ラベル 物語 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 物語 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2021-12-22

物語の解体/『手にとるようにNLPがわかる本』加藤聖龍


物語の本質~青木勇気『「物語」とは何であるか』への応答
『嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え』岸見一郎、古賀史健
『悩んで動けない人が一歩踏み出せる方法』くさなぎ龍瞬
『反応しない練習 あらゆる悩みが消えていくブッダの超・合理的な「考え方」』草薙龍瞬
『自分を許せば、ラクになる ブッダが教えてくれた心の守り方』草薙龍瞬

 ・物語の解体

『NLPフレーム・チェンジ 視点が変わる〈リフレーミング〉7つの技術』L・マイケル・ホール、ボビー・G・ボーデンハマー
『“偽りの自分”からの脱出』梯谷幸司
『借金2000万円を抱えた僕にドSの宇宙さんが教えてくれた超うまくいく口ぐせ』小池浩
『科学的 本当の望みを叶える「言葉」の使い方』小森圭太
『未処理の感情に気付けば、問題の8割は解決する』城ノ石ゆかり
『マンガでわかる 仕事もプライベートもうまくいく 感情のしくみ』城ノ石ゆかり監修、今谷鉄柱作画
『ザ・ワーク 人生を変える4つの質問』バイロン・ケイティ、スティーヴン・ミッチェル
『人生を変える一番シンプルな方法 セドナメソッド』ヘイル・ドゥオスキン

必読書リスト その五

 NLPとは、Neuro Linguistic Programingの頭文字を取ったもので、日本語では「【神経言語プログラミング】」と訳されます。
 Nは「【ニューロ】(Neuro)」、脳の働きです。私たちがどのように「【五感】」(視覚、聴覚、身体感覚、嗅覚〈きゅうかく〉、味覚)で感じ、考えるかを意味します。
 Lは「【リングイスティック】(Linguistic)」、つまり「【言語】」です。これには、普通に話している「言葉」のほかに、「非言語」も含まれます。非言語とは、「表情」「動作」「姿勢」「呼吸」「声のトーン」など、言語以外で表現する情報のことです。
 そして、Pは「【プログラミング】(Programing)」を意味します。これはその人その人の脳に組み込まれた行動や感情のパターン、記憶のことです。
 NLPは「【五感と言語による体験が脳のプログラムを作り、行動を決定づける】」ことにより、原因(もととなる体験)から結果(現在の状態)へのプロセスに注目していきます。
 そしてNLPでは、プログラムそのものをさまざまな手法で書き換えていくことで、結果をより望ましいものへと変化させることを可能にし、より自分の能力を発揮できる状態へと導いていくのです。
 NLPにはたくさんの考え方やスキルがあります。ただし、その基本にあるものは「【幸福で、成功した人間になるために必要なステップを見つけるテクノロジー】」なのです。

【『手にとるようにNLPがわかる本』加藤聖龍〈かとう・せいりゅう〉(かんき出版、2009年)以下同】

 NLP関連書は数冊読んだがあまりよいものがない。しっくりきたのは本書くらいである。

 直観的に仏教の唯識(ゆいしき)や五蘊(ごうん)を示唆していると受け止めた。ただし仏教では部分から集まるシステムとして捉えるのは同じだが、プログラミングを書き換えるという発想はない。ただ欲望が作動する実体を見つめて、そこから離れることを目的としている。NLPの概念はプラグマティズムを踏襲するもので目から鱗が落ちる。

 NLPの誕生は、1970年代中頃のアメリカです。当時、カリフォルニア大学サンタクルーズ校で言語学の助教授をしていた【ジョン・グリンダー】と同大学心理学と数学を研究していた【リチャード・バンドラー】によって研究されました。この2人がNLPの共同創始者、つまり生みの親です。
 2人は当時、独創的で劇的な治療成果を誇っていた、【ゲシュタルト療法フリッツ・パールズ家族療法バージニア・サティア催眠療法ミルトン・エリクソン】という3名の天才的なセラピスト(心理療法家)に注目しました。
 そして、バンドラーとグリンダーは、彼らのセッション内容を撮影し、言語パターンや姿勢、声のトーン、クライアントに対する反応を徹底的に観察し、分析したのです。その結果、タイプの異なる3人のセラピストから治療に有効だと考えられる多くの「共通パターン」を見つけだしました。
 そして、バンドラーとグリンダー自身もそのパターンを習得し、従来のセラピー以上に短時間で治療を施すことを可能にしました。これらのパターンを体系化したものが、NLPの始まりです。
 その効果は、「PTSD」といわれる心の病に苦しむベトナム戦争体験者をはじめ、長年改善されなかった「恐怖症」などの症状に劇的な変化をもたらし、一度のセッションで治療が完了したこともあるほどでした。

 情報処理をシステムとして捉えるのはサイバネティクスオペレーションズ・リサーチの影響があるのだろう。コンピュータの第三世代が登場するのが1965年である。第二次世界大戦から20年を経て、文明は新しいフェーズに入った。

 成果から技術を求めるところにプラグマティズムの精神が垣間見える。

 西暦1700年か、あるいはさらに遅くまで、イギリスにはクラフト(技能)という言葉がなく、ミステリー(秘伝)なる言葉を使っていた。技能をもつ者はその秘密の保持を義務づけられ、技能は徒弟にならなければ手に入らなかった。手本によって示されるだけだった。

【『プロフェッショナルの条件 いかに成果をあげ、成長するか』P・F・ドラッカー:上田惇生〈うえだ・あつお〉編訳(ダイヤモンド社、2000年)】

「ミステリー(秘伝)」とは密教である。鎌倉仏教の影響もあるのだろうが、日本文化における技や術は個人に限られていて、組織的なアプローチによる研究など望むべくもなかった。一子相伝的な色彩が濃い。

 実は、私たちの【脳は「現実」と「想像」を区別することができません】。
 いま、頭に思い描いているものが「想像」であろうと「現実」であろうと、同じ神経回路を使って処理され、各器官に指令が出されるのです。(中略)
 このように、ある体験を思い出したり、想像したりしているときも、脳にとっては現実に体験しているのと同じ作用が働いています。【何かをイメージするということは、脳にとって現実に体験していることと同じ】なのです。

 つまり、夢を既に実現したものとして感覚的に味わうことで、未来を手繰り寄せる営みである。こうなると因果倶時(いんがぐじ)や本因妙(ほんにんみょう)に近い。

 脳機能をIC(集積回路)になぞらえることで秘密の扉は開いた。デジタルトランスフォーメーションが加速すればヴァーチャル(仮想)とリアリティ(現実)の差は消失する。このバーチャル即リアリティの中心に脳が存在しているのだ。計算は創造へと飛翔する。それでも人間の欲望が変わることはないのであるが。

2019-08-04

小賢しい宗教批判/『幸せになる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教えII』岸見一郎、古賀史健


『アドラー心理学入門 よりよい人間関係のために』岸見一郎
『嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え』岸見一郎、古賀史健

 ・小賢しい宗教批判

・『失敗の科学 失敗から学習する組織、学習できない組織』マシュー・サイド
『ザ・ワーク 人生を変える4つの質問』バイロン・ケイティ、スティーヴン・ミッチェル

青年●わかります。人間の「心」にまで踏み込んでいくのが哲学であり、宗教である、と。それで両者の相違点、境界線はどこにあるのです? やはり「神がいるのか、いないのか」という、その一点ですか?

哲人●いえ、【最大の相違点は「物語」の有無】でしょう。宗教は物語によって世界を説明する。言うなれば神は、世界を説明する大きな物語の主人公です。それに対して哲学は、物語を退(しりぞ)ける。主人公のいない、抽象の概念によって世界を説明しようとする。

青年●……哲学は物語を退ける?

哲人●あるいは、こんなふうに考えてください。真理の探究のため、われわれは暗闇に伸びる長い竿(さお)の上を歩いている。常識を疑い、自問と自答をくり返し、どこまで続くかわからない竿の上を、ひたすら歩いている。するとときおり、暗闇の中から内なる声が聞こえてくる。「これ以上先に進んでもなにもない。ここが真理だ」と。

青年●ほう。

哲人●そしてある人は、内なる声に従って歩むことをやめてしまう。竿から飛び降りてしまう。そこに真理があるのか? わたしにはわかりません。あるのかもしれないし、ないのかもしれない。ただ、【歩みを止めて竿の途中で飛び降りることを、わたしは「宗教」と呼びます。哲学とは、永遠に歩き続けることなのです】。そこに神がいるかどうかは、関係ありません。

【『幸せになる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教えII』岸見一郎、古賀史健〈こが・ふみたけ〉(ダイヤモンド社、2016年)】

 文章の巧みな詭弁で小賢しい宗教批判といってよい。そもそも「竿の上を歩く」という喩えが悪い。竿で想起されるのは釣り竿や物干し竿でその上を歩くという行為がピンと来ない。そもそもあんたが書いている対話自体、物語だろーが(笑)。

 多分頭のどこかに「哲学は神学の婢(はしため)」という言葉があったのだろう(河野與一『哲学講話』)。もちろん心理学はそれ以下だ。

 古賀史健は「抽象の概念」もまた物語であることを見落としている。すなわちアドラーが行う心理療法は「物語の書き換え」に過ぎない。しかも岸見はアドラーに依存し、古賀は岸見に依存しているのである。そこを見過ごしておきながら宗教の物語性を否定するとは片腹痛い。

 社会心理学はアッシュやミルグラムによって巧みな実験が行われてきた(『服従の心理』スタンレー・ミルグラム)。だが心理学や心理療法の世界で厳密な検証やフィードバックが行われているとは言い難い。フロイトは無意識を発見して西洋でもてはやされたが仏教では2000年前からの常識である。何でもかんでもリビドーや性欲に結びつける考え方は拙劣極まりなく、既に過去の人物といった印象が強い。

