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2014-06-15

所有と自我/『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳


『日常語訳 ダンマパダ ブッダの〈真理の言葉〉』今枝由郎訳
『ブッダの真理のことば 感興のことば』中村元訳
『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一話』アルボムッレ・スマナサーラ
『原訳「法句経」(ダンマパダ)一日一悟』アルボムッレ・スマナサーラ
・『法句経』友松圓諦
・『法句経講義』友松圓諦
・『阿含経典』増谷文雄編訳
・『『ダンマパダ』全詩解説 仏祖に学ぶひとすじの道』片山一良
・『パーリ語仏典『ダンマパダ』 こころの清流を求めて』ウ・ウィッジャーナンダ大長老監修、北嶋泰観訳注→ダンマパダ(法句経)を学ぶ会
『日常語訳 新編 スッタニパータ ブッダの〈智恵の言葉〉』今枝由郎訳

 ・犀の角のようにただ独り歩め
 ・蛇の毒
 ・所有と自我
 ・ブッダは論争を禁じた

『スッタニパータ [釈尊のことば] 全現代語訳』荒牧典俊、本庄良文、榎本文雄訳
『原訳「スッタ・ニパータ」蛇の章』アルボムッレ・スマナサーラ
『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ
『慈経 ブッダの「慈しみ」は愛を越える』アルボムッレ・スマナサーラ
『怒りの無条件降伏 中部教典『ノコギリのたとえ』を読む』アルボムッレ・スマナサーラ
『小説ブッダ いにしえの道、白い雲』ティク・ナット・ハン
『ブッダが説いたこと』ワールポラ・ラーフラ
・『ブッダとクリシュナムルティ 人間は変われるか?』J・クリシュナムルティ
ブッダの教えを学ぶ



「お前は何を持っているのだ?」――我々は社会で常に問われる。出自、学歴、職業(勤務会社)、スキル(資格・技術)、地位、財産、家族を。社会はヒエラルキーを構成する。相手の位置を常に確認するのが我々の流儀だ。

「ひとはじぶんでないものを所有しようとして、逆にそれに所有されてしまう。より深く所有しようとして、逆にそれにより深く浸蝕される。ひとは自由への夢を所有による自由へと振り替え、そうすることで逆にじぶんをもっとも不自由にしてしまうのである」(『悲鳴をあげる身体』鷲田清一)。所有物が自我を形成する。思い出の品が私を規定する。認知症になれば記憶は瓦解する。私が私であることを証明するのは思い出の品に他ならない。物は残せる。私が死んだ後まで。

 マニアを証明するものはコレクションだ。そんな関係と似ている。コレクションが増えるにつれてこだわりも増す。年を重ねるごとに自我意識も強化されるはずだ。私とは私の過去だ。

 ヒエラルキーを登り詰めることが人生の目的であれば、我々はバラモンを目指していると見ることができよう。バラモンとはインドカーストの最高位であり、高貴・有徳を示す。

 バーラドヴァーシャ青年は「生まれによってバラモンとなる」と主張した。これに対してヴァーセッタ青年は「戒律と徳行によってバラモンとなる」と反論した。結論を出せない二人はブッダを訪れ、問うた。

六二〇 われは、(バラモン女の)胎(はら)から生まれ(バラモンの)母から生まれた人をバラモンと呼ぶのではない。かれは〈きみよ、といって呼びかける者〉といわれる。かれは何か所有物の思いにとらわれている。無一物であって執著のない人、──かれをわたくしは〈バラモン〉と呼ぶ。

六二一 すべての束縛(そくばく)を断(た)ち切り、怖(おそ)れることなく、執著を超越して、とらわれることのない人、──かれをわたくしは〈バラモン〉と呼ぶ。

六二二 紐(ひも)と革帯(かわおび)と綱とを、手綱(たづな)ともども断ち切り、門をとざす閂(障礙〈しょうげ〉)を滅して、目ざめた人(ブッダ)、──かれをわたくしは〈バラモン〉と呼ぶ。

六二三 罪がないのに罵られ、なぐられ、拘禁されるのを堪え忍び、忍耐の力あり、心の猛き人、──かれをわたくしは〈バラモン〉と呼ぶ。

六二四 怒ることなく、つつしみあり、戒律を奉じ、欲を増すことなく、身をととのえ、最後の身体に達した人、──かれをわたくしは〈バラモン〉と呼ぶ。

六二五 蓮葉(はちすば)の上の露のように、錐(きり)の尖(さき)の芥子(けし)のように、諸々の欲情に汚(けが)されない人、──かれをわたくしは〈バラモン〉と呼ぶ。

