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2021-10-17

アメリカの軍事予算削減を補う目的で平和安全法制が制定された/『日本人が知らない地政学が教えるこの国の進路』菅沼光弘


『この世界でいま本当に起きていること』中丸薫、菅沼光弘 2013年
『日本を貶めた戦後重大事件の裏側』菅沼光弘 2013年
『この国を呪縛する歴史問題』菅沼光弘 2014年

 ・アメリカの軍事予算削減を補う目的で平和安全法制が制定された
 ・戦死の法律的定義
 ・後藤健二氏殺害の真相

 対米関係で一番大事なことは何か。いま、アメリカの現状をつらつら考えるに、アメリカはイラク戦争をやったり、あるいはアフガニスタンに兵を出したりして、膨大な軍事費を使ってしまった。その結果、アメリカの財政が逼迫(ひっぱく)したことです。アメリカはドルさえ刷ればお金はつくれるのだけけれども、それにも限界があるわけです。あまりやり過ぎると、強烈なインフレが起きてにっちもさっちもいかなくなる。したがって、そこで締めなければいけない。軍事予算も緊縮しなければいけない。オバマ大統領は3年前から、今後10年間、国防予算を毎年10%、機械的に削減していくことにした。それは国際情勢いかんにかかわらず、そうするという方針を出したのです。アメリカの国防予算の10%というのは、日本の自衛隊の予算よりも多いのです。それだけの額を目標に毎年カットしていくというわけです。これはたいへんなことです。
 そのために、その削減分を、日本に、特に太平洋においては自衛隊に肩代わりしてほしいというのが、アメリカの最大の要望なのです。
 それに応え、アメリカに協力できるような法制をつくる。それが、2015年7月18日に衆議院を通った安保法制なのです。その中核は何かというと、集団的自衛権の行使を現憲法の下でも認めるということです。そこで、内閣法制局長官の首を切ってまで(2013年8月8日山本庸幸小松一郎)、安倍さんは、「解釈」を変更することで、集団的自衛権の行使を認めることにしたのです。
 そして、その法的根拠は、昭和32、33年の砂川闘争というのがあったわけですが、そのときの裁判で、最高裁は初めて「日本には自衛権がある」ことを認めた。その砂川判決に依ったのです。最高裁が自衛権を認めたことは、個別的自衛権の他に集団的自衛権もあると認めたことだ、という解釈で、歴代の内閣が慎重に「憲法違反」としてきた集団的自衛権を、内閣の一存で認めさせたのです。
 そのことによって、アメリカの軍事予算削減に起因する、軍事力の弱体化を日本の自衛隊が具体的に補えるようにしたのです。
 こういうことで「もう安倍内閣は大丈夫だ」というところまで見届けて、岡崎(久彦)さんは安心してお亡くなりになったと言われています。
 安保法制を、そんな具合にして政府はここまで押し通してきたわけです。ところが、国会が始まって、参考人として呼んだ憲法学者がみんな「集団的自衛権は憲法9条違反だ」と言った。与党が呼んだ参考人までが憲法違反だと言いました。それで国会審議の雰囲気はまたおかしくなったけれども、その流れの中で、しかし衆院を通したわけですから、これから安倍内閣自体が国内的にどうなるかはわかいませんが、アメリカは満足したでしょう。
 アメリカにしてみれば、これで中国に対してかなり大きな抑止力を構築できたということになります。

【『日本人が知らない地政学が教えるこの国の進路』菅沼光弘〈すがぬま・みつひろ〉(KKベストセラーズ、2015年)】

 久方振りの菅沼本である。語り下ろしであるが、やはり老いた感が否めない。

砂川裁判が日本の法体系を変えた/『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』矢部宏治

 上記リンクは狡猾(こうかつ)な左翼本であるが一読の価値はある。

 平和安全法制制定の事情と背景はわかった。それにしても、なぜ日本政府はいつも受けばかりに回って、攻めに転じないのか? 吉田茂が経済を優先して軍事を後回しにしたのはそれなりの見識に基づいた政策であった。しかし吉田はその後変節する。

日米安保条約と吉田茂の思惑/『重要事件で振り返る戦後日本史 日本を揺るがしたあの事件の真相』佐々淳行
憲法9条に対する吉田茂の変節/『平和の敵 偽りの立憲主義』岩田温
マッカーサーの深慮遠謀~天皇制維持のために作られた平和憲法/『吉田茂とその時代 敗戦とは』岡崎久彦

 岸信介が行った日米安保条約改定も極めて正当なものだった。とすれば池田勇人以降の首相責任が重いと考えざるを得ない。

 アメリカが日本に何かを肩代わりさせようと近づいてきた時に、なぜこれを梃子(てこ)にして攻勢に打って出ないのか。本書によればEUはドイツを封じ込める目的で結成されたとあるが、そのEUでドイツは見事に経済的な主導権を確立したのである。日本政府はアメリカを利用して自主憲法を制定するのが当然ではなかったか。

 あまりにも馬鹿馬鹿しい戦後の歴史を思えば、日本の官僚制度がアメリカに牛耳られているような錯覚すら覚える。

 規制緩和も遅々として進まない現状を鑑みれば、一定程度の独裁政権が誕生しない限り、この国が変わることはなさそうだ。

2019-07-23

岡崎久彦批判、「つくる会」の内紛、扶桑社との騒動/『国家と謝罪 対日戦争の跫音が聞こえる』西尾幹二


『国民の歴史』西尾幹二
『日本文明の主張 『国民の歴史』の衝撃』西尾幹二、中西輝政
『三島由紀夫の死と私』西尾幹二

 ・「戦争責任」という概念の発明
 ・岡崎久彦批判、「つくる会」の内紛、扶桑社との騒動
 ・死ぬ覚悟があるのなら相手を倒してから死ね

岡崎久彦

 この日は珍しい来賓があった。岡崎久彦氏である。
 岡崎氏は私が名誉会長であった間は(※「新しい歴史教科書をつくる会」の)総会に来たことがない。多分気恥かしいひけ目があったからだろう。彼は「つくる会」創設時にはスネに傷もつ身である。すなわち最初の頃はずっと理事に名を出していたが、会発足の当日に会に加わるものはもの書きの未来に災いをもたらすと見て、名を削ってくれと申し出て来た。つまり夏の夜のホタルのように甘い水の方に顔を向けてフラフラ右顧左眄(うこさべん)する人間なのだ。それならもう二度とつくる会に近づかなければいいのに、多少とも【出世した】つくる会は彼には甘い水に見えたらしい。こんど私が会場に姿を見せなくなったら、厚かましくも突然現れた。

【『国家と謝罪 対日戦争の跫音が聞こえる』西尾幹二〈にしお・かんじ〉(徳間書店、2007年)以下同】

「必読書」から「資料本」に変えた。カテゴリーとしての資料本(しりょうぼん)とは必読書を鵜呑みにしないためのテキストである。謂わばワクチン本といってよい。

(※米議会で靖国神社遊就館の展示に変更を求めたハイド委員長〈共和党〉の意見は)靖国とナチスの墓地を同列に置くような低レベルの内容であるが、戦史展示館「遊就館」の展示内容を批判し、「次期首相」の参拝中止を求めている記事(毎日新聞、9月15日付)内容は、岡崎久彦氏が8月24日付産経コラム「正論」で、「遊就館から未熟な悪意ある反米史観を廃せ」と先走って書いたテーマとぴったり一致している。やっぱりアメリカの悪意ある対日非難に彼が口裏を合わせ、同一歩調を取っていたというのはただの推理ではなく、ほぼ事実であったことがあらためて確認されたといってよいだろう。岡崎久彦氏は「親米反日」の徒と昔から思っていたが、ここまでくると「媚米非日」の徒といわざるを得ないであろう。

 政治的な意味のリベラルは地に落ちた。かつては是々非々を表したこの言葉は既に左翼と同義である。ポリティカル・コレクトネスという牙で日本の伝統や文化を破壊するところに目的がある。その後、リアリズム(現実主義)という言葉が重宝されるようになった。そしてリアリズムが行き過ぎると岡崎久彦のような論理に陥ってしまうのだろう。国家の安全保障を米軍に委ねるのが日本国民の意志であるならば、用心棒に寄り添い、謝礼も奮発するのが当然という考え方なのだろう。

