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2021-11-19

時間の連続性/『決定版 三島由紀夫全集36 評論11』三島由紀夫


三島由紀夫の遺言

 ・果たし得てゐいない約束――私の中の二十五年
 ・『an・an』の創刊
 ・時間の連続性

『あなたも息子に殺される 教育荒廃の真因を初めて究明』小室直樹
『三島由紀夫が死んだ日 あの日、何が終り 何が始まったのか』中条省平
『三島由紀夫の死と私』西尾幹二
『昭和45年11月25日 三島由紀夫自決、日本が受けた衝撃』中川右介
『三島由紀夫と「天皇」』小室直樹
『日本の名著27 大塩中斎』責任編集宮城公子

 今のこの世界の情勢といふものはハッキリいひますと「空間と時間」との戦ひだと思ひます。「何だ、三島は、随分何か迂遠(うえん)なことをいふではないか」と思はれるかも知れないが、私は全共闘に呼ばれて話をしに行きました時に、彼らと一番議論をしましたのは、この空間と時間の問題でありました。といふのは今はですね、大国あるひは反対勢力である共産主義も含めて……ひたすらこの「空間」といふことで戦つてゐるんです。この世界地図をご覧になれば判りますけれども、赤化勢力といふものはあれだけ大きな範囲を占めて地球の空間を真つ赤におほつてゐるし、一方では自由諸国といふものが、その空間を何とかして自分達のものに確保していかうと思つて、いろいろ、まあ核兵器を持つたり、あるひは代理戦争といふやうな形によつて辺境で戦争をしながら、相争つてゐる状態です。しかしながらその国際的な争ひは、あくまで空間をとり合つてゐるわけです。
 ところがこの地球上の空間を占めてゐる国の中にも一方では、反戦、自由、平和といつてゐる人達がをります。この人達は歴史や伝統などといふものはいらんのだ。歴史や伝統があるから、この空間の方々に国といふものが出来て、その国同士が喧嘩をしなければならんのだ。われわれは世界中一つの人類としての一員ではないか。われわれは国などといふものは全部やめて、「自由とフリーセックスと、そして楽しい平和の時代を造るんだ」と叫んでゐる。彼らには時間といふ観念がない。空間でもつて完全に空間をとらうといふ考へ方においては、彼らもまた彼らの敵と同じなのです。それでは、今日の人類を一体何が繋(つな)いできたのかといふことを論議し、つきつめてゆくと、結局最後には「時間」の問題に突き当たらざるを得ない。
 ところが今はどこの国でも、また国の内外においても全然かへりみてゐない。時間の問題を考へた人間は、段々駄目になつていく傾向さへある。例へば、ローマカトリック、これは段々信ずる人はゐなくなるのではないかといはれてゐる。天皇制、これもみんなフラフラになつて駄目になつちやふのではないかと心ある人は心配する。何故か? それは時間の連続性に対する人々の自覚が足りなくなつてゐるからです。
 世界は今この大国間の争ひにしろ、平和運動にしろ、ベ平連にしろ、何にしろ、結局は空間といふもので争つてゐるけれどもこれはまあ表面的な考へ方です。ところが人間といふものは決してそれだけではない。これは人間の非常に不思議なところで、私は最初に、「人間はパンのみで生きるものではない」と申しましたが、人間は空間のみで生きるものでもないのです。それが証拠には、私は最近ソビエト旅行をして先月帰つて来た人から昨日聞いた話ですが、今ソビエトで一番の悪口は何ん(ママ)だと思ひますか。ソビエトで人を罵倒(ばとう)する一番きたない言葉、それをいはれただけで人が怒り心頭に発する言葉は何だと思ひますか……私はロシア語を知りませんから、ロシア語ではいへませんが、「非愛国者だ」といふことださうです。さうすると一体これはどういふことなのかと不思議になります。その伝統を破壊し、連続性を破壊してゐる共産圏においてすら、現在は歴史の連続性といふものを信じなければ「愛国」といふ観念は出て来てないことに気付き、その観念のないところには共産国家といへどもその存立は危ぶまれるといふことを気付いたに違ひない。ですからこの「縦の軸」すなはち「時間」はその中にかくされてゐるんで、如何に人類が現在の平和をかち得たとしても、このかくされてゐる「縦の軸」がなければ平和は維持できない。それが現在の国家像であると考へられていいんです。
 ことに日本では敗戦の結果、この「縦の軸」といふのが非常に軽んじられてきてしまつた。日本は、この縦の軸などはどうでもいいんだが、経済が繁栄すればよろしい、そして未来社会に向つて、日本といふ国なんか無くなつても良い。みんな楽しくのんびり暮して戦争もやらず、外国が入つて来たら、手を挙げて降参すればいいんだ。日本の連続なんかどうなつてもいいではないか、歴史や文化などはいらんではないか、滅びるものは全部滅びて良いではないか、と考へる向きが非常に強い。さういふ考へでは将来日本人の幸せといふものは、全く考へられないといふことを、この一事をもつてしても共産国家が既に明白に証明してゐると私は思ひます。(私の聞いて欲しいこと 於済寧館 昭和45年5月28日)

【『決定版 三島由紀夫全集36 評論11』三島由紀夫〈みしま・ゆきお〉(新潮社、2003年) 】


 討論が行われたのは1969年(昭和44年)5月13日のこと。三島が東大全共闘から招かれた。学生運動は団塊の世代を中心とした戦争に対する一種の反動であった。参戦できなかったことや、戦禍の犠牲になったことが大いなる葛藤を生んだのは容易に想像がつく。戦前と戦後の価値観の顛倒(てんとう)、仕事の喪失、食うや食わずの生活といった混乱が青少年の心に空白をつくり、それが怒りや暴力に結びついたのだろう。大人を拒んだ彼らが三島にだけ心を開いたのは、嘘のない大人と認めた証拠であろう。

 三島はこの討論で「私が行動を起こすときは、結局諸君と同じ非合法でやるほかないのだ。非合法で、決闘の思想において人をやれば、それは殺人犯だから、そうなったら自分もおまわりさんにつかまらないうちに自決でもなんでもして死にたいと思うのです」と語った(現代社会にも響く言葉の力 「三島由紀夫VS東大全共闘」の見方 | Forbes JAPAN)。10.21国際反戦デー闘争 (1969年)で三島は、自衛隊の治安出動~楯の会決起を目論んでいた。新左翼の暴力は激化する一方であったが機動隊が鎮圧した(70年安保闘争の記録『怒りをうたえ!』完全版:宮島義勇監督)。いつでも自裁する準備ができていた三島は深く落胆する。知行合一(ちこうごういつ)をモットーとした三島が行動する学生たちに親近感を抱いていたのは確かだろう。しかしながら彼らは無責任であった。無論、本気で革命を目指したわけではなかったはずだ。そもそも大衆の支持を得ていなかった。彼ら自身、「革命ごっこ」の自覚があったように思う。

 因みに保守合同で自由民主党が誕生してからの衆議院獲得議席数は、

 287:1958年(昭和33年)
 296:1960年(昭和35年)
 283:1963年(昭和38年)
 277:1967年(昭和42年)
 288:1969年(昭和44年)

 となっており、改選議席数は467で、1967年と1969年は486である。投票率はいずれも70%前後。大多数の国民が自民党を支持した事実は重い。日本は敗戦の歴史を拭い去るべく経済一辺倒でひた走った。

 三島自身が監督・主演した映画『憂国』は1966年(昭和41年)に封切りされている。4年後には多くの日本人がまざまざと三島の割腹シーンを思い浮かべることになった。

 本講演は皇宮護衛官に向けて行われたもので、済寧館(さいねいかん)は皇居内の道場である。

 三島は1925年(大正14年)生まれで、昭和の年号がそのまま年齢となる。16歳で作家デビューし、20歳で敗戦を迎えた。『憂国』(1961年)と『英霊の聲』(1966年)で二・二六事件を新しい物語に書き換え、『奔馬 豊饒の海第二巻』で神風連を描いた。そして三島の精神を貫いていたのは陽明学であった。

 その45年の人生は「時間の連続性」という「縦の軸」を遡及(そきゅう)し、尊皇の誠は天皇陛下の人間宣言を批判するまでに至った。三島の人生は明治維新から二・二六事件に向かう日本そのものであった。

 GHQが主導した戦後教育は「時間の連続性」を見失わせるものだった。それは今日も尚続いている。だが敗戦から半世紀を経た頃から、「自虐史観を脱却せよ」との声が現れた。三島の死から四半世紀が経っていた。

 東大全共闘との対話を三島はこう締め括った。「言葉は言葉を呼んで、翼をもってこの部屋の中を飛び回ったんです。(中略)この言霊がどっかにどんな風に残るか知りませんが、その言葉を、言霊を、とにかくここに残して私は去っていきます」――。

  

2021-11-17

『an・an』の創刊/『決定版 三島由紀夫全集36 評論11』三島由紀夫


三島由紀夫の遺言

 ・果たし得てゐいない約束――私の中の二十五年
 ・『an・an』の創刊
 ・時間の連続性

『三島由紀夫が死んだ日 あの日、何が終り 何が始まったのか』中条省平
『三島由紀夫の死と私』西尾幹二
『昭和45年11月25日 三島由紀夫自決、日本が受けた衝撃』中川右介
『三島由紀夫と「天皇」』小室直樹
『日本の名著27 大塩中斎』責任編集宮城公子

アンアン創刊おめでたう

「アンアン」の創刊は、ヨーロッパの生活感覚と日本女性の生活感覚とをますます近づけるであらう。女が美しいことは、人生が美しいといふこととほとんど同義語だといふ、フランス人の確信が、日本にそのまま伝はることは大歓迎である。(初出 an・an 昭和45年3月20日)

【『決定版 三島由紀夫全集36 評論11』三島由紀夫〈みしま・ゆきお〉(新潮社、2003年) 】

 昭和45年(1970年)の評論と楯の会関連資料が収められている。11月25日に三島は割腹自決を遂げる(享年45歳)。女性誌への祝辞が三島人気を語ってあまりある。『an・an』の命名は黒柳徹子によるもの。三島が死を決意したのは3~4月と推測されている(割腹自殺によって“作品”を完成させた三島由紀夫 | nippon.com)。

 当時、私は小学1年だった。三島事件のことは記憶にない。思い出せるのは学生運動を嘲笑うかのように流行した「帰って来たヨッパライ」くらいだ。

 新たな女性誌の創刊は時代の変化を告げるものだ。しかしながら、男女共にジーンズというアメリカ由来の作業ズボンだらけとなる。高度経済成長で汗まみれになって働く父親の後ろ姿を見て育ったせいか。