 一片のデータすら示さずに宗教を批判する姿勢は、新興宗教が既成宗教を批判する手口と一緒だ。マシュー・サイド著『失敗の科学』ではカール・ポパーによるアドラー批判が紹介されている。

2014-05-21

遺伝上の父を知りたい 精子提供で生まれた6人が出版


 私は一体誰なのか。遺伝上の“父”を知りたい――。提供精子による非配偶者間人工授精(AID)で生まれた当事者の声を伝える「AIDで生まれるということ」(萬書房、税抜き1800円)が出版された。誰か分からない男性の精子で生まれたことを知った衝撃、家族との葛藤、永遠に消えることのない苦悩が、本人の言葉でつづられている。

 AIDは無精子症など男性側に不妊原因がある場合に実施される。国内では60年以上の歴史があり、1万人以上が生まれたとされる。近年、精子提供者の情報開示をめぐり、出自を知る権利の議論が高まっている。

 本に登場する当事者は横浜市の医師、加藤英明さん(40)ら30~50代の男女6人。大人になってからAIDの事実を偶然知ったり、両親の離婚などをきっかけに突然知らされたりした。共通するのは、自分が何者か分からないという不安や不気味さだ。

「人生の土台が崩れた」「自分の誕生に男女の『情』というものが存在しなかったという、絶望にも似た気持ち」。涙が止まらず、心療内科に通い続けた女性もいる。

「誰のための技術なのか」という彼らの問い掛けは、子どもを授かりたいという親の願望をかなえる一方、子どもの幸せが置き去りにされている生殖医療の在り方に警鐘を鳴らす。〔共同〕

【日本経済新聞 2014-05-21 夕刊】

AIDで生まれるということ 精子提供で生まれた子どもたちの声

















2014-05-03

保守はゴジラを夢見るか


 佐藤健志〈さとう・けんじ〉の演説口調(コミュニケーション障害か? 中野に話を振っておきながら自分のマイクを口元から離すことがない)が耳障りだがこれは勉強になる。中野剛志〈なかの・たけし〉はいつもより控えめ(笑)。結果的には佐藤が自分の主張のために中野を利用している格好となっている。中野がおとなしいのはそれを割り切っているためだろう。









国家のツジツマ 新たな日本への筋立て(DVD付きデラックス版) (VNC新書)震災ゴジラ!  戦後は破局へと回帰する保守とは何だろうか (NHK出版新書 418)

2014-03-20

誤解、曲解、奇々怪々


 楽しいエッセイを読んだ。以下に一部を引用する。

 大学に入学した頃、学生運動はなかなりし時代とあって、学内でアジ演説を聴く機会が多かった。演説の中で「味噌ひき労働者」という言葉がよく出てきた。「我々学生は味噌ひき労働者と連携して云々(うんぬん)」。零細企業で働く虐げられた労働者と手をたずさえてというほどの意味だろうと推測した。石臼で味噌豆をひく働きづめの老女の姿を思い浮かべ、含蓄のある言葉だなあと一人感じ入ったものである。その後何かの折に都会地出身の友人に話したところ、怪訝(けげん)な顔で「未組織労働者ではないのか」と言われ、驚くやら恥ずかしいやら。我が田舎では「ひ」と「し」の区別もあやしかったのである。

【あすへの話題:「味噌ひき労働者」元宮内庁長官・羽毛田信吾〈はけた・しんご〉/日本経済新聞 2014年3月19日付夕刊】

 聞き間違いが想像力を刺激し具体的な物語を生む。楽しいだけではない。行間には左派学生と一線を画したことまで滲(にじ)ませている。羽毛田は山口県出身のようだ。エッセイ冒頭では「ぞ」を「ど」と発音することも紹介されている。

 不意に昔の記憶が蘇った。勤め人をしていた頃、私は勤務中の空いた時間を使って事務所の周りに花壇をつくった。確か四つほどつくったはずだ。勢いあまって10本ほどの枝垂れ桃と数本のムクゲも植えた。花や木は私の相方を務める事務のオバサンが自宅から持ってきてくれた。このオバサンから花のことを随分教わった。

 ある日のこと、見慣れない花があったので私は尋ねた。「これ、何ていう花なの?」と。すかさず「おだまり!」と返ってきた。3秒ほど沈黙を保った。「で、何ていう名前なの?」「おだまり!」。私は困惑した。そして「花の名前くらい教えてくれたっていいだろうが!」と気色ばんだ。「だから、コデマリって二度も言ったでしょ!」。

 私の場合は聞き間違いから怒りの物語が生まれたわけだが、いずれにしても物語は「情報の受け手」が作成しているところに注目したい。つまり物語とは情報処理の異名なのだ。そこに誤解や曲解があれば奇々怪々の物語が生まれる。検証不可能という点で宇宙人・幽霊・神様は一致している。良質な想像力とは思えない。単なる空想だ。

 賢明さとは低い物語を高い物語に書き換える智慧のことだろう。仮に誤っていたとしても、新たな事実を知ることで更新可能な余裕をもちたい。頑迷な人物が豊かに見えないのは、やはり物語性が貧しいためか。


(コデマリ)

2014-02-04

言語的な存在/『触発する言葉 言語・権力・行為体』ジュディス・バトラー


 言葉で傷つけられたと主張するとき、わたしたちは何を語っているのか。行為(エイジェンシー)の元凶は言葉であり、人を傷つける力だと言って、自分たちを、中傷が投げつけられる対象の位置におく。言葉がはたらく――言葉が自分に攻撃的にはたらく――と主張するが、その主張がなされる次元は、言語のさらなる段階であり、そのまえの段階で発動された力をくい止めようとするものである。ということは存在――どんな検閲行為によっても事前に緩めることができない拘束状態におかれている存在――ということになる。
 では、かりにわたしたちが言語的な存在でなければ、つまり存在するために言語を必要とするような存在でなければ、言葉によって中傷されることはなくなるのだろうか。言語に対して被傷性をもっているということは、言語の語彙のなかでわたしたちが構築されているゆえの、当然の帰結ではないか。わたしたちが言語によって形成されているなら、その言語の形成力は、どんな言葉を使うかをわたしたちが決定するまえに存在しており、またわたしたちの決定を条件づけてもいる。つまり言語は、いわばその先行力によって、そもそもの初めから、わたしたちを侮辱していると言える。

【『触発する言葉 言語・権力・行為体』ジュディス・バトラー:竹村和子訳(岩波書店、2004年)】

 人間は物語を生きる動物である。社会は物語を必要とする。歴史は物語そのものだ。我々はルール、道徳、感情、理性、知性を物語から学ぶ。というよりは物語からしか学ぶことができない。こうして人間は「語られるべき存在」となった。続いて書字が記録という文化を生む。人間は「歴史的(時間的)存在」と化した。

 ヒトの脳が大型化したのは240万年前といわれる(『人類進化の700万年 書き換えられる「ヒトの起源」』三井誠)。


 昨夜このあたりを検索しまくっているうちに時間切れとなってしまった。ま、よくあることだ。私は検索しはじめると止まらなくなる癖があるのだ。

 色々調べたのだが、やはり私の直観では脳の大型化と言語の獲得は同時であったように思われる。適者生存が進化の理(ことわり)であるならば、ヒトには何らかの強い淘汰圧が掛かったのだろう。そして言語の獲得が社会を形成したはずだ。脳は神経の、言語は音声の、そして社会は人のネットワークである。つまり脳の大型化はそのまま広範な社会ネットワークにつながる。

 言語の起源については諸説あるが、ジュリアン・レインズは右脳から神の指示語が発したとしている(『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』)。

 ま、わかりやすく申せば、卑弥呼みたいなのが突然登場して、人々がそのお告げやら物語に賛同すれば、社会の価値観は共有されるわけだ。

 話を元に戻そう。社会の中で生きる我々は「言語的な存在」であることを回避できない。まず名前という記号があり、性格があり過去があり仕事があり趣味があるわけだが、これらは言葉でしか表現し得ない。私は短気であるが、万人の前で短気を発揮しているわけではない。見知らぬ人の前では誰もが無性格な存在なのだ。

 では反対側から考えてみよう。私という人間を言葉で表現し尽くすことは可能だろうか? 無理に決まっている。例えば私の顔を言葉であなたに伝えることはほぼ不可能である。すなわち「言語的な存在」とは言葉の範疇(はんちゅう)に押し込められた存在なのだ。その意味で確かに言語は「わたしたちを侮辱している」。

 社会というのはおかしなもので個性を発揮する必要に迫られる。例えば蝉を見た時、そこに個性は感じない。蝉という種(しゅ)を感じるだけだ。蝉の側から見ればヒトもそんなものだろう。だが我々は他人と同じであることに耐えられない。私は他の誰とも異なり、かけがえのない存在であることを力説し、願わくは私を重んじるよう説得する。そのために学歴を積み重ね、身体能力を磨くのだ。ってことはだよ、社会ってのは最初っからヒエラルキーを形成していることになる。

 だからこそ語れば語るほど自分がいかがわしい存在となってゆくのだ。

 それゆえ、真実は「語る」ことと「騙る」ことの間にある、と言うべきであろう。

【『物語の哲学』野家啓一】

 うっかり本音を漏らすことを「語るに落ちる」というが、語ることには落とす力が秘められているような気がする。

「私は私だ」という物語から離れる。自己実現などという欺瞞を見抜き、私は何者でもなくただ単に生きる存在であり死にゆく存在である事実を自覚する。これを諸法無我とは申すなり。

触発する言葉―言語・権力・行為体


ブリコラージュ@川内川前叢茅辺

2013-11-28

60年前の赤ちゃん取り違えに思う


 3800万円――これが60年間にわたって失われた「何か」の対価であった。

 原告の実の両親は取り違えの事実を知らないまま他界しており、判決(で宮坂昌利裁判長)は「生活環境の格差は歴然としており、男性は重大な不利益を被った。真の親子の交流を永遠に絶たれた両親と男性の喪失感や無念は察するに余りある」と述べた。(読売新聞 2013年11月27日)

 原告の60歳男性はどのような人生を歩んできたのだろうか?

