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2021-07-15

自然派志向は老化を促進する/『若返るクラゲ 老いないネズミ 老化する人間』ジョシュ・ミッテルドルフ、ドリオン・セーガン


・『利己的な遺伝子』リチャード・ドーキンス
・『盲目の時計職人』リチャード・ドーキンス
・『遺伝子の川』リチャード・ドーキンス
・『赤の女王 性とヒトの進化』マット・リドレー
・『ゲノムが語る23の物語』マット・リドレー
・『やわらかな遺伝子』マット・リドレー
『遺伝子 親密なる人類史』シッダールタ・ムカジー

 ・自然派志向は老化を促進する

身体革命
必読書 その五

 わたしたちのほとんどは、「自然派志向」の商品がブームになる以前の時代を思い起こすことができない。しかし、50年前にはテクノロジーが王様で、わたしたちは自然を改良することになんの良心の呵責(かしゃく)も感じなかった。1950年代、子供はまだ幼い頃に扁桃腺(へんとうせん)を切られた。喉頭感染症のときに赤くなる傾向があるため、医師は自然がミスを犯したと考えたのだ。1950年代、スポック博士は母乳よりも乳製品を推奨していた。もちろん、「12の方法で体を強くする」と宣伝されたワンダーブレッドも忘れてはならない。
 その後の半世紀にわたって、わたしたちは自然食品や化粧品、石鹸、漢方薬、さらには自然素材の洋服などを勧められてきた。自然=健康。医学界は――とても立派なことに――体の働きを第一に考えることを学び、壊れてもいないものをあわてていじくりまわすのではなく、体に協力して自然治癒を推奨するようになった。こんにち、あらゆる病気に対する自然療法は、それが可能であるときはより好ましいと見なされている。
 そこまではいい。しかし、つぎのステップに進むには、すこし考える必要がある。わたしたちは老化に関するべつの現実に順応しなければならない。自然食や天然のハーブ、自然療法などは、老化を防ぐとは思えない。
 本書は「老化は進化のプログラムの欠陥ではなく、自然に正しく選択された設計特性である」と主張してきた。老化はごく深い意味において“自然”なものであり、進化によって生みだされ、遺伝子に組みこまれたものなのだ。
 自然なものへの崇拝は、そもそも進化への信仰から生まれたものだ。自然なものとは、わたしたちの祖先である生物や人間が進化してきた環境の一部である。ゆえに、わたしたち地震も自然なものに適応していると考えられる。自然食がよいものだとすれば、それは進化がわたしたちの体に合わせて授けた食物だからだ(この論理をさらに推し進めると、原始時代の食事をそっくりそのまま再現しようとする「パレオ・ダイエット」に行きつく)。自然選択はジェット機時代の生活のペースや、スモッグを吸いこんだりコカ・コーラを飲んだりする生活に合わせて人間をつくったわけではない。とすれば、現代生活の不満の多くは、わたしたちが送っている生活と、進化がわたしたちに準備した生活がマッチしていないことから起こるのではないか?
 そして実際、わたしたちの病気の多くが現代という時代の産物であるのは正しいように見える――喫煙や都会のスモッグによる肺癌、ジャンクフードによるメタボリック・シンドローム(脂肪の増加、高血圧、高血糖といった要因による2型糖尿病)、過剰な刺激による神経病、分裂した社会に生きることからくる鬱病。

