2009-12-19

所有のパラドクス/『悲鳴をあげる身体』鷲田清一


 ・蝶のように舞う思考の軌跡
 ・身体から悲鳴が聞こえてくる
 ・所有のパラドクス
 ・身体が憶えた智恵や想像力
 ・パニック・ボディ
 ・セックスとは交感の出来事

『身体が「ノー」と言うとき 抑圧された感情の代価』ガボール・マテ

必読書リスト その二

 11月の課題図書。面白い本は何度読んでも新しい発見があるものだ。意外かもしれないが、本書を読むと仏教の五陰仮和合(ごおんけわごう)がよく理解できる。

〈私〉と世界の境界はどこにあるのだろうか? そんなのはわかりきった話だ。もちろん身体である。冒頭で少年や少女が身体に負荷をかけている現実が指摘されている。例えばピアス穴、リストカット、タトゥー(刺青)、ボディをデザインするシェイプアップ、反動としての摂食障害……。ここにおいて身体は自分自身が所有する「物」と化している。

 そういや臓器移植も似てますな。切ったり貼ったりできるのは「物」である。彼等の論理は単純である。「自分の身体なんだから、私の好きにさせてくれ」というものだ。自分の身体=自分の物、となっている。

 そもそも所有できるのは「物」である。そして処分できるのも「物」である。

 ひとはじぶんでないものを所有しようとして、逆にそれに所有されてしまう。より深く所有しようとして、逆にそれにより深く浸蝕される。ひとは自由への夢を所有による自由へと振り替え、そうすることで逆にじぶんをもっとも不自由にしてしまうのである。そこで人びとは、所有物によって逆既定されることを拒絶しようとして、もはやイニシアティヴの反転が起こらないような所有関係、つまりは「絶対的な所有」を夢みる。あるいは逆に、反転を必然的にともなう所有への憎しみに駆られて、あるいは所有への絶望のなかで、所有関係から全面的に下りること、つまりは「絶対的な非所有」を夢みる。専制君主のすさまじい濫費から、アッシジのフランチェスコや世捨て人まで、歴史をたどってもそのような夢が何度も何度も回帰してくる。

【『悲鳴をあげる身体』鷲田清一〈わしだ・きよかず〉(PHP新書、1998年)以下同】

 人間の欲望は具体的には「飽くなき所有」を目指す。国家という国家は版図(はんと)の拡大を目指す。所有物が豊かであるほど自我は大きくなる。否、所有物こそは自我であるといってもよいだろう。

 走行する自動車を比べてみれば一目瞭然だ。大型トラックの運転手の自我は肥大し、軽自動車あるいは原付バイクに乗っていると自我は卑小なものになる。自転車はもっと小さいかもしれないが、値段の高価なものになると自我は拡大する。「私は物である」――。

 意図的に「持たざる者」を演じている連中は、所有への対抗意識を持っている以上、所有に依存していると考えられる。つまり、マイナスの所有である。彼等の念頭にあって離れることのないテーマは所有なのだ。そこには欲望を解放するか抑圧するかというベクトルの違いしかない。

 さて、所有関係の反転が、所有関係から存在関係への変換となって現象するような後者のケースについては、マルセルはそのもっとも極限のかたちを殉教という行為のうちに見いだしている。殉教という行為のなかでひとはじぶんの存在を他者の所有物として差しだす。じぶんの存在を〈意のままにならないもの〉とする。そのことではじめてじぶんの存在を手に入れる。じぶんという存在をみずからの意志で消去する、そういう身体の自己所有権(=可処分権)の行使は、その極限で、存在へと反転する。そういう所有のパラドックスが、ここでもっとも法外なかたちであらわれる。

 人は思想のために死ぬことができる動物だ。信念に殉ずることはあっても、欲望に殉ずることはまずない。せいぜい身を任せる程度である。殉教は完結の美学であろう。己(おの)が人生に自らが満足の内にピリオドを打つ営みだ。それは酔生夢死を断固として拒絶し、人々の記憶の中に生きることを選ぶ行為である。人は捨て身となった時、紛(まが)うことなき「物」と化すのだ。自爆テロを見てみるがいい。彼等は殉教というデコレーションを施された爆弾へと変わり果てている。

 信念に生きる人は信念のために死ぬ人である。だが多くの場合、信念を吟味することもなく、ある場合は権力の犠牲となり、別の場合には教団の犠牲になっている側面がある。静かに考えてみよう。正義のために死ぬ人と、正義のために殺す人にはどの程度の相違があるだろうか? 天と地ほど違うようにも思えるし、紙一重のような気もする。ただ、いずれにしても暴力という力が作用していることは確実だろう。

 所有が奪い合いを意味するなら、それは暴力であろう。お金も暴力的だ。今や人間の命は保険金で換算されるようになってしまった。幸福とはお金である。その時、我々は所有物であるお金と化しているのだ。暴力の連鎖が人類の宿命となっているのは所有に起因している。

・あらゆる蓄積は束縛である/『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー 2 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ
・自我と反応に関する覚え書き/『カミとヒトの解剖学』 養老孟司、『無責任の構造 モラル・ハザードへの知的戦略』 岡本浩一、他
・所有と自我/『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳

悲鳴をあげる身体 (PHP新書)
鷲田 清一
PHP研究所
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2009-11-29

欲望が悲哀・不安・恐怖を生む/『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ


 ・自由の問題 1
 ・自由の問題 2
 ・自由の問題 3
 ・欲望が悲哀・不安・恐怖を生む
 ・教育の機能 1
 ・教育の機能 2
 ・教育の機能 3
 ・教育の機能 4
 ・縁起と人間関係についての考察
 ・宗教とは何か?
 ・無垢の自信
 ・真の学びとは
 ・「私たちはなぜ友人をほしがるのでしょうか?」

クリシュナムルティ著作リスト
必読書リスト その五

 いかなるレベルでも、ほしい、なりたい、獲得したいという欲望があるかぎり、そこには必然的に心配や悲しみや恐怖があるのです。豊かになりたい、あれやこれやになりたいという野心は、野心自体の不潔さや腐敗性が見えるときにだけ、なくなります。どんな形の権勢欲も……首相、裁判官、宗教家、導師(グル)としての権勢欲も根本的に悪いとわかったとたんに、もはや権勢欲は持ちません。しかし、私たちには野心が腐敗的なこと、権勢欲が悪いことが見えません。反対に、善いことのために権力を使おう、と言うのです。これはまったくのたわごとです。まちがった手段は正しい目的のためには決して使えません。手段が悪ければ、目的もまた悪いでしょう。善は悪の反対ではないのです。悪いものがまったくなくなったときにだけ、善は生じてくるのです。

【『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ:藤仲孝司〈ふじなか・たかし〉訳(平河出版社、1992年)】

 欲望が満たされないと不安に駆られ、欲望が満たされると今度は失うことを恐れる。つまり欲望の充足を我々は部分的な幸福と思い込んでいるが、完全な錯覚だということ。それが証拠に、満たされた欲望によって獲得された幸福感は長く続かない。いわゆる相対的幸福(他人と比較して得られる幸福)は相対的である以上、上には上がいるわけだから絶対に幸福になれないという矛盾をはらんでいる。村一番の美人が日本一の美人にかなわないのと同じ話だ。しかも欲望というのは釣られて生じる性質があり、メディアは大衆消費社会の扇動に余念がない。鮮やかな色彩と刺激的な音楽や効果音でもって知覚できない領域に揺さぶりをかける。サブリミナル情報にさらされた我々は、必要でもない商品に向かって夢遊病者のようにさまよう。「あると便利」な品物が、「ないと不便」に変換される。所有する人が増えると今度は「ないと恥ずかしい」レベルにまで変化する。世の中に豊富な商品が出回れば出回るほど、我々は何となく居心地の悪さを感じている。物が空間を浸蝕しているためだ。たとえこの世のすべてを手に入れたとしても、我々の欲望は月を欲しがることだろう。ブッダは少欲知足(欲を少なくして足るを知る)と説いた。欲望を否定するのではなく、欲望から離れる生き方を勧めた。

子供たちとの対話―考えてごらん (mind books)
J. クリシュナムルティ
平河出版社
売り上げランキング: 196,396

・手段と目的
恐怖で支配する社会/『智恵からの創造 条件付けの教育を超えて』J・クリシュナムルティ
死の恐怖/『ちくま哲学の森 1 生きる技術』鶴見俊輔、森毅、井上ひさし、安野光雅、池内紀編

2009-11-18

自由の問題 3/『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ


 ・自由の問題 1
 ・自由の問題 2
 ・自由の問題 3
 ・欲望が悲哀・不安・恐怖を生む
 ・教育の機能 1
 ・教育の機能 2
 ・教育の機能 3
 ・教育の機能 4
 ・縁起と人間関係についての考察
 ・宗教とは何か?
 ・無垢の自信
 ・真の学びとは
 ・「私たちはなぜ友人をほしがるのでしょうか?」

クリシュナムルティ著作リスト
必読書リスト その五

 クリシュナムルティは前回の部分で、「私達は安心したいがゆえに地位を欲し、肩書きによって自信や自尊心を手中にし、権力と権威を目指して生きている」。しかしながら、「何かに【なろう】という要求がある限り、自由はどこにもない」と語った。

 そして、「何かに【なろう】」――つまり、「理想」「模範」「目標」だ――としている姿勢を「模倣」であると鋭く糾弾する――

 そこで、教育の機能とは、君たちが子供のときから誰の模倣もせずに、いつのときにも君自身でいるように助けることなのです。これはたいへんに行いがたいことです。醜くても、美しくても、妬んでいても、嫉妬していても、いつもありのままの君でいて、それを理解する。ありのままでいることはとても困難です。なぜなら君は、ありのままは卑劣だし、ありのままを高尚なものに変えられさえしたらなんとすばらしいだろう、と考えるからです。しかし、そのようなことには決してなりません。ところが、実際のありのままを見つめて、理解するなら、まさにその理解の中に変革があるのです。それで、自由とは何か違ったものになろうとするところにも、何であろうとたまたましたくなったことをするところにも、伝統や親や導師(グル)の権威に従うところにもなく、ありのままの自分を刻々と理解するところにあるのです。
 君たちは、このための教育を受けていないでしょう。君たちの教育は、何かになるようにと励ましますが、それでは君自身を理解することにはなりません。君の「自己」はとても複雑なものなのです。それは単に学校に行ったり、けんかをしたり、ゲームをしたり、恐れている存在というだけではなく、隠れており明らかではないものでもあるのです。それは、君の考えるすべての思考だけではなく、他の人たちや新聞や指導者から心に入ったすべてのことからできています。そして、えらい人になりたがらないとき、模倣をしないとき、従わないときにだけ、そのすべてを理解することができるのです。それは本当は、何かになろうとする伝統のすべてに対して反逆しているとき、ということです。それが唯一の真の革命であり、とてつもない自由に通じています。この自由を涵養することが教育の本当の機能です。
 親や教師、そして君自身の欲望も、君が幸せで安全であるために何らかのものと一体化してほしいのです。しかし、智慧を持つには、これらの君を虜にし、潰してしまうすべての影響力は打ち破らなくてはならないでしょう。
 新しい世界の希望は、言葉だけではなくて実際に、何が偽りなのかを見て、それに対して反逆しはじめる君たちにあるのです。それで、正しい教育を求めなくてはならないわけです。というのは、伝統に基づいたり、ある思想家や理想家の体質にしたがって形作られたりしていない新しい世界を創造できるのは、自由の中で成長するときだけですから。しかし、君が単にえらい人になろうとしていたり、高尚なお手本を模倣しているかぎり、自由はありえません。

【『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ:藤仲孝司〈ふじなか・たかし〉訳(平河出版社、1992年)】

 ありのままの自分であれ、一切の伝統と権威に反逆せよ――まるでブッダ、まるで日蓮そのものである。違いを見つけることの方が難しそうだ。カーストという差別制度が社会に張り巡らされた後にブッダはインドに生まれ、武力に物を言わせる武家政治が台頭し、天変や地震が相次ぐ鎌倉時代に日蓮は登場した。双方ともそれまでの常識を徹底的にあげつらい、批判に批判を加え、人間という人間に語り抜いた。民の呻吟(しんぎん)に耳を傾け、苦悶をひたと見つめる中から真実の思想は生まれ出る。

 インドのバラモン教(古代ヒンドゥー教)は「過去世(かこぜ)の業(ごう)」を持ち出して「今世の差別」を正当化した。そして鎌倉時代の念仏は「この世で幸せになることは決してできないが、死んだ後に西方十万億の彼方の極楽浄土へ往生(おうじょう)できる」と説いた。いずれも、我々が知覚・思考し得ない「前世」や「あの世」の論理をもって、人々を「現状維持」の方向へ誘導する邪論ともいうべき代物だ。こうした思想が結果的に権力を容認し、擁護し、強化していることを見逃してはならない。

 印刷技術、通信、マスメディアが発達した現代社会において、「条件づけ」はますます容易になっている。隠された広告戦略が大衆の欲望に火を点ける。そして、否応(いやおう)なく情報の受け手という立場に貶(おとし)められた視聴者は、テレビの前でどんどん卑小な存在と化してゆく。我々は毒性が高いことを知りながらも、五感が刺激されるために依存性から抜け出すことがかなわなくなっている。まるで、LSDや覚醒剤のようだ。