 2歳の時に養父が死亡。1人の子供は死亡したが、養母は生活保護を受けながら女手一つで原告ら3人の子供を育て上げた。一家が暮らす6畳の部屋には、当時、他の家庭に普及しつつあった家電製品は何一つなく、2人の兄は中学卒業後、すぐに働き始めた。(産経新聞 2013年11月27日)

 男性は、中学卒業と同時に町工場に就職。自費で定時制の工業高校に通った。今はトラック運転手として働く。
 取り違えられたもう一方の新生児は、4人兄弟の「長男」として育ち、不動産会社を経営。実の弟3人は大学卒業後、上場企業に就職した。(毎日新聞 2013年11月27日)

 そうした数々の苦労が「新生児取り違え」に端を発していると考えられる。

「違う人生があったとも思う。生まれた日に時間を戻してほしい」(毎日新聞 2013年11月27日)

 原告の60歳男性はこう語った。不幸な事件である。赤ちゃん取り違えは今に始まったことではないが。

 一方15分後に生まれて裕福な家に送られてしまった男性はどうなのか? 当然、「生まれた日に時間を戻して」ほしくないはずだ。何もなければフラットな人生であったとすれば、マイナスとプラスは釣り合うはずだ。とすると裁かれたのは貧困であったのだろうか? 多分そうなのだろう。「失われた機会」といえば聞こえはいいが、結局のところ「貧しさは罪である」ということになる。

 もっとわかりやすく述べよう。15分後に生まれた裕福男性が同病院を訴えた場合、果たして賠償金はいくらになるのか? 数学的に考えれば「3800万円-実の両親と過ごすことのできなかったことに対する金額」を原告に支払えと命じることになりそうなものだが……。

 だが、訴訟を起こさなくても裕福男性には不幸の影が忍び寄っていた。

 交わることのなかった2家族の運命が動いたのは平成20年。実弟3人が「兄」とされてきた男性を相手取り、自分たちの両親との間に親子関係がないことを確認する訴訟を起こした。(産経新聞 2013年11月2日)

 ただ単にDNA鑑定で済まなかったのは相続か何かが絡んでいるような気がする。しかも60歳男性の訴訟は、

 実弟3人とともに病院側に約2億5000万円の損害賠償を求めた訴訟(毎日新聞 2013年11月27日 大阪朝刊)

 であった。

 人間は物語を生きる動物である。それは「不幸な物語」と「幸福な物語」に大別される。60年前に入れ替わったのは不幸と幸福であった。その事実を知ったことで60歳原告男性のリアルな過去は完全に否定された。ここに正真正銘の不幸がある。

 判決そのものに異論はないが、「人間は環境に支配される動物である」と言われているような気がして腑に落ちないものがある。取り違えがなければもっと幸せな人生を送れたはずだ、というのは空想に過ぎない。取り違われたおかげで交通事故死しなくて済んだのかもしれないし、事件に巻き込まれて殺害されずに済んだのかもしれない。もちろんこれまた空想だ。だが実際のことは誰にもわからない。

 不幸は、そう判断することによって生まれるのだろう。幸福もまた。

2013-11-21

エリザベス・ロフタス「記憶が語るフィクション」~偽りの記憶


 心理学者のエリザベス・ロフタスは、記憶の研究をしています。正確には、彼女が研究しているのは「偽りの記憶」――起きてもいないことの記憶や、事実とは違う形で残っている記憶です。こうした虚偽記憶は、一般に考えられているより普通にあることです。ロフタスは、衝撃的な事例や統計を紹介し、私たちが考えるべき重要な倫理的問題を提示します。


 戦争やジェノサイドに至る道程には偽りの記憶が無数に存在することだろう。記憶は偽る。自らが捏造し、他人が書き換えることによって。人間は物語(フィクション)を生きる動物であることがよく理解できる。そして人類は21世紀になっても尚、宗教というフィクションにすがりついているのだ。

抑圧された記憶の神話―偽りの性的虐待の記憶をめぐって目撃証言目撃者の証言

証言の心理学―記憶を信じる、記憶を疑う (中公新書)記憶はウソをつく (祥伝社新書 177)目撃証言の心理学

偽りの記憶/『なぜ人はエイリアンに誘拐されたと思うのか』スーザン・A・クランシー
現実認識は「自己完結的な予言」/『クラズナー博士のあなたにもできるヒプノセラピー 人生を成功に導くための「暗示」の作り方』A・M・クラズナー
『交通事故鑑定人 鑑定暦五〇年・駒沢幹也の事件ファイル』柳原三佳
あと知恵バイアス
「社会への同調」で生まれる「ニセの記憶」:WIRED.jp

2013-11-12

いじめに関する覚え書き



『あなたのなかのサル 霊長類学者が明かす「人間らしさ」の起源』フランス・ドゥ・ヴァール






『ルワンダ大虐殺 世界で一番悲しい光景を見た青年の手記』レヴェリアン・ルラングァ
両親の目の前で強姦される少女/『女盗賊プーラン』プーラン・デヴィ


凌遅刑(りょうちけい)


2013-11-10

読後の覚え書き/『カルト脱出記 エホバの証人元信者が語る25年間の記録』佐藤典雅


『幸福の科学との訣別 私の父は大川隆法だった』宏洋
エホバの証人の輸血拒否

 ・読後の覚え書き
 ・子供を虐待するエホバの証人

『良心の危機 「エホバの証人」組織中枢での葛藤』レイモンド・フランズ

エホバの証人批判リンク集

 私は若い頃からエホバの証人とは幾度となく接してきた。二十歳の時、長老と思しきオッサンを完膚なきまでに論破したのが最初であった。爾来、40人前後のエホバとやり取りしてきた。エホバの書籍も読んだが負けることはなかった。あらゆる宗教はその「信ずる行為」において必ず合理性から飛躍せざるを得ない。そこに致命的な誤りがある。厳密な知的検証に耐えられるのは初期仏教のみであろう。

 エホバの証人で活動している多くは女性である。伝道に時間的ノルマを課せられているためだ(詳細は「エホバの証人の組織構造」を参照せよ)。私は真面目で真摯な彼女たちに対してかなり好感を抱いていた。ただし八王子で接した連中はかなりレベルが低かった。本書によれば地域によっては高齢化が進み、士気の低下が著しいとのこと。そう。いかなる組織も日本社会の縮図であることを避けようがないのだ。

 宗教に翻弄される一家の姿が鮮やかに描かれている。徹底した活動と研鑚がやがて懐疑に至る。大多数の信者はアイデンティティの欠如を教団への忠誠心で補っているだけだ。これはどこも一緒だ。彼らの脆弱な自我は「疑う」ことを知らず、安易に世間を批判し、裏切り者を叩くことで歪んだ自己満足を覚えるのだ。

 佐藤は懐疑を手放さなかった。自分の頭で考え抜いた。そして知性が感情をリードした瞬間に洗脳は解けた。過去の自分が「見えた」。

 それにしても児童虐待の件(くだり)は酷い。親同士は教会で虐待を奨励し合い、具体的な手法まで情報交換するという。この一点を取り上げても邪教といってよいだろう。

 神に関わる人間と戦争に関わる人間は妙に似ているな。

【『ブラッド・メリディアン』コーマック・マッカーシー:黒原敏行訳(早川書房、2009年)】

 布教は宣教であり形を換えた戦争なのだ。そしてキリスト教の歴史は暴力と血で染まっている。


 殆どの教団は憎悪生産装置として作動する。

大田俊寛と佐藤剛裕の議論から浮かんでくる宗教の危うさ


 やはりダニエル・C・デネットがいうように宗教とはウイルスである可能性が高い。以下のページでアリとカタツムリを支配するゾンビのような菌類の動画を紹介しているので参照されよ。

ウイルスとしての宗教/『解明される宗教 進化論的アプローチ』 ダニエル・C・デネット

 しかも菌類が寄生することで昆虫たちは「長生き」できるのだ。

 佐藤は上品な家庭で育ったせいか、かなり脇が甘い。母親に対して一切の反撃を控えてきた。本書を丹念に読んでゆくと後半にその答えがすべて書かれている。

 なかんずく教団離脱後のアイデンティティ・クライシスが象徴的だ。エホバはコミュニティとしての機能はあるが人材を育成する組織的機能を欠く。つまりコミュニケーションによって自分を磨く術(すべ)がないのだ。

 だから江原啓之〈えはら・ひろゆき〉の本なんぞに手を出すのだろう。そこで『スッタニパータ』かクリシュナムルティに進めば悩む必要はなかったはずだ。すなわちそれまでの価値観が本の選択をも左右するのだ。

蛇の毒/『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳
宗教とは何か?/『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ



 懐疑から否定が生まれる。だが実はそこで自分が高みを目指しているのか、それとも単なる逃避に向かうが問われるのだ。佐藤は宗教をプラグマティックに考えているようだがそれは誤りだ。なぜなら効用と合理性は異なるからだ。


