2020-09-24

日本政府は破滅に向かって無駄な日々を過ごしていた/『日本のいちばん長い日 決定版』半藤一利


『大本営参謀の情報戦記 情報なき国家の悲劇』堀栄三
『消えたヤルタ密約緊急電 情報士官・小野寺信の孤独な戦い』岡部伸
『二・二六帝都兵乱 軍事的視点から全面的に見直す』藤井非三四

 ・日本政府は破滅に向かって無駄な日々を過ごしていた

『機関銃下の首相官邸 二・二六事件から終戦まで』迫水久恒
『昭和陸軍謀略秘史』岩畔豪雄
『田中清玄自伝』田中清玄、大須賀瑞夫
『陸軍80年 明治建軍から解体まで(皇軍の崩壊 改題)』大谷敬二郎
『徳富蘇峰終戦後日記 『頑蘇夢物語』』徳富蘇峰

日本の近代史を学ぶ
必読書リスト その四

(※ポツダム宣言に対して)結局なにも発表しないのはやはりまずい。かといって、確たることはいえる状態ではない。あたらずさわらずでいこうということになった。発表はするが、とくに国民の戦意を低下させる心配のある文句は削除(さくじょ)する。政府の公式見解は発表しない。新聞にはできるだけ小さく調子をさげて取扱うように指導する。新聞側の観測として、政府はこの宣言を無視するらしいとつけ加えることはさしつかえない。これが政府の報道への方針となった。
 翌28日の新聞は、内閣情報局のこのような指令にしたがって編集され、国民の大多数には、さしたる衝撃もあたえなかった。
 この静観の方針には、はじめは軍部も賛成していた。だが、時間がたつとともに、第一線のまだ元気のいい部隊から「なぜ政府はポツダム宣言に対して、断乎たる反対決意を発表しないのか」という詰問(きつもん)電報がひっきりなしにとどきはじめた。やがて軍中央部も硬化し、このような状態では、とうてい前線の士気は維持できないと主張するようになった。
 なぜなら、内地にいる兵隊は一般国民と同様につんぼ桟敷(さじき)にいるわけだが、前線の将兵は作戦の必要上いろいろの通信機械、ラジオなどをもっているから、敵側の情報もそうとう的確につかんでいる。この降伏勧告を黙って放置したのでは、動揺はまぬがれない、というのであった。
 28日午前におこなわれた政府と大本営の情報交換会議の席上でも、政府はこの宣言に反対であることを明らかにすべきである、と軍部側から強く要望された。
 やむなく、政府は積極的には発表しないけれども、新聞記者の質問に答える形で、意志を表明しようということになった。
 28日午後4時、鈴木首相は記者会見で「ポツダム宣言はカイロ宣言の焼きなおしであるから重要視しない」と、のべた。ところが、重要視云々(うんぬん)をくりかえしているうちに「黙殺」という言葉がでてきてしまった。新聞は29日朝刊でこれを大きくとりあげ、対外放送網を通じて全世界に伝えられた。しかも、ノーコメントの意味であった「黙殺」が、外国に報道されたときに ignore (無視する)となり、さらに外国の新聞では“日本はポツダム宣言を reject (拒絶する)した”となってしまった。このため米国英国の新聞の態度は一変し、その論調は硬化した。これを後で知った東郷外相は激怒し、総理談話は閣議決定に反すると抗議した。しかし、もはや談話の撤回は不可能であった。
 日本は貴重な一日一日を無駄にすごしていたのであった。しかも、すくなくとも一日たてば一日と、日本にとって破滅の色は濃くなるばかりであった。では、このとき、政府はなにを信じて頑張っていたのだろうか。それは、いぜんとして、ソ連を仲介とする和平交渉であったのだ。

【『日本のいちばん長い日 決定版』半藤一利〈はんどう・かずとし〉(文春文庫、2006年/文藝春秋新社、1965年、大宅壮一〈おおや・そういち〉編『日本のいちばん長い日 運命の八月十五日』/角川文庫、1973年/文藝春秋、1995年、半藤一利『日本のいちばん長い日 運命の八月十五日 決定版』)】

 元は文藝春秋の「戦史研究会」が企画、資料収集しまとめたものを大宅壮一のビッグネームで出版したもの。上記テキストは大宅編で半藤版はかなり手が入っている。読み比べるのも一興であろう。ただし角川文庫版は紙質が悪く活字も小さい。

「ともかく、これで戦争をやめる見通しがついたわけだね。それだけでもよしとしなければならないと思う。いろいろ議論の余地もあろうが、原則として受諾するほかはあるまいのではないか。受諾しないとすれば戦争を継続することになる。これ以上、国民を苦しめるわけにはいかない」(半藤一利版)