「まだ殺されたわけではないから何とかなる」――甘いね。既に「生ける屍(しかばね)」だよ。あるいは、とっくに何度も死んでいる可能性すらある。

 偽りを見抜け。さもなければ、自分自身が偽りの存在となってしまうからだ。まなじりが裂けるほど目を見開いて、闇の向こう側にあるものをしかと捉えよとクリシュナムルティは教えている。

(※「自由の問題」は今回にて終了)

・恐怖からの自由/『自由への道 空かける鳳のように』クリシュナムーテイ

子供たちとの対話―考えてごらん (mind books)
J. クリシュナムルティ
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2009-11-17

自由の問題 2/『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ


 ・自由の問題 1
 ・自由の問題 2
 ・自由の問題 3
 ・欲望が悲哀・不安・恐怖を生む
 ・教育の機能 1
 ・教育の機能 2
 ・教育の機能 3
 ・教育の機能 4
 ・縁起と人間関係についての考察
 ・宗教とは何か?
 ・無垢の自信
 ・真の学びとは
 ・「私たちはなぜ友人をほしがるのでしょうか?」

クリシュナムルティ著作リスト
必読書リスト その五

「深い洞察」とは、自分の思考・精神・生の過程を束縛している“鎖”を自覚することだとクリシュナムルティは語った。深海の如き深さに達した時、精神は波立つことがなくなる。すると、鏡に映し出されたように「己の歪(ゆが)んだ姿」が自覚されるのだ。そこに「気づくか」「気づかないか」の違いが人の運命を分かつ。

「君たちは恐れている」ともクリシュナムルティは語った。我々が人生で目指しているのは成功であり、地位であり、人々からの称賛である。「周囲の人々からよく思われたい」「願わくは羨望の的となりたい」と日々涙ぐましい努力を重ねている。全員が同じゴールを目指しているため、好むと好まざるとにかかわらず順位が定まる。少しばかり運のよかった者は「勝ち組」と呼ばれているが、彼等は数多く存在する「負け組」の労働力から搾取しているだけに過ぎない。資本主義社会の競争原理とは、「資本の奪い合い」のことなのだから。

 伝統的な価値観は人々を、なかんずく子供達を画一化する。あたかも、スーパーの商品棚に陳列されている商品のように。少しでも傷があれば不良品として棚から外され、捨てられる運命にある。だからこそ、我々は社会という名の棚に必死でしがみつく。外されてしまえば、親兄弟からも白い目で見られる。このようにして我々は「世間の目」にどう映るかという価値観しか持てなくなったのだ。

 安心を求めるのは、「恐怖」と「不安」の裏返しである。居心地のいいソファに座っていても、心が休まることは決してない。社会、集団、コミュニティから受ける圧力によって、心は常にささくれ立っている。そして、傷つき、万力のような力でもって変形させられるのだ。この「変形」に従わせることが、実は教育の目的となっている。

 私たちのほとんどは、安心したいのではないですか。なんてすばらしい人たちだ、なんて美しく見えるんだ、なんととてつもない智慧があるんだろう、と言われたいのではないですか。そうでなければ、名前の後に肩書きをつけたりしないでしょう。そのようなものはすべて、私たちに自信や自尊心を与えてくれます。私たちはみんな有名人になりたいのです。そして、何かに【なりたく】なったとたんに、もはや自由ではないのです。  ここを見てください。それが自由の問題を理解する本当の手掛かりだからです。政治家、権力、地位、権威というこの世界でも、徳高く、高尚に、聖人らしくなろうと切望するいわゆる精神世界でも、えらい人になりたくなったとたんに、もはや自由ではないのです。しかし、これらすべてのことの愚かしさを見て、そのために心が無垢であり、えらい人になりたいという欲望によって動かない人――そのような人は自由です。この単純さが理解できるなら、そのとてつもない美しさと深みも見えるでしょう。  というのも、試験はその目的のために、君に地位を与え、えらい人にするためにあるからです。肩書きと地位と知識は何かになることを励まします。君たちは、親や先生たちが、人生で何かに到達しなければならないよ、おじさんやおじいさんのように成功しなければならないよ、と言うのに気づいたことがないですか。あるいは君たちは何かの英雄の手本を模倣したり、大師や聖人のようになろうとします。それで、君たちは決して自由ではないのです。大師や聖人や教師や親戚の手本に倣(なら)うにしても、特定の伝統を守るにしても、それはすべて君たちのほうの、何かに【なろう】という要求を意味しています。そして、自由があるのは、この事実を本当に理解するときだけなのです。(※強調点の箇所を【 】で括った)

【『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ:藤仲孝司〈ふじなか・たかし〉訳(平河出版社、1992年)】

 我々が思い描いている自由は、名聞(みょうもん)や名利(みょうり)に支配された世界だった。静かに振り返ってみよう。どのような綺麗事を吐いたところで、我々が望む自由は間違いなく欲得づくで好き勝手なことができる立場ではないのか? つまり、「欲望を発散する自由」だったってわけだよ。どうりで、醜さと底の浅さが蔓延しているわけだ。

 真の自由とは「状況」や「環境」を意味するものではない。「魂の自由」のみが真の自由であろう。自由な人は獄につながれていても尚自由である。ネルソン・マンデラは27年間に及ぶ獄中生活を経て自由になったわけではない。彼の精神は牢獄の中でも自由であったはずだ。魂の牢獄につながれていたのは、塀の外側にいる南アフリカ国民であった。

子供たちとの対話―考えてごらん (mind books)
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売り上げランキング: 196,396

2009-11-16

自由の問題 1/『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ


 ・自由の問題 1
 ・自由の問題 2
 ・自由の問題 3
 ・欲望が悲哀・不安・恐怖を生む
 ・教育の機能 1
 ・教育の機能 2
 ・教育の機能 3
 ・教育の機能 4
 ・縁起と人間関係についての考察
 ・宗教とは何か?
 ・無垢の自信
 ・真の学びとは
 ・「私たちはなぜ友人をほしがるのでしょうか?」

クリシュナムルティ著作リスト
必読書リスト その五

 私にとって「運命の一冊」となった。それまでに3冊読んできたが、本書から受けた衝撃とは比べるべくもない。心の奥からせり上がってくる何かがある。そして、どうしようもない勢いで奔流の如くほとばしる何かがある。やがて渦を巻き、上下に振り回され、螺旋(らせん)状に精神が拡散されるのだ。

 深い感動を及ぼすのは、その思想ではない。言葉でもない。それは、クリシュナムルティの「一念」としか言いようがないものだ。

 訳者の解説によれば、本書での質疑応答はいつどこで行われたものか明記されていないが、1950年代末から1960年代初めのものと推測され、その内容からインドのラジガートにあるクリシュナムルティ・スクールで行われた可能性が高いとのこと。27のテーマでまずクリシュナムルティが短い講話(本文ではいずれも4ページ前後となっている)をし、その後で子供達からの質問を受けている。

 次に紹介するのは「自由の問題」というテーマの講話であるが、少々長いので3回に分けて掲載する。クリシュナムルティ思想のエッセンスが凝縮している――

 君たちと自由の問題について話しあいたいと思います。これはとても複雑な問題なので、深い研究と理解が必要です。自由については信教の自由や自分のしたいことをする自由について、多くの話を聞くでしょう。これらについて学者は多くの書物を書いています。しかし、私たちはとても単純、率直にこの問題に迫れるし、たぶんそれによって本当の解決に到るだろうと思うのです。
 日が沈み、恥ずかしそうな新月がちょうど木立に掛かる頃、君たちは立ち止まり、西のすばらしい夕焼けを観察したことがあるのでしょうか。その時刻にはしばしば、河はとても穏やかですし、その国には橋や橋を渡る列車、優しい月、まもなく暗くなって星と、あらゆるものが河面に映っています。まったく美しいのです。そして、美しいものを眺め、観察し、注意のすべてを向けるには、心は心配事から自由でなくてはならないでしょう。問題や悩みや思考に囚われていてはなりません。本当に観察できるのは、心がとても静かなときだけです。そのとき、心はとてつもない美しさに敏感であるからです。そして、自由の問題への手掛かりは、たぶんここにあるでしょう。
 そこで、自由とはどういうことなのでしょう。自由とは、たまたま自分に合ったことをしたり、好きなところに行ったり、何であろうと好きなように考えるということなのでしょうか。このようなことはどちらにしてもするでしょう。単に自立していさえすれば、自由ということになるのでしょうか。世界の多くの人々は自立はしていますが、ほとんどが自由ではありません。自由とは大いなる智慧を意味しているでしょう。自由であるとは智慧があることなのですが、自由になりたいと願うだけでは智慧は生じません。それは、環境のすべて、絶えず自分に迫りくる社会、宗教、親と伝統の影響力を理解しはじめるときにだけ、生じてきます。しかし、さまざまな伝統の影響力――これらすべてを理解して、そこから自由になるには、深い洞察が必要です。しかし、君たちは内的に怯えているために、たいがいはそれらに屈してしまいます。人生で良い地位が得られるのか、と恐れています。宗教家が何と言うだろうかと恐れています。伝統に従っているのか、正しいことをしているのかと恐れています。しかし、自由とは本当は、恐怖や衝動がなく、安心したいという欲求のない心境です。

【『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ:藤仲孝司〈ふじなか・たかし〉訳(平河出版社、1992年)】

 自信に満ちた言葉から始まり、あっと言う間に深い領域に辿り着いている。クリシュナムルティは自分の心の動きを観察することで、一切の答えは見つかるとしている。この他にも「敏感」「智慧」「愛」「条件づけ」などのキーワードがあるが、根本は「観察」「洞察」だ。それは明鏡止水の境地から為される。

「自由の問題への手掛かり」として、「心配事からの自由」「問題からの自由」「悩みからの自由」を説いている。いずれも「執着」している精神状態を指している。つまり、何かに囚(とら)われている心の様相といえる。「気になる」というのがその人の生命の境涯を示している。

 それにしても、何と美しい情景だろう。これこそクリシュナムルティの「内なる世界」なのだ。美しい何かは、美しい心にしか映らない。外なる美と内なる美との感応が、さざ波のように伝わってくる。

 大衆消費社会は幸福を「物の中」へ追いやってしまった。幸不幸の違いは、持てる者と持たざる者の違いでしかなくなってしまった。そして、金で買える幸福はいつだってはかないものだ。例えば新車を購入したとしよう。あなたは幸福だ。さぞかし幸福であろう。ところがその新車で死亡事故を起こしたらどうなるか? 幸福は不幸へと呆気(あっけ)なく反転する。むしろ、新車を購入したこと自体が不幸であったようにさえ思えてくる。

 人々が飽くことなく競争する社会では、成功することが幸福の要件となる。すわわち「地位」だ。地位にはお金も名誉も付いている。学校教育の目的は「成功者」を輩出することだ。だから、小学校・中学校はいかに名門校に生徒を送り込んだかを競い、高校はといえば東大を始めとする一流大学に何人の合格者を出したかを争っているのだ。

 本当に確固たる地位を築けば幸せなのか? そんなことはない。地位があっても病気になればアウト。地位があっても家庭不和とかね。地位があるから強請(ゆす)られる場合もあるだろうし、地位があるために殺されるケースまである。

 それでも尚我々は地位の獲得に余念がない。なぜなら、それ以外の価値観を知らないからだ。

「安心への欲求」は恐怖の裏返しである。恐怖を感じればこそ安心したいと願う。今この瞬間、心に安心を抱いている人は多分何も望まないはずだ。そのような人は自分のことよりも、他人のために何ができるかを考えていることだろう。

 成功を欲するのは、我々が伝統的な価値観に「条件づけ」されている証拠に他ならない。つまり、幸不幸の尺度すら自由に持てなくなってしまっているということだ。

 今日はここまで。疲労で頭が回らないが、クリシュナムルティを紹介したいあまり意を決してキーを叩いた次第である。読みにくい部分はご容赦願いたい。

子供たちとの対話―考えてごらん (mind books)
J. クリシュナムルティ
平河出版社
売り上げランキング: 194,873

宗教とは何か?
恐怖で支配する社会/『智恵からの創造 条件付けの教育を超えて』J・クリシュナムルティ
死の恐怖/『ちくま哲学の森 1 生きる技術』鶴見俊輔、森毅、井上ひさし、安野光雅、池内紀編
邪悪な秘密結社/『休戦』プリーモ・レーヴィ

2009-11-08

人間に自由意思はない/『脳はなにかと言い訳する 人は幸せになるようにできていた!?』池谷裕二


『進化しすぎた脳 中高生と語る〔大脳生理学〕の最前線』池谷裕二

 ・人間に自由意思はない

『できない脳ほど自信過剰 パテカトルの万脳薬』池谷裕二


 脳科学の最新トピックを紹介する軽めの科学エッセイ。といっても、軽いのは文体であって内容はヘビー級だ。恐るべきスピードで進展する科学の世界は刺激に満ちていて昂奮させられる。

 では早速本題に入ろう――

 科学的な見地としては、自由意思はおそらく“ない”だろうといわれています。

【『脳はなにかと言い訳する 人は幸せになるようにできていた!?』池谷裕二〈いけがや・ゆうじ〉(祥伝社、2006年/新潮文庫、2010年)以下同】

 マジっすか? ってこたあ、人間はただ反応しているだけなんスか? 池谷さんよ、証拠を出して下さいよ、証拠を!

