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2020-07-15

少年時代の出会いが人生を大きく変える/『泣き虫しょったんの奇跡 サラリーマンから将棋のプロへ』瀬川晶司


『将棋の子』大崎善生

 ・少年時代の出会いが人生を大きく変える

『傑作将棋アンソロジー 棋士という人生』大崎善生編
『決断力』羽生善治
『真剣師 小池重明 “新宿の殺し屋"と呼ばれた将棋ギャンブラーの生涯』団鬼六

 試験将棋第一局から1週間ほどがたったある夜。
 会社から帰宅した僕はいつものように、その日に届いた郵便物を母から受け取って自室に入った。いつものように、名前も知らない人からの手紙ばかりに見えた。
 ところが、そのなかに一通、不思議な葉書があった。ドラえもんの絵が大きく印刷された葉書だった。その子どもっぽさに違和感(いわかん)があった。
 誰だろう?
 僕は子どもの頃、ドラえもんが好きだった。そのことを知っている人だろうか。ネクタイをゆるめながら葉書を裏返し、差出人の名を見る。
 あっ。
 葉書をもう一度ひっくり返し、ドラえもんの絵の上に書かれた文字を追う。
「だいじょうぶ。きっとよい道が拓(ひら)かれます」
 いままで心の中で押し殺していたものが、堰(せき)を切ったようにこみ上げてくるものを感じた。嗚咽(おえつ)でのどが震(ふる)え、文面が涙(なみだ)で見えなくなる。それをぬぐっては何度も読み返す。そのたびにまた、新しい涙があふれてくる。
 そうだった。すべては、この人のおかげだった。
 何に対しても自信が持てなかった僕が、自分の意志で歩けるようになったのも、ここまでいろいろなことがあったけれどなんとか生きてきて、いま夢のような大きな舞台(ぶたい)に立つことができたのも。
 もとはといえば、すべてこの人のおかげだった。
 この人に教えられたことを、僕はすっかり忘れていた。いつのまにか僕は、僕でなくなっていた。僕は、僕に戻(もど)ろう。僕は、僕でいいのだから。

【『泣き虫しょったんの奇跡 サラリーマンから将棋のプロへ』瀬川晶司〈せがわ・しょうじ〉(完全版、講談社文庫、2010年/講談社、2006年)】

 プロ編入試験将棋の第一局に敗れた場面から始まる。既に瀬川一人の闘いではなくなっていた。それまでプロ棋士になるためには奨励会という徒弟制度を経て四段になることが決まりであった。しかも26歳という年齢制限があった。少年時代は地元で天才棋士と褒めそやされた綺羅星が次々と夜の闇の中へ消えてゆく世界である。才能だけではプロになれなかった。瀬川晶司は21歳で三段になっていたが惜しくも年齢制限に阻まれた。その瀬川が10年を経て35歳でプロ編入試験に臨んだのだ。

 1944年(昭和19年)に真剣師の花村元司〈はなむら・もとじ〉がプロ入りしているが、当時はまだ奨励会が制度化されていなかった。ま、相撲や歌舞伎みたいな世界と考えてよい。家元制度もよく似ている。要は結果的に実力者を排除するシステムとして機能するところに問題があるのだ。ハゲは相撲取りになれないし、相撲部屋に属さない一匹狼も存在しない。力と技に加えて様式を重んじる世界なのだ。

 瀬川のプロ入りは奨励会制度に風穴を開ける壮挙である。これに失敗すれば古いシステムは寿命を永らえてしまう。将棋ファンは色めき立ち、実力者は固唾を呑んで見守った。その第一局に瀬川は敗れる。絶対に落としてはならない勝負であった。茫然自失の態(てい)で家路に就く記憶も飛んでいた。

 ドラえもんの葉書は小学校時代の恩師が書いたものだった。全く目立たない児童だった瀬川はこの女性教師と出会い大きく変わる。プロ棋士を目指したのもこの先生からの励ましによるものだった。瀬川は初心に返る。

 心の綾(あや)というものは実に不思議だ。理窟(りくつ)だけで人の心は動かない。感情は理性よりも脳の深部に宿る。心の土台をなすのは感情だ。その情は絶えず流れながらも右に左に蛇行する。ここ一番という檜舞台で怖気づいたことは誰にでもあるだろう。失敗に対する恐れや不安が優れば本来の実力は発揮できない。

 瀬川は念願のプロ入りを果たした。タイトルを毛嫌いして長らく手をつけてこなかったことが大いに悔やまれた。尚、恩師からの葉書は動画の中でも紹介されている。




長距離ハイキング/『トレイルズ 「道」を歩くことの哲学』ロバート・ムーア

2020-01-17

国民皆兵がデモクラシーの正当性を基礎付けた/『戦後教育で失われたもの』森口朗


『「悪魔祓い」の戦後史 進歩的文化人の言論と責任』稲垣武
『こんな日本に誰がした 戦後民主主義の代表者・大江健三郎への告発状』谷沢永一
『悪魔の思想 「進歩的文化人」という名の国賊12人』谷沢永一
『誰が国賊か 今、「エリートの罪」を裁くとき』谷沢永一、渡部昇一
『いま沖縄で起きている大変なこと 中国による「沖縄のクリミア化」が始まる』惠隆之介
『北海道が危ない!』砂澤陣
『これでも公共放送かNHK! 君たちに受信料徴収の資格などない』小山和伸
『ちょっと待て!!自治基本条例 まだまだ危険、よく考えよう』村田春樹
『自治労の正体』森口朗

 ・国民皆兵がデモクラシーの正当性を基礎付けた

『日教組』森口朗
『左翼老人』森口朗
・『売国保守』森口朗
『愛国左派宣言』森口朗
『知ってはいけない 金持ち 悪の法則』大村大次郎

 デモクラシーの本質とは、「国民皆兵がデモクラシーの正当性を基礎付けた」という歴史的事実です。
 我々はなぜ、一人一票ずつ投票権を与えられ、国政や地方政治に参加できるのか。納税者だからではありません。納税者であるがゆえに国政に口を出せるのならば、制限選挙か納税額一万円につき一票といったシステムの方が合理的です。
 しかし、そうではない。フランス革命によって完成した近代デモクラシー国家において国民軍は不可欠な要素でした。有事になれば、たった一つしかない命を国家に預けて戦う。これが国民国家の基本型です。だから平時にだって国民は平等に国政に口を出す。命の重みに金持ちも貧乏人もありません。それゆえの「一人一票」なのです。
 ついでに言うと、じゃあなぜ婦人参政権が認められたのでしょう。それは、第一次世界大戦により戦争のあり方が、軍事力勝負から政治経済を含めた国力すべてを費やして戦う「総力戦」に変わったからです。これによって、「銃後」が極めて重要な存在になりました。これが、婦人参政権が認められた最大の根拠です。
 戦後教育は、この最も重要な点を隠蔽(いんぺい)しました。日本弱体化が目的であったGHQにとって、「民主主義」と「戦争」はどこまでも対立的でなければならなかったのです。

【『戦後教育で失われたもの』森口朗〈もりぐち・あきら〉(新潮新書、2005年)】

 森口朗の名前を知らない人でも、以下の記事を目にした人は多いはずだ。

この「いじめ対策」はすごい! - 森口朗のブログ

 森口は元東京都職員の教育評論家である。今のところ外れなし。どれもお勧めできる。実に頭の柔らかな人で左翼を昂然と批判しながらも、保守派の甘さを突くバランス感覚が好ましい。歴史認識についてもかなり慎重な姿勢で好感が持てる。中道を歩む人物と見た。

 小林節〈こばやし・せつ〉のコラム(大阪日日新聞掲載)によって私は参政権が国防と直結していることを知った。10年ほど前のことだ。それまで蜜月関係にあった創価学会および公明党は小林と袂を分かつ。公明党は外国人参政権に賛成の立場だ。無論深い考えがあるわけではない。在日創価学会員を得票につなげたいだけのことだ。

 外国人参政権を推進するのは左派政党で、自治基本条例を制定し住民投票という形で実現している地域もある(神奈川県大和市など)。巧妙な破壊工作は功を奏しており、様々な地域で混乱を招いている。こうした動きに対して立ち上がったのが村田春樹で自治基本条例はその後鎮火に向かう(『ちょっと待て!!自治基本条例 まだまだ危険、よく考えよう』)。

 もともと西洋のシチズン(市民)は城壁に囲まれた都市に住むことと引き替えに戦争となれば闘うことを義務づけられていた。権利と義務はセットである。

 2016年から18歳選挙権が適用された。さて、兵役に就く覚悟を決めた若者はどのくらいいただろうか?

2019-11-09

給食革命/『給食で死ぬ!! いじめ・非行・暴力が給食を変えたらなくなり、優秀校になった長野・真田町の奇跡!!』大塚貢、西村修、鈴木昭平


『日本自立のためのプーチン最強講義 もし、あの絶対リーダーが日本の首相になったら』北野幸伯
・『日本の生き筋 家族大切主義が日本を救う』北野幸伯

 ・給食革命

『伝統食の復権 栄養素信仰の呪縛を解く』島田彰夫
『親指はなぜ太いのか 直立二足歩行の起原に迫る』島泰三
『小麦は食べるな!』ウイリアム・デイビス
『シリコンバレー式自分を変える最強の食事』デイヴ・アスプリー
『医者が教える食事術 最強の教科書 20万人を診てわかった医学的に正しい食べ方68』牧田善二
『医者が教える食事術2 実践バイブル 20万人を診てわかった医学的に正しい食べ方70』牧田善二
『DNA再起動 人生を変える最高の食事法』シャロン・モアレム
『自殺する種子 アグロバイオ企業が食を支配する』安田節子
『タネが危ない』野口勲
『野菜は小さい方を選びなさい』岡本よりたか
『心と体を強くする! メガビタミン健康法』藤川徳美
『最強の栄養療法「オーソモレキュラー」入門』溝口徹
『食事で治す心の病 心・脳・栄養――新しい医学の潮流』大沢博
『オーソモレキュラー医学入門』エイブラハム・ホッファー、アンドリュー・W・ソウル
『あなたの体は9割が細菌 微生物の生態系が崩れはじめた』アランナ・コリン

 子どもたちの、こんな現状(※朝食抜き、コンビニ弁当、レトルト食品、菓子パンなどが中心の食生活)が分かってきました。(中略)
「家庭で難しいなら、学校で食を変えるしかない」と、私は一大決心せざるをえなくなりました。家庭で食べないものを、学校で食べさせるしかありません。ともかく子どもたちのためには、食を変えなければならないのです。

【『給食で死ぬ!! いじめ・非行・暴力が給食を変えたらなくなり、優秀校になった長野・真田町の奇跡!!』大塚貢、西村修、鈴木昭平(コスモトゥーワン、2012年)以下同】

 北野本で知った一冊。印象が深かったようで近著でも取り上げられている。安部司著『食品の裏側 みんな大好きな食品添加物』(本書では「阿部司」と誤表記)を引用しているあたりが危ういが(松永和紀〈まつなが・わき〉著『メディア・バイアス あやしい健康情報とニセ科学』で論破されている)感動的な手記である。大塚貢は長野県の中学校で校長を務めた人物。

 校内の廊下がオートバイのブレーキ痕だらけで、教員が1時間も広い続けると煙草の吸い殻がバケツ一つ集まったというのだから、相当荒れた中学である。大塚はまず授業改革から手をつけた。あまりにも魅力に乏しい授業がまかり通っていた。次に子供たちの食生活を調べた。そしてここから給食革命を起こすのである。

 それで私は、1週間の5食すべてを米飯に切り替えることを決断しました。

 すると少しずつ、やがてはっきりと、子どもたちに変化が見えてきたのです。
 まずは「読書の習慣」です。荒れているときには、子どもはとうてい本を読む気になりません。ところが給食内容を変えてしばらくしたころ、休み時間になると、子どもたちがみな図書室に行って本を読むようになりました。
 給食が済むと、争うようにして本を読んでいます。図書室に120ある椅子が、瞬く間に生徒で一杯になりました。
 椅子が満席になると、床に腰を下ろして読んでいます。床が一杯になれば、廊下に出ても読んでいます。これは、なかなか感動的な光景でした。食の改善による影響が大きかったと思います。(中略)
 ところで1951年に始まった読売新聞社の「全国小・中学校作文コンクール」をご存じの方も多いでしょう。米飯給食に変えてから起きたもう1つの変化は、生徒がこのコンクールに参加して、特に指導もしないのに、毎年のように全国で1位か2位に入選するようになったことです。
 子どもたちの文章力がしっかり向上していました。1位、2位に入選した子どもの作文は高度で、大人の私が読んでも筋がじつに複雑でした。

 何気ない文章で驚くべき事実が記されている。にわかには信じ難いという人も多いことだろう。だが噛む力が脳を活性化させ、栄養分が体に行き届けば情報に対する感度が上がることは何となく理解できよう。食は人を変える。なぜならマイクロバイオータ(微生物叢)が生まれ変わるためだ。

 大塚は詳しいことは書いていないが、給食革命は生易しい仕事ではなかったことだろう。父兄からも反対され、中には教育委員会に密告する人もいたようだ。そして荒れた生徒たちが大人しく従うはずもない。しかし校長の子供を思う一念が岩をも貫いた。その後花壇作りも推進し、学校全体が生まれ変わってゆくのである。

 本書はパンや出来合いの食品に批判的な姿勢を堅持しているため、製パン企業や食品メーカーの広告を掲載する新聞やメディアからは無視されたことと推察する。既に品切れとなっているが再販も難しいように思う(Kindle版はある)。それでも心ある教育者は本書を入手し、給食をパンから米に変える努力を惜しむべきではない。もともと給食でパンが提供されるようになったのはGHQがアメリカの余剰小麦を無償提供したことから始まる。アメリカは余剰農産物に困り果てていた。敗戦後の日本はこれを断るはずがない。そして数年後、無償提供を打ち切りまんまと日本政府にアメリカ産の小麦を買わせるようになった。アングロサクソンの手口はことごとくこのようなものだ(『アメリカ小麦戦略 日本侵攻』高嶋光雪、1979年/『「アメリカ小麦戦略」と日本人の食生活』鈴木猛夫、2003年)。