 かつてのコミンテルン同様、CIAも日本人スパイを育成し第五列を強化している。大学生のみならず官僚までもが米国留学で籠絡(ろうらく)されるという話もある。学者や評論家であれば米国内で歓待して少しばかり重要な情報を与えれば感謝感激してアメリカのために働く犬となることだろう。日本人には妙なところで恩義を感じて報いようとする心理的メカニズムがある。

 岡崎久彦がアメリカに媚びるあまり歴史の事実をも捻じ曲げようとしたのが事実であれば売国奴といってよい。しかも日本民族の魂ともいうべき靖国神社に関わることである。リアリストというよりは第五列と認識すべきだろう。

 中西輝政氏は直接「つくる会」紛争には関係ないと人は思うである。確かに直接には関係ない。水鳥が飛び立つように危険を察知して、パッと身を翻(ひるがえ)して会から逃げ去ったからである。けれども会から逃げてもう一つの会、「日本教育再生機構」の代表発起人に名を列(つら)ねているのだから、紛争と無関係だともいい切れないだろう。(中略)
 中西氏は賢い人で、逃げ脚が速いのである。いつでも「甘い水」を追いかける人であることは多くの人に見抜かれている。10年前の「つくる会」の創設時には賛同者としての署名を拒んだだけでなく、「つくる会」を批判もしていたが、やがて最盛時には理事にもなり、国民シリーズも書き、そして今度はまたさっと逃げた。

 本書には「つくる会」の内紛、扶桑社との騒動にまつわる詳細が書かれている。月刊誌に掲載された記事が多いこともあるが、よくも悪くも西尾幹二の生真面目さが露呈している。私の目には政治に不慣れな学者の姿が映る。それゆえに西尾は不誠実な学者を許せなかった。自分との距離に関係なく西尾は批判を加えた。

 西尾はチャンネル桜でも昂然と安倍首相批判を展開している。年老いて傲岸不遜に見えてしまうが、曲げることのできない信念の表明である。そこには周囲と巧く付き合おうという姿勢が微塵もない。

国家と謝罪―対日戦争の跫音が聞こえる
西尾 幹二
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2019-02-06

マッカーサーの深慮遠謀~天皇制維持のために作られた平和憲法/『吉田茂とその時代 敗戦とは』岡崎久彦


『日米・開戦の悲劇 誰が第二次大戦を招いたのか』ハミルトン・フィッシュ
『繁栄と衰退と オランダ史に日本が見える』岡崎久彦

『陸奥宗光とその時代』岡崎久彦
『陸奥宗光』岡崎久彦
『小村寿太郎とその時代』岡崎久彦
『幣原喜重郎とその時代』岡崎久彦
『重光・東郷とその時代』岡崎久彦

 ・マッカーサーの深慮遠謀~天皇制維持のために作られた平和憲法

『米国の日本占領政策 戦後日本の設計図』五百旗頭真
『村田良平回想録』村田良平『歴史の教訓 「失敗の本質」と国家戦略』兼原信克

日本の近代史を学ぶ
必読書リスト その四

 マッカーサーは、日本占領のためには、天皇制の下(もと)の政治体制維持が必要であり、それに反対する連合国、ワシントンの強硬派からその政策を守るために日本に絶対平和主義を維持させることが必要だ、という大戦略を決めて、それを徹底的に守った。そして朝鮮戦争勃発後でさえ、ダレスの再軍備論に反対して、日本の経済力を使えばよいと主張している。
 この間、吉田の言動は影が形を追う如く、このマッカーサーの言動と一致している。そうした発言は周知のことであり、引用するまでもないが、ここで一つ特異な例を挙げると、1950年1月の施政方針演説で吉田は突然自衛権を認める発言を行い、態度の豹変と非難されたが、じつはその内容は元旦に発表されたマッカーサーの年頭メッセージとまったく同じであった。この発言の背景については追って考察するが、再軍備しないで自衛権を認めるとなると論理的にはアメリカ軍による庇護(ひご)にならざるをえず、のちの日米安保条約の伏線(ふくせん)ともなりうるものである。
 いずれにしても吉田としては、平和条約を締結して独立を回復するためには、あくまでもマッカーサーの意に反しない行動をとる必要があったことは理解できる。吉田にとって大事なのは、遠いワシントンから着ているダレスではなく、げんに日本を支配しているマッカーサーとの関係であるのは当然である。仮定の問題として、もしマッカーサーが朝鮮戦争勃発後、180度方針を転換し、ダレスと同じ日本再軍備路線をはっきりとっていたならば、吉田がそれに抵抗して反戦、経済中心主義を貫いたとはとうてい考えられない。

【『吉田茂とその時代 敗戦とは』岡崎久彦(PHP研究所、2002年/PHP文庫、2003年)】

 現行憲法制定についてはアウトラインもはっきりせず様々な輪郭(りんかく)を描くスケッチが多い。そのいくつかを知るだけでも岡崎の指摘の重要さを理解できるだろう。

日米安保条約と吉田茂の思惑/『重要事件で振り返る戦後日本史 日本を揺るがしたあの事件の真相』佐々淳行
憲法9条に対する吉田茂の変節/『平和の敵 偽りの立憲主義』岩田温
憲法9条に埋葬された日本人の誇り/『國破れて マッカーサー』西鋭夫

 もちろんマッカーサーは占領政策のために天皇を利用したのであり、日本が唯一念願した国体護持に応えたものではない。まして戦後日本に現行憲法が及ぼした悪影響を思えば、安易な感謝は卑屈と紙一重となろう。ただありのままの事実を見て歴史の妙に感慨を深くするものである。

 近頃は保守言論人からもウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(WGIP:戦争についての罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画)やコミンテルン陰謀説(ヴェナノ文書)で戦後史を片付けることをよしとしない声が挙がり始めた。

 よく言われることだが「アメリカは一つではない」。当時も現在も相反する考え方があり、様々な駆け引きや妥協を通して政策が決定される。日本においても同様で大正デモクラシーで花開いた政党政治から昭和初期の軍部の台頭まで主要な動きが民意の反映であったことは疑いない。「愚かな指導者に国民が引きずられた」とするのは典型的な左翼史観である。

 敗戦という精神の空白時代に平和憲法を受け入れたことはある意味自然な流れであろう。また戦前に弾圧された左翼勢力が社会で一定の支持を得ることも予想できる範囲内だ。あの二・二六事件ですら社会主義的な色彩が濃度を増していたのだ。

 GHQの占領は6年半に及んだ。日本はサンフランシスコ講和条約(1951年9月8日署名、1952年4月28日発効)をもって主権を回復する。本来であればこのタイミングで憲法を変えるべきであった。あるいは「戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議」(1953年〈昭和28年〉8月3日)でもよかった。

 日本が1956年に国際連合へ加わったがこの時、日本を代表して演説を行った重光葵〈しげみつ・まもる〉外務大臣は元A級戦犯である。つまり東京裁判で認定した日本の戦争犯罪がナチスのそれとは違っていたことが国際的にも認められたと考えられる。かつての戦犯が政治家として復活しても昨今のネオ・ナチズムのように批判されることはなかったのだ。

 問題はなぜ憲法を変えなかったのか、である。

 男が言うには、戦争に行って生きて帰ってきた人間の魂は皆死んでしまっており、その魂の死を断固として拒んだ勇敢な人間たちは皆肉体が死んでしまったのだそうだ。つまり戦争というものは行けば誰一人として生きて帰らないのであり、男もまたフィリピンの密林の中で魂を失った、人間の抜け殻なのだと言う。

【『増大派に告ぐ』小田雅久仁〈おだ・まさくに〉(新潮社、2009年)】

 そういうことなのかもしれない。

 

2019-01-20

単純な史観/『陸奥宗光』岡崎久彦


『日米・開戦の悲劇 誰が第二次大戦を招いたのか』ハミルトン・フィッシュ
『繁栄と衰退と オランダ史に日本が見える』岡崎久彦
『陸奥宗光とその時代』岡崎久彦

 ・単純な史観

『小村寿太郎とその時代』岡崎久彦
『幣原喜重郎とその時代』岡崎久彦
『重光・東郷とその時代』岡崎久彦
『吉田茂とその時代 敗戦とは』岡崎久彦
『村田良平回想録』村田良平『歴史の教訓 「失敗の本質」と国家戦略』兼原信克