 ヒトと違って、ヒルの脳は単純です。神経細胞も全部で数万個しかありません。これらの神経はどうネットワークを作っているのかもだいたいわかっています。つまり、実験のツールとして、ヒルというのは優れた標本なのです。この神経回路をしらみ潰(つぶ)しに調べていくと、泳いで逃げるか、這って逃げるかを、どの神経細胞が決定しているかがわかります。
 実際に、突き止められたのです。208番という番号のついた神経細胞がそれでした。

 神経細胞には、電気活動としての「ゆらぎ」があります。
 神経の細胞膜の電気が、ノイズとして、とくに理由なく「ゆらぐ」のです。空中の風と同じで、明確な原因があるというわけではなくて、システムというのは、そこに存在するだけでゆらいでいます。つまり、神経細胞の膜の電気が、たくさん溜まっているときと、少ないときとがあるわけです。
 そして、わかったことはこうだったのです。細胞膜の電気がたくさん溜まっているときに、刺激が来ると泳いで逃げる。逆に、溜まっていないときに刺激が来ると、今度は別の行動、つまり這って逃げたのです。実にそれだけのことだったのです。〈自由意思〉、〈選択〉をとことん突き詰めていくと、要は、「ゆらぎが決めていた」にすぎなかったのです。刺激がきたときに、たまたま神経細胞がどんな状態だったかによって行動が決まってくるわけです。
 私たちの高度な〈選択〉もよく考えてみると、絶対的な根拠なんてものはありません。

 エ? ヒルと人間を一緒にするんですか? 確かに他人の生き血を啜(すす)っているような連中はいる。ヌラァーっとした性格の男も存在する。やっぱりヒルと遜色がないのか? ないね。違うとすれば記憶の量だけだろう。

 文化、価値観、善悪、損得、好き嫌い、欲望、願望、希望、理想、そして時間の概念――これらは全て記憶に依存しているのだ。決断とは、記憶の中から瞬間的に整合性を導き出す瞬発力を意味する。実は足し算引き算程度の関数しか働いていないように感じる。

 これがだ、脳内の電気信号による「ゆらぎ」に過ぎないとすれば、我々の人生――つまり選択の積み重ね――ってえのあ、風まかせということになる。「愛は風まかせ」なのは知っていたが、よもや脳まで風まかせだったとは……。

 でも、よく考えてみると自然界の一切がゆらめいている。光と風、雲や波、そして川……。何も気体と液体に限ったことではない。固体だって時間とともに風化するのだ。長大な時間軸から見ればやはり流動的なのだ。フーム、諸行無常か。そして万物は流転する。

 結構ショッキングな事実ではあるが、「なあんだ、ゆらぎだったのね」と安心するような気持ちにもなる。決断には責任が伴うが、ゆらぎだと思えば何度でもやり直しができそうな気になってくる(笑)。昨日のゆらぎで失敗したなら、今日反対方向に揺さぶればいいだけの話だ。

 ただ、こんな話を知ってしまうと選挙結果なんか、まるで信用できなくなる。日本人の脳がたまたま民主党にゆらいでしまったということなのだろう。

 どうやら、条件反射の能力を磨く必要がありそうだ。

・自由意志は解釈にすぎない
・瞑想の世界を見ることができる情報機器/『ひとりっ子』グレッグ・イーガン
・意識は膨大な情報を切り捨て、知覚は0.5秒遅れる/『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』トール・ノーレットランダーシュ
・『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』トール・ノーレットランダーシュ
・『人間この信じやすきもの 迷信・誤信はどうして生まれるか』トーマス・ギロビッチ
・自我と反応に関する覚え書き/『カミとヒトの解剖学』 養老孟司、『無責任の構造 モラル・ハザードへの知的戦略』 岡本浩一、他
・人間の脳はバイアス装置/『隠れた脳 好み、道徳、市場、集団を操る無意識の科学』シャンカール・ヴェダンタム
・デカルト劇場と認知科学/『神はなぜいるのか?』パスカル・ボイヤー

2009-10-04

現在をコントロールするものは過去をコントロールする/『一九八四年』ジョージ・オーウェル


『すばらしい新世界』オルダス・ハクスリー:黒原敏行訳

 ・現在をコントロールするものは過去をコントロールする
 ・修正し、改竄を施し、捏造を加え、書き換えられた歴史が「風化」してゆく

『華氏451度』レイ・ブラッドベリ

必読書リスト その五

 ディストピア小説の傑作が新訳で蘇った。信じ難いほど読みやすくなっている。高橋和久が救世主に思えるほどだ。世界を読み解く上で不可欠の一書である。舞台設定を未来にすることで、権力の本質が管理・監視・暴力にあることを描き切っている。一見、戯画化しているように思われるが、むしろ細密なデフォルメというべき作品だ。

 それにしてもこんなに面白かったとは! 私は舌なめずりしながらページをめくった。権力は、それを受け容れる人々を無気力にし、自由を求める者には容赦なく暴力を振るう。暴力を振るわなければ維持できない性質が権力にはある。

 優れた小説は人間精神の深奥に迫る。そして精神の力は、肉体に加えられる暴力によって試される。アラブ小説が凄いのは、「想像力としての暴力」ではなく、「現実の暴力」に立脚しているためだ。

 もう一つの太いテーマは、「歴史と記憶」である。権力者は歴史を修正し改竄(かいざん)する。なぜなら、権力の正当性は常に過去に存在するからだ。過去は現在という一点に凝縮され、その現在は未来をも包摂している。つまり、過去と未来は現在を通してつながっているのだ。このため、過去に異なる情報が上書きされると、現在の意味が変質し、未来までもが権力者にとって都合のいいように書き換えることが可能となる――

 党は、オセアニアは過去一度としてユーラシアと同盟を結んでいないと言っている。しかし彼、ウィンストン・スミスは知っている、オセアニアはわずか4年前にはユーラシアと同盟関係にあったのだ。だが、その知識はどこに存在するというのか。彼の意識の中にだけ存在するのであって、それもじきに抹消されてしまうに違いない。そして他の誰もが党の押し付ける嘘を受け入れることになれば――すべての記録が同じ作り話を記すことになれば――その嘘は歴史へと移行し、真実になってしまう。党のスローガンは言う、“過去をコントロールするものは未来をコントロールし、現在をコントロールするものは過去をコントロールする”と。それなのに、過去は、変更可能な性質を帯びているにもかかわらず、これまで変更されたことなどない、というわけだ。現在真実であるものは永遠の昔から真実である、というわけだ。実に単純なこと。必要なのは自分の記憶を打ち負かし、その勝利を際限(さいげん)なく続けることだ。それが〈現実コントロール〉と呼ばれているものであり、ニュースピークで言う〈二重思考〉なのだ。

【『一九八四年』ジョージ・オーウェル:高橋和久訳(ハヤカワepi文庫、2009年/吉田健一・龍口直太郎訳、文藝春秋新社、1950年/『世界SF全集 10 ハックスリイ オーウェル』村松達雄・新庄哲夫訳、早川書房、1968年新庄哲夫訳、ハヤカワ文庫、1972年)】

 恐ろしいことに記憶よりも記録が歴史を司る。そして、記録が抹消されれば過去の改竄はたやすく行われる。移ろいやすく変質しやすい記憶は、記録によって塗り替えられる。

「過去をコントロールするものは未来をコントロールし、現在をコントロールするものは過去をコントロールする」という党のスローガンはこの上なく正しい。民衆をコントロールできる権力者は、歴史をもコントロールできるのだ。

 仏教では権力者の本質を「他化自在天」(たけじざいてん)と説いた。「他を化(け)すること自在」というのだ。しかも、人界の上の天界が住処となっているから、上層で君臨している。本書に照らせば、「他」というのは「他人の記憶」までもが含まれることになる。

 二重思考(ダブルシンク)は人間の業(ごう)ともいうべき性質である。例えば理性と感情、分析と直観、意識と無意識など我々はいつでもどこでも二重性に取り憑かれている。なぜなら、人間の脳が二つ(右脳と左脳)に分かれているからだ。そう考えると、人間は元々分裂した状態にあると考えることも可能だ。

 そして権力者は人々を分断する。自他の間に懸隔をつくり出す。悪の本質はデバイド(割り→分断)にある。

 オーウェルが象徴的に描き出したビッグ・ブラザーは社会のそこここに存在する。それにしてもオーウェルはとんでもない宿題を残してくれたもんだ。

【問い】ビッグ・ブラザーのような権力者とあなたはどのように戦えるかを答えなさい。制限時間は死ぬまで。

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)
ジョージ・オーウェル
早川書房
売り上げランキング: 989

・岡田英弘
・岡崎勝世
・野家啓一
・『死生観を問いなおす』広井良典
・寿命は違っても心臓の鼓動数は同じ/『ゾウの時間ネズミの時間 サイズの生物学』本川達雄
・将来は過去の繰り返しにすぎない/『先物市場のテクニカル分析』ジョン・J・マーフィー
読書の昂奮極まれり/『歴史とは何か』E・H・カー
ナット・ターナーと鹿野武一の共通点/『ナット・ターナーの告白』ウィリアム・スタイロン
物語の本質〜青木勇気『「物語」とは何であるか』への応答
物語る行為の意味/『物語の哲学』野家啓一
人間と経済の漂白/『ショック・ドクトリン 惨事便乗型資本主義の正体を暴く』ナオミ・クライン
集団行動と個人行動/『瞑想と自然』J・クリシュナムルティ
忠誠心がもたらす宗教の暗い側面/『宗教を生みだす本能 進化論からみたヒトと信仰』ニコラス・ウェイド
情報理論の父クロード・シャノン/『インフォメーション 情報技術の人類史』ジェイムズ・グリック
新世界秩序とグローバリゼーションは単一国を目指す/『われら』ザミャーチン:川端香男里訳
邪悪な秘密結社/『休戦』プリーモ・レーヴィ
過去の歴史を支配する者は、未来を支配することもできる/『大東亜戦争で日本はいかに世界を変えたか』加瀬英明
コミンテルンの物語/『幽霊人命救助隊』高野和明
『創られた「日本の心」神話 「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史』輪島裕介

2009-07-29

回帰効果と回帰の誤謬/『人間この信じやすきもの 迷信・誤信はどうして生まれるか』トーマス・ギロビッチ


・『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』トール・ノーレットランダーシュ

 ・誤った信念は合理性の欠如から生まれる
 ・迷信・誤信を許せば、“操作されやすい社会”となる
 ・人間は偶然を物語化する
 ・回帰効果と回帰の誤謬
 ・視覚的錯誤は見直すことでは解消されない
 ・物語に添った恣意的なデータ選択

・『脳はいかにして〈神〉を見るか 宗教体験のブレイン・サイエンス』アンドリュー・ニューバーグ、ユージーン・ダギリ、ヴィンス・ロース
『隠れた脳 好み、道徳、市場、集団を操る無意識の科学』シャンカール・ヴェダンタム

必読書リスト その五

 回帰効果とは、不完全な相関関係における極端な数値に対して、もう一方の数値が平均へと回帰する現象をいう。エ、わかりにくい? 確かに。

 例えば、身長が195cmの父親から生まれた子供は、195cm未満である可能性が高いということ(※遺伝学者のフランシス・ゴルトンが実際に調べた)。あるいは、今月の交通事故死亡者数が極端に低下すれば、来月は上回ることが予想される。はたまた、今回の試験の平均点が90点であれば、次回は90点未満であること。そう。大きく振れた振り子は必ず戻ろうとする。

 ところが人間は往々にして回帰効果を無視して、勝手な物語を作り上げる傾向が強い――

 こうした予想を行なう際に回帰効果を無視してしまうという傾向は、偏りの錯誤と同様に、代表制にもとづく判断のせいであると考えられる。予想されるものと予想の根拠となるものは限りなく類似しているはずだという直観が人々の判断に影響して、両者の得点をほぼ同じものとさせてしまうのである。身長195センチの父親に対しては、身長195センチの子どもが最も代表的だと思われてしまうのである。(実際には、身長195センチの父親を持つ子どもの大半は、これより低い身長となる。)ここでもまた、代表性にもとづく判断が、過度の一般化を引き起こしている。

【『人間この信じやすきもの 迷信・誤信はどうして生まれるか』トーマス・ギロビッチ:守一雄〈もり・かずお〉、守秀子〈もり・ひでこ〉訳(新曜社、1993年)以下同】

 ということは、だ。鳶(とび)が鷹を生み、今度はその鷹が鳶を生むことはあり得るが、鷹が鷲を生み、鷲が鳳(おおとり)を生むことはないってことだな。ここで重要なのは、極端にいい結果が出た後は、少々悪い結果が出やすいし、その逆もまた真なりってことだ。

 回帰効果を無視すると、今度は回帰の誤謬が生じる――

 回帰の概念を本当に理解できていないときに人々が直面する二つの問題点のうちのもうひとつは、「回帰の誤謬」として知られている。回帰の誤謬というのは、単なる統計学的な回帰現象にすぎないものに対して、複雑な因果関係を想定したりして余計な「説明」をしてしまうことを言う。素晴らしい成績の後、成績が落ち込むと怠けたせいであるとされたり、反対に、凶悪犯罪が頻発した後で犯罪件数の減少が見られると、新しい法律の施行が効を奏したためと考えられたりすることである。回帰の誤謬は、偏りの錯誤と似たところがある。どちらも、偶然に生じたできごとに人々が余計な意味づけをしてしまう現象だからである。統計学的な回帰の結果生じたにすぎない現象に、無理な説明づけをしようとするあまり、間違った信念が形成されることにさえなってしまう。