2020-07-06

日本の伝統の徹底的な否定論者・竹内好への告発状 その正体は、北京政府の忠実な代理人(エージェント)/『悪魔の思想 「進歩的文化人」という名の国賊12人』谷沢永一


・『書斎のポ・ト・フ』開高健、谷沢永一、向井敏
・『紙つぶて(全) 谷沢永一書評コラム』谷沢永一
『「悪魔祓い」の戦後史 進歩的文化人の言論と責任』稲垣武
『こんな日本に誰がした 戦後民主主義の代表者・大江健三郎への告発状』谷沢永一

 ・進歩的文化人の正体は売国奴
 ・日本罪悪論の海外宣伝マン・鶴見俊輔への告発状 「ソ連はすべて善、日本はすべて悪」の扇動者(デマゴーグ)
 ・日本の伝統の徹底的な否定論者・竹内好(たけうち・よしみ)への告発状 その正体は、北京政府の忠実な代理人(エージェント)

『誰が国賊か 今、「エリートの罪」を裁くとき』谷沢永一、渡部昇一
『いま沖縄で起きている大変なこと 中国による「沖縄のクリミア化」が始まる』惠隆之介
『北海道が危ない!』砂澤陣
『これでも公共放送かNHK! 君たちに受信料徴収の資格などない』小山和伸
『ちょっと待て!!自治基本条例 まだまだ危険、よく考えよう』村田春樹
『自治労の正体』森口朗
『戦後教育で失われたもの』森口朗
『日教組』森口朗
『左翼老人』森口朗
・『売国保守』森口朗
『愛国左派宣言』森口朗

 ところで、近代シナ文学の研究者に竹内好(よしみ)という魁偉(かいい)な人物がいました。この人はシナ学を志したくせに、肝心なシナの古典については無学であり、無関心でしたが、それはともかくとして、自分の専攻である近代シナ文学に執着するあまり、近代シナが格別に秀でた国であると信じるようになりました。これまた一向に珍しくもない、ありふれた自然な経過です。
 ところが竹内好の場合は、近代現代のシナを崇敬し高く持ちあげるにとどまらないで、現代シナを尊重し称賛する思い入れを梃(てこ)に用いて、ひたすら、わが国を罵倒する放言に熱意を燃やしました。なにがなんでも、常に悉(ことごと)くシナは正しく清らかであり、そのご立派な尊敬すべきシナに較べて、なにがなんでも、すべて、必ず日本は劣っており間違っている、という結論が一律に導きだされました。
 その生涯を通じて竹内好は、日本に対して肯定的な評価を下したことがなく、彼にとって日本はあらゆる面において否定と非難の対象にしかすぎませんでした。反日的日本人という言葉ができるより遙(はる)か遙か昔、半世紀以上も前から、竹内好は筋金入りの反日的日本人でありました。

【『悪魔の思想 「進歩的文化人」という名の国賊12人』谷沢永一〈たにざわ・えいいち〉(クレスト社、1996年/改題『反日的日本人の思想 国民を誤導した12人への告発状』PHP文庫、1999年/改題『自虐史観もうやめたい! 反日的日本人への告発状』ワック、2005年)】

 私はつくづくこの12人の著作を読んでこなかったことを感謝した。加藤周一の「夕陽妄語」(せきようもうご/朝日新聞連載)に目を通した程度である。とにかく掴みどころのない文章で後に谷沢と向井敏が腐していたのを読んで溜飲を下げた憶えがある。丸山眞男の『現代政治の思想と行動』を読まねばと思ったのは30代になった頃だ。マルティン・ニーメラー牧師の言葉が引用された「現代における人間と政治」は避けて通れないと感じた。が、ついぞ読む機会がなかった。丸山については進歩的文化人の代表であることは動かないが、小室直樹が師事しており政治学者としては優れた見識の持ち主なのだろう。最後は学生運動に愛想を尽かした

 他人の悪口を読むのは後味の悪いものである。感情を一旦突き放して見つめる冷静さを欠くと醜悪な文章になりやすい。「この人はシナ学を志したくせに」は書き過ぎだ。抑制が利いていない。それでも本書が教科書本であるのは確かで、彼らの正体を知らずに著書と親しんでいる人も多いことと思われる。

 竹内好の本は何冊か持っていた。あまり記憶にないので多分売れたのだろう。悪い印象は持っていなかったので本書を読んで吃驚仰天(びっくりぎょうてん)した。中国人は客をもてなすのが巧い。たとえそれがカネや女であったとしても、誰に何を与えればどう動くかをきちんと読んでいる。毛沢東や周恩来が生き抜いてきた政争は日本の比ではない。周恩来の養女・孫維世〈そん・いせい〉は留置所で惨殺されている。

 文化大革命時代には、女優としての名声の高さと毛沢東との男女関係から江青の嫉妬を買い、迫害を受けた。孫維世は養父である周恩来が署名した逮捕状を以って、北京公安局の留置場に送られ、1968年10月14日に獄中で死亡した。遺体は一対の手枷と足枷のみ身に付けた全裸の状態であった。一説には江青が刑事犯たちに孫維世の衣服を剥ぎ取らせて輪姦させ、輪姦に参加した受刑者は減刑を受けたと言う。また、遺体の頭頂部には一本の長い釘が打ち込まれていたのが見つかった。これらの状況から検死を要求した周恩来に対し、「遺体はとうに焼却された」という回答のみがなされた。

Wikipedia

 周恩来には表の顔と裏の顔があったが、そうでもしなければとっくに失脚していたことだろう。

 アメリカと中国は、表面的には対立していても裏の情報世界ではもともとツーカーなんです。そもそもCIAの前身OSS時代には、長官ドノバンの命令でOSS要員が延安の共産党根拠地に出向いて、対日抗戦を支援していた。60年代の中ソ対立時代も米中はあらゆる場面で結託してソ連に対抗していたし、79年のソ連アフガニスタン侵攻で、ムジャヒディンを支援しタリバン政権を後押ししたのも、米中の情報機関です。スパイマスター周恩来によって育まれた中国共産党の情報機関、中央委員会調査部は胡耀邦総書記の時代、公安部の一部と合併、国家安全部として、現在では、かつてのソ連のKGBをしのぐ巨大組織になっています。

【『この国を支配/管理する者たち 諜報から見た闇の権力』中丸薫、菅沼光弘(徳間書店、2006年)】

 中国の手に掛かれば政治家はもとより作家・ジャーナリスト・学者などはイチコロだろう。子供に飴を与えるようなものだ。中国へ渡ると親中派になって帰国する人が多いのも当然だ。細君を伴わない政治家は確実に女を充てがわれていると見てよい。

 左翼は国家の伝統を破壊し漂白した後に社会主義の樹立を目論む。人権・平等・ジェンダーといった綺麗事に騙されてはならない。彼らは単なる破壊者なのだ。

2020-07-04

日本罪悪論の海外宣伝マン・鶴見俊輔への告発状  「ソ連はすべて善、日本はすべて悪」の扇動者(デマゴーグ)/『悪魔の思想 「進歩的文化人」という名の国賊12人』谷沢永一


・『書斎のポ・ト・フ』開高健、谷沢永一、向井敏
・『紙つぶて(全) 谷沢永一書評コラム』谷沢永一
『「悪魔祓い」の戦後史 進歩的文化人の言論と責任』稲垣武
『こんな日本に誰がした 戦後民主主義の代表者・大江健三郎への告発状』谷沢永一

 ・進歩的文化人の正体は売国奴
 ・日本罪悪論の海外宣伝マン・鶴見俊輔への告発状 「ソ連はすべて善、日本はすべて悪」の扇動者(デマゴーグ)
 ・日本の伝統の徹底的な否定論者・竹内好への告発状 その正体は、北京政府の忠実な代理人(エージェント)

『誰が国賊か 今、「エリートの罪」を裁くとき』谷沢永一、渡部昇一
『いま沖縄で起きている大変なこと 中国による「沖縄のクリミア化」が始まる』惠隆之介
『北海道が危ない!』砂澤陣
『これでも公共放送かNHK! 君たちに受信料徴収の資格などない』小山和伸
『ちょっと待て!!自治基本条例 まだまだ危険、よく考えよう』村田春樹
『自治労の正体』森口朗
『戦後教育で失われたもの』森口朗
『日教組』森口朗
『左翼老人』森口朗
・『売国保守』森口朗
『愛国左派宣言』森口朗

 この本(※鶴見俊輔著『戦時期日本の精神史 1931-1945』)を一貫する方針としていちばん目立つのは、共産主義ソ連が日本人に加えた仕打ちはことごとく正しくて、すべて日本人が悪いことをしたからそうなったのだという強烈な主張です。その姿勢を押しだした最も代表的な表現が、つぎの一句です。

 戦争が終ったとき(中略)ソビエト・ロシア領内に残されているはずの60万人が長いあいだ帰ってきませんでした。(134頁)

 まことにものは言いよう、ですなあ。共産主義ソ連が戦争終了にもかかわらず、捕虜を無法にも引っ捕えてシベリアに連行して監禁し、「長いあいだ」苛酷な強制労働を課した、この残忍な事実を、けっして事実として認めない、鶴見俊輔のこの熱烈な弁護の志向は感嘆に値します。共産主義ソ連が帰らせなかったのではなく、日本人が「帰ってきませんでした」と言いくるめる語法の見えすいた苦しさ。鶴見俊輔の言い方は、日本人捕虜60万人が60万人全員の意向によって帰りたくなかったのだとほのめかしているようにも受けとれます。
 しかも、このねじまげた論法は、実は、次のように述べたてるための伏線だったのです。

 60万人の人たちがまだ帰ってこないということは、戦後の日本人のあいだに不安と苛立たしさを生み、それが戦後の日本政府によって長い年月にわたって植えつけられてきた。また戦後新たに米国の占領軍政府によって取り除かれていない赤色恐怖と結びついて、戦後のひとつの潮流をつくり出しました。(134頁)

 つまり「帰ってきませんでした」ことを怨(うら)んだり嘆いたりしてはイケナイのです。そうですか、共産主義ソ連にもいろいろご事情がありましょうから、と平静に、安穏な気持ちで受けとめるべきだったんですねえ。それなのに国民が「不安と苛立たしさ」に赴(おもむ)いたものですから、そのため「戦後のひとつの潮流」、すなわち共産主義ソ連への反感が募ったのです。
 それは昔の「赤色恐怖と結びついて」いるイケナイ考え方であるぞよ、と鶴見俊輔は婉曲(えんきょく)に説教を垂れます。いかなる事情に基づくにせよ、いかなり理由があるにせよ、共産主義ソ連を憎んではならないんです。事態が発生した根源の理由は、ただもう絶対にただひとつ、日本人が、日本人だけが、ワルイことをしたのですから。

