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2016-09-30

物語の反独創性、無名性、匿名性/『物語の哲学』野家啓一


 ・物語る行為の意味
 ・物語の反独創性、無名性、匿名性

『死と狂気 死者の発見』渡辺哲夫
『アラブ、祈りとしての文学』岡真理
『プルーストとイカ 読書は脳をどのように変えるのか?』メアリアン・ウルフ
『ストーリーが世界を滅ぼす 物語があなたの脳を操作する』ジョナサン・ゴットシャル

必読書リスト

「紙と文字」を媒体にして密室の中で生産され消費されるのが近代小説であるとすれば、物語は炉端や宴などの公共の空間で語り伝えられ、また享受される。小説(novel)が常に「新しさ」と「独創性」とを追及するとすれば、物語の本質はむしろ聞き古されたこと、すなわち「伝聞」と「反復性」の中にこそある。独創性(originality)がその起源(origin)を「作者」の中に特定せずにはおかないのに対し、物語においては「起源の不在こそがその特質にほかならない。物語に必要なのは著名な「作者」ではなく、その都度の匿名の「話者」であるにすぎない。それは「無始のかなたからの記録せられざる運搬」(※柳田國男『口承文芸史考』)に身を任せているのである。また、物語が「聴き手または読者に指導せらるる文芸」であることから、その意味作用は「起源」である話者の手を離れて絶えず「話者の意図」を乗り越え、さらにはそれを裏切り続ける。意味理解の主導権が聴き手あるいは読者に委譲されることによって、物語は話者の制御の範囲を越えて「過剰に」あるいは「過小に」意味することを余儀なくされる。つまり、物語の享受は聴き手や読者の想像力を梃子にした「ずれ」や「ゆらぎ」を無限に増殖させつつ進行するのである。それゆえ、物語の理解には「正解」も「誤解」もありえない。そして「作者の不在」こそが物語の基本前提である以上、それは反独創性、無名性、匿名性をその特徴とせざるをえないであろう。
 そもそも「独創性」に至上の価値を付与する文学観は、「作者」を無から有を生ぜしめる創造主になぞらえ、「作品」をバルトの言葉を借りれば「作者=神からのメッセージ」として捉える美学的構図、あるいは一種の神学的図式に由来している。しかし、先にも述べたように、いかに独創的な作者といえども、言語そのものを創造することはできない。彼もまた、手垢にまみれた使い古しの言葉を使って作品を紡ぎ出すほかはないのである。たとえ新たな語彙を造語したとしても、その意味はすでに確立した語彙や語法を用いて定義され、説明されねばならない。われわれは常にすでに特定の「言語的伝統」の内部に拘束されているのであり、それを内側から改変することはできても、それを破壊し、その外部に出ることは不可能なのである。それゆえ、独創性なるものは、既成の語彙や文の新たな使用と組合せ、あるいはコンテクストの変容による新たなメタファーの創出などの中にしか存在しない。誰も言語を発明することはできず、それを利用することができるだけだという意味にいて、あらゆる言語活動はわれわれを囲繞する既成の言語的伝統からの直接間接の「引用」の行為と言えるであろう。その限りにおいて、バルトが指摘する通り、テクストとは「引用の織物」にほかならないのであり、そのことは口承の「物語」についてならばさらによく当てはまるはずである。

【『物語の哲学』野家啓一〈のえ・けいいち〉(岩波現代文庫、2005年/岩波書店、1996年『物語の哲学 柳田國男と歴史の発見』改題、増補版)以下同】

 文化は歴史に依存する。そして人は歴史的存在であることを避けられない。堆積した過去が波となって自分の一生という時間を押し上げる。

 私が「物語」に着目し、一つのテーマとして考え続けてきたのは後期仏教(いわゆる大乗)を理解するためであった。本書では柳田國男著『遠野物語』を巡って物語論を展開しているが、伝承という次元では神話の言い伝えや仏教変遷よりも生々しい手触りがある。

 野家が指摘する「物語のパラドックス」(語り手と聴き手の逆転)は仏師が作った仏像を思わせる。「誰が」作ったかよりも、「作られた作品」そのものが表現する魂に重きを置く考え方といえよう。だが資本主義経済では通用しない。商品の利益は必ず創作者に還元される。

