・『生命とは何か 物理的にみた生細胞』シュレーディンガー
・『生命を捉えなおす 生きている状態とは何か』清水博
・『生物と無生物のあいだ』福岡伸一
・『利己的な遺伝子』リチャード・ドーキンス
・生きるとは繁殖すること
・『生命とは何か 複雑系生命科学へ』金子邦彦
・『生命を進化させる究極のアルゴリズム』レスリー・ヴァリアント
しかしながら、生命がその種の定義によってしか規定できないということであれば、誰もが奇跡をひきおこすことができるし、それについては手間暇はかからない。タンクの中には、溶接密封された2~3センチばかりのガラスの小瓶(ヴァイアル)、つまり、アンプルが3万本ばかり収められており、その中には、活力を完全に封じ込められてしまった200万ばかりの生命体がスプーン一杯に満たないごく少量の溶液の中で冷凍されているので、そのうちの一つを取り出して体温まで温めてやればよい。ちっぽけな生命体は、冷凍による仮死状態から数分で復活する。今日、ほとんどすべての生物医学の研究室でごくあたりまえになってしまったこうした光景というものは、私たちが生きている年月という概念によっては想像することもできないのだが、これらの生命体は、「生命を取り戻す」のである。微細な有機体は、アンプルの表面を動きまわったり、這いまわったりするようになる。溶液に溶け込んでいる養分を吸収するようになる。私たちは、しばらくすると、こうした生命体がまぎれもなく生きている何よりの証拠を目にすることができる。生命体が繁殖を始めるようになるからだ。
【『生命とはなにか 細胞の驚異の世界』ボイス・レンズバーガー:久保儀明〈くぼ・よしあき〉、楢崎靖人〈ならさき・やすと〉訳(青土社、1999年/原書は1996年)】
392ページ上下二段。価格を2800円に抑えたのは立派だ。さすが青土社〈せいどしゃ〉と言いたいところだが紙質の悪さが目立つ。更に著者・訳者のプロフィールがないのは手抜きが過ぎる。Webcat Plusで調べる羽目となった。
思考は人間の尺度に支配されている。時間的なスケールは数時間・1日・1年・一生という具合で100年に収まる。一方空間的なスケールが自分の移動距離を超えることが少ない。生きるとは動くことであるとの思い込みは人間の時間的スケールに基づくものだ。もっと長い尺度で見れば「生きるとは繁殖すること」と言えよう。
連綿とつながる子孫の流れを俯瞰すれば確かに「生物は遺伝子の乗り物に過ぎない」(リチャード・ドーキンス)と考えることも可能だ。ただしかつて我が世の春を誇った恐竜は滅んだ。原因は直径10キロ級の隕石衝突によるものと考えられているが(第2回 恐竜絶滅の原因は本当に隕石なのか | ナショナルジオグラフィック日本版サイト)、生物学的には神経伝達の速度が遅すぎることが挙げられる。
生命とは永続性を示す言葉なのだろう。あらゆる宗教が死と永遠を説く理由もそこにある。我々が自分の存在についてあれこれ悩むのも「生きている証し」を求めているからだ。
2055年には世界人口が100億人に達すると見込まれている。日本の人口は1億2808万人(2008年)がピークでそれ以降減少に転じた。人口問題は食糧とエネルギーの資源を巡るテーマとして論じられることが多いが、政治色が濃く国際問題というよりは国家エゴをきれいな言葉で表明しているだけで、発展途上国を貧しくした欧米の帝国主義や戦争の責任を完全に無視している。昨今話題の移民問題も戦争責任と合わせて考える必要がある。
天敵がいないからといって人間が無限に増え続けることはできない。そもそも100年後には今生きている人はほぼ全員が死んでるわけで、その時どんな世界が待ち受けているかは誰にもわからない。病気・戦争・自殺は人間の世界と細胞の世界に共通する歴史である。
マイクロバイオームから本書にまで辿り着いたのだが、私は貴族政から民主政に宗旨変えを迫られた。エリート主義は大脳を司令塔とする政治制度である。ところが人体は腸内細菌という市民が思いの外、全体に影響を与えているのだ。人間が多細胞生命体で一つの巨大なコロニーだとすれば、投票の有無にかかわらず一人ひとりの感情・行動・反応が国家や世界に及ぼす影響を軽視するべきではない。
暴飲暴食や過剰な運動は一種の帝国主義の表れだ。健康が持続可能性を示すのであれば粗衣粗食、適度な運動、瞑想(思考の停止)が秘訣となるだろう。
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