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2009-03-07

読書という営み/『「自分で考える」ということ』澤瀉久敬


 20代半ばで読んだ。私は感覚的・感情的・条件反射的な性質が強いこともあって、カルチャーショックを受けた。澤瀉久敬(おもだか・ひさゆき)を「先生」と呼びたくなったほどだ。

 そこに何が書かれているかを要約できなければ、本を読んだことにはならないとした上でこう綴る――

 ラスキンは読書を鶴嘴(つるはし)をふるって金礦(きんこう)を求めゆく坑夫になぞらえております。そして、奥にある金礦に達するためには、外側にある固い鉱石を打ちくだかなければならないと申しております。ともかく、文字という固い、不動なものをつき貫(ぬ)いて、その奥にある動的な、というよりも燃えていると言ったほうがいいと思われる思想そのものをとらえねばならないのです。もしここでさらに別の比喩をもってまいりますなら、書物を読むとは、火山の上に噴き出しているエネルギーそのものを知ることであります。

【『「自分で考える」ということ』澤瀉久敬〈おもだか・ひさゆき〉(文藝春秋新社、1961年『「自分で考える」ということ 理性の窓をあけよう』改題角川文庫、1963年/角川文庫、1981年、増補版/第三文明レグルス文庫、1991年)】

「言葉ではなく意図を、そして意図よりも思想に触れよ」というのだ。私は恥ずかしさを覚える。精神がフリチン状態になったような気分だ。真に正しい意見には人を恥じ入らせる作用がある。

「著者の魂を鷲づかみにして、それを自分の魂に取り入れよ」――澤瀉久敬の轟くような声が私には聞こえる。