 そして高度に発達した情報化社会では意図的に嘘をつく輩が出てくる。少しばかりネットをうろつけば至るところにデマが氾濫(はんらん)している。内なる衆愚に自覚的である人は少ない。せめて検索くらいしろや、ってな話である。

 同時代性というミクロな視点で見れば我々の眼には個人が映るわけだが、文化というマクロな視点に立つと「物語の反独創性、無名性、匿名性」が少し見えてくる。またよく考えてみると日常で繰り広げられる会話のレベルでは無名性が確かに成り立っている。我々は一々、Wikipediaのように出典を銘記することがない。たとえテレビや雑誌からの受け売りであったとしても自らの言葉として語る。

 情報は【受け手によって】解釈される。伝言ゲームは私を通して歪められる。たとえテキストがあったにせよ、私の口が語る時、情報は欠け、変質を免れない。それゆえ口承は反復の中で記憶を強化する。

 後期仏教が台頭した歴史を調べると、社会の変化に合わせた教勢の拡大を目指して新たな教義が生まれたように見える。初期仏教に神学論争や衒学(げんがく)の複雑性はない。私の興味は潰(ついえ)えた。

 ブッダが説いた因果律はバラモン教による過去世の物語を否定し、時間を一人の人生に取り戻す営みと考えることができる。にもかかわらずブッダは革命家ではなかった。真のバラモンを説いたところに私は穏健な保守的態度を認める。日蓮のようなラディカルな姿勢は皆無である。

 因果律は時間の矢となって一方向へ進む。死を自覚すればこそ物を語らずにはいられないのだろうか。あるいは語ることで語られる存在を目指すのだろうか。

「昔々、あるところにおじいさんとおばあさんがおりました」と私が初めて聴いたのは多分二つか三つの頃だろう。2~3年の人生に比すれば、「昔々」は長大な過去である。そしてこの一言に物語を語り継いできた無数の人々の存在が浮かび上がってくる。やがては私も同じように語り、そしてそこへ埋没してゆくことだろう。物語は予感を含んでいる。

「大文字の物語が失われた」(ジャン=フランソワ・リオタール)後、歴史は小文字で書かれるのだろうか? 親から子へと語り継がれる物語は消えてゆくのだろうか? 語る豊かさを失えば、歴史も昔話も単なる情報の断片と化す。やがて感情は先細り、子供たちは笑顔を失うことだろう。だがそうではあるまい。白人哲学者には一神教のドグマが染みついている。21世紀にはまだ宗教崩壊の物語が残されている。

2012-01-12

物語る行為の意味/『物語の哲学』野家啓一


 ・物語る行為の意味
 ・物語の反独創性、無名性、匿名性

『死と狂気 死者の発見』渡辺哲夫
『アラブ、祈りとしての文学』岡真理
『プルーストとイカ 読書は脳をどのように変えるのか?』メアリアン・ウルフ
『ストーリーが世界を滅ぼす 物語があなたの脳を操作する』ジョナサン・ゴットシャル

必読書リスト

 筆が重い。読んでから数年が経っているためだ。抜き書きを並べて誤魔化すことにしよう。以下の記事の続きである。

物語の本質~青木勇気『「物語」とは何であるか』への応答

「世界は何によって動いているのか?」――私は10代の頃からそんな疑問を抱いていた。それゆえ、まず「世界はお金で動いているのだろうか?」と考え続けた。

 日経平均は1989年12月29日に史上最高値である3万8957円をつけた。そこからバブル崩壊の坂道を転がり続け現在にまで至る。一般人が気づいたのは数年後のことだ。バブルの酔いを醒ましたのはリストラの嵐であった。

 いつまで経っても中小企業の社長たちはバブルの季節を懐かしんでいた。少しばかり巧い話があると飛びつく経営者も多かった。そんな姿を見てはたと気づいた。「お金よりも思惑が先行している」と。

 だとすれば思惑はどこから生まれるのか? それは価値観や思想に基づいている。将来のことは誰人にもわからない。一寸先は闇である。古(いにしえ)より人類は将来を占いに託した。文明が発達し情報化やデータ化が進むと計算できるようになった(実際はできないわけだが)。

