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2021-11-29

諸行無常と縁起の意味/『生物にとって時間とは何か』池田清彦


『正義で地球は救えない』池田清彦、養老孟司
『宇宙を織りなすもの』ブライアン・グリーン

 ・諸行無常と縁起の意味

時間論
必読書リスト その三

 生物の本質は物質とは独立の霊魂であるとの考えを採らなければ、生物は確かに物質のみで構成されている。しかし、たとえば細胞は、生きて動いている限り、決して構造が確定した物体ではない。ならば細胞とは何か。それは細胞を構成する物質(主として高分子)間の関係性であると、さしあたっては考えるより仕方がない。
 これは細胞に限らず、イヌでもネコでも同じである。プラトンはイヌをイヌたらしめて、ネコをネコたらしめているのは、物体から遊離独立した実在であるイデアであると考えた。これは単純明快で、この上なくわかり易い考えであるけれども、物体から独立して実存しているイデアなるものを、それ自体として研究することは、現代科学の枠組では不可能である。現代科学は、物体あるいは物質の実存性を基底とする研究枠組であり、関係性は、これらの間の関係性として措定されなければならないからだ。常に成立する関係性を明示的に記述できたとき、通常それは法則と呼ばれる。法則もまた不変で普遍の同一性である。たとえば重力法則は常に同一の形式で記述でき、しかも、いかなる時空においても成立しているとされる。
 物理学や化学などの現代科学は、物質と法則という二つの同一性を追求してきたのだ、と言ってよい。この二つの同一性は不変で普遍であり、ここからは時間がすっぽり抜けている。別言すれば、現代科学は理論から時間を捨象する努力を傾けてきたのである。恐らく、不変で普遍の同一性が、我々の存在とは独立に世界に自存するとの構図は錯覚であるが、この構図が大きな成功をおさめてきたのは事実である。

【『生物にとって時間とは何か』池田清彦〈いけだ・きよひこ〉(角川ソフィア文庫、2013年)】

 少し癖のある文章が読みにくい。それでも虚心坦懐に耳を傾ければ池田の破壊力に気づく。関係性は動きの中に現れる。これすなわち時間である。我々はともすると有無の二元論に囚われ、存在を固定しようとする。ところが固定されたものは死物なのだ。なぜなら関係性が見捨てられているからだ。とすれば、クオリアが指す質感もイデアから滴り落ちた樹液の一雫(ひとしずく)なのだろう。

「長嶋茂雄っぽい感じ」とプラトンのイデア論/『脳と仮想』茂木健一郎

 イデアが志向するのはブラフマンだ。「究極で不変の現実」(Wikipedia)は画鋲で留められたあの世である。この世(此岸)との関係性が断ち切られている。

 諸行無常縁起(えんぎ)の意味が見えてくる思いがする。今まで読んできたどの宗教書よりも説得力がある。

2019-07-28

金儲けのための策略/『正義で地球は救えない』池田清彦、養老孟司


『やがて消えゆく我が身なら』池田清彦
『ほんとうの環境問題』池田清彦、養老孟司

 ・金儲けのための策略

・『生物にとって時間とは何か』池田清彦

 あるタイプの前立腺がんは手術も何もしないで、様子を見るのが最善だそうだが、これでは医者は儲からない。儲けたい医者は手術を勧めるだろう。京都議定書を守って、CO2削減に莫大な税金を注ぎ込んでも、温暖化を止めるための貢献度はほぼゼロに等しい。しかし、税金は誰かのふところに入るわけだから、特定の人だけは儲かる。そう考えれば、CO2の削減キャンペーンは誰かの金儲けのための策略に決まっている。誰かとは、排出権取引で儲けたいトレーダー、脱炭素利権に群がる官僚、学者、起業家などである。
 ほんとうの危機が来れば、偽問題の化けの皮がはがれてしまう。洞爺湖サミットでCO2の削減が実質的にどうでもよくなったのは、石油と食糧の価格高騰により、CO2の削減などという瑣末(さまつ)な問題にかまけているヒマはないことが、自明になったからである。(池田清彦)

