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2022-01-07

羽生世代の真実/『まわり将棋は技術だ 先崎学の浮いたり沈んだり2』先崎学


『真剣師 小池重明 “新宿の殺し屋"と呼ばれた将棋ギャンブラーの生涯』団鬼六
『将棋の子』大崎善生
『傑作将棋アンソロジー 棋士という人生』大崎善生編
『聖(さとし)の青春』大崎善生
『一葉の写真』先崎学
『フフフの歩』先崎学
『先崎学の浮いたり沈んだり』先崎学

 ・羽生世代の真実

・『山手線内回りのゲリラ 先崎学の浮いたり沈んだり』先崎学
・『証言 羽生世代』大川慎太郎

 はっきり書くが、私は四段になった時、嬉しさはほとんどなかった。一所懸命に勉強を続けていれば、必ず通過できるステップに過ぎないと考えていた。むしろ、佐藤、森内に先に昇段されていた口惜しさで一杯だった。
 他人のことだから分らないが、おそらく私以外の奴も同じだったろう。郷田はちょっと苦労したから違うかもしれないが、他の4人(※羽生、森内、佐藤、先崎)にとって、四段というのは登らなければいけない岩場の中のちょっとした難所ぐらいにしか思っていなかった。
 かといって名人が目標だったわけではない。7冠王でもない。金でも地位でもない。世俗的なものではなかったのである。
 こいつらだけには負けたくない。それが若きころの我々のすべてだった。もっといえば、こいつらにさえ勝てれば日本一になれるという気持もあったかもしれない。
 それだけ認めた相手だから、打ち負かすためには自分を磨くしかない。生半可な付け焼き刃ではない、しっかりとした地力をつける必要があった。互いに強烈に意識しあい、そして自らを高めあったことで今の私たちがあるのである。
 ひとつそこで問題なのは、まわりから見ると今の我々は仲が良さそうに見えることである。だからこの記者の方のような感覚を持つ人がいるのかもしれない。だが決して我々は親友というわけではないのである。

【『まわり将棋は技術だ 先崎学の浮いたり沈んだり2』先崎学〈せんざき・まなぶ〉(文藝春秋、2003年)以下同】

 普段は面白おかしい文章を書く先崎が本気の反論を認(したた)めている。彼を怒らせたのは将棋専門誌の記事だった。ジャーナリストという人種は所詮外野である。プレイヤーの苦闘よりも、わかりやすい戦績や順位に興味が向く。特に顕著なのはスポーツ紙で、アスリートに巣食う寄生虫が時に選手生命を左右することもある。例えば大リーグ移籍を発表した際の野茂バッシングなど。ダニはダニらしく鳴かずに寄生していればいいのだ。

 上記テキストは『週刊文春』の翌週号に続く。

 羽生、森内、佐藤、そして不肖先崎。我々は勝負の世界のトップを争う人間としては仲が良い。すくなくとも互いに嫌悪感はない。
 このことを考える時は、まず皆さんが将棋(あるいは他のゲーム)において最高の友人とはどのような人間かということを考えて頂きたい。
 答えは単純。気持よく将棋が指せることと、自分が負かした時にいかに気持いいか、あるいはいかに相手が口惜しがってくれるかということだ。
 これが最高の棋友の条件である。他は、地位も私生活も関係がない。これだけあればよい。それがゲームを通じた友人のよいところなのだ。
 まず我々は、奨励会のころ、あるいはもっと前から、お互いのことを完全に認めあった。前回書いたように、こいつらを負かすことが常に目標であり続け、それを果たせば日本一になれると思って修業して来たのである。
 だから、我々の関係というのは、あくまでも棋友である。そして最高の棋友である。将棋の盤上以外で何を考えようが、何をしようが、どうでもよい。そういう付き合いを心がけてきた。仲が良く見えるとしたら、そういう部分に綺麗なこころがあるからだろう。

 傍(はた)から眺めているだけではわからぬ世界があるのだ。想像力や惻隠の情が働かなくなれば合理で割り切る不毛な砂の世界が現れるだろう。

 思春期の、男として一番悶々とする遊びたい盛りに、我々は将棋を勉強し続けた。それもこれも互いに負けたくない一心があったからだ。
 競争世界に殉じる。それが我々の青春だった。
 もちろん楽しいことばかりではない。せつない気持になる時もあった。だが分ってくれる人は皮肉なことにライバルしかいなかった。よく皆で遊んだ。仲も良かった。旅行も行った。
 将棋というのは良い相手がいないと良い棋譜もできないし、充実した時間を過ごせない。そういう理屈を子供のころから持つことができたのは、信じられないくらいにそれぞれにとって幸運なことだったろう。

