2014-04-30
ギャンブラーという生き方/『賭けるゆえに我あり』森巣博
・天才博徒の悟り/『無境界の人』森巣博
・ギャンブラーという生き方
・プロ野球界の腐敗
・『福本伸行 人生を逆転する名言集 覚醒と不屈の言葉たち』福本伸行著、橋富政彦編
・『福本伸行 人生を逆転する名言集 2 迷妄と矜持の言葉たち』福本伸行著、橋富政彦編
・『真剣師 小池重明 “新宿の殺し屋"と呼ばれた将棋ギャンブラーの生涯』団鬼六
ギャンブル欲は、食欲・性欲・睡眠欲という人間の三大本能を凌駕(りょうが)する、といわれる。そうかもしれない。カシノのゲーム・フロアでは、寝食も忘れ、勝負卓に張り付いている亡者(もうじゃ)たちをよく見掛ける。
わたしの知り合いは、月に一度、必ずラスヴェガスに行く。眠るのは、いつも往(い)き帰りの飛行機の中だけだそうだ。
「無泊四日で勝負する。一応なんか喰(く)ってるんだろうが、記憶にない」
なんておっしゃる。
それほど、博奕は面白い。集中できる。飽きない。
逆に言えば、それほど、博奕は怖い。いや、怖いから面白くて集中できるのである。
恐怖と快楽は、いつも背中合わせだ。
【『賭けるゆえに我あり』森巣博〈もりす・ひろし〉(徳間書店、2009年/扶桑社、2015年)以下同】
名言が星の如く散りばめられている。森巣の奥方はオーストラリア国立大学教授のテッサ・モリス=スズキ。子息は15歳で大学へ入学し、18歳で大学院入りした天才児。で、本人は主夫業のかたわら世界各地のカジノ(※森巣は「カシノ」と表記)を飛び回って荒稼ぎしている。
修羅場とはギリギリの選択を迫られる地点のことだ。それが商売であろうと博奕であろうとも。選択を誤った時に失うものが多ければ多いほど「賭ける」という要素が大きくなる。賭けるとは跳ぶことだ。達することができなければ奈落の底に転落する。
臆病じゃないと、博奕で生き残れない。同時に、リスクを冒さないと、やっぱり死んでしまう。
――リスクを冒さないのは、最大のリスク。
この矛盾の海の中で、浮いたり沈んだりしながら、顔が水面上に出た時に勝負卓を離れる。これが勝ち博奕だ。
豪胆と臆病のバランスが生き死にを分ける。喧嘩と格闘技の違いは計算にある。これが孫子の「計篇」だ(『新訂 孫子』金谷治訳注)。臆病でなければリスクが見えない。見えないものは計れない。
時に権力に対して鋭い一瞥をくれる。
しかし人間は賭博をする。これは太古の昔からそうだ。博奕は人間の歴史とともに古いのではない。歴史以前からである。博奕は先史から存在した。
――賭けをする動物が人間である。
と、19世紀のイギリスの作家は喝破(かっぱ)した。
それゆえ、昔も今も法律で賭博を禁止しておけば、取り締まり当局には膨大な利権が転がり込むことになっている。
ついでだから書いておくけれど、パチンコで勝ち、景品交換所で「特殊景品」を換金したなら、『刑法』賭博罪違反である。それが「黙許」されているのは、警察利権が絡むからなのだ。パチンコ台の許認可、プリペイド・カード、「特殊景品」金地金の製造および流通、景品交換所等のあらゆる部分で、警察関連企業に金が流れる仕組みとなっている。
・「パチスロ」は新しい利権だった/『警官汚職』読売新聞大阪社会部
読み物としては十分面白いのだが、唯一の瑕疵(かし)は年甲斐もなく下ネタ自慢を披瀝しているところ。下劣の自覚よりも自慢に酔う性根が透けて見える。
最後にもうひとつ紹介しよう。
このバカラという鬼畜のゲームには、語り継がれているエピソードが多い。
もっとも有名なのは、自動車のシトロエン社のオーナーだったアンドレ・シトロエンが、当時としては先端技術を集めた最新の自動車工場をバカラの一手勝負で失ったエピソードだと思う。現在の貨幣価値に換算すると1000億円を超えるものを、わずか数十秒の勝負で、シトロエンは失ってしまった。
場所はロンドンにあるクラブ形式のカシノだったが、もちろんこんな高額の一手勝負を受けるハウス(カシノ)は、世界中に存在しない。この時のシトロエンには、相手が居た。サシの勝負だったのである。
相手の名を、ニコラ・ゾグラフォリスという。あだ名が「ニック・ザ・グリーク」。その名からわかるように、アテネ生まれのギリシャ人だ。ついでだが「ニック・ザ・グリーク」とのあだ名を持った著名な博奕打ちは歴史上二人居て、こっちはポーカー・プレイヤーじゃない方の「ニック・ザ・グリーク」である。この「ニック・ザ・グリーク」は、350枚までのカードなら、出た順序に従って記憶できたそうだ。そういった、伝説の博奕打ちである。
そんな天才博奕打ちでも、「ニック・ザ・グリーク」はその生涯に、天国と地獄の間を73回往復したといわれた。
バカラとは、そういう恐ろしいゲームである。
平坦な道を歩む人生もあれば、屹(き)り立った山に挑む人生もある。私自身はギャンブルとは無縁だが賭ける行為は理解できる。尚、森巣が行うギャンブルは手数料が数パーセントの世界であって、日本の競馬・競艇・パチンコの類いをギャンブルとはいわない。
2014-04-29
警察庁長官狙撃事件はオウム真理教によるテロではなかった/『警察庁長官を撃った男』鹿島圭介
引き鉄はしなやかだった。大きな鉄板を高所から落したような凄まじい轟音が鳴り響いた。
その瞬間、国松孝次・警察庁長官(当時=以下、特別のこだわりがないかぎり、肩書きはその当時のもの)は前のめりに突っ伏すように押し倒された。秘書官や地下にいた私服の警備要員は何事が起こったのか分からず、呆然とするよりほかない。続いて2発目の銃声がとどろき、國末の肉体が軋んだ。濡れた路面に、血に滲んだ雨水が広がっていく。
狙撃――。秘書官は反射的に国松の体に覆いかぶさった。この身を挺した行為に、しかし狙撃者はまったく動揺を示さなかった。1発目、2発目と等間隔で放たれた第3弾は、秘書官が覆いきれず、わずかに露出していた国松の右大腿部の最上部を正確に射抜いたのである。
秘書官は斃れた姿勢で国松の体を抱え込むと、そのまま傍らの植え込みの陰に引きずるように運び込んだ。狙撃者は、人間の盾に守られた国松に4発目の銃弾を撃ち込むことはしなかった。
かわりに、視界の左端から駆け込んできた警備要員の鼻先ぎりぎりをかすめるように、追跡をひるませるための威嚇射撃を敢行。そして足元においていたスポーツバッグを拾い上げ、すぐ近くに立てかけてあった自転車に飛び乗った。バッグの中に入っていたのはKG-9短機関銃。多勢の敵と銃撃戦になった場合の非常時に備え、念のため装備していたのものだ。
しかし、そんなものはまったく必要なかった。男は猛然と自転車をこいで、アクロシティの敷地をL字型に横断。公道に出ると、そのまま視界の彼方に消え去った。
【『警察庁長官を撃った男』鹿島圭介〈かしま・けいすけ〉(新潮社、2010年/新潮文庫、2012年)】
警察庁長官狙撃事件を追ったルポである。文章に独特のキレがあり迫力を生んでいる。
事件が起こったのは1995年のこと。2010年に公訴時効となった時、警視庁公安部長が記者会見を開き「オウム真理教の信者による組織的なテロである」とぶち上げた。組織的なテロ活動を行っていたのはむしろ公安であった。彼らはオウム真理教を犯人に仕立てようとして失敗した。
本書の表紙を堂々と飾っているのが真犯人と目される人物だ。男の名を中村泰〈なかむら・ひろし〉という。彼は「特別義勇隊」を名乗った。右翼思想を有する武装集団である。彼は東大を中退したスナイパーであった。
時折、文筆業者にありがちな軽薄な決めつけが見受けられるところが難点。
・ヒートの情報倉庫:中村泰
ダグ・ボイド、瀬谷ルミ子、船山徹、佐藤優、響堂雪乃、他
15冊挫折、7冊読了。
『ヤクザな人びと 川崎・恐怖の十年戦争』宮本照夫(文星出版、1998年)/ルポではなくエッセイ。筆致の軽さが圧縮度を薄めている。ただしエッセイだと割り切ればそこそこ面白い。交渉の仕方としても参考になる。
『生の時・死の時』共同通信社編(共同通信社、1997年)/1997年度新聞協会賞受賞ルポ。紙面という限られたスペースであれば、また違った風にも読めたことだろう。だが書籍としてはやはり弱い。中途半端な散文の印象を免れず。各章の目のつけどろこは優れている。
『楚漢名臣列伝』宮城谷昌光〈みやぎたに・まさみつ〉(文藝春秋、2010年/文春文庫、2013年)/物語の起伏に欠ける。
『シェルパ ヒマラヤの栄光と死』(山と溪谷社、1998年/中公文庫、2002年)/これは後回し。書いておかないと読めなくなるので記録しておく。
『リデルハートとリベラルな戦争観』石津朋之(中央公論新社、2008年)/硬質な分だけ興味を引きにくい。読者を選ぶ本だ。
『孟子(上)』(朝日文庫、1978年)/入門書には適さず。
『人間精神進歩史 第1部』コンドルセ:渡辺誠訳(岩波文庫、1951年)/読むのが遅すぎた。
『日本人が知らないアメリカの本音』藤井厳喜〈ふじい・げんき〉(PHP研究所、2011年)/文章に締まりがない。
『正弦曲線』堀江敏幸(中央公論新社、2009年/中公文庫、2013年)/第61回読売文学賞受賞作。読ませる文章である。数学と詩が融合したような随筆だ。コアなファンがいそうな作家である。
『いつまでも美しく インド・ムンバイのスラムに生きる人びと』キャサリン・ブー:石垣賀子訳(早川書房、2014年)/「ピュリッツァー賞受賞ジャーナリストが描くインド最大の都市の真実。全米図書賞に輝いた傑作ノンフィクション」。今回の目玉作品であったが100ページほどで挫ける。文章はいいのだが立ち位置が気になる。
『不知火 石牟礼道子のコスモロジー』石牟礼道子〈いしむれ・みちこ〉(藤原書店、2004年)/ファンのためのアンソロジーといった体裁。
『本を書く』アニー・ディラード:柳沢由実子訳(パピルス、1996年)/今まで読んだディラード作品では一番面白くなかった。作家向けか。
『アングラマネー タックスヘイブンから見た世界経済入門』藤井厳喜〈ふじい・げんき〉(幻冬舎新書、2013年)/この人、妙な前置きをする悪癖がある。『ドンと来い! 大恐慌』が当たったためだろう。もったいぶらずに直球勝負で書くべきだ。
『[徹底解明]タックスヘイブン グローバル経済の見えざる中心のメカニズムと実態』ロナン・パラン、リチャード・マーフィー、クリスチアン・シャヴァニュー:青柳伸子訳、林尚毅解説(作品社、2013年)/書籍タイトルに記号を付けるのは邪道である。専門性が高すぎて、読めば読むほどわけがわからなくなる。
『足の汚れ(沈澱物)が万病の原因だった 足心道秘術』官有謀〈かん・ゆうぼう〉(文化創作出版マイ・ブック、1986年)/足揉みが民間療法であることは知っていたが理由がよくわかった。講習料金を比較すると若石法(じゃくせきほう)に軍配が上がりそうだ。有名どころとしては他にドクターフットなどがある。所謂リフレクソロジーは法的に曖昧な立場でゆくゆく規制がかかるかもしれぬ。官有謀が立派なところは、「自分で行うのが足揉みの基本」としているところ。
20冊目『読書という体験』岩波文庫編集部編(岩波文庫、2007年)/飛ばし読みしようと開いたのだが、スラスラと読み終えてしまった。それほど大した内容ではないのだが。
