2020-01-28

三島由紀夫の霊に捧ぐ/『高貴なる敗北 日本史の悲劇の英雄たち』アイヴァン・モリス


『国民の遺書 「泣かずにほめて下さい」靖國の言乃葉100選』小林よしのり責任編集
『大空のサムライ』坂井三郎
『父、坂井三郎 「大空のサムライ」が娘に遺した生き方』坂井スマート道子
『新編 知覧特別攻撃隊 写真・遺書・遺詠・日記・記録・名簿』高岡修編
『今日われ生きてあり』神坂次郎
『月光の夏』毛利恒之
『神風』ベルナール・ミロー

 ・三島由紀夫の霊に捧ぐ

日本の近代史を学ぶ

 三島由紀夫から、かつて次のように指摘された。君は日本の宮廷文化の優美とか光源氏の世界の静寂を称賛してきたが、その賛美を書くことで日本の民族性が持つ苛酷かつ峻厳そして悲壮な面を覆いかくしてはいないか、と言うのである。私はここ数年、短命な生涯を送り、しかもその生涯が闘争と動乱とに彩られた、現実社会に行動する人間群像に目をすえてきた。私の日本文化に対する見方に偏重があったとすれば、そうすることで均衡をもり返し得るのではないかと思う。以下の文章は、そのため、三島の霊に捧げられるべきものである。彼とは意見を異にすることが多かった。政治問題に関してとなると特にくい違うことが多かった。だが、考え方の相違が三島由紀夫に対する私の敬意と友情をそこなうことは、まったくなかった。

【『高貴なる敗北 日本史の悲劇の英雄たち』アイヴァン・モリス:斎藤和明訳(中央公論社、1981年)以下同】

「序」の冒頭で著者はこう記す。取り上げた英雄は日本武尊〈やまとたけるのみこと〉、捕鳥部万〈ととりべのよろず〉、有間皇子〈ありまのみこ〉、菅原道真源義経楠木正成天草四郎大塩平八郎西郷隆盛、そして神風特攻隊である(全10章)。


 英雄たる者の生涯とは、たとえいかにはなばなしい武勲に飾られようと、その最期が悲劇的でなければならない。日本の勇者たちはその生涯の幕の閉じ方を充分に心得ている。悲劇的最期とは浅薄な思考や誤算から、あるいは精神や肉体に欠陥があり持久力がないから、またある偶然の不運からもたらされるものではない。むろんそれらの要因が皆無であるとは言えまい。だがしかし、何よりも現世における英雄の生涯を支配する前世からの宿縁(カルマ)のため自力では避けることができない悲劇があって、英雄にふさわしい最期がもたらされるのである。宿縁のため彼は悲惨な運命を受け入れて生きる。
 そこで英雄たる者の不可欠の条件とは、その崇高な最期に対する覚悟であることになる。英雄は最期を迎えるための自らの行動の細目一切をわきまえていなければならない。日ごろから心の用意を備えて、生存本能のためその他人間の弱点のため、最後の瞬間に失態を演じてはならない。また、英雄は、生涯の最終点での、自らと自らの運命との間の火花散る対決こそ勇士たる者の人生に最大の意味を持つ出来事だということを知っている。勝目がいかに少ない苦闘であろうと彼は戦いを中断してはならない。最後の段階にいたって彼は自らの責務を、勇士にふさわしい死をもって完遂しなければならない。それによって彼のその死にいたるまでの努力と犠牲的行為とが初めて正当性を持つようになる。もしその死に方を誤ったならば、それまでの自己の生涯に意味を与えてきたすべての努力と功績は嘲笑の的にすぎなくなろう。そのため英雄たる者はつねに死ぬことを考えて生きねばならない。

 時代と戦い、時代を開くのが英雄の使命だ。そして英雄は潔く次代の犠牲となるのだ。英雄とは生き様であり死に様でもある。英雄は走り続け天翔(あまが)ける流れ星のように消えてゆく。三島は英雄たらんと欲して悲劇を選んだ。

 大きな事故や災害が起こると英雄が次々と登場する(『生き残る判断 生き残れない行動 大災害・テロの生存者たちの証言で判明』アマンダ・リプリー)。社会には自己犠牲を犠牲と思わぬ人々が一定数存在する。見る人が見れば普段から惜し気(げ)もなく親切な振る舞いをしていることに気づくだろう。

 誰も見ていなければこれ幸いと手を抜く。そんな輩は英雄的行為と無縁だ。いざとなれば年寄りや子供を踏みつけても逃げようとするに違いない。

 三島が死んだのは1970年(昭和45年)のこと。学生はヘルメットをかぶり鉄パイプを振り回して学業を放棄していた。大人たちは高度成長の甘い汁を吸いながら冷めた眼で世間を眺めていた。三島の割腹自決はニュースの一つに過ぎなかった。この国は小野田寛郎〈おのだ・ひろお〉の帰還もニュースとしてしか受け止めなかった。アイヴァン・モリスの誠実を思わずにはいられない。

 今年は三島の死から半世紀となる。三島の魂は震え続けて後に続く若者の登場を待っている。

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