 何かに打ち込むことは別の何かを犠牲にすることでもある。厳しい世界であるほど犠牲にするものは大きい。少年時代から親元を離れることは修行に等しい。最高峰に吹く強靭な風や身を苛(さいな)むような寒さは、そこへ辿り着いた者にしかわからない。しかもエベレスト同様、死屍累々の世界なのだ。

 得た何かと失った何かを天秤(てんびん)にかけるのは凡人の習いである。迷いなく己(おの)が道を選ぶのが一流の証拠なのだ。

村山聖 vs. 小池重明/『聖(さとし)の青春』大崎善生


『真剣師 小池重明 “新宿の殺し屋"と呼ばれた将棋ギャンブラーの生涯』団鬼六
『将棋の子』大崎善生
『傑作将棋アンソロジー 棋士という人生』大崎善生編

 ・村山聖 vs. 小池重明

『フフフの歩』先崎学
『先崎学の浮いたり沈んだり』先崎学
『まわり将棋は技術だ 先崎学の浮いたり沈んだり2』先崎学
・『山手線内回りのゲリラ 先崎学の浮いたり沈んだり』先崎学

 もう道場に聖の相手はいなかった。帰り支度(じたく)をしていると、玄関のドアが開き、一人の巨漢(きょかん)がふらりと店に入ってきた。聖に負かされたアマ強豪たちの眼が一斉にその男に注がれ、こころなしか皆の表情が明るくなったように思えた。
「彼ならこのむやみに強い中学生をやっつけてくれる」
 注がれた視線がそう言っていた。
 その巨漢こそは小池重明〈こいけ・しげあき〉その人だった。
 真剣師(しんけんし)として全国にその名をとどろきわたらせていた小池は、昭和55年にアマ名人戦にはじめて参加し圧倒的な強さで優勝、そして翌年も優勝をさらい2連覇の偉業を成し遂げていた。またアマプロ戦にも引っ張りだこで、しかもプロを相手に優に勝ち越すという驚異的な強さを誇っていた。その小池がふらりと西日暮里将棋センターに顔を出したのである。
 席主から話を聞いた小池はにこやかに聖に近づいてきた、そして「僕、強いんだなあ」と言った。
 聖も小池のことは「将棋世界」で知っていた。プロにいちばん近い、いやプロすらも恐れ一目置く存在であることも知っていた。
「一局やろう」とぶっきらぼうに小池が言った。もちろん聖に依存はなかった。
 何も言わずにコックリとうなずいてみせた。
 二人の対局をギャラリーがぐるりと取り囲んだ。その輪の外から伸一も固唾(かたず)をので見守った。
 大きすぎる体を丸めるように一心不乱に将棋盤に向かう小池には何ともいえぬ雰囲気があった。やはり強豪といわれる人間にはオーラのようなものがあるんだなあと、伸一は妙に感心した。
 将棋は小池の振り飛車穴熊に聖が果敢に急戦を仕掛けていった。決まったかに見えた聖の攻めをギリギリのところで小池が凌(しの)ぎ、そして小池の反撃を聖がいなしながら王様を逃げ回すという激戦になった。初心者の伸一が見ていても手に汗握る熱局だった。
 小池の指先に力がこもっている。聖も気合よく駒を打ちつけ少しもそれに負けていない。
 長い長い戦いを制したのは中学生の聖だった。小池が投了した瞬間、取り囲むギャラリーの肩の力がスーッと抜けたように思えた。伸一も知らず知らずのうちにホーッとため息を一つついた。
「僕、強いなあ」と小池は敗戦に何ら悪びれることなく聖を称(たた)えた。先ほどまで鬼のような形相が嘘のように、にこやかになっていた。
「はあ」と聖は少し照れたように笑った。
「がんばれよ」と小池は聖をやさしく励ました。
 道場でのオープン戦とはいえ、向かうところ敵なしと恐れられていた小池重明に買ったことが聖にもたらした自信は計りしれないものがあった。

【『聖(さとし)の青春』大崎善生〈おおさき・よしお〉(講談社、2000年講談社青い鳥文庫、2003年講談社文庫、2002年/角川文庫、2015年)】

 村山聖〈むらやま・さとし〉はネフローゼを発症後、6歳で将棋を始める。小学4年でアマ4段。11歳で中国こども名人戦優勝。小学6年の時に森安秀光と飛車落ちで対局。勝利を収めた。