21冊目『略奪者のロジック 支配を構造化する210の言葉たち』響堂雪乃〈きょうどう・ゆきの〉(三五館、2013年)/前著『独りファシズム つまり生命は資本に翻弄され続けるのか?』と比べると見劣りするが、辞書として使えばよい。響堂雪乃は扇動するメディアに扇動をもって対抗する。
22冊目『世界と闘う「読書術」 思想を鍛える一〇〇〇冊』佐高信〈さたか・まこと〉、佐藤優〈さとう・まさる〉(集英社新書、2013年)/佐藤優の動きが怪しい。次々と毛色の変わった人物と対談集を編んでいる。副島隆彦との対談と異なり、佐藤が終始リードしている。つまり佐高の方が御しやすかったということなのだろう。あるいは聞く耳を持っていたということか。びっくりしたのだが「あとがき」で佐高が自分のことを「人権派」と称していた。他人の悪口ばかりを集めて本にしてきた男が説く人権とは何ぞや? 佐高は私が最も忌み嫌う人物の一人であるが、本書の価値に傷をつけるものではない。
23冊目『サバイバル宗教論』佐藤優〈さとう・まさる〉(文春新書、2014年)/臨済宗相国寺での講演を編んだもの。話し言葉でここまで語れるところに佐藤優の凄さがある。読み終える前に「宗教とは何か?」に付け加える。もちろん必読書入りだ。モヤモヤしていた佐藤への疑惑が解消された。佐藤が行ってきたことは「中間層の強化」=「民主主義の補強」であったのだろう。創価学会への接近もこれで理解できよう。ただし沖縄の悲哀を知る佐藤がパレスチナを語らぬ事実に私は不満を覚える。僧侶の質問のレベルが意外と高いのにも驚かされた。
24冊目『仏典はどう漢訳されたのか スートラが経典になるとき』船山徹(岩波書店、2013年)/労作。読み物ではなく資料だと割り切れば面白く読める。ただし最後の方は飛ばし読み。学術的には意味があるのだろうが、言葉の本質が情報である事実を踏まえると、この分野の裾野が広がることは困難であろう。翻訳に限らずすべての情報は「解釈される性質」をはらんでいる。正統とは歴史であって合理性を意味しない。思い切って言えば、翻訳そのものよりも翻訳後に脳とコミュニティの様相がどう変化したかを検証することが重要だ。日本の宗教に関する学問は一刻も早く文学と歴史の次元から脱却する必要がある。
25冊目『職業は武装解除』瀬谷ルミ子〈せや・るみこ〉(朝日新聞出版、2011年)/前々から読みたかった一冊だ。ちょっと文章が甘いのだがこれはオススメ。順序としては『裸でも生きる 25歳女性起業家の号泣戦記』山口絵理子→本書→『武装解除 紛争屋が見た世界』伊勢崎賢治が望ましい。更に興味があれば、『NHK未来への提言 ロメオ・ダレール 戦禍なき時代を築く』ロメオ・ダレール、伊勢崎賢治→『なぜ、世界はルワンダを救えなかったのか PKO司令官の手記』ロメオ・ダレールと進めばよい。劣等感に苛まれた一人の少女がどのようにして世界へと羽ばたいたのか。体当たりの青春が美しい。
26冊目『ローリング・サンダー メディスン・パワーの探究』ダグ・ボイド:北山耕平、谷山大樹訳(平河出版社、1991年)/これは凄い。ただただ凄い。西水美恵子がブータン王国に抱いた印象を私はインディアンに重ねてきた。本書を読んでそれが極まった。ヨーロッパ人がインディアンを虐殺した時、人類の進化は止まったのだろう。彼らこそは無名のブッダでありクリシュナムルティであった。ブッダもクリシュナムルティもインディアン(インド人)だ(ブッダは現在のネパール出身)。密教(スピリチュアリズム)を解く鍵は『世界の名著1 バラモン教典 原始仏典』長尾雅人〈ながお・がじん〉責任編集と本書にあると思われる。
2014-04-28
情動的シナリオ/『神はなぜいるのか?』パスカル・ボイヤー
・『奇跡の脳 脳科学者の脳が壊れたとき』ジル・ボルト・テイラー
・『脳はいかにして〈神〉を見るか 宗教体験のブレイン・サイエンス』アンドリュー・ニューバーグ、ユージーン・ダギリ、ヴィンス・ロース:茂木健一郎訳
・『なぜ、脳は神を創ったのか?』苫米地英人
・『宗教を生みだす本能 進化論からみたヒトと信仰』ニコラス・ウェイド
・普遍的な教義は存在しない
・デカルト劇場と認知科学
・情動的シナリオ
・
・『人類の起源、宗教の誕生 ホモ・サピエンスの「信じる心」が生まれたとき』山極寿一、小原克博
・『人間の本性について』エドワード・O ウィルソン
・『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』ユヴァル・ノア・ハラリ
・キリスト教を知るための書籍
・宗教とは何か?
・必読書 その五
多くの人々は、宗教を単純に説明できると考えている。すなわち、情動的な理由から宗教が必要だという説明である。人間の心は、安心や安らぎを求めるように作られており、超自然的概念がそれらを与えてくれるように見える。このよくある説明には、さらに次の二つがある。
・宗教的説明は、死の耐え難さを軽減する(中略)
・宗教は、不安をやわらげ、世界を心休まるものにする。(後略)
【『神はなぜいるのか?』パスカル・ボイヤー:鈴木光太郎、中村潔訳(NTT出版、2008年)以下同】
昨日はエリザベス・キューブラー=ロスの動画を見たため更新できず。私が『死ぬ瞬間』を読んだのはもう20年以上前だ。やはり映像の力は凄い。彼女は死を宣告された患者を大学の授業に招いた。衝撃的な光景である。求めに応じて全米各地の末期患者と語り合った。やがて彼女の献身的な行動がホスピスとなって結実する。その後、キューブラー=ロス女史が死後の世界にハマっていったことは知っていた。だが脳梗塞で倒れ、神を罵倒したことでアメリカ中から非難された事実は知らなかった。
他人の死と自分の死は異なる。当然だ。彼女は明らかに死にたがっていた。しかし自殺することは彼女の人生観に反する。闘病を経てキューブラー=ロスは自分の過去を清算した。私は知った。菩薩道が仏道につながらないことを。どれほど他人に尽くしても越えられない壁があるのだ。エリザベス・キューブラー=ロスは聖女ではなかったが、愛すべき人間であった。彼女への敬意が深まった。
宗教という宗教が説く幸福には必ず条件がつく。安心はタダでは手に入らない。「救われたい者はノルマを果たせ」というわけだ。
情動にもとづく説明には、いくつか重大な問題点がある。まず、時に人類学者が指摘してきたように、社会における事実のいくつかは、その社会の理論が謎に対して答えを与えたり苦悩に対して救いを与えたりしているところでのみ、謎であったり、畏怖を引き起こしたりする。たとえば、メラネシアには、妖術から身を守るために驚くほどたくさんの儀礼を行なう社会がある。その社会では、人々は、自分たちがこれらの見えざる敵の絶え間ない脅威のもとに生きていると考えている。したがって、このような社会では、呪術的な儀礼や処方や予防策は、基本的に安心を与える装置であり、人々にこれらのプロセスをコントロールしているという幻想をもたらすと考えられる。しかし、ほかの社会では、人々は、こうした儀礼をもたず、このような脅威も感じていない。人類学者から見れば、これらの儀礼は、儀礼が満たすとされる必要性を作り出しているとも言え、おそらくそれぞれが互いを強め合ってもいる。
宗教は「物語の装置」である。信者が別の文脈を見出すことはない。そして物語にはルールがある。細かいルールが。結果的には儀礼――あるいは修行、義務、寄付金――が本来であれば不要な必要条件を信者に突きつけるというわけだ。宗教が編む物語は不安に満ちている。
神を信ずる者は神の怒りを恐れる。まったく「触らぬ神に祟り無し」とはよく言ったものだ。奴は気が短いからね。宗教は罪と罰の範囲をどこまでも押し広げる。ま、一種の不安産業だ。
また、もし宗教的概念が特定の情動的欲求を解決する方法であるのなら、それはあまりうまくいっていないことになる。宗教的世界はしばしば、超自然的行為者のいない世界以上に恐ろしい世界であり、多くの宗教は、安心を生み出すのではなく、厚く陰鬱な帳(とばり)で包み込む。
恐怖でコントロールされる人々よ、汝の名は信者なり。
・マントラと漢字/『楽毅』宮城谷昌光
情報とアルゴリズム
・キリスト教を知るための書籍
・宗教とは何か?
・ブッダの教えを学ぶ
・悟りとは
・物語の本質
・権威を知るための書籍
・情報とアルゴリズム
・世界史の教科書
・日本の近代史を学ぶ
・虐待と知的障害&発達障害に関する書籍
・時間論
・身体革命
・ミステリ&SF
・必読書リスト
・『リサイクル幻想』武田邦彦
・『デジタル・ゴールド ビットコイン、その知られざる物語』ナサニエル・ポッパー
・『次のテクノロジーで世界はどう変わるのか』山本康正
・『ビッグデータの正体 情報の産業革命が世界のすべてを変える』ビクター・マイヤー=ショーンベルガー、ケネス・クキエ
・『データ資本主義 ビッグデータがもたらす新しい経済』ビクター・マイヤー=ショーンベルガー、トーマス・ランジ
・『アフターデジタル オフラインのない時代に生き残る』藤井保文、尾原和啓
・『あなたを支配し、社会を破壊する、AI・ビッグデータの罠』キャシー・オニール
・『インフォメーション 情報技術の人類史』ジェイムズ・グリック
・『養老孟司の人間科学講義』養老孟司
・『アルゴリズムが世界を支配する』クリストファー・スタイナー
・『ポスト・ヒューマン誕生 コンピュータが人類の知性を超えるとき』レイ・カーツワイル
・『AIは人類を駆逐するのか? 自律(オートノミー)世界の到来』太田裕朗
・『LIFE3.0 人工知能時代に人間であるということ』マックス・テグマーク
・『ホモ・デウス テクノロジーとサピエンスの未来』ユヴァル・ノア・ハラリ
・『苫米地英人、宇宙を語る』苫米地英人
・『ブラックホール戦争 スティーヴン・ホーキングとの20年越しの闘い』レオナルド・サスキンド
・『物質のすべては光 現代物理学が明かす、力と質量の起源』フランク・ウィルチェック
・『量子が変える情報の宇宙』ハンス・クリスチャン・フォン=バイヤー
・『宇宙を復号(デコード)する 量子情報理論が解読する、宇宙という驚くべき暗号』チャールズ・サイフェ
・『史上最大の発明アルゴリズム 現代社会を造りあげた根本原理』デイヴィッド・バーリンスキ
・『生命を進化させる究極のアルゴリズム』レスリー・ヴァリアント
・『宇宙をプログラムする宇宙 いかにして「計算する宇宙」は複雑な世界を創ったか?』セス・ロイド
・『宇宙を織りなすもの』ブライアン・グリーン
2014-04-26
デカルト劇場と認知科学/『神はなぜいるのか?』パスカル・ボイヤー
・『奇跡の脳 脳科学者の脳が壊れたとき』ジル・ボルト・テイラー
・『脳はいかにして〈神〉を見るか 宗教体験のブレイン・サイエンス』アンドリュー・ニューバーグ、ユージーン・ダギリ、ヴィンス・ロース:茂木健一郎訳
・『なぜ、脳は神を創ったのか?』苫米地英人
・『宗教を生みだす本能 進化論からみたヒトと信仰』ニコラス・ウェイド
・普遍的な教義は存在しない
・デカルト劇場と認知科学
・情動的シナリオ
・
・『人類の起源、宗教の誕生 ホモ・サピエンスの「信じる心」が生まれたとき』山極寿一、小原克博
・『人間の本性について』エドワード・O ウィルソン
・『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』ユヴァル・ノア・ハラリ
・キリスト教を知るための書籍
・宗教とは何か?