 大衆的な歴史小説に限らず、専門家の方々の学問的な著作の中にも、違和感を持たざるを得ないものも多々ある。
 ある人物や時代について、特定の部分の引用は必ずしも間違っていなくても、その人物や歴史の全体像から見てバランスを失しているような引用は、やはり、歴史をゆがめてしまうと思う。
 戦前の歴史は、偉人をほめるために、しばしばその人物の全体像と関係のないような片言隻句を取り上げては、「尊皇の志があった」と書いた。そして、戦後の反体制運動華やかなりし頃は、個人でも社会の集団でも、「権力に抵抗した」ときのことだけを、他の事実と較べてアンバランスに大きく取り上げて、その意義を強調している。こういうことも、気になるのである。
 これほど単純でわかり易い史観もない。むしろそうなれば、もう、歴史を読む必要さえもないのではないかと思う。読む前から、「尊皇の志をもつのは偉い」、あるいは「権力に抵抗するのは良い」ということだけ覚えていれば、それ以上、歴史から学ぶものがないからである。

 反体制史観のようなものは、戦後のある時期のあだ花に過ぎなかったのであろうが、平和主義は、戦後史観の一貫した金科玉条であり、また人類の思想の一部としてしばしば歴史の中にそれなりの意義ある役割を果たしている。
 だからといって、戦前の歴史は豊臣秀吉の帝国主義を讃えたから悪いけれども、戦後の歴史は、たとえば、最近のテレビ・ドラマのように徳川家康を一方的に平和主義と描写して、その平和主義をほめているのだから、良いのだ、などと言うのは、やはりおかしいのではないかと思う。

【『陸奥宗光』岡崎久彦(PHP研究所、1987年/PHP文庫、1990年)】

陸奥宗光とその時代』を開けば自ずから本書を読まずにはいられなくなる。書かれた本が書いた著者を動かし、編集者をも動かしたのだろう。本書によって「外交官とその時代シリーズ」が誕生するのである。

 尊皇史観は同調圧力で、反体制史観は思想のための歴史流用に過ぎない。日本人は生活において実利を追求する傾向が強いにもかかわらず、ものの考え方には合理性を欠くところがある。明治維新における攘夷(じょうい)から開国への変わり身の早さが日本人の政治態度をよく示しているように思う。たぶん「祭り的体質」があるのだろう。

 大東亜戦争の敗因もここにある。日本は帝国主義の甘い汁にありつこうとした(当時この目的自体が誤っていたわけではない)。アメリカは開戦前から戦後世界のグランドデザインを描いていた。具体的な戦闘においてアメリカはオペレーションズ・リサーチ(OR)を採用し、日本は玉砕と特攻をもって兵士とエリート学生を犠牲にした。【徒(いたづら)に】それを繰り返した。「こうすれば勝てた」という議論が石原莞爾〈いしわら・かんじ〉以降、現在に至るまで盛んであるが欺瞞も甚(はなは)だしい。そもそも「勝つためのシステム」すら構築していないのだから負けるべくして負けたと断言してよい。当時の精神論は確かに崇高であった。それを嘲笑う資格は誰にもない。だからこそ尚更悔やまれるのである。

 戦後70年以上に及ぶ精神的鬱積が中国・北朝鮮・韓国を導火線として爆発する可能性が高まりつつある。歴史を知らない若者であっても「なぜこれほど虚仮(こけ)にされないといけないのか」との疑念を覚えるような出来事が次々と起こっている。自衛隊という擬制の軍隊を有する擬制の国家が限界を迎えつつある。

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2019-01-16

政党が藩閥から奪った権力を今度は軍に奪われてしまった/『重光・東郷とその時代』岡崎久彦


『日米・開戦の悲劇 誰が第二次大戦を招いたのか』ハミルトン・フィッシュ
『繁栄と衰退と オランダ史に日本が見える』岡崎久彦
『陸奥宗光とその時代』岡崎久彦
『陸奥宗光』岡崎久彦
『小村寿太郎とその時代』岡崎久彦
『幣原喜重郎とその時代』岡崎久彦

 ・政党が藩閥から奪った権力を今度は軍に奪われてしまった
 ・溥儀の評価
 ・二・二六事件前夜の正確な情況

『吉田茂とその時代 敗戦とは』岡崎久彦
『村田良平回想録』村田良平
『歴史の教訓 「失敗の本質」と国家戦略』兼原信克

日本の近代史を学ぶ
必読書リスト その四

 陸奥(むつ)は、伊藤博文の知遇と土佐の自由党の力を背景に、小村は、桂太郎に代表される志を同じくする明治第二世代の強い国権主義潮流のうえに乗って、そして幣原(しではら)は、議会民主主義の大道(たいどう)のもとに、選挙で権力を掌握した民政党の多数の力をもって、それぞれの政策を実行した。
 しかし、昭和期の政治家、外交官は誰一人こういう強い政治力の背景をもたなかった。裏からいえば、誰も軍の独走を抑える政治力をもたなかったのである。
 政党が藩閥(はんばつ)から奪った権力を今度は軍に奪われてしまったのである。その理由はすでに見てきたように、大正デモクラシーが日本が達成した初めての政党政治であったために、「デモクラシーは最悪の政体であるが、他の政体よりもまし」という哲理を、まだ一般国民が当然のこととして受け入れるゆとりがなく、党争、腐敗などの政党政治の否定的な側面に国民が失望し、それに代る他(た)の勢力、とくに軍に国民が期待をもったことにある。

【『重光・東郷とその時代』岡崎久彦(PHP研究所、2001年/PHP文庫、2003年)以下同】

 岡崎の史観は政党政治を基軸に据え、大正デモクラシーを肯定的に捉えている。1890年(明治23年)に第1回衆議院議員総選挙が行なわれているので大東亜戦争敗北(1945年〈昭和20年〉)までの半世紀を政党政治の揺籃(ようらん)期といってよいだろう。傑出したリーダーは存在したものの国民的な政治意識の成熟には時間を要した。長い間、戦勝国のアメリカが日本に民主政をもたらしたという誤った歴史がまかり通ってきたが日本にはもともとその土壌があった。

「デモクラシーは最悪の政体であるが、他の政体よりもまし」と語ったのはチャーチルである。第二次世界大戦にあって独裁を許されることのなかった皮肉が込められている。つまり「権力者にとっては最悪」という諧謔(かいぎゃく)なのだ。

 個人的には民主政が集合知を発揮することは難しいと考える。衆は愚の異名である。賢(けん)は個によって発揮され後に続く人が出てくる。集合知は沈黙の中から生まれる(『集合知の力、衆愚の罠 人と組織にとって最もすばらしいことは何か』アラン・ブリスキン、シェリル・エリクソン、ジョン・オット、トム・キャラナン)。大衆が沈黙の内に沈んで投票行動に及ぶことはまず考えられない。

「責任を持たない大衆、集団の力は恐ろしいものです。集団は責任を取りませんから、自分が正しいといって、どこにでも押しかけます。そういう時の人間は恐ろしい。恐ろしいものが、集団的になった時に表に現れる」(『学生との対話』小林秀雄:国民文化研究会・新潮社編)。ネット上の掲示板で人の道が説かれるようになれば私も民主政を信じよう。

 統治形態が王政、貴族政、民主政と変化してきた(『民主主義という錯覚 日本人の誤解を正そう』薬師院仁志)のは脳の内部世界に連動したものだろう。第二次世界大戦の渦中で民主政と僭主政(独裁制)が拮抗したのも一種の揺り戻しで、人類の思考回路が紆余曲折を経てきた形跡が窺える。つまり、こうだ。社会が巨大化(国家化)してゆく中で人々は単純な判断が許されなくなり、自分と異なる価値観を受け入れる必要が生じた。思索とは反対意見を設定することだ。西洋で哲学の花が咲いた後に民主政へと向かうのは必然であった。人類はこうして熟慮する存在となった。