六二六 すでにこの世において自己の苦しみの滅びたことを知り、重荷(おもに)をおろし、とらわれのない人、──かれをわたくしは〈バラモン〉と呼ぶ。

六二七 明らかな智慧が深くて、聡明で、種々の道に通達し、最高の目的を達した人、──かれをわたくしは〈バラモン〉と呼ぶ。

六二八 在家者(ざいけしゃ)・出家者(しゅっけしゃ)のいずれとも交わらず、住家(すみか)がなくて遍歴(へんれき)し、欲の少い人、──かれをわたくしは〈バラモン〉と呼ぶ。

六二九 強くあるいは弱い生きものに対して暴力を加えることなく、殺さず、また殺させることのない人、──かれをわたくしは〈バラモン〉と呼ぶ。

六三〇 敵意ある者どもの間にあって敵意なく、暴力を用いる者どもの間にあって心おだやかに、執著する者どもの間にあって執著しない人、──かれをわたし(ママ)は〈バラモン〉と呼ぶ。

六三一 芥子粒(けしつぶ)が錐(きり)の尖端(せんたん)から落ちたように、愛著(あいじゃく)と憎悪(ぞうお)と高ぶりと隠し立てとが脱落した人、──かれをわたくしは〈バラモン〉と呼ぶ。

六三二 粗野(そや)ならず、ことがらをはっきりと伝える真実のことばを発し、ことばによって何人(なんぴと)の感情をも害することのない人、──かれをわたくしは〈バラモン〉と呼ぶ。

六三三 この世において、長かろうと短かろうと、微細であろうとも粗大であろうとも、浄かろうとも不浄であろうとも、すべて与えられていない物を取らない人、──かれをわたくしは〈バラモン〉と呼ぶ。

六三四 現世を望まず、来世をも望まず、欲求もなくて、とらわれのない人、──かれをわたくしはバラモンと呼ぶ。

六三五 こだわりあることなく、さとりおわって、疑惑(ぎわく)なく、不死の底に達した人、──かれをわたくしは〈バラモン〉と呼ぶ。

六三六 この世の禍福(かふく)いずれにも執著することなく、憂(うれ)いなく、汚(けが)れなく、清らかな人、──かれをわたくしは〈バラモン〉と呼ぶ。

六三七 曇りのない月のように、清く、澄み、濁りがなく、歓楽の生活の尽きた人、──かれをわたくしは〈バラモン〉と呼ぶ。

六三八 この障害・険道・輪廻(りんね〈さまよい〉)・迷妄(めいもう)を超(こ)えて、渡りおわって彼岸(ひがん)に達し、瞑想し、興奮することなく、執著がなくて、心安らかな人、──かれをわたくしは〈バラモン〉と呼ぶ。

六三九 この世の欲望を断ち切り、出家して遍歴し、欲望の生活の尽きた人、──かれをわたくしは〈バラモン〉と呼ぶ。

六四〇 この世の愛執(あいしゅう)を断ち切り、出家して遍歴し、愛執の生活の尽きた人、──かれをわたくしは〈バラモン〉と呼ぶ。

六四一 人間の絆(きずな)を捨て、天界の絆を超え、すべての絆をはなれた人、──かれをわたくしは〈バラモン〉と呼ぶ。

六四二 〈快楽〉と〈不快〉とを捨て、清らかに涼しく、とらわれることなく、全世界にうち勝った健(たけ)き人、──かれをわたくしは〈バラモン〉と呼ぶ。

六四三 生きとし生ける者の死生をすべて知り、執著なく、幸せな人、覚(さと)った人、──かれをわたくしは〈バラモン〉と呼ぶ。

六四四 神々も天の伎楽神(ガンダルヴァ)たちも人間もその行方(ゆくえ)を知り得ない人、煩悩(ぼんのう)の汚れを滅しつくした人、──かれをわたくしは〈バラモン〉と呼ぶ。

六四五 前にも、後にも、中間にも、一物をも所有せず、すべて無一物で、何ものをも執著して取りおさえることのない人、──かれをわたくしは〈バラモン〉と呼ぶ。

六四六 牡牛(おうし)のように雄々(おお)しく、気高(けだか)く、英雄・大仙人・勝利者・欲望のない人・沐浴(もくよく)した者・覚った人(ブッダ)、──かれをわたくしは〈バラモン〉と呼ぶ。

六四七 前世の生涯を知り、また天上と地獄とを見、生存を減し尽くすに至った人、──かれをわたくしは〈バラモン〉と呼ぶ。

六四八 世の中で名とし姓として付けられているものは、名称にすぎない。(人の生まれた)その時その時に付けられて、約束の取り決めによってかりに設けられて伝えられているのである。