【『正義で地球は救えない』池田清彦、養老孟司〈ようろう・たけし〉(新潮社、2008年)】

 計上された予算は分配される。一部の人々に。特定の利権は国民にとって損失を意味する。ところがそこに政治家が口を挟むと襲撃されることがある(『襲われて 産廃の闇、自治の光』柳川喜郎/石井紘基刺殺事件動画)。

 国や自治体が「分別せよ」と命じるとゴミの分別が新たな常識となる。唯々諾々(いいだくだく)と従う国民は指定された有料のゴミ袋を購入し、ペットボトルやプラスチック容器を洗浄する。つまり自治体はゴミ袋という新たな税金と余分な水道料金をまんまと手に入れることができたわけだ。

 私は当初上手く行くはずがないと楽観していた。至る所ににゴミが散乱し結局元通りになると踏んでいた。ところがそうはならなかった。

 環境問題は大衆の善意につけ込んだ悪行を許す大義名分となってしまった。しかも行き場を失った左翼勢力が新たな飯の種にした経緯がある(『環境と文明の世界史 人類史20万年の興亡を環境史から学ぶ』石弘之、安田喜憲、湯浅赳男)。

 医療や介護が保険報酬で動くように学問の世界もまた予算で動く。その結果多くの科学者は京都議定書に沿った研究を行う。初めに地球温暖化というドグマ(教条)が設定されているわけだから後は都合のよいデータを集めるだけだ。

 国際的には気候変動と言われるのだが、なぜか日本では地球温暖化という言葉が大手を振って歩いている。京都議定書は現代のワシントン海軍軍縮条約であるというのが私の見立てだ。目覚ましい日本の近代化に恐れをなしたアングロ・サクソンは米・英・日の主力艦の総トン数比率を5:5:3にすることを決めた。この数字には何の根拠もない。何の根拠もなくルールを変えるのがアングロ・サクソン流の手口である。そして散々口を挟んだアメリカが京都議定書を批准しなかったのは国際連盟の設立を思わせる。いずれにせよ21世紀を睨んだ米英の戦略であることは間違いない。

 武田邦彦は「ヨーロッパ諸国はアジア諸国にエネルギーの使用制限をかけることによって経済発展を抑制しようとした」と指摘する(武田教授が暴く、「地球温暖化」が大ウソである13の根拠 - まぐまぐニュース!)。EUの厳しい排ガス規制はトヨタのハイブリッド潰しを目的にしているのではないか?