 私は真に熟慮し得る政治家はその人自身が民主政を体現していると考える。現代の政党政治が利権で動いている以上、形を変えた藩閥政治といってよいだろう。

 国民はたしかに軍人に期待した。国民のイメージのなかでは、党争と利権にまみれた政治家に代って凛々しい軍人が国を指導する姿があったことは否定できない。しかし、国民は、出先の軍の独走や青年将校の下剋上(げこくじょう)まで期待したわけではなかった。
 こう考えると、張作霖爆殺事件(ちょうさくりんばくさつじけん)の犯人を処罰せず下剋上の風潮をつくったことが昭和政局全体の禍根(かこん)となった、という判断には否定しえない真実があるといえる。
「満州で止まっておけばよかった」というのが当時の国際情勢分析からくる国家戦略として――倫理的判断でなく――正しい判断だったとしても、軍の出先に歯止めが利(き)かない状況のもとでは、それは国家戦略の是非の問題ではなく、賭博場(とばくじょう)から負けて帰ってきて「いちばん勝っていたときに帰ってくればよかった」と悔むのと同じことになってしまう。そろそろ潮時だから賭場から帰れといくらいってもいうことを聞かないのだから、戦略も何もない。結局負けるまで――賭場全体を乗っとろうという空想的勝利の場合以外は――いつづけることになるわけである。
 そうなると、そもそも賭場(とば)に行ったこと自体が悪い、そもそも軍人なるものがいたから悪い、というだけの単純な史観になってしまう。
 げんに戦後の日本ではそういう史観が主流であった。もちろんその背後には、冷戦における共産側のプロパガンダもあった。共産側のプロパガンダは、表向きはいろいろな理屈は使っても、ひっきょうその究極の目的は日本の防衛力を弱めておいていざというときに取りやすくしておくことにあったのだから、反戦主義、反軍主義を煽ったのは当然である。
 こうして、第二次世界大戦の歴史の教訓とプロパガンダによる反軍思想の相乗効果で、こうした単純な史観が主流となったわけである。

 歴史の奇々怪々を教えるものとして「張作霖爆殺事件ソ連特務機関犯行説」がある。歴史には多くの嘘がまみれているが、大切なのは史観の陶冶(とうや)である。事実の書き換えによって史観までもが変わるようではダメだ。

 関東軍の動きは民の願いに応えたものだろう。日清・日露戦争に勝っても日本は帝国主義の甘い汁を吸うことが許されなかった。国民は臥薪嘗胆(がしんしょうたん)を唱えて憤激を堪(こら)えた。陸奥宗光、小村寿太郎、原敬〈はら・たかし〉を理解できる国民はいなかった。そして国民の積怨(せきえん)が関東軍という形になったのだ。日本人の脳が近代化できなかった様子がありありとわかる。

 インターネットによって人々は移動することなくつながることが可能となった。もはやつながっているのである。そして実は「つながる環境」があるにもかかわらずつながってはいない。SNSという新しい形は緩やかな関係性を構築させたが、まだ世の中を変えるほどの力にはなっていない。商品ではなく人間のレコメンド機能が出てくると面白い。

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2019-01-10

最後の元老・西園寺公望/『幣原喜重郎とその時代』岡崎久彦


『日米・開戦の悲劇 誰が第二次大戦を招いたのか』ハミルトン・フィッシュ
『繁栄と衰退と オランダ史に日本が見える』岡崎久彦
『陸奥宗光とその時代』岡崎久彦
『陸奥宗光』岡崎久彦
『小村寿太郎とその時代』岡崎久彦

 ・最後の元老・西園寺公望

『重光・東郷とその時代』岡崎久彦
『吉田茂とその時代 敗戦とは』岡崎久彦
『村田良平回想録』村田良平『歴史の教訓 「失敗の本質」と国家戦略』兼原信克

日本の近代史を学ぶ
必読書リスト その四

 西園寺(さいおんじ)は公卿(くぎょう)である。公卿は百六十家あるというが、そのなかでもっとも格式が高いのは五摂家(ごせっけ)であり、近衛篤麿(このえあつまろ)、その子の文麿(ふみまろ)を出した近衛家はその一つである。その次は九清華(せいが)であり、維新後の太政大臣三条実美(さんじょうさねとみ)を出した三条家西園寺家が含まれる。つまり、公卿のなかでもトップの十分の一に属する名門である。

【『幣原喜重郎とその時代』岡崎久彦(PHP研究所、2000年/PHP文庫、2003年)以下同】

 西園寺公望〈さいおんじ・きんもち〉は明治維新から支那事変までを生き抜いた最後の元老(げんろう)である。陸奥宗光と共に伊藤博文を支えた。伊藤の腹心とする向きが多いが彼らの関係は朋友であった。

 政治の場においては、すべての歴史家が指摘するように無欲恬淡(てんたん)、権力にも金にもまったく執着するところがなかった。というよりも、公卿育ちのわがままで、面倒なことにかかずらうのが嫌だったのであろう。
 東洋自由新聞社の社長になったときも、「社長もいいが僕には到底真面目(まじめ)の勤めはできぬ」というと、「それもよく心得ている」といわれてなったと追想しているが、謙譲でなく本音であろう。外国でも日本でも、文人墨客(ぶんじんぼっかく)、才子佳人(さいしかじん)と付き合うほうに強い関心があった。かつて大磯の伊藤博文の邸(やしき)で、尾崎行雄に対して「政治などということは、ここのおやじのような俗物(ぞくぶつ)のすることだ」と吐き棄てるようにいったという。

 最後の一言がいい。8歳違いの伊藤を「おやじ」呼ばわりした若気(わかげ)の至りも好ましい。一億総町人のような現代社会には貴族が存在しない。金持ちはいる。が、彼らに西園寺のような矜恃(きょうじ/「矜持」と「矜恃」の本来の意味と違い)は持ち得ない。金儲けに腐心する輩は利で動く。経団連を見れば一目瞭然である。国の行く末よりも自社の利益しか眼中にない連中だ。

 かねがね記しているように私は民主政という制度を全く信用していない(『民主主義という錯覚 日本人の誤解を正そう』薬師院仁志)。むしろエリートや貴族が政治を担い、国民をリードするべきだと考える。戦前の政治家で私腹を肥やした者は殆どいないという。井戸塀政治家(いどべいせいじか)という言葉があったほどだ。自民党が金権腐敗に染まったのは田中角栄以降のことだろう。

 貴族は遊民というよりも国家にとっての遊撃と私は考える。

幣原喜重郎とその時代
岡崎 久彦
PHP研究所
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若き日の感動/『青春の北京 北京留学の十年』西園寺一晃

2019-01-09

狂者と獧者/『小村寿太郎とその時代』岡崎久彦


『日米・開戦の悲劇 誰が第二次大戦を招いたのか』ハミルトン・フィッシュ
『繁栄と衰退と オランダ史に日本が見える』岡崎久彦
『陸奥宗光とその時代』岡崎久彦
・『陸奥宗光』岡崎久彦

 ・長く続いた貧苦困窮
 ・狂者と獧者

『幣原喜重郎とその時代』岡崎久彦
『重光・東郷とその時代』岡崎久彦
『吉田茂とその時代 敗戦とは』岡崎久彦
『歴史の教訓 「失敗の本質」と国家戦略』兼原信克

日本の近代史を学ぶ
必読書リスト その四

「バランスのとれた人物」という表現は、戦前の日本にはなかった。それよりも度胸とか腹とかいうことのほうが重視された。しかし、戦後の日本では「バランスのとれた」はすでに日本語として定着し、社会人の評価としては最高のほめ言葉の一つとなっている。

 宋(そう)の人、蘇東坡(そとうば)はいっている。
「天下がまだ泰平でないときは、人々は相争(あいあらそ)って自らの能力を発揮しようとする。しかし天下が治まると、剛健(ごうけん)で功名(こうみょう)を求める人を遠ざけ、柔懦(じゅうだ)、謹畏(きんい)の人(かしこまってばかりいる人)を用いるようになる。そうして数十年も過ぎないうちに、能力のある者は能力を発揮する場もなく、能力のない者はますます何もしなくなる。
 さて、そうなったときに皇帝が何かしようとして前後左右を見渡しても、使える人間が誰もない。……上の人はつとめて寛深不測(かんじんふそく)の量(りょう)をなし(度量が大きく、しかも中身が計り知れない大人物の恰好〈かっこう〉ばかりして)、下の人は口を開けば中庸(ちゅうよう)の道(バランスがとれている、というのが適訳であろう)ばかりい、……もってその無能を解説するのみなり」
 そして蘇東坡は、「中庸」のもとの意味はこれとはまったく異なることを論証している。そして、右のような人々を孔孟(こうもう)は「徳の賊」と呼び、むしろ「狂者」(志の大にして言行の足らない人)を得ようとし、それが得られない場合は、「者」(けんじゃ/たとえ知は足りなくても何か守るところのある人)を得ようとしたという。狂者は皆のしないことをやる人であり、獧者は皆がするからといってもこれだけは自分はしないというものをもっている人、つまり土佐の「いごっそう」である。蘇東坡はいま天下をその怠惰(たいだ)から奮いたたせるには、狂者、獧者であってしかも賢い人間を使うに如くはない、というのである。