【『悪魔の思想 「進歩的文化人」という名の国賊12人』谷沢永一〈たにざわ・えいいち〉(クレスト社、1996年/改題『反日的日本人の思想 国民を誤導した12人への告発状』PHP文庫、1999年/改題『自虐史観もうやめたい! 反日的日本人への告発状』ワック、2005年)】

 文体が独特でとっつきにくいのだが、ひょっとすると小室直樹の影響かもしれない。1996年に刊行されているが「新しい歴史教科書をつくる会」の結成と同じ年だ。前年の大江健三郎批判本といい時代情況を思えば、その勇気を過小評価してはなるまい。

 私は鹿野武一〈かの・ぶいち〉の生きざまに強く影響を受け、深く感化された。日ソ中立条約を踏みにじってソ連が終戦間際のどさくさに紛れて日本を侵攻したこと、満州の地で日本人女性を強姦しまくったこと、そしてシベリア抑留を思えば、断じてロシアと友好条約を結ぶべきではないと考える。敗戦以降、経済を優先してきた成れの果てが現在の日本である。経団連を始めとする財界は労働力をコストと見なし、その削減のために外国人労働者をどんどん日本に呼ぼうと企んでいる。国の行く末を憂えるような経済人は皆無だ。自分の懐勘定しかできないような輩は国家に巣食う寄生虫のような存在だ。

 それにしても鶴見俊輔の文章は巧妙で老獪(ろうかい)の悪臭が漂う。左翼は自らの知識をもって嘘を真実(まこと)にする詐術に富んでいる。侮れないのは彼らが「物語の力」を理解している点だ。知識の悪用とコンプレックスの利用が左翼の得意技である。

 嘘を嘘と見抜くことが智恵の第一歩である。虚実を盛り込んだ左翼の言論に惑わされてはならない。





満州事変を「関東軍による陰謀」と洗脳する歴史教育/『愛国左派宣言』森口朗

2020-01-28

三島由紀夫の霊に捧ぐ/『高貴なる敗北 日本史の悲劇の英雄たち』アイヴァン・モリス


『国民の遺書 「泣かずにほめて下さい」靖國の言乃葉100選』小林よしのり責任編集
『大空のサムライ』坂井三郎
『父、坂井三郎 「大空のサムライ」が娘に遺した生き方』坂井スマート道子
『新編 知覧特別攻撃隊 写真・遺書・遺詠・日記・記録・名簿』高岡修編
『今日われ生きてあり』神坂次郎
『月光の夏』毛利恒之
『神風』ベルナール・ミロー

 ・三島由紀夫の霊に捧ぐ

日本の近代史を学ぶ

 三島由紀夫から、かつて次のように指摘された。君は日本の宮廷文化の優美とか光源氏の世界の静寂を称賛してきたが、その賛美を書くことで日本の民族性が持つ苛酷かつ峻厳そして悲壮な面を覆いかくしてはいないか、と言うのである。私はここ数年、短命な生涯を送り、しかもその生涯が闘争と動乱とに彩られた、現実社会に行動する人間群像に目をすえてきた。私の日本文化に対する見方に偏重があったとすれば、そうすることで均衡をもり返し得るのではないかと思う。以下の文章は、そのため、三島の霊に捧げられるべきものである。彼とは意見を異にすることが多かった。政治問題に関してとなると特にくい違うことが多かった。だが、考え方の相違が三島由紀夫に対する私の敬意と友情をそこなうことは、まったくなかった。

【『高貴なる敗北 日本史の悲劇の英雄たち』アイヴァン・モリス:斎藤和明訳(中央公論社、1981年)以下同】

「序」の冒頭で著者はこう記す。取り上げた英雄は日本武尊〈やまとたけるのみこと〉、捕鳥部万〈ととりべのよろず〉、有間皇子〈ありまのみこ〉、菅原道真源義経楠木正成天草四郎大塩平八郎西郷隆盛、そして神風特攻隊である(全10章)。


 英雄たる者の生涯とは、たとえいかにはなばなしい武勲に飾られようと、その最期が悲劇的でなければならない。日本の勇者たちはその生涯の幕の閉じ方を充分に心得ている。悲劇的最期とは浅薄な思考や誤算から、あるいは精神や肉体に欠陥があり持久力がないから、またある偶然の不運からもたらされるものではない。むろんそれらの要因が皆無であるとは言えまい。だがしかし、何よりも現世における英雄の生涯を支配する前世からの宿縁(カルマ)のため自力では避けることができない悲劇があって、英雄にふさわしい最期がもたらされるのである。宿縁のため彼は悲惨な運命を受け入れて生きる。
 そこで英雄たる者の不可欠の条件とは、その崇高な最期に対する覚悟であることになる。英雄は最期を迎えるための自らの行動の細目一切をわきまえていなければならない。日ごろから心の用意を備えて、生存本能のためその他人間の弱点のため、最後の瞬間に失態を演じてはならない。また、英雄は、生涯の最終点での、自らと自らの運命との間の火花散る対決こそ勇士たる者の人生に最大の意味を持つ出来事だということを知っている。勝目がいかに少ない苦闘であろうと彼は戦いを中断してはならない。最後の段階にいたって彼は自らの責務を、勇士にふさわしい死をもって完遂しなければならない。それによって彼のその死にいたるまでの努力と犠牲的行為とが初めて正当性を持つようになる。もしその死に方を誤ったならば、それまでの自己の生涯に意味を与えてきたすべての努力と功績は嘲笑の的にすぎなくなろう。そのため英雄たる者はつねに死ぬことを考えて生きねばならない。

 時代と戦い、時代を開くのが英雄の使命だ。そして英雄は潔く次代の犠牲となるのだ。英雄とは生き様であり死に様でもある。英雄は走り続け天翔(あまが)ける流れ星のように消えてゆく。三島は英雄たらんと欲して悲劇を選んだ。

 大きな事故や災害が起こると英雄が次々と登場する(『生き残る判断 生き残れない行動 大災害・テロの生存者たちの証言で判明』アマンダ・リプリー)。社会には自己犠牲を犠牲と思わぬ人々が一定数存在する。見る人が見れば普段から惜し気(げ)もなく親切な振る舞いをしていることに気づくだろう。

 誰も見ていなければこれ幸いと手を抜く。そんな輩は英雄的行為と無縁だ。いざとなれば年寄りや子供を踏みつけても逃げようとするに違いない。

 三島が死んだのは1970年(昭和45年)のこと。学生はヘルメットをかぶり鉄パイプを振り回して学業を放棄していた。大人たちは高度成長の甘い汁を吸いながら冷めた眼で世間を眺めていた。三島の割腹自決はニュースの一つに過ぎなかった。この国は小野田寛郎〈おのだ・ひろお〉の帰還もニュースとしてしか受け止めなかった。アイヴァン・モリスの誠実を思わずにはいられない。

 今年は三島の死から半世紀となる。三島の魂は震え続けて後に続く若者の登場を待っている。

2020-01-16

進歩的文化人の正体は売国奴/『悪魔の思想 「進歩的文化人」という名の国賊12人』谷沢永一


・『書斎のポ・ト・フ』開高健、谷沢永一、向井敏
・『紙つぶて(全) 谷沢永一書評コラム』谷沢永一
『「悪魔祓い」の戦後史 進歩的文化人の言論と責任』稲垣武
『こんな日本に誰がした 戦後民主主義の代表者・大江健三郎への告発状』谷沢永一

 ・進歩的文化人の正体は売国奴
 ・日本罪悪論の海外宣伝マン・鶴見俊輔への告発状 「ソ連はすべて善、日本はすべて悪」の扇動者(デマゴーグ)
 ・日本の伝統の徹底的な否定論者・竹内好への告発状 その正体は、北京政府の忠実な代理人(エージェント)

『誰が国賊か 今、「エリートの罪」を裁くとき』谷沢永一、渡部昇一
『いま沖縄で起きている大変なこと 中国による「沖縄のクリミア化」が始まる』惠隆之介
『北海道が危ない!』砂澤陣
『これでも公共放送かNHK! 君たちに受信料徴収の資格などない』小山和伸
『ちょっと待て!!自治基本条例 まだまだ危険、よく考えよう』村田春樹
『自治労の正体』森口朗
『戦後教育で失われたもの』森口朗
『日教組』森口朗
『左翼老人』森口朗
・『売国保守』森口朗
『愛国左派宣言』森口朗

〈戦後の学界、言論界の大ボス・大内兵衛(おおうち・ひょうえ)への告発状〉
第二章 「日本は第二次大戦の主犯」と言う歴史の偽造家

〈日本罪悪論の海外宣伝マン・鶴見俊輔(つるみしゅんすけ)への告発状〉
第三章 「ソ連はすべて善、日本はすべて悪」の扇動者(デマゴーグ)

〈戦後民主主義の理論的指導者(リーダー)・丸山眞男(まるやま・まさお)への告発状〉
第四章 国民を冷酷に二分する差別意識の権化(ごんげ)

〈反日的日本人の第一号・横田喜三郎(よこた・きさぶろう)への告発状〉
第五章 栄達のため、法の精神を蹂躙(じゅうりん)した男

〈進歩的文化人の差配人・安江良介(やすえ・りょうすけ)への告発状〉
第六章 金日成に無条件降伏の似非(えせ)出版人

〈「進歩的インテリ」を自称する道化・久野収(くの・おさむ)への告発状〉
第七章 恫喝(どうかつ)が得意な権力意識の化身

〈進歩的文化人の麻酔担当医・加藤周一(かとう・しゅういち)への告発状〉
第八章 祖国をソ連に売り渡す“A級戦犯”

〈日本の伝統の徹底的な否定論者・竹内好(たけうち・よしみ)への告発状〉
第九章 その正体は、北京政府の忠実な代理人(エージェント)

〈マスコミを左傾化させた放言家・向坂逸郎〈さきさか・いつろう)への告発状〉
第十章 最も無責任な左翼・教条主義者

〈現代の魔女狩り裁判人・坂本義和(さかもと・よしかず)への告発状〉
第十一章 日本を経済的侵略国家と断定する詭弁家(きべんか)

〈ユスリ、タカリの共犯者・大江健三郎(おおえ・けんざぶろう)への告発状〉
第十二章 国家間の原理を弁(わきま)えない謝罪補償論者

〈進歩的文化人の原型・大塚久雄(おおつか・ひさお)への告発状〉
第十三章 近代日本を全否定した国賊

【『悪魔の思想 「進歩的文化人」という名の国賊12人』谷沢永一〈たにざわ・えいいち〉(クレスト社、1996年/改題『反日的日本人の思想 国民を誤導した12人への告発状』PHP文庫、1999年/改題『自虐史観もうやめたい! 反日的日本人への告発状』ワック、2005年)】

