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2021-08-11

生き生きと躍動する言葉/『手業(てわざ)に学べ 天の巻』塩野米松


『仕事の話 日本のスペシャリスト32人が語る「やり直し、繰り返し」』木村俊介
『森浩一対談集 古代技術の復権 技術から見た古代人の生活と知恵』森浩一

 ・生き生きと躍動する言葉

『日本鍛冶紀行 鉄の匠を訪ね歩く』文:かくまつとむ、写真:大𣘺弘

 職人の持つ仕事の素晴らしさや、面白さは、その仕事とそれをなす職人の人柄、その職業の人だけが持つ言葉や動作にある。だから、いくら仕事を文章や写真で紹介してももどかしさがあった。そんなとき、自然に関わりのある人たちを招いて話を聞く仕事をしてみないかと誘われた。東京・二子玉川にある小さなホールでのトークショーの企画だった。
 このとき、お客さんのまえで、実際に仕事をしてもらいながら、話を聞き、それを皆さんに見てもらい聞いてもらおうと思った。伝え切れない彼らの仕事が、少しでもわかってもらえるいい機会だと思ったからだ。その仕事が4年続いた。

【『手業(てわざ)に学べ 天の巻』塩野米松〈しおの・よねまつ〉(小学館、1996年)】

 このトークショーを聞き書きとして編んだ作品である。戦後から高度経済成長へと時代が移り変わる中で「手仕事」は途絶えてしまった。ものづくりは工場と分業によって大量生産の時代を迎える。安価と使い捨ては我々の文化となり、道具の手入れを自分で行うことはなくなった。現在では家事も介護もアウトソーシングできるようになった。教育は殆ど家庭内では行われていない。自信を持って自分の後ろ姿を晒(さら)せる親がどのくらいいるだろうか?

 私は針葉樹の森の中でほとんど毎日を過ごしているわけですが、針葉樹はいいですな。もう緑一色でね。本当になんともいえんですね。朝焼けなんかでも、本当にこうして見ますとね、いいですね。日暮れは日暮れでまた色が変わりますからね。
 こんなですから、朝、山に入るときにも、何も人が見えないのに「おはようございます」と山へ入っていきますよ。帰るときには、また後ろを振り返って「おやすみなさい。また明日出てくるから」というて帰るんです。山にありがたいと感謝するんです。
 山を見たら、本当に腹立つものはありませんわ。腹が立ったら、とにかくもう枝さえ叩いたらいいんです(笑)。今度は仕事がよくできますしね。いちばんいいですよ。

 岐阜の枝打ち名人・山本總助である。カナダの木登りチャンピオンを降(くだ)したことがあり、ギネスブックにも登録されているようだ。降りるのも早いようでリスを追い越したこともあると語る。生き生きと躍動する言葉が全編を貫く。

 手に業(わざ)を持つ人々は皆、自然と交流し、己(おのれ)の仕事に喜びを見出す。工場の部品や組織の機構と化した我々の仕事とは質が違う。私が行っているのは賃仕事だ。高度経済成長は仕事の喜びを奪い、カネを稼ぐために我慢することを人々に強いた。時給とは忍耐に対する報酬だ。

 我々が現在行っている仕事は間もなくロボットに置き換えられる。人間の感覚が機械よりも優れている部分があるとすれば、それを手業と称するのだ。楽器演奏やプロスポーツ選手は職人と言い得る。キーボードを打つだけではやがて手の機能が退化するに違いない。今は頭よりも手を使うことを考えた方がよい。

 尚、ナンバ歩きか常歩(なみあし)に関連する記述があると思ったのだが、どうしても見つけることができなかった。

 ちくま文庫版は編輯し直したものと思われる。ゆくゆく確認するつもりだ。

2018-06-09

鋸の復原を通して古代人と対話/『森浩一対談集 古代技術の復権 技術から見た古代人の生活と知恵』森浩一


『怒りの無条件降伏 中部教典『ノコギリのたとえ』を読む』アルボムッレ・スマナサーラ
『仕事の話 日本のスペシャリスト32人が語る「やり直し、繰り返し」』木村俊介

 ・鋸の復原を通して古代人と対話

『人はどのように鉄を作ってきたか 4000年の歴史と製鉄の原理』永田和宏
『手業(てわざ)に学べ 天の巻』塩野米松
『日本鍛冶紀行 鉄の匠を訪ね歩く』文:かくまつとむ、写真:大𣘺弘

吉川金次●そんななかで、いまから30年ほど前、いやもっと以前かな、古社寺展というのが盛んにおこなわれ、私もかならず見にいきました。そしたらね、おもしろいものを発見しちゃったんですよ。描かれている絵の鋸が、私たちがつくるような鋸とは違う。これは丹念に調べてみたら、鋸の進化が分かるにちがいない。よし、調べてやろう、という気になったんです。43歳の暮れでした。
 鋸を調べるには、まず、日本鋼(はがね)で鋸をつくる技術を正しく記録しておく必要があると気づいたわけです。それで家内に話したら、やってみたらというんです。乞食(こじき)になってもいいから、やってみようじゃないか、ノートに書いておけば、みなさんが読んで使ってくださる。それだけでもいいからやってみよう、とはじめたんです。

