・『管仲』宮城谷昌光
・『湖底の城 呉越春秋』宮城谷昌光
・大いなる人物の大いなる物語
・律令に信賞必罰の魂を吹き込んだ公孫鞅
・孫子の兵法
・田文の光彩に満ちた春秋
・枢軸時代の息吹き
・『長城のかげ』宮城谷昌光
・『楽毅』宮城谷昌光
・『香乱記』宮城谷昌光
あしきりの刑を受けた孫ピンは白圭の手で助けられ、九死に一生を得る。
――孫子〈そんし〉に、なにかすごみのようなものが、憑(つ)いたな。
と、白圭は感じていた。からだつきやことばづかいにまるみがあるのは、むかしとかわらないが、ひとつちがったのは目である。目に心の風景がうつるとすれば、孫ピンの目のなかに峻谷(しゅんこく)と峻峰(しゅんぽう)がみえた。さらにいえば、その谷と峰とに霧がかかっている。したがって谷の深さと峰の高さをみきわめようがない。そんな感じであった。
【『孟嘗君』宮城谷昌光〈みやぎたに・まさみつ〉(講談社、1995年/講談社文庫、1998年)以下同】
艱難(かんなん)が人を玉と磨き上げる。修羅場が胆力(たんりょく)を養う。威厳とはまとうものではない。死を目前にした孫ピンは、生への執着から離れることができたのであろう。
「よかろう。雨や風の日のほかは、庭で教えよう」
と、孫ピンは入門をゆるし、陽のしたでこの熱心な弟子に教学をさずけることにした。
慶■〈けいウン/さんずい+云〉は身ぶるいした。
あたりの空気をうごかしてくる孫ピンのことばは、かつて耳にした孫ピンのことばとはちがい、神韻(しんいん)といってよい深みをそなえている。あえていえば、孫ピンがくぐりぬけてきた苦難の闇の底知れなさと生死の境にあったうつろいやすい微光、そんなものの存在が、足のない孫ピンの容光から慶ウンにつたわってきた。
戦いにむかう兵は、孫ピンが体験したとおなじ闇と微光の世界に投げこまれる。
それらの兵を凱帰(がいき)させるために、どうしても戦略というものがいる。兵とは民である。民の力で国は富むものであり、その民を兵として酷使し、しかも戦陣で死なすことは、国にとって二倍の損害になる。国の威信をたもつ戦いをまっとうして兵を生還させるのが為政者(いせいしゃ)のつとめであろう。だが、どの国もそこまで考えて兵をつかってはいない。
戦略とは、人のいのちの大切さの上に成り立つものである。
末尾の一文を宮城谷の勝手な想像だと嘲(あざけ)るのは簡単だ。しかしながら合理性を極限まで追求すれば必ず一兵卒(いっぺいそつ)に至る。戦争とは所詮命の奪い合いだ。であるならば、孫ピンが生命を重んじたことは自明といえよう。
孫ピンは教えを請われた。ここに教育の原風景がある。日本の近代を開いたのも、剣豪の修行の如く学び抜いた若者たちであった。限定された教育現場から学問の気風は生まれない。野放しの自由から求道の心は芽生えるのだろう。
威王〈いおう〉の目から田忌〈でんき〉をみると、たしかにこの将軍は勇気にすぐれ、つねに敵軍をみくだして、兵をするどくすすめる指揮ぶりで、自軍に不利が生じても一歩も退かぬたのもしさはあるのだが、それをうらがえせば、
――権(けん)に欠ける。
というみかたができる。権は、臨機応変といいかえてもよい。
城を守りぬくことにおいて、生涯、いちども破れることを知らなかった墨子〈ぼくし〉は、じつは武人ではなく思想家であったのだが、かれは権について、
――所体のなかにおいて、軽重を権(はか)る。これを権という。
と、いっている。所体というのは、あたえられた情況ということであろう。そのなかでものごとの軽さと重さをみきわめることが権であるというのである。また、権は、ものごとの是非(ぜひ)をきめることではなく、利害を正すことである、とも墨子はいっている。
戦争は将軍にとってまさに所体といえるであろう。
権に「かり」の意味があるのは知っていたが、かように深い言葉だったとは露知らず。権力とは「かりの力」というよりも「はかる力」なのだろう。公平な分配のために「はかる」のだ。
ということは平衡感覚を欠いた権力は軽重(けいちょう)を誤る。利権に動かされてしまえば、意図的な加減を加える。労働対価は資本家と国家に吸い取られた挙げ句、経済は停滞してゆく。世界で初めてサラリーマンの源泉徴収を導入したのは日本であった。
主人公・田文〈でんぶん〉と実父である田嬰〈でんえい〉を巡るドラマが伏線となっている。
「いや、白圭〈はくけい〉の子ではないのです。白圭もわたしも、あの子をあずかっているにすぎません」
「ほう、して、その父母は──」
田嬰〈でんえい〉の声に、はっと青欄〈せいらん〉は孫ピンをみつめた。
「天、と申しておきましょう」
孫ピンが微笑すると同時に貌弁〈ぼうべん〉が声をたてて笑った。その笑声に天空の雲が破られたのか、月光が台上にさらさらながれ落ちてきた。
孫ピンの智謀が光る。そして田文こと孟嘗君〈もうしょうくん〉は天を動かす逸材に育ってゆく。
遂に田文〈でんぶん〉は田嬰〈でんえい〉の前に進み出た。子は「なぜ私を殺せと命じたのですか」と質(ただ)した。
「五月の子は、身長が門の高さにひとしくなり、父母にとって害になるということだ」(中略)
田文〈でんぶん〉は笑いたくなった。その笑いをこらえたためか、かれの舌鋒(ぜっぽう)はするどく父にむかった。
「人の命運というものは、天からさずかるものでしょうか。それとも、門からさずかるものでしょうか」
田嬰〈でんえい〉はむすっと口をむすんだ。不快そのものの表情である。
田文は父の気色(きしょく)の変化を恐れなかった。さらに、
「人の命運が天からさずかるものであれば、父上はご心配なさることはありますまい。もしも門からさずかるものであれば、門を高くすればよろしいではありませんか。そうすれば、だれがその門にとどきましょうか」
と、からさをこめていった。
田文は既に孫ピンの下(もと)で学んでいた。戦略とは知略であり機略でもあった。機をとらえて変化の波を起こすのが兵法といえる。
戦争というものは、勝つべくして勝つものであり、軍旅をすすめながら勝算を計(はか)るものではない。それは孫子〈そんし〉の兵法の根幹にある考えかたである。
「謀(はかりごと)を帷幄(いあく)の中(うち)に運(めぐ)らし、勝つことを千里の外(ほか)に決する」(劉邦が軍師の張良を称賛した言葉)のが兵法の道である。逆から考えると勝敗の帰趨(きすう)が不明な戦いは避けるべきである。
かのナポレオンも孫子を愛読した。イギリスの軍事史家リデル・ハートはクラウゼヴィッツの『戦争論』を批判し、『孫子』を称揚した。
・『孫子』の意義
・兵とは詭道なり/『新訂 孫子』金谷治訳注
・日本のデタラメな論功行賞/『孫子 勝つために何をすべきか』谷沢永一、渡部昇一
・はかるという漢字の多さ/『なんでも測定団が行く はかれるものはなんでもはかろう』武蔵工業大学編
・狂者と獧者/『小村寿太郎とその時代』岡崎久彦
・「武」の意義/『中国古典名言事典』諸橋轍次
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