 明治の人はよく自らを「狂」と呼んだ。山県有朋(やまがたありとも)は「狂介」(きょうすけ)と名乗り、陸奥宗光(むつむねみつ)は雅号(がごう)を「六石狂夫」(きょうふ)とした。まさに身に過ぎた志をもつ狂者と自らを呼んでいるのである。
 小村は、まさに狂者であり獧者であった。とても「バランスのとれた人物」という範疇(はんちゅう)には入りようがない人物であった。明治維新から30年近く経て官僚制度もそろそろ硬直化してくる時期に、その小村が「余人(よじん)をもって代え難い」として重用(ちょうよう)されたのは、やはり日清、日露という日本の危機の時代だったからであろう。小村の業績に毀誉褒貶(きよほうへん)が現われるのは日露戦争の勝利後であり、それまでの危機の時期においては、あらゆる局面において小村の判断は結果として正確であり、小村の起用が正しかったことが実証されている。時代が狂者、獧者を必要とし、小村がその時代の要請に応えたのである。

【『小村寿太郎とその時代』岡崎久彦(PHP研究所、1998年/PHP文庫、2003年)】

 諸橋轍次〈もろはし・てつじ〉著『中国古典名言事典』(1972年)では「狷者」という表記になっている。異体字なのだろうが正字が判らず(Jigen.net - 漢字と古典の総合サイト)。

 バランスは均衡と訳す。衡は秤(はかり)の意。バランスする、バランスさせると自動詞や他動詞を付けると「権」の字が浮かび上がってくる。権力の権には「はかる」という意味がある(『孟嘗君』宮城谷昌光)。「所体のなかにおいて、軽重を権(はか)る。これを権という」(墨子)。とすると権力を擁(よう)する者の慎みとして「軽重を権(はか)る」姿勢は堅持すべきものだが、彼の周囲にいる人々は種々雑多で構わない。むしろ宋江(そうこう)のように梁山泊(りょうざんぱく)の猛者(もさ)どもをバランスさせる能力が望ましい。平和の世には能吏(のうり)が、混乱する時代には狂者、獧者が求められるのだろう。

 風変わりな人を見直し、称(たた)えよ。新しい時代を開くのは今表に出ていない人々なのだから。



『銀と金』福本伸行
恩讐の彼方に/『木村政彦外伝』増田俊也

2019-01-07

長く続いた貧苦困窮/『小村寿太郎とその時代』岡崎久彦


『日米・開戦の悲劇 誰が第二次大戦を招いたのか』ハミルトン・フィッシュ
『繁栄と衰退と オランダ史に日本が見える』岡崎久彦
『陸奥宗光とその時代』岡崎久彦
『陸奥宗光』岡崎久彦

 ・長く続いた貧苦困窮
 ・狂者と獧者

『幣原喜重郎とその時代』岡崎久彦
『重光・東郷とその時代』岡崎久彦
『吉田茂とその時代 敗戦とは』岡崎久彦
『村田良平回想録』村田良平『歴史の教訓 「失敗の本質」と国家戦略』兼原信克

日本の近代史を学ぶ
必読書リスト その四

 もう一つ小村について書かざるをえないのは、その貧乏であった。おそらく世界史上、政治家、外交官のなかで、小村より貧乏な人物はいかなったといってよいであろう。
 着ているものといえば、夏も冬も着古しのフロック・コート一つだけだった。夏は暑いだろうというと、貧乏していると暑さを感じないと答えたという。昼食時には、そのフロック・コートからほつれて出てくる糸を鋏(はさみ)で切るのを習慣にしていたという。その昼食の金もなく、しばしばお茶だけで過していた。
 親が事業に失敗した借金をそのまま引き継いだのが原因であったが、東京中の金貸しから借金をしていて、家のなかに金になりそうなものがあればみな借金取りがもっていくので、家財(かざい)はまったくなく、座布団も2枚しかないので客が来れば布団なしで座ったという。雨が降っても傘はなく、まして車に乗る金もないので、帽子から雨の雫(しずく)をたらしながら歩き、それでも外務省の裏門のほうが家から近いのに堂々と正門から入ったという。
 北京の代理行使として赴任するとき、新橋駅に見送りに来た友人が、小村が時計をもっていないのを見て自分の時計を贈ろうとした。小村はそれを遮(さえぎ)って、見送りのなかに高利貸しがいて何か餞別(せんべつ)を貰(もら)えばただちに取り上げようと待ちかまえているから、くれる気があるならば先の駅でくれ、といったという。別の本では、北京赴任に際して陸奥(むつ)は小村に対面をもたせるために金時計を贈ったが、北京着任のときは、小村はもうその時計はまったくもっていなかったという。

【『小村寿太郎とその時代』岡崎久彦(PHP研究所、1998年/PHP文庫、2003年)】

 北京赴任は1893年(明治26年)のことである。小村寿太郎〈こむら・じゅたろう〉は1855年(安政2年)生まれだから38歳である。没したのが56歳だから人生の大半を貧苦困窮の内に過ごしたといってよい。第1回文部省海外留学生に選ばれてハーバード大学へ留学していることを思えば、よほど圭角のある人物だったのだろう。貧困は人を惨めにする。志を手放すことがなかったところに強靭な精神力が窺える。

 小村を引き上げたのは陸奥宗光である。陸奥~小村という外交官によって日本は不平等条約を解消し、日清・日露戦争を乗り越え一等国の仲間入りを果たした。この二人は真正のエリート(選良)であった。近代人の存在があって近代の扉が開かれる様子がよくわかる。彼らはまた愛国者でもあった。世論の誹謗中傷を恐れることなく、ただただ国の行く末を案じて身を処した。

 明治から昭和初期にかけて政治家は辛労の限りを尽くし、絶命することも決して珍しくはなかった。財を成した人物も殆どいない。国を造ることに真剣であった。

小村寿太郎とその時代―The life and times of a Meiji diplomat
岡崎 久彦
PHP研究所
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2018-12-21

「外交官とその時代」シリーズ/『陸奥宗光とその時代』岡崎久彦


『日米・開戦の悲劇 誰が第二次大戦を招いたのか』ハミルトン・フィッシュ
『繁栄と衰退と オランダ史に日本が見える』岡崎久彦

 ・「外交官とその時代」シリーズ

『陸奥宗光』岡崎久彦
『日本の敗因 歴史は勝つために学ぶ』小室直樹
『小村寿太郎とその時代』岡崎久彦
『幣原喜重郎とその時代』岡崎久彦
『重光・東郷とその時代』岡崎久彦
『吉田茂とその時代 敗戦とは』岡崎久彦
『村田良平回想録』村田良平『歴史の教訓 「失敗の本質」と国家戦略』兼原信克

日本の近代史を学ぶ
必読書リスト その四

 そのころ、大和(やまと)の五条という天領にいた本屋の主人が、たまたま和歌山に来ていて、宗光が復讐(ふくしゅう)、復讐と叫ぶのを聞いて、これは面白い子だと思って、ぼっちゃん(紀州では、ぼんぼんという)、紀州家に仇討ちをされるなら、天領の代官になりなさい、と言ってくれた。
 宗光は雀躍(じゃくやく)して喜び、大和五条にある老人の家の食客(しょっかく)となって『地方凡例録』(じかたはんれいろく)とか、『落穂集』(おちぼしゅう)とかを勉強した。これらは、幕府の民政の書で、代官の教科書であった。後年、陸奥が、日本の近代化を一挙に促進した地租改正の議(ぎ)などを提案したのは、このときの素養があったからという。
 こんなものは、大人が読んでも面白いもののはずがない。それを、数え年10歳の少年が読んで、あとに残るほど理解し、吸収し得たとすれば、それは仇討ちの気魄(きはく)があって初めてできることと思う。昔話に、仇討ちの執念でたちまちに剣道が上達する話がよくあるが、やる気というものは、恐ろしいものである。(※ルビの大半を割愛した)

【『陸奥宗光とその時代』岡崎久彦(PHP研究所、1999年/PHP文庫、2003年)】

 岡崎は先に『陸奥宗光(上)』『陸奥宗光(下)』(PHP研究所、1987年/PHP文庫、1990年)を著しており、これを短く書き直したのが本書である。刊行年だけ辿ると『小村寿太郎とその時代』(1998年)を先に読みかねないので注意が必要だ。

「外交官とその時代」シリーズは英訳を視野に入れたもので日本の近代史を客観的に捉える工夫がなされており、ルビも聖教新聞並みに豊富で配慮が行き届いている。岡崎は親米保守の旗幟(きし)を鮮明にしているが、安易なコミュニズム批判は見受けられず、時代に寄り添い、時代の中に身を置いて世界の動きを体感しようと試みる。日本近代史の中で立憲制~政党政治がどのように育まれてきたかを俯瞰できるシリーズとなっている。