 人は金をかけて使うことばかりにあくせくし、
 自分たちを取り巻く自然に目を向けようとしない。

 詩人のワーズワースがこの一節を書いたのは、1802年のことだ! 21世紀のわたしたちの生活モードを見たら、ワーズワースはなんというだろうか? 現代の西欧文明が生んだ孤独によって人間が負った傷、化学汚染、レトルト食品、人間の心理的欲求やバイオリズムを無視して押しつけられたスケジュール――これらはすべてすごくリアルで有害だ。しかし、老化とはあまり関係がない。
 老化は現代社会が生んだ疾病ではない。きのう生まれたものではなく、古くから伝わってきたものだ。19世紀の人々の写真を見たり、ヴィクトリア時代の小説に描かれた人たちの年齢を考えてみればいい。こうした人たちは、タバコや農薬やジャンクフードやコミュニティの崩壊以前の世界を生きていた。こんにちの標準からすれば、19世紀の人たちはみな自然食を食べていたにもかかわらず、現代の同年齢の人間より、容姿も感覚もふるまいもずっと年寄りじみている。19世紀の小説では、40代の登場人物はバイタリティを失っているし、50代の登場人物は現代の老人のように描かれている。そしてもちろん、当時は60代まで生きる人はごくまれだった。19世紀の平均余命はいまよりずっと短かったのだ。これは、出産で命を落とす母親が多かったとか、壮年の人々が伝染病で死ぬことが多かったとかいった理由からではない。当時の人たちは、現代のわたしたちが人生の最盛期と考えている年齢で、すでに健康を害し、バイタリティを失い、認知機能が低下していたのである。

 自然が体にいいという説は、「進化はわたしたちを組み立てるにあたって、最高の健康が得られるように設計したはずだ」という考えに由来する。「自然食を摂取することは、自然選択によって設計されたとおりに体を機能させる手助けをしていることであり、わたしたちは一歩うしろの退いて、体がわたしたちを癒すためにしていることを勝手にやらせたほうがいい」――この仮定は、若者の病気にはよく合致する。しかし、本書をここまでお読みになった方なら、老化は遺伝子に組み込まれた自己破壊プログラムであることを理解しているはずだ。この場合、体は自分を癒すためにベストをつくしたりはしない――それどころか、反対に自分自身に対して害をなすことをしている。
 自然食や自然療法は、体が自分自身を破壊する手助けをするのである。

【『若返るクラゲ 老いないネズミ 老化する人間』ジョシュ・ミッテルドルフ、ドリオン・セーガン:矢口誠訳(集英社インターナショナル、2018年)】

 マット・リドレーを読んだのは2年前である。まだ書評を書いていなかったとは……。小難しい本を後回しにするのは悪い癖である。

 本書はネオダーウィニズム批判を旨としており、読みやすい上に豊富なトピックで飽きさせることがない。訳文も平仮名の多用で読むスピードに配慮している。ドリオン・セーガンはカール・セーガンの息子。

 文句なしの面白さだが結論に異議あり。寿命を伸ばすことに固執しすぎだ。もっときれいにスパッと死ぬ準備をするのが進化の道理だろう。

 そもそも健康を意識すること自体が不健康な証拠である(三木清)。菜食主義者は植物の毒を省みることがない。そういう意味では健康もスタイルと化した感がある(石川九楊)。

 19世紀どころの話ではない。磯野波平が54歳と知った時の驚きは今でもありありと覚えている。当時私は52歳だった。『サザエさん』の連載が始まったのは昭和21年(1946年)のこと。昭和40年代あたりまでは特に違和感がなかったように思う。つまり年寄りが若々しくなったのは終戦前後に生まれた世代と考えてよさそうだ。

 栄養学が散々デタラメを流布してきたのも戦後の特徴である。しかしながら、その一方で平均寿命は確実に伸びた。私が二十歳(はたち)の時分は30代の女性が熟女で、40代は年増(としま)と呼称していた。ところが今時と来たら、40代で結婚したり出産することは特段珍しくない。バブルの頃は女性の年齢がクリスマスケーキになぞらえ、26歳になると「売れ残り」みたいな言われ方をしていた。

 社会全体が高齢化することで周囲から「年寄り扱い」をされることが少なくなったのが最大の要因かもしれない。

「19世紀はヨーロッパ――とくに英国――の時代で、地主階級が存在の正当性を失いつつあるときだった。地主階級はその特権的な地位を正当化するために、社会ダーウィニズムの原理に飛びついた」。私の乏しい知識ではネオダーウィニズムと社会ダーウィニズムの違いもよくわからない。

 マット・リドレーを読むとどことなく新自由主義と同じ体臭がする。以前からネオダーウィニズムを批判している人物に養老孟司と池田清彦がいる。灯台下暗しであった。

2019-08-25

囚人のジレンマと利他性/『徳の起源 他人をおもいやる遺伝子』マット・リドレー


『生き残る判断 生き残れない行動 大災害・テロの生存者たちの証言で判明』アマンダ・リプリー
『人間の本性について』エドワード・O ウィルソン
『理性の限界 不可能性・不確定性・不完全性』高橋昌一郎