 よもや小池重明が登場するとは思わなんだ。小池は外道である。だが、ただの外道ではない。角落ちで大山康晴(当時王将)に勝ったことがあるのだ。その小池を中学生の村山が退けたというのだから凄い。

 全体を通して異様な臨場感があるのは大崎が近くで村山を見てきたためだ。上京した時は住む場所まで一緒に探している。

 村山には見えない海を見ていた羽生は、羽生には見えない海を見る村山に畏敬(いけい)の念を抱いていた。
 センス、感覚、本能。羽生が語る村山将棋の特長は経験や努力では埋(う)められないものばかりである。
「村山さんはいつも全力をつくして、いい将棋を指したと思います。言葉だけじゃなく、ほんとうに命がけで将棋を指しているといつも感じていました」と羽生は言う。

 村山が逝去した翌日に羽生は広島の地へ飛んだという。葬儀云々ではなく、ただ駆けつけたかったのだろう。更に羽生はその後も「村山聖様」宛の年賀状を出し続けているという(孤高の天才・羽生善治と村山聖が結んだ「特別な関係」)。天才同士が散らせる火花の交流は天才にしかわからない。実際の二人は少し遠慮がちな関係性だった。つまり羽生と村山の友情は盤上に咲いたのだ。

 村山聖は彗星の如く駆け抜けたが、月光のように棋界を照らした。彼は病に斃(たお)れた。しかし病に負けたわけではなかった。名人になる夢も潰(つい)えた。だが彼は村山聖であった。

 尚、余談となるが講談社文庫は活字が読みにくいので角川文庫をお勧めしておく。

   

2022-01-06

死を賭した村山聖の将棋/『フフフの歩』先崎学


『将棋の子』大崎善生
『傑作将棋アンソロジー 棋士という人生』大崎善生編
『聖(さとし)の青春』大崎善生

 ・死を賭した村山聖の将棋

『一葉の写真』先崎学
『先崎学の浮いたり沈んだり』先崎学
『まわり将棋は技術だ 先崎学の浮いたり沈んだり2』先崎学
・『山手線内回りのゲリラ 先崎学の浮いたり沈んだり』先崎学

 大阪で、偶然に、村山-丸山の順位戦を観る機会に恵まれた。
 村山聖は、王将リーグで羽生と戦った頃の村山に、あるいは終盤は村山に訊けといわれた頃の村山に戻れるかというのが、最近の僕の関心事の一つだった。そのためには、まず充分な休養が大事であると考えられた。村山君は、元々体は弱いのだが、最近は特に悪化して、6月の中旬に手術をした。8時間半にも及んだ。生命も危ぶまれたほどの大手術だった。
 当然、半年なり1年なり休養して、体力の恢復にあてる。これが常識である。誰しもがそう思った。
 だが彼は順位戦を指すといいはった。噂では、入院中の棋譜が手に入らないか、との打診があったときく。身内、医者は正気の沙汰ではないと止めた。この常識以前の正論を彼はきかなかった。
 緒戦の中村戦を指すときいたとき、書きにくいことを書いてしまえば、彼は死ぬ気だな、と思った。将棋盤の前で、死んでも悔いはないんだろうなと思った。8時間半の手術をしようという人間が、深夜に及ぶ順位戦を指すのは、生理学上無理があることは本人が一番よく知っているだろう。
 村山君は中村さんに快勝した。矢倉のお手本ともいえる攻めが決まった。丸山戦は術後の初戦である。
 順位戦は、彼にとって、特別な棋戦である。よく、医者に止められている酒を飲んで酔っぱらったとき「はやく将棋をやめたい」ということがあった。この言葉の上には「名人になって」という冠が隠されている。名人になることだけが彼の望みであり夢なのである。
 1年、いや半年でも休めば、名人になるのが1年遅れる。普通の人にとってはたかが1年でも、小学生の頃から正月の度に、来年の正月まで生きられますようにと祈った彼にとっては絶望的な長さだろう。
 広い部屋に対局は一局だけだった。控の間には看護婦さんが、万が一のために待機していた。(中略)
 最後は33手詰め、村山君にはツキがなかった。終了は1時43分。
 感想戦は一言もなし。村山君の顔は見るに忍びなかった。
 いいものを見た、と思った。無神論者の僕だが、あの状態で、あれだけの将棋を指す奴を、将棋の神様が見捨てる訳がない。本心からそう思えてならなかった。

【『フフフの歩』先崎学〈せんざき・まなぶ〉(講談社文庫、2001年/日本将棋連盟、1997年『世界は右に回る 将棋指しの優雅な日々』の増補改訂版)】

 村山聖が進行性膀胱癌の手術をしたのは1997年6月のこと。脳に悪影響が出ることを避けるために抗癌剤や放射線治療を拒否した。壮絶な痛みに耐えて、翌年8月に逝去した。