 日本では一方的な情報しかメディアは伝えないが、イギリスでは国営放送のBBCが「地球温暖化詐欺」なる番組を放映した。


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2019-07-03

文明とエントロピー/『ほんとうの環境問題』池田清彦、養老孟司


『やがて消えゆく我が身なら』池田清彦

 ・石油とアメリカ
 ・文明とエントロピー

『正義で地球は救えない』池田清彦、養老孟司
『生物にとって時間とは何か』池田清彦

●文明とエントロピー

 ですから、環境問題の根本とは、文明というものがエネルギーに依存しているということです。そしてそのときに、議論に出ない重要な問題があります。それは、熱力学の第二法則です。
 文明とは社会秩序ですよね。いまだったら冷暖房完備というけれども、普通の人は夏は暑いから冷房で気持ちがいい。冬は寒いから暖房で気持ちがいいというところで話が止まってしまう。しかし根本はそうではない。夏だろうが冬だろうが温度が一定であるという秩序こそが文明にとっては大切なのだと考えるべきなのです。しかし秩序をそのように導入すれば、当然のことですが、どこかにそのぶんのエントロピーが発生する。それが石油エネルギーの消費です。
 端的に言えば文明とは、ひとつはエネルギーの消費、もうひとつは人間を上手に訓練し秩序を導入すること、このふたつによって成り立っていると言えます。人間自体の訓練で秩序を導入する際のエントロピーは人間の中で解消されるから、自然には向かいません。文明は必ずこの両面を持っています。さきほども述べたように、古代文明があったところでは、石油に頼らずとも文明が作れるという意識があったため、石油に対する意識は鈍かった。しかしアメリカは荒野だったし、そこに世界中からバラバラの人間が集まってきた。そういうところでなぜ文明ができたのかと言えば、まさに秩序を石油によって維持したためです。秩序を維持することは、エントロピーをどこで捨てるかという問題であり、それを1世紀続けたら炭酸ガス問題になったのです。アメリカ文明のいちばん端的な例は、アパートの家賃が光熱費込みだということです。これではエネルギーの節約に向かうはずがない。だから、恐ろしく単純な問題なんですよ。それを認めずに何かを言っても意味がない。
 僕が代替エネルギーを認めないというのは、どんな代替エネルギーを使おうが、エントロピー問題には変わりがないからです。(養老孟司)

【『ほんとうの環境問題』池田清彦、養老孟司〈ようろう・たけし〉(新潮社、2008年)】

 一般的にエントロピーは「乱雑さの度合い」と解釈されている。厳密ではないが熱力学第一法則がエネルギー保存則で熱力学第二法則がエントロピー増大則と覚えておけばよい。

 熱いスープは時間を経るごとに冷める。熱が空気中に分散した状態を「乱雑さ」と捉えるのである。つまり冷めたスープはエントロピーが増大したのだ。コーヒーに入れたミルクは渦を巻きながら拡散し、掻き混ぜることで全体に行き渡る。このように秩序から無秩序への変化は逆行することがない(不可逆性)。

「ホイルは、最も単純な単細胞生物がランダムな過程で発生する確率は『がらくた置き場の上を竜巻が通過し、その中の物質からボーイング747が組み立てられる』のと同じくらいだという悪名高い比較を述べている」(Wikipedia)。フレッド・ホイルのよく知られた喩え話もエントロピーという概念に裏打ちされている。

 出来上がったカレーを元の材料に戻すことは不可能だ。混ぜた絵の具を分離することも無理だ。砂で作ったお城は波に洗われて崩れる。テーブルから落ちて砕け散った茶碗が元通りになることはない。「覆水盆に返らず」という言葉は見事にエントロピー増大則を言い表している。

 やがて太陽も冷たくなり、宇宙はバラバラになった原子が均一に敷かれた砂漠と化す(熱的死)。

 冷房を効かせると熱い部屋が涼しくなる。一見するとエントロピー増大則に反しているようだが室外機の排熱とバランスすれば、やはりエントロピーは増大している。




 武田邦彦はエントロピー増大則に照らしてリサイクルを批判しているが、養老孟司の代替エネルギー批判も全く一緒である。エントロピー増大則は永久機関を否定する。

 エントロピーに逆らう存在が生物であるが、熱や排泄物(≒エントロピー)を外に捨てている。

 物理世界の成住壊空(じょうじゅうえくう/四劫)・生老病死がエントロピーなのだろう。



エントロピー増大の法則は、乱雑になる方向に変化するというものではない。 | Rikeijin
エントロピーとは何か | 永井俊哉ドットコム日本語版
エントロピーとは何か(1) エネルギーの流れの法則
宇宙のエントロピー
槌田敦の熱学外論 | 永井俊哉ドットコム日本語版

