2020-12-07

明治、大正、昭和を駆け抜けたジャーナリストの悔悟/『徳富蘇峰終戦後日記 『頑蘇夢物語』』徳富蘇峰


『大本営参謀の情報戦記 情報なき国家の悲劇』堀栄三
『消えたヤルタ密約緊急電 情報士官・小野寺信の孤独な戦い』岡部伸
『日本のいちばん長い日 決定版』半藤一利
『機関銃下の首相官邸 二・二六事件から終戦まで』迫水久恒
『昭和陸軍謀略秘史』岩畔豪雄
『田中清玄自伝』田中清玄、大須賀瑞夫
『陸軍80年 明治建軍から解体まで(皇軍の崩壊 改題)』大谷敬二郎

 ・明治、大正、昭和を駆け抜けたジャーナリストの悔悟

日本の近代史を学ぶ
必読書リスト その四

 ただし、日記と申しても本書は世間一般の概念による日記と異なり、昭和の大戦を中心に、わが生涯の信条と行動に関し、百年の後の人々に訴えんとして、中島司(つかさ)秘書に口述筆記させ、さらに和紙に墨書清書せしめ、百年以上の保存に堪える配慮まで行った原稿である。終戦後3日目より約2年間、毎日襲い来る三叉神経痛の痛みに堪えながら口述したことから考えれば、広い意味において終戦日記と称しても差支(さしつか)えないと思う。(「刊行にあたって」徳富敬太郎

【『徳富蘇峰終戦後日記 『頑蘇夢物語』』徳富蘇峰〈とくとみ・そほう〉(講談社、2006年/講談社学術文庫、2015年)】

 記事タイトルは迷った挙げ句に悔恨よりも悔悟を選んだ。『頑蘇夢物語』は全4冊だがIだけが文庫化されている。徳富蘇峰は時流に迎合したジャーナリストと受け止められているが、自分で著作に当たって判断するのがよろしい。私は人物と見た。好き嫌いは別にして。

 本書は、徳富蘇峰が終戦後の昭和20年8月より22年7月まで口述筆記させた日記『頑蘇夢物語』(全14巻)の1巻から5巻まで(昭和21年1月まで)の内容を小社編集部で選択、収録したものである。(凡例)

 以下は昭和20年8月18日に綴り始めた第1日目の日記である。

 率直に言えば、恐れながら至尊(しそん)に対し奉りて、御諫争(かんそう)申上げたい事も山々あった。よって一死を以(もっ)てこれを試みんと考えたことも数回あった。彼(か)れや是(こ)れやで、自殺の念は、昨年来往々往来し、実行の方法についても、彼れや是れやと考えて見た。老人のこと(ママ)だから、間違って死損なっては、大恥を掻(か)く事となる。さりとて首を縊(くく)るとか、毒を嚥(の)むとか、鉄道往生とか、海へ飛込むとかいう事は、物笑いの種である。せめて立派な介錯の漢(おとこ)が欲しいと思って、物色したが、遂に心当りの者も見当らず、彼れ是れ思案しているうちに、また考え直した。それは命が惜しい事でもなければ、死が恐わい事でもない。この際死んだとて、それを諫争の為めと受け取る者もなければ、抗議と受け取る者もなく、勿論(もちろん)反省を促すと受け取る者はあるまい。ある者は徳富老人が前非を悔悟して、その罪を謝せんが為めに、自殺したのであろう、あるいはその必勝論が必敗の事実に対し申訳なく、慚愧(ざんき)の余り、自殺したのであろう。あるいはアメリカに、戦争犯罪人として引っ張らるることを憂慮の余り、気が狂うて自殺したのであろう。その他【ろく】でもない、思いもよらぬ沙語(さご)流言の材料を、世の軽薄子に向かって、提供するの外はあるまいと考え、今ではこの際は恥を忍び恥を裏(つつ)み、自分の意見を書き遺(のこ)して、天下後世の公論を俟(ま)つこととしようと考え、ここに自殺の念を翻えしたのは、沖縄陥落後余り久しき後ではなかった。

 蘇峰は1863年3月14日(文久3年1月25日)生まれだから私とちょうど100歳違いだ。終戦時は82歳である。今日読み終えた『海舟語録』にも3~4箇所で徳富の名が出てくる(Kindle版で『私の出会った勝海舟 「食えない親爺」の肖像 現代語訳徳富蘇峰の明治』徳富猪一郎:幕末明治研究会訳がある)。

 読みながら「三島由紀夫に読ませたかった」との思いが沸々(ふつふつ)とわいた。徳富蘇峰は真正面から天皇を批判し、輔弼(ほひつ)を断罪している。これを後出しジャンケンと速断することは難しい。なぜなら、いつ敗戦するかがわからないためだ。蘇峰は最後の最後まで本土決戦を支持した。

 彼の人脈を思えば一介のジャーナリストと同列に論じることはできない。政治家や将校からも様々な情報は入っていたことだろう。ただしそれで戦争全体を見渡せたとは到底思えぬ日本の現状ではあったが。

 例えば徳富蘇峰が堀栄三や小野寺信〈おのでら・まこと〉とつながっていれば日本の事態が変わった可能性はある。大事な人と人とがつながらないところにこの国の不幸があった。

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