2020-06-30

無責任な戦争アレルギー/『「戦争と平和」の世界史 日本人が学ぶべきリアリズム』茂木誠


『新戦争論 “平和主義者”が戦争を起こす』小室直樹
『日本国民に告ぐ 誇りなき国家は滅亡する』小室直樹
『日本の敗因 歴史は勝つために学ぶ』小室直樹
『悪の戦争学 国際政治のもう一つの読み方』倉前盛通
『経済は世界史から学べ!』茂木誠
『世界のしくみが見える 世界史講義』茂木誠
『ゲームチェンジの世界史』神野正史

 ・国際法成立の歴史
 ・無責任な戦争アレルギー

『「米中激突」の地政学』茂木誠
『世界史講師が語る 教科書が教えてくれない 「保守」って何?』茂木誠

世界史の教科書
必読書リスト その四

 第二次世界大戦後の歴史教育は、戦争を悲惨なもの、あってはならないものとしてタブー視し、戦争について語ることさえはばかられるという風潮を作ってきました。サッカーの公式試合にぼろ負けしたチームが、敗因の分析をまったく行わず、「二度とサッカーはしない。ボールは持たない」と誓いを立てたのです。
 あの軍民合わせて300万人もの日本人を死に至らしめた満州事変から第二次世界大戦に至る戦争についても「そもそも間違っていた」と断罪するだけで、「なぜ負けたのか? 今後二度と負けないためにはどうすればよいのか?」という議論は封殺されてきたのです。
 しかし現実の世界では苛烈な「試合」が今も続いており、日本が望むと望まざるとにかかわらず、巻き込まれる可能性が高まってきました。北朝鮮の核兵器搭載可能な弾道ミサイルが日本列島の上空を通過し、中国海上警察の公船が日本の領海侵犯を繰り返しているのです。武力紛争に巻き込まれないためにはどうすればいいのか、もし巻き込まれた場合はどうするのか、を真剣に議論しないのは、あまりにも無責任だと思います。

【『「戦争と平和」の世界史 日本人が学ぶべきリアリズム』茂木誠〈もぎ・まこと〉(TAC出版、2019年)】

「ゲームに負けた」というカテゴライズだと戦争とサッカーにさしたる差はない。確かに。それまで馬関戦争薩英戦争など特定の地域が敗れたことはあった。黒船ペリーに膝は屈したものの倒れはしなかった。日米戦争は日本にとって初めての敗北であった。その衝撃はあまりにも大きかった。日本人の精神的な空白状態を衝いてGHQが洗脳を施した(WGIP)。吉田茂首相は粘り腰で老獪(ろうかい)な交渉を行ったが、マッカーサーの顔ばかり窺って国民の表情を見ることがなかった。日本人は一種のPTSD(心的外傷後ストレス障害)状態に陥り、生々しい記憶を封印した。明治以降の急激な近代化を想えば、虐待された幼児のような心理状態であったことだろう。

 敗戦の原因を軍部の暴走に求めるのは左翼史観で日本が民主政であった事実を見失っている。日清戦争の三国干渉以降、日本国民は臥薪嘗胆(がしんしょうたん)を合言葉にロシアへの報復を待った。その後日露戦争には勝利したものの大きな戦果はなかった。こうした心理的抑圧は第一次世界大戦の戦勝国となったことで益々肥大していったのだろう。抑圧を解消するには戦争をする他なかった。その姿は家庭内暴力に目覚めた中高生のような姿であった。しかし白人帝国主義を打ち破ったわけだから彼らの権益を奪ったことは大いなる戦果とせねばなるまい。

 GHQ支配の往時を知るアメリカ人は日本がいまだに憲法第9条を改正していない事実に皆驚く。「確かに我々はあの時、日本から爪と牙をもぎ取ったが、その後のことは自分たちで選択したのだろう。それをアメリカのせいにするのはお門違いだ」と言う。アメリカからの政治的圧力は現在でもある。日本の政治家は結局吉田茂と同じ道を歩んだといってよい。しかしながらそれは飽くまでも経済面に限られていた。

 戦争アレルギーは1960年代の学生運動や進歩的文化人の言論を通して強化された。彼らの目的は日本を「戦争のできない国」にすることだった。ソ連が侵略する地ならしをしていたのだ。ベトナム戦争反対運動やウーマンリブ運動は何となく時代の先端を行っているようなムードがあった。その後、左翼知識人は犯罪をおかした少年の権利を擁護し、ジェンダー問題(女性の権利)~セクハラ糾弾、環境問題など、手を変え品を変え伝統的文化の破壊を試みている。

 中国や北朝鮮は既に沖縄と北海道を侵略しつつあるが日本政府は何ら対応をしようとしていない。将棋でいえば先手が10手くらい指したような状態だ。ここから挽回するのは難しいだろう。日中戦争は必至と見ているが勝てる見込みが年々薄くなっている。

2020-06-29

税務調査を恐れる必要はない/『税務署員だけのヒミツの節税術 あらゆる領収書は経費で落とせる【確定申告編】』大村大次郎


『お坊さんはなぜ領収書を出さないのか』大村大次郎
・『あらゆる領収書は経費で落とせる』大村大次郎

 ・税務調査を恐れる必要はない

『お金の流れでわかる世界の歴史 富、経済、権力……はこう「動いた」』大村大次郎
『税金を払わない奴ら なぜトヨタは税金を払っていなかったのか?』大村大次郎
・『お金の流れでわかる世界の歴史 富、経済、権力……はこう「動いた」』大村大次郎
・『起業のためのお金の教科書』大村大次郎
『お金の流れで読む日本の歴史 元国税調査官が古代~現代にガサ入れ』大村大次郎
『お金の流れで探る現代権力史 「世界の今」が驚くほどよくわかる』大村大次郎
『お金で読み解く明治維新 薩摩、長州の倒幕資金のひみつ』大村大次郎
『ほんとうは恐ろしいお金(マネー)のしくみ 日本人はなぜお金持ちになれないのか』大村大次郎
『知ってはいけない 金持ち悪の法則』大村大次郎
・『知らないと損する給与明細』大村大次郎

 所得控除の中には、雑損控除というものもあります。
 雑損控除というのは、災害、盗難、横領で、生活上の資産の被害を受けた場合に受けられる控除のことです。
 この雑損控除、一般の人はあまりご存知ないですよね? サラリーマンの方などもほとんど知らないのではないでしょうか?
 でもサラリーマンの方もちゃんと使えるのです。
 災害や盗難などの被害に遭った場合、その損失額が5万円以上だったら、控除の対象となるのです。スリに財布を盗まれたような場合も該当します。
 王女できる額は(被害額-5万円)です。
 たとえば、盗難に遭って50万円の被害に遭ったとします。この場合は、
 50万円-5万円=45万円
 この45万円を、所得から控除できるのです。税額にすれば、だいたい5万円から数十万円の還付になります。ただ詐欺による被害はダメです。詐欺の場合には自己責任の部分もあるということでしょうか。

