2022-01-06

死を賭した村山聖の将棋/『フフフの歩』先崎学


『将棋の子』大崎善生
『傑作将棋アンソロジー 棋士という人生』大崎善生編
『聖(さとし)の青春』大崎善生

 ・死を賭した村山聖の将棋

『一葉の写真』先崎学
『先崎学の浮いたり沈んだり』先崎学
『まわり将棋は技術だ 先崎学の浮いたり沈んだり2』先崎学
・『山手線内回りのゲリラ 先崎学の浮いたり沈んだり』先崎学

 大阪で、偶然に、村山-丸山の順位戦を観る機会に恵まれた。
 村山聖は、王将リーグで羽生と戦った頃の村山に、あるいは終盤は村山に訊けといわれた頃の村山に戻れるかというのが、最近の僕の関心事の一つだった。そのためには、まず充分な休養が大事であると考えられた。村山君は、元々体は弱いのだが、最近は特に悪化して、6月の中旬に手術をした。8時間半にも及んだ。生命も危ぶまれたほどの大手術だった。
 当然、半年なり1年なり休養して、体力の恢復にあてる。これが常識である。誰しもがそう思った。
 だが彼は順位戦を指すといいはった。噂では、入院中の棋譜が手に入らないか、との打診があったときく。身内、医者は正気の沙汰ではないと止めた。この常識以前の正論を彼はきかなかった。
 緒戦の中村戦を指すときいたとき、書きにくいことを書いてしまえば、彼は死ぬ気だな、と思った。将棋盤の前で、死んでも悔いはないんだろうなと思った。8時間半の手術をしようという人間が、深夜に及ぶ順位戦を指すのは、生理学上無理があることは本人が一番よく知っているだろう。
 村山君は中村さんに快勝した。矢倉のお手本ともいえる攻めが決まった。丸山戦は術後の初戦である。
 順位戦は、彼にとって、特別な棋戦である。よく、医者に止められている酒を飲んで酔っぱらったとき「はやく将棋をやめたい」ということがあった。この言葉の上には「名人になって」という冠が隠されている。名人になることだけが彼の望みであり夢なのである。
 1年、いや半年でも休めば、名人になるのが1年遅れる。普通の人にとってはたかが1年でも、小学生の頃から正月の度に、来年の正月まで生きられますようにと祈った彼にとっては絶望的な長さだろう。
 広い部屋に対局は一局だけだった。控の間には看護婦さんが、万が一のために待機していた。(中略)
 最後は33手詰め、村山君にはツキがなかった。終了は1時43分。
 感想戦は一言もなし。村山君の顔は見るに忍びなかった。
 いいものを見た、と思った。無神論者の僕だが、あの状態で、あれだけの将棋を指す奴を、将棋の神様が見捨てる訳がない。本心からそう思えてならなかった。

【『フフフの歩』先崎学〈せんざき・まなぶ〉(講談社文庫、2001年/日本将棋連盟、1997年『世界は右に回る 将棋指しの優雅な日々』の増補改訂版)】

 村山聖が進行性膀胱癌の手術をしたのは1997年6月のこと。脳に悪影響が出ることを避けるために抗癌剤や放射線治療を拒否した。壮絶な痛みに耐えて、翌年8月に逝去した。




 先崎は少年時代、羽生世代で一番の実力者であった。タイトルこそ獲ってないものの実力者であることに変わりはない。小学校5年生で奨励会入り。米長邦雄に弟子入りし、住み込み生活が始まる。同門に林葉直子がいる。先崎はエッセイで意図的に彼らの近い距離を表現しているのだろう。羽生は必ず呼び捨てで、佐藤康光はモテ光など。上記テキストも「村山君」と書くことで、親しい者をも感動させた将棋内容が素人にもよく伝わってくる。

「命懸け」という言葉はあるが、実際に命を懸けることはまずない。村山聖は将棋という戦場を命懸けで走った。それだけのものが将棋という世界にはあるのだろう。彼は名人位以上の何かを棋界に残して去った。

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