 錚々(そうそう)たる顔ぶれで谷沢永一の本気が伝わってくる。1990年代は戦後教育の毒がまだ抜けていなかった。小泉訪朝で北朝鮮が拉致(らち)を認めた2002年から東日本大震災(2011年)までの10年間で日本人はようやく目覚めた。この時、民主党政権であったことが国民にとっては二重の不幸であった。菅直人は国旗・国歌に反対する真性の左翼で「君が代」を絶対に歌わない政治家だった。2009年に政権をとった民主党は2012年の暮れに下野する。国民が寄せた期待は無残かつ最悪の形で潰(つい)えた。

 冒頭の一文を紹介しよう。

 戦後50年です。その間、総体として言えば、日本の社会的な風潮は、先の大東亜戦争のため、多大の罪悪感を持つように、国民を引きずり回してきました。
 しかも、この傾向が一段と高まったのは、時間が進むにつれての“押しつけ”だったのです。すなわち、日韓基本条約昭和40年)と日中平和条約昭和53年)によって、国際関係の諸問題が解決し、国交がきちんと正常化したそのあとから、京城政府および北京政府に、平身低頭すべきであるという時流が強まったのです。まことに、おかしな根拠のない思い込みでした。
 そのため、中華人民共和国や大韓民国などアジアの諸国が、先の大戦にまつわるさまざまな言い掛かりを突きつけてきたとき、その言い分を無条件に受け入れるという習慣が生まれました。それも、正規の外交ルートを通じての公式な申し入れではないのです。一方的な放言として、わが国を攻撃したり、いわゆる不快の意を憎々しげに表明したり、新聞の論調で喚(わめ)きたてたり、という手口でした。すべて、近代国家としての正式な手続きを経ない非公式な恫喝(どうかつ)だったのです。
 それにもかかわらず、わが国のその時その時の政府は、それこそ無条件で頭を下げ、相手側の言い分を全面的に認めて、拝跪(はいき)する姿勢を通してきました。政府よりもっとひどかったのは、新聞とテレビによるわが国の言論界だったのです。本来なら、国民の意向を反映すべきはずの言論界が、一部の国を売る輩(やから)に乗っ取られてしまいました。
 これら言論界を牛耳(ぎゅうじ)っている連中が、北京政府や京城政府の立場に立って、彼らの言い分を増幅してがなりたてる代理人となり、日本にだけ非があると囃(はや)し立てたのです。彼らは日本の国益を代弁するという、当然そうあるべき使命を投げ捨て、その逆に、相手側の国の利益になるように言論を組み立てました。
 他国の利益を重んじて他国の代弁者となり、自分の国の大切な国益を損なう行為に突き進む者、これを「売国奴」と呼ぶのが正当でありましょう。

 日中共同声明(1972年)はよく憶えている。私は小学校3年生だった。担任の先生が昂奮した面持ちで教室に入ってくるなり、「今凄いニュースがあった。中国と日本が仲直りした」と告げた。

 今振り返ると中国は実に巧妙であった。左派政党ではなく公明党を使って国交回復を打診したのだ。キッシンジャーの極秘訪中(1971年)という呼び水もあった。田中角栄首相は飛びついた。「ビンのふた」論も知らずに。

米中国交回復のためにアメリカは沖縄を返還した/『この世界でいま本当に起きていること』中丸薫、菅沼光弘
李承晩の反日政策はアメリカによる分割統治/『この国を呪縛する歴史問題』菅沼光弘

 日本人は近代史を学ぶことを禁じられたも同然だった。戦後教育は東京裁判史観に染まっていた。結局のところGHQの蒔(ま)いた種が中国・韓国という花を咲かせたということなのだろう。

 そして中韓の反日運動が日本人にとって目覚まし時計の役割を果たすのだから歴史というものは一筋縄ではゆかないものである。



中国の核実験を礼賛した大江健三郎/『脱原発は中共の罠 現代版「トロイの木馬」』高田純

2020-01-12

進歩的文化人の仄めかし話法/『こんな日本に誰がした 戦後民主主義の代表者・大江健三郎への告発状』谷沢永一


・『書斎のポ・ト・フ』開高健、谷沢永一、向井敏
・『紙つぶて(全) 谷沢永一書評コラム』谷沢永一
『「悪魔祓い」の戦後史 進歩的文化人の言論と責任』稲垣武

 ・反日売国奴の原型・藤原惺窩
 ・進歩的文化人の仄めかし話法

『悪魔の思想 「進歩的文化人」という名の国賊12人』谷沢永一
『誰が国賊か 今、「エリートの罪」を裁くとき』谷沢永一、渡部昇一
『いま沖縄で起きている大変なこと 中国による「沖縄のクリミア化」が始まる』惠隆之介
『北海道が危ない!』砂澤陣
『これでも公共放送かNHK! 君たちに受信料徴収の資格などない』小山和伸
『ちょっと待て!!自治基本条例 まだまだ危険、よく考えよう』村田春樹
『自治労の正体』森口朗
『戦後教育で失われたもの』森口朗
『日教組』森口朗
『左翼老人』森口朗
・『売国保守』森口朗
『愛国左派宣言』森口朗

 そこで進歩的文化人はそろって暗示論法を用いた。いわゆる仄(ほの)めかしの語法である。絶対に揚(あ)げ足をとられない口ごもりの発声である。天皇制打倒などとは口がさけても言わない。ひたすら皇室をあてこする。遠まわしに皮肉を並べる。用心深いことこのうえなしであった。
 たとえば大塚久雄(おおつか・ひさお/経済史学者、東大名誉教授)は、社会主義とも共産主義とも言いたくなかった。それらの言葉を用いた途端に底が割れるからである。そこで、よく考えた戦術として、「近代化」という聞こえのいい名称を活用することにした。日本はまだ近代化していない、と国民を叱りつけたのである。
 言葉面(づら)だけを受けとれば、そんな無茶苦茶な話はない。しかしこの近代化というあいまいなめいじは符牒(ふちょう)であった。のちに自分で解説するところによれば、彼の言う近代化なる用語は、実は、「社会主義への移行をも含めるようなものだったのである」そうな。大塚久雄が唱えた近代化のすすめとは、本当は、社会主義化のすすmであったのだ。それをかくして近代化、近代化とふりまわすのが、暗示論法の身上なのである。

【『こんな日本に誰がした 戦後民主主義の代表者・大江健三郎への告発状』谷沢永一〈たにざわ・えいいち〉(クレスト社、1995年/ワニ文庫、1999年)】

 肚(はら)の底から唸るように「ウム」と私は首肯した。顎が胸にのめり込んだほどだ(ウソ)。「仄めかし話法」とは言い得て妙だ。念頭に浮かぶのは佐藤優、姜尚中〈カン・サンジュン〉、森達也など。筑紫哲也〈ちくし・てつや〉はそのものと言ってよい。衣鉢を継ぐのは金平茂紀〈かねひら・しげのり〉か。TBSの「サンデーモーニング」も典型だ。彼らは答えを隠して疑問を口にする。「おかしいのではないでしょうか?」「疑問があると言わざるを得ません」「果たして国民は納得するのでしょうか?」ってな具合である。

 敗戦から21世紀に至るまで「愛国心」は禁句となった。他方、レッドパージ(1950年/昭和25年)以降、左翼は表立って共産主義革命を叫ぶことができなくなった。ゾルゲ事件シベリア抑留の影響も見逃せない。

 学生運動は終戦前後に生まれた若者たちによる一過性の暴発であった。それが証拠に60年安保(日米安保改定)後の選挙では自民党が圧勝している。国民は暴れ回る大学生ではなく岸信介を支持したのだ。とはいうものの新聞・テレビは学生運動に理解を示し、好意的な報道を続けた。こうしたムードの中で赤軍派によるよど号ハイジャック事件(1970年/昭和45年)が起こり、北朝鮮への拉致につながるのである(『宿命 「よど号」亡命者たちの秘密工作』高沢皓司)。

 簡単なリトマス試験紙を用意しよう。

 1.憲法改正をするべきではない。
 2.女系天皇を容認する。
 3.外国人参政権を認める。
 4.国旗・国歌に反対する。
 5.夫婦別姓に賛成する。

 すべて該当すれば真性左翼であり、純粋シンパといってよい。その他、政治家に関しては親中派・親韓派と親米派に大きく分かれる。独立派・自立派は今のところ現実的ではない。もしも有力代議士の中でそんなのがいたら田中角栄のように葬られることだろう。

2019-12-01

絵画のような人物描写/『時流に反して』竹山道雄


『昭和の精神史』竹山道雄
『竹山道雄と昭和の時代』平川祐弘
『見て,感じて,考える』竹山道雄
『西洋一神教の世界 竹山道雄セレクションII』竹山道雄:平川祐弘編
『剣と十字架 ドイツの旅より』竹山道雄
『ビルマの竪琴』竹山道雄
『竹山道雄評論集 乱世の中から』竹山道雄
『歴史的意識について』竹山道雄
『主役としての近代 竹山道雄セレクションIV』竹山道雄:平川祐弘
『精神のあとをたずねて』竹山道雄

 ・昭和19年の風景
 ・絵画のような人物描写

『みじかい命』竹山道雄

竹山道雄著作リスト

 ある日のこと、私はいまは共に故人となられた岩元、三谷両先生がここを登って来られるのにゆきあった。両先生ともにこの登りが苦しそうだった。意外に思っている私を見て立ちどまり、私が降りてゆくのを微笑をうかべてうず高い石塊の上に立って待たれた。一人はつよく澄み、他はきよく澄みきった瞳をして、並んでいられた。
「いまな、柳君の民芸館に琉球のものを参観してきたのよ」と岩元先生が、いささかなまりのつよく館や観をはっきりクヮンと発音しながら、よく響く声でゆっくりといわれた。
 老先生は片眉を下げて前屈みになったまま、光が束になって発しているような眼差しや、はげしい意力のあらわれた下唇に微笑を浮べて、先生の癖で、相手の体をまじまじと見ながら話された。三谷先生はこの頃からますます全身が霊化して、スピリットのような感じを増してゆかれたが、この日も息づかいが苦しそうに、薄い外套が肩に重そうだった。しばらく立ち停まって話の末、私は両先生に夕飯のお伴をすることとなり、両先生の学校の用をすませてから、50銭の円タクをつかまえた。
 その夕は主として岩元先生が元気よく話された。話題はきわめて広かった。「ホメアのオデュッセイアにある豚汁とわたしの国の薩摩汁とは、調理の法が同じじゃ。大きな鉄の鍋があってのう……」「西郷が戦死した城山の戦の鉄砲の音を、わたしは子供のとき鹿児島できいた」「床次は禅をやった。それで進退の責任感がないのじゃ。禅をやるとそうなる」「田中の世話でヴァチカン法王庁からトマス・アクイノズンマ・テオロギカを送ってもらって幸せしてる」――こんな言葉を断片的に憶えている。一体岩元先生はあれほど厳格な激しい気性の方であり、随分極端な伝説の主でありながら、近く接して圭角といったようなものをついに示されたことがなかったのは、不思議なくらいだった。むしろヘレニストでありエピキュリアンである一面をよく示された。
 三谷先生はこれという話題をもって人に談ずるということはない方であった。しかも、先生ほどその何気ない言葉が相手の(求むるところのある若い人の)魂の底に浸みこんで、そこに火花を点じ、襟を正さしめ、同心せしめ、生涯の転機とすらなった人は、他にはけっしてなかった。この混沌として解きがたい世界人生にも何か動かすべらからざる真実があることを身を以て証(あか)しする人――傍らにいてそんな気のする人であった。(「空地」)