 食料安全保障の視点からも米の消費を増やすことは喫緊の課題である。給食すべてを米飯にすれば相当改善できることだろう。



2019-06-07

小室直樹に予言されていた私/『あなたも息子に殺される 教育荒廃の真因を初めて究明』小室直樹


『評伝 小室直樹』村上篤直

 ・小室直樹に予言されていた私

『三島由紀夫と「天皇」』小室直樹

 さて、以上の分析によって、私たちが直面している校内暴力・家庭内暴力の何たるかを、いっそう明確に分かっていただけたと思う。それは新左翼や行動右翼、構造的汚職犯罪人、そして戦前の軍事官僚や戦後の高級官僚、エリート・ビジネスマンなどに連なる一大アノミー症候群の一つの峰であって、それ自身で存在するものではない。(中略)
 では、前人未到の程度にまで激甚化した暴力は、今後どこへ行く。かかる暴力を生み出したアノミーは、どこまで昂進する――それを考えるには、差し当って、若者がもう一度イデオロギーを取り戻した時が、一つのメルクマールとなろう。
 この2~3年、日本のイデオロギー状況は、大転換をみせた。左翼イデオロギーが、人びとの間で、完全に魅力を失ってしまったのである。それとともに、従来は左翼イデオロギーに出口を求めてきた若者のアノミーは、行き場を失い、無イデオロギーの暴力に結集することになった。
 これが、校内暴力・家庭内暴力だ。校内暴力・家庭内暴力が、この2~3年、急速に猖獗をきわめるようになった理由も、まさにここにある。
 しかし、若者は理想を求める。永年、イデオロギー無き状態に放置されていることはできない。イデオロギーこそは、若者にとって、生活必需品の一つなのだ。
 では、イデオロギー無き現代の若者に、再びイデオロギーが帰ってくるとすれば、それはどんなものだろうか。
 そこで最後の予言。
 それはおそらく、三島由紀夫であろう。マルキシズムが再び青年の心をとらえることはできない。在来の右翼思想は、すっかり古色蒼然たるものになってしまったし、虚妄の戦後デモクラシーに惹力はない。
 が、より根本的理由は、右の思想のいずれもが、戦後日本の基礎となった、急性(アキュート)アノミーとの対決を回避しているからである。
 この急性アノミーは、敗戦と天皇の人間宣言によって発生したものであったが、三島由紀夫のみが自著『英霊の声』(ママ)において、これとの対決をみごとになしとげた。

【『あなたも息子に殺される 教育荒廃の真因を初めて究明』小室直樹(太陽企画出版、1982年)】

 この箇所は『評伝 小室直樹』で知った。私が三島由紀夫に辿り着いたのは一昨年のことである。つまり36年前の予言が的中したわけだ。恐るべき慧眼(けいがん)と言わざるを得ない。

 アノミーとはエミール・デュルケームが用いた社会学的概念で通常は「無規範」と訳されるが小室は「無連帯」とした。ヒトが社会的動物であれば無連帯は孤独や不安を醸成する。元々は敗戦~天皇陛下の人間宣言が日本に国家的規模の集団アノミーを発生させた。その真空領域にマルクス主義が侵入し、新興宗教が蔓延(はびこ)った。小室が指摘する校内暴力・家庭内暴力が芽生えたのは私の世代(1963年生まれ)である。北海道で一番最初に校内暴力が報道されたのは私の中学で、教員に暴力を振るったのは私の友人であった。

 当時、我々の世代は三無主義(無責任・無関心・無感動)とか新人類などと呼ばれた。バブル景気が弾けるとフリーターはニートや引きこもりとなり、援助交際から一転して自傷行為が目立ち始めた。就職氷河期に遭遇した「失われた世代」(団塊ジュニアとも。1971-1974年生まれ)が抱いた社会不信も後々深刻なダメージとなって社会を毀損した。

 新しい歴史教科書をつくる会(1996年)や小林よしのり作『新・ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論』などを中心とする近代史の見直しを背景に、東日本大震災(2011年)で国内には再び尊皇のエトス(気風)が復活した。問題は令和となったこれからである。

 三島由紀夫の問題意識は現在の日本をも射抜いている。憲法改正の機会を失ったと判断した三島は自衛隊員に呼びかけてクーデターを目論んだ。ところが二・二六事件の頃とは違って日本は高度成長を遂げていた。義務教育ではアメリカがデモクラシーを与えてくれたと教えていた。三島は割腹自決を遂げることで不朽の存在となった。明年は三島の死からちょうど半世紀となる。三島の演説は今もなお私の魂を振動させる。



時間の連続性/『決定版 三島由紀夫全集36 評論11』三島由紀夫

2019-05-04

時のない状態/『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ


 ・自由の問題 1
 ・自由の問題 2
 ・自由の問題 3
 ・欲望が悲哀・不安・恐怖を生む
 ・教育の機能 1
 ・教育の機能 2
 ・教育の機能 3
 ・教育の機能 4
 ・縁起と人間関係についての考察
 ・宗教とは何か?
 ・無垢の自信
 ・真の学びとは
 ・「私たちはなぜ友人をほしがるのでしょうか?」
 ・時のない状態
 ・生とは
 ・習慣のわだち
 ・生の不思議

クリシュナムルティ著作リスト
必読書リスト その五

 誰にも依存してはいけません。私や他の人が、時のない状態があると言うかもしれません。しかし、それがあなたにとって何の価値があるのでしょう。お腹が空いているなら食べたいし、単なる言葉をあてがわれたくはないでしょう。重要なのは、あなた自身で見出すことなのです。まわりのあらゆるものごとが腐敗して、滅んでゆくのが見えるのです。いわゆる文明ももはや集団的意志ではまとまってゆかないし、バラバラになろうとしています。刻々と生は挑戦してきます。そして、単に習慣のわだちから挑戦に応答するなら、それは受け入れという形で応答することになり、そのときあなたの応答は妥当性を持ちません。時のない状態、「もっと」とか「まだ」という動きのない状態があるのかないのかは、「私は受け入れない。究明し、探究してゆこう」と言うときにだけ、見出だせます。それが、一人で立つことを恐れていないということなのです。

【『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ:藤仲孝司〈ふじなか・たかし〉訳(平河出版社、1992年)】

 私が最も多く贈本している作品なのだがとにかく反応が芳しくない。どいつもこいつも「難しい」と言う。理窟(りくつ)で捉えるから難しく感じるのだろう。ただ風に吹かれ、雨に打たれるように読めばいいのだ。クリシュナムルティの言葉を通して私の心には恐るべき振動が起こる。しかしながら私自身の音を奏でるまでには至っていない。

科学の限界/『宇宙を織りなすもの』ブライアン・グリーン

 科学が限界を悟ったのは物理的な時間であるが、人生にとって最大事は心理的な時間である。一生という時間をどう生きるか。そこに一人ひとりの個性がある。

 クリシュナムルティの言葉がわかりにくいのは言葉の圧縮度が高いためだ。例えば上記テキストであれば、「なぜ心は衰退し、老けて、重く、鈍くなるのか?」(176頁)を読めばストンと腑に落ちる。また、「なる」(ビカミング)という理想や目標が将来性を目指して時間を必要とするのに対し、自分自身がただ「ある」(ビーイング)という姿は現在性の中にしか見出せない。我々は成長や向上を目指した途端に社会の奴隷(「習慣のわだち」)となってしまうのだ。

 自転車で走っていると何となく「時のない状態」を感じることがある。




「時のない状態」とは死であろう。「私」という自我を死なすことができれば現在の中に無限を見出すことが可能となる。それはまた過去と未来の否定でもある。「ただ、ある」時、うごめく森羅万象が、生の潮流が眼前に立ち現れるのだろう。

子供たちとの対話―考えてごらん (mind books)
J. クリシュナムルティ
平河出版社
売り上げランキング: 194,873

2019-04-26

「私たちはなぜ友人をほしがるのでしょうか?」/『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ


 ・自由の問題 1
 ・自由の問題 2
 ・自由の問題 3
 ・欲望が悲哀・不安・恐怖を生む
 ・教育の機能 1
 ・教育の機能 2
 ・教育の機能 3
 ・教育の機能 4
 ・縁起と人間関係についての考察
 ・宗教とは何か?
 ・無垢の自信
 ・真の学びとは
 ・「私たちはなぜ友人をほしがるのでしょうか?」
 ・時のない状態
 ・生とは
 ・習慣のわだち
 ・生の不思議

クリシュナムルティ著作リスト
必読書リスト その五

 なぜ友人がほしいのでしょう。君たちは夫や妻もなく、子供もなく、友だちもなく、この世の中に一人で生きられますか。ほとんどの人は一人では生きられません。そのために友人がほしいのです。一人でいるには、非常に大きな智慧が必要です。そして、神や真理を見出すには、一人でいなくては【なりません】。友人や夫や妻を持つことや赤ちゃんを持つこともすてきです。しかし、私たちはそれらの中で、家庭や仕事、腐敗してゆく存在のつまらない単調な課業のなか(ママ)で、迷ってしまいます。それになじんでしまうのです。そのとき、一人で生きるという考えは恐ろしく、怖いものになるのです。しかし、生に豊かさがあるなら――お金や知識という誰にでも獲得できる豊かさではなく、始まりもなく終わりもない真実の動きという豊かさがあるのなら、そのとき交友は二次的な問題になるでしょう。

【『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ:藤仲孝司〈ふじなか・たかし〉訳(平河出版社、1992年)以下同】

「私たちはなぜ友人をほしがるのでしょうか?」という少女の質問に答えたもの。「神や真理を見出すには、一人でいなくては【なりません】」との一言で教祖や師匠の存在を否定して痛烈である。出家の目的もここにあるのだろう。ブッダのもとに集ったサンガは共同体であったとされるが、現代の我々が考えるようなコミュニティではなかったように思われる。精神的な相互扶助があればそこに依存が生まれるからだ。

「始まりもなく終わりもない真実の動き」――このようなクリシュナムルティ独特の表現が何を指しているのか私にはわからない。たぶん三法印(諸行無常、諸法無我、涅槃寂静)のことだとは思うが、クリシュナムルティの言葉の方がすっきりと胸に入ってくる。

 しかし、君たちは一人でいる教育を受けないでしょう。君たちは自分一人で散歩に出かけることがありますか。一人で出かけ、木陰に坐ることはとても重要です――本も持たず、友人もなく、自分一人で、です。そして、木の葉が散るのを観察し、河のさざなみや漁師の歌を聴き、鳥が飛ぶのや、心の空間で自分の思考が互いに追いかけ合い、跳んでいるのを眺めるのです。一人でいて、これらのものを眺めることができるなら、そのとき君はとてつもない富を発見するでしょう。それは、どんな政府も税金を掛けられないし、どんな人間の作用によっても腐敗しないし、決して滅ぶことがないのです。

 デカルトだってここまでの観察はできなかったことだろう。見るためには距離が必要だ。つまり自分の思考を観察するためには自我から離れる必要があるのだ。

 クリシュナムルティは「悟れ」とすら言わない。ただ、「見よ」というだけである。「止観」(しかん)とはこのことか。道元は「正法眼蔵」を、日蓮は「開目抄」「観心本尊抄」を著した。「見る」という方向性は一致しているがクリシュナムルティのシンプルさは際立っている。


2018-08-25

大数学者、野良犬と跳ぶ/『風蘭』岡潔


『春宵十話』岡潔

 ・大数学者、野良犬と跳ぶ

『紫の火花』岡潔
『春風夏雨』岡潔
『人間の建設』小林秀雄、岡潔
『天上の歌 岡潔の生涯』帯金充利

必読書リスト その四

 ちかごろアメリカにジャンポロジーという学問――跳躍学とでもいうのでしょうか――ができて、こういう本が出ている、といって見せてもらいました。これは、ある週刊誌の記者が東京からふたり来て、それを見せてくれたのです。それで、写真にとりたいからとんでくれ、とわたしにいうのです。
 なさけないことを頼まれるものだ、犬に頼んでくれないかなあ、と思ったのですが、東京からわざわざ見えたのだから、それじゃとぼうかな、と思って外に出ました。
 すると、近所のなじみののら犬がやってきて、いっしょにとんでくれたのです。

【『風蘭』岡潔(講談社現代新書、1964年/角川ソフィア文庫、2016年)以下同】

天上の歌 岡潔の生涯』(帯金充利著)の表紙にもなっている有名な写真がそれだ。

天上の歌―岡潔の生涯

 わたしはこの犬が飼われているという実感のわく家をほしがり、わたしのうちをこんなふうにたよっているのだから飼ってやらないか、といったのですが、犬を飼うといろいろとわたしにはよくわからない弊害がともなうらしく、家内と末娘が反対するのです。だから飼ってやるわけにもいきません。
 しかし、なんとかしてやりたいな、と思っていました。おおげさにいうとそれが負担になっていました。
 さてわたしがカメラに向かっていやいやとんだところ、その犬も来てとんだのです。それが、すこしおくれてとんだものですから、写真にはまさにとぼうとしているところがうつっています。それがひどくいいのです。
 やがてその週刊誌を見た人たちのあいだで評判になりました。つまりいちばんよくとぼうとしているのは犬である、ということになったのです。
 こうしてだいぶん有名になったおかげで、近所のうちの一軒で飼ってやろうということになりました。それで、わたしもおおげさいにいえばすっかり重荷をおろすことができ、やはりとんでよかったと思いました。

