・『天空の舟 小説・伊尹伝』宮城谷昌光
・『太公望』宮城谷昌光
・『管仲』宮城谷昌光
・『重耳』宮城谷昌光
・『介子推』宮城谷昌光
・『沙中の回廊』宮城谷昌光
・『晏子』宮城谷昌光
・『子産』宮城谷昌光
・『湖底の城 呉越春秋』宮城谷昌光
・『孟嘗君』宮城谷昌光
・『楽毅』宮城谷昌光
・『青雲はるかに』宮城谷昌光
・戦争を問う
・学びて問い、生きて答える
・和氏の璧
・荀子との出会い
・侈傲(しごう)の者は亡ぶ
・孟嘗君の境地
・「蔽(おお)われた者」
・楚国の長城
・深谿に臨まざれば地の厚きことを知らず
・徳には盛衰がない
・『香乱記』宮城谷昌光
・『草原の風』宮城谷昌光
・『三国志』宮城谷昌光
・『劉邦』宮城谷昌光
この少年の脳裡(のうり)には、目撃している兵馬の多さだけではなく、各国が出す兵馬の多さもあり、それらがまとまったとき、兵の数は100万をこえるのではないかという想像がつづき、それを迎え撃つ斉軍が50万をこえる大軍容であったら、どんなすさまじい戦いになるのか、という想像の連続がある。その果てにある死者の多さが、呂不韋〈りょふい〉の胸を悪くさせた。
――なにゆえ、人は殺しあうのか。
いつからそういう世になったのであろう。
急に呂不韋はしゃがんで土をなでた。
「どうなさいました」
鮮乙(せんいつ)がふりかえった。彭存〈ほうそん〉も少年の手もとをいぶかしげにながめた。
「土は毒を吐くのだろうか」
土が吐く毒を吸った者が兵士となり、狂って、人を殺す。呂不韋はそんな気がしてきた。
鮮乙(せんいつ)は困惑したように目をあげた。すると彭存(ほうそん)は目を細め、
「土に血を吸わせるからそうなるのだ。人が土のうえで血を流すことをやめ、和合して、土を祭り、酒をささげるようになれば、毒など吐かぬ」
と、おしえた。呂不韋は立った。自分が考えていることを、多くのことばをついやさず、人に通じさせたというおどろきをおぼえた。
【『奇貨居くべし 春風篇』宮城谷昌光(中央公論新社、1997年/中公文庫、2002年/中公文庫新装版、2020年)】
「奇貨(きか)居(お)くべし」は『史記』の「呂不韋伝」にある言葉で、珍しい品物であるから今買っておいて後日利益を得るがよいとの意と、得難い機会だから逃さず利用すべきだとの二意がある。呂不韋〈りょふい〉は中国戦国時代の人物で一介の商人から宰相(さいしょう)にまで上りつめた。始皇帝の実父という説もある。
少年の苦悩が思わず詩となって口を衝(つ)いて出た。それに応答した彭存〈ほうそん〉の言葉もまた詩であった。詩情の通う対話に本書のテーマがシンボリックに表現されている。呂不韋は後に民主主義を目指す政治家となるのだ。
「和合して、土を祭り、酒をささげる」――祭りと鎮魂(ちんこん)の儀式にコミュニティを調和させる鍵があることを示唆(しさ)しているようだ。文明の発達に伴って人々は自然に対する畏敬の念を忘れ、祭儀も形骸化していったのであろう。そもそも都市部では土が見えない。土を邪魔者のように扱う文化は必ず手痛いしっぺ返しを食らうことだろう。アスファルトに覆われ、陽に当たることのない土壌で悪しき菌が培養されているような気がする。
0 件のコメント:
コメントを投稿