・『人生論ノート』三木清
・宗教の語源
・フランス人哲学者の悟り
・幸福を望むのは不幸な人
・『君あり、故に我あり 依存の宣言』サティシュ・クマール
もし幸福であることを希望しているなら、それは幸福が欠如しているからだ。逆に、幸福がげんにあるときに、そのうえなにを希望するというのか。幸福が長つづきすることを希望するのだろうか。それは、幸福が終わらないかと恐れることなのだから、そのばあいには幸福はすでに不安のうちで溶けてなくなってしまっているわけだ……。これが希望の陥穽であり、それは神のいるいないに関係ない。あすの幸福を希望するあまり、きょう幸福を生きることをみずからに禁じてしまうのだ。
【『精神の自由ということ 神なき時代の哲学』アンドレ・コント=スポンヴィル:小須田健〈こすだ・けん〉、C・カンタン訳(紀伊國屋書店、2009年)】
「幸福」とは多分近代の概念だろう。資本主義・金融経済・消費・統計などが絡んでいるように思う。平均値という基準があり、ここかれ離れるほどに不幸の度合いが増してゆく仕組みだ。
それ以前は諸願成就や心願成就と言った。元々は菩薩が衆生済度を誓ったものだが、人々においても他人の幸福、特に病気平癒を願う気持ちが強かった。欲望からの解放を唱えたブッダの教えが、いつしか願(がん)を正当化することで祈祷が当たり前となるわけだが、このあたりに後期仏教(大乗)の欺瞞が透けて見える。
キリスト教の場合は「神の恩寵がありますように」と口にしても神がそれに応じる義務はない。何をしようと神の勝手である。人の幸不幸は神が世界を創造した時点で既に決まっている(予定説)。
幸福は人格である。ひとが外套(がいとう)を脱ぎすてるようにいつでも気楽にほかの幸福は脱ぎすてることのできる者が最も幸福な人である。しかし真の幸福は、彼はこれを捨て去らないし、捨て去ることもできない。
【『人生論ノート』三木清(新潮文庫、1954年)以下同】
機嫌がよいこと、丁寧なこと、親切なこと、寛大なこと、等々、幸福はつねに外に現れる。歌わぬ詩人というものは真の詩人ではない如く、単に内面的であるというような幸福は真の幸福ではないであろう。
幸福は表現的なものである。鳥の歌うが如くおのずから外に現れて他の人を幸福にするものが真の幸福である。
三木は幸福の現象を鮮やかに描いている。人格高潔とは言い難い三木が「幸福は人格である」と書くのだから文章というのはつくづく便利なものだ。詳細については他日記す。
不幸な時代には成功者がもてはやされ、悲惨な時代からは英雄が生まれる。『半沢直樹』や『隠蔽捜査』を面白がるようではダメなのだ。
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