 岡潔はネクタイを嫌い、長靴を愛用した。いずれも身体(しんたい)に関わる影響を顧慮してのことである。文化勲章親授式(1960年、写真)の際もモーニング姿に長靴を履こうとして慌てた家族が説得したというエピソードがある。夏は長靴を冷蔵庫で冷やした。天才は常識に縛られることがない。常軌を逸するところに天才らしい振る舞いがある。

 それにしても、と思わざるを得ないのは週刊誌記者やカメラマンの不躾(ぶしつけ)なリクエストである。結果的にはチャーミングな写真となったわけだが、偉大な数学者に対する非礼に嫌悪感が湧いてくる。

 それでも岡は「とんでよかった」と言う。私は何にも増して岡の情緒がよく現れている出来事だと感じ入るのである。

風蘭 (角川ソフィア文庫)
岡 潔
KADOKAWA/角川学芸出版 (2016-02-25)
売り上げランキング: 131,141

2018-08-21

純粋直観と慈悲/『紫の火花』岡潔


『春宵十話』岡潔
『風蘭』岡潔

 ・純粋直観と慈悲
 ・如何とも名状し難い強い懐しさの情

『春風夏雨』岡潔
『人間の建設』小林秀雄、岡潔
『天上の歌 岡潔の生涯』帯金充利

 数学の研究は、主として純粋直観の働きによって出来るのです。ところで、私が数学の研究に没入している時は、自然に生きものは勿論殺さず、若草の芽も出来るだけ踏まないようにしています。だから純粋直観は、慈悲心に働くのです。
 私は本当によい数学者が出て来てほしいと思います。数より質が大事です。闇との戦いにはぜひ働いてほしいからです。(「新義務教育の是正について」)

【『紫の火花』岡潔(朝日新聞社、1964年/朝日文庫、2020年)】




 昨日ツイッターでこのようなやり取りがあった。今朝開いたページにドンピシャリの記述が出てきたので紹介しよう。間もなく読了。

 nipox25氏は論理的思考の陶冶(とうや)を指摘したのだろう。気が短い私なんぞはついつい罰のあり方を思うが、原因を探り罪の芽を除くことに想像が及ばない。何にも増して少年犯罪に対して「数学だ!」と断言するセンスが侮れない。

 本書は殆ど『風蘭』と重なる内容で幼児と10代の教育に主眼が置かれている。情緒に関しては5歳から「人の喜びを我が喜びとする」よう育てよと教える。天才数学者は老境に入り国家の行く末に深刻な危機感を抱いた。かつて奇行で知られた岡が仏教や脳科学を紐解きながら恐るべき情熱をもって教育を説く。

 30年前に「価値観の多様化」という言葉が蔓延(はびこ)った。それから10年くらい経つと「モラルハザード」という言葉が飛び交った。道徳とは社会における一定(最低)の基準であろう。その間にオバタリアンが登場し、援助交際をする少女が現れた。

 青少年はいつの時代も問題なのだが、昨今の場合は戦後生まれの親が最大の原因だろう。既に祖父母となっている。子や孫を猫可愛がりし、甘やかしてきたツケが回ってきているのだ。しかも子供は甘やかしただけでは心が満たされない。しっかりと自分が育つことで生まれる信頼関係が必要なのだ。まして他人は甘くない。甘やかされた者同士の衝突が「いじめ」という形に転化することも十分考えられる。

 戦後生まれは「学生運動の世代」でもある。勝手気ままに革命を叫んでいた彼らの影響が影を落としているのも確かだろう。

 幼児期の獣性を抑えるためにはダメなことをダメだと教える必要がある。いわゆる躾(しつけ)だ。ところが今どきは躾けられていない子供がそのまま親になってしまったから手のつけようがない。

 昔の学校教育には学ぶ厳しさがあったという。岡と同級の秀才は皆夭折(ようせつ)したそうだ。学問も命懸けなのだ。

2013-12-28

真の学びとは/『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ


 ・自由の問題 1
 ・自由の問題 2
 ・自由の問題 3
 ・欲望が悲哀・不安・恐怖を生む
 ・教育の機能 1
 ・教育の機能 2
 ・教育の機能 3
 ・教育の機能 4
 ・縁起と人間関係についての考察
 ・宗教とは何か?
 ・無垢の自信
 ・真の学びとは
 ・「私たちはなぜ友人をほしがるのでしょうか?」
 ・時のない状態
 ・生とは
 ・習慣のわだち
 ・生の不思議

クリシュナムルティ著作リスト
必読書リスト その五

開いた心

 学びとは何かを見出すことは、とても興味深いですね。私たちは本や教師から、数学や地理や歴史について学びます。ロンドンやモスクワやニューヨークがどこにあるのかを学びます。機械の働き方や鳥の巣作りやヒナの育て方などを学びます。観察と研究によって学びます。それが一つの種類の学びです。
 しかし、また他の種類の学び――経験から来る学びがありませんか。静かな河に帆を映した舟を見るとき、それはとてつもない経験ではないですか。そのとき、何が起きるでしょう。心はちょうど知識を貯えるように、その種の経験をも蓄えます。そして、次の夕方、同じような感情――喜びの経験、人生にとてもまれにしか訪れない平和の感覚を得ようと願い、舟を眺めるためにそこに出かけます。それで、心は勤勉に経験を蓄えているのです。そして、私たちが思考するのは、このように経験を記憶として蓄えているからでしょう。思考といわれるものは記憶の応答です。その河の舟を眺めて、喜びの感覚を感じたあとで、経験を記憶して蓄え、そのうえでそれを反復したがります。それで、思考の過程が働きだすのでしょう。
 私たちのほとんどは、どのように考えるのかを本当は知らないでしょう。私たちのほとんどは、本で読んだり、誰かの話してくれたことを単に反復するだけであり、その思考はごく限られた自分の経験の成果です。たとえ世界中を旅して回り、無数の経験を積み、さまざまな人に大勢会い、彼らの言いたいことを聴き、彼らの風俗、習慣、宗教を観察するにしても、私たちはそれらの記憶を保持するし、そこから思考といわれるものが生じるのです。私たちは比較し、判断し、選択し、この過程によって生に対する何らかの合理的な態度を見つけたいと願います。しかし、その種の思考はごく限られていて、ごく狭い範囲に限定されています。河の舟や、死体がガートの焼き場に運ばれていったり、村の女性が重い荷物を運んでいるのを見るような経験はするのです。これらすべての感銘はそこにありますが、私たちはとても鈍感なので、それは私たちに染みこんで熟すことがないのです。そして、ただまわりのあらゆるものへの敏感さによって、自分の条件づけに制限されていない異なった思考が始まるのです。
 何らかの信条に固くすがりついているなら、君たちはその特定の先入観や伝統によってあらゆるものを見るのです。現実との接触を持ちません。君たちは、村の女性が重い荷物を町に運んでいるのに気づいたことがありますか。それに本当に気づくとき、君はどうなり、何を感じるでしょう。それとも、これらの女性が通っていくのはしばしば見ているので、慣れてしまったためにまったく何の感情も持たないし、したがって彼女たちにはほとんど気づかないのでしょうか。そして、初めてあるものを観察するときでさえも、どうなるでしょう。先入観にしたがって見るものを自動的に解釈するでしょう。共産主義者、社会主義者、資本主義者、その他「主義者」という自分の条件づけにしたがってそれを経験するのです。ところが、これらのもののいずれでもなく、そのためにどんな観念や信念の幕をも通して見ず、実際に直かに接触するなら、そのとき君は、自分とその観察するものとの間には、なんというとてつもない関係があるのかと気づくでしょう。先入観や偏見を持たずに開いているなら、そのときは、まわりのあらゆるものがとてつもなく興味深くなり、ものすごく生き生きとしてくるでしょう。
 それで、若いうちに、これらすべてのことに気づくことがとても重要であるわけです。河の舟に気づきなさい。通り過ぎる汽車を眺め、農夫が重い荷物を運んでいるのをごらんなさい。豊かな者の高慢さ、大臣や偉大な人々、自分はたくさんのことを知っていると考える人たちの誇りを観察するのです。ただ彼らを眺めてごらんなさい。批判してはいけません。批判したとたんに、君は関係していないし、すでに君自身と彼らとの間に障壁を抱えています。しかし、単に観察するだけなら、そのとき君は人々や物事と直接に関係を持つでしょう。鋭く機敏に判断せずに、結論を下さずに観察できるなら、思考が驚くほどに冴えてくるのがわかるでしょう。そのときは、いつのときにも学んでいるのです。
 君たちのまわりのいたるところに、誕生と死、金や地位や権力のための闘い、生と呼ばれる果てしない過程がありますね。君たちはたとえ幼い間でも、ときには、これはどういうことだろうと思いませんか。私たちのほとんどは答えをほしがり、それがどういうことかを【教えて】ほしいでしょう。それで、政治や宗教の本を取り上げたり、誰かに教えてほしいと言うのです。しかし、誰も私たちには教えられません。なぜなら、生は本によって理解できるものではないし、その意義は他の人に倣ったり、ある形の祈りによって察することができないからです。君と私はそれを自分自身で理解しなくてはなりません。それは、私たちが充分に生きていて、とても機敏で、見つめて、観察し、まわりのあらゆるものに興味を持つときにだけ、できるでしょう。そのときには、本当に幸せであるとはどのようなことかを発見するでしょう。
 ほとんどの人は不幸せです。そして、心に愛を持たないためにみじめです。君たちが君自身と人との間に障壁を持たないとき、人々を判断せずに、彼らに会って観察するとき、河の帆舟をただ見て、その美しさに喜ぶとき、心に愛が生じるでしょう。自分の先入観のために、ありのままの物事の観察をくもらせてはいけません。ただ観察してごらんなさい。すると、この単純な観察や、木や鳥や、歩いていたり、働いていたり、微笑んでいる人々への気づきから、君の内部に何かが起きるのを発見するでしょう。このとてつもないことが君に起きず、心に愛が生じないなら、生にはほとんど意味がありません。それで、君がこれらすべてのことの意義を理解するのを助けるように、教師が教育を受けることがとても重要であるわけです。

【『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ:藤仲孝司〈ふじなか・たかし〉訳(平河出版社、1992年)以下同】

「感動」では何かが足りない。クリシュナムルティが説く「学び」とは気づき&理解=変化を意味する。「学んだことのたった一つの証は変わることである」と林竹二〈はやし・たけじ〉は言った(『わたしの出会った子どもたち』灰谷健次郎)。

 変わることは「自分の中にまったく新しい何かが生まれる」ことだ。ここでハタと気づく。諸行無常とは世界の有為転変を説いたものであるが、瞬間瞬間自分自身も更新されている事実を示したのであろう。我々がそれを実感できないのは固定した自我を抱えているためだ。

 数日前に「学術的成果と真の学びとは別物だ」と書いた(歴史的真実・宗教的真実に対する違和感/『仏教は本当に意味があるのか』竹村牧男)。学問の世界における学びは技術であり、自我の上に構築され蓄積される。そこには常に成功や名利(みょうり)を欲する異臭が漂う。だから功成り名を遂げた学者連中は勇んで御用学者の道を辿るのだろう。

 こんなところにも聖俗の道があるのだ。例えば本を著すチャンスがあったとしよう。大半の人々が何らかの「売る努力」を試みるはずだ。こうして「わかりやすさ」が「大衆迎合」に変貌する。上下の違いはあろうとも迎合に変わりはない。自らの意に随(したが)うことは難しい。

 せっかくなのでもうひとつ紹介しよう。

 結局、生のとてつもない深みを測ったり、神や真理とは何かを見出すには、自由がなくてはなりません。そして、見出し、学ぶ自由は経験をとおしてあるのでしょうか。
 君たちは経験とは何かということを、考えたことがありますか。それは挑戦に応じた感情でしょう。挑戦に応じることが経験です。そして、君は経験をとおして学ぶのでしょうか。挑戦や刺激に応じるとき、君の応答は自分の条件づけや受けた教育、文化的、宗教的、社会的、経済的な背景に基づいています。ヒンドゥー教徒やキリスト教徒や共産主義者や何であろうとも、自分の背景に条件づけられて、挑戦に応じます。自分の背景を離れなければ、どの挑戦への応答もただその背景を強めたり、修正するだけです。それゆえに本当は決して自由に、真理とは何か、神とは何かを探究し、発見し、理解することはできません。
 それで、経験では自由にならないし、経験をとおした学びはただ、自分の古い条件づけに基づいて、新しい型を作る過程にすぎません。このことを理解することが、とても重要だと思います。なぜなら、私たちは大きくなると、経験をとおして学ぼうと思い、自分の経験にますます立て籠もってゆくからです。しかし、何を学ぶのかは背景が指定します。それは、私たちは経験によって学ぶけれども、経験をとおしては決して自由がなく、条件づけの修正があるということなのです。
 そこで、学びとは何でしょう。君たちは読み書きの方法や静かな坐り方、従ったり、従わなかったりするすべなどを学ぶことから始めます。あれやこれやの国の歴史を学んだり、伝達に必要な言語を学びます。生計の立て方や畑の肥やし方などを学びます。しかし、心が条件づけから自由な学びの状態、探究のない状態はあるのでしょうか。質問が理解できますか。
 学びというものは、適応し、がまんし、征服する連続的な過程です。私たちは何かを避けたり、得たりするために学びます。そこで、心が学びではなく、【ある】ということの器になるような状態はあるのでしょうか。違いはわかりますか。習得したり、得たり、避けたりしているかぎり、心は学ばなくてはなりません。そして、このような学びにはいつもたいへんな緊張やがまんがあるのです。学ぶには、集中しなくてはならないでしょう。そして、集中とは何でしょう。
 君たちは何かに集中するとき、何が起きるのか、気づいたことがありますか。勉強したくない本を勉強するように要求されるとき、たとえ勉強したいにしても、他のことはがまんして、わきに置かなくてはなりません。集中するために、窓の外を見たい、人に話をしたいという意向をがまんします。それで、集中にはいつも努力があるでしょう。集中には、何かを獲得するために学ぶ動機や誘因や努力があるのです。そして、人生はそのような努力や、学ぼうとしている緊張状態の連続です。しかし、まったく緊張がなく、獲得がなく、知識の積み重ねもなければ、そのとき心ははるかに深く、早く学ぶことができないでしょうか。そのとき心は、真理とは何か、美しさとは何か、神とは何かを見出す探究の器になるのです――それは本当は、知識や社会、宗教や文化や条件づけの権威であろうとも、どんな権威にも服従しないということなのです。
 何が真実かを見出せるのは、心が知識の重荷から自由であるときだけでしょう。そして、見出す過程には蓄積がないでしょう。経験したり、学んだことを蓄積しはじめたとたんに、それは心を捕える拠点になり、さらに進むことを阻みます。探究の過程では、心は日に日に学んだことを脱ぎ捨ててしまうので、いつもはつらつとして、昨日の経験に汚染されていないのです。真理は生きています。静止していません。そして、真理を発見するような心もまた、知識や経験の重荷を負わずに、生きていなくてはなりません。そのときにだけ、真理の生じてくる状態があるのです。
 こういうことは言葉の意味においてはむずかしいかもしれませんが、心を込めるなら、その意味はむずかしくはありません。生の深い事柄を探究するには、心は自由でなくてはなりません。しかし、学んで、その学びをそれ以上の探究の基本にしたとたんに、心は自由ではないし、もはや探究していないのです。