 計る、測る、量るが、諮るを経由して、画る、図る、謀るへと変容を遂げた(読みは全部「はか」る)。思惑とは物語であった。銘々が好き勝手な絵(青写真)を描いているのだ。私の思考は一足飛びに跳躍した。「思想とは物語である」と。

 まず実在する歴史が仕上げられなければならず、次いでこの歴史が人間に物語られねばならない(アレクサンドル・コジェーヴ)

【『物語の哲学』野家啓一〈のえ・けいいち〉(岩波現代文庫、2005年/岩波書店、1996年『物語の哲学 柳田國男と歴史の発見』改題)以下同】

 コジェーヴはロシアの哲学者で、ヘーゲルの『精神現象学』に息を吹き込んだことで知られる。初出のタイトルからもわかるように、野家は柳田民俗学とコジェーヴを手掛かりにしながら「物語」を解体する。つまり視点は右目が文学で左目が歴史に注がれている。それゆえ脳科学的な見地から批判をすることは賢明ではない。

 加えて、歴史的想起なしには、すなわち語られ(oral)たり書かれ(ecrit)たりした記憶なしでは実在的歴史はない。(アレクサンドル・コジェーヴによる脚注)

 コジェーヴは前半の本文において、まず実際の歴史的出来事が生起し、さらには完結し、しかる後にその出来事が人間に対して物語られるべきことを説いている。彼によれば、ヘーゲルの『精神現象学』は、実在する歴史的発展が終わった後に、それをアプリオリな形で再構成した一つの物語なのである。しかし、後半の注においては、その時間的順序を逆転させ、「語る」あるいは「書く」という人間的行為によってはじめて実在的歴史が成立することを述べている。その語るという行為を「物語行為(narrative act)」と呼べば、実際に生起した出来事は物語行為を通じて人間的時間の中に組み込まれることによって、歴史的出来事としての意味をもちうるのである。ここでコジェーヴが述べているのは、「歴史」は人間の記憶に依拠して物語られる事柄のうちにしか存在しない、という単純な事実にほかならない。

 のっけからこのインパクトである。時間の本質は非可逆性にある。時間はタテ軸を垂直に進む。絶対に後戻りしない。そして歴史や物語は人間――話者、歴史家――を通して立ち上がるのだ。人間が歴史的存在であることを運命づけられているのであれば、我々は記憶の奴隷とならざるを得ない。つまり過去に束縛されて現在性を失ってゆくのである。自我を吟味すれば記憶に辿りつく。