【『時流に反して』竹山道雄(文藝春秋、1968年)】

 入力することが喜びにつながる稀有な文章である。まるで絵画のような人物描写だ。テキストで描かれた印象派といってよいだろう。

 検索したところ岩元禎〈いわもと・てい〉と三谷隆正のようだ。どちらも大物である。Wikipediaによれば岩元は「夏目漱石の『三四郎』に登場する広田先生のモデルであるとする説がある」。三谷は内村鑑三の弟子で「一高の良心と謳われた」とある。

 空地の西側にある坂道のスケッチである。今は亡き一高の元老を描くことで政界の元老がいなくなったことを浮き彫りにしようとしたのだろうか。あるいは戦後に向かって戦前の校風を書き残そうとしたのだろう。

 老人は歴史の生き証人である。上京してから数年後のこと、私にも元老と呼べる存在のご老人がお二方あった。手に負えない問題を抱えて困り果てた時は必ずどちらかを頼った。涙を落とすほど厳しいことを言われたこともある。私の祖父母は既に亡くなっていたが、血がつながっていればこうした関係を結ぶことは難しかったことだろう。敬愛できる長老を知り得たことはその後の人生を開く鍵となった。

 以下に巻末資料を掲載しておく。書籍になっていないテキストも多い。












リベラル派が日本海軍をダメにした/『悪の運命学 ひとを動かし、自分を律する強者のシナリオ』倉前盛通


『小室直樹vs倉前盛通 世界戦略を語る』世界戦略研究所編
『悪の論理 ゲオポリティク(地政学)とは何か』倉前盛通
『新・悪の論理』倉前盛通
『西洋一神教の世界 竹山道雄セレクションII』竹山道雄:平川祐弘編
『情報社会のテロと祭祀 その悪の解析』倉前盛通
『自然観と科学思想』倉前盛通
『悪の超心理学(マインド・コントロール) 米ソが開発した恐怖の“秘密兵器”』倉前盛通

 ・リベラル派が日本海軍をダメにした

『悪の戦争学 国際政治のもう一つの読み方』倉前盛通
『悪の宗教パワー 日本と世界を動かす悪の論理』倉前盛通

日本の近代史を学ぶ
必読書リスト その四

 大体、学校の成績などというものは、専ら左脳の言語と論理の領域の働きできまるものである。しかし武人として一番大事な決断力、直観力、動物的カン、総合判断力、創造性、臨機応変の発想転換、勇気、冒険心、一見無謀に見えることでもその背後に活路があることを見抜く力、敵の陥穽の察知、その他、一流の軍人としての主な資質はほとんど右脳の非言語的分野の守備範囲である。
 陸士や兵学校や陸軍大学、海軍大学等でトップクラスだった者は往々にして、言語分野の勉強にかたよりすぎて、軍人として一番大事な右脳の活動能力を低下させてしまうおそれがある。
 それが今次大戦の戦場で多くの将軍や提督たちが失態を演じた最大の原因であろう。決して、単なる運、不運の問題ではなかった。多くの人々の反撥を買うかもしれぬが、私は米内光政山本五十六井上成美という提督たちは、その意味では結局一流の武人ではなかったのかもしれないと思っている。
 一流の大将であったか、二流の大将であったかをきめるという「はからい」そのものが、ある意味ではきわめて不遜なことであるが、井上成美大将自身がそれをされていたようであるから敢えていうが、軍人は戦場でどのような戦(いくさ)をしたかによって、その評価はきまるべきものである。武運の強い人もあろうし、武運拙い人もあろう。しかし、武運拙く下手な戦さをした軍人は、その人がいくらリベラルな思想の持主であろうが、人間的に良い人であろうが、武人としては二流、三流の評価に甘んじなければならない。
「あの相撲取りは相撲は弱いですが、人柄が良いし、リベラルな思想の持主だから一流の力士です」
 などという評価は、世の中には通用しまい。少しくらい強情でも相撲に強いのが一流の力士ではないのか。
 私が常に奇怪に思うことは、米内、山本、井上というリベラル派の提督たちが日本海軍の主流を握って以来、明らかに日本海軍の運命慣性はマイナスの方向へ流され始めたように思われることである。あるいは、日本海海戦であまりにも見事な勝利を得たことで海軍の戦略思想にかたよりがあったかもしれぬ。しかし、世界で最初に航空艦隊を保有したのも日本であったはずだ。試行錯誤は日本も米国も同じようにやっている。責任を古い海軍の将星に転嫁するのは卑怯というものだろう。
 もちろん、陸軍がシナ大陸で無謀な消耗戦を何年も続けて国力を消耗したことが、日本そのものの命運を狂わせた最大の原因かもしれぬが、その一番困難な時期に海軍の首脳が揃って、いわゆるリベラル派で占められたことは不幸であった。しかも、これらの人々には過去の海軍の先輩たちを悪しざまに批判することで自分たちの立場を弁護しようとする傾向があったように見える。それは武人のとるべき態度ではない。
 軍人は勝たねばならぬ。勝てない戦とわかっていたなら、三人揃って腹でも切って日米戦の不可を断乎主張すべきであったはずだ。はじめから深層の無意識で敗北のシナリオを描きながら、ずるずると戦争に入りこんでしまったのではないのか。それがリベラル派などと称される人々の弱さであり、武将として二流に堕しやすい原因である。
 まして、ロンドン軍縮会議に反対したから東郷元帥は二流の軍人だったなどとは、珊瑚海海戦で下手な戦をした井上成美大将は口が裂けてもいうべきではなかった。
 戦後の日本海軍に対する評価は、多分にアメリカ海軍の見方に左右されている。米海軍としては、日本海軍にとってマイナスのシナリオを書いた人々を、リベラルで立派な提督だったと賞讃するだろう。
 しかし、それは米海軍の勝手であって、日本人としての評価は、いかにして米海軍と良い勝負をしたかという視点から、大東亜戦争の武人の評価はなされるべきである。

【『悪の運命学 ひとを動かし、自分を律する強者のシナリオ』倉前盛通〈くらまえ・もりみち〉(プレジデント社、1983年)】

 先に桜井章一著『運に選ばれる人 選ばれない人』(2004年)を読んでおくといいだろう。

 私自身はあまり運不運を意識したことはない。ただ人との出会いには恵まれてきた方だと思う。特に20代から30代にかけて尊敬できる先輩と知遇を得たことは大きな財産となった。

 歴史を振り返ると運不運を感じることは少なくない。特に二・二六事件から大東亜戦争まで日本は不運の連続であった。倉前盛通は明治維新後に生まれた陸軍士官学校・海軍兵学校出身のエリートがその原因であったと言い切る。学生時代の序列を引きずる日本とは異なりアメリカが実力主義だったことを思えば、人事という点においても日本は既に敗れていた。

 昔は、陸士(陸軍士官学校)や海兵(海軍兵学校)を何番で出たか、その後の陸軍や海軍の大学校を何番で出たかで出世が決まった。そんな連中が仕切った戦争は、ことごとく現場を無視した机上の空論ばかりで、無残な大敗を喫した。

【『56歳でフルマラソン 62歳で100キロマラソン』江上剛〈えがみ・ごう〉(扶桑社文庫、2017年)】

 倉前は海軍出身で、陸軍よりも海軍組織の方が柔軟性に優れ、戦後を見据えて人材を確保したことも高く評価している(これらの人々が戦後の工業を支えた。ソニーなど)。その上で米内、山本、井上を批判しているのだ。

 悪しきエリート主義は東大法学部に受け継がれて日本を蝕み続ける。試験が得意な彼らが現実を見誤り、政策をミスリードし、失われた20年を30年にまで引き延ばそうとしている。武士であれば切腹は避けられない。

 国を憂える人はどこにいるのだろうか?

2019-11-16

昭和19年の風景/『時流に反して』竹山道雄


『昭和の精神史』竹山道雄
『竹山道雄と昭和の時代』平川祐弘
『見て,感じて,考える』竹山道雄
『西洋一神教の世界 竹山道雄セレクションII』竹山道雄:平川祐弘編
『剣と十字架 ドイツの旅より』竹山道雄
『ビルマの竪琴』竹山道雄
『竹山道雄評論集 乱世の中から』竹山道雄
『歴史的意識について』竹山道雄
『主役としての近代 竹山道雄セレクションIV』竹山道雄:平川祐弘
『精神のあとをたずねて』竹山道雄

 ・昭和19年の風景
 ・絵画のような人物描写

『みじかい命』竹山道雄

竹山道雄著作リスト

   1
 樅の木と薔薇
 蓮池のほとりにて
 磯

   2
 若い世代
 空地
 昭和十九年の一高

   3
 学生事件の見解と感想
 門を入らない人々

   4
 ベルリンにて
 モスコーの地図

   5
 白磁の杯

   6
 焼跡の審問官
 妄想とその犠牲
 聖書とガス室

   7
 昭和の精神史

  あとがき

   編注
   初稿発表覚え書

   主要発表一覧
   著訳書一覧



 あのころは遠くの山脈も今よりははっきり見えたような気がする。日によっては、光を浴びた雪山がすぐまぢかに迫って聳り立っているように思われたこともあった。(「空地」)

【『時流に反して』竹山道雄(文藝春秋、1968年)】

 巻末資料に「向陵時報 19.6.16稿」とある。向陵時報は旧制一高の寮内新聞のようだ(資料所蔵先)。うろ覚えだが「空地」の他は既出の文章であったと思う。

 場面展開がクルクルと変わる随筆でつかみどころがないように感じるが、確実に敗戦へ向かう国情が偲(しの)ばれる。しかもそれぞれのエピソードを空地でつないで国土に仮託している。上記テキストも「将来の見通しが立たなくなった日本」を静かに描くものだ。あとがきで「厭戦気分もこれ以上には書くことはできなかった」と心情を吐露している。

『時流に反して』とのタイトルが実に竹山らしく戦中・戦後の文筆もさることながら、刊行された1968年が学生運動の真っ盛りであることを踏まえれば二重の意味で迫ってくるものがある。

時流に反して (1968年) (人と思想)
竹山 道雄
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2019-09-11