回帰の誤謬:Wikipedia

 政治の世界では常套手段といってよい。「相関関係と因果関係の混同」と言い換えることも可能だ。具体的な例も示されている――

 言い替えれば、回帰効果は、「ほめることを罰し、罰することをほめる」ことに一役買ってしまうのである。
 こうした現象を見事に示してみせた実験研究がある。この実験は、参加者に教師の役割を演じてもらい、コンピュータが演ずる架空の生徒たちをほめたり、叱ったりするものであった。コンピュータが演ずる生徒は、毎朝8時20分から8時40分までの間に登校し、その登校時刻がディスプレイに表示される。教師は、生徒が朝8時20分から8時30分までに登校して来るよう努めなければならない。生徒の登校時刻が表示されるごとに、参加者は、生徒をほめるか、叱るか、何もしないかのどれかを選択できる。そこで、生徒が8時30分より前に登校してきた時には、参加者は生徒をほめ、遅刻してきた時には叱るであろうと予想される。しかし、実際には、生徒の登校時刻は実験前にあらかじめ決められており、実験に参加した被験者がほめたり叱ったりしても、まったくその影響はない。それにもかかわらず、回帰効果があるために、生徒の登校時間は、遅刻して叱られた後では向上し(つまり、平均の8時30分の方に回帰し)、早く登校してほめられた後では悪くなる(つまり、ここでも平均の8時30分の方に回帰する)ことになる。さて、こうした実験の結果、参加者の7割が「叱ることの方が誉めることよりも登校時刻を守らせる効果がある」という結論を出した。回帰によって生じた、ほめることと叱ることの見かけの効果にだまされてしまったのである。

 以下のリンク先も参照されよ――

やる気のない中学生の子を持つ親の心得

 病気で考えてみよう。いくつもの原因が重なって発症する病気を「多因子疾患」という。遺伝要因と環境要因とが複雑に絡み合っているため、治療をしても一定の効果が現れない場合が多い。ところがアメリカの製薬会社は、相関関係を因果関係に見立てて、「精神疾患は“脳の病気”であり、薬を服用することで治る」という物語を作ることに成功した。

・相関関係=因果関係ではない/『精神疾患は脳の病気か? 向精神薬の化学と虚構』エリオット・S・ヴァレンスタイン

 こうした意図的なマーケティング手法にも、回帰の誤謬が含まれていると考えられる。というよりも、最初っから「誤謬の物語」を創作している節すら窺える。

 選挙においても回帰効果は見られる。以下はWikipediaのデータである――

1992年参院選
1993年/自民党223
1995年参院選
1996年/自民党239
1998年参院選
2000年/自民党233
2001年参院選
2003年/自民党237
2004年参院選
2005年/自民党296
2007年参院選

 定数の変化はあるものの、自民党が単独で衆議院の過半数を獲得したのは2005年だけとなっている。来る8月30日の投票において、自民激減は必至と予想されているが、民主党による回帰の誤謬は既に見受けられている。選挙結果を政争の具に利用するようなことがあれば、直ちに国民からそっぽを向かれることだろう。

 ただし、これは統計学の世界の話である。経済学的見地からすれば、金にものを言わせて、誤謬を真実にしてしまうことが多い。

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回帰の虚偽
・相関関係−因果関係
・『脳はいかにして〈神〉を見るか 宗教体験のブレイン・サイエンス』
・『なぜ、脳は神を創ったのか?』苫米地英人
人間の脳はバイアス装置/『隠れた脳 好み、道徳、市場、集団を操る無意識の科学』シャンカール・ヴェダンタム
偶然性/『宗教は必要か』バートランド・ラッセル

2009-07-17

言葉の重み/『時宗』高橋克彦


 北条時頼と時宗、時輔(※時宗の異母兄)父子(おやこ)を描いた政治小説。飽くまでも歴史小説という形を用いた政治小説である。鎌倉時代を築いた武士とそれ以前に栄華を誇っていた公家との違い、天皇・将軍・執権というパワー・オブ・バランス、関東における武士の合従連衡などがよく理解できる。

 親子にわたる政(まつりごと)を縦糸に、そして国家という枠組が形成される様を横糸にしながら、物語は怒涛の勢いで蒙古襲来を描く。時頼と日蓮との関係を盛り込むことで、政治・宗教・戦争という大きなテーマが浮かび上がってくる仕掛けだ。お見事。

 私は以下の件(くだり)を読んで衝撃を受けた――

「そなたが関白でよかった」
 上皇は言って基平を見詰めた。
「近衛の一族はそなたを今に生み出すために代々我らの側にあったのじゃな」
 なにを言われたのか基平には分からなかった。それが最上級の褒めの言葉であると察したのは少し間を置いてのことである。
「ははっ」
 感極まって基平は泣きながら平伏した。抑えようにも涙は止まらない。五度に及ぶ混迷の合議、しかも半ば以上諦めていた裁定をたった一通の意見書が覆(くつがえ)したのだ。

【『時宗』高橋克彦(NHK出版、2000年/講談社文庫、2003年)以下同】

 北条家の意向を受けた近衛基平が「蒙古からの国書に返書を出すべきではない」と折衝する。これには、蒙古に対する北条父子の深慮遠謀があり、基平は命懸けで訴え抜いた。最後の最後でようやく基平の意見は採用される。そして、上皇が感謝の意を表明するシーンである。

 真の褒賞(ほうしょう)は「感謝の言葉」であった。何という言葉の重み。金品でも土地でもない。国家を守るために命を張り、それに報いる言葉があれば、人は幸福になれるのだ。日蓮は門下に宛てた手紙の中で「ただ心こそ大切なれ」(「四条金吾殿御返事」弘安2年/1279年)と記しているが、まさしく心を打つものは心に他ならない。

 まだ天下が統一される前の時代に、国の行く末を思い、犠牲を厭(いと)わぬ人々が存在した。歴史に記されることがなかったとしても、礎石になる人生を選んだ男達がいた。

 泰盛は時宗の肩に手を置いて言った。
「そなたがここにおるではないか。そなたであればどんな山とて乗り越えられる。国は皆のものと言い切る執権じゃぞ。そういうそなたの言なればこそ皆が命を捨てたのだ」
 時宗は泰盛を見詰めた。
「そなたが気付いておらぬだけ。新しき国の姿はそなたの中にある。皆はそれを信じて踏ん張った。そなたが今の心を持ち続けている限り、我らも失うことはない」

 安達泰盛の言葉もまた最高の褒賞となっている。真実を知る者からの称賛が、喝采なき舞台を力強く支える。地位でも名誉でもなく、人間と人間とが交わす讃歌こそ究極の幸福なのだ。

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北条時頼
北条氏略系図
北条時宗
北条時宗(NHK大河ドラマ)
北条時輔
北条時宗が見た北鎌倉を歩く
元寇
蒙古襲来絵詞

2009-07-14

人間とは「ケアする動物」である/『死生観を問いなおす』広井良典


 ・キリスト教と仏教の「永遠」は異なる
 ・時間の複層性
 ・人間とは「ケアする動物」である
 ・死生観の構築
 ・存在するとは知覚されること

必読書リスト その五

 リクエストがあったので広井良典のテキストを紹介する。尚、以下の記事を先に読んでいただきたい――

ネアンデルタール人も介護をしていた/『人類進化の700万年 書き換えられる「ヒトの起源」』三井誠

 本書は時間という概念から死生観を捉え直した一冊。豊富な話題で多様な角度から「永遠」を思索している。その上で4年前に著した『ケアを問いなおす 〈深層の時間〉と高齢化社会』(ちくま新書、1997年)ともリンクさせており、著者の気迫を感じさせる――

 いうまでもなく人間は社会的な生き物であり、他者との様々な関わりの中で自分の存在を確認していく存在である。ケアとは本来「気遣い、配慮、世話」といった意味をもつ言葉で、情緒的な面を含めた他者との関わりを広く含む概念であるが、このように考えていくと、人間とは「ケアする動物」である、という理解が可能になってくる。より詳しく言えば、こうしたケアの関係は、社会性が大きく発達した哺乳類に既に現れているものであるが――「哺乳」という言葉がよく示しているように、そこでは母親との関係が「ケア」の原型となっている――、そうしたケアの関係が個体の成長(情緒的な面のみならず学習あるいは認知的な側面を含む)にとって全面的に大きな役割をはたすようになっているのが人間という生き物においてである。
 いずれにしても、このように人間は「ケアへの欲求」をもっており、その中には「ケアされたい欲求」というものが含まれる。ケアされたい欲求というのは、いいかえると、自分という存在を確かに認めてもらいたい、あるいは自分という存在を肯定され受け容れてもらいたい、という欲求といってよいものであろう。そして人間の場合、そのように自分という存在がしっかりと「ケア」され肯定されているという基本的な感覚があってこそ、自分がいま生きている「この世界」自体がプラスの価値をもって立ち現れ、生への肯定感が強固なものとなる。

【『死生観を問いなおす』広井良典(ちくま新書、2001年)】

 人間の“社会性”を“ケア”として捉える発想が極めて斬新だ。「親の死に目に会う」「最期を看取る」といった感覚もこう考えると腑に落ちる。

 大事なのは、「ケアへの欲求」が「したい、されたい」という双方向性を持っていることである。「相身互い」という古めかしい日本語を想起させる。

 実際に介護をするとよくわかるのだが、こちらが介護しているにもかかわらず、妙に癒(いや)されることがあるものだ。非常に不思議な感覚に捉われ、「あ、介護を必要とする人がいるから、自分は介護をすることができるのだな」とたちどころに悟る。それはあたかも、「説法するから偉いわけではなく、衆生がいるおかげで法を説くことができる」とする仏教本来の精神に近い。

 よく考えてみよう。最も人間らしいあり方――つまり動物とは異なる生き方――とは、努力をすることであり、苦痛に耐えることであろう。偉人という偉人はいずれも過酷な運命と対峙し、勇猛果敢に乗り越えている。そうであるならば、身体に障害を抱える方々や難病と闘う人々は英雄と言える。

 ある日の朝礼で、私の上司であり、主治医でもある義兄が、全職員を前にして言った。
「ここに入ってこられる方は、病気やけがと闘って、脳に損傷を受けながらも生き残った勝者です。勝者としての尊敬を受ける資格があるのです。みなさんも患者さんを、勝者として充分に敬ってください」

【『壊れた脳 生存する知』山田規畝子〈やまだ・きくこ〉(講談社、2004年)】

 その上、人間らしさが他者に尽くす利他の行為にあるとすれば、こうした営みを人々から「引き出して」いるのも障害者や病人と言えよう。

 もちろん、介護現場に様々な問題が山積していることは知っている。政府が要介護者を切り捨てようとしている現実も確かに存在する。しかしながらヒトが「ケアする動物」であれば、誰も見ていない介護という営みに「限りない豊かさ」があるはずだ。

 思想とは、行為を捉え直し、行為に意味を付与し、行為を昇華させるものである。思想なき人は、行為に引き摺られ、生き方が些末(さまつ)になってゆく。本書には、蒙(もう)を啓(ひら)く確かな思想性がある。

・ケアする動物

死生観を問いなおす (ちくま新書)
広井 良典
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壊れた脳 生存する知 (角川ソフィア文庫)
山田 規畝子
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2009-07-11

ネアンデルタール人も介護をしていた/『人類進化の700万年 書き換えられる「ヒトの起源」』三井誠


 人類の進化をコンパクトにまとめた一冊。やや面白味に欠ける文章ではあるが、トピックが豊富で飽きさせない。

 例えば、こう――

 北イラクのシャニダール洞窟で発掘された化石はネアンデルタール人(※約20万〜3万年前)のイメージを大きく変えた。見つかった大人の化石は、生まれつき右腕が萎縮する病気にかかっていたことを示していた。研究者は、右腕が不自由なまま比較的高齢(35〜40歳)まで生きていられたのは、仲間に助けてもらっていたからだと考えた。そこには助け合い、介護の始まりが見て取れたのだ。「野蛮人」というレッテルを張り替えるには格好の素材だった。

【『人類進化の700万年 書き換えられる「ヒトの起源」』三井誠(講談社現代新書、2005年)】

 飽くまでも可能性を示唆したものだが、十分得心がゆく。私の拙い記憶によれば、フランス・ドゥ・ヴァール著『あなたのなかのサル 霊長類学者が明かす「人間らしさ」の起源』(早川書房、2005年)には、チンパンジーがダウン症の子供を受け入れる場面が描かれていた。

 広井良典は『死生観を問いなおす』(ちくま新書、2001年)の中で、「人間とは『ケアする動物』」であると定義し、ケアをしたい、またはケアされたい欲求が存在すると指摘している。

人間とは「ケアする動物」である/『死生観を問いなおす』広井良典

 つまり、ケアやホスピタリティというものが本能に備わっている可能性がある。

 ネアンデルタール人がどれほど言葉を使えたかはわからない。だが、彼等の介護という行為は、決して「言葉によって物語化」された自己満足的な幸福のために為されたものではあるまい。例えば、動物の世界でも以下のような行動が確認されている――