月並会第1回 「時間」その二
時間と空間に関する覚え書き

 アーサー・ダントの「理想的年代記」を紹介し、野家はもう一歩踏み込む。

 歴史的出来事は、この「人間的コンテクスト」の中で生成し、増殖し、変容し、さらには忘却されもする。端的に言えば「過去は変化する」のであり、逆説的な響きを弱めれば、過去の出来事は新たな「物語行為」に応じて修正され、再編成されるのである。これは不思議でも何でもない日常茶飯の事実にすぎない。先の「私が提案した奇襲作戦は味方の部隊を勝利に導いた」という物語文をもう一度取り上げてみよう。後に判明したところによれば、当の部隊は孤立した別の部隊からの支援要請があったにも拘らず奇襲作戦を強行し、対局の戦略を誤って味方に大損害を与えたとしよう。そうなれば、先には称賛に値する行為であった「奇襲作戦の提案」が、「私が提案した奇襲作戦は味方に大損害を与えた」という物語文のもとでは、非難されるべき軽率な行為に様変わりしていることがわかるであろう。ルーマニア革命の前後においてチャウシェスク大統領の評価が一変し、慌てて「過去」を修正した人々がいたことは記憶に新しい。歴史は絶えず生成と変化を続けていくリゾーム状の「生き物」なのである。
 このように言えば、直ちに次のような反問が返ってこよう。すなわち、それは過去の出来事の「評価」が変化しただけであり、過去の「事実そのもの」が変化したわけではない、と。だが、これが理想的な年代記作者の視点からの反論であることは、今さら指摘するまでもないであろう。コンテクストから孤立した純粋状態の「事実そのもの」は、物語られる歴史の中には居場所をもたない。脈絡を欠いた出来事は、物語的出来事ではあれ、歴史的出来事ではないのである。ある出来事は他の出来事との連関の中にしか存在しないのであり、「事実そのもの」を同定するためにも、われわれはコンテクストを必要とし、「物語文」を語らねばならないのである。
 過去の出来事E1は、その後に起こった出来事E2と新たな関係を結ぶことによって異なる観点から再記述され、新たな性質を身に帯びる。それゆえ物語文は、諸々の出来事の間の関係を繰り返し記述し直すことによって、われわれの歴史を幾重にも重層化して行く一種の「解釈装置」だと言うことができる。いわゆる「歴史的事実」なるものは、絶えざる「解釈学的変形」の過程を通じて濾過され沈澱していった共同体の記憶のようなものである。その意味で、大森荘蔵の言葉を借りるならば、歴史的記述とはまさに「過去の制作」にほかならないのである。
 歴史は超越的始点から記述された「理想的年代記」ではない。それは、人間によって語り継がれてきた無数の物語文から成る記述のネットワークのことである。そのネットワークは、増殖と変容を繰り返して止むことがない。言い換えれば、物語文はその本質において可謬的なのであり、クワインの周知のテーゼをもじるならば「いかなる物語文も修正を免れない」のである(このテーゼをクワインの「知識のホーリズム」になぞらえて「歴史のホーリズム」と呼ぶことができる)。そして、このネットワークに新たな物語文が付け加えられることによって、あるいはネットワーク内部のすでに承認された物語文が修正を被ることによって、ネットワーク全体の「布置」が変化し、既存の歴史は再編成されざるをえない。その意味において、過去は未来と同様に「開かれている」のであり、歴史は本来的に「未完結」なのである。
 人間は「物語る動物」あるいは「物語る欲望に取り憑かれた存在」である。それゆえ、われわれが「物語る」ことを止めない限り、歴史には「完結」もなければ「終焉」もありはしない。もし「歴史の終焉」をめぐる論議に何らかの意義があるとすれば、それは歴史の趨勢を予見する「超越論的歴史」に引導を渡し、歴史記述における「物語の復権」を促すというその一点にのみ存する、と言うことができる。それは同時に、歴史を「神の視点」から解放し、「人間の視点」へと連れ戻すことにほかならない。
 われわれは今、大文字の「歴史」が終焉した後の、「起源とテロスの不在」という荒涼とした場所に立っている。しかし、その地点こそは、一切のイデオロギー的虚飾を脱ぎ捨てることによって、われわれが真の意味での「歴史哲学」を構想することのできる唯一の可能な場所なのである。

 歴史とは政治でもあったのだ。

現在をコントロールするものは過去をコントロールする/『一九八四年』ジョージ・オーウェル
修正し、改竄を施し、捏造を加え、書き換えられた歴史が「風化」してゆく/『一九八四年』ジョージ・オーウェル

 歴史論議が過熱しやすいのは、国家のレゾンデートル(存在事由≒自我)を巡る議論であるためだ。

 記憶が編集を繰り返していることは脳科学でも明らかになっている。そもそも五官経由の情報を事実と思い込むこと自体が危ういのだ。実際は入力時点において情報の取捨選択がなされている。

フランス人に風鈴の音は聞こえない/『夢をかなえる洗脳力』苫米地英人

 神ならぬ身の人間は、一定の時間-空間的秩序の中で物を見、音を聴き、物事を知るほかはない。見聞きされた事柄はやがて忘却の淵へと沈み、意識の下層に沈澱する。それを再び記憶の糸をたぐって蘇らせようとするとき、われわれは知覚の現場で出会った出来事を残りなく再現することはできない。意識的であろうと無意識的であろうと、記憶それ自体が遠近法的秩序(パースペクティヴ)の中で情報の取捨選択を行い、語り継がれるべき有意味な出来事のスクリーニングを行っているのである。われわれは記憶によって洗い出された諸々の出来事を一定のコンテクストの中に再配置し、さらにそれらを時間系列に従って再配列することによって、ようやく「世界」や「歴史」について語り始めることができる。

 事実よりも文脈が重い。物語を支えるのは結構(※物を組み立てて、一つのまとまった組織・構造物・文章などを作り上げること。組み立て。構え。構成。〈『三省堂 大辞林』〉)である。そして人間の脳は物語に沿って構成されるのだろう。