【『税務署員だけのヒミツの節税術 あらゆる領収書は経費で落とせる【確定申告編】』大村大次郎〈おおむら・おおじろう〉(中公新書ラクレ、2012年)】

「税金は国家と国民の最大のコミュニケーション」(小室直樹)である。国家は道路を始めとするインフラや安全保障を提供し、国民は税と兵役を提供する。この交換関係・契約関係に国家-国民の基盤がある。元税務調査員の大村(仮名)がなぜ節税を勧めるのだろうか? それは日本が税を支払うに値しない国家であるからだ。メディアが情報の取捨選択をすることで大衆は目隠しをされている現状がある。昨年、消費税が10%に増税されたが、新聞・テレビはこれを推進し、国民は「やむなし」と判断した。大規模な反対運動やデモは起こっていないゆえ国民は合意したと判断できる。私はこれが日本を崩壊に導く楔(くさび)になったと考える。

 税務調査員には扶養家族が多いという。なぜなら別居でも扶養家族に入れることができるからだ。初耳だ。別居している親が年金収入一人約120万円以下であれば不要家族にすることができる。仕送り額の明確なルールは存在しない。また当然ではあるががフリーターやニートの子供も扶養家族にできる。大体、38~63万円の扶養控除が受けられる。更に夫が失業した場合、パートタイマーであっても妻の扶養家族にすることができる。

 領収書というのは、経費を証明する、重要な証票類ではあります。しかし、これがなくては絶対に経費として認められないのか、というとそうではないのです。実際に支払いがあるのなら、領収書がなくても経費として認められるのです。(中略)
 ですから、ちょっとした支払いや買い物ならば、レシートで十分なのです。レシートには、その支払内容と金額、日付などが明記されていますから、証票類として立派にその役目を果たすのです。
 何かの支払いをしたときに、必ず領収書をもらわなくてはならない、と思っている方も多いようですが、決してそうではありません。コンビニなどでも、わざわざ領収書をもらっている方をときどき見かけますが、あれはまったく無駄なことです。

 これは知っていた。レシートもない場合はメモ書きで十分だ。領収書の法的規定はない。要は事業に必要な経費として「いつ」「いくら」「何に」使ったかを証明できればいいわけだ。

 そして税金の申告は、原則として申告通りに認められます。つまり、納税者が申告した内容は、原則として認められるということです。税務当局は、申告内容に間違いがあるときに限って、それを修正させたり追徴したりできるわけです。
 つまり、納税者が「自分の申告が正しい」という証明をしなければ申告が認められないのではなく、税務当局がその申告が正しくないという証明をしない限り、申告は認められるのです。
 ということは、概算での申告であっても、一旦、申告は認められます。そしてその申告に誤りがあったときに初めて修正されたり、追徴されたりするわけです。

 税務調査と聞いただけで社長や個人事業主は震え上がってしまうものだが、実はそれほど恐れる必要はないことがわかった。ビクビクしてしまえば相手はそこに付け込んでくる。連中の仕事は「違反を見つてなんぼ」の世界である。思い上がったクズが多いようなので、一朝事が起こった場合は刺し違えてみせるほどの気概を見せておいた方がいいだろう。

 納税を年貢意識で支払っていれば国民が国家の主体となることはない。税務署の捕捉率は「トーゴーサン(10:5:3)」と言われる。サラリーマンは10割、自営業者は5割、農家が3割の所得を捕捉されているという意味だ。サラリーマンは源泉徴収で所得は完全にガラス張りだ。自営業者と農家は労働人口の1割ちょっとである。彼らが優遇されているのはどう考えてもおかしい。自民党が農家に甘いことはよく覚えておくべきだろう。

 大村は国民目線で税の不平等を指摘し続けている。高橋洋一でさえ言っていないような事実も多い。特に一貫して大企業や金持ち優遇のメカニズムを暴露している。立派な国をつくるためには国民が賢くなるしかない。なぜなら民主政で選ばれた政治家は国民の平均値を上回ることはないからだ。

TIMELAPSE OF THE FUTURE: A Journey to the End of Time (4K)


2020-06-28

アメリカに逆らうことができない日本/『戦後史の正体 1945-2012』孫崎享


 ・アメリカに逆らうことができない日本

日本の近代史を学ぶ

 しかしその後、発案者の高村(こうむら)大臣が内閣改造で外務省を去ります。ここで外務省内の風向きが変わりました。米国からの圧力によって、日本はハタミ大統領を招待するような親イラン政策をとるべきでないという空気がしだいに強くなったのです。
 けれども私も官僚として長年仕事をしてきましたので、物事を動かすためのそれなりのノウハウをもっています。そちらを総動員し、なんとかハタミ大統領の訪日にこぎつけました。このときハタミ大統領訪日の一環として、日本はイラクのアザデガン油田の開発権を得ることになったのです。この油田の推定埋蔵量は、260億バレルという世界最大規模を誇ります。非常に大きな経済上、外交上の成果でした。
 しかし、イランと敵対的な関係にあった米国は、
「日本がイランと関係を緊密にするのはけしからん、アザデガン油田の開発に協力するのはやめるべきだ」
 と、さらに圧力をかけてきました。日本側もなんとか圧力をかわそうと努力しましたが、結局最後は開発権を放棄することになりました。
 もし、日本がみずからの国益を中心に考えたとき、アザデガン油田の開発権を放棄するなどという選択は絶対にありえません。エネルギー政策上、のどから手がでるほどほしいものだからです。しかし米国からの圧力は強く、結局日本はこの貴重な権益を放棄させられてしまったのです。その後、日本が放棄したアザデガン油田の開発権は中国が手に入れました。
 私がかつてイランのラフサンジャニ元大統領と話をしたとき、彼が、
「米国は馬鹿だ。日本に圧力をかければ、漁夫の利を得るのは中国とロシアだ。米国と敵対する中国とロシアの立場を強くし、逆に同盟国である日本の立場を弱めてどうするのだ」
 といっていたことがありますが、まさにその予言どおりの展開です。アザデガン油田の開発権という外交上の成功は、結局、米国の圧力に屈したのです。
「なぜ日本はこうも米国の圧力に弱いのだろう」
 この問いは、私の外務省時代を通じて、つねにつきまとった疑問でもありました。

【『戦後史の正体 1945-2012』孫崎享〈まごさき・うける〉(創元社、2012年)】

 アメリカからの圧力は現場で働く官僚にまで及ぶという。もはや属国というレベルを超えている。市町村扱いだ。更にアメリカは圧力を掛けやすくするため首相周辺に権力が集中するよう仕向けているそうだ。

 アメリカに葬られた政治家といえば田中角栄が真っ先に浮かぶ。情報を寄せたアメリカの民間航空会社は司法取引で無罪放免だった。個人的にはロッキード事件を名を売った立花隆や堀田力〈ほった・つとむ〉はアメリカの犬だったと考える。小室直樹が孤軍奮闘して田中角栄を擁護したが刀の切っ先はどこにも届かなかった。

 田中が抹殺された理由は二つある。まず日中国交回復をアメリカに先んじて行ったこと。次にウラン取引に手を出したこと。一国の政治としては何もおかしなところはない。しかしアメリカは縄張りを侵されたと激怒した。我々が信じる資本主義における自由競争は全くの錯覚だ。

