・靖國神社
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『大空のサムライ』坂井三郎
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『父、坂井三郎 「大空のサムライ」が娘に遺した生き方』坂井スマート道子
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『新編 知覧特別攻撃隊 写真・遺書・遺詠・日記・記録・名簿』高岡修編
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『今日われ生きてあり』神坂次郎
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『月光の夏』毛利恒之
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『神風』ベルナール・ミロー
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『高貴なる敗北 日本史の悲劇の英雄たち』アイヴァン・モリス
・『
保守も知らない靖国神社』小林よしのり
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日本の近代史を学ぶ
海軍大尉 植村 眞久 命
神風特別攻撃隊大和隊
昭和19年10月26日 比島海域にて戦死
東京都出身 立教大学卒 25歳
素子といふ名前は私がつけたのです。素直な、心の優しい、思ひやりの深い人なるやうにと思つて、お父様が考へたのです。私は、お前が大きくなつて、立派な花嫁さんになつて、仕合せになつたのを見届けたいのですが、若(も)しお前が私を見知らぬまゝ死んでしまつても、決して悲しんではなりません。
お前が大きくなつて、父に會(あ)ひたい時は九段へいらつしゃい。そして心に深く念ずれば、必ずお父様のお顔がお前の心の中に浮びますよ。父はお前を幸せ者と思ひます。(中略)
お前が大きくなつて私の事を考へ始めた時に、この便りを読んで貰ひなさい。
昭和19年9月吉日 父
植村素子へ
追伸、素子が生まれた時おもちやにしてゐた人形は、御父様が戴いて自分の飛行機に御守り様として乗せてをります。だから素子は父様といつも一緒にゐたわけです。素子が知らずにゐると困りますから教へて上げます。
【『国民の遺書 「泣かずにほめて下さい」靖國の言乃葉100選』小林よしのり責任編集(産経新聞出版、2010年)】
靖國神社で販売されている『英霊の言乃葉』の第1~9輯(しゅう)の選集。産経新聞出版社が小林に選者を依頼したという。その経緯については小林の「まえがき」に詳しい。戦時中の遺書といえば『
きけ わだつみのこえ 日本戦没学生の手記』(日本戦没学生記念会編、1949年)が有名だが、CIE(GHQの民間情報局)の検閲が施されていることが判明した(
日本経済新聞 1982年8月22日/戦後の風潮)。
靖國に祀(まつ)られた英霊は神に位置づけられるため名前の末尾に命(みこと)が付く。名前「のみこと」と読む。数詞は「柱」(はしら)。ペリー来航(1853年)以降の戦没者などが祀(まつ)られていることから「日本近代化の犠牲者」と見ることもできよう。ただし祀られているのは政府軍側の人物に限られる。私は靖國神社を否定する気は毛頭ないが、ひとつだけすっきりしないのは「政府軍側」と天皇陛下の整合性である。具体的には戊辰戦争における会津藩を逆賊と位置づける歴史には加担できない。
植村が娘に宛てた遺書は老境を思わせるほどの風格がある。我が子にキラキラネームをつけるような現代の馬鹿親とは何が違うのか? それはやはり「責任感」であろう。子の幸福を思う心の深さが異なるのだ。
私が胸を打たれたのは「お前が大きくなつて、父に會(あ)ひたい時は九段へいらつしゃい」との一言であった。九段とは靖國神社である。若き特攻隊員たちは「靖國で会おう」と口々に約し合いながら大空へ飛び立った。その聖地ともいうべき靖國が現在では政争の具とされている。
敗戦から29年後に復員した小野田寛郎〈おのだ・ひろお〉は「天皇陛下万歳」と叫んだ。帰国後、検査入院を経て真っ先に靖國を参拝し、皇居を遥拝した。また政府からの見舞金100万円と義援金の全てを靖國神社に奉納している。マスコミは狂ったように「軍国主義の亡霊」と書き立てた。日本は変わってしまった。変わってしまった日本に耐えられなくなった小野田はブラジルへ去った(『
たった一人の30年戦争』小野田寛郎、1995年)。
植村の戦死から22年後の'67(S42)、愛児であった娘の素子は父と同じ立教大学を卒業。 同年4月に父が手紙で約束したことを果たすため、靖国神社にて鎮まる父の御霊に自分の成長を報告し、母親や家族、友人、父の戦友達が見守るなか、文金高島田に振袖姿で日本舞踊「桜変奏曲」を奉納した。 素子は「お父様との約束を果たせたような気持ちで嬉しい」と言葉少なに語ったという。
【歴史が眠る多磨霊園:植村眞久】
死して尚、親の想いが子を育む。人の一念は時を超えるのだ。
尚、靖国神社公式サイトの「
靖国神社について > 今月の社頭掲示」では平成20年(2008年)以降のものが紹介されている。
小林よしのり 責任編集
産経新聞出版
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