・必読書 その五
私たちの平凡な推論システムのはたらきは、宗教的思考を含む思考の大部分を説明する。しかし――これがもっとも重要な点だが――推論システムのはたらきは、私たちが内省によって観察できる類のものではない。哲学者のダニエル・デネットは、私たちの心のなかで起こるすべてのことが意識的で入念な思考とそれらについての推理からなっていると錯覚してしまうことを、「デカルト劇場」(※カルテジアン劇場)と呼んでいる(※『解明される意識』)。しかし、このデカルト的舞台の下では、すなわち心の土台のところでは、たくさんのことが起こっている。それらは、認知科学という道具を使ってしか記述できない。
【『神はなぜいるのか?』パスカル・ボイヤー:鈴木光太郎、中村潔訳(NTT出版、2008年)】
デカルト劇場についての説明を以下に引用する。
ホムンクルスすなわち「意識する私」という中央本部のようなものを、脳の中のどこか(例えば特定のニューロン)に発見できるような思い込みを、デネットはギルバート・ライルに倣ってカテゴリー・ミステイクであるとしている。実際には、脳は情報を空間的・時間的に分散されたかたちで処理しながら意識を生産するので、脳の特定の部位を選び出して、特権的な意識の座と等価視することはできないのである。
【Wikipedia】
・デカルト劇場:池田光穂
・ダニエル・デネット 唯物論の極北 後編 - やっちんのブログ~心と脳、宗教と科学、この世とあの世の交わる道~
ホムンクルスは「脳の中に小人がいる」という考え方である。ワイルダー・ペンフィールドは脳に電気刺激を与えることで、体性感覚の対応を「ペンフィールドの地図」として表した。これを元にしてつくった小人をホムンクルスという場合が多い。
onologue - ホムンクルス http://t.co/YSh6xjVCpp
— 小野不一 (@fuitsuono) 2014, 4月 26
onologue - ホムンクルス http://t.co/hUPgiO4ZBL
— 小野不一 (@fuitsuono) 2014, 4月 26
同様のモデルにブロードマンの脳地図がある。ただし脳機能局在論には反論も多い。緩やかに考えるべきだろう。
簡単な例を示そう。目が見えるのはなぜか? 脳の中に小人がいるからだ。これがホムンクルス思考である。「では小人の目が見えるのはなぜか?」と重ねて問えば、この答えは呆気(あっけ)なく破綻する。
我々は「脳の中心に自我が存在する」と無意識のうちに思い込んでいる。だが実際は脳に中枢は存在しないのだ(『デカルトの誤り 情動、理性、人間の脳』アントニオ・R・ダマシオ)。
殺人の動機について「太陽が眩しかったから」(『異邦人』カミュ)と答えれば、誰もが不条理を感じる。不条理とは物語が成立しにくいことを意味する。
我々はさしたる疑問を持つこともなく自分の行為を説明する。ある場合においては頭の中で善玉と悪玉が会話をしているかの如く雄弁に説明する。ところが実は違う。理由は後からつけられていることを認知科学が明らかにした。「なぜそれを選択したか」は説明不可能なのだ。
脳科学もこれを支持する。知覚よりも意識は0.5秒ほど早く作動する(『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』トール・ノーレットランダーシュ)。人間に自由意志はなく(『脳はなにかと言い訳する 人は幸せになるようにできていた!?』池谷裕二)、我々が自由意志だと思っているのは解釈に過ぎない(『共感覚者の驚くべき日常 形を味わう人、色を聴く人』リチャード・E・シトーウィック)。そして脳は認知バイアスを避けることができない。
意識は氷山の一角に過ぎない。広大な無意識領域を我々は意識することができない。「見える」ということは「見えない」ことを含んでいる。見えている物体の裏側は見えない。そして自分の背後も。表象、イメージ、アナロジー、類型化、因果などの総称が思考である。思考は一点に集中して全体を排除する。
パスカル・ボイヤーは人類に共通する宗教概念は脳の推論システムに基づく可能性を示唆する。ま、宗教が語る正義は所詮文学レベルの代物だ。日本の宗教界は鎌倉時代以降まったく進歩がない。ヨーロッパだってニュートンが登場しても目を覚ますことはなかった。もちろんニュートン本人も含む。
科学の進展は著しい。特に1990年代に入り脳科学の研究が次々と開花した。科学は既に宗教領域に達し、そして追い越したと私は見る。
道を拓いたのは『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』ジュリアン・ジェインズ(1976年)である。これに『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』トール・ノーレットランダーシュ(1991年)が続いて意識のメカニズムを解明する。本書が2001年に登場し、『脳はいかにして〈神〉を見るか 宗教体験のブレイン・サイエンス』アンドリュー・ニューバーグ、ユージーン・ダギリ、ヴィンス・ロース(2002年)、『解明される宗教 進化論的アプローチ』 ダニエル・C・デネット(2006年)、『神は妄想である 宗教との決別』リチャード・ドーキンス(2007年)、『宗教を生みだす本能 進化論からみたヒトと信仰』ニコラス・ウェイド(2009年)などが宗教を蹴散らした(※カッコ内はすべて原著発行年)。これに対して宗教界は沈黙を保っているように見える。っていうか、読んですらいないのかもしれぬ。
2014-04-25
普遍的な教義は存在しない/『神はなぜいるのか?』パスカル・ボイヤー
・『奇跡の脳 脳科学者の脳が壊れたとき』ジル・ボルト・テイラー
・『脳はいかにして〈神〉を見るか 宗教体験のブレイン・サイエンス』アンドリュー・ニューバーグ、ユージーン・ダギリ、ヴィンス・ロース:茂木健一郎訳
・『なぜ、脳は神を創ったのか?』苫米地英人
・『宗教を生みだす本能 進化論からみたヒトと信仰』ニコラス・ウェイド
・普遍的な教義は存在しない
・デカルト劇場と認知科学
・情動的シナリオ
・
・『人類の起源、宗教の誕生 ホモ・サピエンスの「信じる心」が生まれたとき』山極寿一、小原克博
・『人間の本性について』エドワード・O ウィルソン
・『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』ユヴァル・ノア・ハラリ
・キリスト教を知るための書籍
・宗教とは何か?
・必読書 その五
どうして人間はこんなことを考えるのか? なぜこんなことをするのか? どうしてこんなにも多様な信念をもっているのか? なぜ人間はこうした信念に強くこだわるのか? これらの疑問はノーム・チョムスキーの区別を借りて言えば、かつては【謎】(解こうにも、どこから手をつければよいかわからなかった)だったが、現在では【問題】(解凍の見通しぐらいはついている)にまでなっている。
【『神はなぜいるのか?』パスカル・ボイヤー:鈴木光太郎、中村潔訳(NTT出版、2008年)以下同】
2012年に読んだ本ランキングの1位である。油断していたらもう品切れだ。このまま絶版となるかも。書籍の命は蝉のようにはかない。昨今の出版事情を思えば、望むと望まざるとにかかわらずデジタル書籍の時代に向かうことだろう。
原著の刊行が2001年で『神は妄想である 宗教との決別』リチャード・ドーキンス、『解明される宗教 進化論的アプローチ』 ダニエル・C・デネットに先んじている。これにニコラス・ウェイドを加えて「宗教機能学」と名づけても見当外れではあるまい(※ジェシー・ベリングは個人的に評価せず)。その嚆矢(こうし)がパスカル・ボイヤーである。
パスカル・ボイヤー/onologue - Pascal Boyer http://t.co/JqpJCLePXH
— 小野不一 (@fuitsuono) 2014, 4月 24
宗教の起源についての説明のほとんどは、次のような示唆のどれかを強調する。すなわち、人間の心は説明を欲する、人間の心は安らぎを求める、人間の社会は秩序を必要とする、人間の知性は錯覚に陥りやすい。
科学(因果関係)、心理学、社会学、認知心理学がそれぞれに対応する。
続いて以下の驚くべき指摘がなされる。
・「特定の」宗教を信仰することなしに、宗教を信仰することもできる。
・「宗教」にあたる単語がなくても、宗教はありうる。
・「信じる」という表現がなくても、宗教をもつことはできる。
実はニコラス・ウェイドが使用する「遺伝」という言葉への違和感は書評を書く段階で初めて気づいた。パスカル・ボイヤーも「宗教が『生得的』だとか『遺伝子のなかにある』」という見方には否定的だ。
もし「宗教とは、宇宙の賢く不滅の創造主に従うことによって、どうすれば私たちの魂が救われるかを説く教えを信じることだ」と言う人がいたら、その人はたぶん、いろんな土地を旅したり、広くいろんなものを読んでいないのだ。多くの文化では、死者はこの世に戻ってきて生きている者たちを怖がらせると考えられているが、どの文化でもそうなわけではない。ある特殊な人々が神々や死者と交信できると考えられている社会もあるが、この考えもどこにでも見られるわけではない。また、人間の魂は死後も生き続けるとするところもあるが、この仮定もまた、普遍的なわけではない。私たちが宗教について一般的な説明を考え出そうとする場合、その説明はほかの宗教にも通用するものかを考慮すべきだろう。
実際にフィールドワークを行っている人物ならではの視点だ。テキストはアブラハムの宗教を想定しているが、他の宗教にも同じ問いを突きつけている。つまり「普遍的な教義」は存在しないのだ。
10代から20代にかけての読書は好きなものを手当たり次第に読めばよい。30代となれば何らかのテーマを決めて取り組む必要がある。そして現代社会の構造を思えば、やはり経済と科学は避けて通れない。人は40代にもなれば何らかの思想を持つ。そこから宗教性を探るのが正しい読書道だ。自分の死が20~30年先に見え始めた頃だ。
信じる信じないというテーマは騙される騙されないという問題を含んでいる。妙な営業に引っかかったり、悪質な詐欺被害に遭ったり、社会の様々な分野で心理的抑圧を受けるのは、考える力すなわち判断力を奪われた結果といえよう。きちんと人や本から学んでおけば避けられた問題であると私は考える。
知的格闘を経ていない信は浅はかなものだ。強靭な信は合理性に裏打ちされていることを忘れてはならない。
宗教の社会的側面/『宗教を生みだす本能 進化論からみたヒトと信仰』ニコラス・ウェイド
・ウイルスとしての宗教/『解明される宗教 進化論的アプローチ』 ダニエル・C・デネット
・進化宗教学の地平を拓いた一書
・忠誠心がもたらす宗教の暗い側面
・宗教と言語
・宗教の社会的側面
・普遍的な教義は存在しない/『神はなぜいるのか?』パスカル・ボイヤー
・キリスト教を知るための書籍
・宗教とは何か?
しかし、宗教がどれほど強く個人の信念から生じるように見えても、その実践はきわめて社会的である。ヒトはみな同じ信仰を持つ人とともに祈りたい、と個々人が信じているからだ。ひとりで祈りを捧げることもあるが、宗教活動や儀礼は社会的なものだ。宗教は共同体に属し、そのメンバーの社会的行動、すなわち、互いに対する(内部)行動と、信者でない者に対する(外部)行動に大きな影響を及ぼす。宗教の社会的側面は非常に重要である。他者へのふるまいを司るルールこそが、その社会の道徳だからだ。
なぜ人々が宗教に強い愛着を持つのかを理解するのはむずかしくない。社会の質(結束、犯罪の抑止、互助の精神、嘘やごまかし、たかりの少なさ)は、その社会が持つ道徳の質と、共同体の規範に対する人々の忠誠心によって決まる。その両方(道徳規範と、それを守る度合)ともに宗教によって定まるか、大きな影響を受ける。人々が宗教を守るのは、宗教が個人の人生を豊かにするだけでなく、それ以外のものもしっかりと支えているからなのだ。
宗教によって裏づけられた道徳規範には奇妙な特徴がある。道徳は普遍的原理にもとづくと考える道徳哲学者はたいてい認めようとしないが、実際の道徳は普遍的ではない。憐れみと赦しは「内部者」に対する義務だが、「外部者」に対してはかならずしもそうではないし、まして敵に与えるものではない。
敵社会に対する人間の行動は冷酷で容赦なく、虐殺に及ぶことすらある。敵は邪悪とされ、人間以下と見なされる。己の社会のメンバーに対する道徳的制約は、敵には適用されない。また、宗教はたびたび戦争で利用される。指導者が侵略を正当化したり、士気を高めたり、兵士を究極の犠牲行為へと駆り立てたりするのに便利だからだ。
この観点から、宗教が何世紀ものあいだ、社会の存続にどれほど重要な役割を果たしたかがわかるだろう。宗教は社会の質を高め、戦いを価値あるものにし、社会を守るために命を投げ出させる。ほかの条件が同じなら、宗教的傾向の強い集団は結束力が強く、そうでない集団と比べてかなり有利だったはずだ。成功した集団は、より多くの子孫を残す。宗教行動の本能を発現させる遺伝子は世代を経るごとに精力を増し、やがて人類全体に広がったのだろう。
【『宗教を生みだす本能 進化論からみたヒトと信仰』ニコラス・ウェイド:依田卓巳〈よだ・たくみ〉訳(NTT出版、2011年)以下同】
「宗教はコミュニティ(共同体)の共同性を高める」――ここに宗教の目的があったのだろう。これを民俗宗教と仮称しておく。ってことはだ、経済的コミュニティ(会社)・教育的コミュニティ(学校)・政治的コミュニティ(国家)・地域的コミュニティ(村)・人生的コミュニティ(友人)において、宗教的にまで高められた目的や信念を持ったコミュニティに強味がある。コミュニティの信者化だ。「強力なリーダーシップ」は「強力な隷属性」に支えられている。そうすると権力を集中した方がいいことになる。しかし北朝鮮の現実は上手くいっていない。
民主主義が権力分散を目的としているのであれば、宗教と民主主義は馴染まない。宗教と親和性が高いのは全体主義だろう。ややこしくなってきた。ま、いつも書きながら考えているからね。
話を北朝鮮に戻そう。北朝鮮国民の不幸は空腹(経済問題)にある。では彼らが満腹になれば幸福が実現するのだろうか? 難しい問題だ。一時的には実現するだろうが、やがて諸外国と較べて自由度が少ないことに気づくだろう。問題は空腹から選択肢(人権)にスライドする。国民が自由を求めることは権力者に不自由を求めることとセットになっている。
指導者が英邁(えいまい)であれば私は喜んで従う。汗馬の労も厭わない。だが愚かであれば話は別だ。諫言に次ぐ諫言を行い(『晏子』宮城谷昌光)、最終的には権力の地位から引きずり下ろすことだろう。これが民主制だ。
宗教がコミュニティの共同性を高めるのであれば、やはり宗教とは「エートス」(行動様式)なのだろう(マックス・ヴェーバー)。
こうした考えから、デュルケムは有名な定義づけをした――“【宗教は、隔絶され禁じられた神聖なものかかわる、信仰と実践の統合システムである。信仰と実践は、それにしたがうすべての人を統合し、「教会」と呼ばれるひとつの道徳的共同体を作る】”。さらにデュルケムは、宗教と教会が不可分であることを示しつつ、この定義は宗教が“きわめて集合的なものである”ことを強調するものだと言う。
(エミール・デュルケーム)
恐るべき指摘である。何がって? 実はサンガ(僧伽)ですら道徳的共同体に含まれてしまうのだ。つまり進化的観点からすれば人間主義よりもコミュニティ主義の方が正しいことになる。
だがクリシュナムルティは集団(道徳的共同体)を否定した(『クリシュナムルティ・目覚めの時代』メアリー・ルティエンス)。まだまだ考えなければならないことは多い。
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2014-04-24
宗教と言語/『宗教を生みだす本能 進化論からみたヒトと信仰』ニコラス・ウェイド
・ウイルスとしての宗教/『解明される宗教 進化論的アプローチ』 ダニエル・C・デネット
・進化宗教学の地平を拓いた一書
・忠誠心がもたらす宗教の暗い側面
・宗教と言語
・宗教の社会的側面
・普遍的な教義は存在しない/『神はなぜいるのか?』パスカル・ボイヤー
・キリスト教を知るための書籍
・宗教とは何か?