 先崎は少年時代、羽生世代で一番の実力者であった。タイトルこそ獲ってないものの実力者であることに変わりはない。小学校5年生で奨励会入り。米長邦雄に弟子入りし、住み込み生活が始まる。同門に林葉直子がいる。先崎はエッセイで意図的に彼らの近い距離を表現しているのだろう。羽生は必ず呼び捨てで、佐藤康光はモテ光など。上記テキストも「村山君」と書くことで、親しい者をも感動させた将棋内容が素人にもよく伝わってくる。

「命懸け」という言葉はあるが、実際に命を懸けることはまずない。村山聖は将棋という戦場を命懸けで走った。それだけのものが将棋という世界にはあるのだろう。彼は名人位以上の何かを棋界に残して去った。

村山聖/『先崎学の浮いたり沈んだり』先崎学


『将棋の子』大崎善生
『傑作将棋アンソロジー 棋士という人生』大崎善生編
『聖(さとし)の青春』大崎善生
『一葉の写真』先崎学
『フフフの歩』先崎学

 ・行間から滴り落ちる毒
 ・村山聖

『まわり将棋は技術だ 先崎学の浮いたり沈んだり2』先崎学
・『山手線内回りのゲリラ 先崎学の浮いたり沈んだり』先崎学

 村山は、友人としても充分に魅力がある男だったが、やはり同じ将棋指しとしても、大いなる魅力を周りに発散しつづけた。彼と将棋の話をする時間は、私のお気に入りの時間であった。どんなに抽象的な話もどんなに具体的な話も彼の手にかかれば、ふうむと唸らせる答えが引き出された。インスピレーションをすぐに言葉にできる人間だった。病気と闘った彼のことはあまり知らないが、将棋に対したときの彼は、指す時はもちろん、他人の棋譜を研究する時も、常に真摯だった。だから、彼の将棋は一級品だったし、きっと骨の髄まで村山聖は将棋指しだった。
 そんな村山の指した将棋が、この度、『村山聖名局譜』として日本将棋連盟からまとめられた。数多い彼の実戦から、とくに内容が良いものを10局、厳選した本である。
 解説は羽生と不詳私が対話形式でつけた。(中略)
 そこから羽生と二人でなんとか10局にした。他人の将棋を語るのは気が重い。ましてや故人の棋譜ともなればなおさらである。うかつなことはいえない。対局者は反論できないところにいってしまったのである。
「大丈夫かなあ」と羽生にいうと、
「大丈夫、大丈夫」とニッコリ笑っていわれた。こういう時は彼の楽観的な性格に救われる気持になる。
 羽生のいう通りで、私の心配は杞憂だった。二人はなにかに取り憑かれたかのように喋りまくり、共同研究は信じられないようなスピードではかどった。夜がふけても我々は疲れを感じなかった。
 結論は何度か修正されもした。完全なものであるはずもないが、我々としては最善を尽くしたつもりのものになった。
 将棋指しが残すのは、つまるところ棋譜だけである。そして棋譜には、棋士の感受性が表現される。
 村山将棋は、駒が前に出る、元気良い、明るい将棋だった。そして、時折意表を突く奇手が出た。そして、村山聖という男も、そういう男だった。

【『先崎学の浮いたり沈んだり』先崎学〈せんざき・まなぶ〉(文藝春秋、2002年/文春文庫、2004年)】

『聖(さとし)の青春』は二度挫折している。大崎善生の文章は好きなのだが、どうも冒頭の場面がしっくり来なかった。先崎は折に触れて村山聖〈むらやま・さとし〉の思い出を綴っている。それを読んで三度(みたび)開いた。信じ難いことに一度も本を閉じることなく読み終えた。

 死者の思い出は美化される。だが決してそれだけではない。棋士として生き永らえることはプロスポーツ選手よりも難しい。各地域で天才と呼ばれる小学生が奨励会入りし、26歳という年齢制限までに四段(プロ入り)を目指す。四段になれるのは年間4人という狭き門だ。その後は一人ひとりが毎年ペナントレースを行っているような世界で、最下層のフリークラスで10年間、一定の成績を残さなければ自動的にクビとなる。奨励会員にとって誕生日は死刑の宣告が1年早まったことを意味するため、彼らが誕生日を祝うことはない。

 かような厳しい世界にあって現役の棋士のまま死んでいった男がいたのだ。17歳でプロとなった村山は29歳で盤上に命を散らした。そういっても過言ではない。

 