 陸奥宗光〈むつ・むねみつ〉は紀州藩(和歌山県)士で海援隊では坂本龍馬の右腕となり、任官してからは版籍奉還、廃藩置県、徴兵令、地租改正を始め、農林水産業に至るまでのグランドデザインを描いた人物である。岡崎久彦は伊藤博文と陸奥宗光を日本近代化における政党政治の立役者として描く。陸奥の志は死後に立憲政友会を生ましめる。

 私はかねがね、西郷(さいごう)など徳川時代の教養を深く身につけた人が西欧の合理主義になじまなかった罪は陽明学にあると思っている。陽明学は儒学の行きついた極致であり、すべて自己完結している。個人の人格さえ完成すれば、それが社会全体の幸福にまでつながると信ずれば、日々の生活になんの迷いも生じない。物質的な貧乏(後進性)も、毀誉褒貶(きよほうへん/世論〈よろん〉)も気にすることはない。何もかも失敗しても、天の道をふんでいるのだから、志は天に通じていると思っている。そんな思想に凝り固まっている「立派な人」に近代思想を説いても、結局は歯車が噛み合わないであろう。
 明治維新の過程をみると、行動を重んじる陽明学はたしかに革命の原動力にはなった。江戸時代唯一の革命の試みといえる1837年の乱を起した大塩平八郎も陽明学者だった。吉田松陰が長州の革命家を育てた役割も大きい。しかし、維新後の近代化の過程では西南戦争の西郷隆盛と言い、後に議会政治を弾圧した品川弥二郎(しながわやじろう)と言い、陽明学の士は、近代化の足を引っ張っている。しょせん革命には有用であっても、近代化にはなじまない思想なのであろう。

 儒家における大乗化みたいな代物か。人を動かすのは感情だが、人を糾合するためには理窟が必要となる。思想という物差しがなければ軍は成り立たず、一揆やゲリラ戦で終わってしまう。たぶん様式化した武士道と陽明学の親和性が高かったのだろう。

 陸奥の配下に岡崎邦輔〈おかざき・くにすけ〉がいたが、実は著者の祖父に当たる。本書には書かれていないが上下本では詳細が綴られている。

 人と時代を見事に描き切った傑作である。

2018-12-16

富んで栄えた国が武事を閑却し滅びる/『繁栄と衰退と オランダ史に日本が見える』岡崎久彦


『日米・開戦の悲劇 誰が第二次大戦を招いたのか』ハミルトン・フィッシュ
『戦国日本と大航海時代 秀吉・家康・政宗の外交戦略』平川新

 ・富んで栄えた国が武事を閑却し滅びる

『陸奥宗光とその時代』岡崎久彦

日本の近代史を学ぶ

 モデルスキーの「世界政治の長期周期」説などがそれである。大ざっぱにいうと、16世紀をポルトガルの世紀、17世紀をオランダの覇権時代、18世紀はイギリス覇権の第1期、19世紀はその第2期、20世紀をアメリカの世紀と考えて、大体1世紀毎の興亡の周期があるという理論の下で、やがて来るべきアメリカの衰運に警告を発するという考え方である。
 私自身としては、この種のシェマティック(図式的)な分析というものには必ず無理があり、国家や人間の生きるか死ぬかの争いの場である歴史の流れを把握するには役に立たないと思っている。現にオランダの覇権時代といっても、それはあとで論じるように、英国がスペイン帝国に併呑されないように必死に抗争している間に、オランダが世界的規模でその経済力を伸ばすチャンスをつかんだという話であり、もともと英国との友好協力関係が前提であって、スペインの脅威が去るや否や英国の嫉視の的となって衰退するまでの期間に過ぎない。(中略)
 その圧巻ともいうべきものは、日露戦争の翌年である1906年に出版されたエリス・バーカーの500頁近い大著『オランダの興亡』である。(中略)
 私がこの本を知ったのは、昭和7年に出版された大類伸編の『小国興亡論』の中にその短い抄訳があったからである。以来、多年、その原著を求めていたが、英国内の図書館にはついに見あたらず、アムステルダムの王立図書館でようやくそのフォト・コピーを手に入れることが出来た。その後、アメリカの議会図書館にも1部あることも確かめた。また、上智大学の図書館にも寄贈図書として1巻がある由である。(中略)
 右の本はいずれも、かつて英国より経済、技術の面でははるかに先進国だったオランダが、英蘭戦争などを通じて衰えていく過程を記述して、英国も同じ運命を辿ることを憂いた警世の書である。もともとオランダの繁栄を嫉視して、これを破壊したのはイギリスであるが、かつてカルタゴを滅ぼした小スキピオ・アフリカヌスが、同行していた歴史家ポリビウスの手を取って、「次に来るものはローマの衰亡か?」と長嘆息したのと同工異曲というべきであろうか。
 バーカーは、ポール・ケネディと違ってより伝統的な史観の上に立っている。つまり、富んで栄えた国が武事を閑却し、質実剛健、尚武の未開人に滅ぼされるというローマ帝国の衰亡、平家の滅亡の史観であり、この方が本来は人類の常識であって、その意味ではポール・ケネディの理論は独創的であるといえるが、まだどこか未熟であやふやなところがあり、多くの専門家にその弱点を突かれているのもそのためである。

【『繁栄と衰退と オランダ史に日本が見える』岡崎久彦(初出誌『文藝春秋』1990年1月号~10月号/文藝春秋、1991年文春文庫、1999年/土曜社、2016年)】

 本書から岡崎久彦を読み始めた。『戦国日本と大航海時代』を読み終えた直後でタイミングとしては申し分がない。欧州における戦争と大航海時代が同時進行であった歴史的事実にヨーロッパの強さを思い知らされる。

「富んで栄えた国が武事を閑却し」滅びる、との指摘が重い。世界を席巻したオランダは封建領主の力が強すぎて国家として一つにまとまることができなかった。国内で足の引っ張り合いをする姿が日本の政治情況と重なる。北朝鮮がミサイルを撃っても日本国民は憤激することなく静観を保っている。世論がワイドショーで浮いたり沈んだりしている間は憲法改正に至らないだろう。

 つまらないことだが世論の読みは「よろん」で構わないと思う。正しくは「輿論(よろん)、世論(せろん)」なのだろうがどちらも「public opinion」の訳語であるし、漢字が伝わりやすいように訓読みすることは日常でも珍しくはない。私は7月生まれなのだが上京してから「なながつ」と言うようになった。これは多分「しち」と「はち」の聞き間違いを防ぐためなのだろう。北海道の従姉に笑われて初めて気づいた覚えがある。もう一つ書いておくと横書きの場合、数字表記も迷うことが多い。基本的には訓読みでアラビア数字を用いることはない(3つ、など)。一番困るのは「1」である。世界大戦は漢字で書き、その他は感覚で書き分けている。上記テキストだと「一部」にするか「1部」にするかで数分間迷った。書籍タイトルにアラビア数字を入れるのはどうしても気に入らないところである。背表紙は縦書きなのだから漢数字表記が正しい。例えば『一九八四年』の如し。

 日本はアメリカが行った戦争で栄えてきた。朝鮮特需高度経済成長、ベトナム特需を経て、二度のオイルショックを乗り切り、バブル景気へ至る。日本の繁栄をアメリカが指をくわえて眺めているはずがなかった。クリントン大統領が経済戦争を宣言し、人民元のレートを1ドル5.72元から8.72元に60%も切り下げた。地価と賃金の上昇に酔い痴れる日本人は全く注目しなかったが、中国の輸出力に保証を与えたようなものである。ここから日本が沈み、中国が上昇してくる。

 日本の低迷は20年にも及んだ。その間、終身雇用はズタズタに破壊され、会社=ファミリーといった文化も完全に廃(すた)れた。北朝鮮による拉致被害が明らかになっても国民の安全保障意識が高まることはなかった。ただ辛うじて東日本大震災という未曾有の悲劇によって天皇陛下を中心とする国家の命脈が保たれた。

 岡崎の文章は川のように流れ澱(よど)むことがなく、士を見抜く確かな目が具(そな)わっている。その名調子を思えば、やはり話し言葉の拙さや声の貧しさ、大衆を説得する力の弱さという落差が際立つ。「じゃあ、あんたはどういう仕事をしたんだ?」と言いたくなる。これは悪口ではなくそれほどまでに素晴らしい文章なのだ。