“人類学または歴史学に知られているなかで、論理的に宗教と考えられる活動を持たない社会はない。たとえ計画的に宗教の根絶をめざした旧ソビエト連邦のようなところであっても”と人類学者ロイ・ラパポートは書いている。
ラパポートによれば、宗教的建造物を作(ママ)るのに必要な時間、労力、費用、さらに聖戦や供犠などを考えると、宗教が人類の適応(自然淘汰への反応として起きる遺伝的変化)に貢献しなかったと想定するのはむずかしい。“もし気まぐれや見せかけだったとしたら、これほど労力を要する行為は、まちがいなく淘汰圧で排除されていただろう……宗教はたんに重要なだけでなく、人類の適応に欠かせないものだった”と1971年に書いている。
しかし長いあいだ、ラパポートの考察を引き継ぐ研究はおこなわれなかった。ひとつには、いかなる人間の行動であれ、遺伝的に決定されていると人類学者が考えたがらなかったからだ。
【『宗教を生みだす本能 進化論からみたヒトと信仰』ニコラス・ウェイド:依田卓巳〈よだ・たくみ〉訳(NTT出版、2011年)以下同】
ロイ・ラパポート/onologue - Roy Rappaport http://t.co/rCD1Jqu5ao
— 小野不一 (@fuitsuono) 2014, 4月 24
ロイ・ラパポートに関するウェブ情報は驚くほど少ない。以下の論文(PDF)で紹介されている程度だ。
・コミュニケーションにおける儀礼的諸相の再考察 「連帯」と「聖なるもの」をめぐって:松木啓子
ラパポートが指摘しているのは「機能としての宗教」である。養老孟司も解剖学的見地から同様の主張をしている。
脳と心の関係に対する疑問は、たとえば次のように表明されることが多い。
「脳という物質から、なぜ心が発生するのか。脳をバラバラにしていったとする。そのどこに、『心』が含まれていると言うのか。徹頭徹尾物質である脳を分解したところで、そこに心が含まれるわけがない」
これはよくある型の疑問だが、じつは問題の立て方が誤まっていると思う。誤まった疑問からは、正しい答が出ないのは当然である。次のような例を考えてみればいい。
循環系の基本をなすのは、心臓である。心臓が動きを止めれば、循環は止まる。では訊くが、心臓血管系を分解していくとする。いったい、そのどこから、「循環」が出てくるというのか。心臓や血管の構成要素のどこにも、循環は入っていない。心臓は解剖できる。循環は解剖できない。循環の解剖とは、要するに比喩にしかならない。なぜなら、心臓は「物」だが、循環は「機能」だからである。
【『唯脳論』養老孟司〈ようろう・たけし〉(青土社、1989年/ちくま学芸文庫、1998年)】
「人間は五蘊仮和合(ごうんけわごう)である」とブッダは説いた。肉体(色蘊〈しきうん〉)と精神(受蘊〈じゅうん=感受作用〉、想蘊〈そううん=表象作用〉、行蘊〈ぎょううん=意志作用〉、識蘊〈しきうん=認識作用〉)という五つの要素が仮に結合した状態であると。心が機能であるとすれば、我(が)もまた機能なのだろう。
『ザ・ユニット 米軍極秘部隊』のシーズン4第17話でこんな科白(せりふ)があった。「ヘリなんてのは――600万個の部品が空中に浮いているだけだ」。おわかりだろうか? 部品600万個仮和合がヘリコプターの本質なのだ。バラバラであってはヘリは機能しない。つまり人間の意識とは内燃機関(エンジン)が爆発した状態を指すのだろう。それゆえ動かぬヘリコプターは600万個の部品を並べた状態と変わらない。
ここでちょっと引っ掛かるのは「遺伝」という言葉の扱い方だ。ニコラス・ウェイドは「母親が我が子を守る」例を引いているが、遺伝情報とは「形質が伝わる」ことであり、DNAに書かれているのは「蛋白質のつくり方に関する情報」である(『DNAがわかる本』中内光昭)。
リチャード・ドーキンスが創案した「ミーム」(『利己的な遺伝子』紀伊國屋書店、1991年)であれば理解できる。本能と学習の議論をすっ飛ばして「遺伝」を語るのはどうかと思う(※「刷り込み」を参照せよ)。
なぜ宗教は進化した行動と考えられるのか。言語と比較するとわかりやすい。言語と同じく宗教は、遺伝的に形成された学習能力の上に築かれた複雑な文化的行為である。人は自分の社会の言語と宗教を学ぶ本能を持って生まれてくる。しかしどちらの場合にも、学ぶ内容は文化から与えられる。言語と宗教が(基本的形態はよく似ているにもかかわらず)社会ごとに大きく異なるゆえんである。
言語が、早い時期に進化した多くの行動(音を聞いたり、発生させたりする神経系の働きなど)の上位で働くように、宗教行動もいくつかの洗練された能力(音楽に対する感受性や、道徳的本能、そしてもちろん言語そのもの)を土台としている。言語同様、すべての社会の宗教行動はある特定の時期に発達している。まるで生来の学習プログラムが作動しはじめたかのように。
言語と同じく、宗教行動はもっとも重要な社会的行動だ。人はひとりで話すことも祈ることもできるが、どちらもほかの人々とおこなったときにもっとも豊かな意味を持つ。ともにコミュニケーションの手段だからだ。
ニコラス・ウェイド/onologue - Nicholas Wade http://t.co/5c2MxPTDXG
— 小野不一 (@fuitsuono) 2014, 4月 24
これまた危うい展開の仕方だ。言語はコミュニケーションの手段ではあるが、言語獲得以前におけるコミュニケーションの可能性を否定することはできないためだ。鳥や魚の群れが一瞬にして方向転換するようなコミュニケーションのスタイルがヒトにもあったかもしれない。逆に考えれば、言語を使わなければコミュニケーションできなくなったと捉えることもできよう。「心の進化」は同時に「本能の退化」を意味する。
きっと言語の獲得はヒトに対して進化的な優位性になったことだろう。だが人類は言葉を「争いの道具」にしていることも事実である(『とうに夜半を過ぎて』レイ・ブラッドベリ)。そして現在に至るまで言語と宗教は人間同士を不幸な戦闘状態に置いている。
人は個人としてではなく、社会的集団として生き延びる。そして社会性生物にとって何より重要なのは、メンバーが互いに意思疎通するためのコミュニケーション能力だ。言語が最上位にあるため、宗教やジェスチャーなど、ほかのコミュニケーション手段が正当に評価されないことが多いけれども、言語が考えを伝えるシステムであるのと同じく、宗教行動は共通の価値と感情を伝えるシステムである。このシステムを効果的にする遺伝的変異は、自然淘汰でただちに強化されただろう。自然淘汰が、個体レベルと同じように集団レベルでも起きた場合(こちらのほうが通常)には、なおさらそれが言える。集団レベルでの淘汰は、進化生物学者のあいだでも議論のあるところだが、もっとも厳しい反対論者でもその存在を否定しているわけではない。ほとんどの場合においておそらく重要ではなかった、と言うだけだ。後述するように、人類の進化には特殊な状況がある。それが通常よりはるかに強く、集団の選択に作用したと考えられる。
ここでいう「選択」は「淘汰」と同義である。「宗教行動は共通の価値と感情を伝えるシステムである」との指摘が重要だ。私が「新しい時代の教祖になり得るのは歌手である」と考えているのも同じ理由による。
言語と歩調を合わせて進んできた宗教が千数百年前にテキスト化という進化を遂げた(『日本人のための宗教原論 あなたを宗教はどう助けてくれるのか』小室直樹)。これを私は「宗教の歴史化」と考える(『世界史の誕生 モンゴルの発展と伝統』岡田英弘)。
人類は社会的なつながりから政治的意識が芽生え、そして歴史的存在へと至ったのだろう(『歴史とは何か』E・H・カー)。しかしながら文字はコミュニケーションを拒む(『プルーストとイカ 読書は脳をどのように変えるのか?』メアリアン・ウルフ)。
クリシュナムルティは「理解というものは、私たち、つまり私とあなたが、同時に、同じレベルで出会うときに生まれてきます」と語った(『自我の終焉 絶対自由への道』J・クリシュナムーティ)。沈黙の静謐(せいひつ)の中に通うコミュニケーションもある。言葉の限界を超えるにはもう一段進化する必要がある。
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・言語概念連合野と宗教体験/『脳はいかにして〈神〉を見るか 宗教体験のブレイン・サイエンス』アンドリュー・ニューバーグ、ユージーン・ダギリ、ヴィンス・ロース
・ソクラテスの言葉に対する独特の考え方/『プルーストとイカ 読書は脳をどのように変えるのか?』メアリアン・ウルフ
『日本株スーパーサイクル投資』宮田直彦(扶桑社、2014年)
「アベノミクス相場第二幕は、2016年にやってくる!」――そう断言するのは、プロも認めるテクニカルアナリストの宮田直彦氏。エリオット波動というテクニカル分析を用い、相場を見たところ、「歴史は繰り返される」「長期的に見ると、上昇の流れにある」と言う。
日経平均は3万円へと向かっていくのが見えた――。そんな超強気相場「スーパーサイクル」に突入しつつあるのである。本誌では、過去起きた事例を歴史とともに振り返り、そして中長期の展望などを解説。さらに、宮田氏によるリアルな取引実例も紹介している。株初心者のみならず、今後の相場が気になるすべての方には必読だ。
2014-04-23
忠誠心がもたらす宗教の暗い側面/『宗教を生みだす本能 進化論からみたヒトと信仰』ニコラス・ウェイド
・ウイルスとしての宗教/『解明される宗教 進化論的アプローチ』 ダニエル・C・デネット
・進化宗教学の地平を拓いた一書
・忠誠心がもたらす宗教の暗い側面
・宗教と言語
・宗教の社会的側面
・普遍的な教義は存在しない/『神はなぜいるのか?』パスカル・ボイヤー
・キリスト教を知るための書籍
・宗教とは何か?