「他者の苦痛に対するラットの情動的反応」という興味ぶかい標題の論文が発表されていた。バーを押すと食べ物が出てくるが、同時に隣のラットに電気ショックを与える給餌器で実験すると、ラットはバーを押すのをやめるというのである。なぜラットは、電気ショックの苦痛に飛びあがる仲間を尻目に、食べ物を出しつづけなかったのか? サルを対象に同様の実験が行なわれたが(いま再現する気にはとてもなれない)、サルにはラット以上に強い抑制が働いた。自分の食べ物を得るためにハンドルを引いたら、ほかのサルが電気ショックを受けてしまった。その様子を目の当たりにして、ある者は5日間、別のサルは12日間食べ物を受けつけなかった。彼らは他者に苦しみを負わせるよりも、飢えることを選んだのである。

【『あなたのなかのサル 霊長類学者が明かす「人間らしさ」の起源』フランス・ドゥ・ヴァール:藤井留美訳(早川書房、2005年)】

「思いやり」などといった美しい物語ではなく、コミュニティ志向が自然に自己犠牲の行動へとつながっているのだろう。そう考えると、真の社会的評価は「感謝されること」なのだと気づく。これこそ、本当の社会貢献だ。

 人間がケアする動物であるとすれば、介護を業者に丸投げしてしまった現代社会は、「幸福になりにくい社会」であるといえる。家族や友人、はたまた地域住民による介護が実現できないのは、仕事があるせいだ。結局、小さなコミュニティの犠牲の上に、大きなコミュニティが成り立っている。これを引っ繰り返さない限り、社会の持続可能性は道を絶たれてしまうことだろう。

 既に介護は、外国人労働力を必要とする地点に落下し、「ホームレスになるか、介護の仕事をするか」といった選択レベルが囁かれるまでになった。きっと、心のどこかで「介護=汚い仕事」と決めつけているのだろう。我々が生きる社会はこれほどまでに貧しい。

 せめて、「飢えることを選んだ」ラットやサル並みの人生を私は歩みたい。

人類進化の700万年 (講談社現代新書)
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あなたのなかのサル―霊長類学者が明かす「人間らしさ」の起源
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頑張らない介護/『カイゴッチ 38の心得 燃え尽きない介護生活のために』藤野ともね

2009-06-28

時間の複層性/『死生観を問いなおす』広井良典


『インディアスの破壊についての簡潔な報告』ラス・カサスキリスト教を知るための書籍
・『完全教祖マニュアル』架神恭介、辰巳一世(宗教とは何か?

 ・キリスト教と仏教の「永遠」は異なる
 ・時間の複層性
 ・人間とは「ケアする動物」である
 ・死生観の構築
 ・存在するとは知覚されること
 ・キリスト教と仏教の時間論

・『ゲーデルの哲学 不完全性定理と神の存在論』高橋昌一郎
・『洗脳支配 日本人に富を貢がせるマインドコントロールのすべて』苫米地英人
『宇宙を織りなすもの』ブライアン・グリーン

必読書リスト その五

 広井良典は時間を捉え直すことで、死生観を問い直す。果たして時間は主観なのか客観なのか。また時間は一種類しかないのか。そして広井は、時間の複層性を注視する――

「時間のより深い次元」ということをやや唐突な形で述べたが、たとえて言うと次のようなことである。川や、あるいは海での水の流れを考えると、表面は速い速度で流れ、水がどんどん流れ去っている。しかしその底のほうの部分になると、流れのスピードは次第にゆったりしたものとなり、場合によってはほとんど動かない状態であったりする。これと同じようなことが、「時間」についても言えることがあるのではないだろうか。日々刻々と、あるいは瞬間瞬間に過ぎ去り、変化していく時間。この「カレンダー的な時間」の底に、もう少し深い時間の次元といったものが存在し、私たちの生はそうした時間の層によって意味を与えられている、とは考えられないだろうか?

【『死生観を問いなおす』広井良典(ちくま新書、2001年)以下同】

 考えさせられる指摘である。例えば、受精してから誕生に至る十月十日(とつきとおか)の間に、新生児は進化の過程を辿るといわれる。何とはなしに、羊水の中で人類の悠久の歴史が流れているような印象を受ける。あるいは、DNA的時間というのも存在するかも知れぬ。一本の川を宇宙の歴史と考えれば、それこそ無数の時間が流れていそうだ。

 広井の考察は時間と空間との関係に及ぶ――

 こうなってくると、時間と空間とは相互に独立したものではなく、互いに関係し合ったものとなる。つまり、例えば先にふれたようにシリウスまでの距離は8.6光年、一方七夕の彦星であるアルタイルまでの距離は16光年だそうなので、ということは私たちはいつも「8.6光年前のシリウス、16光年前のアルタイル」を同時に見ていることになり、いわば異なる過去に属する星々を「いま」見ていることになる。単純に言えば、「遠い」星ほどその「古い」姿を見ているわけであり、時間と空間はこうして交差する。私たちは宇宙の「異なる時間」をいまこの一瞬に見ている、といってもよいだろう。

 これまた座布団を三枚差し出したくなるような例え話だ。浦島太郎は竜宮城で数日間を過ごしたが、地上では700年が経過していた。こうした時間の複層性が示しているのは何か?――

 つまり、時間というものは、「世界そのものの側」に存在するのではない。それは認識する「人間の側」にあるもので、世界を見る際の枠組み、色メガネのようなものである。

 時間は「私が認識する」ものだった。主観。なぜなら、変化を観測する人物がいないと時間は存在しないからだ。人類が滅亡した時点で時間は消失する。それでも納得できなければ、宇宙が消滅した時点で時間は存在しなくなると言っておこう。

 この相対化の方向を、極限まで推し進めたのがアインシュタインだった、ということができる。相対論の体系では、先にもふれたように、絶対時間、絶対空間の存在は否定され、時間や空間は、事象を観測する主体(座標系)を特定して初めて意味をもつことになる。つまり、時間や空間は認識主体との関係でまさに「相対的」であり、それらとは別に唯一の客観的な時間・空間が存在しているのではない。したがって、異なる個人、たとえばAさんとBさんとは異なる「時間」の中に存在していることになる(ただし、これは光速の有限性ということがあって初めて出てくる結論だから、光速が有限であることがほとんど無視できるような地球上の現象に関する限りは、そうした時空の相対性は事実上無視できるものになる)。
 ふり返って見ると、カントの段階では、先にふれたように時間は世界の側から「人間の側」にもって来られたが、それでもなお、人間の世界の内部では、ある普遍的な、絶対的な(唯一の)時間が存在していたのだった。それがアインシュタインの相対論に至ると、時間はおのおのの個人によって異なるものとなり、唯一の「絶対時間」なるものは存在しなくなる。つまり共通の“時間という色メガネ”すら実は存在しない、というのが相対論の結論である。ニュートンからカント、マッハ、アインシュタインへの歩みは、したがって絶対時間あるいは「直線的時間」というものが解体してゆく歩みであるということもできる。

 まったくもって凄い展開になっている。これは思索の要あり。ある人物の人生を生と死で結べば、それは「直線的時間」といえよう。だが、死へと向かいつつある我々の時間は、あっちへ行ったりこっちへ行ったりとウロウロすることが珍しくない。しかも、時間というものは過ぎてしまえば一瞬なのだ。

 若くして亡くなる人がいると心が痛む。だが、我々は資本主義に毒されてしまい、人生七十年という平均値を8時間労働のように考えている節がある。更に恐ろしいことに、人生そのものを仕事量で判断する傾向すらある。

 広井良典の知的作業は永遠をも峻別しながら、豊穣なる時間を志向している。

死生観を問いなおす (ちくま新書)
広井 良典
筑摩書房
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・野家啓一
・死の瞬間に脳は永遠を体験する/『スピリチュアリズム』苫米地英人
・光は年をとらない/『エレガントな宇宙 超ひも理論がすべてを解明する』ブライアン・グリーン

2009-06-26

「お年寄り」という言葉の欺瞞/『我が心はICにあらず』小田嶋隆


 ・洗練された妄想
 ・土地の価格で東京に等高線を描いてみる
 ・真実
 ・「お年寄り」という言葉の欺瞞
 ・ファミリーレストラン
 ・町は駅前を中心にして同心円状に発展していく
 ・人が人材になる過程は木が木材になる過程と似ている

・『安全太郎の夜』小田嶋隆
・『パソコンゲーマーは眠らない』小田嶋隆
・『山手線膝栗毛』小田嶋隆
・『仏の顔もサンドバッグ』小田嶋隆
・『コンピュータ妄語録』小田嶋隆
・『「ふへ」の国から ことばの解体新書』小田嶋隆
・『無資本主義商品論 金満大国の貧しきココロ』小田嶋隆
・『罵詈罵詈 11人の説教強盗へ』小田嶋隆
・『かくかく私価時価 無資本主義商品論 1997-2003』小田嶋隆
・『イン・ヒズ・オウン・サイト ネット巌窟王の電脳日記ワールド』小田嶋隆
・『テレビ標本箱』小田嶋隆
・『テレビ救急箱』小田嶋隆

 小田嶋隆のデビュー作にして最高傑作。オダジマンの若さが、ストレートな毒となって疾走している。世の中を斜めに見上げる視線が冷ややかさを湛(たた)えて、反骨の域に達している。そして時折、街の光景をハードボイルドのように描いてみせる。駄洒落や下ネタは、江戸っ子特有の照れ隠しであることが察せられる。

 小田嶋は「お年寄り」という言い回しに隠された欺瞞を暴く――

「田中さんのご長男は弁護士になったんですって」
「田中さんのご長男は大学教授になったんですって」
「田中さんのご長男は八百屋さんになったんですって」
「田中さんのご長男は大工さんになったんですって」
 ここで「さん」のついている職業と、ついていない職業を比べてみるとそのあたりの事情が良く分かる。我々は時々、軽蔑していることを隠すために丁寧語を用いるのである。
「お年寄り」という言い方にも私はひっかかる。ニュースのアナウンサーは「学生」を「学生さま」と呼んだり「子供」を「お子様」と呼んだりしないのに、ことさらに年寄りだけを「お年寄り」と呼ぶ。たぶん心のどこかに「老いぼれ」「くたばりぞこない」「よいよい」「人間の残骸」といった気持ちがあるから、尊敬語を使ってバランスを取らなければならないのだ。
 最近では「老人」を「老人」と呼ばずにすますために「熟年」とか「実年」とかいった言葉が発明されている。が、実際に使ってみるとますます皮肉に響いてしまうだけだ。早い話が「うんこ」を「うんこちゃん」と呼んでみてもうんこはうんこだし臭いものは臭いのである。

【『我が心はICにあらず』小田嶋隆〈おだじま・たかし〉(BNN、1988年/光文社文庫、1989年)】

 そして中年期になった今でも尚、少年の心を失っていない私のような読者が痺れるのは、うんこネタとゲロネタである(笑)。少年は汚いものを愛する。なぜなら、心の奥底でうんことゲロが最終兵器であると固く信じているからだ。もしも、放射能とうんこを並べられたら、私は間違いなくうんこを怖れることだろう(←ウソ)。

 で、お年寄りだ。昨今の年寄りは若くなった。ジイサンもバアサンもファッショナブルである。特に女性の場合、たとえ結婚をしたとしても30代、40代からシミ・そばかす対策に身をやつし、理想的な体重を維持し、颯爽と流行の髪形をあしらっている人が多い。そして、いよいよ50代に突入すると、「アンチエイジング」と来たもんだ。「抗老化」「抗加齢」だってさ。ケッ。

 自分の年齢が戦うべき対象であるならば、小学生は老成を目指すべきなのだろう。目尻には墨でシワを描き、額には梅干しをセロテープで貼り付け、背中を丸めてゴホゴホと咳込み、カァーーーッ、ペッと痰を吐くのがアンチエイジングといえる。ま、女子高生の化粧や茶髪なんぞはそれに近いのかもね。若さの否定は実に滑稽だ。じっとしていたって大人になれるんだけどね。

 かように自分の年齢と戦うことは愚かだ。死という人生の最終章から目を背け、若く「見せる」ことにいかほどの意味があるというのだろうか。ないね。これっぽっちも意味はない。そんなに見栄えをよくしたいのであれば、着ぐるみでも被(かぶ)ればいいのだ。

「若々しい」のと「若く見せる」のとは違う。大体だな、外見ばっかり気にするのは中身がない証拠なんだよ。真のアンチエイジングは、躍動する精神と柔軟な思考に宿るのだ。昨日の自分よりも今日の自分を新しく変革する努力の中に存在するものだ。更に、貫禄と気品が備われば言うことなしだ。

 年を取っているだけの、古いうんこみたいな年寄りにだけはなりたくないものだ。

我が心はICにあらず (光文社文庫)
小田嶋 隆
光文社
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2009-06-19

人生の逆境を跳ね返し、泣きながら全力疾走する乙女/『裸でも生きる 25歳女性起業家の号泣戦記』山口絵理子


 ・人生の逆境を跳ね返し、泣きながら全力疾走する乙女
 ・バングラデシュでは、みんな、生きるために、生きていた

真っ黒な顔の微笑み
『地下足袋の詩(うた) 歩く生活相談室18年』入佐明美
『七帝柔道記』増田俊也

必読書リスト その一

 山口絵理子は「マザー・ハウス」というバッグメーカーの社長である。バングラデシュのジュート(麻)を使用したバッグは、すべて現地工場で製造されている。

 小学校に上がって直ぐいじめに遭う。中学では非行少女に。そして高校時代は柔道選手として埼玉県で優勝。一念発起をして偏差値40の工業高校から慶應大学に進学。在学中に米州開発銀行で働く機会を得て念願の夢がかなった。だがそこは、貧しい国の現場からあまりにも懸け離れていた。ある日のこと、山口はインターネットで検索した。「アジア 最貧国」と。出てきたのは「バングラデシュ」という国名だった。1週間後、山口はバングラデシュ行きの航空券を手配した。