 いずれにしても今年の読書道は竹山道雄山口洋一岡崎久彦という流れが決定的であった。

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2018-12-06

建国の精神に基づくアメリカの不干渉主義/『日米・開戦の悲劇 誰が第二次大戦を招いたのか』ハミルトン・フィッシュ


『國破れて マッカーサー』西鋭夫
・『日本永久占領 日米関係、隠された真実』片岡鉄哉

 ・もしもアメリカが参戦しなかったならば……
 ・建国の精神に基づくアメリカの不干渉主義

『繁栄と衰退と オランダ史に日本が見える』岡崎久彦

日本の近代史を学ぶ

 この本の見どころはいくつかある。
 まず第一に、内容が絶対に信頼できるので安心して読めるということである。公人として、不正確さが、いささかも許されない環境の中に、数十年を過したせいもあろうが、おそらくは、それ以上に、フィッシュの性格と教育からくるものであろう。決して嘘をつかない、時流と迎合していい加減なことは言わない、言行不一致のことはしない、というインテレクチュアル・オネスティーに徹した良きアメリカ人の典型なのである。そもそもフィッシュがルーズベルトに対して怒っているのは、政策論の違いはさておいても、ルーズベルトのやり方が不正直で、汚く、非アメリカ的であるということにある。(中略)
 第二に、彼自身は「孤立主義者」という言葉は、ルーズベルトがプロパガンダのために捏造(ねつぞう)した、不正確な表現で、本当は、自分は不干渉主義者だ、と言っているが、いわゆるアメリカの孤立主義者というものの、物の考え方を、これほど明快に示した本はない。
「孤立主義」を論ずるにあたっては、この本なしでは語れないと言っても過言でないし、この本の各所を引用するだけで、真の「孤立主義」というものを説明してあまりあると思う。
「われわれの祖先は、皆、旧大陸の権力政治から脱(のが)れるために、新大陸まで来た」のであり、「旧大陸の昔からの怨念のこもった戦争にまきこまれない」という、アメリカの建国の精神にまで遡(さかのぼ)る「孤立主義」である。
 第三は、国際政治の本質に立ち戻って考えて、ルーズベルトとフィッシュのどちらが正しかったか、ということである。(岡崎久彦)

【『日米・開戦の悲劇 誰が第二次大戦を招いたのか』ハミルトン・フィッシュ:岡崎久彦監訳(PHP研究所、1985年/PHP文庫、1992年)】

 一般的にはモンロー主義といわれる。

 山口洋一の本で知ることがなければ岡崎久彦の著書を開くことは一生なかったと思う。テレビの討論番組で見たことのある岡崎は高い声で癇(かん)に障(さわ)る話し方をする老獪(ろうかい)な人物だった。周囲と異なる論理をかざして微動だにすることなく相手に理解を求める姿勢はこれっぽっちもなかったことに驚いた。訳知り顔の偏屈な年寄りにしか見えなかった。

 ところが、である。山口が引用した文章は流麗でキラリと光を放っていた。まず本書を読み、次に『繁栄と衰退と オランダ史に日本が見える』(1991年)を開き、そして『陸奥宗光とその時代』(1996年)と進んだ。私は唸(うな)った。唸り続けた。慌てて動画を検索してみたが、やはり岡崎は偏屈なジイサンだった(笑)。きっと文の人なのだろう。

 牛場信彦駐米大使から本書を紹介され岡崎が翻訳する運びとなった。

 ハミルトン・フィッシュ3世(1888-1991年)は彫像のような面立ちで実に立派な顔をしている。1945年まで四半世紀にわたって米国の下院議員を務めた(共和党選出)。原著は1983年に刊行されている。太平洋戦争開戦時にフランクリン・ルーズベルト大統領(民主党)を全面的に支持したのはた自身の過ちであり、ルーズベルト大統領が卑劣な手段で米国を戦争に導いたことを糾弾する。

 フィッシュの筆致は烈々たる愛国心に支えられており、為にする批判とは一線を画している。後味の悪さがなく、むしろ静かな晴朗さが広がる。

 複雑系科学の視点(『歴史は「べき乗則」で動く 種の絶滅から戦争までを読み解く複雑系科学』マーク・ブキャナン)だと時代を変えた歴史的な人物も一要素として扱われるが、国家元首や教祖が果たす導火線の役割は決して無視できるものではない。ルーズベルトにけしかけられた国民が愚かであるというよりも、戦争の気運が満ちつつある時代であったのだろう。他国の戦争に巻き込まれることを忌避した米国民も、国際社会でアメリカが主導権を握る政策には賛同せざるを得なかったものと想像される。

 第二次世界大戦は英仏が凋落(ちょうらく)しアメリカが台頭する間隙(かんげき)にソ連が食い込んだ歴史であった。ルーズベルト大統領の周辺には500人に及ぶ共産党員とシンパがいた(『日本の敵 グローバリズムの正体』渡部昇一、馬渕睦夫)。容共の域を越えていたのは明らかだ。日本の占領政策においてもGHQの半分が左翼勢力であったため戦後に長く影を落とした。

 ルーズベルト大統領が行ったことは一言でいえば日本を叩き、ソ連を増長させ、戦後の冷戦構造へと道を開いたことであった。戦時中の日本人の思いは市丸利之助〈いちまる・りのすけ〉海軍中将の「ルーズベルトニ与フル書」に言い尽くされている。

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変節と愛国 外交官・牛場信彦の生涯 (文春新書)
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2018-11-30

外務省の極秘文書『日本外交の過誤』が公開/『敗戦への三つの〈思いこみ〉 外交官が描く実像』山口洋一


 ・外務省の極秘文書『日本外交の過誤』が公開

『腑抜けになったか日本人 日本大使が描く戦後体制脱却への道筋』山口洋一
『植民地残酷物語 白人優越意識を解き明かす』山口洋一
『驕れる白人と闘うための日本近代史』松原久子

日本の近代史を学ぶ
必読書リスト その四

 やがて元勲たちが国政の表舞台から退き、軍人がわが世の春を謳歌する時代となるにつれて、外務省は軍部追随の色彩を徐々に強めていく。この間の事情を最もよく物語っているのは、外務省資料『日本外交の過誤』である。
 2003年4月、外務省は極秘文書『日本外交の過誤』の秘密指定を解除し、これを公表した。これは1951年に作成された外務省の文書であるが、吉田茂総理の命により、課長クラスの若手省員が精力的に作業を行い、満州事変から敗戦までの日本外交の過誤を洗い出し、後世の参考にせんとして作成したものである。この資料の本体は、膨大な作業の結論としてまとめられた、50ページ程度の『調書』であるが、これに加えて、『調書』についての堀田正昭、有田八郎、重光葵、佐藤尚武、林久治郎、吉沢謙吉ら、先輩外交官や大臣の所見(インタビューでの談話録)および省員の批評があり、これも付属文書(以下においてはこれを『所見』と記すことにする)として公開された。さらに、『調書』作成の基礎となった259ページに及ぶ『作業ペーパー』が残されており、これは『調書』『所見』からは1年以上遅れて、2004年6月に公表された。こうして『調書』『所見』『作業ペーパー』の3点セットが2004年には完全に揃うこととなった。これらの資料は、満州事変以降、終戦に至る日本の対外政策を考える上で、よりどころとなる貴重な手がかりを与えている。

【『敗戦への三つの〈思いこみ〉 外交官が描く実像』山口洋一(勁草書房、2005年)以下同】

『植民地残酷物語』で山口洋一は竹山道雄を引用していた。そして本書では岡崎久彦を引用している。竹山道雄~山口洋一~岡崎久彦という流れが今年の読書遍歴の中軸を成した。本物の知性は良識に支えられている。学者は専門知識に溺れて世間を侮る。そして知らず知らずのうちに社会から離れてゆく。彼らが語る死んだ知識は生きた大衆の耳に届かない。山口は外交官、岡崎は外務官僚、竹山は文学者である。彼らは自分の専門領域を超えて歴史に着手した。実務経験に裏打ちされた確かな眼が人間の姿をしっかりと捉える。更に歴史と人間の複雑な絡み合いやイレギュラーをも見据えている。