 佐藤がエホバの証人を批判しつつも、その批判から離れることができればアイデンティティの問題なんぞ雲散霧消するであろう。

 などとケチをつけたところで本書が良書である事実に変わりはない。amazonの宗教カテゴリーで1位というのも頷ける。

 尚、「物語の装置」としてはエホバの証人であろうと創価学会であろうと共産党であろうとボランティアであろうと一緒だ。


ノリブロ - 持論自論ブログ(佐藤典雅)



【付記】佐藤がジョン・コールマン著『300人委員会』を読んでいながら、『ZEITGEIST(ツァイトガイスト) 時代精神』を知らないのは情報収集の仕方に問題があると言わざるを得ない。私はここからクリシュナムルティに至ったのだ。

2013-07-04

バイロン・ケイティは現代のアルハットである/『ザ・ワーク 人生を変える4つの質問』バイロン・ケイティ、スティーヴン・ミッチェル


『ものぐさ精神分析』岸田秀
『続 ものぐさ精神分析』岸田秀
『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』ユヴァル・ノア・ハラリ
『生きる技法』安冨歩
『消えたい 虐待された人の生き方から知る心の幸せ』高橋和巳
『どんなことがあっても自分をみじめにしないためには 論理療法のすすめ』アルバート・エリス
『嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え』岸見一郎、古賀史健
『悟りの階梯 テーラワーダ仏教が明かす悟りの構造』藤本晃
『ストーリーが世界を滅ぼす 物語があなたの脳を操作する』ジョナサン・ゴットシャル
『手にとるようにNLPがわかる本』加藤聖龍
『NLPフレーム・チェンジ 視点が変わる〈リフレーミング〉7つの技術』L・マイケル・ホール、ボビー・G・ボーデンハマー
『奇跡の脳 脳科学者の脳が壊れたとき』ジル・ボルト・テイラー
『未処理の感情に気付けば、問題の8割は解決する』城ノ石ゆかり
『マンガでわかる 仕事もプライベートもうまくいく 感情のしくみ』城ノ石ゆかり監修、今谷鉄柱作画
『ザ・メンタルモデル 痛みの分離から統合へ向かう人の進化のテクノロジー』由佐美加子、天外伺朗
『無意識がわかれば人生が変わる 「現実」は4つのメンタルモデルからつくり出される』前野隆司、由佐美加子
『ザ・メンタルモデル ワークブック 自分を「観る」から始まる生きやすさへのパラダイムシフト』由佐美加子、中村伸也
『過去にも未来にもとらわれない生き方 スピリチュアルな目覚めが「自分」を解放する』ステファン・ボディアン

 ・バイロン・ケイティは現代のアルハットである
 ・認識のフレームを転換するメソッド

『人生を変える一番シンプルな方法 セドナメソッド』ヘイル・ドゥオスキン
『タオを生きる あるがままを受け入れる81の言葉』バイロン・ケイティ、スティーヴン・ミッチェル
『わかっちゃった人たち 悟りについて普通の7人が語ったこと』サリー・ボンジャース
『悟り系で行こう 「私」が終わる時、「世界」が現れる』那智タケシ
『二十一世紀の諸法無我 断片と統合 新しき超人たちへの福音』那智タケシ
『気づきの視点に立ってみたらどうなるんだろう? ダイレクトパスの基本と対話』グレッグ・グッド
『さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる』エックハルト・トール
『ニュー・アース』エックハルト・トール
『覚醒の炎 プンジャジの教え』デーヴィッド・ゴッドマン

虐待と知的障害&発達障害に関する書籍
悟りとは
必読書リスト その五

 世界にはたった3種類の領域しかありません。私の領域、あなたの領域、そして神の領域です。私にとって、神という言葉は「現実」を意味します。現実こそが世界を支配しているという意味で、神なのです。私やあなた、みんながコントロールできないもの、それが神の領域です。
 ストレスの多くは、頭の中で自分自身の領域から離れたときに生じます。「(あなたは)就職した方がいい、幸せになってほしい、時間通りに来るべきだ、もっと自己管理する必要がある」と考えるとき、私はあなたの領域に入り込んでいます。一方で、地震や洪水、戦争、死について危惧していれば、神の領域に入っていることになります。私が頭の中で、あなたや神の領域に干渉していると、自分自身から離れてしまうことになります。

【『ザ・ワーク 人生を変える4つの質問』バイロン・ケイティ、スティーヴン・ミッチェル:ティム・マクリーン、高岡よし子監訳、神田房枝訳(ダイヤモンド社、2011年/安藤由紀子訳、アーティストハウスパブリッシャーズ、2003年)】

 私が「現代のアルハット(=阿羅漢)」と考える人物は二人いる。その筆頭格がバイロン・ケイティである(もう一人はジル・ボルト・テイラー)。彼女は元々悪い母親であった。ところが病気を通して悟りを得る。そこから導き出されたのが「ザ・ワーク」である。

 相手(もちろん自分でも構わない)の悩みに対して四つの質問をするだけという極めてシンプルなものだ。

「それは本当でしょうか?」
「その考えが本当であると、絶対言い切れますか?」
「そう考えるとき、(あなたは)どのように反応しますか?」
「その考えがなければ、(あなたは)どうなりますか?」

 たったこれだけだ。だがこの深遠なる問いによって悩みは完全に相対化されるのだ。つまりブッダの説法と同じ原理だ。ま、論より証拠、見てごらんよ。


 凄い……。何が凄いかって、彼女は全く誘導していないのだ。にもかかわらず問い掛けるだけで、相手は自ら問題の本質を悟っている。つまり、「世界が変わった」のだ。バイロン・ケイティが言うところの「ストーリー」と私が常々触れている「物語」とは全く同じ意味だ。

 彼女は「領域」という言葉で異なる世界を表現している。親が子に「お前はこうするべきだ」と語る時、子は親の所有物と化していることが多い。親はよかれと錯覚しながら、子の人生を操縦しようとするのだ。教育や宗教も同様であろう。

 感化と言えば聞こえはよい。だがブッダは感化を否定している。


 もちろんクリシュナムルティも否定している。

 学びとは理解することを愛し、ものごとをそれ自体のために行なうことを愛することを含蓄している。学びは、一切の強制がないときにだけ可能である。そして強制は、さまざまな形をとるのではないだろうか? 感化、固執、脅し、言葉たくみな激励、あるいは微妙な形の報いによる強制があるのだ。

【『未来の生』J・クリシュナムルティ:大野純一訳(春秋社、1989年)】

 たとえその子が、彼に対するあなたの愛ゆえにいたずらをやめたとしても、それでは一種の感化であり、それは本当の変化でしょうか。それは愛かもしれませんが、それでも、何かをしたり、何かになるようにという、その子に対する一つの形の圧力です。そしてあなたが、子供は変化しなければならないと言うとき、それはどういうことでしょう。何から何への変化でしょうか。ありのままの彼が、【あるべき】彼に変化するのでしょうか。あるべき彼に変化するなら、彼はかつての自分を単に修正しただけであり、それゆえにまったく変化ではないのでしょう。

【『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ:藤仲孝司〈ふじなか・たかし〉訳(平河出版社、1992年)】

 バイロン・ケイティのワークは在りし日のブッダを彷彿(ほうふつ)とさせる。ブッダもクリシュナムルティも「偉大なる問い」を発する人であった。安易な答えを人々に教えるだけであれば、彼らの名前はこれほどの響きを持たなかったはずだ。

 占ってもらう必要はない。祈ってもらう必要もない。本書を開いてただワークシートに記入するだけでよいのだから。



すべてが私を支えている/『探すのをやめたとき愛は見つかる 人生を美しく変える四つの質問』バイロン・ケイティ
血で綴られた一書/『生きる技法』安冨歩
序文「インド思想の潮流」に日本仏教を解く鍵あり/『世界の名著1 バラモン教典 原始仏典』長尾雅人責任編集、『空の思想史 原始仏教から日本近代へ』立川武蔵
『歴史的意識について』竹山道雄

2012-08-13

賽は投げられた

New Game - New Luck

 ルビコン川を渡らんとするまさにその時カエサルは叫んだ。「ここを渡れば人間世界の悲惨、渡らなければわが破滅。進もう、神々の待つところへ! 我々を侮辱した敵の待つところへ! 賽(さい)は投げられた!」と。あとは決まった運命を確認しにゆくだけだ。

 我々の脳は「因果という物語」に支配されている。サイコロの目は幸運と不運とに書き換えられる。ま、キリスト教の運命も仏教の宿命も似たようなものだ。どちらも形を変えた決定論と考えてよかろう。

 サイコロは物理的法則によって動くわけだがそれだけではない。必ず何らかの不確実性が働く。因果が絶対的なものであると考えるのは信仰者だけだ。

 全知全能の神様はラプラスの悪魔となり、ハイゼンベルク不確定性原理がこれを打ち砕いた。

 賽は投げられた――しかし、どの目が出るかは神様にもわからない。

2012-08-11

ニーチェ的な意味のルサンチマン/『道徳は復讐である ニーチェのルサンチマンの哲学』永井均


ルサンチマンの本質

 定義的にいうと、ルサンチマンとは、現実の行為によって反撃することが不可能なとき、想像上の復讐によってその埋め合わせをしようとする者が心に抱き続ける反復感情のことだ、といえますが、このルサンチマンという心理現象自体がニーチェの問題だったわけではありません。ルサンチマン自体についても、最後に問題にするつもりではありますけど、ニーチェの問題は、ルサンチマンが創造する力となって価値を産み出すようになったとき、道徳上の奴隷一揆が始まるということであり、そして【実際にそうであった】、ということなのです。つまり我々はみなこの成功した一揆でつくられた体制の中にいて、それを自明として生きている、ということがポイントなのです。この点を見逃すか無視してしまうと、ニーチェから単なる個人的な人生訓のようなものしか引き出せなくなってしまいます。
 さて、ルサンチマンに基づく創造ということに関してまず注目すべき点は、初発に否定があるという点です。つまり、他なるものに対する【否定から出発する】ということが問題なのです。価値創造が否定から始まる、だからそれは本当は創造ではなく、本質的に価値転倒、価値転換でしかありえないのです。
 狐と葡萄の寓話でいうとこうなります。狐は葡萄に手が届かなかったわけですが、このとき、狐が葡萄をどんなに恨んだとしても、ニーチェ的な意味でのルサンチマンとは関係ありません。ここまでは当然のことなのですが、重要なことは「あれは酸っぱい葡萄だったのだ」と自分に言い聞かせて自分をごまかしたとしても、それでもまだニーチェ的な意味でのルサンチマンとはいえない、ということです。狐の中に「甘いものを食べない生き方こそが【よい】生き方だ」といった、自己を正当化するための転倒した価値意識が生まれたとき、狐ははじめて、ニーチェが問題にする意味でルサンチマンに陥ったといえます。(「星の銀貨」のもつ特別な価値も、この観点から理解すべきです。)