反日売国奴の原型・藤原惺窩/『こんな日本に誰がした 戦後民主主義の代表者・大江健三郎への告発状』谷沢永一


・『書斎のポ・ト・フ』開高健、谷沢永一、向井敏
・『紙つぶて(全) 谷沢永一書評コラム』谷沢永一
『「悪魔祓い」の戦後史 進歩的文化人の言論と責任』稲垣武

 ・反日売国奴の原型・藤原惺窩
 ・進歩的文化人の仄めかし話法

『悪魔の思想 「進歩的文化人」という名の国賊12人』谷沢永一
『誰が国賊か 今、「エリートの罪」を裁くとき』谷沢永一、渡部昇一
『いま沖縄で起きている大変なこと 中国による「沖縄のクリミア化」が始まる』惠隆之介
『北海道が危ない!』砂澤陣
『これでも公共放送かNHK! 君たちに受信料徴収の資格などない』小山和伸
・『ちょっと待て!!自治基本条例 まだまだ危険、よく考えよう』村田春樹
『自治労の正体』森口朗
・『日教組』森口朗
・『左翼老人』森口朗
・『売国保守』森口朗

 どうか、この日本へ攻め込んできてくださいと、隣(となり)の国の朝鮮の捕虜に、熱心に頼み込んだ日本人がいた。豊臣秀吉の時代である。
 その男の名は藤原惺窩(せいか)という。有名な藤原定家(ていか)の12世の子孫である。宋(そう)の朱子の学問に敬服して儒教の徒となった。近世期における文京の祖と称せられる。

【『こんな日本に誰がした 戦後民主主義の代表者・大江健三郎への告発状』谷沢永一〈たにざわ・えいいち〉(クレスト社、1995年/ワニ文庫、1999年)以下同】

 読みにくい本である。行間から嫌悪や憎悪が滲んでいる。それでも読まなくてはならぬ一冊だ。ノーベル文学賞を受賞した大江健三郎を真っ向から批判した勇気を侮ることはできない。進歩的文化人を真正面から批判した嚆矢(こうし)が稲垣武著『「悪魔祓い」の戦後史 進歩的文化人の言論と責任』(文藝春秋、1994年)であるとすれば、本書はそれに続く第二弾といってよい。尚、「新しい歴史教科書をつくる会」が結成されたのは本書が出た翌年の1996年である。

 バブル景気が崩壊した後の1990年代半ばは日本にとって一種の真空地帯ともいうべき時期で、第二次橋本政権が構造改革を推進し(1996年)、1997年には村山内閣で内定していた消費税の増税(3%から5%へ)を実施した。ここから日本経済はデフレに陥る。国民はバブルの余韻から目覚めることができなかった。

 1990年にはワールド・ワイド・ウェブ(WWW)が構築され、Windows95や98の発売が大きなニュースとなった。一方では「右も左もない」という言葉がまことしやかに語られていたが、他方では自虐史観を糾弾する人々を右翼と蔑んでいた。

 日本が繁栄から転落に差し掛かるまさにそのタイミングで大江健三郎がノーベル文学賞を受賞した(1994年)。後になって振り返れば日本分断工作と思えなくもない。左翼に大きな発言権を与えることでバブル崩壊のダメ押しをしたのだろう。

 この悲惨な実態が、藤原惺窩には一切合財(いっさいがっさい)なにも見えなかった。彼は儒教社会のタテマエだけを信じた。書物によって伝えられる表向きの外面(そとづら)をまるごと信じて疑わなかった。愚かな妄想にとらわれたのである。どこかの外国が、実態をひたかくしにして、自国を飾り立てるための美辞麗句(びじれいく)を弄(ろう)するのを信じたとき、その国が極楽浄土のように見える。そうして、いったんある外国を無条件に崇(あが)めたとき、かえりみて我が国はダメだと蔑(さげす)み卑(いや)しむ見方が生まれる。その侮(あなど)りが極端に達すると、我が国はその理想の国によって統治されたほうがよいと考えるに至る。我が国を他国に売り渡したいと念じるようになる。その人は反日的日本人となる。売国奴(ばいこくど)となる。まことに情(なさけ)ない事態だけれど、この藤原惺窩と同じ考え方をする連中が、のちの世にもまた現れるのである。

 谷沢永一は藤原惺窩という反日売国奴の原型を通して現代の左翼の心性を炙(あぶ)り出す。「儒教社会のタテマエ」を信じる藤原惺窩と「共産主義の理想」を信じる左翼の姿が寸分の狂いもなくピッタリと重なる。死に絶えたと思われていた左翼は21世紀に入り、ネトウヨという言葉を掲げて再び蘇った。全共闘世代と戦後教育に毒されてきた常識人たちは「リベラル」と称して、自由な言動で日本を不自由にしようと目論んだ。

 1990年代に昂然と立ち上がった保守派の中でも渡部昇一〈わたなべ・しょういち〉、谷沢永一、小室直樹の3人は際立っている。



中国の核実験を礼賛した大江健三郎/『脱原発は中共の罠 現代版「トロイの木馬」』高田純

2019-07-24

死ぬ覚悟があるのなら相手を倒してから死ね/『国家と謝罪 対日戦争の跫音が聞こえる』西尾幹二


『国民の歴史』西尾幹二
『日本文明の主張 『国民の歴史』の衝撃』西尾幹二、中西輝政
『三島由紀夫の死と私』西尾幹二

 ・「戦争責任」という概念の発明
 ・岡崎久彦批判、「つくる会」の内紛、扶桑社との騒動
 ・死ぬ覚悟があるのなら相手を倒してから死ね

岡崎久彦

 一般に戦後のある時期まで、社会の中にある野生の暴力が役立っていた。必ずしも非合法組織の事ではない。村には青年団があり、上級生は生意気な下級生に鉄拳制裁を加えた。教師の体罰も有効な抑止力だった。街角で「いじめ」を見て、普通の市民が介入し、叱責した。
 いつの頃からか「刺されるから止めておこう」に変わった。教師も見て見ぬ振りで、事なかれ主義になった。その頃から「いじめ」は学校の中で密室化し、陰惨になり、何が起こっているのか見えにくくなった。
 昔は「いじめ」はいくら激しくても、それで自殺する者はいなかった。「いじめ」は子供が大人になる通過儀礼のようなものであった。そこで心が鍛えられ、友情や裏切りを知り、勇気や卑劣の区別も悟り、社会を学ぶ教育効果もあった。
 暴力を制するには暴力しかない。教師の体罰を許さないような今の学校社会が「いじめ」による自殺を増加させている。「いじめ」の密室化を防ぐには社会の中の野生の暴力をもう一度甦らせるしかなく、「生命を大切にしてみんな仲良く」といったきれいごとの教訓では、見て見ぬ振りの無責任と同じである。
 追い込まれた子供が自殺するのは復讐のためであると聞く。一度死んだら蘇生できないという意識がまだ幼くて希薄で、死ねば学校や社会が騒いでくれて仕返しができると考えての自殺行為であるという。
 であるとすれば、死んだら仕返しも何もないということを広く教育の中でまず教える事である。それから、これが何より大切だが、死ぬ覚悟があるのなら相手を倒してから死ね、と教える事である。
 仕返しや復讐の心に囚われている子供、しかも社会の中に自分を助けてくれる有効な暴力がない子供に(だから自殺に追い込まれたのだろうが)、仕返しや復讐はいけないことだという人道主義や無抵抗主義を教えるのは、事実上自殺への誘いである。
 まずは正当防衛としての闘争心を説く。学校の先生がそれを教える。いじめられっ子に闘争心が芽生えれば、もう自殺はしない。防衛は生命力の証である。

【『国家と謝罪 対日戦争の跫音が聞こえる』西尾幹二〈にしお・かんじ〉(徳間書店、2007年)】

 私は1963年(昭和38年)生まれで中学生の時に校内暴力が社会問題化し、二十歳(はたち)になる頃は新人類と呼ばれた世代である。昭和40年代に入ると三世代同居がなくなり核家族化が進んだ。共働きの家はほとんどなかったと記憶するが、片親で家の鍵を持つ児童は「鍵っ子」という寂しい蔑称で呼ばれていた。西尾幹二は1935年(昭和10年)生まれだから私の父親よりも年上である。

 今時は殴り方も知らないような教師がいるので体罰を容認するのは危険だ。介護と同様、閉ざされた世界で振るわれる暴力はちょっとした弾みでどんどん過激になる。私の世代だと拳骨やビンタは珍しいことではなかったが教育効果があったようには思えない。あまり怖くもなかったし、かえって大人のくせにみっともないなと見下していた。

 高校の先生は大半が運動部OBということもあってそれは恐ろしかった。「オウ、大人をナメてんじゃねーぞ!」と言うなりボコボコにされることもあった。運動部の1年生はほぼ毎日ヤキを入れられるのでこれは堪(たま)ったものではない。OBと先輩には絶対服従というのが運動部の伝統であった。

 私の父親も手が早かった。二十歳を過ぎても殴られていたよ。友人の前でやられたことも何度かある。確かにブレーキにはなるのだがただ怖いだけだ。警察につかまるよりもオヤジにバレるのが怖いというのが本音だった。それくらい怖かった。10年ほど前に死んだが今でも怖いよ(笑)。

 当然ではあるが私は外で喧嘩をし、家では弟妹をいじめた。こうなるから暴力はダメなんだよね。

 江戸時代までは武士道があった。幼い頃から死ぬ覚悟を叩き込まれ、責任を取る時は腹を切るのが当たり前とされた。柴五郎〈しば・ごろう〉の幼い妹は懐剣を見せて「いざ大変のときは、わたしもこれで黄泉路(よみじ)に行くのよ」と語った。その妹は会津戦争のさなか母親に胸を突かれて7歳で死んだ(『守城の人 明治人柴五郎大将の生涯』村上兵衛)。

「死ぬ覚悟があるのなら相手を倒してから死ね」とのメッセージはまったくもって正しい。どんな手を使っても構わない。知恵と悪知恵の限りを尽くして悪人を叩き伏せることが社会の向上につながる。「理不尽ないじめをすれば殺される可能性がある」となれば、いじめは激減することだろう。