2022-01-03

病と闘う少年の高貴な優しさ/『傑作将棋アンソロジー 棋士という人生』大崎善生編


『真剣師 小池重明 “新宿の殺し屋"と呼ばれた将棋ギャンブラーの生涯』団鬼六
『聖(さとし)の青春』大崎善生
「女性は男性より将棋が弱い」
『将棋の子』大崎善生
『泣き虫しょったんの奇跡 サラリーマンから将棋のプロへ』瀬川晶司

 ・病と闘う少年の高貴な優しさ

・『女流棋士』高橋和
『決断力』羽生善治
『フフフの歩』先崎学
『先崎学の浮いたり沈んだり』先崎学
『まわり将棋は技術だ 先崎学の浮いたり沈んだり2』先崎学
・『赦す人』大崎善生

 今、思い出してみても、まるで天使が舞い降りたような日々であった。
 一昨年の浅い春の日に、私たちの生活の中に突如一人の少年が舞い降りてきた。将棋ファンの9歳の少年は、どこで知ったのか私の妻の熱烈なファンだった。妻は高橋和(やまと)という女流棋士だ。子供のころに交通事故に遇い、何度も手術を繰り返していることを知っていた少年は、手紙の最後に必ず“高橋先生の足が痛くならないようにお祈りしています”と書き添えてくれたものだった。
 その言葉は少年の清潔さと、高貴な優しさに満ち溢(あふ)れていた。

 少年の父親からも、お礼のメールが届いた。そしてその手紙の中で、少年がほとんど快復する見込みのない病気に冒されていることを知らされた。医者からはいつどうなっても覚悟しておけといわれているような状況であることを。
 妻と少年の手紙による交流は桜の季節に盛んなものとなった。妻は旅先から手紙や絵葉書を送り続け、少年は夢を書き付けてきた。まるで形見分けするように、父親から貰(もら)った宝物が次々と我が家に贈られてきたりもした。純白のテディベアやたまごっちなどなど。
 少年は10歳の誕生日を迎え、大きな喜びに包まれた。本人を含めて、誰もがその歳(とし)まで生きることは不可能と考えていたからだ。
 その直後に体調を崩し、最後に悲痛な手紙を妻宛(あて)に送ってきた。大きな乱れた字で、痛いです、助けてくださいと書かれてあり、末尾には最後の力を振り絞って書いたであろう“足が痛くならないようにお祈りしています”の言葉があった。
 それから間もなく少年はこの世を去った。
 わずか3カ月ではあったが、妻と少年の心の交流はまるでひとつの奇跡を見せらているようだった。(守られている  大崎善生)

【『傑作将棋アンソロジー 棋士という人生』大崎善生〈おおさき・よしお〉編(新潮文庫、2016年)以下同】

 妙な音が聞こえた。私が漏らした嗚咽(おえつ)だった。苦しみのどん底で息も絶え絶えに喘(あえ)ぎながらもペンを執る少年の心を想った。高橋女流との交流は生きる糧だったのだろう。生の焔(ほのお)を燃やし尽くすように彼は文章を綴った。いかなる状況にあっても人は人を思うことができるのだ。その立派な生きざまに涙が溢れた。

 高橋女流は四分六分の確率で切迫流産の可能性が高いとの診断が下った。だが彼女は産むことを決意した。

 人の死とは新しい生のための場所を空けることなのだと、誰かから聞かされた。
 いつの日かわが子に伝えようと思う。
 君の場所を空けてくれた優しい少年の話を。10歳までしか行きられなかった少年が君のお母さんを守ってくれていたんだ。臨月を迎え、体重が増加し、おそらく持ちこたえられないのではないかと思われていたお母さんの傷だらけの足は、奇跡的にただの一度も痛むことはなかったんだ。本当に奇跡的に。あの心優しい少年が守ってくれていたんだ。

 人生には少なからず不思議なことがある。それを「豊かさ」と言うのだ。起承を転じる不思議なドラマが確かにある。悲しみが深いほど喜びの大きな人生を歩むことができる。少年の短すぎた一生を悼(いた)むよりも、完全燃焼した人生を寿(ことほ)ぐべきだろう。