【『道徳は復讐である ニーチェのルサンチマンの哲学』永井均〈ながい・ひとし〉(河出書房新社、1997年/河出文庫、2009年)】

 ルサンチマンというキーワードの覚え書きとして保存しておく。

 この言葉自体はキェルケゴール(1813-1855年)が確立した後、ニーチェ(1844-1900年)が鼓吹(こすい)し、マックス・シェーラー(1874-1928)が宣揚したとのこと。とすればナポレオン(1769-1821年)が近代の扉を開けて、ちょっと廊下を進んだあたりに「自我の台頭」があったと見ていいだろう。生が死によって逆照射されるように、自我は抑圧を覚えることで芽生えるのだ。

E・H・カー「民衆は、歴史以前の民衆と同じことで、歴史の一部であるよりは、自然の一部だったのです」

 永井はああでもないこうでもないと言葉をこねくり回しているが、ルサンチマンとは「劣情を正当化する物語の書き換え作業」といって構わないだろう。

 ナポレオン法典(フランス民法典)の影響も見逃せない。つまりそれまでは道徳が手を縛っていたわけだが、法律が足をも縛ったわけだ。人々は問題解決の最終手段である「暴力」を奪われた。

 簡単に結論を述べてしまおう。ルサンチマンを抱くのは「暴力を振るえない」人々である。正義と暴力には親和性がある。否、正義とは形を変えた暴力といってよい。

道徳は復讐である―ニーチェのルサンチマンの哲学 (河出文庫)

Nietzsche 1875

2012-02-06

アニミズムという物語性の復権/『ネイティヴ・アメリカンの教え』写真=エドワード・S・カーティス


 昨日、色々と調べたところ「ネイティブ・アメリカン」なる言葉が政治用語であることを知った。

 全米最大のインディアン権利団体「AIM(アメリカインディアン運動)」は「ネイティブ・アメリカン」の呼称を、「アメリカ合衆国の囚人としての先住民を示す政治用語である」と批判表明している。

Wikipedia



言い換えに対する議論

 近年、日本のマスコミ・メディアにも見られる、故意に「インディアン」を「ネイティブ・アメリカン」、「アメリカ先住民」と言いかえる行為は、下項にあるように「インディアンという民族」を故意に無視する行いであり、民族浄化に加担している恐れがある。
 この呼び替え自体はそもそも1960年代の公民権運動の高まりを受けて、アメリカ内務省の出先機関である「BIA(インディアン管理局)」が使い始めた用語で、インディアン側から出てきた用語ではない。
 この単語は、インディアンのみならず、アラスカ先住民やハワイ先住民など、アメリカ国内の先住民すべてを指す意味があり、固有の民族名ではない。 
 また、「ネイティブ・アメリカン」という呼称そのものには、アメリカで生まれ育った移民の子孫(コーカソイド・ネグロイド・アジア系民族など)をも意味するのではないかという議論もある。

【同】

 というわけで本ブログも「アメリカ先住民」から「インディアン」へとカテゴリー名を変更した次第である。差別問題はかように難しい。わたしゃ、「インディアン」の方が差別用語だと思い込んでいたよ。

Before the storm -1906

 インディアンの思想はアニミズムである。精霊信仰だ。我々日本人にとっては馴染み深い考え方である。神社には必ずといっていいほど御神木(ごしんぼく)が存在する。

 科学的検証は措(お)く。人間社会は物語性がなければ枠組みを保つことができない。そしてグローバルスタンダードの波は、キリスト教世界――より具体的にはアングロサクソン人――から起こってアジアの岸辺を洗う。問題はキリスト教だ。

 キリスト教は人間を「神の僕(しもべ)」として扱い奴隷化する。そして神の代理人を自認するアングロサクソン人が有色人種を奴隷化することは自然の流れだ。例えばスポーツにおける審判に始まり、裁判、社外取締役などは明らかに神の影響が窺える。

 ヨーロッパはまだ穏やかだが、アメリカのキリスト教原理主義は目を覆いたくなるほど酷い。元々、ファンダメンタルズ(原理主義、原典主義/神学用語では根本主義)という言葉はプロテスタントに由来している。それがいつしかイスラム過激派を詰(なじ)る言葉として流通するようになったのだ。

 キリスト教世界は十字軍~魔女狩りと、神の命令の下(もと)で大虐殺を遂行してきた。魔女狩りを終焉させたのが大覚醒であったとする私の持論が確かであれば、虐殺の衝動はヨーロッパからアメリカへ移動したと見ることができる。

何が魔女狩りを終わらせたのか?

 つまり近代史の功罪はアメリカ建国の歴史を調べることによって可能となる、というのが私のスタンスである。

Edward S. Curtis - Red Hawk at an Oasis in the Badlands (1905)

 アングロサクソン人はアメリカ大陸に渡り、虐殺の限りを尽くした。インディアンは間もなく壊滅状態となった。なぜか? それはあまりにもインディアンが平和主義者であったためだ。人を疑うことを知らない彼らはアルコールを与えられ、酔っ払った状態で土地売買の契約書にサインをさせられた。文字を持たないインディアンはひとたまりもなかった。

 アングロサクソン人が葬ったインディアン。彼らの思想に再び息を吹き込み、その物語性を復興させることが、キリスト教価値観に対抗する唯一の方途であると私は考える。

安田喜憲

 われらは教会をもたなかった。
 宗教組織をもたなかった。
 安息日も、祭日もない。
 われらには信仰があった。
 ときに部族のみなで集(つど)い、うたい、祈った。
 数人のこともあった。
 わずか2~3名のこともあった。
 われらの歌に言葉は少ない。
 それは日ごろの言葉ではない。
 ときとして歌い手は、音調を変えて、
 思うままに祈りの言葉をうたった。
 みなで沈黙のまま祈ることもある。
 声高に祈ることもある。
 年老いたものが、ほかのみなのために祈ることもある。
 ときにはひとりが立ち上がり、
 みなが互いのために行なうべきことを
 ウセン(※アパッチ族における創造主。大いなる霊)のために行なうべきことを、語ることもあった。
 われらの礼拝は短かった。

  チリカワ・アパッチ族 酋長
  ジェロニモ(ゴヤスレイ)〈1829-1909〉

【『ネイティヴ・アメリカンの教え』写真=エドワード・S・カーティス:井上篤夫訳(ランダムハウス講談社文庫、2007年)以下同】

Tributo a Gerónimo (1829-1909)

Geronimo

Geronimo by Edward S. Curtis

ジェロニモ
『ヒトデはクモよりなぜ強い 21世紀はリーダーなき組織が勝つ』オリ・ブラフマン、ロッド・A・ベックストローム

 原始のよりよき宗教性が脈動している。宗教コミュニティはタブーを共有するところに目的がある。タブーを様式化したものが戒律だ。ところがインディアンの信仰には断罪的要素が少ない。このあたりも研究に値すると思われる。

 そして私が注目するのは「祈り」が願望を意味していない事実である。既成宗教なかんずく新興宗教は人々の欲望をくすぐり、財布の紐を緩くさせようとあの手この手で勧誘をする。あの世をもって脅し、この世の春を謳歌するのは教団のみだ。

 インディアンの信仰はコミュニケーションを闊達なものにしていることがわかる。真の祈りは、願いとも誓いとも無縁なものであろう。聖なるものに頭(こうべ)を垂れ沈黙に浸(ひた)るところに祈りの本義があると私は考える。

Edward S. Curtis.  Dancing to restore an eclipsed moon - Qagyuhl (The North American Indian; v.10)

 インディアンが羽根飾りを身につけているのは、
 大空の翼の親族だからだ。

 オグララ・スー族 聖者
 ブラック・エルク〈1863-1950〉

Edward S Curtis_1905_Dakota-Sioux-Man_Stinking Bear

 インディアンは誇り高い。彼らは「神と共に在る者」だ。彼らの言葉は具体性に満ちながらも高い抽象度を維持する。形而下と形而上を自在に往来する響きが溢れる。

 わたしは貧しく、そのうえ裸だ。
 だが、わたしは一族の酋長だ。
 富を欲しいとは思わないが
 子どもたちを正しく育てたいと思っている。
 富はわれらによいものをもたらさない。
 向こうの世界にもっていくことはできない。
 われらは富を欲しない。
 平和と愛を欲している。

 オグララ・スー族 酋長
 レッド・クラウド(マクピヤ=ルータ)〈19世紀後半〉

1904 - Yebichai War Gods - Edward S. Curtis - Photogravure - Past Present Gallery

