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2022-02-16

視覚というインターフェース/『世界はありのままに見ることができない なぜ進化は私たちを真実から遠ざけたのか』ドナルド・ホフマン


『錯視芸術の巨匠たち 世界のだまし絵作家20人の傑作集』アル・セッケル
『46年目の光 視力を取り戻した男の奇跡の人生』ロバート・カーソン
・『脳は美をいかに感じるか ピカソやモネが見た世界』セミール・ゼキ
『「見る」とはどういうことか 脳と心の関係をさぐる』藤田一郎
・『もうひとつの視覚 〈見えない視覚〉はどのように発見されたか』メルヴィン・グッデイル、デイヴィッド・ミルナー

 ・視覚というインターフェース

『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』トール・ノーレットランダーシュ
『ポスト・ヒューマン誕生 コンピュータが人類の知性を超えるとき』レイ・カーツワイル

必読書リスト その五

 実在に関する真実を告知しないのなら、知覚はどうして有用でありうるのか? いかに私たちの生存に資するのか? 直観を導いてくれるたとえ(メタファー)を用いて説明しよう。あなたが編集しているファイルは、デスクトップ画面の中央に青い長方形のアイコンで示されていたとする。この事実は、そのファイル自体が青く、長方形をし、コンピューターの中央部に存在していることを意味するのか? もちろんそうではない。アイコンの色はファイルの色ではない。それには色などなく、アイコンの形や位置は、ファイルの真の形や位置を示しているのではない。そもそも形、位置、色に関する言葉は、コンピューター上のファイルを記述することなどできない。
 デスクトップインターフェース[この例ではデスクトップ画面を指す]の目的は、利用者にコンピューターの「真実」を開示することにあるのではない。ちなみに、このたとえでの「真実」とは、電子回路や電圧や一連のソフトウェアを指す。むしろインターフェース[インターフェースについては訳者あとがき参照]の目的は、「真実」を隠して、Eメールを書く、画像を編集するなどといった有用な作業がしやすくなるよう、単純な図解(グラフィック)を提示することにある。Eメールを書くために自分で電圧を調節しなければならなかったら、あなたが書いたEメールが友人のもとに届くことは決してないだろう。
 これは進化がなし遂げた仕事である。つまり進化は、真実を隠して、子孫を生み育てるのに十分なだけ生存するために必要とされる単純なアイコンを表示する感覚作用を私たちに与えてくれたのだ。周囲を見渡したときにあなたが知覚する空間は三次元のデスクトップ画面であり、リンゴやヘビやその他の物体は、この三次元デスクトップ画面上のアイコンにすぎない。それらのアイコンが有用である理由の一つは、実在の持つ複雑さを隠蔽してくれるからだ。

【『世界はありのままに見ることができない なぜ進化は私たちを真実から遠ざけたのか』ドナルド・ホフマン:高橋洋〈たかはし・ひろし〉訳(青土社、2020年/原書、2019年)】

 つまり感覚が捉えているのは「シンボル」に過ぎないというわけだ。中々スリリングなアイディアだ。私にとっては意外でも何でもない。なぜなら視覚は種(しゅ)によって全く違う世界が現れる。同じものの姿が違うのだ。


 視覚は種にとって有益な情報を取捨選択するように進化したのだろう。

 英単語の「Interface」の直訳は「境界面」「接点」であり、ビジネス用語の「インターフェース」はここから「異なる2つのものを仲介する」という意味で使われます。

「インターフェース」ってどういう意味? わかりやすい使い方と例文

 我々が視覚情報を絶対視してしまうのは触覚など別の感覚によって補強できるためだ。世界と接触した時の感覚全てがインターフェースに過ぎないと考えれば、我々が「ありのままの世界」を認識することは不可能であることが理解できよう。

 世界は感覚の中に存在すると考えたのが唯識(ゆいしき)である。しかしこれだと世界=インターフェースとなってしまう。むしろ感覚は世界を知る手掛かりと考えるべきだろう。

2021-07-20

視界は補正され、編輯を加える/『「見る」とはどういうことか 脳と心の関係をさぐる』藤田一郎


『46年目の光 視力を取り戻した男の奇跡の人生』ロバート・カーソン
『錯視芸術の巨匠たち 世界のだまし絵作家20人の傑作集』アル・セッケル

 ・視界は補正され、編輯を加える

『世界はありのままに見ることができない なぜ進化は私たちを真実から遠ざけたのか』ドナルド・ホフマン
『瞑想と自然』J・クリシュナムルティ
『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー 3 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ

 ものが目に映り、像が網膜の細胞に捉えられた段階で、何が見えるかが決まり、それが私たちの意識にのぼるのであれば、目に映った像がものの見え方を決めるはずである。ところが、この章のさまざまな例で示してきたように、目に映った像がすべてを決めているのではないのである。
 目に映っているものは同心円なのに見えるものはらせん模様であったり、同じ印刷がなされているものがちがった色や明るさに見えたり、何も描かれていないものが見えたり、目の前にあるものが見えなかったりする。これらのことは、眼底に映った外界像を網膜の細胞がとら(ママ)えて生体電気信号に変換した時点で、「見える」という知覚が生まれているのではないことを示している。網膜から電気信号が脳に送られ、脳の中で再処理され、その結果生成された電気信号が私たちの知覚意識のもとになっている。見ることも、ほかの心のできごとと同様に脳によって担われている。
 見ることは、しばしば、カメラで写真を撮ることに誤ってたとえられている。目で起きていることを、光がカメラのフィルムやデジカメのCCD素子にとらえることにたとえるのは的外れではない。外界世界が網膜に像を結ぶ過程は、純粋な光学過程である。そして投影された光の強度と波長にもとづいて、視細胞にイオンの流れすなわち電気反応を起こす。ここまでは、カメラと本質は変わらない。カメラにおいても、レンズを介してフィルムに像を結び、化学反応により像は焼きつけられるのである。
 しかし、ものを見ることの本質は、そうやって網膜でとらえられた光情報にもとづいて、外界の様子を脳の中で復元することである。その復元されたものを私たちは主観的に感じ、また、復元されたものにもとづいて行動するのである。

【『「見る」とはどういうことか 脳と心の関係をさぐる』藤田一郎〈ふじた・いちろう〉(化学同人、2007年)】

「DOJIN選書」の一冊。後半が難解で挫けた。それでも前半の内容だけで教科書本としておく。

「同心円が螺旋模様に見える」というのはフレーザー錯視のこと。ま、百聞は一見に如かずだ。ご覧いただこう。


 今まで結構な量の錯視画像を見てきたが最も衝撃を受けた一つである(1位は「妻と義母」)。視界は補正され、編輯(へんしゅう)を加える。我々は五官情報をそのまま受け取ることができないのだ。あらゆる情報は「読み解かれる」。人は想念の中で生きる。

 天台宗では十界(じっかい)を説く。生命の諸相を十種類に分けたものだ。人は外界の縁に触れて様々な生命の状態を表す。因→縁→果→報という推移が瞬間瞬間展開されてゆくのが生活とも人生とも言い得る。その果を法界(≒世界)と捉えたところに天台宗の卓見がある。固定した性格ではなくチャンネルや周波数のように見つめるのだ。

 例えば自分の人生を映画さながらに見つめることは可能だろうか? 自分が怒られたとか、傷ついたとか、落ち込んだとか、嫉妬したとか、マイナス感情の虜(とりこ)になる時、人は我を失う。それどころか卑屈になった心は妄想に取り憑かれ、憎悪や怒りが増幅されてゆく。

 見ることは簡単だ。だが、ありのままに見ることは難しい。

2009-02-14

人間が認識しているのは0.5秒前の世界/『進化しすぎた脳 中高生と語る〔大脳生理学〕の最前線』池谷裕二


『脳は奇跡を起こす』ノーマン・ドイジ
『脳はいかに治癒をもたらすか 神経可塑性研究の最前線』ノーマン・ドイジ
『唯脳論』養老孟司

 ・世界よりも眼が先
 ・人間が認識しているのは0.5秒前の世界
 ・フィードバックとは

『脳はなにかと言い訳する 人は幸せになるようにできていた!?』池谷裕二
『できない脳ほど自信過剰 パテカトルの万脳薬』池谷裕二

必読書リスト その三

 知覚に誤差があるのは何となく理解できるだろう。光や音のスピード、はたまた神経回路を伝わる時間差など。だが、よもや0.5秒もずれているとは思わなかった。

 もっと言っちゃうとね、文字を読んだり、人の話した言葉を理解したり、そういうより高度な機能が関わってくると、もっともっと処理に時間がかかる。文字や言葉が目や耳に入ってきてから、ちゃんと情報処理ができるまでに、すくなくとも0.1秒、通常0.5秒くらいかかると言われている。
 だから、いまこうやって世の中がきみらの前に存在しているでしょ。僕がしゃべったことを聞いて理解しているでしょ。自分がまさに〈いま〉に生きているような気がするじゃない? だけど、それはウソで、〈いま〉と感じている時間は0.5秒前の世界なんだ。つまり、人間は過去に生きていることになるんだ。人生、後ろ向きなんだね(笑)。

【『進化しすぎた脳 中高生と語る〔大脳生理学〕の最前線』池谷裕二(朝日出版社、2004年)】

 知覚された情報は過去のものだが、意識は常に「現在」という座標軸に固定されている。例えば、我々が見ている北極星の光は430年前のものだが、光は年をとらない。そして意識は未来へと向かって開かれている。

 それにしても、0.5秒という誤差は驚くべきものだ。宇宙が生まれたのは137億年前だと考えられているが、刹那と久遠のはざ間に時間の本質が隠されている。

 しかも、トール・ノーレットランダーシュの『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』(紀伊國屋書店、2002年)によれば、意識が生じる0.5秒前から脳内では準備電位が現れるという。とすると、本当のリアルを生きているのは無意識ということになるのか。

物語る行為の意味/『物語の哲学』野家啓一