・自由の問題 1
・自由の問題 2
・自由の問題 3
・欲望が悲哀・不安・恐怖を生む
・教育の機能 1
・教育の機能 2
・教育の機能 3
・教育の機能 4
・縁起と人間関係についての考察
・宗教とは何か?
・無垢の自信
・真の学びとは
・「私たちはなぜ友人をほしがるのでしょうか?」
・時のない状態
・生とは
・習慣のわだち
・生の不思議
・クリシュナムルティ著作リスト
・必読書リスト その五
なぜ友人がほしいのでしょう。君たちは夫や妻もなく、子供もなく、友だちもなく、この世の中に一人で生きられますか。ほとんどの人は一人では生きられません。そのために友人がほしいのです。一人でいるには、非常に大きな智慧が必要です。そして、神や真理を見出すには、一人でいなくては【なりません】。友人や夫や妻を持つことや赤ちゃんを持つこともすてきです。しかし、私たちはそれらの中で、家庭や仕事、腐敗してゆく存在のつまらない単調な課業のなか(ママ)で、迷ってしまいます。それになじんでしまうのです。そのとき、一人で生きるという考えは恐ろしく、怖いものになるのです。しかし、生に豊かさがあるなら――お金や知識という誰にでも獲得できる豊かさではなく、始まりもなく終わりもない真実の動きという豊かさがあるのなら、そのとき交友は二次的な問題になるでしょう。
【『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ:藤仲孝司〈ふじなか・たかし〉訳(平河出版社、1992年)以下同】
「私たちはなぜ友人をほしがるのでしょうか?」という少女の質問に答えたもの。「神や真理を見出すには、一人でいなくては【なりません】」との一言で教祖や師匠の存在を否定して痛烈である。出家の目的もここにあるのだろう。ブッダのもとに集ったサンガは共同体であったとされるが、現代の我々が考えるようなコミュニティではなかったように思われる。精神的な相互扶助があればそこに依存が生まれるからだ。
「始まりもなく終わりもない真実の動き」――このようなクリシュナムルティ独特の表現が何を指しているのか私にはわからない。たぶん三法印(諸行無常、諸法無我、涅槃寂静)のことだとは思うが、クリシュナムルティの言葉の方がすっきりと胸に入ってくる。
しかし、君たちは一人でいる教育を受けないでしょう。君たちは自分一人で散歩に出かけることがありますか。一人で出かけ、木陰に坐ることはとても重要です――本も持たず、友人もなく、自分一人で、です。そして、木の葉が散るのを観察し、河のさざなみや漁師の歌を聴き、鳥が飛ぶのや、心の空間で自分の思考が互いに追いかけ合い、跳んでいるのを眺めるのです。一人でいて、これらのものを眺めることができるなら、そのとき君はとてつもない富を発見するでしょう。それは、どんな政府も税金を掛けられないし、どんな人間の作用によっても腐敗しないし、決して滅ぶことがないのです。
デカルトだってここまでの観察はできなかったことだろう。見るためには距離が必要だ。つまり自分の思考を観察するためには自我から離れる必要があるのだ。
クリシュナムルティは「悟れ」とすら言わない。ただ、「見よ」というだけである。「止観」(しかん)とはこのことか。道元は「正法眼蔵」を、日蓮は「開目抄」「観心本尊抄」を著した。「見る」という方向性は一致しているがクリシュナムルティのシンプルさは際立っている。
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