大阪産業大学付属高校同級生殺害事件
両親の目の前で強姦される少女/『女盗賊プーラン』プーラン・デヴィ

2019-07-23

岡崎久彦批判、「つくる会」の内紛、扶桑社との騒動/『国家と謝罪 対日戦争の跫音が聞こえる』西尾幹二


『国民の歴史』西尾幹二
『日本文明の主張 『国民の歴史』の衝撃』西尾幹二、中西輝政
『三島由紀夫の死と私』西尾幹二

 ・「戦争責任」という概念の発明
 ・岡崎久彦批判、「つくる会」の内紛、扶桑社との騒動
 ・死ぬ覚悟があるのなら相手を倒してから死ね

岡崎久彦

 この日は珍しい来賓があった。岡崎久彦氏である。
 岡崎氏は私が名誉会長であった間は(※「新しい歴史教科書をつくる会」の)総会に来たことがない。多分気恥かしいひけ目があったからだろう。彼は「つくる会」創設時にはスネに傷もつ身である。すなわち最初の頃はずっと理事に名を出していたが、会発足の当日に会に加わるものはもの書きの未来に災いをもたらすと見て、名を削ってくれと申し出て来た。つまり夏の夜のホタルのように甘い水の方に顔を向けてフラフラ右顧左眄(うこさべん)する人間なのだ。それならもう二度とつくる会に近づかなければいいのに、多少とも【出世した】つくる会は彼には甘い水に見えたらしい。こんど私が会場に姿を見せなくなったら、厚かましくも突然現れた。

【『国家と謝罪 対日戦争の跫音が聞こえる』西尾幹二〈にしお・かんじ〉(徳間書店、2007年)以下同】

「必読書」から「資料本」に変えた。カテゴリーとしての資料本(しりょうぼん)とは必読書を鵜呑みにしないためのテキストである。謂わばワクチン本といってよい。

(※米議会で靖国神社遊就館の展示に変更を求めたハイド委員長〈共和党〉の意見は)靖国とナチスの墓地を同列に置くような低レベルの内容であるが、戦史展示館「遊就館」の展示内容を批判し、「次期首相」の参拝中止を求めている記事(毎日新聞、9月15日付)内容は、岡崎久彦氏が8月24日付産経コラム「正論」で、「遊就館から未熟な悪意ある反米史観を廃せ」と先走って書いたテーマとぴったり一致している。やっぱりアメリカの悪意ある対日非難に彼が口裏を合わせ、同一歩調を取っていたというのはただの推理ではなく、ほぼ事実であったことがあらためて確認されたといってよいだろう。岡崎久彦氏は「親米反日」の徒と昔から思っていたが、ここまでくると「媚米非日」の徒といわざるを得ないであろう。

 政治的な意味のリベラルは地に落ちた。かつては是々非々を表したこの言葉は既に左翼と同義である。ポリティカル・コレクトネスという牙で日本の伝統や文化を破壊するところに目的がある。その後、リアリズム(現実主義)という言葉が重宝されるようになった。そしてリアリズムが行き過ぎると岡崎久彦のような論理に陥ってしまうのだろう。国家の安全保障を米軍に委ねるのが日本国民の意志であるならば、用心棒に寄り添い、謝礼も奮発するのが当然という考え方なのだろう。

 かつてのコミンテルン同様、CIAも日本人スパイを育成し第五列を強化している。大学生のみならず官僚までもが米国留学で籠絡(ろうらく)されるという話もある。学者や評論家であれば米国内で歓待して少しばかり重要な情報を与えれば感謝感激してアメリカのために働く犬となることだろう。日本人には妙なところで恩義を感じて報いようとする心理的メカニズムがある。

 岡崎久彦がアメリカに媚びるあまり歴史の事実をも捻じ曲げようとしたのが事実であれば売国奴といってよい。しかも日本民族の魂ともいうべき靖国神社に関わることである。リアリストというよりは第五列と認識すべきだろう。

 中西輝政氏は直接「つくる会」紛争には関係ないと人は思うである。確かに直接には関係ない。水鳥が飛び立つように危険を察知して、パッと身を翻(ひるがえ)して会から逃げ去ったからである。けれども会から逃げてもう一つの会、「日本教育再生機構」の代表発起人に名を列(つら)ねているのだから、紛争と無関係だともいい切れないだろう。(中略)
 中西氏は賢い人で、逃げ脚が速いのである。いつでも「甘い水」を追いかける人であることは多くの人に見抜かれている。10年前の「つくる会」の創設時には賛同者としての署名を拒んだだけでなく、「つくる会」を批判もしていたが、やがて最盛時には理事にもなり、国民シリーズも書き、そして今度はまたさっと逃げた。

 本書には「つくる会」の内紛、扶桑社との騒動にまつわる詳細が書かれている。月刊誌に掲載された記事が多いこともあるが、よくも悪くも西尾幹二の生真面目さが露呈している。私の目には政治に不慣れな学者の姿が映る。それゆえに西尾は不誠実な学者を許せなかった。自分との距離に関係なく西尾は批判を加えた。

 西尾はチャンネル桜でも昂然と安倍首相批判を展開している。年老いて傲岸不遜に見えてしまうが、曲げることのできない信念の表明である。そこには周囲と巧く付き合おうという姿勢が微塵もない。

国家と謝罪―対日戦争の跫音が聞こえる
西尾 幹二
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2019-07-20

「戦争責任」という概念の発明/『国家と謝罪 対日戦争の跫音が聞こえる』西尾幹二


『国民の歴史』西尾幹二
『日本文明の主張 『国民の歴史』の衝撃』西尾幹二、中西輝政
『三島由紀夫の死と私』西尾幹二

 ・「戦争責任」という概念の発明
 ・岡崎久彦批判、「つくる会」の内紛、扶桑社との騒動
 ・死ぬ覚悟があるのなら相手を倒してから死ね

岡崎久彦

 敗戦国ドイツの代表は27に及ぶ戦勝国の首脳の居並ぶ前で、傲然と次のように言い放った。
「われわれはドイツの武力が崩壊したことを知っており、はげしい憎悪の前に立たされていることも知っている。われわれは戦争の唯一の罪人であることを告白するよう要求されている。しかしそのような告白を私がするならば、それは虚言をなすことになるだろう。この世界大戦が惹起した責任を回避する気はすこしもない。だが、ドイツとその国民だけが有罪だということをわれわれは否認する。……」
 ドイツ代表の名は外務大臣ブロックドルフ=ランツァウ伯。彼は偏狭なナショナリストではなく、古い家系をもつ誇り高いドイツ貴族であった。
 第一次世界大戦の終結にあたり、フランス代表のクレマンソーが口火を切っていわゆるヴェルサイユ条約を突きつけてきた、そのときの最初の発言である。
 第二次世界大戦の終結に際しては、ドイツという国家は解体して存在しなかった。逃亡した戦争指導者たちは次々と追求逮捕され、ドイツ国民は全員奴隷として強制労働につかされる可能性さえ論じられていた。第一次大戦ではそのようなことはない。ドイツは主権国家として存続していた。丁度日本が第二次世界大戦の降伏後も辛うじて国家でありつづけていたのと同様である。
 第一次世界大戦はまだそれまでの欧州の戦争、ナポレオン戦争普墺戦争普仏戦争と同じような性格を残していた所以だが、今から考えるとすでに第二次大戦を予感させるような特徴もいくつか見てとれる。まず第一に、ドイツへの制裁の基礎となった条約231条において「戦争責任」が問われていることである。しかも「国際的道徳に対する最高の罪」として皇帝ヴィルヘルム2世の軍事法廷への引き渡しが要求された。連合軍は800人の戦犯を名指し、その中には有名なルーデンドルフ将軍をはじめ貴族、政治家、学者、士官、兵まであった。「戦争中の残虐行為の罪」を犯した者を引き渡せという要求もあった。従来の国際法にも国際慣行にもまったく例がなく、ドイツ首相ヴィルトはこれを公式に拒絶した。それでもイギリス首相ロイド・ジョージはしつこく、戦犯断罪の裁判を継続して要求、1年有余をかけたドイツ国内の裁判ですべて無罪、あるいは公判中止となって終った。
 それにしても、「戦争責任」という言葉が生まれたことも、国家意志で行われた戦争への責任を個人に求めるということも、ついぞ例がなく、ドイツ国民には屈辱であり、衝撃であったに相違ない。
 第二次大戦後の日本はまだ「辛うじて国家」だったと先に書いたが、第一次大戦後のドイツのように、戦犯引き渡しを拒否する力は持っていなかった。郷里にいったん生還した将兵までがインドネシアやフィリピンに連れ戻され、BC級戦犯の名で処刑された悲劇はよく知られる。残虐罪は現地政府の裁きに委ねるという第二次大戦後のドイツの戦犯に対する報復の形式が踏襲された結果である。
 東京裁判において弁護団は、戦争それ自体は正当な国家行為で、犯罪ではないとの正論をもって弁護に当った。国家意志で行われた戦争の責任を個人に求めるのは国際法に違反しているという論法も使われた。ニュルンベルク裁判でも同じ論法があった。しかしアメリカが中心となった両裁判ではこの論点ははなからほとんど無視された。
 それもそうであろう。あまり気づかれていないことだが、すでに第一次世界大戦において、国際法にも国際慣行にもまったく例のない「戦争責任」の概念が出現していたのである。
 ヴェルサイユ会議において、「戦争責任」を言うならばそれは戦勝国にもある、ドイツは力尽きて敗れただけで「国際的道徳への罪」を問われるいわれはない、と堂々と拒否の姿勢を示したブロックドルフ=ランツァウ伯の言は、今の私が考えてみても正しい。日本の過去の戦争に対する立言もかくあるべきだという論証が本論の主旨である。

【『国家と謝罪 対日戦争の跫音が聞こえる』西尾幹二〈にしお・かんじ〉(徳間書店、2007年)】

 二度の大戦をヨーロッパ内戦と捉えると戦争概念が大きく変わったことに気づく。西側を中心とするヨーロッパにはギリシャ哲学とキリスト教という共通思想がある。そこに「外交のルール」が生まれる。つまり「国家としての理窟」である。

 世界史を複雑にする微妙な問題は行間という行間に人種差別が散りばめられていることに起因する。そこに日本とアメリカという新たなプレイヤーが参加したのだ。

「戦争とは他の手段をもってする政治の継続である」とクラウゼヴィッツは喝破したがそれは白人の政治に限られる。有色人種国家はただ奪われるだけの存在であった。白人帝国主義は大航海時代(15世紀半ば)に始まり日露戦争(1904-5年)~大東亜戦争(1937-45年)まで続いた。

 1937年(昭和12年)、フランクリン・ルーズベルト大統領は「病人(※侵略者)を隔離する」と宣言した(隔離演説)。翌1938年には声明で日本を名指しする。1940年(昭和15年)、航空機用燃料を西半球以外へは全面禁輸にし、加えて屑鉄も禁輸とした。1941年(昭和16年)、日本の在米資産凍結・石油の対日全面禁輸が行われ、日本は12月8日に英領マレー半島と真珠湾を攻撃するに至る。