 クリシュナムルティという風によって脳内のシナプスが舞い上がり、そして飛翔する。

 我々は経験を重んじる。なぜなら経験こそが自我の骨格であるからだ。私が小林秀雄を信用しないのは彼が経験至上主義者であるためだ(『新潮CD講演 小林秀雄講演 第2巻』)。

 認知は必ず誤謬を伴う(認知バイアス)。経験や体験は「自分」というフィルターを通して感得されたものだ。そして記憶は修正と捏造(ねつぞう)を繰り返す(『なぜ人はエイリアンに誘拐されたと思うのか』スーザン・A・クランシー)。

 答えは言葉そのものにある。経験の「験」の字は「ためす」「しるす」を意味する。すなわち経験とはその時その場での感覚的シンボルに過ぎないのだ。

 我々が経験に照らして物事を判断する時、新たな出来事は古いカテゴリーに押し入れられる。そう。血液型占いと一緒だ。このようにして25歳を過ぎたあたりから「新しい何か」は自分の心の中で殺されてゆく。「私」は傷ついた古いレコードのように同じ反応を繰り返す。「これが私らしさだ」と自慢しながら。

 それにしても何ということか。クリシュナムルティは経験も集中も否定する。当然のように努力と理想も否定する(『自由とは何か』J・クリシュナムルティ)。彼が肯定したのは自由だけであった。その自由もありきたりではない。極言すれば「感じる自由」であり「見る自由」であった。

 我々の心はいつも波立っている。明鏡止水の如く心を静まらせれば、一滴(ひとしずく)の水からも無限の波紋を生むことができるに違いない。



「知る」ことは「離れる」こと/『消えたい 虐待された人の生き方から知る心の幸せ』高橋和巳

2013-07-31

極限状況で問われる死生観/『天才は親が作る』吉井妙子


 ・極限状況で問われる死生観

『リズム遊びが脳を育む』大城清美編著、穂盛文子映像監督

 これはダイノジ大谷が紹介していた一冊。さほど面白くはなかったが子育ての参考程度にはなるだろう。

 2002年夏、第51回大会(昭和44年)の決勝で2日間にわたって投げ合った松山商業の投手・井上明三沢高校の投手・太田幸司に、ある雑誌の企画で対談してもらったことがあった。松坂たちの甲子園も球史に残る熱闘だったが、40代以上の人たちならこの試合も記憶の箱からすぐに取り出すことが出来る。優勝旗を松山に持ち帰った井上は「その後の人生は余生だと思った」と言い、「野球があんなに恐ろしいものだとは思わなかった。恐怖で涙が出た」と述懐した。

【『天才は親が作る』吉井妙子(文藝春秋、2003年/文春文庫、2007年)】

 極限状況に追い込まれた人間心理が赤裸々に表現されている。過酷な鍛錬を経た者でなければ到達し得ない領域だ。




全編はこちら


 人は限界に直面すると気質があらわれる。実はここで問われるのが死生観に他ならない。井上選手が感じた恐怖はまさに「死の恐怖」であったのだろう。

 私が野球をしていたのは中学時代で札幌では優勝しているものの高校野球とはもちろんレベルが異なる。「もう二度と野球なんかやりたくない」と思うほど練習はきつかった。高校球児はその10倍くらいの練習量があることだろう。

 私は見た目とは異なり淡白な性格だ。敵地での試合は何とも思わないし、相手チームの応援が賑やかであればあるほど燃えるタイプだ。4番打者をしていたがピンチであろうとチャンスであろうと淡々と打席に臨んだ。自分にできることをやるだけのことだ。そのための準備はできていた。

 ま、そういうわけで「あの時こうしておけばよかった」という後悔が殆どない。できなかった事実をただ直視するだけだ。技術には限界があるのだから。だから私は敗れたチームが泣く姿を見るのが嫌で嫌でしようがない。彼らの姿はまるで「本当なら勝てたのに」と言わんばかりだ。運や不運は実力の後について回るものだ。

 しかし中学3年の私は最後の試合に敗れて泣いた。チームで一番最初に泣いた。それは負けた悔しさというよりは、「私の野球が終わった」という感慨の深さからであった。確かに「もっと練習できたはずだ」という思いもあったが、それは相手チームも同様だろう。

 死生観が生の彩(いろど)りを変える。恐怖は人生を抑圧する。誰人たりとも明日の命はわからないものだ。やがて必ず訪れる死を恐れるか、それとも今日の生に感謝できるか――死生観はこのあたりに着地する。朝目覚めるたびに「死んでみせるぞ」と生きてゆきたい。


天才は親が作る

2011-10-23

「2歳未満の子供にはテレビを見せないで」、米国小児科学会が指針


 米国小児科学会(American Academy of Pediatrics、AAP)は18日、2歳未満の子供にはテレビを見させるべきではないとする指針を発表した。1999年に出した前回の指針を改定した。

 学会は、子供のテレビ視聴に関する50以上の研究のうち、テレビ視聴が言語発達の遅れに結び付く可能性を示したものが複数あると指摘している。

 学会は、親のテレビ視聴が子供に悪影響を及ぼす可能性についても警告している。指針をまとめた小児科医のアリ・ブラウン(Ari Brown)氏は、AFPの取材に対し、「テレビがついていると、親はあまりしゃべりません。子供のおしゃべりの時間が短ければ短いほどその子の言語発達が遅れるという科学的証拠もあるんです」と話した。

 なお、指針が対象とするのは、ビデオゲームなどのインタラクティブ(双方向性)なゲームではなく、テレビやパソコン、携帯電話などで受動的に眺めるメディアだ。

「今回の指針は、メディアが2歳未満の子供にネガティブな影響を及ぼしうることとポジティブな影響はあり得ないことを、これまで以上の証拠により示している」と、学会は述べている。

乳幼児向けDVDが脳の発達阻む?

 ブラウン氏は、指針の改定は0~2歳児をターゲットにしたDVDが爆発的に増えている現状からも必要だったと話した。「良い内容のものも確かにありますが、『セサミ・ストリート(Sesame Street)』でさえ2歳未満にとっては理解できない内容で、学習を促すようなものではありません」

 米国では、子供の3人に1人が3歳までに自分専用のテレビを持つ。また、乳児および未就学児向けのDVDは年間2億ドル(約150億円)の利益を生み出す一大マーケットとなっている。

 学会は、「乳幼児向けビデオのベストセラーの4分の3は明確に、あるいは暗に『教育用』をうたっているが、2歳未満の子供に教育的メリットがあるかは実証されていない。脳の発達には、電子メディアにさらされるより自由に遊ぶことの方が効果的だ」としている。

ある父親の「気づき」

 米デラウェア(Delaware)州ウィルミントン(Wilmington)に住む2児の父親、マシュー・スリバンさん(36)は、このたび、子供たちのテレビ視聴を制限することにした。医者に言われたからではなく、常識を働かせたのだという。

「息子はテレビを見ている時にはゾンビみたいだ。テレビを見ていない時に帰宅すると駆け寄ってハグしてくれるんだが、テレビを見ている時に帰ったら僕の存在にさえ気付かない有様さ。1日のうち数時間もそんな状態にならないよう気をつけているよ」

AFP 2011-10-22

2011-10-09

恐怖で支配する社会/『智恵からの創造 条件付けの教育を超えて』J・クリシュナムルティ


 クリシュナムルティ本の翻訳はどれも評判が悪い。私の周囲でも「あんな悪文がよく読めますね」という声を聞く。その上、翻訳者が声高に自己主張を叫んでいる。これが大野純一、大野龍一、藤仲孝司の共通点だ。

 不思議なことだが酷い翻訳であるにもかかわらず、私は読むのに支障をきたすことがない。クリシュナムルティの静謐な精神に包まれているような心地がするのだ。

 翻訳は重要な事業である。鳩摩羅什〈くまらじゅう〉がいなければ鎌倉仏教も生まれなかったであろうし、小ブッダともいうべき人々が存在しなければ、部派仏教大乗仏教も誕生しなかったに違いない。

 その意味で翻訳は単なる言葉の置き換えではない。人々の脳内情報を書き換え、上書き保存するほどのプレゼン能力が求められる。仏典では文・義・意という考え方があるが、これは翻訳の原理を示したものといってよい。

 藤仲は文(もん)を重んじるタイプで、翻訳というよりは通訳に近い。それはそれで資料的価値がある。解釈というものは常に誤謬(ごびゅう)に満ちているものだから。

 本書には1933年から1967年に渡る講演が収められている。ところが古さを全く感じさせない。どんなに立派な人物であっても1970年代前半くらいまでは差別的な言辞や用語があるものだ。社会全体もそれを受容していた。

 今、中国の風潮を揶揄するネット言論が目立つが、高度経済成長が終わるまでの日本とさほど遜色があるとは思えない。

 クリシュナムルティにはそれがないのだから驚くべきことである。

 私たちは、目覚めさせてくれる人がほしいのです。啓発者がほしいのです。導き手がほしいのです。振るまい方を私たちに言ってくれる誰かが、ほしいのです。愛は何であるのか、何を愛するのかを私たちに言ってくれる誰かが、ほしいのです。私たちは自分自身では空っぽです。私たちは自分自身では混乱し、不確実で、悲惨です。ですから、私たちは、助けてもらい、啓発してもらい、導いてもらい、目覚めさせてもらえるよう、乞い求めて巡るのです。どうかこれに付いてきてください。それはあなたの問題です。私の〔問題〕ではありません。それはあなたの問題ですから、あなたはそれに向き合い、それを理解すべきです――来る年も来る年も、〔ついに〕混乱し全く迷って死ぬまで、それを反復すべきではないのです。あなたは、啓発者が不可欠である、または導師(グル)は必要である、と言います。何のためですか。導師(グル)は、あなたが真理と呼ぶもの――実在(the real)と呼ぶもの、神、自己実現――に導かれるために、必要でしょうか。理解できるでしょうか。あなたは導かれたいのです。これには幾つものことが含意されています。(マドラスでの講話4 1953年12月13日)

【『智恵からの創造 条件付けの教育を超えて』J・クリシュナムルティ:藤仲孝司〈ふじなか・たかし〉、横山信英、三木治子訳(UNIO、2007年)以下同】

 1953年だから昭和28年の講話(トーク)である。第二次世界大戦が終わってから10年経っていない。バブル景気が弾けた後なら、まだ理解のしようもある。クリシュナムルティの指摘は半世紀ほど先んじていた。

 サラリーマンは「よき上司」を求めるものである。我々現代人は何らかの形で組織や集団に所属している。皆が皆、「素晴らしいリーダー」を待望している。我々はそれを当たり前のように自然な気持ちとして考えている。だがクリシュナムルティはその実相を暴く。

 多くの人々は心理的な依存を求めており、よりよき方向へ自分を導いてくれる案内者を探している。つまり、「よきコントロール」を望んでいるのだ。

 主従(経済的関係性)、親子(家族的関係性)、師弟(教育的関係性)のいずれにおいても、我々はコントロールされている。会社の指示を聞き、親に従い、先生の言いつけを守ることが「正しい」と信じている。社会のありとあらゆる場面で、積極的な隷属を強いられている。そこで重んじられるのは智慧よりもセオリーだ。幼い頃から「ルールを守る」ことは教わっても、「誤ったルールを見抜き、変える」ことはただの一度も教わっていない。