 ・利己的であることは道理にかなっている
 ・囚人のジレンマと利他性

『あなたのなかのサル 霊長類学者が明かす「人間らしさ」の起源』フランス・ドゥ・ヴァール
『共感の時代へ 動物行動学が教えてくれること』フランス・ドゥ・ヴァール
『道徳性の起源 ボノボが教えてくれること』フランス・ドゥ・ヴァール
『ママ、最後の抱擁 わたしたちに動物の情動がわかるのか』フランス・ドゥ・ヴァール
『家畜化という進化 人間はいかに動物を変えたか』リチャード・C・フランシス
・『ゲノムが語る23の物語』マット・リドレー

必読書リスト その五

 ところが、ある一つの実験によってこの結論は覆されたのである。30年ものあいだ、囚人のジレンマからまったく誤った教訓がひきだされていたことがこの実験で示されたのである。結局のところ、利己的な行為は合理的ではないことがわかった。ゲームを2回以上プレイする場合には。

【『徳の起源 他人をおもいやる遺伝子』マット・リドレー:岸由二〈きし・ゆうじ〉監修:古川奈々子〈ふるかわ・ななこ〉訳(翔泳社、2000年)】

「設定」を変えれば全く異なった結果が出る。設定に縛られてきた30年間は脳の癖を示してあまりあり、人間の思い込みや先入観の強さに驚く。現実をゲームに当てはめてしまえば単純な図式しか見えてこない。むしろゲームの方を現実に近づけるべきだ。

 メイナード・スミスのゲーム(※タカとハトの戦い)は生物学の世界の話だったため、経済学者には無視された。しかし、1970年代後半、人々を当惑させるような事態が起こった。コンピュータがその冷静で厳格かつ理性的な頭脳を使って囚人のジレンマゲームをプレイし始めたのである。そして、コンピュータもまた、あの愚かで無知な人間とまったく同じ振る舞いをしたのである。なんとも不合理なことに、協力しあったのだ。数学の世界に警報が鳴り響いた。1979年、若い政治学者、ロバート・アクセルロッドは、協力の理論を探求するためにトーナメントをおこなった。彼は人々にコンピュータ・プログラムを提出してもらい、プログラムどうしを200回対戦させた。同じプログラムどうし、そして他のプログラムともランダムに対戦させたのである。この巨大なコンテストの最後には、各プログラムは何点か得点しているはずである。
 14人の学者が単純なものから複雑なものまでさまざまなプログラムを提出した。そしてみんなを驚かせたことは、「いい子」のプログラムが高得点を獲得したのである。上位8個のプログラムは、自分から相手を裏切るプログラムではなかった。さらに、優勝者は一番いい子で一番単純なプログラムだったのだ。核の対立に興味を持ち、おそらく誰よりも囚人のジレンマについては詳しいはずのカナダの政治学者アナトール・ラパポート(彼はコンサート・ピアニストだったこともある)は、「お返し(Tit-for-tat:しっぺ返し戦略とも言う)」というプログラムを提出した。これは最初は相手に協力し、そのあとは相手が最後にしたのとまったく同じことをお返しする戦略である。「お返し戦略」は、現実にはメイナード・スミスの「報復者戦略」が名前を変えたものである。
 アクセルロッドは再度トーナメントを開催した。今度はこの「お返し戦略」をやっつけるプログラムを募集したのである。62個のプログラムが試された。そして、まんまと「お返し戦略」を倒すことができたのは…「お返し戦略」自身だったのである。またしても、1位は「お返し戦略」であった。

 貰い物があればお返しをする。痛い目に遭わされれば仕返しをする。これは我々が日常生活で実践している営みだ。つまり既に形骸化したと思われている冠婚葬祭や、失われてしまった仇討ち・果たし合い(西洋であれば決闘)といった歴史文化にはゲーム理論的な根拠が十分にあるのだ。すなわち、いじめやハラスメントを受けて泣き寝入りすることは自らの生存率を低くし、社会全体のモラルをも低下させてしまうことにつながる。