 読んでから7年ほど経つので記憶が曖昧だ。孫崎の政治的スタンスもよくわからない。刊行直後はネットやテレビによく登場していたが、その言動はやや思い込みが強く、老人特有の狷介(けんかい)さが滲(にじ)んでいた。ただし佐藤優がけちょんけちょんに貶(けな)していたので読む価値はあると考えてよい。

 まともな軍隊を持たない国は国家として一人前の扱いを受けない。もしも民主政が優れたシステムであれば中小国連合が覇権に対抗し得るはずだ。それが実現しないのは核兵器と金融によって世界がコントロールされているからだ。『沈黙の艦隊』は秀逸な軍事的なアイディアだが、もっと巧妙かつ静穏な長期的戦略でアメリカに対抗することが望ましい。

2020-06-27

読み始める

昆虫を入水(じゅすい)自殺させる寄生虫/『したたかな寄生 脳と体を乗っ取り巧みに操る生物たち』成田聡子


『脳はバカ、腸はかしこい』藤田紘一郎
『感染症の世界史』石弘之
『あなたの体は9割が細菌 微生物の生態系が崩れはじめた』アランナ・コリン
『心を操る寄生生物 感情から文化・社会まで』キャスリン・マコーリフ

 ・昆虫を入水(じゅすい)自殺させる寄生虫

『失われてゆく、我々の内なる細菌』マーティン・J・ブレイザー

 共生現象のうち利害関係がわかりやすいものにはそれが示す名が与えられています。双方の生物が共生することで利益を得る関係を「相利(そうり)共生」、片方のみが利益を得る関係を「片利(へんり)共生」、片方のみが害を被る関係を「片害(へんがい)共生」、片方のみが利益を得て、相手方が害を被る関係を「寄生」と呼んでいます。

【『したたかな寄生 脳と体を乗っ取り巧みに操る生物たち』成田聡子〈なりた・さとこ〉(幻冬舎新書、2017年)以下同】

 そのまま人間関係にも当てはまりそうで笑った。

 水の中で泳げないはずのコオロギやカマキリ、カマドウマが水に飛び込んでいきます。それは、まるで入水自殺であり、水に飛び込んだ虫は溺れ死ぬか、魚に食べられるか、他に道はありません。これらの入水自殺する昆虫たちも体内にいる寄生虫に操られています。
 これらの昆虫の体内にいて宿主(しゅくしゅ)をマインドコントロールしているのは「ハリガネムシ」です。(中略)
 ハリガネムシは水中でのみ交尾と産卵をおこない、宿主を転々と移動して成長するという生活史を持ちます。
 簡単に概要を説明しますと、川で交尾・産卵→水生昆虫体内→陸生昆虫体内→再び川という流れです。(中略)
 ハリガネムシは宿主の脳を操り、奇妙な行動を起こさせるのです。宿主を水辺に誘導し、入水させるのです。そして、宿主が入水すると、大きく成長し成虫になったハリガネムシがゆっくりと宿主のお尻からにゅるにゅるとはい出てきます。その姿は時に全長30センチを超えます。そして、無事に川に戻ったハリガネムシは交尾をし、また産卵するのです。






 腹がモゾモゾしてくる。以下のページも参照のこと。

ウイルスとしての宗教/『解明される宗教 進化論的アプローチ』 ダニエル・C・デネット

 これだけでも驚くべき事実だが寄生虫の仕事はもっと大きな影響を及ぼしていた。

 日本では、このハリガネムシが生態系において重要な役割を果たしていることを実証した研究が2011年に発表されました。
 研究では川の周りをビニールで覆ってカマドウマが飛び込めないようにした区画と、自然なままの区画を2ケ月間比較しています。また、カマドウマが入る量と、カマドウマ以外の虫が入る量を分けて操作をして実験しました。
 なんとその結果、川の渓流魚が得る総エネルギー量の60パーセント程度が、寄生され川に飛び込んでいたカマドウマであることがわかったのです。(中略)
 このように、小さな寄生者であるハリガネムシが、昆虫を操り、入水させることは、河川の群集構造や生態系に、大きな影響をもたらすことが実証されました。

 実は寄生行為そのものが自然の摂理にかなっていたのだ。微生物が人間の性格をも変えることが判明しているが、果たしてそれだけなのだろうか? ひょっとすると戦争や虐殺にも関係しているかもしれない。人類が成し遂げた都市革命は寄生虫を恐れた結果のような気がする。

キリスト教の教えでは「動物に魂はない」/『人類の起源、宗教の誕生 ホモ・サピエンスの「信じる心」が生まれたとき』山極寿一、小原克博


『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』ジュリアン・ジェインズ
『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』トール・ノーレットランダーシュ
『あなたの知らない脳 意識は傍観者である』デイヴィッド・イーグルマン
『人間この信じやすきもの 迷信・誤信はどうして生まれるか』トーマス・ギロビッチ
『脳はいかにして〈神〉を見るか 宗教体験のブレイン・サイエンス』アンドリュー・ニューバーグ、ユージーン・ダギリ、ヴィンス・ロース:茂木健一郎訳
『なぜ、脳は神を創ったのか?』苫米地英人
『解明される宗教 進化論的アプローチ』 ダニエル・C・デネット
『宗教を生みだす本能 進化論からみたヒトと信仰』ニコラス・ウェイド
『神はなぜいるのか?』パスカル・ボイヤー
『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』ユヴァル・ノア・ハラリ
『環境と文明の世界史 人類史20万年の興亡を環境史から学ぶ』石弘之、安田喜憲、湯浅赳男
『道徳性の起源 ボノボが教えてくれること』フランス・ドゥ・ヴァール
『ママ、最後の抱擁 わたしたちに動物の情動がわかるのか』フランス・ドゥ・ヴァール

 ・経済が宗教を追い越していった
 ・キリスト教の教えでは「動物に魂はない」

『一神教の闇 アニミズムの復権』安田喜憲

キリスト教を知るための書籍
宗教とは何か?
必読書リスト その五

山極●聖書によれば、動物には魂はないのですか。

小原●そうです。

山極●なるほど。だからね、それは農耕牧畜とともに生まれたんだと思うんですよ。狩猟採集民の世界というのは、動物に魂があるか、人間に魂があるかという話ではなくて、動物と人間は対等ですから、動物と会話ができていたわけですね。

小原●そうですね。狩猟採集の時代にあった動物と会話できるという感覚は、その後、形を変えながらも、様々な神話や物語の中に引き継がれてきたと思います。日本の昔話では、動物と人間が会話を交わす物語がたくさんありますし、さらに言えば、動物にだまされたり、助けられたり、「鶴の恩返し」のように動物と結婚したり、いろいろなバリエーションがありますね。動物が人間をどう見ていたかはともかくとして、少なくとも人間の側からは、長きにわたって、動物は会話できる対象と見られてきたのではないでしょうか。

【『人類の起源、宗教の誕生 ホモ・サピエンスの「信じる心」が生まれたとき』山極寿一〈やまぎわ・じゅいち〉、小原克博〈こはら・かつひろ〉(平凡社新書、2019年)】