「お母さん、明日の朝起こしてね」――これが我々の生きる姿勢なのだ。

Jiddu Krishnamurti

 次に紹介するのはラージガートの講話で聴衆は学生である。

 今朝私は〔できるなら〕、かなり難しそうな話題について話をしたいのです。ですが、可能なかぎり、それを単純で直接的にしようとするでしょう。知っているでしょうが、私たちのほとんどは何らかの恐れを持っていますね。君たちは、自分の特定の恐れを知っているでしょうか。君たちは、自分の先生を、保護者、親、大人たちを、または蛇や野牛、誰かの言うことや死などを恐れているかもしれません。一人一人が恐れを持っていますが、若者たちにとって恐れは相当に単純です。私たちが年を取るにつれて、恐れはもっと複雑で、もっと難しく、もっと微細になるのです。私は特定の方向で自己を充足したいのです。君たちは、「充足」とはどういう意味であるかを、知っていますね。私は偉大な作家になりたいのです。私は、もしもものを書けたなら、自分の生活が幸せになるだろうと感じます。それで、私はものを書きたいのです。しかし、私には何が(ママ)起きるかもしれません。私は余生の間、〔身体が〕麻痺してしまうかもしれません。それが私の恐れになるのです。それで、私たちが年を取るにつれて、様々な形の恐怖が生じます――ひとり取りのこされる〔恐れ〕、友だちがいない〔恐れ〕、資産を失う〔恐れ〕、どんな地位をも持たない恐れ、そして他の様々な種類の恐れ、です。しかし私たちは今、とても難しくて微細な種類の恐れには入らないでしょう。なぜなら、それらははるかに多くの思考を必要とするからです。
 私たちが――君たち若者と私が、この恐れという疑問を考慮することが、とても重要です。なぜなら、社会と大人たちは、君たちを行儀よくさせておくには恐れが必要である、と考えるからです。君が自分の先生や親を恐れているなら、彼らは君をもっとうまく制御できるでしょう。彼らは、「これをしなさい、あれをしてはいけない」と言えるし、君はまったく彼らに服従しなくてはならないでしょう。ですから、恐れは道徳的な圧力として使われます。教師たちは、たとえば大きな学級において、学生たちを制御する手段として恐れを使います。そうではないでしょうか。社会は、恐れは必要である、さもなければ市民たち、民衆たちは弾けて、むちゃなことをするだろう、と言うのです。こうして、恐れは人の制御に必要なものになったのです。
 知っているでしょうが、恐れはまた、人を〔文明化・〕教化するためにも使われます。世界中の〔諸々の〕宗教は、人を制御する手段として、恐れを使ってきたでしょう。彼らは、君はこの生で一定のことをしないなら、来世でそのつけを払うことになるだろう、と言うのです。すべての宗教は愛を説くけれども、同胞愛を説くし、人の和について話をするけれども、彼らはすべて、微妙にまたはひどく残忍に、粗雑にこの恐れの感覚を維持するのです。(ラージガートでの講話2 1954年1月5日、以下同)

 あっと言う間に「恐怖」の本質を浮かび上がらせている。確かに社会や集団は恐怖で人々を支配している側面がある。法的な罰(ばつ)と神罰(しんばつ)仏罰(ぶつばち)は同根であろう。人間よりもコミュニティに重きを置いた眼差しだ。

 社会で罰の価値観が共有されると、「あいつを罰するべきだ」という主張が必ず生まれる。法律で裁けないなら俺たちの手で裁こう、というのが私刑だ。イタリアマフィアのオメルタの掟、やくざ者の指詰め、クー・クラックス・クラン(KKK)による黒人の処刑、関東大震災における朝鮮人虐殺も全部同じだ。

クー・クラックス・クラン(KKK)と反ユダヤ主義

 一人ひとりの権利を守るべきルールが、今度は人々の行動を束縛し抑圧する方向へと作動する。次々と生まれる新たな犯罪によって法律は細分化し、次々と発生する新たな事故や病気によって保険の約款(やっかん)は長くなる。

 組織が必ず統治されている以上、そこでは権力が機能する。権力は必ず服従を求める。組織内では服従の競争がまかり通る。これを「積極的奴隷性」と名づけよう。

 誰もが社会での成功を望んでいる。否、我々にとっての幸福とは「社会での成功」に他ならない。皆が皆、ひとかどの者になろうと悪戦苦闘している。だが、よくよく考えてみると、それ自体が社会の奴隷になることを促している。ビジネス書が披露しているのは「賢い奴隷になる方法」であろう。

 私たちのほとんどはとても保守的です。君たちは、その〔保守的という〕言葉がどういう意味であるのかを、知っていますね。「保守する」とはどういうことかを知っていますね――保つ、守るのです。私たちのほとんどは、〔尊敬されるよう〕体裁よくしていたいのです。それで、正しいことをやりたいし、正しい行ないに従いたいのです――それは、とても深く入るなら分るでしょうが、恐れの表示です。なぜまちがえていけないのでしょうか。なぜ見出さないのでしょうか。しかし。恐れている人はいつも、「私は正しいことをしなければならない。体裁よく見えなければならない。本当のありのままの私を公に知らせてはならない」と考えています。こういう人は基本的に、根源的に恐れています。野心を持っている人は本当は怯えた人物です。そして怯えている人は、どんな愛をも持ちません。どんな同情も持ちません。彼は壁の向こうに監禁された人物に似ています。私たちが若いうちに、このことを理解すること、恐れを理解することが、とても重要です。私を服従させるのは、恐れです。しかし、私たちはそれについて話し合い、ともに推理し、ともに議論し、考えることができるなら、そのとき私は、頼まれたことを理解して、できるかもしれません。しかし、私が君に怯えているからといって、私が理解しないことをやるよう私に強制すること、強いることは、まちがった教育でしょう。

 凄い指摘だ。野心を持つ者は臆病者だと言い切っている。組織が巨大になればなるほど、そこでは野心と思惑が働く。権力闘争といえば聞こえはいいが、所詮パン食い競争みたいなものだ。

 地位・名誉・称賛を求める人生に本当の幸福はあり得ない。なぜなら奴隷には自由がないからだ。知らず知らずのうちに「不自由な豊かさ」を幸福だと思い込まされている事実が恐ろしい。我々が望んでいるのは「豪華な牢獄」に他ならない。

 権力者を恐れ、権威に従うことは、群れの本能に基づいているのだろう。権威に服従すればコミュニティ内では得をする。

服従の本質/『服従の心理』スタンレー・ミルグラム

 相手を立場や所属で見つめる眼差しに人間の姿は映らない。我々は人間と向き合うことすら奪われてしまったのだろう。

 クリシュナムルティは宗教者に鉄槌を下す。

 恐れている人物は、けっして真理や神を見出せません。私たちの崇拝すべて、像すべて、儀式すべての裏には、恐れがあります。ゆえに、君の神は神ではなくて、それらは石なのです。

 もうね、ぐうの音も出ないよ。宗教は死、あるいは死後の恐怖を利用して信者を脅す。ただ脅すだけではない。必ず金を巻き上げる。地獄や祟(たた)りが彼らの常套句だ。先祖をオールスターで勢揃いさせて、恨みつらみを勝手に代弁する。霊の腹話術みたいなもんだ。しゃべってんのは、てめえだろーが。

 クリシュナムルティが示したのは「恐怖からの自由」であった。

智恵からの創造―条件付けの教育を超えて (クリシュナムルティ著述集)
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クリシュナムルティ「智恵からの創造」
恐怖からの自由/『自由への道 空かける鳳のように』クリシュナムーテイ
欲望が悲哀・不安・恐怖を生む/『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ
恐怖なき教育/『未来の生』J・クリシュナムルティ
自由の問題 1/『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ
宗教は恐怖と不安を利用する
死の恐怖/『ちくま哲学の森 1 生きる技術』鶴見俊輔、森毅、井上ひさし、安野光雅、池内紀編

2011-10-04

救うべからざる大学の退廃


 それでは大学が大学に成るために求められているものは何なのか。入ってきた学生にたいする「教育」である。教育は一定の事を教えて、これを覚えさせることではない。学生の自ら学ぶことをたすける仕事が、教育である。学ぶ意志と能力を失いつくして大学に入ってきたものを、そのまま知識若干を与えて卒業させているところに、救うべからざる大学の退廃がある。大学は、その学生に学ぶことを教え、学ぶことをさせなければならない。学ぶ意志を失いつくしたものに、その意志を恢復させ、自ら学ぶ能力の若干を身につけさせた上で、学生を社会に出すことに大学は責任をもつべきである。これは至難のことだが、大学が大学になるためには、この一つのことだけは避けることはできない。大学で学ぶということは、人間や社会や、世界を、その根底においては自己を、根本から問いなおす作業をはじめることである。

【『教育の再生をもとめて 湊川でおこったこと』林竹二〈はやし・たけじ〉(筑摩書房、1984年)】

教育の再生をもとめて―湊川でおこったこと

2011-06-28

教育の機能 4/『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ


 ・自由の問題 1
 ・自由の問題 2
 ・自由の問題 3
 ・欲望が悲哀・不安・恐怖を生む
 ・教育の機能 1
 ・教育の機能 2
 ・教育の機能 3
 ・教育の機能 4
 ・縁起と人間関係についての考察
 ・宗教とは何か?
 ・無垢の自信
 ・真の学びとは
 ・「私たちはなぜ友人をほしがるのでしょうか?」
 ・時のない状態
 ・生とは
 ・習慣のわだち
 ・生の不思議

クリシュナムルティ著作リスト
必読書リスト その五

 幼児教育として家庭で行われているのは剪定(せんてい)と枝打ちだ。7年ほど経つと伐採されて工場へ送られる。裁断が施され、不要な樹皮を削り取り、研磨が加えられる。めでたく統一規格品に合格すれば小学校を卒業だ。

 これがエスタブリッシュメントの子弟であれば、幼児期から針金でぐるぐる巻きにされた盆栽状態と化す。最初から枝を伸ばす余地はない。

 現在行われているのは、教育という名の巧妙な暴力である。概念を支配し、感受性を束縛することで「正しい反応の仕方」を叩き込む。子供たちは社会の奴隷であればあるほど高く評価される。信念とは強要された忠誠心でしかない。

 若いうちに恐怖のない環境に生きることは、本当にとても重要でしょう。私たちのほとんどは、年をとるなかで怯えてゆきます。生きることを恐れ、失業を恐れ、伝統を恐れ、隣の人や妻や夫が何と言うかと恐れ、死を恐れます。私たちのほとんどは何らかの形の恐怖を抱えています。そして、恐怖のあるところに智慧はありません。それで、私たちみんなが若いうちに、恐怖がなく、むしろ自由の雰囲気のある環境にいることはできないのでしょうか。それは、ただ好きなことをするだけではなく、生きることの過程全体を理解するための自由です。本当は生はとても美しく、私たちがこのようにしてしまった醜いものではないのです。そして、その豊かさ、深さ、とてつもない美しさは、あらゆるものに対して――組織的な宗教、伝統、今の腐った社会に対して反逆し、人間として何が真実なのかを自分で見出すときにだけ、堪能できるでしょう。模倣するのではなく、発見する。【それ】が教育でしょう。社会や親や先生の言うことに順応するのはとても簡単です。安全で楽な存在方法です。しかし、それでは生きていることにはなりません。なぜなら、そこには恐怖や腐敗や死があるからです。生きるとは、何が真実なのかを自分で見出すことなのです。そして、これは自由があるときに、内的に、君自身の中に絶えま(ママ)ない革命があるときにだけできるでしょう。
 しかし、君たちはこういうことをするように励ましてはもらわないでしょう。質問しなさい、神とは何かを自分で見出しなさい、とは誰も教えてくれません。なぜなら、もしも反逆することになったなら、君は偽りであるすべてにとって危険な者になるからです。親も社会も君には安全に生きてほしいし、君自身も安全に生きたいと思います。安全に生きるとは、たいがいは模倣して、したがって恐怖の中で生きることなのです。確かに教育の機能とは、一人一人が自由に恐怖なく生きられるように助けることでしょう。そして、恐怖のない雰囲気を生み出すには、先生や教師のほうでも君たちのほうでも、大いに考えることが必要です。

【『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ:藤仲孝司〈ふじなか・たかし〉訳(平河出版社、1992年)以下同】

 生の不安は恐怖に根差している。生存を脅かすのは暴力だ。戦争が報道されることで世界は常に戦場と化している。大量の殺人と自殺と事故死に我々は取り囲まれている。少年は少年兵となった。これが教育の成れの果てだ。

少年兵は自分が殺した死体の上に座って食事をした/『戦場から生きのびて ぼくは少年兵士だった』イシメール・ベア

 与えられる罰は暴力である。罰とは社会が許容する暴力の異名なのだ。罰を与えるのは楽だ。考える必要がない。決まったルールに従うだけで済む。教師がわかりやすい条件を示せば、児童はあっさりとパブロフの犬に変身する。


 暴力の本質は支配することだ。仏典では他化自在天として説かれている(あるいは第六天の魔王とも天魔とも)。「他人を自由自在に化(け)する(=コントロールする)」のが権力のメカニズムである。「天」とは六道の最上位に位置し天下を示す。つまり社会だ。

 とすると六道輪廻(ろくどうりんね)は、社会通念に従い、古い常識に額づく束縛状態を表しているのだろう。成功というゴールを目指す競争に参加することが、暴力や差別を結果的に支えてしまう。

 君たちはこれがどういうことなのか、恐怖のない雰囲気を生み出すことがどんなにとてつもないことになるのか、知っていますか。それは【生み出さなくてはなりません】。なぜなら、世界が果てしない戦争に囚われているのが見えるからです。世の中は、いつも権力を求めている政治家たちに指導されています。それは弁護士と警察官と軍人の世界であり、みんなが地位をほしがって、みんなが地位を得るために、お互いに闘っている野心的な男女の世界です。そして、信者を連れたいわゆる聖人や宗教の導師(グル)がいます。彼らもまた、ここや来世で地位や権力をほしがります。これは狂った世界であり、完全に混乱し、その中で共産主義者は資本主義者と闘い、社会主義者は双方に抵抗し、誰もが誰かに反対し、安全なところ、権力のある安楽な地位に就こうとしてあがいています。世界は衝突しあう信念やカースト制度、階級差別、分離した国家、あらゆる形の愚行、残虐行為によって引き裂かれています。そして、これが君たちが合わせなさいと教育されている世界です。君たちはこの悲惨な社会の枠組みに合わせなさいと励まされているのです。親も君にそうしてほしいし、君も合わせたいと思うのです。
 そこで、この腐った社会秩序の型に服従するのを単に助けるだけが、教育の機能でしょうか。それとも、君に自由を与える――成長し、異なる社会、新しい世界を創造できるように、完全な自由を与えるのでしょうか。この自由は未来にではなくて、今ほしいのです。そうでなければ、私たちはみんな滅んでしまうかもしれません。生きて自分で何が真実かを見出し、智慧を持つように、ただ順応するだけではなく、世界に向き合い、それを理解でき、内的に深く、心理的に絶えず反逆しているように、自由の雰囲気は直ちに生み出さなくてはなりません。なぜなら、何が真実かを発見するのは、服従したり、何かの伝統に従う人ではなく、絶えず反逆している人たちだけですから。真理や神や愛が見つかるのは、絶えず探究し、絶えず観察し、絶えず学んでいるときだけです。そして、恐れているなら、探究し、観察し、学ぶことはできないし、深く気づいてはいられません。それで確かに、教育の機能とは、人間の思考と人間関係と愛を滅ぼすこの恐怖を、内的にも外的にも根絶することなのです。

 クリシュナムルティの最大の功績は「教団の暴力性」を鋭く見抜いたことにあると私は考えている。宗教はもはや存在しないといっていいだろう。あるのは教団という器だけだ。現代において信仰は所属を意味する。教団が目指すのは衆生(しゅじょう)の救済ではなく、マーケットシェア(市場占有率)の拡大である。このため教団組織は必ず二次的な社会構造を形成する。社会の中の社会で行われるのもまた競争だ。信者はさしずめ、パンを食いながら、右手で玉を投げ、左手で綱引きをしているような状態だ。父兄の方はお下がりください。

「この腐った社会秩序の型に服従するのを単に助けるだけが、教育の機能でしょうか」――辛辣(しんらつ)な問いは我々一人ひとりに向けて放たれたものだ。

 愛情や慈悲までもが交換の対象となり経済性で計られる。ギブ・アンド・テイクが我々の流儀だ。

 社会的成功という脅迫観念を捨てるところから自由の一歩が始まる。自由の中から真の人間が誕生するのだ。我々大人は「人間の形をした何か」であって人間になり損ねた存在だ。果たして生(せい)の花を咲かせ、人間性の薫りを放つことは可能だろうか?