2019-07-02

石油とアメリカ/『ほんとうの環境問題』池田清彦、養老孟司


『やがて消えゆく我が身なら』池田清彦

 ・石油とアメリカ
 ・文明とエントロピー

・『正義で地球は救えない』池田清彦、養老孟司
・『生物にとって時間とは何か』池田清彦

石油とアメリカ

 僕は常々、文化系の人が書かない大切なことがいくつかあると思っています。そのひとつが、環境問題に関しては、アメリカとは何かということを考えざるをえないということです。実は環境問題とはアメリカの問題なのです。つまりアメリカ文明の問題です。簡単に言えばアメリカ文明とは石油文明です。古代文明は木材文明で、産業革命時のイギリスは石炭文明ですね。そしてその後にアメリカが石油文明として登場するのだけれども、一般にはそういう定義はされていませんよね。
 1901年にテキサスから大量の石油が出て、1903年にはフォードの大衆車のアイデアが登場した。アメリカはそれ以来、石油文明にどっぷりと浸かってきました。普通に考えたら、ジョン・ウェインの西部劇の世界とニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンとはまったくつながらないですよ。つながる理由が何かと言えば、石油なのです。(中略)
 石油問題に関しては、アメリカが世界の中で最も敏感で、ヨーロッパはそれより鈍かった。日本のほうはさらに鈍かった。そして最もにぶかったのが、古代文明を作った中国でありインドだった。文明というのは石油なしでも作れるという考えが頭にあった順に鈍かったということです。
 アメリカが戦後一貫して促進してきた自由経済とは、原油価格一定という枠の中で経済活動をやらせることをその実質としていました。原油価格が上がってはいけないというのは、上がった途端にアメリカが不景気になっちゃうからね。ものすごく単純な話なんですよ。自然のエネルギーを無限に供給してけば、経済はひとりでにうまくいっていた。それを自由経済という美名でごまかしてきたのが、20世紀だったわけです。ひとり当たりのエネルギー消費では、日米の差は、僕が大学を辞めることには2倍あった。ヨーロッパ人の2倍、中国人の10倍です。科学の業績などをアメリカが独占するのは当たり前でしょう。戦争に強いとか弱いとかにしてもね、日本は石油がないのに戦争をしたのだから。9割以上の石油を敵国に頼って戦争をするのがどれだけ不利だったか、ということです。それだけのことなのです。
 それからこれも文化系の人は書かないことですが、ヒトラーがソ連に侵入した理由が、歴史の本を読んでもどうも分からない。答えは簡単なことです、石油です。当時もソ連は産油国だったのですよ。コーカサスの石油が欲しかったから、ドイツはスターリングラードを攻めた。そこをはっきり言わないから色々なことが分からない。日本の場合も、「持たざる国」と言い続けてきたけれども、根本にあるのは石油、つまりエネルギーの問題です。古代文明を見てもそうでしょう。木材に依存した文明の場合、最も大量に消費できたのは始皇帝時代の秦ですからね。木を大量に伐採したから万里の長城が作られたわけですよ。現在の砂漠化の要因をたどれば、この時代になるでしょうね。(養老孟司)

【『ほんとうの環境問題』池田清彦、養老孟司〈ようろう・たけし〉(新潮社、2008年)】

 文章から察すると書き下ろしならぬ語り下ろしか。池田清彦と養老孟司という組み合わせはその語り口の違いからすると泉谷しげると小田和正ほどの差がある。二人の共通項は虫採りだ。政治的な立場は池田が反権力で、養老はよくわからない。わからないのだが保守でないのは確かだろう。

「頭のよさ」は物事の本質を抉(えぐ)り出すところに発揮される。戦争とエネルギーと経済と歴史を「石油」というキーワードで解くのは実にすっきりとした方程式で、ストンと腑に落ちる。

 ここで新たな疑問が生じる。次のエネルギーシフトは石油から何に変わるのだろうか? またぞろ何かを燃やすのか? あるいは別の方法でコンプレッサーのように圧力を掛ける方法を開発するのか? いずれにせよそれは電気エネルギーに変換する必要がある。養老はエントロピーという観点から代替エネルギーに関しては否定的だ。燃焼から去ることができないのであれば効率化を目指すのが王道となる。

 科学は核分裂のエネルギー利用を可能にはしたがゴミの問題をまだ解決できていない。21世紀のエネルギー源として核融合による発電の開発が進められているが今世紀半ばに実現されるのだろうか?