 日本人ならすかさず「一寸の虫にも五分の魂がある」と反論するだろう。一神教は神の絶対性を強調する。その神に似せて造ったのが人間だ。人間は神に最も近い動物であるが神には絶対になれない。この断絶性が「動物に魂はない」とする根拠になっているのだろう。

 具体的には南極観測隊の犬の扱い方が好例だ。日本は15頭の犬を南極に置き去りにした(1958年)。イギリスでは「日本人はなんと残酷な民族か!」と糾弾され、「イギリス犬の日本輸出を中止せよ!」という声まで上がった。翌年、奇蹟的に2頭の生存が確認された。これがタロとジロである。一方、イギリス隊は1975年、帰還を余儀なくされた時、100頭の犬を薬物で殺害した。「犬を殺すのが一番経済的だ」という理由で。こうした二面性は神の愛を説きながら殺戮(さつりく)を繰り返してきた彼らの歴史に基づく性質だ。彼らは一方で戦争を行いながら、もう一方で慈善活動を行うことができる。

 かつての捕鯨もそうだ。欧米は鯨油だけを採ってクジラの遺体は捨てた。黒船ペリーが開国を迫ったのは捕鯨船の補給地を確保するためだった(『環境と文明の世界史 人類史20万年の興亡を環境史から学ぶ』石弘之、安田喜憲、湯浅赳男)。日本の場合、食用で尚且つ骨からヒゲに至るまでを活用する。そんな連中が「クジラは知能が高い」という理由で日本を始めとする捕鯨国を口汚く罵っているのだ(『動物保護運動の虚像 その源流と真の狙い』梅崎義人)。日本は「動物に魂はあるのか?」と反論すべきであった。

   日本人がキツネに騙されなくなったのは高度経済成長の真っ只中で昭和40年(1965年)のことだ(『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』内山節)。暮らしが豊かになり我々は自然との交感を失ったのだろう。

ユーカリ・ムーンラグーンの種蒔き


 ・ユーカリ・ムーンラグーンの種蒔き

ユーカリ・ムーンラグーンの芽が出た

 日本の湿潤な環境ではグニーがいいとの情報を得た。早速オークションで苗を購入したのだが既に枯れつつある。水はけの悪そうな黒い土をビニールでくるんだ状態で届いた。まだ諦めてはいないが見るたびに暗澹たる思いになる。

 ユーカリについて色々と調べたところムーンラグーンという品種を見つけた。小振りな葉が愛らしく、なんと言ってもその耐寒性が目を引いた。


 ま、こんな高価(12000円也)なのはとても買えないが見ているだけで浮き浮きしてくる。オークションで種を見つけた。気がついたら決済し終えていた。で、今日届いた。種が小さいのは知っていたが、まあぶったまげたよ。種というよりは粉に近い。ふりかけのカスくらいの大きさだ。とてもじゃないが一粒一粒を植えるのは無理だ。小さな種は紙を畳んで細い棒で叩きながら蒔くといいらしい(小さいタネを上手に蒔く工夫 - 日本農産種苗株式会社 -しば部長の菜園作り豆知識)。

 普通に水をやると種が流れてしまうと知った。一計を案じてでかいアイスクリームの容器を使うことにした。用土は赤玉小粒のみ。水やりは霧吹きを上向きにするといいようだ。

ユーカリの薫るベランダで | ユーカリ(タネ播き)

 用土も「ユーカリの薫るベランダで」を参照した。私は以下のブレンドを考えている。

 ・ひゅうが土小粒 3割
 ・鹿沼土 3割
 ・腐葉土 3割
 ・矢作砂 1割
 ・珪酸塩白土 少々
 ・苦土石灰 少々

 ムーンラグーンについては「とにかく、水切れに気をつけてください!」(ユーカリの薫るベランダで | 【ユーカリ紹介】 ユーカリ・ムーンラグーン)とある。また別のブログでも「ムーンラグーンに限って言えば、ある程度の明るさがあれば成長には十分で、後はより湿潤である方が良いのかも知れません」と書かれていた(ムーンラグーンの育て方 | ユーカリクリニック)。

 梅雨時がこんなに楽しいのは上京以来初めてのことだ。我がふるさと北海道には梅雨がないので。

2020-06-26

海洋型発想と大陸型発想/『悪の論理 ゲオポリティク(地政学)とは何か』倉前盛通


『昭和の精神史』竹山道雄
『資本主義の終焉と歴史の危機』水野和夫
『閉じてゆく帝国と逆説の21世紀経済』水野和夫
『小室直樹vs倉前盛通 世界戦略を語る』世界戦略研究所編

 ・小善人になるな
 ・仮説の陥穽
 ・海洋型発想と大陸型発想
 ・砕氷船テーゼ

『新・悪の論理』倉前盛通
『情報社会のテロと祭祀 その悪の解析』倉前盛通
『自然観と科学思想 文明の根底を成すもの』倉前盛通
『悪の超心理学(マインド・コントロール) 米ソが開発した恐怖の“秘密兵器”』倉前盛通
『悪の運命学 ひとを動かし、自分を律する強者のシナリオ』倉前盛通
『悪の戦争学 国際政治のもう一つの読み方』倉前盛通
『悪の宗教パワー 日本と世界を動かす悪の論理』倉前盛通

日本の近代史を学ぶ
必読書リスト その四

 英米の地政学は海洋国家型のそれであり、ドイツ、ソ連、中国の地政学は大陸国家型のそれであるといえよう。このように、大陸国家と海洋国家とで、地政学の趣きが異なるということ自身、地政学の仮説性を示すものである。
 海洋国は、海洋交通の自由、貿易の自由、物資交流の自由を重視し、そのための戦略を考える。それに対して、大陸国は閉鎖的な自給自足と、生存圏としての一定領域の占拠を考える傾向が強い。海洋国は広大な海面を安全のための戦略空間と見なし、それを支持する海軍基地の設定を考える。それぞれのおかれた立場によって、追求する主題が異なってくるのは当然であろう。
 日本はいうまでもなく海洋国であるから、地政学の発想も海洋型でなければなるまい。事実、明治20年代から大正のはじめ(1890年から1915年まで)の日本の戦略は明らかに海洋型であった。その結果、大幅な国力の伸長をみせたのであるが、不幸にして大正7、8年頃から昭和20年頃まで(1915年から1945年まで)の間は、日本の陸軍参謀本部を中心とする勢力が、ドイツ流の大陸国家型地政学に心酔してしまった。ここに日本の失敗の最大の原因がひそんでいた。

【『悪の論理 ゲオポリティク(地政学)とは何か』倉前盛通〈くらまえ・もりみち〉(日本工業新聞社、1970年/角川文庫、1980年)】

 孟子の言葉に「天の時は地の利に如(し)かず。地の利は人の和に如かず」とある(天の時は地の利に如かず 地の利は人の和に如かず 公孫丑章句下 孟子 漢文 i think; therefore i am!)。地政学とは地の利と不利を踏まえた国際力学を考量する学問である。天候を含めた地理的要素は人々の性格形成にも影響を及ぼし、文化・文明をも育む。