2021-11-10

行間から滴り落ちる毒/『先崎学の浮いたり沈んだり』先崎学


『将棋の子』大崎善生
『傑作将棋アンソロジー 棋士という人生』大崎善生編
『聖(さとし)の青春』大崎善生
『一葉の写真』先崎学
『フフフの歩』先崎学

 ・行間から滴り落ちる毒
 ・村山聖

『まわり将棋は技術だ 先崎学の浮いたり沈んだり2』先崎学
・『山手線内回りのゲリラ 先崎学の浮いたり沈んだり』先崎学

 今だから笑って書ける話だが、私は10代前半の頃までかなりのどもりだった。
 どもりには二通りあって、「あ、あ、あ」と最初の言葉を反復してしまうものと、最初の一言が出てこないものに分かれるのだが、私は後者の方で、とくにカ行とタ行ではじまる言葉がてんで駄目だった。
 一発目の一語さえ発音できれば、あとはすらすら喋れるのだが、その一語がなかなか出ない。しかも緊張するとますます出ないというのがこのタイプの特徴で、一人暮らしをはじめた頃、蕎麦屋での注文の時、たぬき、きつね、天ぷらなどがどうしてもいえなかった。お陰で今でも蕎麦は冷たいものが好きである。
 奨励会の頃だからプロ棋戦の記録係を務めるのだが、カ行とタ行の棋士の記録は、できるだけしないようにしていた。「加藤先生、残り何分です」というのが言えないのである。
 だからどうかは分からないが、どちらかというと内向的な少年だった。
 そんな私を救ったのは田中角栄だった。

【『先崎学の浮いたり沈んだり』先崎学〈せんざき・まなぶ〉(文藝春秋、2002年/文春文庫、2004年)以下同】

1分間に200回の腹式呼吸/『火の呼吸!』小山一夫

 田中角栄の自伝を読み、あの雄弁な田中もどもりであった事実を知る。田中は浪曲を歌う時はどもらないことに気づく。話す時も節をつけるようにしたところ、それが後の角栄節を生んだという。田中の体験が光明(こうみょう)となった。

 とはいえ私は浪曲は知らない。だが言葉を出す時に節をつけるというのは、大きなヒントになった。「たぬき蕎麦」というのではなく、「えーとたぬき蕎麦」といえばいいのだ。
 えーと。んーと。いやあ。だからさ。そうねえ。私はこれらの言葉をなるべく使うようにした。
 こういう接続詞を多様すると必然、ややこしく理屈っぽい喋り口になる。その名残りは今も残っていて、お前の話は、中身が無いわりに理屈っぽいといわれる。
 とにかく、私は少しずつ努力した。
 ある日、どもらない自分がいた。それに気付いた時の喜びったらなかった。

 私は将棋ファンではないのだが、次の名解説で先崎の名を知った。


 どもりの片鱗もない見事な解説である。知的な語り口に魅了される。ところがどうだ。エッセイはというと行間から毒が滴り落ちている。こんな面白いエッセイを読んだのは久し振りのことだ。どこか昔の小田嶋隆と同じ匂いがする。

 間もなく読了するのだが、吃音つながりということで紹介した。私は子供の時分から口が達者な方なのだが、他人の言うに言われぬ悩みを知ると自分の狭い世界が広がる。小学校の同級生だった近藤ブー太郎に謝りたくなる。先崎の吃音(きつおん/「どもり」は現在差別用語認定)は青森出身のためかもしれない。東京に来ても雄弁なのは関西の連中くらいだろう。

 先崎は羽生世代である。が、本文で羽生に敬称はつけない。同い年というよりは同レベルの将棋指しとの矜持によるものか。大いに笑わせられる中にも勝負の厳しさをキラリと光る文章で綴っており只者ではない。