「富よりも平和を」――我々が完全に見失った価値観である。富は社会をズタズタにする。富は人間をして暗い道へと引きずり込む。富は光り輝き、社会に影を落とす。

 古きインディアンの教えにおいて
 大地に生えているものはなんであれ
 引きぬくことはよくないとされている。
 切りとるのはよい、だが、根こそぎにしてはならない。
 木にも、草にも、魂がある。
 よきインディアンは、大地に生えているものを
 なんであれ引きぬくとき、悲しみをもって行なう。
 ぜひにも必要なのだと、許しを請(こ)う祈りを捧げながら。

 シャイアン族
 ウッデン・レッグ〈19世紀後半〉

 持続可能性のモデルがここにある。

世界中でもっとも成功した社会は「原始的な社会」/『人間の境界はどこにあるのだろう?』フェリペ・フェルナンデス=アルメスト

 変化の激しい社会は変化によって滅ぶ。

 それにしても彼らの相貌は力強い線で描かれたデッサンのような趣がある。眼光から穏やかな凛々しさを発している。

 インディアンの言葉を編んだ本はいずれも散慢なものが多い。それでも開く価値はある。人間が放つ光は神にもひけを取らない。彼らの英知と悟性が21世紀を照らしてくれることだろう。

Native American Edward Curtis Slow Bull's Wife

Swallow Bird-Apsaroke

Sigesh-Apache

2012-01-12

物語る行為の意味/『物語の哲学』野家啓一


 ・物語る行為の意味
 ・物語の反独創性、無名性、匿名性

『死と狂気 死者の発見』渡辺哲夫
『アラブ、祈りとしての文学』岡真理
『プルーストとイカ 読書は脳をどのように変えるのか?』メアリアン・ウルフ
『ストーリーが世界を滅ぼす 物語があなたの脳を操作する』ジョナサン・ゴットシャル

必読書リスト

 筆が重い。読んでから数年が経っているためだ。抜き書きを並べて誤魔化すことにしよう。以下の記事の続きである。

物語の本質~青木勇気『「物語」とは何であるか』への応答

「世界は何によって動いているのか?」――私は10代の頃からそんな疑問を抱いていた。それゆえ、まず「世界はお金で動いているのだろうか?」と考え続けた。

 日経平均は1989年12月29日に史上最高値である3万8957円をつけた。そこからバブル崩壊の坂道を転がり続け現在にまで至る。一般人が気づいたのは数年後のことだ。バブルの酔いを醒ましたのはリストラの嵐であった。

 いつまで経っても中小企業の社長たちはバブルの季節を懐かしんでいた。少しばかり巧い話があると飛びつく経営者も多かった。そんな姿を見てはたと気づいた。「お金よりも思惑が先行している」と。

 だとすれば思惑はどこから生まれるのか? それは価値観や思想に基づいている。将来のことは誰人にもわからない。一寸先は闇である。古(いにしえ)より人類は将来を占いに託した。文明が発達し情報化やデータ化が進むと計算できるようになった(実際はできないわけだが)。

 計る、測る、量るが、諮るを経由して、画る、図る、謀るへと変容を遂げた(読みは全部「はか」る)。思惑とは物語であった。銘々が好き勝手な絵(青写真)を描いているのだ。私の思考は一足飛びに跳躍した。「思想とは物語である」と。

 まず実在する歴史が仕上げられなければならず、次いでこの歴史が人間に物語られねばならない(アレクサンドル・コジェーヴ)

【『物語の哲学』野家啓一〈のえ・けいいち〉(岩波現代文庫、2005年/岩波書店、1996年『物語の哲学 柳田國男と歴史の発見』改題)以下同】

 コジェーヴはロシアの哲学者で、ヘーゲルの『精神現象学』に息を吹き込んだことで知られる。初出のタイトルからもわかるように、野家は柳田民俗学とコジェーヴを手掛かりにしながら「物語」を解体する。つまり視点は右目が文学で左目が歴史に注がれている。それゆえ脳科学的な見地から批判をすることは賢明ではない。

 加えて、歴史的想起なしには、すなわち語られ(oral)たり書かれ(ecrit)たりした記憶なしでは実在的歴史はない。(アレクサンドル・コジェーヴによる脚注)

 コジェーヴは前半の本文において、まず実際の歴史的出来事が生起し、さらには完結し、しかる後にその出来事が人間に対して物語られるべきことを説いている。彼によれば、ヘーゲルの『精神現象学』は、実在する歴史的発展が終わった後に、それをアプリオリな形で再構成した一つの物語なのである。しかし、後半の注においては、その時間的順序を逆転させ、「語る」あるいは「書く」という人間的行為によってはじめて実在的歴史が成立することを述べている。その語るという行為を「物語行為(narrative act)」と呼べば、実際に生起した出来事は物語行為を通じて人間的時間の中に組み込まれることによって、歴史的出来事としての意味をもちうるのである。ここでコジェーヴが述べているのは、「歴史」は人間の記憶に依拠して物語られる事柄のうちにしか存在しない、という単純な事実にほかならない。

 のっけからこのインパクトである。時間の本質は非可逆性にある。時間はタテ軸を垂直に進む。絶対に後戻りしない。そして歴史や物語は人間――話者、歴史家――を通して立ち上がるのだ。人間が歴史的存在であることを運命づけられているのであれば、我々は記憶の奴隷とならざるを得ない。つまり過去に束縛されて現在性を失ってゆくのである。自我を吟味すれば記憶に辿りつく。

月並会第1回 「時間」その二
時間と空間に関する覚え書き

 アーサー・ダントの「理想的年代記」を紹介し、野家はもう一歩踏み込む。

 歴史的出来事は、この「人間的コンテクスト」の中で生成し、増殖し、変容し、さらには忘却されもする。端的に言えば「過去は変化する」のであり、逆説的な響きを弱めれば、過去の出来事は新たな「物語行為」に応じて修正され、再編成されるのである。これは不思議でも何でもない日常茶飯の事実にすぎない。先の「私が提案した奇襲作戦は味方の部隊を勝利に導いた」という物語文をもう一度取り上げてみよう。後に判明したところによれば、当の部隊は孤立した別の部隊からの支援要請があったにも拘らず奇襲作戦を強行し、対局の戦略を誤って味方に大損害を与えたとしよう。そうなれば、先には称賛に値する行為であった「奇襲作戦の提案」が、「私が提案した奇襲作戦は味方に大損害を与えた」という物語文のもとでは、非難されるべき軽率な行為に様変わりしていることがわかるであろう。ルーマニア革命の前後においてチャウシェスク大統領の評価が一変し、慌てて「過去」を修正した人々がいたことは記憶に新しい。歴史は絶えず生成と変化を続けていくリゾーム状の「生き物」なのである。
 このように言えば、直ちに次のような反問が返ってこよう。すなわち、それは過去の出来事の「評価」が変化しただけであり、過去の「事実そのもの」が変化したわけではない、と。だが、これが理想的な年代記作者の視点からの反論であることは、今さら指摘するまでもないであろう。コンテクストから孤立した純粋状態の「事実そのもの」は、物語られる歴史の中には居場所をもたない。脈絡を欠いた出来事は、物語的出来事ではあれ、歴史的出来事ではないのである。ある出来事は他の出来事との連関の中にしか存在しないのであり、「事実そのもの」を同定するためにも、われわれはコンテクストを必要とし、「物語文」を語らねばならないのである。
 過去の出来事E1は、その後に起こった出来事E2と新たな関係を結ぶことによって異なる観点から再記述され、新たな性質を身に帯びる。それゆえ物語文は、諸々の出来事の間の関係を繰り返し記述し直すことによって、われわれの歴史を幾重にも重層化して行く一種の「解釈装置」だと言うことができる。いわゆる「歴史的事実」なるものは、絶えざる「解釈学的変形」の過程を通じて濾過され沈澱していった共同体の記憶のようなものである。その意味で、大森荘蔵の言葉を借りるならば、歴史的記述とはまさに「過去の制作」にほかならないのである。
 歴史は超越的始点から記述された「理想的年代記」ではない。それは、人間によって語り継がれてきた無数の物語文から成る記述のネットワークのことである。そのネットワークは、増殖と変容を繰り返して止むことがない。言い換えれば、物語文はその本質において可謬的なのであり、クワインの周知のテーゼをもじるならば「いかなる物語文も修正を免れない」のである(このテーゼをクワインの「知識のホーリズム」になぞらえて「歴史のホーリズム」と呼ぶことができる)。そして、このネットワークに新たな物語文が付け加えられることによって、あるいはネットワーク内部のすでに承認された物語文が修正を被ることによって、ネットワーク全体の「布置」が変化し、既存の歴史は再編成されざるをえない。その意味において、過去は未来と同様に「開かれている」のであり、歴史は本来的に「未完結」なのである。
 人間は「物語る動物」あるいは「物語る欲望に取り憑かれた存在」である。それゆえ、われわれが「物語る」ことを止めない限り、歴史には「完結」もなければ「終焉」もありはしない。もし「歴史の終焉」をめぐる論議に何らかの意義があるとすれば、それは歴史の趨勢を予見する「超越論的歴史」に引導を渡し、歴史記述における「物語の復権」を促すというその一点にのみ存する、と言うことができる。それは同時に、歴史を「神の視点」から解放し、「人間の視点」へと連れ戻すことにほかならない。
 われわれは今、大文字の「歴史」が終焉した後の、「起源とテロスの不在」という荒涼とした場所に立っている。しかし、その地点こそは、一切のイデオロギー的虚飾を脱ぎ捨てることによって、われわれが真の意味での「歴史哲学」を構想することのできる唯一の可能な場所なのである。