 本書はベストセラーになったようだが私は長らく倉前の名を知らなかった。小室直樹を通じて『小室直樹vs倉前盛通 世界戦略を語る』に辿り着いたのは僥倖(ぎょうこう)としか言いようがない。本書の登場はあまりにも早すぎたのだろう。かつての保守系論壇人といえば小林秀雄、竹山道雄、福田恒存〈ふくだ・つねあり〉あたりが有名だが、その後真夏の太陽のような存在感を放った三島由紀夫が自決したことで一気に停滞した。ここで踏ん張ったのが倉前盛通その人である。少し経ってから渡部昇一、谷沢永一、小室直樹が続いた。

 1990年過ぎまで保守系=右翼と世間では受け止められていた。論壇は完全に進歩的文化人が制圧していた。その絶頂期を土井ブーム(1990年)と考えてよさそうだ。個人的なことを言わせてもらえば、新しい歴史教科書をつくる会(1996年)はもちろんのこと、チャンネル桜(2004年)も右翼だと長らく思っていた。私が日本の近代史をひもとき始めたのは2015年である。東日本大震災を契機に初めて天皇陛下への尊崇の念が湧いてきたが、まだまだ政治的にはリベラルを気取っていた。

 佐藤優が山口二郎を「天才だ」と持ち上げた。二人は沖縄の米軍抗議集会を熱烈に支持した。佐藤はラジオ番組でも沖縄独立を掲げる候補者(創価学会員)を何気ない調子で紹介した。更に小林よしのりを昂然と批判し、孫崎享〈まごさき・うける〉著『戦後史の正体』を腐した。「小林秀雄を読んでも全然理解できない」とも語っていた。「あれ?」と疑念が湧いた。「おかしいな」と気づいた。嘘を嘘と見破ることが真実への近道だ。それから数百冊の近代史本を読んで我が眼(まなこ)から鱗(うろこ)を一枚一枚落としていった。

 佐藤優の論壇デビューを後押ししたのは米原万里〈よねはら・まり〉と井上ひさしである(『打ちのめされるようなすごい本』米原万里)。真正の左翼がお墨付きを与えたわけだから彼らが期待する人材であることは確かだろう。更に佐藤はロシアの大学で教鞭をとっていた過去の持ち主だ。彼の博覧強記は日本を破壊するために使われるのだろう。池上彰同様に注意が必要だ。

 大東亜戦争は中国大陸に深入りして負けた。そして今、大陸国家の中国が海洋へ進出している。日本は台湾やASEAN諸国と海洋同盟を結び、中国を封じ込める政策を速やかに実施すべきだ。

志村五郎「竹山を今日論ずる人がないことを私は惜しむ」/『竹山道雄と昭和の時代』平川祐弘


『昭和の精神史』竹山道雄

 ・言うべきことを言い書くべきことを書いた教養人
 ・志村五郎「竹山を今日論ずる人がないことを私は惜しむ」

『見て,感じて,考える』竹山道雄
『西洋一神教の世界 竹山道雄セレクションII』竹山道雄:平川祐弘編
『剣と十字架 ドイツの旅より』竹山道雄
『ビルマの竪琴』竹山道雄
『人間について 私の見聞と反省』竹山道雄
『竹山道雄評論集 乱世の中から』竹山道雄
『歴史的意識について』竹山道雄
『主役としての近代 竹山道雄セレクションIV』竹山道雄:平川祐弘編
『精神のあとをたずねて』竹山道雄
『時流に反して』竹山道雄
『みじかい命』竹山道雄

 志村五郎は敗戦直後の1946年に一高に入学し、いちはやく日本の最高の数学者と呼ばれた人物だが、後半生はアメリカで生きた。自伝も日英両語で書いているが、その日本語版『記憶の切絵図』(筑摩書房、2008)にプリンストンで手術を受けた時のエピソードをこう伝えている。麻酔医が『ビルマの竪琴』の英訳を読んで感動したと話した。「その著者は私の高校のドイツ語の先生だと言うとひどく感心していた」。その志村にいわせると、1950年、朝鮮戦争勃発当時、日本の政治学者や評論家には「ソ連信仰」が根強く、「進歩的知識人」は反共よりも反米の方が論壇で受けがよいことを知っており、その世界の中の功利的保身術に基いて発言していた。それとは違って、と志村は言う。「竹山道雄は共産主義諸国を一貫して批判し続けた。彼は共産主義国信仰の欺瞞(ぎまん)を極めて論理的かつ実際的に指摘した。それができてまたそうする勇気のある当時はほとんどただひとりの人であった。彼はまた東京裁判の不当性と非論理性を言った。竹山を今日論ずる人がないことを私は惜しむ」。志村にそう指摘されたとき、私は身内の者であるけれども、やはり自分が論ぜねばなるまい、とあらためて思った。

【『竹山道雄と昭和の時代』平川祐弘〈ひらかわ・すけひろ〉(藤原書店、2013年)】

 フェルマーの最終定理を解いたのはアンドリュー・ワイルズだが、そのための武器を用意したのが日本の志村五郎谷山豊であった(『フェルマーの最終定理 ピュタゴラスに始まり、ワイルズが証明するまで』サイモン・シン)。

「また評論家として戦中は軍部を批判、戦後は進歩的思想に反対し続けたリベラリストで、(※昭和)43年には『米原子力空母エンタープライズの寄港に賛成』と発言、論争を呼んでいる」(竹山道雄とは - コトバンク)。1968年(昭和43年)といえば学生運動が安保反対を経てベトナム戦争反対に舵を切り、東大闘争が始まった頃で、当然エンタープライズの寄港に対する反対運動が起こった。朝日新聞が取材した5人の識者の中で竹山道雄ただ一人が賛成を表明した。その後朝日新聞は「声」欄を使って執拗な竹山バッシングを行う(朝日新聞に抹殺された竹山道雄)。以下のページに詳細がある。

馬場公彦著「『ビルマの竪琴』をめぐる戦後史」2004年法政大学出版局刊・3の2 | 知的漫遊紀行 - 楽天ブログ

 当時の新聞の影響力は現在の比ではない。テレビはまだ歴史が浅かった。世論を動かしていたメディアは新聞のみであったと断言してよい。このような背景を知れば志村の文章に込められた思いが胸に響いてくる。数学者の合理性が竹山のありのままの姿を捉えたのだろう。

 竹山は実際家であった。ゆえに思想が事実を歪めることを十分承知していた。戦後、分断された西ドイツから東ドイツの嘘を見抜いた。西ドイツへの亡命者の多さが社会主義国の欺瞞を証明していた。世論が時流に流される中で竹山は一人両脚に力を込めて学問の大地に立っていた。

幸福を望むのは不幸な人/『精神の自由ということ 神なき時代の哲学』アンドレ・コント=スポンヴィル、『人生論ノート』三木清


『人生論ノート』三木清

 ・宗教の語源
 ・フランス人哲学者の悟り
 ・幸福を望むのは不幸な人

『君あり、故に我あり 依存の宣言』サティシュ・クマール

 もし幸福であることを希望しているなら、それは幸福が欠如しているからだ。逆に、幸福がげんにあるときに、そのうえなにを希望するというのか。幸福が長つづきすることを希望するのだろうか。それは、幸福が終わらないかと恐れることなのだから、そのばあいには幸福はすでに不安のうちで溶けてなくなってしまっているわけだ……。これが希望の陥穽であり、それは神のいるいないに関係ない。あすの幸福を希望するあまり、きょう幸福を生きることをみずからに禁じてしまうのだ。