六四九 (姓名は、かりに付けられたものにすぎないということを)知らない人々にとっては、誤った偏見が長い間ひそんでいる。知らない人々はわれらに告げていう、『生れによってバラモンなのである』と。

六五〇 生れによって〈バラモン〉となるのではない。生れによって〈バラモンならざる者〉となるのでもない。行為によって〈バラモン〉なのである。行為によって〈バラモンならざる者〉なのである。

六五一 行為によって農夫となるのである。行為によって職人となるのである。行為によって商人となるのである。行為によって傭人(やといにん)となるのである。

六五二 行為によって盗賊ともなり、行為によって武士ともなるのである。行為によって司祭者となり、行為によって王ともなる。

六五三 賢者はこのようにこの行為を、あるがままに見る。かれらは縁起(えんぎ)を見る者であり、行為(業)とその報いとを熟知している。

六五四 世の中は行為によって成り立ち、人々は行為によって成り立つ。生きとし生ける者は業(行為)に束縛されている。――進み行く車が轄(くさび)に結ばれているように。

六五五 熱心な修行と清らかな行いと感官の制御と自制と、――これによって〈バラモン〉となる。これが最上のバラモンの境地である。

六五六 三つのヴェーダ(明知)を具え、心安らかに、再び世に生まれることのない人は、諸々の識者にとっては、梵天や帝釈[と見なされる]のである。ヴァーセッタよ。このとおりであると知れ。

 このように説かれたので、ヴァーセッタ青年とバーラドヴァーシャ青年とは師に向って言った、「すばらしいことです。ゴータマ(ブッダ)さま。すばらしいことです。ゴータマさま。譬(たと)えば、倒れた者を起こすように、覆(おお)われたものを開くように、方角に迷った者に道を示すように、あるいは『眼ある人々は色やかたちを見るように』といって暗夜に灯火をかかげるように、ゴータマさまは種々のしかたで理法を明らかにされました。いまわたくしはゴータマさまと真理と修行僧のつどいに帰依したてまつる。ゴータマさまはわたくしたちを、在俗信者として受けいれてください。わたくしたちは、今日から命の続く限り帰依いたします。」(第三 大いなる章「九、ヴァーセッタ」)

【『ブッダのことば スッタニパータ』中村元〈なかむら・はじめ〉訳(岩波文庫、1984年/岩波ワイド文庫、1991年)以下同】

 話を戻そう。我々が目指しているのはバラモンより前の段階の金持ち・成功者・有名人であろう。つまり「王」になりたがっているのだ。バラモンはその上に位置する。そしてブッダが説いたバラモンは世間で受け止められているバラモンとは明らかに異なる。これこそブラフマンではなくブッダ(仏)なのだ。随所に如来十号が散りばめられていることからも明らかだ。

 ヴァーセッタ青年とバーラドヴァーシャ青年は「人間の位」を問うた。それに対してブッダは「真実の位」を説いた。ヴァーセッタ青年は「それ見たことか、俺の言った通りだろうよ」とは言わなかった。二人は同じ感激に打ち震えている。そして彼らの目は開いた(目覚めた)。

一三六 生れによって賤しい人となるのではない。生れによってバラモンとなるのではない。行為(こうい)によって賤しい人ともなり、行為によってバラモンともなる。(第一 蛇の章「七、賤しい人」)

「七、賤しい人」には資本主義のあらゆる形態が描かれている。

「生れ」とは過去である。地位・名誉・財産も過去を示すものだ。すなわち我々は常に「相手の過去」を見つめているのだ。これによって現在の行為は過小評価・拡大解釈をされる。ブッダの指摘は「過去の完全否定」を意味する。

「発見するためには、自由がなければならない。もしもあなたが束縛され、重荷を背負っていたら、あなたは遠くまで行けない。もしもある種の蓄積があれば、いかにして自由がありうるだろうか?」(『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー 2 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ)。財産であれ悩みであれ荷物であることに変わりはない。「私」を成り立たせている過去が私自身を束縛するのだ。二人の青年と同じように目を開けば、まったく新しい過去の延長線上ではない現在が生き生きと流れ始める。

 殆どの聖職者や僧侶が王を目指した。彼らは俗人以上の俗人だ。クリシュナムルティは王になろうとはしなかった。弟子やファンをも拒んだ。

 ヴァーセッタ青年とバーラドヴァーシャ青年がブッダの弟子ではなかったことにも注目する必要がある。ブッダには誰でも会うことが可能であった。クリシュナムルティもそうだ。彼らは一切の差別からも自由であったのだ。

 尚、文庫版はあまりにも活字が小さいため、当ブログではワイド版をお薦めする。