 歴史とは政治でもあったのだ。

現在をコントロールするものは過去をコントロールする/『一九八四年』ジョージ・オーウェル
修正し、改竄を施し、捏造を加え、書き換えられた歴史が「風化」してゆく/『一九八四年』ジョージ・オーウェル

 歴史論議が過熱しやすいのは、国家のレゾンデートル(存在事由≒自我)を巡る議論であるためだ。

 記憶が編集を繰り返していることは脳科学でも明らかになっている。そもそも五官経由の情報を事実と思い込むこと自体が危ういのだ。実際は入力時点において情報の取捨選択がなされている。

フランス人に風鈴の音は聞こえない/『夢をかなえる洗脳力』苫米地英人

 神ならぬ身の人間は、一定の時間-空間的秩序の中で物を見、音を聴き、物事を知るほかはない。見聞きされた事柄はやがて忘却の淵へと沈み、意識の下層に沈澱する。それを再び記憶の糸をたぐって蘇らせようとするとき、われわれは知覚の現場で出会った出来事を残りなく再現することはできない。意識的であろうと無意識的であろうと、記憶それ自体が遠近法的秩序(パースペクティヴ)の中で情報の取捨選択を行い、語り継がれるべき有意味な出来事のスクリーニングを行っているのである。われわれは記憶によって洗い出された諸々の出来事を一定のコンテクストの中に再配置し、さらにそれらを時間系列に従って再配列することによって、ようやく「世界」や「歴史」について語り始めることができる。

 事実よりも文脈が重い。物語を支えるのは結構(※物を組み立てて、一つのまとまった組織・構造物・文章などを作り上げること。組み立て。構え。構成。〈『三省堂 大辞林』〉)である。そして人間の脳は物語に沿って構成されるのだろう。

 人間の時空的な存在性が実によくわかる。我々は既に宇宙的存在となっている。

 しかし、記憶の中にあるのは解釈学的変形を受けた過去の経験だけである。それが知覚的現在でないことはもちろん、知覚的現在と比較して模写の善し悪しを云々できるようなものでもないことは明らかであろう。当の知覚的現在はすでに存在しない以上、模写や比較という捜査はそもそも意味をなさないからである。想起とは「しかじかであった」ことを今現在思い出すことであり、思い出された事柄のみが「過去の経験」と呼ばれるのである。それゆえ、過去の経験は、常に記憶の中に「解釈学的経験」として存在するほかない。われわれは過ぎ去った知覚的体験そのものについて語っているのではなく、想起された解釈学的経験について過去形という言語形式を通じて語っているのである。「知覚的体験」を「解釈学的経験」へと変容させるこのような解釈学的変形の操作こそ、「物語る」という原初的な言語行為、すなわち「物語行為」を支える基盤にほかならない。
 人間の経験は、一方では身体的習慣や儀式として伝承され、また他方では「物語」として蓄積され語り伝えられる。人間が「物語る動物」であるということは、それが無慈悲な時間の流れを「物語る」ことによってせき止め、記憶と歴史(共同体の記憶)の厚みの中で自己確認(identify)を行ないつつ生きている動物であるということを意味している。無常迅速な時の移ろいの中で解体する自己に抵抗するためにこそ、われわれは多種多様な経験を記憶にとどめ、それらを時間空間的に整序することによってさまざまな物語を紡ぎ出すのである。記憶の女神ムネーモショネーがゼウスと交わって9人のムーサを、とりわけ叙事詩の女神カリオペーと歴史の女神クレイオーを生んだと考えた古代のギリシア人たちは、まさにその間の機微を知悉していたと言うべきであろう。
 しかしながら、現代においては、人間の「物語る」能力は著しく衰退しているように見える。かつては寝物語に枕辺で子供たちに「語り」聞かせるものであった昔話やお伽噺も、今では豪華な絵本を前に「読み」聞かせるものとなっている。炉端で自己の来歴と経験を虚実とりまぜながら物語ってきた老人たちは、すでに核家族の中にはその居場所を持たない。伝承され語り伝えられるべき経験は、今日では実用的な「情報」と化して書棚やフロッピー・ディスクの中に小ぢんまりと納まっている。現代における「物語る欲望」は、あたかもゴシップ・ジャーナリズムの占有物であるかのようである。

 私が一言で翻訳しよう。我々は「解釈世界」に生きる存在なのだ。「現実」が「解釈」されるものであることを見失ってはなるまい。目の前に世界が「有る」わけではない。認識されたものが世界であり、世界は解釈によって構築されるのだ。

人間が認識しているのは0.5秒前の世界/『進化しすぎた脳 中高生と語る〔大脳生理学〕の最前線』池谷裕二

 それゆえ、真実は「語る」ことと「騙る」ことの間にある、と言うべきであろう。この「眼ざめて見られる夢」を描き出すためにこそ、彼(※柳田國男)は市民社会の文学者となる道を捨て、民俗学者として口伝えの物語の世界へと分け入ったのである。

 この一言が凄い。今読んでも痺れる。これぞシビレエイである。事実の解釈は一人ひとり異なるものだ。そういう意味では皆がバラバラの世界に生きているといっても過言ではない。つまり「語る」は常に「騙(かた)る」をはらんでいるのだ。単純なウソやデマ、あるいは修飾や捏造という意味ではない。厳密にいえば誤解や錯覚を避けることのできない脳の属性であろう。

視覚の謎を解く一書/『46年目の光 視力を取り戻した男の奇跡の人生』ロバート・カーソン

 これでまだ本書の1/3程度の内容である。昂奮しすぎてしまった。野家はこれ以上ないというタイミングで中島敦を引用する。

 文字を覚える以前に比べて、職人は腕が鈍り、戦士は臆病になり、猟師は獅子を射損なふことが多くなった。(中島敦『文字禍』)

 当然のように『文字禍』を読む羽目となる。何という読書の至福であろうか。


言語的な存在/『触発する言葉 言語・権力・行為体』ジュディス・バトラー
父の権威、主人の権威、指導者の権威、裁判官の権威/『権威の概念』アレクサンドル・コジェーヴ

2012-01-08

物語の本質~青木勇気『「物語」とは何であるか』への応答


     ・キリスト教を知るための書籍
     ・宗教とは何か?
     ・ブッダの教えを学ぶ
     ・悟りとは
     ・お腹から悟る
     ・身体革命
     ・物語の本質
     ・権威を知るための書籍
     ・情報とアルゴリズム
     ・世界史の教科書
     ・日本の近代史を学ぶ
     ・虐待と知的障害&発達障害に関する書籍
     ・時間論
     ・ミステリ&SF
     ・必読書リスト

 氏家〈うじけ〉さんのツイートで青木勇気というライターの存在を知った。


多数派か少数派かによって変わる“確からしさ”について | アゴラ 言論プラットフォーム

 BLOGOSは私の趣味に合わないため殆ど見ることがない。何て言うんでしょうな。インチキ臭い(笑)。多分、編集方針がないためだろう。雑多というよりは、まとまりを欠いているというべきか。

 早速、本人のブログを読んだ。

Write Between The Lines.

 先の記事もそうだがとにかく文章がいい。読んでいて気持ちがよくなってくる。その上、箴言力(コピーライティングのセンス)があるのだから侮れない。

 で、注目に値する記事を発見した。

「物語」とは何であるか

 私の専門分野だ(ニヤリ)。ケチをつけようと思えばどんな角度からもつけることが可能だ(笑)。しかし、私が「物語」に気づいたのは4年前のことである。青木は私より一回り以上も若い。ならば援護射撃をすべきだろう。

 私が「物語」を悟ったのは、上杉隆著『官邸崩壊 安倍政権迷走の一年』を読んだことに始まる。それ以前から「思想とは物語である」という持論があったのだが、上杉を通して「物語を編む」営みに初めて気づいた。

 私は文筆家ではなく古本屋のため、ここはやはり読書の水先案内としておこう。

 その頃、私が吹聴していた「物語論」は、岸田唯幻論の幻想とは違った。世界の構造・結構としての物語性であった。生きることが物語なのではない。我々は物語を生きるのだ。

唯幻論の衝撃/『ものぐさ精神分析』岸田秀

 森達也の『A』はカメラの位置をオウム信者側にしただけで物語を反転させてみせた。

森達也インタビュー

 その意味で私の小さな思いつきが完全な形で表現されたのが、野家啓一〈のえ・けいいち〉著『物語の哲学』であった。

「理想的年代記」は物語を紡げない/『物語の哲学 柳田國男と歴史の発見』野家啓一

 もうね、ぐうの音も出なかったよ。当時は野家啓一が神様に思えたほどだ。きちんと書評を書いていないので一両日中にアップする予定。

 ここからが私の本領を発揮する地点だ。まずは歴史。理想的年代記が物語を紡げないのであれば、物語を編むのは歴史家の仕事となる。つまり歴史トピックの取捨選択に物語性が込められているのだ。ここでわかるように物語性の本質とは「因果関係」(=起承転結)である。

 そこでまず世界史という物語の枠組みを知る必要がある。

世界史は中国世界と地中海世界から誕生した/『世界史の誕生 モンゴルの発展と伝統』岡田英弘

 次に歴史という概念を学ぶ。

読書の昂奮極まれり/『歴史とは何か』E・H・カー
歴史の本質と国民国家/『歴史とはなにか』岡田英弘

 本気で勉強するなら、ここで野家本を再読するのが望ましい。

 で、先ほど申し上げた因果関係を木っ端微塵に粉砕するのがこれ。

歴史が人を生むのか、人が歴史をつくるのか?/『歴史は「べき乗則」で動く 種の絶滅から戦争までを読み解く複雑系科学』マーク・ブキャナン

 ここからの急降下はジェットコースター級となる。諸君、振り落とされるなよ(笑)。

 まずは岸田唯幻論を踏まえた上で脳機能を知っておこう。

唯脳論宣言/『唯脳論』養老孟司

 で、「負の物語」ともいうべき迷信・誤信について書かれたのが以下。

怨霊の祟り/『霊はあるか 科学の視点から』安斎育郎
誤った信念は合理性の欠如から生まれる/『人間この信じやすきもの 迷信・誤信はどうして生まれるか』トーマス・ギロビッチ

