目に遭ったのか』長勢了治
『シベリア鎮魂歌 香月泰男の世界』立花隆

 すでにヤルタ会談(45年2月)で、ルーズベルト米大統領がスターリンに対して、対日参戦の代償として、「莫大な戦利品の取得」「南樺太・千島列島の割譲」「大連を自由港とし、ソ連の優先権を認める」などの密約をしていたし、「戦利品」の一つとして、日本人捕虜のシベリヤ強制労働の道は開かれていたが、日本政府にそうしたスターリンの横暴を許す姿勢がなかったとは言えない。
 45年5月には、同盟国だったナチス・ドイツが無条件降伏して、ますます窮地に追い込まれた日本政府は、不可侵条約を結んでいたソ連を仲介にして和平交渉を進めようと、7月20日、近衛文麿元首相を特使としてソ連に派遣する計画を立て、「和平交渉の要綱」なるものをつくったが、それには次のような条件が含まれていたという。
 一、国体護持は絶対にして、一歩も譲らざること。
 二、戦争責任者たる臣下の処分はこれを認む。
 三、海外にある軍隊は現地において復員し、内地に帰還せしむることに努むるも、やむを得ざれば、当分その若干を残留せしむることに同意す。
 四、賠償として、一部の労力を提供することに同意す。
 事態が急速に悪化して、この近衛特使派遣は実現しなかったが、日本政府みずから、「国体護持」(天皇制護持)を絶対的条件とする代りに、“臣下”の戦犯処分、シベリヤ抑留・労働酷使に道を開くような提案を用意していたのだ。

【『内なるシベリア抑留体験 石原吉郎・鹿野武一・菅季治の戦後史』多田茂治〈ただ・しげはる〉(社会思想社、1994年/文元社、2004年)※社会思想社版は「シベリヤ」となっている】

 そして今、シベリア抑留者と全く同じように、福島の人々が見捨てられているのだ。守るべき国民の生命は脅かされ、国家の体面だけを優先している。


「岸壁の母」菊池章子
「国家と情報 Part2」上杉隆×宮崎哲弥
真の人間は地獄の中から誕生する/『シベリア鎮魂歌 香月泰男の世界』立花隆
瀬島龍三はソ連のスパイ/『インテリジェンスのない国家は亡びる 国家中央情報局を設置せよ!』佐々淳行
「もしもあなたが人間であるなら、私は人間ではない。もし私が人間であるなら、あなたは人間ではない」/『石原吉郎詩文集』石原吉郎

2011-08-17

「岸壁の母」菊池章子


 昭和29年(1954年)9月、テイチクレコードから発売された菊池章子のレコード『岸壁の母』が大流行(100万枚以上)した。

 作詞した藤田まさとは、上記の端野(はしの)いせのインタビューを聞いているうちに身につまされ、母親の愛の執念への感動と、戦争へのいいようのない憤りを感じてすぐにペンを取り、高まる激情を抑えつつ詞を書き上げた。歌詞を読んだ平川浪竜は、これが単なるお涙頂戴式の母ものでないと確信し、徹夜で作曲、翌日持参した。さっそく視聴室でピアノを演奏し、重役・文芸部長・藤田まさとに聴いてもらった。聞いてもらったはいいが、何も返事がなかった。3人は感動に涙していたのであった。そして、これはいけると確信を得、早速レコード作りへ動き出した。

 歌手には専属の菊池章子が選ばれた。早速、レコーディングが始まったが、演奏が始まると菊池は泣き出した。何度しても同じであった。放送や舞台で披露する際も、ずっと涙が止まらなかった。菊池曰く「事前に発表される復員名簿に名前がなくても、「もしやもしやにひかされて」という歌詞通り、生死不明のわが子を生きて帰ってくると信じて、東京から遠く舞鶴まで通い続けた母の悲劇を想ったら、涙がこぼれますよ」と語っている。

 昭和29年9月、発売と同時に、その感動は日本中を感動の渦に巻き込んだ。菊池はレコードが発売されたとき、「婦人倶楽部」の記者に端野いせの住所を探し出してもらい、「私のレコードを差し上げたい」と手紙を送った。しかし、端野の返事は「もらっても、家にはそれをかけるプレーヤーもないので、息子の新二が帰ってきたら買うからそれまで預かって欲しい」というものであった。菊池はみずから小型プレーヤーを購入し、端野に寄贈した。

Wikipedia

動画検索:「岸壁の母」菊池章子



星の流れに/岸壁の母

端野いせさん・岸壁の母について
岸壁の母のモデル、端野いせと息子新二
「星の流れに」菊池章子、ちあきなおみ、谷真酉美
「戦利品」の一つとして、日本人捕虜のシベリヤ強制労働の道は開かれていた/『内なるシベリア抑留体験 石原吉郎・鹿野武一・菅季治の戦後史』多田茂治
究極のペシミスト・鹿野武一/『石原吉郎詩文集』~「ペシミストの勇気について」
石原吉郎と寿福寺/『内なるシベリア抑留体験 石原吉郎・鹿野武一・菅季治の戦後史』多田茂治

hasino

2009-08-17

石原吉郎と寿福寺/『内なるシベリア抑留体験 石原吉郎・鹿野武一・菅季治の戦後史』多田茂治


『石原吉郎詩文集』石原吉郎
『望郷と海』石原吉郎
『シベリア抑留とは何だったのか 詩人・石原吉郎のみちのり』畑谷史代

 ・石原吉郎と寿福寺
  ・寿福寺再訪
 ・常識を疑え
 ・「戦利品」の一つとして、日本人捕虜のシベリヤ強制労働の道は開かれていた

『シベリア抑留 日本人はどんな目に遭ったのか』長勢了治
『シベリア鎮魂歌 香月泰男の世界』立花隆

 石原吉郎〈いしはら・よしろう〉、鹿野武一〈かの・ぶいち〉、菅季治〈かん・すえはる〉の三人はシベリアの同じ収容所で過ごした時期がある。終戦のどさくさに紛れてソ連は、60万人もの日本人を抑留し奴隷同然に扱った。日本政府はこれを黙認した。