 元勲たちに代わって登場してきたのは、陸軍大学校、陸軍士官学校、海軍大学校、海軍兵学校などで教育を受けた軍事エリートたちだった。明治になってからの、こうした軍の高等教育機関は、欧米列強の軍事れべるに追いつかねばならないという焦りから、目先のことに役立つ軍事教育に専念するようになった。政戦合わせた国家戦略を構築するというステーツマンとしての教育はなおざりにされ、国家経営のジェネラリストではなく、軍事に特化したスペシャリストを育成したのである。そしてこのような軍事スペシャリストが徐々に国家の枢要ポストを占めるようになる。

 武士から明治維新の志士を経て国士となったのが元勲である。明治開国で不平等条約を結ばされ、治外法権を受け入れた日本がステーツマン(見識のある政治家)やジェネラリスト(広範な分野の知識・技術・経験をもつ人)を育成する余裕はなかった。半植民地状態を脱するには廃藩置県によって誕生した国軍を強化する他ない。富国強兵・殖産興業は国家としての一大目標であった。惜しむらくは大正デモクラシー後に政党政治が育たなかったことである。

 山口の文章には日本から武士が滅んでしまった歴史への恨みが滲み出ている。もはや国士も見当たらない。ステーツマン・ジェネラリストであるべき官僚は省益のために働くサラリーマンと化してしまった。国が亡びないのが不思議なくらいだ。きっと人の知れないところで日本という国家を支えている人々が存在するのだろう。

 外務省資料『日本外交の過誤』には伏線があった。

 しかし、人間でも国家でも失敗の経験というのは貴重なものである。大失敗などめったにするものでもないし、またすることが許されるわけでもないのだから、ここから教訓を学びとらない手はない。
 ところが、戦後の史観は、真珠湾攻撃が悪かったというだけならまだしも、統帥権(とうすいけん)の独立があったから、さらには明治憲法があったから、しょせん日本は滅びたということで、あれだけ全国民が全身全霊で打ち込んだ大戦争をしながら、そこから具体的な教訓を得ようという姿勢に乏しかった。
 じつは敗戦直後、天皇は東久邇宮成彦〈ひがしくにのみや・なるひこ〉総理に対して「大東亜戦争の原因と敗因を究明して、ふたたび日本民族がこういう戦争を起さないようにしたい」とのお言葉があり、幣原喜重郎〈しではら・きじゅうろう〉内閣も敗戦の原因究明こそ日本再建にとって最重要課題の一つと考えて、昭和20年12月20日に戦争調査会が設置され、幣原自身が会長となった。ところが昭和21年7月、対日理事会でソ連代表が、会に旧軍人が参加していることを理由として、これは次の戦争に負けないように準備しているのだと非難し、英国もこれに同調した。当時の吉田茂総理からマッカーサーの了承を得ようとしたがそれも失敗し、幣原の憤懣(ふんまん)のなかで廃止された経緯がある。この作業がきちんと行われていれば、日本もあの戦争から多々教訓を学びえたはずであるが、もうその後は占領軍の言論統制のなかで、日本の過去はすべて悪だったのだから、戦略の是非など論じるのはおこがましい、極端な場合は「むしろ負けてよかった」というような史観だけが独り歩きすることとなった。

【『重光・東郷とその時代』岡崎久彦(PHP研究所、2001年)/PHP文庫、2003年】

 偶然にも先ほど読んだ箇所に出てきた。読書の醍醐味は知識と知識がつながり、人と人とがつながるところにある。敗戦はつくづく残酷なものだ。日本は反省する機会すら奪われたのだから。しかしながら敗戦から半世紀を経て近代史を見直す動きが現れたことは日本人の魂がまだ亡んでいなかった証左といえよう。

 老人が生活を憂(うれ)えるのは構わない。若者であれば貧しくとも国家を憂(うれ)えよと言いたい。一身の栄誉など踏みつけて国家の行く末を案じるべきだ。

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2018-11-02

もしもアメリカが参戦しなかったならば……/『日米・開戦の悲劇 誰が第二次大戦を招いたのか』ハミルトン・フィッシュ


『國破れて マッカーサー』西鋭夫
・『日本永久占領 日米関係、隠された真実』片岡鉄哉

 ・もしもアメリカが参戦しなかったならば……
 ・建国の精神に基づくアメリカの不干渉主義

『繁栄と衰退と オランダ史に日本が見える』岡崎久彦

日本の近代史を学ぶ

 日本との間の戦争は不必要であった。これは、お互い同士よりも共産主義の脅威をより恐れていた日・米両国にとって、悲劇的であった。われわれは、戦争から何も得るところがなかったばかりか、友好的であった中国を共産主義者の手に奪われることとなった。
 イギリスは、それ以上に多くのものを失った。イギリスは、中国に対しては、特別の利益と特権を有していたし、マレーシア、シンガポール、ビルマ、インドおよびセイロンをも失った。
 蒋介石は、オーエン・ラティモアの悪い助言を受け入れて、日本軍の中国撤兵を要求する暫定協定に反対した。同協定は、蒋介石の中国全土掌握を可能にしたかもしれない。これはヤルタ会談でルーズベルトがスターリンに譲歩を行なったその3年前のことである。
 われわれの同盟であったスターリンの共産軍に対して、満州侵攻を許す理由は何もなかったはずである。蒋介石は、米国の友人として、中国共産主義者の反攻を打ち砕くに必要な、すべての武器および資源を持ちえたはずであった。
 われわれが参戦しなかったならば、すなわち日本のパールハーバー攻撃がなかったならば、事態はどう進展していたか、という疑問はしばしば呈される。この疑問は、詳細な回答を与えられるに値する。
 私は、米国は簡単に日本との間で和平条約を締結できたであろうし、その条約の中で日本は、フィリピンとオランダ領東インドを含む極東における全諸国との交易権とひきかえに、中国およびインドシナからの友好的撤退に合意したであろうことを確信している。

【『日米・開戦の悲劇 誰が第二次大戦を招いたのか』ハミルトン・フィッシュ:岡崎久彦監訳(PHP研究所、1985年/PHP文庫、1992年)】

 ハミルトン・フィッシュは共和党の党首を務めた下院議員で、戦時中の議会においてフランクリン・ルーズベルト(民主党)を批判した人物として広く知られる。

 開戦当初、フィッシュは議会で挙国一致を説きルーズベルト大統領を力強く支持した。ところが後にルーズベルトの秘密外交や日本を戦争にけしかけた手法、更には真珠湾攻撃を事前に知りながらアメリカ海軍を犠牲にしたことなどを知り、大統領を猛々しく糾弾するようになる。戦時中にありながらも議会やマスコミが正常に機能していたところにアメリカの真の勝因があったのだろう。

 フィッシュの指摘によればアメリカは戦略を誤り、友邦のイギリスをも凋落(ちょうらく)させてしまった。その後、ヤルタ体制(1945年)によって冷戦がソ連崩壊(1991年)まで続くことを思えばルーズベルトの判断がどれほどアメリカの国益を損ねたか計り知れない。それまでモンロー主義(孤立主義)を貫いてきたアメリカは以降、次々と世界各地で軍事介入をするようになる。トランプ大統領が掲げるアメリカ・ファーストはルーズベルト以前のアメリカを取り戻すということなのだろう。

 日本が開戦を決意したのは永野修身〈ながの・おさみ〉軍令部総長の言葉に言い尽くされている。「戦わざれば亡国必至、戦うもまた亡国を免れぬとすれば、戦わずして亡国にゆだねるは身も心も民族永遠の亡国であるが、戦って護国の精神に徹するならば、たとい戦い勝たずとも祖国護持の精神が残り、われらの子孫はかならず再起三起するであろう」(昭和16年〈1941年〉9月6日の御前会議)。

 最後の一言に慚愧(ざんき)の念を覚えぬ者があろうか。我々の父祖は子や孫を信じて敗れ去る戦いに臨んだのだ。

 もしもアメリカが参戦しなかったならば……日本は領土を拡大し、アメリカと手を組むことでソ連を封じ込め、中国の共産主義化を防ぐことができたに違いない。しかしながら帝国主義が50年から100年は続き、アジア・中東・アフリカ諸国は植民地のまま21世紀を迎えたことだろう。とすれば大東亜戦争は日米にとっては不幸な戦争であったが、世界のためには植民地の歴史にとどめを刺す壮挙であったと考えるべきだろう。日本人310万人、世界では5000-8000万人(病死・飢餓死を含む)の死者は大惨事であったが、もしも第二次世界大戦がなければ長期間に渡ってもっと多くの人々が殺されたに違いない。

 歴史は死者の存在によって変わる。これが人類の宿痾(しゅくあ)であろう。

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