2020-07-15

少年時代の出会いが人生を大きく変える/『泣き虫しょったんの奇跡 サラリーマンから将棋のプロへ』瀬川晶司


『将棋の子』大崎善生

 ・少年時代の出会いが人生を大きく変える

『傑作将棋アンソロジー 棋士という人生』大崎善生編
『決断力』羽生善治
『真剣師 小池重明 “新宿の殺し屋"と呼ばれた将棋ギャンブラーの生涯』団鬼六

 試験将棋第一局から1週間ほどがたったある夜。
 会社から帰宅した僕はいつものように、その日に届いた郵便物を母から受け取って自室に入った。いつものように、名前も知らない人からの手紙ばかりに見えた。
 ところが、そのなかに一通、不思議な葉書があった。ドラえもんの絵が大きく印刷された葉書だった。その子どもっぽさに違和感(いわかん)があった。
 誰だろう?
 僕は子どもの頃、ドラえもんが好きだった。そのことを知っている人だろうか。ネクタイをゆるめながら葉書を裏返し、差出人の名を見る。
 あっ。
 葉書をもう一度ひっくり返し、ドラえもんの絵の上に書かれた文字を追う。
「だいじょうぶ。きっとよい道が拓(ひら)かれます」
 いままで心の中で押し殺していたものが、堰(せき)を切ったようにこみ上げてくるものを感じた。嗚咽(おえつ)でのどが震(ふる)え、文面が涙(なみだ)で見えなくなる。それをぬぐっては何度も読み返す。そのたびにまた、新しい涙があふれてくる。
 そうだった。すべては、この人のおかげだった。
 何に対しても自信が持てなかった僕が、自分の意志で歩けるようになったのも、ここまでいろいろなことがあったけれどなんとか生きてきて、いま夢のような大きな舞台(ぶたい)に立つことができたのも。
 もとはといえば、すべてこの人のおかげだった。
 この人に教えられたことを、僕はすっかり忘れていた。いつのまにか僕は、僕でなくなっていた。僕は、僕に戻(もど)ろう。僕は、僕でいいのだから。

【『泣き虫しょったんの奇跡 サラリーマンから将棋のプロへ』瀬川晶司〈せがわ・しょうじ〉(完全版、講談社文庫、2010年/講談社、2006年)】

 プロ編入試験将棋の第一局に敗れた場面から始まる。既に瀬川一人の闘いではなくなっていた。それまでプロ棋士になるためには奨励会という徒弟制度を経て四段になることが決まりであった。しかも26歳という年齢制限があった。少年時代は地元で天才棋士と褒めそやされた綺羅星が次々と夜の闇の中へ消えてゆく世界である。才能だけではプロになれなかった。瀬川晶司は21歳で三段になっていたが惜しくも年齢制限に阻まれた。その瀬川が10年を経て35歳でプロ編入試験に臨んだのだ。

 1944年(昭和19年)に真剣師の花村元司〈はなむら・もとじ〉がプロ入りしているが、当時はまだ奨励会が制度化されていなかった。ま、相撲や歌舞伎みたいな世界と考えてよい。家元制度もよく似ている。要は結果的に実力者を排除するシステムとして機能するところに問題があるのだ。ハゲは相撲取りになれないし、相撲部屋に属さない一匹狼も存在しない。力と技に加えて様式を重んじる世界なのだ。

 瀬川のプロ入りは奨励会制度に風穴を開ける壮挙である。これに失敗すれば古いシステムは寿命を永らえてしまう。将棋ファンは色めき立ち、実力者は固唾を呑んで見守った。その第一局に瀬川は敗れる。絶対に落としてはならない勝負であった。茫然自失の態(てい)で家路に就く記憶も飛んでいた。

 ドラえもんの葉書は小学校時代の恩師が書いたものだった。全く目立たない児童だった瀬川はこの女性教師と出会い大きく変わる。プロ棋士を目指したのもこの先生からの励ましによるものだった。瀬川は初心に返る。

 心の綾(あや)というものは実に不思議だ。理窟(りくつ)だけで人の心は動かない。感情は理性よりも脳の深部に宿る。心の土台をなすのは感情だ。その情は絶えず流れながらも右に左に蛇行する。ここ一番という檜舞台で怖気づいたことは誰にでもあるだろう。失敗に対する恐れや不安が優れば本来の実力は発揮できない。

 瀬川は念願のプロ入りを果たした。タイトルを毛嫌いして長らく手をつけてこなかったことが大いに悔やまれた。尚、恩師からの葉書は動画の中でも紹介されている。




長距離ハイキング/『トレイルズ 「道」を歩くことの哲学』ロバート・ムーア

2019-12-07

捨てる覚悟/『将棋の子』大崎善生


『真剣師 小池重明 “新宿の殺し屋"と呼ばれた将棋ギャンブラーの生涯』団鬼六
『聖(さとし)の青春』大崎善生
「女性は男性より将棋が弱い」

 ・捨てる覚悟

『泣き虫しょったんの奇跡 サラリーマンから将棋のプロへ』瀬川晶司
『傑作将棋アンソロジー 棋士という人生』大崎善生編
『決断力』羽生善治
『フフフの歩』先崎学
『先崎学の浮いたり沈んだり』先崎学
『まわり将棋は技術だ 先崎学の浮いたり沈んだり2』先崎学
・『赦す人』大崎善生