【『森浩一対談集 古代技術の復権 技術から見た古代人の生活と知恵』森浩一〈もり・こういち〉(小学館、1987年/小学館ライブラリー、1994年)以下同】


 言葉には責任が伴う。というわけで責任を果たしておこう。「鋸喩経」(こゆきょう)を調べて辿り着いた一冊。鋸(のこぎり)以外は飛ばし読み。サンケイ新聞大阪版に昭和58年(1983年)9月~60年(1985年)12月まで連載された「対談シリーズ 古代は語る」28回分のうち14回分を増補・加筆したもの。ネット上に書誌情報が少ないので対談者を挙げておく。永留久恵、松岡史、日下雅義、森博達、江守五夫、嶋倉巳三郎、布目順郎、久野雄一郎、清水欣吾、安田博幸、後藤和民、中尾佐助、吉川金次、三輪茂雄。

 吉川は絵巻物に描(か)かれていた鋸(のこぎり)を「見た」。何をどのように見るかで人生は変わる。我々には「見えていないもの」が多すぎるのだろう。奥方の反応はいかにも東京の下町らしい味わいがある。背中の押し方が絶妙だ。吉川は栃木県氏家(うじいえ/現在のさくら市)で鍛冶職人の家に生まれ、幼い頃から鋸鍛冶を手伝っていた。21歳で上京し、鋸の歯を直す目立て屋を始める。後に収集した鋸や製作した鋸をさくら市ミュージアムに寄贈し、「のこぎり館」として展示されている。また彼は俳人でもあった

 職人だから思い立ったら行動するのが早い。兄と弟に手伝ってくれと頼むと二人は協力すると応じる。

吉川●古代の鋸をつくるのは、その構造を理解するためです。(中略)
 古代の鋸を、いまの鋸みたいに解釈している人が多いんですが、いまの鋸のように使える道具じゃぜったいない。どうやってつくったかということを調べていくと、どういうところに使ったかも、はっきり分かってくるんです。

 構造に概念がある。

森●黄金塚古墳のころの鋸は、何を切っていたんですか。

吉川●いまの鋸のように使える道具じゃありませんね。歯を見ると、アセリもナゲシもない。

森●アセリですか。

吉川●ええ、アセリがない。アセリというのは、歯を互い違いに曲げることです。アセリがないと木質は切れません。

森●歯を互い違いに曲げるのをアセリというんですか。

吉川●齟齬(そご)という人もいるんですが、齟齬という言葉を使うのはやめてもらいたいですね。齟齬というと、くいちがいでしょう。ところが、鋸の歯はくいちがいじゃないんですよ。間に釘1本を通すとスーッと通るくらい整然としているんです。齟齬なんてことを言ったら、大工に頭を張り倒されちゃいますよ。齟齬だったら、家が建てられるはずがない。材木というのは、断面が非常に重要なんです。断面がきれいでなかったら、日本の木材建築なんてできない。その断面をきれいにするために、日本の鋸は工夫されているんです。

 思わず大笑いした箇所だ。「同志社大学の顔」と呼ばれた名物教授の森が職人の吉川に教えを請う姿も実に清々(すがすが)しい。

吉川●それから、鋸の歯はヤスリで立てたと思うでしょう。ぜんぜん違いますね。4世紀や5世紀の鋸はヤスリで歯を立てていません。タガネで立てたんです。その証拠もちゃんとつくってあります。実験してみましたから。そうすると、ヤスリと鋸は、タガネを母とし、槌(つち)を父とする同じ兄弟だったということになってくるんですよ。使い方も非常に近縁なんです。さっきも言ったように、黄金塚古墳の鋸なんか、使い方がヤスリとそっくりでした。

 頭ではなく体でわかった知識には理論をこねくり回すような無駄がない。まったく鋸みたいな人だよ、あんたは(笑)。

吉川●まあ、こうやって復原してみると、古代人たちがどんなに苦労したかということが、よく分かりますね。いまの人ならすぐにでもできるようなものでも、古代人にとっては、とんでもないことだったんでしょうね。でも、それはやっぱり、おもしろかったんでしょうね。古代人と話しているような気になるのも、そのためなんです。苦しいばっかりじゃない。ものをつくるのは、なんでもそうでしょう。そうそう、いま鍬(くわ)をつくっているんですよ。鍬なんか、考古学者は軽蔑しているみたでね。しかし、鍬は大切ですぜ。

「でも、それはやっぱり、おもしろかったんでしょうね」の一言に千鈞の重みがある。興味を追求するところに人生は開け、技術も花開く。吉川の生き様は孔子の言葉を髣髴(ほうふつ)とさせる。「これを知る者はこれを好む者に如(し)かず。これを好む者はこれを楽しむ者に如(し)かず」(『論語』)。

 森浩一は吉川との対談を振り返ってこう締め括る。

「復原をして、すっかり貧乏になりました」
 と、屈託なく笑われる吉川さんの研究を、私は、文部省の研究費を受けて“研究”している大学人や研究所などのいわゆる専門家の研究なるものと、どうしても比較せざるをえなかった。研究費をもらうどころか、生活費をさいてまでつぎこんで、学問に役立つ研究が、下町の職人の家から生まれたのである。
 対談が終わって、帰りぎわ、1回分の土量を知るために鍬をつくっていると、吉川さんが述べたとき、横から奥さんが、つぎのように言ったものである。
「いやだね、また実験だとかいって、土掘りをやらされるね。前は木こりをやらされたけど」
 どうもこれは、吉川ご夫妻の研究とでもいうべきものである。(1983年10月18日)

 人と人との出会いが誠実さに彩られていると必ず何らかのスパークを放つ。互いの脳内でシナプスが発火する様が見えるようだ。