 山口絵理子は逆境に膝を屈することがない。だが、山口はよく泣く。そして泣きながら全力疾走するのだ。

 彼女の生きざまは高校時代の柔道によく現れている。埼玉県内の強豪である埼玉栄高校を打倒するために、男子の強豪である工業高校へ山口は入学する。女子柔道部がないにもかかわらずだ。監督はバルセロナ五輪の代表を古賀稔彦(としひこ)と争ったこともある元全日本チャンピオンだ――

 そんな不安を振り切るために練習量を多くしていった。
 私は、高校の朝練の前に自宅の前にある公園で一人練習をはじめた。
 そして朝と午後の部活が終わってからは学校の1階から5階までを逆立ちで上がるというトレーニングを5往復毎日実践した。
 それから電車で30分かけて町の道場に直行し、また2時間練習をし、それからまた家に帰り一人打ち込み、筋トレをする、三食の前にはいつもプロテインという、今思えばゾッとするような日々を365日、休みなく続けた。
 私の部屋は、そこら中「目指せ、日本一!」「打倒 埼玉栄!」などと書かれた汚い壁紙でいっぱいだった。
 そして、毎日つけている柔道日記は、悔し涙でどのページもはっきりと見えなくなっていた。それでも、勝つことはできなかった。
 夏の合宿があった。猛暑の中、私はいつものとおり稽古をした。
 監督が久しぶりに柔道着になって私の名前を呼んだ。
「やるぞ!」
 私はこの監督との稽古で、通算10回も絞め落とされたのだった。「絞め落とされる」とは、簡単に言えば頚動脈を絞められて、意識を失う状態が10回もあったということである。
 私はその稽古中、唇は真っ青になり、青あざのある顔面は鼻水と涙でぐちゃぐちゃになり、どうしようもなくこの場にいるのが怖く耐えられなくなり、脱走を試みた。
 自分でもどういった精神状態だったかは正確に覚えていないが、私は柔道着のまま全力で走った。
「もうやだ!」
 走る、走る。
「家に帰るんだ! もう柔道なんてやりたくない!」
 後ろから、巨漢の先輩が追いかけてくる。
 担ぎあげられた。監督の前に連れて行かれ、「てめぇ! 逃げ出す奴がいるか!」
 と思いっきり殴られた。
 私はプッチンと切れ、思いっきり監督の腹をパンチした。監督は思いっきり私をまた殴った。私は全力で殴り返した。
 そんな死闘の末、合宿は終わり、私はもう「やめたい」と本気で思った。人の何倍も練習しているのに、全然勝てない。
 練習でこんな目にあって、そして周りからは白い目で見られ、心も体もボロボロだった。
 私は泣きながら、部屋に飾ってある「目指せ、日本一!」の壁紙を破り捨て、柔道着を段ボール箱にしまい、柔道をやめる決心をした。

【『裸でも生きる 25歳女性起業家の号泣戦記』山口絵理子(講談社、2007年)以下同】

 私も運動部だったので、彼女の練習量がどれほど凄まじいかがよく理解できる。吐くゲロすら残っていない状況だ。育ち盛りとはいえ、これほどの練習をしてしまえば、今尚深刻なダメージが残っていることだろう。監督を「殴り返した」ことから、ぎりぎりまで追い詰められた彼女の様子が見てとれる。

 高校生の山口は泣き明かし、泣き通す――

 1週間くらい部屋に閉じこもったままで、ずっと泣いていた。
 7冊以上たまった柔道日記を見た。そこには、
「絶対にあきらめない。絶対にあきらめない。あきらめたらそこで何かも終わってしまうから」
 と書かれていた。
 袖がちぎれて半そで状態になっているボロボロのミズノの柔道着を、段ボール箱から出してみた。
 柔道着の裏には、秘密で私がマジックで書いた「必勝」という汚い字が見える。その柔道着を見て、今までの辛い猛練習が頭いっぱいに広がった。
 雑巾みたいに、毎日投げられ続けた日々。それでも私は、いつも立ち上がって向かっていった。
 投げられても、投げられても、「来い!」って言って私は巨漢に立ち向かっていったはず。
 次の日、朝練に向かった。
 また地獄のような練習がはじまった。
 ずっと練習に参加していなかった私を白い目で見る先輩たち。
 練習ではいじめられた。壁にわざとたたきつけられ、引きずり回され、また絞め落とされ、私は吐いた。耳はつぶれてしまったが、それでも頭にぐるぐるテーピングを巻きつけ練習を続けた。
 ある日、膝の靭帯(じんたい)を3本も切断し歩けなくなった。
 病院に行ったらお医者さんが言った。
「手術をしないと30歳になったとき、確実に歩けなくなる」

 勝てなかった山口だったが、3年生の時に埼玉県で優勝。全国大会で7位に輝いた。もう少し手を伸ばせばオリンピックが見える位置まで上り詰めていた。しかし、柔道をやり切った彼女は別の道を選ぶ。

 そんじょそこいらの成功物語を自慢気に語るビジネス書ではない。心清らかな乙女の見事な半生記だ。10代、20代の女性は必読のこと。30過ぎの男どもは、本書を読んで己の姿を恥じよ。

裸でも生きる――25歳女性起業家の号泣戦記 (講談社BIZ)
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マザーハウス 山口絵理子代表 −志をかたちに−
株式会社マザーハウス 山口絵理子氏 代表兼デザイナー - 経営者・起業家インタビュー第74回 | Goodfind
第81回 株式会社マザーハウス 山口絵理子 | 起業・会社設立ならドリームゲート

2009-06-16

米軍による原爆投下は人体実験だった/『洗脳支配 日本人に富を貢がせるマインドコントロールのすべて』苫米地英人


『死生観を問いなおす』広井良典

 ・米軍による原爆投下は人体実験だった

・『精神の自由ということ 神なき時代の哲学』アンドレ・コント=スポンヴィル

キリスト教を知るための書籍

 またしてもベッチーである。これは傑作。最近の量産ぶりは玉石混淆だが、本書は一つの集大成ともいえる。それほど完成度が高い。各章の意図が明確で、薀蓄(うんちく)に傾きがちな悪癖が影を潜めている。装丁もグッド。

 苫米地の胡散臭さは、天才にありがちな「ま、わかる奴だけわかればいいや」という手抜きに起因している。穿(うが)った見方をすれば、「トンデモ本と思わせておけば好都合」という魂胆さえ見え隠れしている。

 例えば、スピリチュアル系の内容だと仏教の造詣が求められるし、本書であれば経済の仕組みに関する基礎知識が不可欠だ。私が読んできた限りでは、苫米地英人が単なる思いつきで、いい加減なことを書いた形跡はない。凄いことをさらりと書いておきながら、知を統合させる方向へリードしているように感ずる。
 本書は初の経済モノ。資本主義経済という名のもとで、どのように大掛かりな洗脳が行われ、国民が目隠しをされているかを暴き出している。イントロは、原爆投下にまつわる洗脳だ――

 原爆投下の理由について、新型爆弾である原爆を当初、米国の原爆を開発した科学者たちは、呉などの軍港の、それも沖合いに投下するという説明を受けていました。それを、当時の米国軍部は原爆の威力を測定する意味合いで、都市部に落とすことに変えました。人体実験を目的として日本に落としたと言えます。このことは、残された米軍の資料など、さまざまな証拠から明らかになっています。
 ところが日本人の多くは、「第二次世界大戦を早く終らせるために、アメリカは日本に原爆を投下せざるをえなかった」と教育され、いまだにそう思い込んでいます。
 実際、昭和20年の東京大空襲など、一連の空爆による日本全土焼き払い作戦のときから、米軍部は日本に戦争遂行能力がないことをはっきり知っていました。日本全土を焼き払うこと自体、すでに人体実験です。一般市民が無差別に死んでいくなかで、戦争の恐怖がどのように天皇を頂点にした国家を変えていくのか、研究していたのだと私は見ています。
 そして、その次に原爆投下です。敗戦前の少なくとも半年の間、日本人は国ごと一部の米国人の実験用モルモットとして、やりたい放題に殺されたというのが歴史の事実です。

【『洗脳支配 日本人に富を貢がせるマインドコントロールのすべて』苫米地英人(ビジネス社、2008年)】

 私もそのように思い込んでいた。日本軍に侵略されたアジア諸国の国民から見れば、原爆投下は正当化されるのかも知れない。はたまた、ソ連軍の参戦によって米軍は終戦を早めることを余儀なくされた、と。

 真珠湾攻撃の宣戦布告が遅れたとはいえ、アメリカ側は事前に知っていたという記録もある。とすれば、アメリカが第二次大戦後の世界における主導権を握るためにも、でかい花火を打ち上げる必要があったのだろう。

 その結果、広島では14万人が、長崎では7万4000人が、東京は106回の爆撃を受け、3月10日だけで8万4000人が殺された。

・『見よぼくら一戔五厘の旗』花森安治

 ここで重要なことは戦時中の日本がどのような状況であったのかということである。稀代の悪法である治安維持法や不敬罪によって、警察や憲兵が威張り散らしていたことは容易に想像がつく。夫や子供を戦地へ送り出した妻や母達は気丈に耐えるしかなかったことだろう。そこへコーンパイプをくわえたマッカーサーがやってきたのだ。チョコレートを持った米兵も。終戦(本当は敗戦)と同時に、灯火管制が布かれていた日本に電灯が煌々(こうこう)と灯(とも)った。

 ってことはだよ、ひょっとしたら安堵に胸を撫で下ろした国民の方が多かったかも知れぬ。そして、そこにこそ洗脳の余地(=「情報の空白部分」)が形成されたのだろう。マッカーサーは日本に自由を与えた。そして、自由になった日本国民は知らぬ間にアメリカが誘導する方向へ歩を進めた。

 原爆慰霊碑には「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」と記されている。過ちを犯したのはアメリカであったにもかかわらずだ。日本人は何でも水に流してチャラにするのだった。で、天皇の戦争責任もアメリカの原爆の責任も不問に付されるってわけだ。

 大き過ぎる問題は国民の目に映らない。群盲象を撫でる状況となる。苫米地英人は一冊の書物に心血を注ぎ、象の姿を皆に見せようと試みたのである。ここには眼を開かせるだけの力が、確かにある。

洗脳支配ー日本人に富を貢がせるマインドコントロールのすべて
苫米地 英人
ビジネス社
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・原爆投下、市民殺りくが目的
・原爆資料館を訪れたチェ・ゲバラ/『チェ・ゲバラ伝』三好徹
・マネーサプライ(マネーストック)とは/『洗脳支配 日本人に富を貢がせるマインドコントロールのすべて』苫米地英人
ラス・カサスの立ち位置/『インディアスの破壊についての簡潔な報告』ラス・カサス
・被爆を抱えた日常/『夕凪の街 桜の国』こうの史代
アメリカ人の良心を目覚めさせた原爆の惨禍/『トランクの中の日本 米従軍カメラマンの非公式記録』ジョー・オダネル
天才戦略家の戦後/『石原莞爾 マッカーサーが一番恐れた日本人』早瀬利之
ヒロシマとナガサキの報復を恐れるアメリカ/『日本最後のスパイからの遺言』菅沼光弘、須田慎一郎

2009-05-10

ティッピング・ポイント/『急に売れ始めるにはワケがある ネットワーク理論が明らかにする口コミの法則』マルコム・グラッドウェル


『複雑な世界、単純な法則 ネットワーク科学の最前線』マーク・ブキャナン

 ・ティッピング・ポイントの特徴と原則
 ・ティッピング・ポイント
 ・高い地位にある階層の人口が5%を割ると青少年の退学率と妊娠率が跳ね上がる

・『新ネットワーク思考 世界のしくみを読み解く』アルバート=ラズロ・バラバシ
『歴史は「べき乗則」で動く 種の絶滅から戦争までを読み解く複雑系科学』マーク・ブキャナン

 ネットワーク理論の秀逸な教科書本。ティップ(tip)は「傾く」で、ティッピング・ポイントは「大きな転換点」という意味。防波堤が決壊するイメージ、といえばわかりやすいだろう。

 何かが流行する現象――商品、言葉、文化、病気など――には必ずティッピング・ポイントが存在する。その意味でSB文庫(※ソフトバンクね)のタイトルは、飛鳥新社版(2001年)『なぜあの商品は急に売れ出したのか 口コミ感染の法則』を踏襲しており、本書の価値を単なるビジネス書に貶(おとし)める愚行を犯している。

 ティッピング・ポイントの特徴は次の通り――

 感染とは、換言すればあらゆる種類の事象に備わっている予期せぬ特性のことであり、伝染病的変化というものを理解し、診断するうえでは、まずこのことを念頭に置いておく必要がある。
 伝染病の第二の原理――小さな変化がなんらかのかたちで大きな結果をもたらすということ――もまたたいへん重要だ。

【『急に売れ始めるにはワケがある ネットワーク理論が明らかにする口コミの法則』マルコム・グラッドウェル:高橋啓訳(SB文庫、2007年/飛鳥新社、2000年『ティッピング・ポイント いかにして「小さな変化」が「大きな変化」を生み出すか』改題)以下同】