深遠なる問い掛け/『英知の教育』J・クリシュナムルティ
恐怖なき教育/『未来の生』J・クリシュナムルティ
比較が分断を生む/『学校への手紙』J・クリシュナムルティ
世界中の教育は失敗した/『クリシュナムルティの教育・人生論 心理的アウトサイダーとしての新しい人間の可能性』大野純一
邪悪な秘密結社/『休戦』プリーモ・レーヴィ
生存適合OS/『無意識がわかれば人生が変わる 「現実」は4つのメンタルモデルからつくり出される』前野隆司、由佐美加子

2011-06-16

教育の機能 3/『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ


 ・自由の問題 1
 ・自由の問題 2
 ・自由の問題 3
 ・欲望が悲哀・不安・恐怖を生む
 ・教育の機能 1
 ・教育の機能 2
 ・教育の機能 3
 ・教育の機能 4
 ・縁起と人間関係についての考察
 ・宗教とは何か?
 ・無垢の自信
 ・真の学びとは
 ・「私たちはなぜ友人をほしがるのでしょうか?」
 ・時のない状態
 ・生とは
 ・習慣のわだち
 ・生の不思議

クリシュナムルティ著作リスト
必読書リスト その五

 教育を受け終わると我々は大人として社会に受け入れられる。社会とは殆どの場合において「会社」を意味する。そこで我々は労働力(≒商品)として扱われる。学校教育で叩き込まれた協同の精神は遺憾なく発揮され、数年も経てばいっぱしの企業戦士ができあがる。かつて人間であったことを失念しながら。

 私たちが成長し、大人の男女になるとき、みんなどうなるのでしょう。君たちは、大きくなったら何をしようかと、自分自身に問うたことがないですか。君たちはたいてい結婚し、自分がどこにいるのかも知らないうちに母親や父親になるでしょう。それから、仕事や台所に縛られて、しだいにそこから衰えてゆくでしょう。それが【君】の人生のすべてになってゆくのでしょうか。この問題を自分自身に問うたことはないですか。問うべきではないですか。君の家が豊かなら、すでにかなりの地位が保証されているかもしれません。お父さんが安楽な仕事を与えてくれるかもしれません。恵まれた結婚をするかもしれません。しかし、そこでもやはり腐敗し、衰弱するでしょう。わかるでしょうか。

【『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ:藤仲孝司〈ふじなか・たかし〉訳(平河出版社、1992年)以下同】

 家事や仕事の本質は「繰り返し」である。社会や家庭は人間に「機能」を求める。生(せい)そのものが機械的になってゆく。押しつけられた「役割」は人間を部品として扱うため断片化せざるを得ない。

「自分がどこにいるのかも知らないうちに」――何と辛辣(しんらつ)な言葉か。人生の主導権を会社に奪われ、目的地まで勝手に決められる。

 生活の中で創造性を発揮したことがあるだろうか? 他人と比較しないところに喜びを見出したことがあるだろうか? もっと基本的なことだが今まで生きてきて自由を味わったことはあるだろうか?

 出自、学歴、才能、技術、性別、出身地、容貌、病歴など、あらゆる要因で社会は人間をランク付けする。社会とはヒエラルキーの異名であり、柔らかなカースト制度である。目に見えないバリアーが社会の至るところに張り巡らされている。

 生という、微妙なすべて、そのとてつもない美しさ、悲しみ、喜びのある大いなる広がりを理解する助けとならないなら、教育には確かに意味がありません。君たちは学歴を得て、名前の後に肩書きを連ね、とてもよい仕事に納まるかもしれません。しかし、それからどうなるでしょう。その過程で心が鈍り、疲れて愚かになるなら、それが何になるのでしょう。それで、若いうちに生とはどういうものなのかを探して見出さなくてはならないでしょう。そして、これらすべての問題の答えを見出そうとする智慧を君に涵養することが、教育の真の機能ではないのでしょうか。智慧とは何か、知っていますか。確かに智慧とは、何が本当で何が真実なのかを自分自身で発見しはじめるように、恐怖なく公式なく、自由に考える能力です。しかし、怯えているなら、決して智慧は持てないでしょう。精神的だろうと現世的だろうと、どんな形の野心も不安と恐怖を生み出します。そのために野心は、単純明快、率直で、それゆえに智慧のある心をもたらす助けにはなりません。

 我々は怯(おび)えている。いつ職を失うかもしれない。災害に遭遇するかもしれない。そして病気になるかもしれないのだ。この恐怖感が依存を生む。親に依存し、会社に依存し、国家に依存する生き方が形成される。

 現在行われている教育は体制に従わせる教育であり、労働者と兵士を育てるところに目的がある。学校は納税者製造工場といってよい。つべこべ言わないで大人には従え、逆らうな、そうすれば最低限の面倒はみてやろう。これが職業教師の教えていることだ。

 本来、学ぶことは驚きに満ちているものだ。知ることは喜びであったはずだ。ところが、あれだけ物語をねだっていた幼子たちが、長ずるにしたがって本を読まなくなる。新しい世界に手を伸ばそうとしないのだ。

 社会全体を柔らかなファシズムに覆われ、子供たちには薄い膜のようなプレッシャーが連続的に与えられる。子供たちはいなくなった。存在しているのはペットと家畜だけだ。

 私は新生児に向かって呟く。「残酷極まりない世界へようこそ」と。


2011-06-12

教育の機能 2/『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ


 ・自由の問題 1
 ・自由の問題 2
 ・自由の問題 3
 ・欲望が悲哀・不安・恐怖を生む
 ・教育の機能 1
 ・教育の機能 2
 ・教育の機能 3
 ・教育の機能 4
 ・縁起と人間関係についての考察
 ・宗教とは何か?
 ・無垢の自信
 ・真の学びとは
 ・「私たちはなぜ友人をほしがるのでしょうか?」
 ・時のない状態
 ・生とは
 ・習慣のわだち
 ・生の不思議

クリシュナムルティ著作リスト
必読書リスト その五

 前の段で教育とは何かを問うよう促し、教育の目的が「生の理解」にあることをクリシュナムルティは指摘した。

 それで、教師だろうと生徒だろうと、なぜ教育をしていたり、教育をされているのかを自分自身に問うことが重要ではないでしょうか。そして、生とはどういうものでしょう。生はとてつもないものでしょう。鳥、花、繁った木、天、星、河とその中の魚、このすべてが生なのです。生は貧しい者と豊かな者です。生は集団と民族と国家の間の絶え間ない闘いです。生は瞑想です。生は宗教と呼ばれているものです。そしてまた心の中の微妙で隠れたもの――嫉妬、野心、情熱、恐怖、充足、不安です。このすべてともっと多くのものが生なのです。しかし、たいがい私たちは、そのほんの小さな片隅を理解する準備をするだけです。私たちは試験に受かり、仕事を得て、結婚し、子供が生まれ、それからますます機械のようになってゆくのです。生を恐れ、怖がり、怯えたままなのです。それで、生の過程全体を理解するのを助けることが教育の機能でしょうか。それとも、単に職業やできるだけ良い仕事を得る準備をしてくれるだけなのでしょうか。

【『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ:藤仲孝司〈ふじなか・たかし〉訳(平河出版社、1992年)】

「なぜ教育をしていたり、教育をされているのか」とわずか一言で教育が手段と化している現状を言い当てている。教える側と教えられる側の向かい合う関係性が社会の奴隷を育成する。生徒は教師に隷属せざるを得ないからだ。大人が教えるのは「社会における正しい反応の仕方」である。

 コミュニティはルールで運営される。それがマフィアのオメルタであろうと村の掟であろうと一緒だ。ルールを破った者は制裁されるか、村八分となって保護を失う。社会の本質は交換関係にある。

「生は貧しい者と豊かな者です」という対比、「このすべてともっと多くのものが生なのです」というカテゴライズの超越、ここにクリシュナムルティ講話の真価がある。つまり細心の注意を払って言語化しながら、言語化された思考を破壊するのだ。なぜなら思考は生の一部ではあっても全体ではないからだ。

 ここに哲学と宗教の根本的な相違がある。哲学は言葉を信頼するあまり、現実から遠ざかってどんどん抽象化せざるを得ない。形而上へ向かって走り出した言葉は庶民の頭上を素通りしてゆく。私は半世紀近く生きているが、哲学によって生き方が変わったという人物を知らない。

 言葉の本質は翻訳機能である。コミュニケーションの道具といってもよい。こちらの表現が拙くて相手が誤解することは決して珍しいことではない。

 本来であれば宗教は悟りによって言葉を解体してゆくべきであるにもかかわらず、教団はドグマ(教条)でもって人々を支配した。教義は言葉である。教義が絶対的な真理であるならば、悟りや啓示は思考の範疇(はんちゅう)に収まることとなる。

 思考は様式化しパターン化に至ることを避けられない。我々は昨日と同じことを繰り返し、今日という日を見失うのだ。自我の正体は「私という過去」であろう。今まで行ってきたこと、言ってきたこと、思ってきたことの集成が自我である。

 同じことを一貫して繰り返す人を社会では「信念の人」と呼ぶ。信念を枉(ま)げることを我々は自由と認めない。変節漢は裏切り者の烙印(らくいん)を押される。

 人間は適度に束縛されることを好む。胎児の時は羊水に守られ、赤ん坊の時は母親に抱かれ、衣服で身を包む。人間が集団を形成する理由もここにあるのだろう。

 ブッダは「犀(さい)の角(つの)ようにただ独り歩め」と説いた。クリシュナムルティは「単独であれ」と教えた。

ただひとりあること~単独性と孤独性/『生と覚醒のコメンタリー 1 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ

 単純に社会を否定した言葉ではあるまい。関係性を問い直しているのだ。

 家族、地域、職場、自治体、国家の全てが帰属を要求する。「義務を果たせ」と言い募る。我々は依存することで生を見失ってゆく。そして経済はすべてのものを商品化し、売買対象へと貶(おとし)める。

 親は子供たちをいい学校へ、いい企業へ送り込もうと頑張る。子供を高い値段で買わせるのが目的なのだろう。学歴は付加価値である。



無記について/『人生と仏教 11 未来をひらく思想 〈仏教の文明観〉』中村元

2011-06-09

教育の機能 1/『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ


 ・自由の問題 1
 ・自由の問題 2
 ・自由の問題 3
 ・欲望が悲哀・不安・恐怖を生む
 ・教育の機能 1
 ・教育の機能 2
 ・教育の機能 3
 ・教育の機能 4
 ・縁起と人間関係についての考察
 ・宗教とは何か?
 ・無垢の自信
 ・真の学びとは
 ・「私たちはなぜ友人をほしがるのでしょうか?」
 ・時のない状態
 ・生とは
 ・習慣のわだち
 ・生の不思議

クリシュナムルティ著作リスト
必読書リスト その五

 白川静によれば「教」の字は、左上が建物の千木(ちぎ)を象(かたど)り、その下に子、右側は鞭を振り上げる教師を表すとのこと。


週刊鉄学「絵で読む漢字のなりたち」

 当時の鞭にどのような意味があったのか私は知らない。文字から浮かび上がってくる印象は「叩き込む」ことであり、武道のような趣があったのかもしれぬ。

 知っている者が知らない者に何かをマスターさせるという意味では現在の教育も変わらない。児童らは「無知なる者」として扱われ、社会の規格にあった人間として成型される。教育とは国家の定めた鋳型(いがた)に精神をはめ込む作業である。

 本書の大部分はクリシュナムルティ・スクールに通う生徒への講話と質疑応答である。当時はインド、イギリス、アメリカの3ヶ国にあったと記憶している。細かいことはわからぬが、全寮制で小学校高学年から高校生までの生徒を擁する学校だ。