宗教は強固で独特な社会を作り上げるので、それぞれの文化の決定的な特徴となり、西欧キリスト教、イスラム教、ヒンドゥー教など、偉大な文明へと発展した。
一方、宗教には行きすぎた激しい忠誠心がもたらす暗い側面もある。内部の反抗者や、正統派の妨げになると見なされた者には残忍な行動がとられる。社会は宗教の名のもとに審問をおこない、異端や魔女と見なした人々を処刑し、異神を崇める人々を拷問にかけたり、追放したりしてきた。
社会が外敵と戦うとき、宗教はほぼかならず重要な役割を担う。決まって戦争を正当化し、支持するために用いられてきたし、キリスト教とイスラム教、プロテスタントとカトリック、シーア派とスンナ派などのあいだに、多くの戦争を引き起こしてきた。ただ、そんな宗教戦争も、飢えたように生贄を求めたアステカ王国ほど残忍ではない。アステカでは毎日、ときには1回の儀式で何千という人々が生贄にされ、彼らの血が太陽神への食物として捧げられていた。
宗教とは何か。宗教は人の営為のなかでも、もっとも高潔で崇高なものを引き出しうるが、同時にもっとも残虐で卑劣なものも呼び起こす。宗教は世代から世代へと伝えられる聖なる知の集積にすぎないのだろうか。それとも、たんなる社会遺産をはるかに超えるものであり、何かを崇拝しようとする、深く根づいた本能的衝動から生まれるものなのだろうか。
【『宗教を生みだす本能 進化論からみたヒトと信仰』ニコラス・ウェイド:依田卓巳〈よだ・たくみ〉訳(NTT出版、2011年)】
僭越ながら私が一言で述べよう。「土地の結びつきを感情的――あるいは精神的――なつながりに深めるのが宗教である」と。裏切り者を叩く――あるいは殺す――のはイニシエーション(通過儀礼)そのものである。組への忠誠を誓う暴力団構成員を見れば一目瞭然だ。
もう一歩深く考察すれば組織化と権威の問題が複雑に絡んでくることがわかる。権威については以下の書籍を必読のこと。
・脆弱な良心は良心たり得ない/『無責任の構造 モラルハザードへの知的戦略』岡本浩一
・http://d.hatena.ne.jp/sessendo/20090316/p1">服従の本質/『服従の心理』スタンレー・ミルグラム
・父の権威、主人の権威、指導者の権威、裁判官の権威/『権威の概念』アレクサンドル・コジェーヴ
・現在をコントロールするものは過去をコントロールする/『一九八四年』ジョージ・オーウェル
自分が他人に比べてあまりものが見えず、また、あまり遠くまで見えないと納得している者は、他人によって容易に【操られる】、あるいは【導かれる】。だから、彼は可能な対抗行為を自覚的に放棄するのである。彼は他人から色々な行為を被るが、それらに反対せず、それらに抗議せず、それらを議論せず、問いを発することさえしない。彼は他人に「盲目的に」追随するのである。
【『権威の概念』アレクサンドル・コジェーヴ:今村真介〈いまむら・しんすけ〉訳(法政大学出版局、2010年)】
いつの世も新しい時代の扉を開くのは一人の天才である。そして科学なき時代は宗教の時代であった。音楽や文学・芸術も宗教行為として機能したことだろう。また何らかの予知能力やヒーリング能力を発揮したと想像される。人々が天才に注目し、彼――あるいは彼女――の言葉に耳を傾けた時、そこに宗教が生まれた。新しい儀礼は新しい社会の誕生を象徴する。それは脳の回路の劇的な変化を示すものだ。このようにして人類の物語は更新され続けてきた。今、人類の物語は経済で止まっているように見える。
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2014-04-22
宗教は恐怖に基いている/『宗教は必要か』バートランド・ラッセル
・偶然性
・イエスの道徳的性格には重大な欠点がある
・残酷極まりないキリスト教
・宗教は恐怖に基いている
宗教は本来、主として恐怖に基いているとわたしは考えます。それはある意味においては、未知のものに対する恐怖であり、またある意味では、あらゆる悩みや論争にあつて、そばから援助する兄を持つているという風に感じたい希望なのです。恐怖――神秘的なものに対する恐怖、敗北の恐怖、死の恐怖――がこのこと全体の基礎なのです。恐怖は残酷さの親です。それ故残酷さと宗教とが手に手を取つて行つたとしても不思議ではありません。なぜならば恐怖はそれら二つのものの基礎なのですから。この世のなかで、今やわれわれは、少しはものごとが解るようになり始めました。そして一歩一歩、キリスト教徒の宗教、教会、あらゆる古い教えに反対して、のしあげてきた科学の助けによつてそれらのことを、少しは支配し始めることができるようになりました。科学は人類がかくも永い間そのなかで住んできたところの気の弱い恐怖を克服するのにわれわれを助けることができます。これ以上創造的な拠り所をさがしまわることなく、これ以上、天に同盟者を造り出すことをせず、教会がこの何十世紀のあいだなしてきたような類の場所にではなくて、この世を住むに適しい場所にするため、この地上のここにおけるわれわれ自身の努力に目をむけるために、科学はわれわれを教えることができますし、われわれ自身の心も、われわれに教えることができると思います。(「なぜ私はキリスト教徒ではないか」)
【『宗教は必要か』バートランド・ラッセル:大竹勝訳(荒地出版社、1959年)】
直訳調で実に読みにくい。半世紀以上経ていることだし、そろそろ新訳が出てもいい頃合いだろう。
未知への恐怖がわかりやすい動画があるので紹介する。パプアニューギニアのある部族が初めて白人と遭遇した際のドキュメンタリー映像である。彼らの反応から色々なことを考えさせられる。我々だって火星人と遭遇すれば大差はないことだろう。時間のない人は2番目の動画を見よ。
・初めて白人と接触したパプアニューギニアの部族の反応 : カラパイア
宗教が人々の不安に付け込んでいることは誰もが知っている。この動画を見ると無知にも付け込んでいることが理解できる。白人が文明の利器を使って「私は神だ」と宣言すれば、そこに宗教が生まれたことだろう。
死者を葬るところから宗教は発生したと思われるが、天変地異に対する恐怖が宗教を不可欠なものとしたに違いない。一寸先は闇である。現代の教団はその暗さを利用して信者を獲得する。昔は動物や人間を生け贄としたが、今日では時間とカネに応じて安心が供給される。信じる者はすくわれる。足元を。
女性に向かって「俺を信じろ」というのは大抵の場合、結婚詐欺を目的としている。嘘をつく時は必ず「俺の目を見ろ」と囁く。確かに信じる行為なくして我々の生活は成り立たないが、何を信じ何を信じないかは個人の自由であって他人が強要することではない。
人は空腹を感じると食べ物を欲する。同じように不幸を感じると幸福を欲する。そして病気になると健康を欲する。食べ物は買えるが、幸福や健康は買うことができない。そこで宗教の出番となる。根拠のない希望を与えるのが彼らの仕事だ。
希望といえば聞こえはいい。それが単なる願望や欲望であったとしても。多くの宗教が行っていることは現実に目を閉ざすことだ。目をつぶれば不幸に対して不感症になることができる。
熱烈な信仰者は熱烈な共産党員と同じ表情をしている。マルチ商法で成功した連中はどこか教祖っぽい雰囲気を醸し出す。
本物の宗教的感情は恐怖から離れた位置に存在する。恐怖心は必ず依存を目指す。あらゆる不確実性を受け入れ、それを楽しむことがよりよい人生を送る秘訣であろう。特定の宗教は必要ない。
2014-04-21
残酷極まりないキリスト教/『宗教は必要か』バートランド・ラッセル
・偶然性
・イエスの道徳的性格には重大な欠点がある
・残酷極まりないキリスト教
・宗教は恐怖に基いている
もしわれわれがキリスト教徒の宗教につかまつていなければ、われわれみなは悪人になるというのであります。キリスト教にすがりついていたひとびとのほうが、大部分ひどく悪かつたようにわたしには見えます。いかなる時代でも宗教が強烈であればあるほど、また独断的な信仰が深ければ深いほど、それだけ残酷さは甚だしく、事態は悪化していたという、この奇妙な事実を発見なさるでしょう。いわゆる信仰の時代に、すべての完全さをもつて、ひとびとがキリスト教を実践信仰していた時代に、拷問をともなつた宗教裁判があり、魔女として焼き殺された無数の不幸な女性があ(ママ)りました。そして宗教の名において、あらゆる種類の残酷さがあらゆる種類のひとびとに行われたのであります。
世界じゆうを見渡すならば、皆さんは、人間感情のあらゆる小さな進歩も、刑法のあらゆる改正も、戦争縮小へのあらゆる歩みも、有色人種の待遇改善へのあらゆる歩みも、奴隷制度の緩和も世界におけるあらゆる道徳的進歩も、世界の組織化された教会によつて、徹頭徹尾反対されてきたことを発見なさるでありましよう。わたしは敢えて申しますが、諸教会として組織されたキリスト教徒の宗教は、世界の道徳的な進歩の主なる敵であつたし、今なおそうであります。(「なぜ私はキリスト教徒ではないか」)
【『宗教は必要か』バートランド・ラッセル:大竹勝訳(荒地出版社、1959年)】
この後ラッセルは具体例として梅毒を患う男性と結婚した女性の例を示す。カトリック教会は離婚を認めない。更には避妊をも許さないのだ。このためエイズ蔓延を助長しているという指摘が数多くある。ラッセルは「悪魔的な残酷さ」と述べる。
キリスト教は人類史上最悪の宗教といってよい。彼らが行ってきた殺戮はイスラム教の比ではない。宣教という名で思想的に侵略し、神の名のもとに大量虐殺を正当化するのだ。クリシュナムルティが繰り返し否定し続けた「組織化された宗教」(=制度宗教)も具体的にはカトリック教会を指す。
魔女狩り、奴隷制度、インディアン虐殺、帝国主義による植民地支配――これらはすべてキリスト教の歴史だ。発展途上国がいつまで経っても豊かになることができないのは、彼らが築いたシステムに起因する。
アメリカの傲慢を見よ。かの国はプロテスタント原理主義国家だ。アメリカの思い上がりを支えているのは神の存在に他ならない。彼らが説く正義は邪悪にまみれている。そして世界最大のテロ国家でもある。
ラス・カサスのような人物もいたことは確かだが、キリスト教がラス・カサスを生んだわけではなく、ラス・カサスがたまたまキリスト教徒であったというだけに過ぎない。
世界を混乱に導いているのは明らかにキリスト教とユダヤ教である。これらの宗教に鉄槌を加え、白人の目を覚まさせる思想を樹立する必要がある。インディアンの思想が理想的だが、現実的に考えるとジブリ作品で攻めるしかないように思う。キリスト教への対抗思想としてアニミズムの復興を目指すべきだ。それがブッダとクリシュナムルティを受け入れる素地となることだろう。
2014-04-20
イエスの道徳的性格には重大な欠点がある/『宗教は必要か』バートランド・ラッセル
・偶然性
・イエスの道徳的性格には重大な欠点がある
・残酷極まりないキリスト教
・宗教は恐怖に基いている
これらの格言の立派さを認めた上で、わたしは、福音書に描かれているところのキリストに最高の聰明さも、最高の善も認めることができるとは信じられない、幾つかの点について述べることにいたします。そしてここでは、歴史的な問題には関係しないことに致します。歴史的にみれば、キリストが実際存在していたかどうかは、甚だ疑問でありますし、存在していたとしましても、彼についてわれわれは何も知らないのであります。(「なぜ私はキリスト教徒ではないか」)
【『宗教は必要か』バートランド・ラッセル:大竹勝訳(荒地出版社、1959年)以下同】
重要な講演なのでどんどん紹介しよう。ラッセルはきちんと聖書を読んだ上でその矛盾を突く。そしてキリスト教最大のタブーである「イエスの実在問題」にも触れる。余談だがクリシュナムルティも「イエス・キリストは存在しなかった人物かも知れない」と述べている(『キッチン日記 J・クリシュナムルティとの1001回のランチ』マイケル・クローネン)。正真正銘のイエスの言葉は残っていないし、聖書はオリジナルも複製も存在しない(バート・D・アーマン)。つまりキリスト教とは壮大な伝言ゲームなのだ。
そこで、道徳的な問題にやつてきます。わたしの考えでは、キリストの道徳的性格には一つの重大な欠点があります。それは彼が地獄を信じていたということです。真に深く人情味のあるひとならば、永遠の罰というものを信じることはできないという気がいたします。福音書に描かれているキリストは、たしかに永遠の罰を信じていたし、彼の説教に耳を傾けようとしないひとびとに対する報復的な憤激の反映されているのを発見するのであります――これは説教者には珍しくない態度ではありますが、たしかに至高の立派さからは、多少、おちるのであります。たとえば、そのような態度は、ソクラテスには見られません。彼が自分の意見に耳を傾けようとしないひとびと対しても、極めて愛想がよく、思いやりがあるのがわかります。そして、わたしの考えでは、憤慨の線にそうより、その線にそつていくことが聖人にははるかに適わしいものであります。おそらく、皆さんは、ソクラテスが死に臨んだときに、言つたたぐいのこと(※『パイドン 魂の不死について』)を御記憶のことと存じますが、ああいつたことがらを、彼は日頃自分の意見に同意しないひとびとに、いつも言つていたのであります。
福音書のなかで、キリストがこう言つているのを発見なさるでしよう。「なんじら蛇どもよ、さそりのともがらよ、いかにして地獄ののろいをのがるべけんや。」それは彼の説教を好まなかつたひとびとにむかつて言われたのです。それは、実際、わたしの考えでは、最善の語調とは言えません。そして地獄について沢山のこういつたことがらがあるのです。もちろん、聖霊に対する罪については、よく知られているテクストがあります線「聖霊にさからいて語るものは、この世においても、来世においても許されざるべし。」そのテクストは世のなかに、言いつくされないほどのみじめさをひきおこしました。というのは、種々雑多なひとびとが聖霊に対する罪を犯したと想像し、この世においても、来世においても許されないだろうと考えたからであります。実際、性格のなかに、適当な親切気があるひとならば、そのようなたぐいの心配や恐怖をもたらすようなことはしないと考えます。それからキリストは言うのです、「人の子は天使をつかわし、天使たちは彼の御国より、罪ある総てのもの、不正をなすものをあつめ、炉の中に投げ入るべし、嘆きとはぎしりおこるべし。」そして、彼は嘆きとはぎしりについて説くのであります。それはつぎつぎの句にあらわれるので、嘆きとはぎしりを瞑想することには、一種の快楽があることが、読者には明らかになります。そうでないのなら、あんなに何回も出てくるはずがありません。それから、皆さんは、もちろん、羊と山羊のこと、再来のとき、羊と山羊を分けるという話を御記憶でしよう。キリストは山羊に言おうとするのです「なんじら、のろわれたるものよ、われより離れて、とこしえの火に落ちよ。」彼はつづけて言うのです。「そしてこれらのものはとこしえの火に入れらるべし。」それからまた彼は言うのです「もし汝の手あやまたば、そを切り捨てよ、かたわとなつて生命を得るは、両手を持ちて地獄の火に入るにまさればなり。その火は消ゆることなし、そこにては蟲けらは死ぬことなく、火は消ゆることなし。」彼はそのことも何回となく繰返すのです。この教義のすべて、すなわち地獄の火が罪に対する罰であることは残酷さの教義であると考えなければなりません。それは残酷さをこの世にもたらし、このよ(ママ)のひとびとに残酷な拷問を与える教義です。そして福音書のキリストは、彼の記録者たちが彼を表現しているままにうけとるとするならば、その残酷さについては、一部分責任があると、たしかに考えられなければなりません。
日蓮も地獄を信じていた。イエスも日蓮も「怒りの人」であったのだろう。怒りは罰を欲する。
イエスがキリスト(救世主)であるならば、「地獄をつくったのもあんただろ?」という話にならないのだろうか? 創造主は自分と似せた姿として人間をつくったわけだが、あまり上手くいかなかったようだ。まるで腕の悪い大工みたいだ。
罪人を裁くという発想はコミュニティに由来するもので宗教的価値ではあるまい。集団のルールを犯したり利益を損なった場合に我々は彼を「犯罪者」と認定する。チンパンジーのコミュニティであればその場で撲殺される。人間社会では裁判という手続きを経るが原理は同じだ。多少時間をかけるだけの違いだ。
罪を強調する宗教は人々の憎悪を掻き立てる。ファナティックとは宗教的熱狂と狂信者を意味する言葉だ。もう一歩踏み出せば大量虐殺へと至る。あらゆる熱狂には暴力的な衝動が潜んでいる。その残酷さをラッセルはひたと見つめた。
翻訳は「キリスト」となっているが、「イエス」と表記するのが正しい。
・人間は人間を拷問にかけ、火あぶりに処し、殺害してきた
息子を殺された母親、執行直前の死刑囚を免罪 イラン
onologue - 息子を殺された母親、執行直前の死刑囚を免罪 イラン http://t.co/YpsmcFytxj
— 小野不一 (@fuitsuono) 2014, 4月 19
・AFP 2014年4月18日
2014-04-19
偶然性/『宗教は必要か』バートランド・ラッセル
・『仏教とキリスト教 イエスは釈迦である』堀堅士
・偶然性
・イエスの道徳的性格には重大な欠点がある
・残酷極まりないキリスト教
・宗教は恐怖に基いている
・ラス・カサスの立ち位置/『インディアスの破壊についての簡潔な報告』ラス・カサス
・キリスト教を知るための書籍
・宗教とは何か?