 これら三つの特徴――第一は感染的だということ、第二は小さな原因が大きな結果をもたらすこと、第三は変化が徐々にではなく劇的に生じるということは、小学校での麻疹(はしか)の蔓延や冬のインフルエンザの伝染の仕方と同じ原理に基づいている。この三つの特徴のうち、第三の特徴――すなわち感染の勢いはある劇的な瞬間に上昇したり下降したりすることがありうるという考え――がもっとも重要である。というのも、この第三の特徴こそが最初の二つの特徴を意味あるものにし、現代における変革がなぜこのようなかたちで生じるのか、その理解を深めてくれるものだからである。

 なんらかの感染現象において、すべてが一気に変化する劇的な瞬間を、本書ではティッピング・ポイントと呼んでいる。

 先月から、豚インフルエンザ(※食肉業界からの圧力は私に及んでいない)の世界的な感染が懸念されているが、感染症(エピデミック)がアウトブレイク(感染爆発)して世界中に広がることをパンデミックという。現在、WHO基準ではフェーズ5だが、これがフェーズ6になるとパンデミック期となる。ここでいうアウトブレイクがティッピング・ポイントに該当する。

 そういや、「百匹目の猿」という話がありましたな。今、調べたところ、ライアル・ワトソンによるインチキ話だったことを知った。くそっ、筆を折られた思いがする。

百匹目の猿現象:Wikipedia

 結局のところ、隣の家で風呂を沸かしても、私のところの風呂は熱くはならないって話だな。とすると、ティッピング・ポイントの鍵は情報の伝播(でんぱ)ということに落ち着きそうだ。

 文明の発達は、人や物の移動、そして情報伝達のスピードを加速させた。グローバリゼーションによって、アメリカのインチキ債券(※サブプライムローンね)が世界各国の経済にダメージを食らわせた。文字通り「世界は一つ」だ。風が吹けば桶屋が儲かり、米国が戦争をすると日本が儲かるってな仕組みだ。

 よくよく考えてみると、文明の発達とは権力保持のための武器だったのかも知れない。我々が受け取る大半の情報は新聞・テレビ・ラジオによるもので、まず自分で確認することがない。各社が発信する情報を鵜呑みにした上で、職場の同僚や友人と情報交換をしているのだ。メディアは大脳だ。そして国民が末梢神経。

 最も恐ろしいことは、高度に情報化された社会が権力者によってコントロールしやすいという事実である。人間という動物は実のところ、情報の真偽にはとんと関心がない。いつだって嘘の情報を信じることができる。歴史上の虐殺は正義の名の下に行われてきたが、いずれも権力者がでっち上げた正義であった。

 人類全体にとって、よりよいティッピング・ポイントを望むのであれば、我々は「正義を疑う」ことから始めなければならない。今日は母の日。カーネーションを贈る風習は、平和に献身したミセス・ジャービスの葬儀で娘のアンナが白いカーネーションを参列者に配ったことに由来している。だが、これもまた商業主義によって捻じ曲げられてしまった。「乗せられる」人々が多いほど、悪しきティッピング・ポイントはなくならない。

急に売れ始めるにはワケがある ネットワーク理論が明らかにする口コミの法則 (SB文庫)
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2009-05-06

相関関係=因果関係ではない/『精神疾患は脳の病気か? 向精神薬の化学と虚構』エリオット・S・ヴァレンスタイン


 ・精神疾患は本当に脳の病気なのか?
 ・「ブードゥー教の呪いで人が死ぬ」ことは科学的に立証されている
 ・相関関係=因果関係ではない

『〈正常〉を救え 精神医学を混乱させるDSM-5への警告』アレン・フランセス
『うつ消しごはん タンパク質と鉄をたっぷり摂れば心と体はみるみる軽くなる!』藤川徳美

必読書リスト その二

 精神疾患を“脳の病”と仕立てることで、薬物治療に弾みがついた。製薬会社がどのようにして、この「仮説」を「既成事実」に変貌させたかを告発した一書。力作である。

 医薬品業界は巨大な利権である。日本のマーケット規模は6兆円を上回る(2006年)。一方、アメリカは2901億ドルで世界の医薬品市場の45%を占めている。

 日本の大手製薬メーカーが戦争犯罪に加担した事実を鑑みると、製薬会社の存在自体に国家権力の意思が働いていることは確かだと思われる。

 薬というものは元々は毒である。製薬会社が承認申請を提出し、厚生労働省の審議会が審査する。もうね、これだけで何か胡散臭くなってくる。厚生労働省が「よきに計らえ」なんて言ったら、後は広告戦略を練るだけだ。病院においてあるパンフレットの類いを見れば直ぐに気づくことだが、その殆どは製薬会社が作成しているものである。

 国民が監視できるシステムとしなければ、いつまで経っても許認可による薬害が後を絶たないことだろう。薬害エイズや薬害肝炎は、まだ記憶に新しい。

 では、薬品天国のアメリカで、どのようにして精神疾患の薬が認可されるのか――

 相関関係がいかに強くてもそれがそのまま因果関係とならないことを、たいていの人は知っている。ところがこの事実は容易に忘れられる。傘を携えているからといって雨が降るわけではないことを誰でも承知しているのに、脳の中の何らかの生物学的マーカーと精神障害の間に相関関係があることが発見されると、このマーカーを障害の原因だと信じこむという落とし穴に容易にはまってしまう。脳がすべての精神的な経験において中心的役割を担っていることが知られていることがその一つの理由なのだろうが、論理的には、この関係は傘と雨の関係と変わりがない。人の精神状態や経験は脳に影響を与えうるし、逆もありうる。二つの事柄に相関関係があるとき、どちらが原因でどちらが結果であるか、自分でわかっているつもりになってはいけない。「原因」と「影響」が混同されやすい。また、二つのものに因果関係がなくても、大きな相関関係はありうる。たとえば、ほとんどの国で、名前が母音で終わる人は名前が子音で終わる人より、平均でみると、背が低い傾向が見られる。しかし少し考えてみればわかるように、最後の母音子音と背の高さに因果関係を想定すべき道理はない。

【『精神疾患は脳の病気か? 向精神薬の化学と虚構』エリオット・S・ヴァレンスタイン:功刀浩〈くぬぎ・ひろし〉監訳、中塚公子訳(みすず書房、2008年/新装版、2018年)】

 つまり、臨床データの解釈によって新しい物語を創作するってわけだ。これを「使った、直った、効いた」の“三た式思考法”と呼ぶ(安斎育郎著『霊はあるか 科学の視点から』講談社ブルーバックス、2002年)。これがどれほど危険であるかは、少し考えれば誰でもわかる。例えば、腹痛を訴える人に梅干しを与えたとしよう。10人で実験したところ、その内6人が3時間後に腹痛が解消していた。では、梅干しに腹痛を癒やす効力があるといえるだろうか? 言えるわけがない。
 それどころかエリオット・S・ヴァレンスタインによれば、精神疾患患者に化学的なバランスの崩れがあるという確かな証拠は何ひとつなく、統合失調症患者にドーパミン受容体の異常があるという証拠を示した人も誰もいないという。ノルアドレナリンとセロトニンについても同様だ。

 企業が利益を追求する以上、当然、実験段階で「きっと効くだろう」「何らかの変化を起こすに違いない」との予断が働く。そこに一定額以上の予算がつぎ込まれていれば、何が何でも都合のいいデータを探し求めるはずだ。彼等にとって、医師や政治家は同じチームメイトだ。ちょっと目配せすれば、わかってくれる――とまあ、こんな具合なのだろう。

 エリオット・S・ヴァレンスタインは決して投薬治療を否定しているわけではない。患者を置き去りにした製薬業界のあり方を告発しているのだ。私も本書を読むまでは、「精神疾患は“心の病”から“脳の病”になった」とばかり思い込んでいた。多くの人々にそう思い込ませたこと自体、アメリカ製薬メーカーによるマーケティングの勝利だった。情報の力は恐ろしい。我々は何となく信じてしまって、医薬品に依存するようになっているのだ。

 世界には、これほどの悪意がはびこっている。

・相関関係−因果関係
・「三た」式思考法
・回帰効果と回帰の誤謬/『人間この信じやすきもの 迷信・誤信はどうして生まれるか』トーマス・ギロビッチ
・宗教の原型は確証バイアス/『動物感覚 アニマル・マインドを読み解く』テンプル・グランディン、キャサリン・ジョンソン
・物語の本質〜青木勇気『「物語」とは何であるか』への応答
・人間の脳はバイアス装置/『隠れた脳 好み、道徳、市場、集団を操る無意識の科学』シャンカール・ヴェダンタム
・偶然性/『宗教は必要か』バートランド・ラッセル
・物語に添った恣意的なデータ選択/『人間この信じやすきもの 迷信・誤信はどうして生まれるか』トーマス・ギロビッチ
・相関関係が因果関係を超える/『ビッグデータの正体 情報の産業革命が世界のすべてを変える』ビクター・マイヤー=ショーンベルガー、ケネス・クキエ

精神疾患は脳の病気か?――向精神薬の科学と虚構 【新装版】
エリオット・ヴァレンスタイン
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2009-05-01

外情報/『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』トール・ノーレットランダーシュ


『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』ジュリアン・ジェインズ

 ・エントロピーを解明したボルツマン
 ・ポーカーにおける確率とエントロピー
 ・嘘つきのパラドックスとゲーデルの不完全性定理
 ・対話とはイマジネーションの共有
 ・論理ではなく無意識が行動を支えている
 ・外情報
 ・論理の限界
 ・意識は膨大な情報を切り捨て、知覚は0.5秒遅れる
 ・神経系は閉回路

『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』ユヴァル・ノア・ハラリ
『ポスト・ヒューマン誕生 コンピュータが人類の知性を超えるとき』レイ・カーツワイル
『奇跡の脳 脳科学者の脳が壊れたとき』ジル・ボルト・テイラー
『あなたの知らない脳 意識は傍観者である』デイヴィッド・イーグルマン

必読書 その五

 世界一短い手紙(※正確には電報)はヴィクトル・ユゴーが書いたもので、「?」だけが記されていた。これに対する出版社の返事が振るっていて「!」のみ。発売されたばかりの『レ・ミゼラブル』の売れ行きをユゴーが尋ね、出版社が「売れ行き良好」と答えたもの。まさに阿吽(あうん)の呼吸だ。

 トール・ノーレットランダーシュは、意図的に省略された情報を〈外情報〉と名づける――

 ユゴーが書いた疑問符は、明白な形で情報を処分した結果だ。もっとも、ただの処分とは違う。彼はたんに全部忘れてしまったのではない。処分した情報を明確に指し示した。しかし、通信文という観点に立てば、その情報はやはり捨てられてしまっている。本書では、この明白な形で処分された情報を〈外情報〉と呼ぶことにしよう。

【『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』トール・ノーレットランダーシュ:柴田裕之〈しばた・やすし〉訳(紀伊國屋書店、2002年)以下同】

 で、〈外情報〉にはどのような効果があるのか――

 多くの〈外情報〉を含んだメッセージには深さがある。ある人が最終的なメッセージを作り上げる過程で、意識にある大量の情報を処分し、メッセージから排除すれば、そこには〈外情報〉が生まれる。メッセージの情報量からだけでは、そのメッセージがどれだけの〈外情報〉を伴っているかはわからない。メッセージのコンテクストを理解して初めてそれがわかる。送り手は自分の頭にある情報を指し示すように、メッセージの情報を作り上げる。

 こうなると、情報というよりは言葉の本源に関わってくる問題だ。つまり、我々は日常において言語を介して意思の疎通を図っているが、言語に対するイメージは人によって微妙に異なる。同じということはあり得ない。とすれば、ここに言葉の詐術がある。

 人が心の底から感動した時、「言葉にならない」と言う。本来、情感というものは言葉では表現し尽くせないものだ。それを、相手に何とか伝えようとして我々は言葉を駆使し、声に抑揚をつけ、目を丸くし、身振り手振りを交えて――つまり、身体的な言語をも活用して――表現するのだ。

 結局、意図的に言葉を省略することで、「言葉にならない思い」がメッセージとして放たれるわけだ。「見つめ合う恋人同士」に言葉は不要であろう。ま、数ヶ月もすれば互いに言葉尻を捉えて喧嘩するようになるんだけどさ。

 ここで聞き手に求められるのは、コンテクスト(文脈)を読み解く能力だ。心の深い人物は、おしなべて「声なき声」をすくい取ることができる。本当に耳を澄ませば、小さなため息一つからでも相手の悩みを感じ取ることはできる。

 コミュニケーションの上手な人は自分のことばかり考えたりしない。相手の頭に何があるかも考える。相手に送る情報が、送り手の頭にある何らかの情報を指し示していても、どうにかして受け手に正しい連想を引き起こさせなければ、それは明確さという点で十分とは言えない。情報伝達の目的は、送った情報に込められた〈外情報〉を通して、送り手の心の状態に相通ずる状態を、受け手の心に呼び起こすことだ。情報を送るときには、送り手の頭にある〈外情報〉に関連した何らかの内面的な情報が、受け手の心にもなければならない。伝えられた情報は、受け手に何かを連想させなければならない。

 一読すると、「フーン」以上、で終わりかねないが、実は凄いことを言っている。飯嶋和一著『汝ふたたび故郷へ帰れず』(河出書房新社、1989年)を読んで私は悟った。北朝鮮から帰ってきた曽我ひとみさんが、新潟で父上と再会した際のやり取りなんかが、まさにそうだ。