 そう考えると「目には目を、歯には歯を」(より正確な訳は「目には目で、歯には歯で」)というハムラビ法典の報復律も社会を維持するための重要な価値観であったことが見えてくる。

 社会を社会たらしめているのは相互扶助の精神であろう。「持ちつ持たれつ」が社会の本質であり、互いに支え合う心掛けを失えばそこに社会性はない。

2019-08-23

利己的であることは道理にかなっている/『徳の起源 他人をおもいやる遺伝子』マット・リドレー


『生き残る判断 生き残れない行動 大災害・テロの生存者たちの証言で判明』アマンダ・リプリー
『人間の本性について』エドワード・O ウィルソン
『理性の限界 不可能性・不確定性・不完全性』高橋昌一郎

 ・利己的であることは道理にかなっている
 ・囚人のジレンマと利他性

『あなたのなかのサル 霊長類学者が明かす「人間らしさ」の起源』フランス・ドゥ・ヴァール
『共感の時代へ 動物行動学が教えてくれること』フランス・ドゥ・ヴァール
『道徳性の起源 ボノボが教えてくれること』フランス・ドゥ・ヴァール
『ママ、最後の抱擁 わたしたちに動物の情動がわかるのか』フランス・ドゥ・ヴァール
『家畜化という進化 人間はいかに動物を変えたか』リチャード・C・フランシス
・『ゲノムが語る23の物語』マット・リドレー

必読書リスト その五

 この囚人のジレンマは、どうやったらエゴイストたちがタブーや道徳的束縛や倫理的規範に依存せず、協力しあえるようになるのかをはっきりとわれわれに示してくれる。どうしたら自己利益追求を動機とする故人が公共の利益のために行動できるようになるのだろうか。このゲームを囚人のジレンマと呼ぶのは、自分の刑を軽くするために相手に不利な証言をするかどうかの選択を迫られた二人の囚人の寓話がゲームの意味をよく物語っているからである。もしどちらも相手を裏切らなければ、警察は二人を軽い罪で起訴することしかできない。だから、両者が黙っていればどちらも得をするわけである。しかし、もし片方が裏切れば、裏切ったほうはもっと得をするのである。
 なぜか。囚人の話はおいておいて、二人のプレーヤーが特典を争う単純な数学的ゲームをしていると考えてみよう。もし二人が協力しあえば(つまり「沈黙を守れば」)、両者は3点もらえる(これを「報酬」という)。もし二人とも裏切れば1点しかもらえない(「罰則」)。だが、一人が裏切り、一人が協力したなら、協力したほうは得点をもらえず(「お人好しすぎたツケ」)、裏切り者は5点もらえる(「誘惑」)。だから、パートナーが裏切るなら、自分も裏切ったほうが得なのである。そうすれば少なくとも1点はもらえるのだから。しかし、もしパートナーが協力したとすれば、やはり裏切ったほうが得をするのである。3点ではなく、5点も入るのだから。つまり【相手がどういう行動にでようと、裏切るほうが得なのである】。ところが、相手も同じことを考えるはずである。だから当然の結果として、両者ともが相手を裏切る。それで3点とれるところを1点で我慢するはめになるのである。
 道理に迷わされてはならない。二人ともが高潔な人柄で実際には協力しあうとしても、それはこの問題とはまったく関係がない。われわれが追求しているのは、道徳がまったく関与しない場所で理論的に「最良」な行動であり、その行動が「正しい」かどうかはこの際関係ないのである。そして出た結論が裏切ることだったのだ。利己的であることは道理にかなっているのである。

【『徳の起源 他人をおもいやる遺伝子』マット・リドレー:岸由二〈きし・ゆうじ〉監修:古川奈々子〈ふるかわ・ななこ〉訳(翔泳社、2000年)】

 原書は1996年刊行。上記リンクの順番で読めば理解が深まる。っていうか天才的なラインナップであると自画自賛しておこう。本は読めば読むほどつながる。シナプスもまた。