 菅季治は二人に先んじて帰国していたが、徳田要請問題で政治家に利用された挙げ句、中央線の鉄路に身を投げた。シベリア抑留から解放されてわずか5ヶ月後のことだった。

“究極のペシミスト”鹿野武一は、勤務先の病院の宿直室で心臓麻痺を起こして死んだ。帰国してから一年半後のこと。石原吉郎は詩人として名を残し、62歳(1977年)まで生きたが晩年は狂気の中を彷徨(さまよ)った。

 不幸と悲劇は一度つかまえた人間を離すことがないのであろうか。シベリアでは目の前に悪が対峙していた。向こう側に存在する悪に自分が犯されないようにすることが彼等の戦いであった。ところが帰国した日本では、そこここに悪が蔓延していた。善と悪に対して鋭く研ぎ澄まされた彼等の感覚は、小さな悪の後ろに広がる巨大な闇を捉えていた。

 夏が終わりを告げそうな今日、石原が足を運んだ鎌倉の寿福寺へ行ってきた。石原と会うために――

 この頃、石原吉郎はよくひとりで鎌倉へ出かけて歩きまわっていた。特に好んだのは、昔の面影が色濃く残る北鎌倉で、なかでもよく訪れたのが、鎌倉五山の中でも最古を誇る寺で、苔むしたやぐら(洞窟)に、北条政子、源実朝の墓がある寿福寺だった。
 寿福寺との出会いを、石原は「生きることの重さ」(74年6月、朝日新聞)にこう書いている。

 少し前に、雨の北鎌倉を一日歩きまわったことがある。たまたま立ち寄った寺に、北条政子と源実朝の墓があった。いずれも洞窟の暗がりに凝然と立ちすくんでおり、その荒涼とした気配が気に入ってしばらくたたずんでいたのをおぼえている。
 たぶんその時私が立っていたのは他界への入口のような所であったろう。しばらく生きるために、私はそこを立ち去った

【『内なるシベリア抑留体験 石原吉郎・鹿野武一・菅季治の戦後史』多田茂治〈ただ・しげはる〉(社会思想社、1994年/文元社、2004年)※社会思想社版は「シベリヤ」となっている】

 妻の夏休みが今日しかなかったので海水浴のついでに足を延ばした。



 地図を持って行かなかったため、鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)の左側から建長寺に辿り着き、そこの案内板を見て、長寿寺の手前の道を左に曲がった。入った瞬間、石原もここ(亀ヶ谷坂切通し)を歩いたことだろうと密かに確信した。影の濃い道だった。



 私の眼が石原の視線を探した。探し回った。そして、やっと目的の場所を見つけた。





 上が北条政子の墓で、下が源実朝の墓である。実際に足を運べばわかるが、写真からは窺い知ることのできない異様な雰囲気がある。確かに冥界といえる。夏の日差しの中で、そこだけぽっかりと別世界が口を開けていた。大の大人を恐れさせる何かがあった。暗がりや湿度では説明のつかない異質さが佇(たたず)んでいた。


【実朝の右隣の墓の内側から撮影】


 石原はここで何を見たのか。沈黙の中で闇を睨(にら)んでいたその時、潮風の向こうから電車の走る音が聴こえた。私は、〈走る留置所〉と呼ばれるストルイピンカを想った。そして、微(かす)かな潮の香りを嗅ぎながら、シベリアの地で望郷の思いを海に託した石原の心に触れたような気がした――

 海が見たい、と私は切実に思った。私には、わたるべき海があった。そして、その海の最初の渚と私を、3000キロにわたる草原(ステップ)と凍土(ツンドラ)がへだてていた。望郷の想いをその渚へ、私は限らざるをえなかった。空ともいえ、風ともいえるものは、そこで絶句するであろう。想念がたどりうるのは、かろうじてその際(きわ)までであった。海をわたるには、なによりも海を見なければならなかったのである。
 すべての距離は、それをこえる時間に換算される。しかし海と私をへだてる距離は、換算を禁じられた距離であった。それが禁じられたとき、海は水滴の集合から、石のような物質へと変貌した。海の変貌には、いうまでもなく私自身の変貌が対応している。

【「望郷と海」(『展望』1971年8月)/『石原吉郎詩文集』(講談社文芸文庫、2005年)】

 源実朝は和歌を嗜(たしな)んだ。詩人の石原も和歌を詠んだ。実朝は甥(おい)の手で殺された。石原は祖国から見捨てられた。

 岩穴の闇を正視する時、石原の心はシベリアに引き戻されたに違いない。そして、生きるためにそこを立ち去った瞬間、今度は闇を背負い込んでしまうのだ。そのまま別の闇に向かって彼は歩き続けた。

 石原の孤独にはブラックホールの如き重量があった。その重みに耐えられなくなった時、精神は狂気へと避難した。石原は独居の浴槽の中で心臓麻痺死した。酷寒のシベリアを生き延びた者に対する神の祝福と思えてならない。


寿福寺
寿福寺
・「岸壁の母」菊池章子