【『精神の自由ということ 神なき時代の哲学』アンドレ・コント=スポンヴィル:小須田健〈こすだ・けん〉、C・カンタン訳(紀伊國屋書店、2009年)】

「幸福」とは多分近代の概念だろう。資本主義・金融経済・消費・統計などが絡んでいるように思う。平均値という基準があり、ここかれ離れるほどに不幸の度合いが増してゆく仕組みだ。

 それ以前は諸願成就や心願成就と言った。元々は菩薩が衆生済度を誓ったものだが、人々においても他人の幸福、特に病気平癒を願う気持ちが強かった。欲望からの解放を唱えたブッダの教えが、いつしか願(がん)を正当化することで祈祷が当たり前となるわけだが、このあたりに後期仏教(大乗)の欺瞞が透けて見える。

 キリスト教の場合は「神の恩寵がありますように」と口にしても神がそれに応じる義務はない。何をしようと神の勝手である。人の幸不幸は神が世界を創造した時点で既に決まっている(予定説)。

 幸福は人格である。ひとが外套(がいとう)を脱ぎすてるようにいつでも気楽にほかの幸福は脱ぎすてることのできる者が最も幸福な人である。しかし真の幸福は、彼はこれを捨て去らないし、捨て去ることもできない。

【『人生論ノート』三木清(新潮文庫、1954年)以下同】

 機嫌がよいこと、丁寧なこと、親切なこと、寛大なこと、等々、幸福はつねに外に現れる。歌わぬ詩人というものは真の詩人ではない如く、単に内面的であるというような幸福は真の幸福ではないであろう。

 幸福は表現的なものである。鳥の歌うが如くおのずから外に現れて他の人を幸福にするものが真の幸福である。

 三木は幸福の現象を鮮やかに描いている。人格高潔とは言い難い三木が「幸福は人格である」と書くのだから文章というのはつくづく便利なものだ。詳細については他日記す。

 不幸な時代には成功者がもてはやされ、悲惨な時代からは英雄が生まれる。『半沢直樹』や『隠蔽捜査』を面白がるようではダメなのだ。

2020-06-25

ジョー・バイデンの隠しきれない性癖


フランス人哲学者の悟り/『精神の自由ということ 神なき時代の哲学』アンドレ・コント=スポンヴィル


 ・宗教の語源
 ・フランス人哲学者の悟り
 ・幸福を望むのは不幸な人

『左脳さん、右脳さん。 あなたにも体感できる意識変容の5ステップ』ネドじゅん
『君あり、故に我あり 依存の宣言』サティシュ・クマール

キリスト教を知るための書籍
悟りとは

 夕食のあとのある晩、いつものように友人たちと気にいっていた森へ散歩にでかけた。暗さが深まっていったが、歩きつづけていた。笑いも少しずつ消えてゆき、口数も少なくなっていった。友情や信頼、共有された現前やこの夜のあらゆるものの心地よさといったものはありつづけた。私は、なにも考えていなかった。眼を開いて、耳をかたむけていた。あたりは一面漆黒の闇で、空は驚くほどあかるく、森はかすかにざわめきながらも沈黙につつまれていた。ときおり、枝がみしみし音をたてたり、動物の鳴き声がしたり、歩く一歩ごとにかすかな足音がした。このとき、沈黙はますますはっきりと聴きとれるようになっていた。そして突然……。なにが起こったのだろうか。なにが起こったわけでもなかった。そこには万物があった。まったく、会話のひとつも、意味も問いかけもなかった。ただ驚きとあたりまえのことと、終わることのないようにさえ思われた幸福と、いつまでもつづくかに思われた平穏だけがあった。私の頭上には、無数の、数えがたい数の、光り輝く満点の夜空があり、私のまわりにはこの空のほかにはなにものもなく、私はその一部と化していた。私のまわりには、いわば幸福な振動であり、主体も客体もない喜びにほかならない(万物のほかには、なんの対象もなく、それ自身のほかには、なんの主体もないのだから)この光のほかにはなにもなく、この漆黒の闇のなかにあって、私のうちには万物のまばゆいほどの現前のほかにはなにもなかった。平穏。はかりしれないほどの平穏。単純さ、平静さ。歓喜。最後の二つのことばは矛盾しているように思われるかもしれないが、そこにあったのはことばではなく経験であり、沈黙であり調和だったのだ。それはいわば、まったく正しい和音のうえに付された終わることのないフェルマータであり、つまるところ世界そのものだった。私は申し分なく、驚くほど申し分なかった。もはやそれについてなにひとつ語る必要など感じないくらいに、それがずっとつづけばいいのにという欲望すら感じないくらいに、申し分なかった。もはやことばも、欠如も、期待もなかった。現前の純然たる現在。自分が散歩していたと言うのさえはばかられるほどだ。そこにはもはや散歩しか、森しか、星ぼししか、私たちの一団しかなかった……。もはや【自我】も、分離も、表象もなかった。万物の沈黙に満ちた現前以外のなにもなかった。もはや価値判断もなく、現実以外のなにものもなかった。もはや時間もなく、現在以外のなにもなかった。もはや無もなく、存在以外のなにもなかった。もはや不満も、憎しみも、恐れも、怒りも、不安もなかった。喜びと平安以外のなにもなかった。もはや演技も、幻想も、嘘もなく、私をふくみこんではいるものの私がふくみこんでいるわけではない真理以外のなにもなかった。この状態が持続したのは、おそらく数秒のことだったろう。私は高揚させられると同時に宥(なだ)められ、高揚させられると同時にかつてないほどの穏やかさのうちにあった。離脱。自由。必然性。やっとそれ自身へとたちもどった宇宙。それは有限なのだろうか、それとも無限なのだろうか。そんな問いがたてられることさえなかった。もはや問いかけすらなかった。だからこそ、答えがでるはずもなかった。あたりまえのものだけが、沈黙だけがあった。あるのは真理だけで、ただしそれを語ることばはなかった。あるのは世界だけで、ただしそこには意味も目標もなかった。あるのは内在だけで、ただしその逆をなすものはなかった。あるのは現実だけで、ただし他人はいなかった。信仰もなければ、希望も、約束もない。あるのは万物だけ、その万物の美しさ、その真理、その現前だけだった。それで十分だったのだ。それだけで十分だなどという以上のものになっていた。

【『精神の自由ということ 神なき時代の哲学』アンドレ・コント=スポンヴィル:小須田健〈こすだ・けん〉、C・カンタン訳(紀伊國屋書店、2009年)】

 もう少し続くのだがこれで十分だろう。悟りとは真理に触れた瞬間である。生き生きと語られるのは生の流れ(諸行無常)と万物が一つにつながる生の広大さ(諸法無我)である。これに優る不思議はない。思議し得ぬがゆえに不可思議とは申すなり。