 人類が創作した最大の物語は「神」であろう。

脳は神秘を好む/『脳はいかにして〈神〉を見るか 宗教体験のブレイン・サイエンス』アンドリュー・ニューバーグ、ユージーン・ダギリ、ヴィンス・ロース

 ここで振り出しに戻って物語を見つめる。

必然という物語/『本当にあった嘘のような話 「偶然の一致」のミステリーを探る』マーティン・プリマー

 次は変化球になってしまうが、「相関関係=因果関係ではない」ことを学ぶのに欠かせない。

相関関係=因果関係ではない/『精神疾患は脳の病気か? 向精神薬の化学と虚構』エリオット・S・ヴァレンスタイン

 医療や製薬会社を取り巻く「業界の物語」と置き換えることも可能だ。

 そろそろ最終コーナーに差し掛かる。

比較トラップ/『予想どおりに不合理 行動経済学が明かす「あなたがそれを選ぶわけ」』ダン・アリエリー

 更に加速しよう。ラストスパートだ。

エントロピーを解明したボルツマン/『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』トール・ノーレットランダーシュ
視覚の謎を解く一書/『46年目の光 視力を取り戻した男の奇跡の人生』ロバート・カーソン
宗教の原型は確証バイアス/『動物感覚 アニマル・マインドを読み解く』テンプル・グランディン、キャサリン・ジョンソン
『宗教を生みだす本能 進化論からみたヒトと信仰』ニコラス・ウェイド
『隠れた脳 好み、道徳、市場、集団を操る無意識の科学』シャンカール・ヴェダンタム

 これで大体、「物語の本質」は征服できる。あとは止(とど)めの2冊だ。

服従の本質/『服従の心理』スタンレー・ミルグラム
現在をコントロールするものは過去をコントロールする/『一九八四年』ジョージ・オーウェル

 物語の正体は確証バイアスであり、確証バイアスから宗教が生まれた。一言で書いてしまうと身も蓋もないように思えるだろうがそうではない。人間の「錯覚できる能力」が物語を紡ぎ出すのだ。

 ゆえに困難や危機が訪れるたびに「人類の物語」を更新してゆくことが正しい。個人においても同様である。

 ただし真の宗教性に立てば「物語=主役としての自我」から離れることが唯一の道となる。神という創造物は人類にとっての自我も同然であって、それ自体が物語にすぎない。今のところ真の宗教性として認められるのはブッダの初期経典とクリシュナムルティのみである。

 最後に青木の著作を紹介しておく。彼の勁草(けいそう)を思わせる柔らかな感性に期待したい。



物語る行為の意味/『物語の哲学』野家啓一
物語
虐待による睡眠障害/『消えたい 虐待された人の生き方から知る心の幸せ』高橋和巳
『手にとるようにNLPがわかる本』加藤聖龍
『ストーリーが世界を滅ぼす 物語があなたの脳を操作する』ジョナサン・ゴットシャル

2011-08-20

占いこそ物語の原型/『重耳』宮城谷昌光


『天空の舟 小説・伊尹伝』宮城谷昌光
・『太公望』宮城谷昌光
『管仲』宮城谷昌光

 ・占いこそ物語の原型
 ・占いは神の言葉
 ・未来を明るく照らす言葉

『介子推』宮城谷昌光
・『沙中の回廊』宮城谷昌光
『晏子』宮城谷昌光
・『子産』宮城谷昌光
『湖底の城 呉越春秋』宮城谷昌光
『孟嘗君』宮城谷昌光
『楽毅』宮城谷昌光
『青雲はるかに』宮城谷昌光
『奇貨居くべし』宮城谷昌光
『香乱記』宮城谷昌光
・『草原の風』宮城谷昌光
・『三国志』宮城谷昌光
・『劉邦』宮城谷昌光

 元々文章が得意ではないので暑さや寒さを理由にして書かなくなることが多い。頑張ったところで書ける内容は知れているから、今後はあまり気負うことなく感じたことや考えが変わったことをメモ書き程度に綴ってゆこう。

 タイトルは「ちょうじ」と読む。主人公の名である。生まれが紀元前697年というのだからブッダ(紀元前463年/中村元の説)より少し前の時代である。枢軸時代の綺羅星の一人と考えてよかろう。重耳とは春秋五覇の一人、晋(しん)の文公(ぶんこう)である。

 読み物としては『孟嘗君』に軍配が上がるものの、物語の本質が占いにあることを示した点において忘れ得ぬ一書となった。重耳は43歳で放浪を余儀なくされ、実に19年もの艱難辛苦に耐えた。「大器は晩成す」とは老子の言。

 おどろいた成王(せいおう)は、
「わたしは、あれとふざけていただけだ」
 と、弁解した。ところが尹佚(いんいつ)は表情をゆるめるどころか、厳粛さをまして、
「天子に戯言(ぎげん)があってはならないのです。たとえどんなご発言でも、史官というものは、それを書き、宮廷の礼儀によって、その発言を完成させ、音楽とともに歌って、公表するものです」
 と、さとした。

【『重耳』宮城谷昌光〈みやぎたに・まさみつ〉(講談社、1993年/講談社文庫、1996年)以下同】

 成王が遊び半分で弟の唐叔虞(とうしゅくぐ/晋国の祖)を「封じる」と言った時のエピソード。歴史が記録によって形成されることを鮮やかに表現している。歴史とは記録であり、記録されたものだけが歴史なのだ。

 狐氏(こし)が晋に交誼(こうぎ)を求めてきた。この使者が狐突(ことつ)であった。

 若いが、その容貌には山巒(さんらん)の風気に鍛えぬかれたような精悍(せいかん)さと重みとがあり、それでいて目もとはすずやかさをたもって、山岳民族のえたいのしれぬ蒙(くら)さから、すっきりとぬけでている。
 狐突(ことつ)は馬上だけで見聞をひろめた男ではなく、かれの目は書物の上を通ってきたということである。

 書物は蒙(もう/道理に暗いこと)を啓(ひら)き、世界を明るく照らす。学問とは眼(まなこ)を開く営みに他ならない。後に狐突(ことつ)の子である狐毛(こもう)と狐偃(こえん)が重耳を支える。

 狐氏から詭諸(きしょ/重耳の父)のもとに二人の娘が送られることとなった。直ちに吉兆が占われる。

「山岳の神霊は、この婚姻を祝慶(しゅくけい)なさいました。なんと、曲沃(きょくよく)に嫁入(かにゅう)する娘の一人は、天下に号令する子を生むであろうということです」
 と、からだが張り裂けるほどの声でしらせた。

 私の心にフックが掛かった。そして下巻で悟った。占いこそ物語の原型であることを。占いとは未来の絵を描くことだ。卜(ぼく)の字は亀甲占いの割れの形に由来がある。

 不思議なもので占いは偶然から必然をまさぐる行為である。筮竹(ぜいちく)やサイコロ、あるいはコインといった道具を用いて偶然を必然と読み換えるのだ。

 キリスト教の運命や仏教の宿命が不幸の原因を求めて過去をさかのぼるのに対して、占いは未来に向かって道を開く。まったく根拠の薄弱な血液型占いや星座占いの類いが好まれるのも故なきことではないと思われる。

 現状は皆が知っている。責任に応じて視点の高さは変わってくるが、現状から見える未来図は予想範囲が限定される。現実の重さに縛られるためだ。起承転結の起承止まりだ。ここに転結の勢いを与えるのが占いである。

 つまり人々の思考回路に新しい道筋をつけ、更に道理を深く打ち込むことで思考のネットワークと人間のネットワークをも一変させるわけだ。皆の予測を超えた地点に旗を立てることができるかどうかが問われる。その旗が鮮やかな目印となって運命の進路を決定づけてゆく。韓万(かんまん)の言葉が如実にそれを示す。

「ことばと申すものは、外にあらわれますと、ありえぬことを、ありうることに変える、不可思議な働きをすることがあるものです」

 春秋戦国時代において狐氏は不安を抱えていたことだろう。であればこそ、晋に対して合従連衡(がっしょうれんこう)を求めたわけである。占いは人々の「淡い期待」を「絶対的な確信」に変えた。その瞬間に脳内で新たなシナプス経路が構築される。それまでの過去・現在と未来は「天下に号令する子」に捧げられることとなる。狐氏の運命が決まった瞬間であった。そして重耳が誕生する。

 いつもながら宮城谷のペンは冴え冴えとした光を放ちながら人間を描写する。

「狐突(ことつ)の体内のどこかに感動の灯がともった」、「かけひきのない人柄」、「眉やひたいの形のよさは、心の美質をもっとも素直にあらわしているといってよい」、「口調はおだやかだが、遁辞(とんじ)をゆるさぬというきびしさを目容(もくよう)にみせた」、「壮意を腹に溜(た)めなおして」、「胆知のさわやかさ」、「恐れがないから、やさしさがないのだ」、「声の質の良さは、その人の心術の良さでもある」――。

 宮城谷作品の魅力は人間の道と振る舞いを丹念に捉えているところにある。

重耳(上) (講談社文庫)重耳(中) (講談社文庫)重耳(下) (講談社文庫)

マントラと漢字/『楽毅』宮城谷昌光
先ず隗より始めよ/『楽毅』宮城谷昌光
占いは未来への展望/『香乱記』宮城谷昌光