とにかく、もうニュートン式の、たれにも理解できないけれども、ある理由で、自然は統一された様式で動作をするといつたたぐい(ママ)の自然の法則は通用しないのです。今では、われわれが自然の法則だと考えていた沢山なことが、実は、人間の習慣でしかないことを発見しているのであります。御承知のように、天体の空間のどんな違いにおいてもなお三呎(※フィート)は1ヤードです。これは、明らかにおどろくべきことではありますが、どうも自然の法則とは言いかねるのであります。そして自然の法則とみなされてきた多くのことはそのたぐいであります。これに反して、原子が実際になすところのことになんらかの知識を得ることができる場合には、ひとびとが考えていたほどには、法則に従つていないことが解るでありましょう。そして到達することのできる法則は、偶然から現れる類のものにそつくりな統計的平均値なのであります。御承知のように、骰子を振つたなら、6の目が二つでるのは大体36回に一度という法則がありますが、われわれは骰子の目がでるのが神の意向によつて規正されている証拠だとはみなしません。反対に、6の目が二ついつもでるならば、神の意向があつたと考えるべきでありましよう。自然の法則というのは、そのうちの沢山なものについての、そのような類のものであります。それは偶然性の法則から出てくる統計学的平均値にすぎず、そのことが自然の法則に関するすべてのことを昔にくらべて、甚だしく影を淡くしているのであります。(「なぜ私はキリスト教徒ではないか」)
【『宗教は必要か』バートランド・ラッセル:大竹勝訳(荒地出版社、1959年)】
1927年に行われた有名な講演が冒頭に収められている。ラッセルは回りくどいほど丁寧に、そして時々辛辣なユーモアを交えて語る。時代は第一次世界大戦から第二次世界大戦に向かっていた。ヨーロッパで神を否定することは、日本で天皇を否定するよりも困難であったと思われる。それをやってのけたところにラッセルのユニークさ(独自性)がある。アインシュタインも無神論者であったが神の正面に立つことはなかった。
原子の振る舞いを例に挙げているのはブラウン運動や熱力学の法則が念頭にあったのだろう。また量子力学が確立されたのが1927年であるからラッセルは当然知っていたはずだ。特定の素粒子の位置は不確定性原理によって確率でしか捉えることができない。
人は不幸や不運が続くと「祟(たた)り」に由来すると考えがちである。これがアブラハムの宗教世界では「神が与えた試練」すなわち「運命」と認識される。つまり物語は偶然(あるいは非均衡)から生まれるのだ。ラッセルはサイコロの例えを通して明快に説く。
脳は時系列に沿って因果関係を構築するため、相関関係を因果関係と錯覚する。
・相関関係=因果関係ではない/『精神疾患は脳の病気か? 向精神薬の化学と虚構』エリオット・S・ヴァレンスタイン
・回帰効果と回帰の誤謬/『人間この信じやすきもの 迷信・誤信はどうして生まれるか』トーマス・ギロビッチ
・宗教の原型は確証バイアス/『動物感覚 アニマル・マインドを読み解く』テンプル・グランディン、キャサリン・ジョンソン
そして宗教は人々の不幸と不安に付け込んで商売を行う。免罪符(贖宥状)・お守り・お祓いは金額に換算される。罪を軽くするには神様への賄賂が必要なのだ。
正確に言えばラッセルはキリスト教批判を目的にしたわけではなかった。彼は科学的なものの見方を披瀝しただけであった。ヨーロッパから神を遠ざけた人物としてラッセルはニーチェと双璧を成すと考える。
・宗教と科学の間の溝について
・日本に宗教は必要ですか?/『クリシュナムルティの教育・人生論 心理的アウトサイダーとしての新しい人間の可能性』大野純一著編訳
・無意味と有意味/『偶然とは何か 北欧神話で読む現代数学理論全6章』イーヴァル・エクランド
・バートランド・ラッセル
2014-04-18
呼吸法(ブリージング)/『ストレス、パニックを消す! 最強の呼吸法 システマ・ブリージング』北川貴英
・『火の呼吸!』小山一夫、安田拡了構成
・恐怖心をコントロールする
・呼吸法(ブリージング)
・呼吸をコントロールする
・武の思想と知恵 平直行✕北川貴英
・町井勲×北川貴英(システマ)
・『「疲れない身体」をいっきに手に入れる本 目・耳・口・鼻の使い方を変えるだけで身体の芯から楽になる!』藤本靖
・『BREATH 呼吸の科学』ジェームズ・ネスター
・『釈尊の呼吸法 大安般守意経に学ぶ』村木弘昌
・悟りとは
1.楽な姿勢で座ります。
2.肩の力を抜いて手の平(ママ)を上向きにして膝に載せ、息が手のひらに伝えるように意識しつつ、普段より強く長めに呼吸をします。
3.これを繰り返すと、手のひらがぽかぽかして来たり、呼吸による圧力が伝わってくるのがわかるでしょう。
4.5分ほどかけて続けて終了です。首に力が入っていると、のぼせたり、立ちくらみになったりすることがあります。そういう時はすぐに休み、気分が落ち着いてから首や肩を回したりして、凝りをほぐすようにしましょう。
【『ストレス、パニックを消す! 最強の呼吸法 システマ・ブリージング』北川貴英(マガジンハウス、2011年)以下同】
基本的なことだが呼吸とは鼻から吸って口から吐くことをいう。北川は「口をすぼめる」と書いているが、あまり気にすることもあるまい。大口を開ける必要はない。色々な呼吸法が示されているが、一番手っ取り早く効果を感じられるのがこれだ。寒い時にやってみるといい。意識を手のひらに向けることが大事だ。続けて足の裏も同様に行う。
仏教の瞑想のひとつに数息観(すそくかん)というのがある。これは鼻から吐いても構わない。ただひたすら息を勘定するのだ。焦った場合にやるとわかるが中々効果がある。確か米軍かCIAでも教えているはずだ。
・数息法(気功の呼吸法)
・数息観について
病気や怪我などで痛みを感じる場合にも効果があると思われる。
1.吐きながら1歩歩きます。
2.止めながら1歩歩きます。
3.吸いながら1歩歩きます。
4.止めながら1歩歩きます。
5.これを1~3分続けたら、同じことを2歩のペースでやります。つまり2歩吐き、2歩止め、2歩吸い、2歩止めるサイクルを繰り返すのです。
6.1~3分ほど続けたら、3歩、4歩~10歩と徐々に歩数のサイクルを増やし、10歩まで行ったら9歩、8歩と徐々に歩数を戻します。
7.1歩まで戻ったらおしまいです。
歩数が増えるほど息を止めるのが苦痛になってきます。吸い過ぎでも吐き過ぎでもない、一番楽に息を止めていられる空気の量を見出しましょう。するとこれまでよりも厳密に自分の呼吸と姿勢をチェックすることができるはずです。息を止めることで緊張が生まれたら、その部位を軽く動かしたりして緊張を分散させるようにしましょう。息を止めるという負荷の中で快適さを保ち、かつ冷静に回復するのがこのエクササイズのポイントです。
私はこれを実践して瞑想のコツをつかんだ。階段の昇り降りで行ったところ走る姿勢まで変わった。「生きる」とは「息する」ことの謂(いい)である。呼吸を見つめることは生を実感する行為でもある。
我々は日常生活で身体を意識することが殆どない。意識に上るのは違和感や痛みであって身体そのものではない。明らかに身体を見失っているといってよい。呼吸を意識することは身体を調(ととの)える第一歩なのだ。
・歩く瞑想/『君あり、故に我あり 依存の宣言』サティシュ・クマール
2014-04-17
恐怖心をコントロールする/『ストレス、パニックを消す! 最強の呼吸法 システマ・ブリージング』北川貴英
・『火の呼吸!』小山一夫、安田拡了構成
・恐怖心をコントロールする
・呼吸法(ブリージング)
・呼吸をコントロールする
・武の思想と知恵 平直行✕北川貴英
・町井勲×北川貴英(システマ)
・『「疲れない身体」をいっきに手に入れる本 目・耳・口・鼻の使い方を変えるだけで身体の芯から楽になる!』藤本靖
・『BREATH 呼吸の科学』ジェームズ・ネスター
・悟りとは
日常における不安やストレス、不調、その他のありとあらゆる不快なこと。その根っこを探ってみると、多くは恐怖心に行き当たります。
恐怖心は天災や自己といった非常事態にだけ伴うものではありません。
日常生活のいたるところに立ち現れて、私たちの生活に大きな影響を与えているのです。
例えば「大事な会議に遅刻をしてしまう!」と焦って先を急いでいるとき。学生が道いっぱいに広がっておしゃべりをしながら歩いていてなかなか前に進めなかったりすると、思わずカチンとしてしまったりすることでしょう。そういう「カチン」を感じたら、その奥にある感情を少し意識してみてください。おそらく遅刻によって信頼を損なう恐怖、大きな失敗へとつながる恐怖、メンツを潰す恐怖、仕事を失う恐怖、家族を露頭に迷わせる恐怖といった、実にさまざまな恐怖心を見出すことができるのではないでしょうか。このように恐怖心はさまざまな形で感情をかき乱し、あなたから正常な判断力や行動力を失わせる原因となってしまいます。
また一見恐怖心とは関係なさそうな行為が、実は恐怖心から逃れようとする懸命な努力の表れであることもあります。夜の盛り場で過剰にはしゃぐ大学生たちは、漠然とした将来への不安を紛らわそうと必死なのかも知れません。仕事熱心と言われるような人も、その根底には他者から認められないことへの恐怖、敗北への恐怖などが原動力となっているかも知れません。メールに依存したりTwitterなどのコミュニケーションサイトにはまったりするのも、やはり他者への恐怖心が一因となっているのではないでしょうか。
このように恐怖心から逃れるために何かに頼り、いったんその心地良さに慣れてしまうと、それがクセになってそれなしでは生きられないくらい、のめり込んでしまうこともあります。
【『ストレス、パニックを消す! 最強の呼吸法 システマ・ブリージング』北川貴英(マガジンハウス、2011年)】
システマは旧ソ連軍で採用された格闘術で長い間、機密扱いをされていたがソ連崩壊後にその内容が公開された。打撃、関節技はもとより、あらゆる武器の使用法・防御法を網羅している。私が知り得る限り、世界最強の総合格闘術といってよい。飽くまでも実戦に即しているため競技としての試合は行われない。このため格闘技とは呼称しない。
北川はシステマ東京支部の代表を務める公式インストラクターである。文章がこなれていて驚かされた。
戦場を支配するのは恐怖だ。恐怖心に駆られると視野は狭まり、些細なことに過剰反応を示し、自ら墓穴を掘ることになる。システマは恐怖を呼吸法で制御する。呼吸を意識することは視点をずらすことでもある。瞑想で呼吸を重んじるのはこのためだ。呼吸は自律神経で唯一コントロールできる機能でもある。
恐怖は呼吸を止める。あるいは極端に浅くする。身体は硬直し動けなくなる。一種の仮死状態といってよいだろう。そこで鼻から息を吸い込むことができれば身体は直ちにリラックスする。こういうことは普段から練習しておかないと出来るものではない。ちょっとびっくりした時や慌てた時に自分の呼吸に意識を向ける。実際にやってみると驚くほど色々なことに気づかされる。身体と脳は背骨でつながっているが、たぶん呼吸でもつながっているような気がする。神経と酸素の違いだろうか。
親に抑圧されながら育った子供は大抵声が小さい。きっと恐怖心が呼吸を浅くしてしまったためなのだろう。
思想・哲学や宗教は真正面から恐怖にアプローチすべきだと私は思うが、クリシュナムルティ以外には知らない(『恐怖なしに生きる』)。宗教に至っては恐怖で信者を支配する有り様である。罪と罰のセットメニュー。お持ち帰りに「先祖の祟り」はいかがでしょうか?