 アメリカによる日米通商航海条約の破棄(1939年)を受けて日本政府は蘭印と経済交渉をした(第二次日蘭会商)。蘭印は迫りくる日本に対して可能な限り妥協してみせた。英米の軍事援助が見込めなかったためだ(戦前期日本の海外資源確保と蘭領東インド石油 1940年の日蘭石油交渉と蘭印の対日石油輸出方針を中心に:張允貞〈チャン・ユンチョン〉戦前期日本の海外石油確保と蘭領東インド石油)。

 つまり、石油以外の軍需物資の要求量が大きかったため、オランダ側は日本の同盟国であるドイツに軍需物資が流れることを懸念し、日本側の要求の全ては容認しなかったために交渉が不成立に終わったということがわかる。なお、来栖自身はオランダ側の容認した通りに調印しておけば石油物資の欠乏は避けられたのではないかと考察している。

ABCD包囲網考【5】・オランダとの交渉経過 - royalbloodの日記

 そのオランダにアメリカが圧力を掛けてABCD包囲網は完成した。

 まず話し合う。で、まとまらなければ戦争をする。なぜなら「戦争とは他の手段をもってする政治の継続である」からだ。ここで当時の政治判断を論(あげつら)うことは容易(たやす)い。だが近代史を俯瞰すれば、黒船来航~三国干渉を経て臥薪嘗胆(がしんしょうたん)を合言葉に耐えて耐えて耐え抜いてきた国民感情が噴出したと見るべきだろう。

 第一次世界大戦におけるジョルジュ・クレマンソーのドイツに対する苛烈な姿勢が後のヒトラーを誕生させるのは広く知られた歴史のエピソードである。圧力は時に爆発を招く。1940年6月10日、ナチス・ドイツの侵攻によってパリが陥落する。

 第二次世界大戦の敗戦国は「戦争責任」という戦勝国にとって便利な概念で裁かれた。ここで一つ注意を喚起しておきたいことは、ナチス・ドイツが行ったユダヤ人を中心とする大量虐殺と戦争行為は分けて考える必要があるということだ。それはそれ、これはこれである。勝利した連合国はニュルンベルク裁判東京裁判という茶番劇で確固たる戦後レジームを構築した。

 国際連合は「United Nations」の訳語だが直訳すれば「連合国」である。第二次世界大戦の枠組みを変えるのは第三次世界大戦なのだろうか? そうかもしれないし、そうでないかもしれない。

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2019-02-21

「聖書とガス室」/『人間について 私の見聞と反省』竹山道雄


『竹山道雄と昭和の時代』平川祐弘
『昭和の精神史』竹山道雄
『見て,感じて,考える』竹山道雄
『西洋一神教の世界 竹山道雄セレクションII』竹山道雄:平川祐弘編
『剣と十字架 ドイツの旅より』竹山道雄
『ビルマの竪琴』竹山道雄

 ・「聖書とガス室」

『竹山道雄評論集 乱世の中から』竹山道雄
『みじかい命』竹山道雄
『歴史的意識について』竹山道雄
『主役としての近代 竹山道雄セレクションIV』竹山道雄:平川祐弘編

   I

 聖書とガス室
 キリスト教とユダヤ人問題

   II

 ペンクラブの問題
 『竹山道雄の非論理』
 ものの考え方について

   III

 ソウルを訪れて
 高野山にて
 四国にて
 西の果の島

   IV

 死について
 人間について

 あとがき

【『人間について 私の見聞と反省』竹山道雄(新潮社、1966年)以下同】

 初出誌については「あとがき」に記載されている。

(ゴッドを神と訳したことから、たいへんな誤解や混同がおこったので、キリスト教の神をゴッドと書くことにする。ゴッドと古事記にでてくる神とは、まったく別物である。また、教皇とか回勅とかいうのはいい訳語ではなく、これは天皇を擬似絶対者としたころの政治的風潮のまちがった絶対者観をあてはめたのだろう。さらに、神父というのも奇妙な言葉で、自分は神なる父であると名のる人があるのはおかしい。牧師というのはひじょうにいい言葉だと思うが)(「聖書とガス室」/『自由』昭和38年7月)

「聖書とガス室」は本書以外だと、『竹山道雄著作集5 剣と十字架』(福武書店、1983年)と『西洋一神教の世界 竹山道雄セレクションII』平川祐弘〈ひらかわ・すけひろ〉編(藤原書店、2016年)にも収められている。

 私が竹山道雄を敬愛してやまないのは文学者でありながらもキリスト教を鋭く見据えたその眼差しにある。文明史的な批判は「西洋に対する極東からの異議申し立て」といっても過言ではない。

 昭和38年(1963年)7月は私が生まれた月である。「7月」と表記されているが多分「7月号」なのだろう。内容もさることながら私を祝福してくれているような錯覚に陥る。

 カミの語源は「隠れ身」であるという(『性愛術の本 房中術と秘密のヨーガ』2006年)。漢字の「神」はツクりの「申」が稲妻を表す。闇を切り裂く雷光を神の威力と見ることは我々にとっても自然だ。「申」が「もうす」という意味に変わったため、お供えを置く高い台を表す「示」(示偏〈しめすへん〉)を添えて「神」という文字ができた(第3回 自然に宿る神(1) | 親子で学ぼう!漢字の成り立ち)。

 キリスト教は砂漠から生まれたが、日本人は豊かな自然に恵まれている。彼らは過酷な環境を憎み支配の対象としたが、我々は大自然と共生しながら大地と海の恵みに感謝を捧げた。一神教と多神教を分けるのは環境要因なのだろう。

キリスト教における訳語としての「神」

 フランシスコ・ザビエルは当初、ゴッドを「大日」と約し、その後「デウス」に変えた(日本のカトリックにおけるデウス)。「キリスト教は、聖書に基づく人間観、世界観、実在観を教義として整備していくために、主にプラトンとアリストテレスの哲学を摂取して利用した 」(キリスト教54~プラトンとアリストテレス - ほそかわ・かずひこの BLOG)。それゆえ「大日」との訳はそれほど見当違いであったわけではない。大日とは仏教におけるイデア思想であろう。

 日本人からすれば一神教(=アブラハムの宗教)は異形の宗教である。

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2019-02-16

果たし得てゐいない約束――私の中の二十五年/『決定版 三島由紀夫全集 36 評論11』三島由紀夫


三島由紀夫の遺言

 ・果たし得てゐいない約束――私の中の二十五年
 ・『an・an』の創刊
 ・時間の連続性

『三島由紀夫が死んだ日 あの日、何が終り 何が始まったのか』中条省平
『三島由紀夫の死と私』西尾幹二
『昭和45年11月25日 三島由紀夫自決、日本が受けた衝撃』中川右介
『三島由紀夫と「天皇」』小室直樹
『日本の名著27 大塩中斎』責任編集宮城公子

 私の中の二十五年間を考へると、その空虚に今さらびつくりする。私はほとんど「生きた」とはいへない。鼻をつまみながら通りすぎたのだ。
 二十五年前に私が憎んだものは、多少形を変へはしたが、今もあひかはらずしぶとく生き永らへてゐる。生き永らへてゐるどころか、おどろくべき繁殖力で日本中に完全に浸透してしまつた。それは戦後民主主義とそこから生ずる偽善といふおそるべきバチルスである。

【果たし得てゐいない約束――私の中の25年
〈初出〉サンケイ新聞(夕刊)・昭和45年7月7日
 私の中の二十五年〈初刊〉「蘭陵王」・新潮社・昭和46年5月
『決定版 三島由紀夫全集 36 評論11』三島由紀夫(新潮社、2003年)
『文化防衛論』(ちくま文庫、2006年)以下同】

 三島由紀夫の文学に興味はない。国家が左翼に染まる中で日本の伝統と歴史を取り戻すために、一人立ち上がり、叫び、そして死んでみせた男の存在が、私の内部でどんどん大きくなってきた。三島が自刃したのは4ヶ月後の11月25日である。

 三島は大正14年(1925年)生まれなので年齢は昭和の年号と一致する。すなわち「私の中の二十五年」とは戦後の二十五年を意味する。

 民主という名の無責任が平和憲法の偽善と重なる。国家の要である国防を他国に委(ゆだ)ね、安閑と経済的繁栄にうつつを抜かす日本を彼は許せなかった。既に国際的な名声を確立し、国内では「天皇陛下の次に有名な人物」と評された。まさしくスーパースターといってよい。壮年期の真っ盛りにあって仕事は成功し、政治にコミットし、肉体を鍛え上げ、国防(民間防衛)のために青年たちを組織した。理想を実現した人物であった。

 そんな彼だからこそ満たされぬ渇(かわ)きは深刻だったのだろう。「鼻をつまみながら通りすぎた」との一言に哀切を感じるのは私だけではあるまい。人生という作品を成功だけで終わらせてしまえば陳腐なドラマになってしまう。

 それよりも気にかかるのは、私が果たして「約束」を果たして来たか、といふことである。否定により、批判により、私は何事かを約束してきた筈だ。政治家ではないから実際的利益を与へて約束を果たすわけではないが、政治家の与へうるよりも、もつともつと大きな、もつともつと重要な約束を、私はまだ果たしてゐないといふ思ひに日夜責められるのである。

 プライドは誇り・自尊心・自負心と訳される。「武士は食わねど高楊枝」というのはまさしくプライドであろう。その裏側には痩せ我慢が貼り付いている。責任はプライドよりも重い。世の中の混乱は無責任に端を発するといっても過言ではない。政治家や官僚の無責任はもとより、教師や親に至るまで自分の責任を真剣に考えることは少ない。

 三島が痛切に感じた自責の念は「日本人」として生まれた者の責任感であったのだろう。

 二十五年間に希望を一つ一つ失つて、もはや行き着く先が見えてしまつたやうな今日では、その幾多の希望がいかに空疎で、いかに俗悪で、しかも希望に要したエネルギーがいかに厖大であつたかに唖然とする。これだけのエネルギーを絶望に使つてゐたら、もう少しどうにかなつてゐたのではないか。
 私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行つたら「日本」はなくなつてしまふのではないかといふ感を日ましに深くする。日本はなくなつて、その代はわりに、無機的な、からつぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであらう。それでもいいと思つてゐる人たちと、私は口をきく気にもなれなくなってゐるのである。

 最後の一言が長く私の心に引っ掛かっていた。これは多分、藤原岩市〈ふじわら・いわいち〉と山本舜勝〈やまもと・きよかつ〉に向けたものだろう。三島にとって最大の理解者でありながらもクーデターを共にすることはなかった。

「無機的な、からつぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国」との予言に戦慄を覚える。三島の視線は現在をも射抜いている。

 三島の死後、自宅書斎の机上から、本文が掲載されたサンケイ新聞夕刊の切抜きと共に、「限りある命ならば永遠に生きたい. 三島由紀夫」と記した書置きが発見されている。

Wikipedia

 三島は死して永遠の存在となった。日本がある限り、三島の魂が朽ちることはないだろう。