 悟りは不意に訪れるものだ。人は忽然(こつぜん)と悟る。風や光のように自ら起こすことはできない。

 ここで一つの疑問が立ち上がる。修行や瞑想に意味はあるのだろうか? クリシュナムルティは「ない」と断言している。だが私は「ある」と思う。

 クリシュナムルティは努力をも否定した(『自由とは何か』J・クリシュナムルティ)。努力とは一種の苦行である。そのメカニズムは抵抗や負荷に耐えることで、「耐性の強化」に目的がある。ま、我慢比べみたいなものだろう。今たまたま「我慢」という言葉を使ったがここにヒントがある。元々この言葉は仏教用語で「我慢ずる」と読む。つまり「我尊(たっと)し」との思い込みが我慢の語源なのだ。

 宗教家という宗教家が皆思い上がっている。真理の独占禁止法があれば全員逮捕されていることだろう。額に「我こそは正義」というシールを貼っているような輩(やから)ばかりだ。

 努力は一定の形に自分を押し込める営みだ。そして努力は成果を求める。思うような結果が出ないと「無駄な努力」といわれる。努力によって培われるのは技術である。それが最も通用するのは職人やスポーツ選手の世界だろう。特定の動きに特化した体をつくることで必ず何らかのダメージが形成される。鍛えることができるのは筋肉に限られるため、鍛えられない関節や腱が悲鳴を上げる。

 技術が洗練の度合いを増して芸術の領域に近づく過程で真理が垣間見えることは決して珍しいことではない。彼らの言葉に散りばめられた透徹、達観、洞察が悟性を示す。

 だが真の悟りには世界を一変させる衝撃がある。共通するのは「ただ現在(いま)」「ただ在る」という瞬間性である。過去のあれこれを足したり引いたりして未来の答えを求めるのが我々の日常だ。不安も希望も現在性を見失った姿だ。過ぎ去った過去と未だに来ない未来を我々は生きているのだ。

 私が修行に意味があると考える理由は「行為を修める」ところにある。欲望を慎み鎮(しず)める作業を修行と考えることはできないだろうか? クリシュナムルティが「(瞑想の)方式に意味はない」としたのは方式が目的化することを嫌ったためだろう。だが想念を冥(くら)くするためには先を往く人の手助けが必要だ。悟りはアザーネス(他性)であるとしても自分の感度を高めておくことは必要だろう。

2020-06-22

凝りすぎたプロット/『幻夏』太田愛


『犯罪者』太田愛

 ・凝りすぎたプロット

・『天上の葦』太田愛

【世界の涙の量は常に不変である。】

【『幻夏』太田愛〈おおた・あい〉(角川書店、2013年/角川文庫、2017年)】

 たぶん気合を入れたのだろう。凝りすぎたプロットが読みにくくしている。更には子供が描けていない。ここに登場するのは子供の姿をした大人だ。謎解きの説明もセリフで行われることが目立ち、ドラマ性を失う結果となっている。それでも並みのミステリよりは面白い。今回は刑事である相馬の物語である。

 現実には世界から貧困は減っている(『FACTFULNESS(ファクトフルネス) 10の思い込みを乗り越え、データを基に世界を正しく見る習慣』ハンス・ロスリング、オーラ・ロスリング、アンナ・ロスリング・ロンランド)。文盲も劇的に少なくなっているし、大きな戦争もなくなった。実際の涙の量は減っていることだろう。それでも尚、上記テキストに説得力があるのは【形を変えた不幸】がそこここに存在するためだ。

 資本主義国で富の再分配がうまく機能せず格差を生んでいる。社会の至るところが見えない湿気に覆われている。それは常態化した苛立ち、疲労、無気力、嫌悪、怒りだ。日本の場合、ロスジェネ世代以降は夢を抱くことすら許されない経済情況が続いている。

 戦後、一党支配を続けてきた自民党は二度下野しているがあまりにも期間が短かった。利権を断つほどの改革はできなかったと見てよい。国民の意識は緩やかに穏健な保守に傾きつつあるが、米軍に依存する国防のあり方を見直す機運はなかなか高まらない。つまり国民は「国家が変わること」を望んではいないのだろう。

 まともなジャーナリズムが存在しない以上、この国で民主政が機能するとは思えない。例えば利権、利権と散々書きながらも、その利権がどこにあるかをマスメディアは報じてこなかった。なぜなら彼らもまた利権構造の一翼を担っているからだ。知性とは狡猾の異名である。騙した者が勝利を収めるゲームが終わる気配はない。だからこそ「涙の量」が同じなのだろう。

日本人の悪徳/『半沢直樹1 オレたちバブル入行組』池井戸潤


 ・日本人の悪徳

『半沢直樹2 オレたち花のバブル組』池井戸潤
『半沢直樹3 ロスジェネの逆襲』池井戸潤
・『半沢直樹4 銀翼のイカロス』池井戸潤
『隠蔽捜査』今野敏
・『ザ・ラストバンカー 西川善文回顧録』西川善文

 銀行には様々な人間たちがやってくるが、こと態度が悪いという点で国税はヤクザの比ではない。ヤクザならせいぜい店頭で怒鳴り散らすぐらいが関の山だが、こいつらは銀行の中にまで土足で入り込み、国家権力を笠に来て威張り散らした挙げ句、気に入らないことがあると「シャッター閉めるか?」と常套句と化した脅しの言葉を吐く。間違ったエリート意識、歪んだ選民思想の産物で、つまらぬ奴らに権力を持たせるとこうなる、の典型だ。テレビドラマの「窓際太郎」など現実には存在しない。

【『半沢直樹1 オレたちバブル入行組』池井戸潤〈いけいど・じゅん〉(講談社文庫、2019年/文藝春秋、2004年『オレたちバブル入行組』改題/文春文庫、2007年)以下同】

 全4冊を2日間で読んだ。テレビドラマの土下座シーンだけは見たことがあるが明らかなミスキャストだ。半沢役がひ弱すぎる。大和田役も大根すぎて見るに堪(た)えず。失われた20年で奮闘する銀行マンを主軸に「働く意味」を問いかける。

 日本人の悪徳は「弱い者いじめ」である。明治維新以降は薩摩・長州が会津をいじめ、陸軍では若い兵隊を散々ビンタし、やむなく帰還した特攻隊員は裏切り者扱いをされた。戦時中に思想を取り締まった特高警察も決して国民の味方ではなかった。旧内務省・軍需省が築いた経済システムは戦後も維持された。カルテル、株式持ち合い、系列など。そして大陸から引き上げてきた満州閥が政治・経済の第一線に返り咲いた。バブル崩壊後になると中小企業が大企業や銀行からいじめ抜かれた。

 警察や国税には捜査権という強大な権力がある。彼らが家宅捜索や税務調査をすると後片付けもしていかない。かつて日本は昭和初期まで世界有数のテロ国家であった。私からすれば殺害される国税専門官がいないのが不思議である。武士道が滅び、仇討ちの精神は跡形もなく消え去った。日本人はいじめと闘うことを知らず、ただ自裁するだけである。国全体がいまだに村の論理で動いている現実がある。