システマが恐怖に着目しているのは、やはりその思想性の高さによるものだろう。具体的な呼吸法については次回記す。
2014-04-16
カウンセラーのパーソナリティ/『カウンセリングの技法』國分康孝
・コミュニケーションの技法
・カウンセラーのパーソナリティ
・『どんなことがあっても自分をみじめにしないためには 論理療法のすすめ』アルバート・エリス
カウンセリングの技法というものは、カウンセラーのパーソナリティの表現でなければならない。心の中では人を軽蔑しながらも、口先だけで「うんうん」と受容するのは欺瞞的である。心の中と表現(技法)とが一致するのでなければならない。
【『カウンセリングの技法』國分康孝〈こくぶ・やすたか〉(誠信書房、1979年)以下同】
國分の動画を見つけた時は昂奮した。線のくっきりした顔つきであるにもかかわらず柔和だ。話し方も頗(すこぶ)る優しい。さすがカウンセラーである。そして何と言っても高名な人物に特有の傲然とした雰囲気がない。ありのままの人柄が伝わってくる。
「カウンセリングの技法で問われるのは、お前さんの性格だよ」と國分は言い切っている。医師と患者は対等な関係ではない。困っているのは患者だ。意識するとしないとにかかわらず上下関係が構築されやすい。同じ言葉であっても人によって響き方がまるで違う。そこに心の不思議な作用がある。國分は技法とパーソナリティが一体化する条件を四つ挙げる。部分的に紹介しよう。
【人好き】人好きの人間とは、自分を好いている人間である。自己嫌悪の強い人は他者嫌悪も強い。人の好き嫌いの激しい人は自分への好き嫌いも激しいはずである。
カウンセリングは人の面倒をみる仕事であるから、人好きでないと永続きしない。負担になってくるからである。自分を好くとは自己受容のことである。あるがままの自分を受け入れることである。たとえば、ケチな自分をとがめているとケチな相手をもとがめたくなる。ケチな自分を許すとケチな相手をも許せるようになる。(後略)
【共感性】(中略)共感性はクライエントと類似の感情体験があるとき生じてくる。それゆえ、カウンセラーは日常生活でできるだけ多様な感情体験をしておくのがよい。多種多様な人とつきあう、多種多様な状況に身をおいてみる、多種多様な読書をするなどである。苦労は買ってでもせよということになる。実戦を知らない作戦参謀にはなるなということである。共感性なしに面接技法を用いるとき、それは会話術に堕してしまう。
【無構え】カウンセラーが四角四面なパーソナリティでは来談者もリラックスできない。カウンセラーは酒を飲んでいないときでも、酒に酔ったときのような心境でなければならぬ。すなわち、天真爛漫、天衣無縫でなければならぬ。防御がなければないほど好ましい。(後略)
【自分の人生】カウンセラーは自分の人生をもたねばならない。自分の人生をもたないものは、他人の人生を自分の人生のようにみなしてつい深入りしてしまう。自分の人生がない人は、ややもすると人が幸福な人生を築くと嫉妬しがちである。自分の人生が幸福なとき、初めて人の幸福が喜べるのである。(後略)
実にわかりやすい話である。現場の体験から導き出された智慧といってよい。相談される機会が多い人ならピンとくるはずだ。互いが心を開けばこそ、胸を打つ対話が成り立つのだ。コミュニケイトとは「通じ合う」ことだ。開かなければ通じない。
行き詰まりとは先に進めない状態を指す。苦しい胸の内を開き、「そうか――」と話を聞いてあげるだけでもパッと光が差すこともある。苦悩には目方がある。その重みにこちらがしっかりと踏みこたえることができないと、単なる苦悩の二重奏で終わる。私はルワンダ本を読んだ時にそうなった。深海に引きずり込まれたような心境であった。その状態が1年以上続いた。
多くの人が人生で最大のストレスを感じるのは家族や伴侶の死である。この時、物語化に失敗すると立ち直ることが難しくなる。特に不慮の事故や痛ましい事件の巻き添えとなった場合、理窟で乗り越えることは不可能だ。その意味からも山下京子や河野義行の著作を読んでおくべきだ。
人生どんな出会いがあるかわからぬものだ。だからこそ人との出会いを求めて貪欲に行動することが正しい。今はネットもあるのだから、有効な武器として活用すべきだろう。
2014-04-15
読書とは手の運動/『本の読み方 墓場の書斎に閉じこもる』草森紳一
読書といえば、頭のみを使うと思っている人が多い。それは、誤解で、手を使うのである。本をもつのにも、手が必要である。頁をめくるにも、手の指がなければ、かなわない。読書とは、手の運動なのである。
ためしに他人の読書している姿をこっそり観察してみるがよい。たえず手が、せわしなく動いているのに気づくだろう。手のひらや、5本の指を器用に動かしながら本を読んでいる。読書は、麻雀と同じように、頭の運動なので、老化を防ぐというが、実際は、手の運動だ。
【『本の読み方 墓場の書斎に閉じこもる』草森紳一〈くさもり・しんいち〉(河出書房新社、2009年)以下同】
ストンと腑に落ちた。ああ、そうか――。それで後半になると読むスピードが速くなるわけだ。私の場合、読書の速度は左手の荷重に関連しているようだ。たぶん横書きの本が苦手なのは左手が混乱するためだろう。
本を読む手は指揮者のように動いてとどまることを知らない。乗ってくると右手の指は常に左ページの下を摘(つま)んでいる。また重要な内容と思われるページは両手の指がページ上部を抑えていることが多い。紙の手触りだけではなく、ページをめくる音も大きな要素だ。微速度撮影をすれば楽しい映像ができあがることだろう。
私がタブレット型端末を躊躇するのは、本能的に手の動きが阻害されることの自覚があったためだと思われる。そう考えると本の大きさと読書運動量は比例するわけだから、巨大な本を読めば情報が脳に刻まれる深度も異なってきそうだ。ヘビー級の本があって然るべきだろう。
またヌードグラビア以外でも袋綴じは恐るべき威力を発揮する可能性がある。小説の山場は袋綴じにした方が盛り上がりそうな気がする。
結局のところ会話にジェスチャーが不可欠なのと一緒だ。情報の受信は脳だけではなく脊髄も関係しているに違いない。
「本てなあ、それかね。そいつを読むてえのが解らねえ。お前さまの白眼(にら)んでなあ、其の白えところかね? それとも間(あひだ)の黒えところかね」(牧逸馬『紅茶と葉巻』、『現代ユウモア全集 12巻』より)
アフリカから来たばかりの黒人が、読書している主人の肩越しに言う科白(せりふ)である。牧逸馬〈まき・いつま〉の名前を初めて知った。長谷川海太郎〈はせがわ・かいたろう〉のペンネームのひとつで、他には林不忘〈はやし・ふぼう〉、谷譲次〈たに・じょうじ〉などがある。林不忘といえば丹下左膳で広く知られる。
この科白を紹介した後、草森はあれこれと深読みを試みているのだが少々強引だ。たとえ文字を知らなくともページの図と地を入れ替えることはあり得ない。ここには反語的メッセージが込められているのだ。つまり読書とは「黒い」部分を読む行為であるが、真の読書は「白い」余白、すなわち行間を読む営みなのだ。
黒人の言葉が江戸弁になっているのがご愛嬌。
草森の文章は気取りすぎていて好きになれない。
2014-04-14
コミュニケーションの技法/『カウンセリングの技法』國分康孝
・コミュニケーションの技法
・カウンセラーのパーソナリティ
・『どんなことがあっても自分をみじめにしないためには 論理療法のすすめ』アルバート・エリス
まず第一に、カウンセリングは「行動の変容」を目標にする。人間が人間を治すとか変えるとかするのは高慢である。われわれにできることは相手に共感し、あるいは理解的態度を示すことであるという人がいるかもしれぬ。しかし、反論したい。何のために共感したり理解的態度を示そうとするのか。それはそのことにより相手を助けることができるからである。助かることができるとは、相手の行動の変容に効果があるということである。「いや、そうではない。効果など計算してはいない。そうせずにおれないからそうするのだ」というならば、それはプロフェッショナルな面接とはいえない。一定時間、一定場所で料金をとって面接するからには何らかの目的がなければならぬ。目的なしに料金をとるわけにはいかない。「治すのではない、非審判的・許容的雰囲気をつくるだけだ。あとは来談者が勝手に自己を変えていくのだ」といったところで、やはり非審判的・許容的な雰囲気をつくる目的を問うならば、それは行動変容の条件として不可欠だからということになろう。それゆえ、カウンセリングは学派の如何を問わず行動の変容を目指すものといえる。では、行動の変容とは何か。反応の仕方に多様性がでてくることである。今まで父にビクビクしていた人が、父に適当に冗談が言えるようになり、上司にビクビクしていた人が、上司に「ハイわかりました」と言うだけでなく、「……ですね」と復唱して確認しておけばよいという具合に、今までとは異なる反応を学習することである。この場合、反応の仕方といっても、たとえば異人種に対する偏見のような心の中の反応と、飲酒・喫煙・麻薬常習・盗みというような外的に観察しうる反応がある。カウンセリングは、この両者の反応の変容を目指すものである。
では、行動の変容を目指すカウンセリングはいかなる手段をとるのか。それは言語的コミュニケーションと非言語的コミュニケーションである。つまり、音声言語のやりとりや身体言語のやりとりを通して行動の変容を促進しようとするのである。
【『カウンセリングの技法』國分康孝〈こくぶ・やすたか〉(誠信書房、1979年)以下同】
1月にパソコンを新調したのだが、ホームページ作成ソフトのCDが見つからないため更新が滞っている。で、探すのも更新するのも面倒なんで、ブログに「必読書」のカテゴリーを設けた。読書の道標(みちしるべ)になれば幸いである。せっかくなんで心理学の必読書を以下に示しておこう。
・精神科医がたじろぐ「心の闇」/『平気でうそをつく人たち 虚偽と邪悪の心理学』M・スコット・ペック
・『自閉症裁判 レッサーパンダ帽男の「罪と罰」』佐藤幹夫
・唯幻論の衝撃/『ものぐさ精神分析』
・現代心理学が垂れ流す害毒/『続 ものぐさ精神分析』
・極限状況を観察する視点/『夜と霧 ドイツ強制収容所の体験記録』V・E・フランクル
・死線を越えたコミュニケーション/『生きぬく力 逆境と試練を乗り越えた勝利者たち』ジュリアス・シーガル
岡田尊司〈おかだ・たかし〉著『マインド・コントロール』を加える予定。
そして本書である。凡百のマネジメント本が100冊束になってもかなわない一書である。「コミュニケーションの技法」として読むことが可能だ。上記テキストからも明らかなように國分は実務家である。たぶんカール・ロジャーズの名を借りて来談者中心療法を悪用するカウンセラーが多かったのだろう。因みに患者をクライアント(来談者)と呼んだのはロジャーズを嚆矢(こうし)とする。
ロジャーズの手法は高度にシステム化されており、カウンセラーの意志力なくして実践は難しい。悪用するつもりがなくても、結果的に患者を野放しにすることも容易に想定できる。ま、閉ざされたスペースで適当に仕事をしている心療内科が多かったのだろう。國分は同業者に対して「仕事をせよ!」と呼びかけたのだ。
具体的なやり取りも紹介されていて、これが大変参考になる。とにかく無駄な理論や理屈がない。どこまでも具体性に基づき、効果を検証する。臨床の鑑(かがみ)だ。
影響を受けた人物として霜田静志〈しもだ・せいし〉を筆頭に挙げている。
私が20代の頃であった。私より年上のクライエントが私の言うとおりに動いてくれて、私も何かえらくなったような気持だという意味のことを言った。「國分君、それはね、君に頭を下げているのではないよ。君の学問に頭を下げているのだよ。それを忘れちゃだめだよ」と霜田静志は私を諭した。
こういうエピソードをさらりと書けるところがまた憎いではないか。