 アメリカはシェール革命をきっかけに世界の警察官を辞めた(オバマ大統領のテレビ演説、2013年9月10日/トランプ大統領、2018年12月26日)。警察官が不在になれば悪者がはびこる。つまり中東と東アジアが安定することはあり得ない。

 つくづく残念なことだが革新的な技術は戦争を通して生まれる。利権なきエネルギーが誕生するまで人類は戦争を行い続けるのだろう。

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2019-06-29

死の恐怖を免れる簡単な方法/『やがて消えゆく我が身なら』池田清彦


 ・死の恐怖を免れる簡単な方法

『ほんとうの環境問題』池田清彦、養老孟司
『正義で地球は救えない』池田清彦、養老孟司
・『生物にとって時間とは何か』池田清彦

 死の恐怖を免れる最も簡単な方法は、体は滅んでも心は不滅であると信ずることだ。言わずと知れたことだが、これは宗教である。すべての宗教はその教説の中に死後の世界についてのお話が入っている。天国(あるいは極楽)に行くにしても地獄に行くにしても、死んだ後もとりあえず心の存在は保証される。宗教とは、脳が巨大化して死の恐怖などという余計なことを考えるようになった人間が発明した、心が安楽になるための極めて優秀な装置である。死の恐怖も宗教も脳の発明品であることでは共通している。こういうのもマッチポンプと言うのだろうか。

【『やがて消えゆく我が身なら』池田清彦(角川書店、2005年/角川ソフィア文庫、2008年)】

 生と死にまつわるエッセイ集だ。テレビで見受ける酔っ払いみたいな口調とは打って変わって文章は端正である。

 私も生命は永遠だと長らく思っていたのだが10年ほど前に考えを改めた。スマナサーラ長老が「テーラワーダ仏教では最初に過去世を悟る」みたいな話を書いていたが私としては腑に落ちない。過去世だろうが来世だろうがその情報は現在の脳に収まっている。つまり何を語ろうとも現在の脳内情報であって、それを生前や死後にまで延長するのはどう考えても無理がある。

 よくインドあたりで生まれ変わり伝説がまことしやかに喧伝されているが、私は生まれ変わりというよりも何か生命の波長みたいなものがピタッと合致して、強く死者の生命を観じる(※「感じる」ではない)ことがあるのだろうと推察する。

 大体我々が思う生まれ変わりなんてえのあ身内や歴史上の有名人に限られていて、去年の夏に死んだ蝉や、日々食卓に上がる畜類の来世を思うことはない。

 本音を言えば死後の生命はあって欲しい。若い頃に後輩を亡くしているので彼らと会いたいからだ。ルワンダで殺戮された多くの人々も怨霊となって無慈悲な人類を祟(たた)ればいいと本気で思う。でも多分そうはならない。

 私は死と眠りは極めて似た状態だと考える。眠ってしまえば私という存在はなくなる。夢を見ているのは脳が半分覚醒しているためで完全に死んではいない。ま、幽霊なんてのがこの状態なのだろう。眠れば私は消える。これが答えだ。

 本当は永続する何かがあるかもしれないが、それは我々が考えているような「私」ではない。エネルギーの慣性みたいなものが働く可能性はある。ただし生まれ変わるような性質ではないだろう。

 諸法無我とは「物語から離れる」生き方である。因果応報で死後の極楽行きや地獄行きが決まるというのはいい物語だとは思うが、所詮物語の領域を出ていない。善因善果・悪因悪果は飽くまでも現在に収まるのである。私は死後の存在を否定するようになってから「死ねば仏」という言葉は案外正しいのかもしれないと考えるようになった。「死の瞬間に脳は永遠を体験する」(『スピリチュアリズム』苫米地英人、2007年)なら時間が止まる可能性もある。

やがて消えゆく我が身なら (角川ソフィア文庫)
池田 清彦
KADOKAWA (2008-05-23)
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