 池井戸作品は初めて読んだが時折キラリと光る言葉がある。

「夢を見続けるってのは、実は途轍(とてつ)もなく難しいことなんだよ。その難しさを知っている者だけが、夢を見続けることができる、そういうことなんじゃないのか」

 これはチト臭すぎる。半沢直樹はどこか竜崎伸也(『隠蔽捜査』今野敏)を想わせるところがある。

沈みゆくアメリカ/『ペトロダラー戦争 イラク戦争の秘密、そしてエネルギーの未来』ウィリアム・R・クラーク


『超帝国主義国家アメリカの内幕』マイケル・ハドソン
『マネーの正体 金融資産を守るためにわれわれが知っておくべきこと』吉田繁治
『〈借金人間〉製造工場 “負債"の政治経済学』マウリツィオ・ラッツァラート
『紙の約束 マネー、債務、新世界秩序』フィリップ・コガン
『ロスチャイルド、通貨強奪の歴史とそのシナリオ 影の支配者たちがアジアを狙う』宋鴻兵
『通貨戦争 影の支配者たちは世界統一通貨をめざす』宋鴻兵
『タックスヘイブンの闇 世界の富は盗まれている!』ニコラス・シャクソン
『資本主義の終焉と歴史の危機』水野和夫
『ドル消滅 国際通貨制度の崩壊は始まっている!』ジェームズ・リカーズ

 ・大英帝国の凋落
 ・沈みゆくアメリカ

必読書リスト その二

 2001年9月11日、世界はもはや後戻りできなくなった。アメリカは脱皮できたはずだった。真に啓蒙された自由な諸国からなる西欧文明において確固たる地位を打ち立てられたはずだった。だが、望みは徹底的に打ち砕かれてしまったように見える。
 2003年3月19日、アメリカ率いるイラク侵攻によって、世界は再び一変した。早急に行動を起こさない限り、今世紀、アメリカが恐怖、抑圧、そして経済的衰退を目の当たりにするのはほぼ確実である。指導者たちは、共和党であろうと民主党であろうと、自滅的な行動を続け、国家本来の目的と約束を次第に顧みなくなっている。(「序文 イラク戦争以後 新世紀を方向づける最も危険な10年間」ジェフ・ライト)

【『ペトロダラー戦争 イラク戦争の秘密、そしてエネルギーの未来』ウィリアム・R・クラーク:高澤洋志〈たかざわ・ひろし〉訳(作品社、2013年/原書は2005年)】

 そして2007年にサブプライムショックがあり、翌2008年にはリーマンショックが続いた。更に現在、ミネソタ州ミネアポリスで黒人男性が白人警官に押さえつけられて死亡した事件をきっかけに各地で暴動が起こっている。民主党議員が選出された地域に限られているという話もあるが、その意外な脆弱さに驚かされる。

 アメリカ政府は大きく誤ることがしばしばある。かつて日本を締め上げて第二次世界大戦へと暴走させた。天皇陛下も軍部も最後の最後までアメリカ融和を図ったが敢えなく拒否された。しかもあろうことかソ連に手を貸し、戦後の冷戦の種を播(ま)いた。終戦から5年後には朝鮮戦争(1950年)でソ連・中国に勢いを与えた。1963年にはジョン・F・ケネディ大統領が衆人環視の中で暗殺され、1965年からベトナム戦争に本格な介入をする。そして1971年にドルショックが訪れる。第二次世界大戦を唯一無傷で終えたアメリカがわずか26年間でこの凋落ぶりである。1970年代以降は敗戦国であった日本や西ドイツに工業製品のシェアを奪われ続けた。

 たぶんキリスト教原理主義が瞳を曇らせるのだろう。思い上がった彼らが我が身を振り返ることはまずない。米国内でイスラエル左右の覇権争いがあり、更にはチャイナマネーがくすぶり続ける人々に燃料を与えている。我々が今目にしているのは沈みゆくアメリカの姿だ。


サンセベリアの肥料


サンセベリアの裸苗

 ・サンセベリアの肥料

サンセベリアの葉挿し

 観葉植物の多くは多肥を好みません。薄めに施す方が良いでしょう。生育期(5~9月頃)に薄めた液肥を施します。晩夏頃からカリを主体に施すと、しっかりした株になります。

国華園から送られてきた注意書き】

 冬場は基本的に水やりをせず、休眠期に入らせます。こうすることで耐寒性がつき、より強靭なサンセベリアになることができます。次に肥料の与え方ですが、最初の与え方としてゆっくり効くタイプの粒肥料を土に混ぜ込んでおきましょう。そして5月から9月の時期に追加で液体肥料を与えるようにします。ペースは20日に1回程度。特に真夏の時期にしっかり肥料を与えることで、株がより丈夫になり耐寒性も上がります。

肥料の与え方が重要!サンセベリアの育て方!|🍀GreenSnap(グリーンスナップ)

2020-06-20

サンセベリアの裸苗


サンセベリアの用土はこれで決まり

 ・サンセベリアの裸苗

サンセベリアの肥料
サンセベリアの葉挿し

 サンセベリアの裸苗は水に漬けた方がいいのかどうかを調べた。

 サンセベリアの裸苗は植えつける時、水はやらなくてもいいそうです。植え付け後二週間くらい経ったらあげる、と言う事でした。

100均のサンセベリア(裸苗) はじめての

 根のない苗を植える場合は、植えつけ後2週間ほど水やりは控えます。

howto情報|サンスベリアの育て方|ホームセンター

 そのサンセベリアの裸苗の販売されていた場所には簡単な説明書きもあり、うろ覚えですが、その内容をかなり簡素に要約すると、「土に挿し、水をあげないでしばらく置いておくと根が出ます。」といったような説明が記載されていました。

サンセベリアの裸苗 | ウチデグリーン | UCHI de GREEN

 直ぐに水をやるという意見もある。

植え付け直後にガッツリ水やり”に1票です

骨を鍛える/『本当に必要な「ゆるスクワット」と「かかと落とし」』中村幸男


・『一生元気でいたければ足指を広げなさい』湯浅慶朗
『足・ひざ・腰の痛みが劇的に消える足指のばし』湯浅慶朗
・『足腰が20歳若返る 足指のばし ゆびのば』今井 一彰
『足裏を鍛えれば死ぬまで歩ける!』松尾タカシ、前田慶明監修
『死ぬまで歩くにはスクワットだけすればいい』小林弘幸

 ・骨を鍛える

『あなたの歩き方が劇的に変わる! 驚異の大転子ウォーキング』みやすのんき


【『本当に必要な「ゆるスクワット」と「かかと落とし」』中村幸男〈なかむら・ゆきお〉(小学館、2018年)】

 骨は反力によって鍛えられる。若い頃、バレーボール・バスケット・ハンドボール・剣道をやっていた人は骨密度が高い。つまり床や地面から受けた衝撃に骨が反応するのだ。踵落としとは背伸びをして踵(かかと)をストンと落とすだけの運動だ。本書では発展型としてジャンプと片足の踵落としも紹介されているが、これは膝を痛める原因となりかねないのでやらなくていいと思う。

 一方のゆるスクワットとは書影にある通りのゆるいスクワットである。これは屈んだ時にお尻を突き出すと効果が高まる。年寄り用の低負荷運動と侮るなかれ。特に女性は骨粗しょう症になりやすいので若いうちからやっておくべきだ。