 本書は「教育の機能」と題する講話から始まる。

 君たちは教育とは何だろう、と自分自身に問うたことがあるのでしょうか。私たちはなぜ学校に行き、なぜさまざまな教科を学び、なぜ試験に受かり、より良い成績のために互いに競争し合うのでしょう。このいわゆる教育とはどういうことで、どのようなものであるのでしょう。これは生徒だけではなく、親や教師やこの地球を愛するすべての人にとって、本当にとても重要な問題です。なぜ苦労して教育を受けるのでしょう。それはただ試験に受かり、仕事を得るためなのでしょうか。それとも若いうちに、生の過程全体を理解できるように準備することが教育の機能でしょうか。仕事を持ち、生計を立てることは必要ですが、それですべてでしょうか。それだけのために教育を受けているのでしょうか。確かに生とは単なる仕事や職業だけではありません。生はとてつもなく広くて深いものなのです。それは大いなる神秘、広大な王国であり、私たちはその中で人間として機能します。もし単に生計を立てる準備をするだけなら、生の意味はすべて逃してしまうでしょう。それで、生を理解することは、単に試験に備えて、数学や物理や何であろうと大いに上達することよりもはるかに重要です。

【『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ:藤仲孝司〈ふじなか・たかし〉訳(平河出版社、1992年)】

 私は雷に打たれたような衝撃を覚えた。英知の光を放つ言葉から慈愛が滴(したた)り落ちてくる。胸の奥深くで低く脈打っていた人間の鼓動を高鳴らせる響きがある。

 政治の支配下に置かれた学校は社会人養成所にすぎない。社会のルールを叩き込む以上、学校は社会の縮図と化す。ヒエラルキーと役割分担、協同と自治を旨(むね)とする。

 クリシュナムルティはこれを完膚なきまでに否定し破壊することで自由へといざなう。「君たちよ、断じて奴隷であってはならない!」との烈々たる雄叫(おたけ)びが行間からほとばしる。

 現代の教育現場には様々な形をした鞭が振るわれる。なぜなら集団におけるルールとは罰則規定を意味するからだ。昔と比べると体罰は影をひそめたが、目に見えない柔らかなファシズムが横行している。線から少しでも足をはみ出せば直ちにホイッスルが吹かれ、冷たい視線にさらされる。

 クリシュナムルティは晩年に至るまで子供たちとの対話を続けた。形だけの演説ではない。本当に平等な立場で自由に何でも話し合ったのだ。その慈愛に私はただ圧倒される。そして、もう一歩人間を信頼していこうという気持ちが湧き上がってくる。(続く)



■(サイ)の発見/『白川静の世界 漢字のものがたり』別冊太陽
血で綴られた一書/『生きる技法』安冨歩

2010-04-10

深遠なる問い掛け/『英知の教育』J・クリシュナムルティ


『子供たちとの対話 考えてごらん』と同じ体裁で、インドのクリシュナムルティスクールで生徒に対して行われた講話と質疑応答が収められている。

 クリシュナムルティは晩年になっても子供達と対話をした。彼は生涯にわたって指導者となることを拒み続けた。だからこそ、子供達とも全く対等な視線で魂の交流ができたのだろう。

 大人は得てして一方的な訓戒を述べたがるものだ。まして功成り名を遂げた人物であれば尚更その傾向が強い。胸を反(そ)らせて声高らかに成功体験を語ることだろう。だが、そこに落とし穴がある。社会で成功した者は社会の奴隷である。社会のルールを知り、それに従い、社会から認められたからこそ成功したのだ。彼等は自分達が成功した社会が永続することを望み、社会を維持させるべく保守的とならざるを得ない。そこに「条件づけ」が確立されるのだ。

 宗教もまた同様である。教えを説く人と、説かれた教えに額(ぬか)ずく人々によって教団が構成されている。

・目指せ“明るい教祖ライフ”!/『完全教祖マニュアル』架神恭介、辰巳一世

 ヒエラルキーは効率のよい指示系統の構築を目的としている。とかくこの世は一方通行の道路だらけで、進入禁止のコースも決して珍しくない。成功街道を歩むには、それ相応の免許証が必要となる。

 顛倒(てんとう)する世界をひたと見つめ、クリシュナムルティは人々に問いかける。その姿勢は児童達に対しても変わるところがない。彼の講話はスピーチではなく、魂の深い部分に問いかける対話である。映像を観るとわかるが、聴衆を見渡しながら彼はしばしば目をつぶり、じっと一点に見入っている時、明らかに自己の内部を見つめている。

 多くの仏像が半眼(はんがん)であるのは彼岸(あの世)と此岸(この世)を見つめているとされるが、クリシュナムルティの視線に私は同じ性質を感じてならない。

 クリシュナムルティは生徒の正面に立って、「君達は何のために学んでいるのか?」と問う。そこには遠慮も手加減も全くない。生徒は知らず知らずのうちに自分や自分の置かれた環境と向き合わざるを得なくなっている──

 君たちは、私がこれまでに見てきたうちでもっとも美しい渓谷のひとつに暮らしている。そこには、特別な雰囲気がある。ことに、夕方や朝とても早くに、ある種の沈黙が渓谷に行き渡り、浸み透っていくのに気づいたことはないだろうか。このあたりには、おそらく世界でももっとも古い丘があって、まだ人間に汚されていない。外では、都会だけではなくそこら中で、人間が自然を破壊し、もっとたくさん家を建てようと木を切り倒し、車や工業で大気を汚染している。人間が動物を滅ぼそうとしているのだ。虎はほとんど残っていない。人間があらゆるものを滅ぼそうとしている。なぜなら、次々と人間が生まれ、より多くの住むところが必要になっているからだ。しだいしだいに、人間は世界中に破壊の手を広げつつある。そして人は、こうした谷──人はわずかしかおらず、自然はまだ汚されておらず、いまなお沈黙と静謐(せいひつ)と美のある谷にやって来ると、ほんとうに驚いてしまうのだ。ここに来るたびに、人はこの土地の不思議さを感じるけれども、たぶん君たちはそれに慣れてしまったのだろう。君たちは、もう丘を見ようとはしないし、もう鳥の声や葉群(はむれ)を吹き抜ける風の音を聞こうとはしない。そんなふうに、君たちは、しだいに無関心になってしまったのだ。
 教育とは、ただ本から学び、何かのことを暗記するというだけのことではなく、それがほんとうのことやあるいはうそを言っているかを、見、聞きする術(すべ)を学ぶことである。そういうことすべてが、教育の一部なのだ。試験に合格し、学位を取り、就職し、結婚して定住するだけが教育ではない。それは、鳥の鳴き声を聞き、大空を見、えもいわれぬ樹木の美しさや丘の姿に眺めいり、それらと共に感じ、ほんとうに、じかにそれらに触れることでもある。だが、年を取るにつれて、そんなふうに見、聞きしようとする気持ちが、不幸なことに消え去ってしまう。なぜなら、心配事は増えるし、もっとたくさんのお金、もっといい車、もっと多くの、または少しの子供を持ちたいと思うようになるからなのだ。嫉妬ぶかくなり、野心的で欲ばりで、妬(ねた)みぶかくなり、その結果、大地の美しさへの感受性をなくしてしまうのだ。世界で、何が起こっているか知っているだろうか。現在のいろいろな出来事を、気をつけて調べてみなさい。戦争や反乱が次次に起こり、国と国とがお互いに対立しあっている。この国にも、差別や分裂があり、人口は増加の一途をたどり、貧しさ、不潔さ、そして完全な無感覚と冷淡さがはびこっている。自分が安全ならば、ひとに何が起ころうといっこうに気にしない。そして、君たちは、こういうことすべてに合わせていけるよう教育されているのだ。世界が狂っているということ──お互いに争い、けんかし、いじめ、おどし、苦しめ、攻撃しあうということすべては、狂気なのだということが、わかっているだろうか。で、君たちは、それに合わせていけるように成長するというわけだ。それは、正しいことなのだろうか。社会と呼ばれるこの狂った仕組みに、君たちが進んで、あるいはいやいやでも適応するようにすること、それが教育の目標なのだろうか。それから、世界中の宗教に何が起こっているか、知っているだろうか。この分野でも、人間は腐っていこうとしているし、誰も何一つ信じてはいないのだ。人間は、何の信仰も持ってはいないし、宗教とは単なる大がかりな宣伝の成果にすぎなくなっている。
 君たちは、若く、生き生きとしており、そして純粋だから、大地の美しさを見つめ、愛情豊かな心を持つことができるのではないか。そして、持ち続けることができるのではないだろうか。もしそうしなければ、成長するにつれて、君たちは適応してしまうだろう。なぜなら、それがいちばん安易な生き方だからである。成長するにつれて、君たちのうちごく少数しか反抗しなくなり、その反抗も、問題の解決にはならないだろう。君たちのうちには、社会から逃避しようとする者も出るだろう。しかし、そうした逃避には、何の意味もありはしない。必要なことは、社会を、人々を殺すことによってではなく、変えることなのだ。社会は、君たちでもあり、私たちでもある。君たちや私が、この社会を作り上げたのだ。だから、君たちが変わらなければならない。この異様な社会に適応してはいけない。とすれば、どうすればいいだろう。
 君たちは、このすばらしい谷で暮らした後は、争いと混乱と戦争と憎しみの世界へ送り出されようとしている。君たちは、こういう古い価値に従い、適応し、それらを受け容れるつもりなのか。古い価値とは、お金、地位、威信、権威のことである。それが、人間の望みのすべてであり、社会は君たちがそういう価値のシステムに適応することを望んでいる。だが、もし君たちが今、考え、観察し、そして本からではなく、自分のまわりでいま起こっていることをみな自分自身で見守り、耳傾けることによって、学びはじめたならば、今の人間とは違った種類の人間──思いやりがあって、愛情深く、人々を愛する人間──に成長するだろう。もしそういうふうに生きるならば、たぶん君たちはほんとうに宗教的な人生を発見するだろう。
 だから、自然を、タマリンドの木、咲きほこるマンゴーの木を見つめ、それから、朝早くと夕方とに、鳥たちの声に聞き入りなさい。木の葉の上のとりどりの色や光、大地の美しさ、豊かな土地を見てごらん。そういったものみなを見、また世界のありさまを、そのすべての残酷さ、暴力、醜さといっしょに見た今、これから何をすべきなのだろう。

【『英知の教育』J・クリシュナムルティ:大野純一訳(春秋社、1988年)以下同】

 のっけから全開である。五感を研(と)ぎ澄まして世界を見つめよ、と。

 実は視覚というのは受動的な感覚機能ではないことが科学的に明らかになっている。生まれつき目の不自由な人が手術などによって視覚を得ると、見た物を殆ど理解することができない。このような人々は必ず一旦物に触れてから再び見直すことで映像を理解するのだ。視覚と触覚との連合は、我々も幼児期に数年かけて行っているといわれている。

 つまり、「ものが見えている」と思うのは大きな間違いで、本当は「視覚映像を読み解いている」のである。後天的に視覚を得た人々はこれが上手くできない(脳の神経経路がつながらなくなっている)ため、殆どの人々が目が見えるようになった途端、うつ病になっている。

 見るという行為には無意識のうちに想像力が働いている。時にこれが先入観となって錯視が生じる。

・騙される快感/『錯視芸術の巨匠たち 世界のだまし絵作家20人の傑作集』アル・セッケル

 クリシュナムルティが説く「観察」とは、こうした想像力や先入観から離れて見つめることを意味している。「見る者」と「見られる物」という分断を超えた観察である。一切の思考を働かせることなく対象に見入る時、そこには対立関係の消え去った「関係性」しか存在しない。