 この大御心(おおみごころ)が政府首脳には伝わらなかった。国体護持の熱誠ゆえに意見が割れた。『日本のいちばん長い日』とは昭和20年(1945年)8月15日を指す。正午の玉音放送に至るまでの24時間を綴る。その意味では元祖『24 -TWENTY FOUR-』と言っていいかもしれぬ。目次が秀逸だ。

  序(大宅壮一)

  プロローグ
正午――午後一時 “わが屍を越えてゆけ”  阿南陸相はいった
午後一時――二時 “録音放送にきまった”  下村総裁はいった
午後二時――三時 “軍は自分が責任をもってまとめる”  米内海相はいった
午後三時――四時 “永田鉄山の二の舞だぞ”  田中軍司令官はいった
午後四時――五時 “どうせ明日は死ぬ身だ”  井田中佐はいった
午後五時――六時 “近衛師団に不穏の計画があるが”  近衛公爵はいった
午後六時――七時 “時が時だから自重せねばいかん”  蓮沼武官長はいった
午後七時――八時 “軍の決定になんら裏はない”  荒尾軍事課長はいった
午後八時――九時 “小官は断乎抗戦を継続する”  小薗司令はいった
午後九時――十時 “師団命令を書いてくれ”  芳賀連隊長はいった
午後十時――十一時 “斬る覚悟でなければ成功しない”  畑中少佐はいった
午後十一時――十二時 “とにかく無事にすべては終わった”  東郷外相はいった
十五日零時――午前一時 “それでも貴様たちは男か”  佐々木大尉はいった
午前一時――二時 “東部軍に何をせよというのか”  高嶋参謀長はいった
午前二時――三時 “二・二六のときと同じだね”  石渡宮相はいった
午前三時――四時 “いまになって騒いでなんになる”  木戸内府はいった
午前四時――五時 “斬っても何もならんだろう”  徳川侍従はいった
午前五時――六時 “御文庫に兵隊が入ってくる”  戸田侍従はいった
午前六時――七時 “兵に私の心をいってきかせよう”  天皇はいわれた
午前七時――八時 “謹んで玉音を拝しますよう”  館野放送員はいった
午前八時――九時 “これからは老人の出る幕ではないな”  鈴木首相はいった
午前九時――十時 “その二人を至急取押さえろ!”  塚本憲兵中佐はいった
午前十時――十一時 “これから放送局へ行きます”  加藤局長はいった
午前十一時――正午 “ただいまより重大な放送があります”  和田放送員はいった
  エピローグ

  あとがき

 白眉はポツダム宣言受諾の御聖断と宮城事件である。

 明治・大正で青年に育った近代日本は昭和に入り分裂症(統合失調症)状態となる。右脳と左脳の均衡が崩れ、右脳から天の声が聞こえるような有り様だった。その要因は会津戦争(1868年/明治元年)にあったと私は考える。そもそも尊皇の総本山ともいうべき会津藩が逆賊になることがおかしいのだ。あの悲惨が近代化のために不可欠であったとは到底思えない(『ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書』石光真人)。戊辰戦争の負け組は欧州で虐げられたユダヤ人のような感情を抱いたことだろう。大正デモクラシー~社会主義思想~昭和維新の流れは抑圧された東北のエスと言ってよい。小室直樹は三島理論から「阿頼耶(アーラヤ)識」としたが、フロイト理論のエスの方が相応しいように思う。抑圧された感情が消えることはない。娘の身売りが多かった東北で一気に心理的抑圧が噴出したのだろう。

 大東亜戦争の印象を一言でいえば「ズルズル行ってダラダラ終わった」ことになろうか。欧米の帝国主義を打ち破り、世界中の植民地解放に道を拓いた世界史的功績を否定するつもりは毛頭ないが、負けた戦争をきちんと振り返らなければ日本の再生はないだろう。東京裁判を否定する声は多いが、本気で戦争責任を追求する人は皆無だ。切腹した人々は立派であった。

 岡部伸〈おかべ・のぶる〉著『消えたヤルタ密約緊急電 情報士官・小野寺信の孤独な戦い』を先に読めば、断腸の思いに駆られる。ヤルタ会談(1945年〈昭和20年〉2月4~11日)では、ドイツ降伏から3ヶ月後にソ連が対日戦に加わる密約が交わされた。小野寺信は直後の2月半ばにこの情報を本国に打電した。ところがソ連の仲介による和平工作に傾いていた参謀本部は小野寺情報を握り潰した。その事実を小野寺本人が知ったのは実に38年後のことである。

 2発目の原子爆弾が長崎に落ちたまさにその時、日本の首脳は相変わらず結論の出ない会議を続けていた。

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