必読書リスト その一

 心の片隅に貼りついてしまったシールのように、剥がそうとしてもなかなか剥がすことのできない一枚の写真がある。
 平成8年3月13日に発行された「週刊将棋」の13面という、あまり目立たない場所にひっそりとそのモノクロ写真は掲載された。
 ダイレクトに胸を衝く、衝撃的な写真だった。それを見た瞬間に私は確かに何かが、たとえば鋭利な硝子(ガラス)の破片が胸に突き刺さったような痛みを覚えた。
 一人のセーター姿の青年ががっくりと首を落として座りこんでいる。場所は東京将棋会館4階の廊下の片隅である。
 青年は膝を抱え腕の中に顔を埋めるようにして、へたりこんでいる。精も根も尽き果て、まるで魂を何ものかに奪われてしまったかのようにうなだれている。その日一日で、まるで大波に弄ばれる小船のようにくるくると変わっていった自分の運命への驚きを隠そうともせず、受け入れることも嚥下(えんか)することもできず、また涙さえ流すこともできずにただ茫然と座りこんでいる。
 その姿をカメラは冷静にとらえていた。
 写真は3月7日に行われた第18回奨励会三段リーグ最終日に写されたもので、被写体は中座真(ちゅうざまこと/現五段)である。

【『将棋の子』大崎善生〈おおさき・よしお〉(講談社、2001年/講談社文庫、2003年)以下同】

『聖の青春』は一度挫折している。もう一度読まねばなるまい(講談社文庫版角川文庫版がある)。

 読みやすく流れるような文章、人と人との出会い、そしてどうしようもない運命。更に講談社文庫という共通点で毛利恒之著『月光の夏』と重なった。もしも「読書が苦手」という若者がいれば、この2冊を読んで感動にのた打ち回れと言っておく。

 ミステリアスな書き出しが巧い。冒頭から惹(ひ)き込まれる。種明かしをするようで恐縮だが画像を見つけたので紹介しよう。


 中座は稚内生まれだという。そして主役ともいうべき成田英二は夕張生まれだ。大崎は中学生の時に札幌の北海道将棋会館で次々と大人たちを打ち負かす小学5年生の天才少年を目撃した。それが成田であった。

 10年間にわたり将棋世界編集長を務め、そして私は退職の決心を固めた。
 どうしても書かなければならないことがあったからである。
 それは、将棋棋士を夢見てそして志半ばで去っていった奨励会退会者たちの物語である。栄光のなかにある多くの棋士たちを見てきたのと同時に、それと正反対の立場でただの一度も注目を浴びることなく将棋界を去っていった大勢の若者たちも見てきた。
 桜が散り、やがて花びらが歩道を埋め尽くし、いつの間にかその花びらさえもどこかに消えていってしまうように、彼らはもう将棋界にはいない。
 彼らの夢はどうしたのだろうか。挫折した夢とうまく折り合って、いきいきと生きているのだろうか。
 私の胸には彼らの残した夢の破片が突き刺さっている。それは時としてちくちくとした痛みとともに、私の心に鮮明に蘇ってくる。あるいは自分自身も彼らの残していった無数の夢の破片とともに生きているのかもしれない。
 その痛みが胸に蘇るたびに私は抑えることのできない衝動に駆られた。
 どうしても、彼らのことを書かなければならない。歩道の上に散り、いつの間にか跡形もなく消えてしまった一枚一枚の花びらたちのことを。
 いや、もっと正直に言おう。
 どうしても書いてみたいのだ。

 捨てる覚悟が傑作を生んだ。それ自体が一つのドラマである。しかも敗れ去って行った者たちの鎮魂歌にとどまっていない。将棋という物差しで測れば彼らは敗北者だが、人としての勝ち負けはまた別なのだ。奨励会の門をくぐった者たちは一切を犠牲にしてただ将棋に打ち込む。そこに掛けたものが大きければ大きいほど去ってゆく時の傷もまた大きくなる。だが将棋だけが人生の全てではない。手負いの虎たちは新たな道を歩み始める。

 私は『聖(さとし)の青春』というタイトルが好きになれなかった。そして『将棋の子』にも同様の思いを抱いた。安直な印象を拭えなかった。ところが330ページ(講談社文庫版)でその意味がわかった時、活字が涙で歪んだ。札幌は私の故郷(ふるさと)である。成田と大崎の交情が望郷の念を掻き立てた。

 それは零落の奇跡でもなければ落魄の人生でもない。若き日に将棋で灯(とも)した松明(たいまつ)の火を決して心で消さなかった者たちの勇気のドラマだ。近頃、才能否定の研究(『究極の鍛錬』ジョフ・コルヴァンなど)が賑々(にぎにぎ)しいが、選ばれし者たちの厳しい世界を知ると、ほんの一握りの人しか登れない高みが確かにあると思わざるを得ない。



先崎学八段(当時)の書評『将棋の子』 - 将棋ペンクラブログ