 仏法ではそれを「念」と名づけた。そして、今この瞬間の思いを「一念」と称し、三千の世間(※本質的な差異との意)を内包していると説かれている(一念三千)。

 言葉を圧縮すれば、当然重みが増す。地球を半径2cmまでに圧縮すれば、ブラックホールが出来上がる(ブライアン・グリーン著『エレガントな宇宙 超ひも理論がすべてを解明する』草思社、2001年)ように。格言や名言が心に響くのも、省略された情報が多いためだと理解できる。そして、〈外情報〉が豊富になればなるほど、メッセージの抽象度は高くなってゆくのだ。

ユーザーイリュージョン―意識という幻想
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・飯島和一作品の外情報

2009-03-30

ストレスにさらされて“闘争”も“逃走”もできなくなった人々/『身体が「ノー」と言うとき 抑圧された感情の代価』ガボール・マテ


 ・幼少期の歪んだ価値観が肉体を破壊するほどのストレスと化す
 ・ストレスにさらされて“闘争”も“逃走”もできなくなった人々

虐待と知的障害&発達障害に関する書籍
必読書リスト その二

 この本ではやたら「多発性硬化症」という病気が出てくるが、これは日本人には少ない病気だ。斎藤秀雄の最初の奥方(ドイツ人)がこの病気にかかっている。

 小児麻痺は感染症の一種であり、一度重くなった症状が回復すると、足などに障害が残るものの、そこで症状が固定するのが特徴である。一方、多発性硬化症の場合は中枢神経を冒す原因不明の自己免疫疾患で、再発を繰り返すことが多い。この病気は欧米人に頻度が高い。日本人が10万人に4〜5人の割合で発症するのに対し、欧米人は100人から150人である。若い人の手足の麻痺の原因疾患としては、まず最初に疑われるべき頻度の高い病気なのである。 【『嬉遊曲、鳴りやまず 斎藤秀雄の生涯』中丸美繪〈なかまる・よしえ〉(新潮社、1996年)】

 自己免疫疾患とは、免疫機能が過敏に働いてしまい体内の正常な組織や細胞を攻撃してしまう病気である。

 ストレスの観点から多発性硬化症を検討した論文に実例としてあげられた患者たち、そして私がインタビューした患者たちは、この研究で用いられた不運なラットたちと非常によく似た状態にあったといえる。彼らは子供時代の条件づけのせいで慢性的なきびしいストレスにさらされ、必要な「闘争か逃走」反応を起こす能力を損なわれていたのだ。根本的な問題は、いろいろな論文が指摘している人生上の一大事件など外部からのストレスではなく、闘争あるいは逃走するという正常な反応をさまたげる無力感、環境によって否応なく身につけさせられた無力感なのである。その結果生じた精神的ストレスは抑圧され、したがって本人も気づかない。ついには、自分の欲求が満たされないことも、他者の欲求を満たさざるを得ないことも、もはやストレスとは感じられなくなる。それが普通の状態になる。そうなればその人にはもはや戦う術がない。

【『身体が「ノー」と言うとき 抑圧された感情の代価』ガボール・マテ:伊藤はるみ訳(日本教文社、2005年)】

「逃げる」と「挑む」はシンニュウとテヘンしか違わない。ま、中身は天地雲泥の差であるが、ベクトルの向きが異なるだけとも言える。しかし、その選択すらできない状況下に置かれた人々がいるのだ。つまり、幼児期から“心を死なせる”ことで生き延びている人々だ。

 この文章は実に恐ろしいことを指摘している。なぜなら、「無力感」とは「自分が必要とされていないことに対する自覚」であり、「否定された自分を抱えながら生きてゆく」ことに他ならないからだ。大事なのは、それが客観的な事実であるかどうかではなく、子供自身がそう感じてしまっていることだ。完全無欠な疎外感、と言っていいだろう。幼児は論理的思考ができない。だから、「この世とは、そういうものなのだ」と割り切ることができてしまうのだろう。すると、助けを求めることすら出来なくなってしまう。

 それでも、精神は耐える。彼女達は静かに微笑んでみせることもできる。そして10年、20年を経た後に、身体が悲鳴を上げるのだ。これが、ガボール・マテの主張である。

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2009-03-26

体から悲鳴が聞こえてくる/『悲鳴をあげる身体』鷲田清一


『ことばが劈(ひら)かれるとき』竹内敏晴

 ・蝶のように舞う思考の軌跡
 ・体から悲鳴が聞こえてくる
 ・所有のパラドクス
 ・身体が憶えた智恵や想像力
 ・パニック・ボディ
 ・セックスとは交感の出来事

『身体が「ノー」と言うとき 抑圧された感情の代価』ガボール・マテ

必読書リスト その二

 近年、脳科学本が充実しているが、身体論と併せて読まなければ片手落ち(※差別用語じゃないからね)となる。人体にあって、確かに脳は司令塔であるが、五官からの情報によって脳内のネットワークが変化することもある(池谷裕二著『進化しすぎた脳 中高生と語る〔大脳生理学〕の最前線』朝日出版社、2004年)。つまり、脳と身体はフィードバックによる相互関係で成立している。

 いつの頃からか、若者が自分の身体を傷つけるようになった。一般的に攻撃性は他者に向かう。だから、いじめは昔からあった。それどころか、実はチンパンジーの世界にもいじめが存在する(フランス・ドゥ・ヴァール著『あなたのなかのサル 霊長類学者が明かす「人間らしさ」の起源』早川書房、2005年)。社会を構築する動物の世界には、確固たる“権力”が存在する。そして社会はピラミッド型の序列(ヒエラルキー)を形成する。で、下の奴が上の奴にいじめられるってわけだ。

 若者の自傷行為は、引きこもりと相前後していると思われる。と言うよりも、むしろ引きこもり自体がある種の自傷行為と考えていいのかもしれない。

 鷲田清一は、身体が本来持っていた智慧が失われ、悲鳴を上げていると指摘している――

 なにか身体の深い能力、とりわけ身体に深く浸透している智恵や想像力、それが伝わらなくなっているのではないか。あるいは、そういう身体のセンスがうまく働かないような状況が現れてきているのではないか。
 そんな身体からなにやら悲鳴のようなものが聞こえてくる気がする。身体への攻撃、それを当の身体を生きているそのひとがおこなう。化粧とか食事といった、本来ならひとを気分よくさせたり、癒したりする行為が、いまではじぶんへの、あるいはじぶんの身体への暴力として現象せざるをえなくなっているような状況がある。
 たとえばピアシング。芹沢俊介は、ある新聞記事のなかで(『朝日新聞』1995年8月30日夕刊)、「一つの穴(ピアス用の)を開けるたびごとに自我がころがり落ちてどんどん軽くなる」という男子の言葉を引き、次のようにのべている。
「気になることというのは、彼らが自己の体に負荷をかけ続けることで自我の脱落という感覚を手に入れている点である。自分を相手にしたこの取引において、彼らは自己の体への小さな暴力といっていいような無償の負荷──フィジカルな負荷──を自分から差し出すことによって、精神的な報酬を得ている。教団という契機を欠いているけれど、私にはこれが宗教に近い行為のように映るのである」、と。
 あるいは摂食障害という、食による自己攻撃。
 あるいは、生理がなくなって、なのにそれがうれしい、身軽になった感じという、20代の女性の感覚。
 あるいはセックス。〈食〉と同じように〈性〉という現象にも過敏になって、とりあえず早くやりすごしたいと思う思春期の女性が増えているという。

【『悲鳴をあげる身体』鷲田清一〈わしだ・きよかず〉(PHP新書、1998年)】

 自傷行為は“生”の暴走なのか落下なのか。はたまた、“生きる側”に必死でしがみつく行為なのか。あるいは自分で自分に下す罰なのか――私にはわからない。

「彼女達は“生きるため”にリストカットをする」と宮台真司が言っていた。しかしながら、やってることは自分自身に対する暴力である。つまり、「生きるための暴力」を正当化することになりかねない。

 私は違うと思う。彼女達はリストカットをするたびに「死んでいる」のだ。そして、手首から滴り落ちる血の中から再び生まれてくるのだろう。

 若者の自傷行為は、「生きるに値しない世の中」に対する絶望的な抗議である。

悲鳴をあげる身体 (PHP新書)
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・自我と反応に関する覚え書き/『カミとヒトの解剖学』 養老孟司、『無責任の構造 モラル・ハザードへの知的戦略』 岡本浩一、他

2009-03-19

かくして少年兵は生まれる/『戦場から生きのびて ぼくは少年兵士だった』イシメール・ベア


・『ダイヤモンドより平和がほしい 子ども兵士・ムリアの告白』後藤健二
・『武装解除 紛争屋が見た世界』伊勢崎賢治
『それでも生きる子供たちへ』監督:メディ・カレフ、エミール・クストリッツァ、スパイク・リー、カティア・ルンド、ジョーダン・スコット&リドリー・スコット、ステファノ・ヴィネルッソ、ジョン・ウー

 ・少年兵は自分が殺した死体の上に座って食事をした
 ・かくして少年兵は生まれる
 ・ナイフで切り裂いたような足の裏
 ・逃げ惑う少年の悟りの如き諦観
 ・ドラッグ漬けにされる少年兵
 ・少年兵−捕虜を殺す競争

必読書リスト その二

 飢えと寒さに苛まれながらも少年は逃走する。離れ離れになった家族との再会を目指して。だが、とうとう反乱兵につかまってしまう。反乱兵は少年達を二つのグループに分けた。そして――

 片方の腕をさっと伸ばしてぼくらを指し、反乱兵の一人が言いはなった。「目の前にいるこいつらを殺すことによって、おまえら全員を入隊させる。血を見せれば、おまえらは強くなる。そのためにはこうすることが必要なのさ。もう二度とこいつらに会うことはないだろう。まあ来世を信じていれば話は別だが」。彼はげんこつで自分の胸をたたいて笑った。
 ぼくは振りかえってジュニアを見た。目が赤い。涙をこらえようとしているのだろう。彼はこぶしを固く握りしめて、手の震えをおさえている。ぼくは声を押し殺して泣きだし、そのとき急に目まいがした。選ばれた少年のうちの一人が反吐(へど)を吐いた。反乱兵の一人が銃床でその子の顔をなぐり、ぼくらの列に押し込んだ。歩き続けていると、少年の顔から血が流れてきた。

【『戦場から生きのびて ぼくは少年兵士だった』イシメール・ベア:忠平美幸〈ただひら・みゆき〉訳(河出書房新社、2008年)】

「生きるためには仲間を殺せ」――反乱兵は一線を越えさせることで少年の自我を崩壊させ、その後ドラッグ漬けにして一人前の少年兵をつくり上げるのだ。ジュニアというのは、少年の兄だった。実の親を殺させることも珍しくない。

 イシメール・ベアは土壇場で難を逃れる。政府軍が近づき、銃撃戦が展開された隙(すき)を見計らって、脱兎の如く逃げ去ったのだ。

 貧しい国では暴力が闊歩している。特に軍隊や警察は、暴力の牙を剥(む)き出しにして容赦なく国民に襲い掛かる。そして子供達は、「生きるためのジレンマ」を抱え込む羽目になる。

 先進国の経済力という暴力性が、これらの国々を貧しくさせているとすれば、もはや国家という枠組を解体する他、人類が幸福になることはあり得ない。「国家悪」という思想を私は熱望する。

戦場から生きのびて ぼくは少年兵士だった
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2009-03-16

自然淘汰は人間の幸福に関心がない/『病気はなぜ、あるのか 進化医学による新しい理解』ランドルフ・M・ネシー&ジョージ・C・ウィリアムズ


 ・進化医学(ダーウィン医学)というアプローチ
 ・自然淘汰は人間の幸福に関心がない
 ・生まれつき痛みを感じない人のほとんどは30歳までに死ぬ

・『迷惑な進化 病気の遺伝子はどこから来たのか』シャロン・モアレム、ジョナサン・プリンス

 人体は遺伝子の乗り物に過ぎないという考え方がある。

 私たちは、自然界の生物は幸せで健康なものだと考えたがるが、自然淘汰は、私たちの幸福には微塵も関心がなく、遺伝子の利益になるときだけ、健康を促進するのである。もし、不安、心臓病、近視、通風や癌が、繁殖成功度を高めることになんらかのかたちで関与しているならば、それは自然淘汰によって残され、私たちは、純粋に進化的な意味では「成功」するにもかかわらず、それらの病気で苦しむことだろう。

【『病気はなぜ、あるのか 進化医学による新しい理解』ランドルフ・M・ネシー&ジョージ・C・ウィリアムズ:長谷川眞理子、長谷川寿一、青木千里訳(新曜社、2001年)】

 つまり、子孫のために我が身を犠牲にする働きともいえる。子孫を残すためなら、いかなる病気も引き受け、苦痛にものた打ち回るってわけだ。まったく嫌な話だ。

 しかし、である。ヒトというのは生殖可能な期間が過ぎ去っても尚、生き延びる。老齢期が最も長い動物なのだ。これは、遺伝子本位の考えとどのような整合性を持つのであろうか。孫子に人生の智慧を伝授する役目でもあるのだろう。

 ダーウィン医学が胡散臭く思えるのは、例えば犯罪をも遺伝子の働きで説明しかねない雰囲気があるところだ。そして、生存競争に勝った時点から過去を読み解くわけだから、ちょっと後出しじゃんけんっぽいんだよね。

病気はなぜ、あるのか―進化医学による新しい理解
ランドルフ・M. ネシー ジョージ・C. ウィリアムズ
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