 人間の時空的な存在性が実によくわかる。我々は既に宇宙的存在となっている。

 しかし、記憶の中にあるのは解釈学的変形を受けた過去の経験だけである。それが知覚的現在でないことはもちろん、知覚的現在と比較して模写の善し悪しを云々できるようなものでもないことは明らかであろう。当の知覚的現在はすでに存在しない以上、模写や比較という捜査はそもそも意味をなさないからである。想起とは「しかじかであった」ことを今現在思い出すことであり、思い出された事柄のみが「過去の経験」と呼ばれるのである。それゆえ、過去の経験は、常に記憶の中に「解釈学的経験」として存在するほかない。われわれは過ぎ去った知覚的体験そのものについて語っているのではなく、想起された解釈学的経験について過去形という言語形式を通じて語っているのである。「知覚的体験」を「解釈学的経験」へと変容させるこのような解釈学的変形の操作こそ、「物語る」という原初的な言語行為、すなわち「物語行為」を支える基盤にほかならない。
 人間の経験は、一方では身体的習慣や儀式として伝承され、また他方では「物語」として蓄積され語り伝えられる。人間が「物語る動物」であるということは、それが無慈悲な時間の流れを「物語る」ことによってせき止め、記憶と歴史(共同体の記憶)の厚みの中で自己確認(identify)を行ないつつ生きている動物であるということを意味している。無常迅速な時の移ろいの中で解体する自己に抵抗するためにこそ、われわれは多種多様な経験を記憶にとどめ、それらを時間空間的に整序することによってさまざまな物語を紡ぎ出すのである。記憶の女神ムネーモショネーがゼウスと交わって9人のムーサを、とりわけ叙事詩の女神カリオペーと歴史の女神クレイオーを生んだと考えた古代のギリシア人たちは、まさにその間の機微を知悉していたと言うべきであろう。
 しかしながら、現代においては、人間の「物語る」能力は著しく衰退しているように見える。かつては寝物語に枕辺で子供たちに「語り」聞かせるものであった昔話やお伽噺も、今では豪華な絵本を前に「読み」聞かせるものとなっている。炉端で自己の来歴と経験を虚実とりまぜながら物語ってきた老人たちは、すでに核家族の中にはその居場所を持たない。伝承され語り伝えられるべき経験は、今日では実用的な「情報」と化して書棚やフロッピー・ディスクの中に小ぢんまりと納まっている。現代における「物語る欲望」は、あたかもゴシップ・ジャーナリズムの占有物であるかのようである。

 私が一言で翻訳しよう。我々は「解釈世界」に生きる存在なのだ。「現実」が「解釈」されるものであることを見失ってはなるまい。目の前に世界が「有る」わけではない。認識されたものが世界であり、世界は解釈によって構築されるのだ。

人間が認識しているのは0.5秒前の世界/『進化しすぎた脳 中高生と語る〔大脳生理学〕の最前線』池谷裕二

 それゆえ、真実は「語る」ことと「騙る」ことの間にある、と言うべきであろう。この「眼ざめて見られる夢」を描き出すためにこそ、彼(※柳田國男)は市民社会の文学者となる道を捨て、民俗学者として口伝えの物語の世界へと分け入ったのである。

 この一言が凄い。今読んでも痺れる。これぞシビレエイである。事実の解釈は一人ひとり異なるものだ。そういう意味では皆がバラバラの世界に生きているといっても過言ではない。つまり「語る」は常に「騙(かた)る」をはらんでいるのだ。単純なウソやデマ、あるいは修飾や捏造という意味ではない。厳密にいえば誤解や錯覚を避けることのできない脳の属性であろう。

視覚の謎を解く一書/『46年目の光 視力を取り戻した男の奇跡の人生』ロバート・カーソン

 これでまだ本書の1/3程度の内容である。昂奮しすぎてしまった。野家はこれ以上ないというタイミングで中島敦を引用する。

 文字を覚える以前に比べて、職人は腕が鈍り、戦士は臆病になり、猟師は獅子を射損なふことが多くなった。(中島敦『文字禍』)

 当然のように『文字禍』を読む羽目となる。何という読書の至福であろうか。


言語的な存在/『触発する言葉 言語・権力・行為体』ジュディス・バトラー
父の権威、主人の権威、指導者の権威、裁判官の権威/『権威の概念』アレクサンドル・コジェーヴ