ビジネス、スポーツ、教育で人を育てる機会がある人は必読のこと。テクニックが身につくというよりも、コミュニケーションの幅が広がる。
私は、面接のほかに読書をすすめることがよくある。自分の正当性を主張してやまない母親には霜田静志の『叱らぬ教育の実践』(黎明書房)をすすめる。生徒に好かれない教師にはニイル『問題の教師』(黎明書房)をすすめる。自分の問題点に気づきカウンセリングへの意欲を高めるのがねらいである。簡便法の一つの試みである。効果は今のところ半々である。人生計画もなく留年や登校拒否をしている青年には井上富雄『ライフワークの見つけ方』(主婦と生活社)をすすめる。これは一念発起のきっかけになるようである。
カウンセリングをする場合の著者を支えている本として以下が紹介されている。
・Ph.D國分康孝教授の最終講義
・國分康孝の談話室
全員実名で告発! 袴田巌さんの罪をデッチあげた刑事・検事・裁判官
気骨を感じさせる記事だ。/全員実名で告発! 袴田巌さんの罪をデッチあげた刑事・検事・裁判官 | 経済の死角 | 現代ビジネス [講談社] http://t.co/KMVWsFUTTU
— 小野不一 (@fuitsuono) April 14, 2014
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— 小野不一 (@fuitsuono) April 14, 2014
日米関係の初まりは“強姦”/『黒船幻想 精神分析学から見た日米関係』岸田秀、ケネス・D・バトラー
岸田●ペリーがきたというのが、アメリカと日本の最初の関係のはじまりなわけですけれども、その最初の事件に関するアメリカ人の見方と日本人の見方に、非常に大きな開きがあって、そこに日米誤解の出発点があるんじゃないかと思います。日本の側から言えば、あれは強姦されたんです。
バトラー●文化に対する強姦ということは言えるんでしょうかねえ。
岸田●その理論的根拠については僕の書いた本のなかに述べておりますが、僕は、個人と個人の関係について言い得ることは集団と集団との関係についても言い得ると考えているわけです。強姦されたと言ったのは、司馬遼太郎さんですがね。僕はどこかで読んだんですけれども、そのとき、まさにそうだと僕は思ったわけです。日本が嫌がるのにむりやり港を開かされたのは、女が嫌がるのにむりやり股を開かされたと同じだと。ところがアメリカのほうは、近代文明をもたらしてあげたんだぐらいに思っている。
バトラー●そのつもりでしたね。
岸田●アメリカのほうは、封建主義の殻に閉じ籠もっていた古い日本を近代文明へと拓いた、むしろ恩恵を与えたぐらいのつもりで、日本のほうは強姦されたと思っているわけですね。同じ事件に関する見方が、かくも違っている。
バトラー●(省略)
岸田●ああいう形で日米が出会ったのは、やはり不幸な出会いだったんじゃないかと思います。いわばある男と女の関係が強姦ではじまったようなものです。そしてその強姦された女は、その男と仲よくしたいと思うんだけれども、いろいろなことから、どうしてもこだわりがあるわけです。
【『黒船幻想 精神分析学から見た日米関係』岸田秀、ケネス・D・バトラー(トレヴィル、1986年/青土社、1992年/河出文庫、1994年)】
ケネス・D・バトラーは東洋言語学博士でアメリカ・カナダ大学連合日本研究センターの所長を務めた人物。岸田の対談集はどれも面白いが本書の出来はあまりよくない。
私はペリー強姦説が岸田のオリジナルだと思い込んでいたので司馬遼太郎の名前を見て驚いた。
ペリー来航の意義は、圧倒的な武力による開国の強要だけではなく、また交易の開始でもなかった。政治と経済、文化といったあらゆる面において、日本が近代という巨大なシステムに吸収されるということだったのである。
【『近代の拘束、日本の宿命』福田和也(文春文庫、1998年)】
つまり強姦された挙げ句に、白人の家へ嫁入りさせられてしまったわけだ。そう。先進国一家だ。
憂鬱になってくる。強姦した相手が金持ちであったために結婚生活が何となく幸福に見えてしまう。日本の経済発展の底流にはそういう心理的な誤魔化しがあったのだろう。で、怒りの矛先はアメリカではなく中国や韓国に向かう。まったく捻(ねじ)れている。
しかも、黒船ペリーが開国を迫ったのは捕鯨船の補給地を確保するためだった(『環境と文明の世界史 人類史20万年の興亡を環境史から学ぶ』石弘之、安田喜憲、湯浅赳男)。現在、その捕鯨で我が日本は白人どもから叩かれている(有色人捕鯨国だけを攻撃する実態)。
「強姦」は喩えではない。アメリカ人は黒人奴隷やインディアンを実際に強姦しまくっている。ノルマンディー上陸作戦においては白人をも強姦している(「解放者」米兵、ノルマンディー住民にとっては「女性に飢えた荒くれ者」)。奴らのフロンティアスピリットとは強姦を意味するのかもしれない。
「世界の警察」を自認するアメリカは強姦魔であった。民主主義が有効であるならば、アメリカは倒されてしかるべき国家だ。
・黒船の強味/『日本の戦争Q&A 兵頭二十八軍学塾』兵頭二十八
・泰平のねむりをさますじようきせん たつた四はいで夜るも寝られず/『予告されていたペリー来航と幕末情報戦争』岩下哲典
・意識化されない無意識は強迫的に受け継がれていく/『世界史講師が語る 教科書が教えてくれない 「保守」って何?』茂木誠
2014-04-13
無意味と有意味/『偶然とは何か 北欧神話で読む現代数学理論全6章』イーヴァル・エクランド
・『本当にあった嘘のような話 「偶然の一致」のミステリーを探る』マーティン・プリマー、ブライアン・キング
・無意味と有意味
・『たまたま 日常に潜む「偶然」を科学する』レナード・ムロディナウ
真実は両者の中間にある。つまり、世界は完全な無意味ではないが、意味のわかる部分は限られている。このため、わたしたちはある方向には行動できるが、他の方向にはどうするべきかまったくわからないのである。
簡単な例を使ってこれを考えてみよう。まず、目や耳、鼻や手を通して脳に送られてくる感覚情報は、つぎのようにビット(0または1)が連なった数列の形にあらわされているとする。
00101000110110……
こんな仮定は奇妙に思われるかもしれないけれど、わたしたちはこの方法を使ってコンピュータと情報のやりとりをしているのである。たとえば、何かの絵をコンピュータの中に取りこむときに、どんなことがおこなわれるかというと、まず、ちょうど新聞紙に印刷された写真のように、絵を小さな点に分解する。それから、各点における色に2進法で番号を付ける。そうしてコンピュータに0と1のビット列を読みこませて、ディスプレイ上に絵を再現するのだ。
つぎにマックスウェルから小さな悪魔を借りてきて、0と1からなる感覚情報をわたしたちの脳の代わりに読んでもらおう。この悪魔が受けとる情報はもっぱら感覚毛色から届くものとし、感覚毛色からは刻一刻と新しいビットが送られ、すでにわかっている数列につけ加えるとする。何しろ彼は悪魔なので永遠に生きられる。ということは、この世の終わりには、0と1が無限につづく数列が彼のもとに届くわけで、そうしたらわたしたちはこの世界に意味があるかどうかを彼にたずねることにしよう。
【『偶然とは何か 北欧神話で読む現代数学理論全6章』イーヴァル・エクランド:南條郁子訳(創元社、2006年)】
偶然に関する分野はなかなか奥が深い。大雑把にいうと統計学と複雑系科学に分かれるが、本書は北欧神話と数学でアプローチしている。
偶然と必然はただ単に無意味と有意味につながるものではない。キリスト教世界では自由意志の問題と決定論に関わってくる。
脳は時系列を因果関係として認識し、ここに意味が生まれる。ただし意味は解釈によって変わるわけだから、「我々が生きるのは現実世界ではなくして解釈世界である」という私の持論が成立する。そして五感情報がバイアス(歪み)を避けられないため解釈された世界は妄想の色を帯びる。ここに宗教発生のメカニズムがある。
・宗教の原型は確証バイアス/『動物感覚 アニマル・マインドを読み解く』テンプル・グランディン、キャサリン・ジョンソン
単なる偶然を必然の物語に変えるのが宗教の仕事だ。偶然とは思えないような出来事は必ず宗教色が滲み出る。
・ユングは偶然の一致を「時間の創造行為」と呼んだ/『本当にあった嘘のような話 「偶然の一致」のミステリーを探る』マーティン・プリマー、ブライアン・キング
私はどちらかというと複雑系科学に興味があるため、本書はあまりピンとこなかった。アプローチの仕方はユニークなのだが淡白な文章に馴染めなかった。上記テキストもよく読むとちょっとおかしい。ビット化されたデジタル情報は「世界が0と1で構成されている」ことを意味するのではなく、「殆どの情報を0と1に置き換えられる」ことを示しているだけのこと。
置き換えとは翻訳であるから、本来であればここから言語の限界に進むべきだと思われる。ビット列で画像が表示できるわけだから、0と1は既に軽々と言語を超えた。
現実生活の作法としては偶然や必然を思い詰めて考えるべきではない。意味の罠に捕われてしまうと自分で自分を裁く場面が増えるように思う。ブッダが示した因果は必然ではなく、現在性を時間の流れの中で捉え直したものだと思う。必然性というよりは関係性(縁起)に重きを置く。
我々は不幸な出来事が起こると、「なぜ?」と問わずにはいられない。「なぜ私だけがこんな目に遭わないといけないのか?」と。私がアウシュヴィッツやルワンダ、インディアン、パレスチナに関する書籍を読んできたのもこのテーマを探るためだった。
神谷美恵子〈かみや・みえこ〉はハンセン病患者と出会い「何故私たちでなくてあなたが?」と問うた(『人間をみつめて』)。
悲劇には固有の顔がある。人間の残酷さには限りがない。やがて地球は人類の悲しみを支えることができなくなることだろう。
希望を抱くことは悲哀からの逃避に過ぎない。ゆえに、ただ悲しみを手放すことが正しい生き方だ。
・歴史が人を生むのか、人が歴史をつくるのか?/『歴史は「べき乗則」で動く 種の絶滅から戦争までを読み解く複雑系科学』マーク・ブキャナン
・偶然性/『宗教は必要か』バートランド・ラッセル
・情報理論の父クロード・シャノン/『インフォメーション 情報技術の人類史』ジェイムズ・グリック
・偶然か、必然か/『“それ”は在る ある御方と探求者の対話』ヘルメス・J・シャンブ
2014-04-12
「死ぬ理由に勝る、生きる理由がない」
色んなことを考えさせられる。/『秋葉原事件』加藤智大の弟、自殺1週間前に語っていた「死ぬ理由に勝る、生きる理由がない」 : J-CASTテレビウォッチ http://t.co/NQzAtSDRlh
— 小野不一 (@fuitsuono) April 11, 2014
社会で生きるのではなくして、自分に生きればよかったのだ。
— 小野不一 (@fuitsuono) April 11, 2014
死ぬ理由に生きるべきではなかったか。
— 小野不一 (@fuitsuono) April 11, 2014
彼女が「異常」と告げたのは、過剰なこだわり方に対してであったのだろう。人間は誰しも異常な何かを抱えている。
— 小野不一 (@fuitsuono) April 11, 2014
弟は罪の意識に苛まれて、自分で自分を罰した。そういう生き方と死に方があったことを私は覚えておこう。
— 小野不一 (@fuitsuono) April 11, 2014
ルワンダ大虐殺を思うと私は殺意に駆られる。その怒りが内側に向かうと自殺を目指すのだろう。人の心は巨大な闇に耐えられるようには出来ていない。
— 小野不一 (@fuitsuono) April 11, 2014
弟よ、私はその真摯な生きざまを忘れない。
— 小野不一 (@fuitsuono) April 11, 2014
仏教は自殺を本当に禁じているのか? http://t.co/2XRbloXwAY
— 小野不一 (@fuitsuono) April 11, 2014