遺伝子 親密なる人類史』シッダールタ・ムカジーと本書、そして『失敗の科学 失敗から学習する組織、学習できない組織』マシュー・サイドの3冊は同率1位である。文章ではシッダールタ・ムカジー、難解さではマット・リドレー、好みではマシュー・サイド。

 確かに「利己的であることは道理にかなっている」。騙(だま)す行為を見れば明らかだ。人を騙せば自分が得をする。騙すためには高度な知能が必要だ。なぜなら相手に「誤った信念を持たせる」必要があるためだ。つまり相手の気持ちを想像できなければ騙すことは不可能なのだ。詐欺師、宗教家、政治家、タレントを見よ。彼らは多くの人々を騙すことで懐(ふところ)を膨らませている。否、懐に入りきれないほどの資産を形成し、巧みな綺麗事を並べ立て、欲望を無限に肥大させる。

 ではなぜ我々のように平均的で善良な国民は詐欺を働かないのか? それは詐欺行為が横行すれば社会の存立が危うくなることを自覚しているからだ。大体普通の神経の持ち主であれば知人や友人を騙すことなど到底できない。ところがどっこいビジネスとなると話は別だ。腕のいい営業マンは値段を吹っ掛けた上で契約にまで持ち込むし、高額商品ほど粗利(あらり)も大きい。値引きをしたフリをするのも巧みだ。

 もっと凄いのは税金だ。ガソリンや酒類は二重課税(違法)になったままだし、いつの間にか国民健康保険料は国民健康保険税となり、自治体によっては有料のゴミ袋が指定されており、これまた税に等しい。しかも多くの国民は国民負担率を知らない。日本の租税負担率(所得税+国税+地方税+消費税+社会保障費)は42.5%(平成30年/2018年)である(国民に納税しろと命じるずうずうしい日本国憲法/『反社会学講座』パオロ・マッツァリーノ)。

 実際は国民全員が所得税10%を収めれば国家予算は回るという。つまり、あの手この手を使って金持ちが税金を払っていないのだ。これまた「利己的であることは道理にかなっている」。

 ただし、この話はこれで終わらない(続く)。

2019-08-21

ナチス・ドイツに先んじたアメリカの優生政策/『遺伝子 親密なる人類史』シッダールタ・ムカジー


『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』)ユヴァル・ノア・ハラリ
・『がん 4000年の歴史』シッダールタ・ムカジー

 ・ナチス・ドイツに先んじたアメリカの優生政策

・『ゲノムが語る23の物語』マット・リドレー
・『双子の遺伝子 「エピジェネティクス」が2人の運命を分ける』ティム・スペクター
・『遺伝子は、変えられる。 あなたの人生を根本から変えるエピジェネティクスの真実』シャロン・モアレム
・『生物進化を考える』木村資生
・『遺伝子「不平等」社会 人間の本性とはなにか』池田清彦
『若返るクラゲ 老いないネズミ 老化する人間』ジョシュ・ミッテルドルフ、ドリオン・セーガン

必読書リスト その五

 エマとキャリーは惨めな暮らしをしており、施しや、食料の寄付や、間に合わせの仕事で貧しい生活を支えていた。噂(うわさ)によれば、エマは金のために男の客を取り、梅毒に感染し、週末には稼いだ金を酒につぎこんでいるとされていた。その年の3月、彼女は町の通りで捕まり、浮浪罪か、あるいは売春をおこなったかどで登録され、地方裁判所に連行された。1920年4月1日にふたりの医師がおこなったぞないな精神鑑定によって、エマは「知的障害者」と判定され、リンチバーグのコロニーに送られた。
 1924年、「知的障害者」は最重度の白痴(idiot)、より軽度の痴愚(imbecile)、そして最軽度の魯鈍(ろどん/moron)の三つに分類された。白痴は最も分類しやすく、アメリカ合衆国国勢調査局によれば、「精神年齢が35カ月以下の精神障害者」と定義されているが、痴愚と魯鈍の分類はあいまいだった。論文上はより軽度の認知障害と定義されているが、そうした言葉は意味論の回転ドアのようなもので、内側に簡単に開いたかと思えば、売春婦、孤児、うつ病患者、路上生活者、軽犯罪者、統合失調症患者、失語症患者、フェミニスト、反抗的な若者といったさまざまな男女(精神障害をまったく患っていない者まで)をどっさり通した。要するに、その人物の行動、欲求、選択、外見が一般的な基準からはずれいる者ならば誰でも、痴愚や魯鈍に分類されたのだ。
 知的障害をもった女性たちは隔離のためにバージニア州立コロニーに送られた。女たちがこれ以上子供を産みつづけて、その結果、さらなる痴愚と魯鈍で社会を汚染することがないようにするためだった。「コロニー」という言葉は目的を表しており、そこは病院でもなければ、保護施設でもなく、最初から隔離施設として設計されていた。