 ここから更に「観察」の深い世界が示される──

 注意をする、注意を払うとは、どういう意味かわかっているだろうか。注意を払うと、ものごとがもっとはっきり見えてくるのだ。鳥たちの鳴き声がもっとはっきり聞こえてくる。さまざまな音の違いがわかるようになる。十分に注意深く木を見つめれば、木の美しさ全部が見えてくる。木の葉や小枝が見え、それらに風が戯(たわむ)れているのが見える。こんなふうに、注意を払えば、ものごとがとてつもなくはっきりと見えるようになるのだ。そういうふうに、注意を払ったことがあるだろうか。注意は、精神集中とは違う。集中しているときには何も見えていないのだ。だが、注意を払っているときには、実に多くのことが見えてくる。さあ、注意を払ってごらん。あの木を見つめ、影を、そして風にそよぐ葉を見つめなさい。あの木の姿を見つめなさい。木の全体性を見つめなさい。このように見るようにと言うのは、これから私が話そうとしていることは君たちが注意を払わなければならないことがらだからである。教室にいるときも、戸外にいるときも、食事をしているときも、散歩をしているときも、注意はきわめて重要である。注意はとてつもなく大切なことがらなのだ。
 これから君たちに質問してみたい。君たちはなぜ教育されているのだろう? 私の質問がわかるだろうか? 君たちの両親が君たちを学校に送る。君たちは授業を受け、数学を学び、地理や歴史を学ぶ。なぜだろう? 自分が教育を望んでいるのか、何が教育の目的なのか自問したことがあるだろうか? 何のために試験に合格して学位を取るのだろう? 何百、何千万もの人人がしているように、結婚し、就職し、そして身を固めるためだろうか? それが君たちのやろうとしていることであり、それが教育の意味なのだろうか? 私の言っていることがわかるだろうか? これはほんとうにとても大事な質問なのである。全世界が教育の基盤に疑問を投げかけている。われわれには教育がこれまで何のために使われてきたかわかっている。ロシアであれ、中国であれ、アメリカであれ、ヨーロッパであれ、あるいはこの国であれ、世界中の人間は、所属する社会や文化に順応・適合し、社会・経済活動の流れに従い、何千年もの間流れ続けてきた巨大な流れに引き込まれるよう教育されている。それが教育だろうか、それとも教育というのは、何かそれとまったく別のものだろうか? 教育は、人間の精神がその巨大な流れに巻き込まれ、それによってそこなわれないように面倒を見、精神がけっしてその流れに引きずり込まれないように責任を持ち、かくしてそのような精神によって君たちが、生に異なった性質をもたらす、これまでとはまったく違う人間になれるように面倒を見ることができるだろうか? 君たちは、そんなふうに教育されているだろうか? それとも両親や社会に命令されるままに、社会の流れの一部になることに甘んじているのだろうか? 人間の精神、君たちの精神が、ただ単に数学や地理や歴史で優秀であることができるだけでなく、どんなことがあってもけっして社会の流れにおぼれずにいられるようにすること──これが真の教育である。なぜなら、人生と呼ばれているその流れは、はなはだしく腐敗しており、不道徳で、暴力的で、貪欲(どんよく)だからである。その流れが私たちの文化をなしているのだ。それゆえ問題は、現代文明・文化のあらゆる誘惑、あらゆる影響、獣性(じゅうせい)に抗しうる精神を生み出すための正しい教育を、いかにしてもたらすかにある。私たち人間は、消費主義や工業化にもとづいたものではない新たな文化、まったく別種の生き方、真の宗教性にもとづいた文化を創造しなければならない歴史上の地点に来ている。ではどのようにして、これまでとはまったく異質の、貪欲でも嫉妬深くもない精神を、教育を通して、生み出すのか? 野心のないとてつもなく能動的で有能な精神、日常生活において何が真実かをほんとうに知覚できる──結局これが宗教なのだが──精神をいかにして生み出すのか?
 そこで、何が教育の真の意味、目的なのかを見出してみよう。自分の住んでいる社会や文化によって条件づけられた君たちの精神が、教育によって変容を遂げ、どんなことがあってもけっして社会の流れに入りこんでしまわないようにできるだろうか? 君たちを違ったふうに教育することができるかどうか。つまり「教育する(エデュケイト)」という言葉の真の意味において──数学や地理や歴史についての情報を教師から生徒に伝達するという意味でではなく、まさにこれらの科目を教える過程で君たちの精神に変化を起こすという意味で、このことは、君たちがとてつもなく批判的でなければならないことを意味している。自分自身がはっきりわからないことをけっして認めないよう、他人が言ったことをけっしておうむ返しに言わないようにしなければならない。  これらの質問を、ときどきではなく毎日、自分に向けてみなさい。見出しなさい。あらゆるもの、鳥や雌牛の鳴き声に耳を傾けなさい。自分自身のなかのあらゆるものについて学びなさい。なぜなら、もし自分自身から自分自身のことを学べば、君たちは中古品(セコハン)人間になったりはしないのだから。だから、これからはこれまでとはまったく違う生き方を発見するようにしてほしい。ただし、これはしだいにむずかしくなるだろう。なぜなら、私たちのほとんどは安易な生き方を見つけたがるからである。私たちは、他人が言うこと、他人がすることを繰り返し、それらに倣(なら)いたがる。なぜなら、古いパターンまたは新しいパターンに適合することが、もっとも安易な生き方だからである。けっして適合しないとはどういう意味か、恐怖なしに生きるとはどういう意味かを見出さなければならない。これは君たちの人生であって、他の誰も、どんな本も、どんな導師(グル)も君たちに教えることはできない。本からではなく、自分自身から学ばなければならない。自分自身について学ぶべき、実に多くのことがあるのだ。それは果てしないこと、興味尽きせぬことであり、そして自分自身から自分自身のことを学ぶとき、その学びから英知が生まれ出る。そのとき君たちは、並はずれた、幸福で美しい人生を生きることができる。わかるだろうか? では、何か質問は?

 クリシュナムルティは常々「注意を払え」と言う。それは「集中」ではない、とも。集中は一点に集約するので周りが見えなくなる。一方、注意は拡散した気づきといえよう。そして集中には時間的継続性があるが、注意は瞬間瞬間の行為である。観察は目で行うものであるが、視覚に捉われるとそれは集中になってしまう。すなわち注意には耳を澄ます=傾聴の姿勢が求められよう。

 そしてクリシュナムルティは聴き手に向って「私たちは」と語りかける。ここにおいて、クリシュナムルティの内なる世界では聴き手と話し手の分断がないことに気づく。なぜなら、「あなたが世界であり世界があなたである」以上、「あなた」は「私」でもあるからだ。

 ともすると我々は子供の幸福を願っているような顔をしながら、大人の価値観を押しつけている場合が殆どである。だから、自由の価値を重んじるようには決して教えない。大人の敷いたレールの範囲でしか自由は認められない。ま、数十センチといったところだろう。

 よく人生は道に例えられる。我々は人生において常に選択を迫られている。つまり十字路に立たされているといっていいだろう。そして前後左右のいずれかの進路を決めているのだ。

 実はこの時点で既に我々は条件づけに支配されている。なぜなら、道路というものは「誰かが造ったもの」であり「誰かが歩いた場所」であるからだ。つまり、我々はいつも誰かの後を辿っていることになる。

 本当に自由であれば、道からはみ出ることが可能になるはずだし、もっと言えば地面にトンネルを掘ったって、空を飛んだって構わないのだ。ところがどっこい我々の思考はそんなふうには働かない。

 皆が歩んだ道──それは悲惨のコースであり、戦争し殺し合う道であろう。歩きやすい道というのは過去の歴史を繰り返す羽目になる。

 クリシュナムルティの言葉は、私の魂を殴打してやまない。

2009-11-29

欲望が悲哀・不安・恐怖を生む/『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ


 ・自由の問題 1
 ・自由の問題 2
 ・自由の問題 3
 ・欲望が悲哀・不安・恐怖を生む
 ・教育の機能 1
 ・教育の機能 2
 ・教育の機能 3
 ・教育の機能 4
 ・縁起と人間関係についての考察
 ・宗教とは何か?
 ・無垢の自信
 ・真の学びとは
 ・「私たちはなぜ友人をほしがるのでしょうか?」
 ・時のない状態
 ・生とは
 ・習慣のわだち
 ・生の不思議

クリシュナムルティ著作リスト
必読書リスト その五

 いかなるレベルでも、ほしい、なりたい、獲得したいという欲望があるかぎり、そこには必然的に心配や悲しみや恐怖があるのです。豊かになりたい、あれやこれやになりたいという野心は、野心自体の不潔さや腐敗性が見えるときにだけ、なくなります。どんな形の権勢欲も……首相、裁判官、宗教家、導師(グル)としての権勢欲も根本的に悪いとわかったとたんに、もはや権勢欲は持ちません。しかし、私たちには野心が腐敗的なこと、権勢欲が悪いことが見えません。反対に、善いことのために権力を使おう、と言うのです。これはまったくのたわごとです。まちがった手段は正しい目的のためには決して使えません。手段が悪ければ、目的もまた悪いでしょう。善は悪の反対ではないのです。悪いものがまったくなくなったときにだけ、善は生じてくるのです。

【『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ:藤仲孝司〈ふじなか・たかし〉訳(平河出版社、1992年)】

 欲望が満たされないと不安に駆られ、欲望が満たされると今度は失うことを恐れる。つまり欲望の充足を我々は部分的な幸福と思い込んでいるが、完全な錯覚だということ。それが証拠に、満たされた欲望によって獲得された幸福感は長く続かない。いわゆる相対的幸福(他人と比較して得られる幸福)は相対的である以上、上には上がいるわけだから絶対に幸福になれないという矛盾をはらんでいる。村一番の美人が日本一の美人にかなわないのと同じ話だ。しかも欲望というのは釣られて生じる性質があり、メディアは大衆消費社会の扇動に余念がない。鮮やかな色彩と刺激的な音楽や効果音でもって知覚できない領域に揺さぶりをかける。サブリミナル情報にさらされた我々は、必要でもない商品に向かって夢遊病者のようにさまよう。「あると便利」な品物が、「ないと不便」に変換される。所有する人が増えると今度は「ないと恥ずかしい」レベルにまで変化する。世の中に豊富な商品が出回れば出回るほど、我々は何となく居心地の悪さを感じている。物が空間を浸蝕しているためだ。たとえこの世のすべてを手に入れたとしても、我々の欲望は月を欲しがることだろう。ブッダは少欲知足(欲を少なくして足るを知る)と説いた。欲望を否定するのではなく、欲望から離れる生き方を勧めた。



・手段と目的
恐怖で支配する社会/『智恵からの創造 条件付けの教育を超えて』J・クリシュナムルティ
死の恐怖/『ちくま哲学の森 1 生きる技術』鶴見俊輔、森毅、井上ひさし、安野光雅、池内紀編

2009-11-18

自由の問題 3/『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ


 ・自由の問題 1
 ・自由の問題 2
 ・自由の問題 3
 ・欲望が悲哀・不安・恐怖を生む
 ・教育の機能 1
 ・教育の機能 2
 ・教育の機能 3
 ・教育の機能 4
 ・縁起と人間関係についての考察
 ・宗教とは何か?
 ・無垢の自信
 ・真の学びとは
 ・「私たちはなぜ友人をほしがるのでしょうか?」
 ・時のない状態
 ・生とは
 ・習慣のわだち
 ・生の不思議

クリシュナムルティ著作リスト
必読書リスト その五

 クリシュナムルティは前回の部分で、「私達は安心したいがゆえに地位を欲し、肩書きによって自信や自尊心を手中にし、権力と権威を目指して生きている」。しかしながら、「何かに【なろう】という要求がある限り、自由はどこにもない」と語った。

 そして、「何かに【なろう】」――つまり、「理想」「模範」「目標」だ――としている姿勢を「模倣」であると鋭く糾弾する――

 そこで、教育の機能とは、君たちが子供のときから誰の模倣もせずに、いつのときにも君自身でいるように助けることなのです。これはたいへんに行いがたいことです。醜くても、美しくても、妬んでいても、嫉妬していても、いつもありのままの君でいて、それを理解する。ありのままでいることはとても困難です。なぜなら君は、ありのままは卑劣だし、ありのままを高尚なものに変えられさえしたらなんとすばらしいだろう、と考えるからです。しかし、そのようなことには決してなりません。ところが、実際のありのままを見つめて、理解するなら、まさにその理解の中に変革があるのです。それで、自由とは何か違ったものになろうとするところにも、何であろうとたまたましたくなったことをするところにも、伝統や親や導師(グル)の権威に従うところにもなく、ありのままの自分を刻々と理解するところにあるのです。
 君たちは、このための教育を受けていないでしょう。君たちの教育は、何かになるようにと励ましますが、それでは君自身を理解することにはなりません。君の「自己」はとても複雑なものなのです。それは単に学校に行ったり、けんかをしたり、ゲームをしたり、恐れている存在というだけではなく、隠れており明らかではないものでもあるのです。それは、君の考えるすべての思考だけではなく、他の人たちや新聞や指導者から心に入ったすべてのことからできています。そして、えらい人になりたがらないとき、模倣をしないとき、従わないときにだけ、そのすべてを理解することができるのです。それは本当は、何かになろうとする伝統のすべてに対して反逆しているとき、ということです。それが唯一の真の革命であり、とてつもない自由に通じています。この自由を涵養することが教育の本当の機能です。
 親や教師、そして君自身の欲望も、君が幸せで安全であるために何らかのものと一体化してほしいのです。しかし、智慧を持つには、これらの君を虜にし、潰してしまうすべての影響力は打ち破らなくてはならないでしょう。
 新しい世界の希望は、言葉だけではなくて実際に、何が偽りなのかを見て、それに対して反逆しはじめる君たちにあるのです。それで、正しい教育を求めなくてはならないわけです。というのは、伝統に基づいたり、ある思想家や理想家の体質にしたがって形作られたりしていない新しい世界を創造できるのは、自由の中で成長するときだけですから。しかし、君が単にえらい人になろうとしていたり、高尚なお手本を模倣しているかぎり、自由はありえません。

【『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ:藤仲孝司〈ふじなか・たかし〉訳(平河出版社、1992年)】

 ありのままの自分であれ、一切の伝統と権威に反逆せよ――まるでブッダ、まるで日蓮そのものである。違いを見つけることの方が難しそうだ。カーストという差別制度が社会に張り巡らされた後にブッダはインドに生まれ、武力に物を言わせる武家政治が台頭し、天変や地震が相次ぐ鎌倉時代に日蓮は登場した。双方ともそれまでの常識を徹底的にあげつらい、批判に批判を加え、人間という人間に語り抜いた。民の呻吟(しんぎん)に耳を傾け、苦悶をひたと見つめる中から真実の思想は生まれ出る。

 インドのバラモン教(古代ヒンドゥー教)は「過去世(かこぜ)の業(ごう)」を持ち出して「今世の差別」を正当化した。そして鎌倉時代の念仏は「この世で幸せになることは決してできないが、死んだ後に西方十万億の彼方の極楽浄土へ往生(おうじょう)できる」と説いた。いずれも、我々が知覚・思考し得ない「前世」や「あの世」の論理をもって、人々を「現状維持」の方向へ誘導する邪論ともいうべき代物だ。こうした思想が結果的に権力を容認し、擁護し、強化していることを見逃してはならない。

 印刷技術、通信、マスメディアが発達した現代社会において、「条件づけ」はますます容易になっている。隠された広告戦略が大衆の欲望に火を点ける。そして、否応(いやおう)なく情報の受け手という立場に貶(おとし)められた視聴者は、テレビの前でどんどん卑小な存在と化してゆく。我々は毒性が高いことを知りながらも、五感が刺激されるために依存性から抜け出すことがかなわなくなっている。まるで、LSDや覚醒剤のようだ。

「まだ殺されたわけではないから何とかなる」――甘いね。既に「生ける屍(しかばね)」だよ。あるいは、とっくに何度も死んでいる可能性すらある。

 偽りを見抜け。さもなければ、自分自身が偽りの存在となってしまうからだ。まなじりが裂けるほど目を見開いて、闇の向こう側にあるものをしかと捉えよとクリシュナムルティは教えている。

(※「自由の問題」は今回にて終了)

恐怖からの自由/『自由への道 空かける鳳のように』クリシュナムーテイ




生存適合OS/『無意識がわかれば人生が変わる 「現実」は4つのメンタルモデルからつくり出される』前野隆司、由佐美加子