【『遺伝子 親密なる人類史』シッダールタ・ムカジー:仲野徹〈なかの・とおる〉監修、田中文〈たなか・ふみ〉訳(早川書房、2018年/ハヤカワ文庫、2021年)以下同】

 冒頭のエピグラフに村上春樹の『1Q84 BOOK1』が引用されていて驚いた。とにかく文章が素晴らしい。ポピュラーサイエンスが文学の領域にまで迫りつつある。私はかねてから論理的な解説や表現は日本人よりも白人の方が優れていると考えてきたがどうやら違った。シッダールタ・ムカジーはインド人である。すなわち論理の優位性は英語にあったのだ。私の迷妄を打ち破ってくれただけでも今年読んだ中では断トツの1位である。

 キャリー・バックは1924年1月23日にコロニーへ送られることになり、3月にヴィヴィアンという女の子を産んだ。精神疾患はなく、読み書きもでき、身だしなみもきちんとしていたが、なぜか「魯鈍」と判定された。コロニーの監督者はアルバート・ブリディという町医者だった。彼は「知的障害者には優生手術を受けさせるべきだ」という政治運動を展開していた。バージニア州の上院は優生手術を受ける人物が「精神科病院委員会」の検査を受けるという条件つきで州内での優生手術を許可した。ブリディは証人を集めてキャリーを知的障害者に仕立て上げた。卵管結索手術についてキャリーは「皆さんにお任せします」と答えた。ブリディはこれを裁判所に認めさせれば一気に悪い種を殲滅できると考えた。バック対ブリディ裁判はブリディの死後ジョン・ベルが引き継バック対ベル裁判として歴史に名をとどめた。1927年、アメリカの連邦最高裁判所は知的障害者に不妊手術を強制するバージニア州の法律を8対1で合憲と判断した。この最高裁の判断が7万人の断種に道を開いた。ナチス・ドイツがユダヤ人をゲットーに閉じ込めたのは1940年代のことである。

「民族自滅」や「民族荒廃」という神話に対置していたのは、民族と遺伝子の純粋さという神話だった。20世紀初頭に何百万人ものアメリカ人が夢中になって読んだ人気小説のひとつがエドガー・ライス・バローズの『類猿人ターザン』だ。孤児となり、アフリカのサルに育てられたイギリスの貴族を主人公とする冒険小説である。サルに育てられても、主人公は両親から受け継いだ白い肌や、ふるまいや、体格を保っていただけでなく、清廉さや、アングロサクソン人の価値観や、食器類の直感的な正しい使い方までも忘れていなかった。「非のうちどころのないまっすぐな姿勢と、古代ローマ最強の剣闘士のような筋肉」の持ち主であるターザンは「育ち」に対する「生まれ」の究極の勝利を体現していた。ジャングルのサルに育てられた白人ですらフランネル・スーツに身を包んだ白人の品(ひん)を保つことができるなら、民族の純度というのはまちがいなく、どんな環境においても、保持することができるはずだった。

 インディアンを殺戮(さつりく)し、黒人を奴隷にして栄えたのがアメリカという国家である。ナチス・ドイツに先んじたアメリカの優生政策は人種差別大国であることの証で、アメリカ国民全員がクー・クラックス・クラン(KKK)であったといってよい。イエロー・モンキーが住む日本に原爆2発を落とした程度で反省するわけがない。