2017-05-02

西洋におけるスピリチュアリズムは「神との訣別」/『わかっちゃった人たち 悟りについて普通の7人が語ったこと』サリー・ボンジャース


『悟りの階梯 テーラワーダ仏教が明かす悟りの構造』藤本晃
『無(最高の状態)』鈴木祐
『奇跡の脳 脳科学者の脳が壊れたとき』ジル・ボルト・テイラー
『未処理の感情に気付けば、問題の8割は解決する』城ノ石ゆかり
『マンガでわかる 仕事もプライベートもうまくいく 感情のしくみ』城ノ石ゆかり監修、今谷鉄柱作画
『ザ・メンタルモデル 痛みの分離から統合へ向かう人の進化のテクノロジー』由佐美加子、天外伺朗
『無意識がわかれば人生が変わる 「現実」は4つのメンタルモデルからつくり出される』前野隆司、由佐美加子
『ザ・メンタルモデル ワークブック 自分を「観る」から始まる生きやすさへのパラダイムシフト』由佐美加子、中村伸也
『左脳さん、右脳さん。 あなたにも体感できる意識変容の5ステップ』ネドじゅん
『すでに目覚めている』ネイサン・ギル
『今、永遠であること』フランシス・ルシール
『プレゼンス 第1巻 安らぎと幸福の技術』ルパート・スパイラ
『ザ・ワーク 人生を変える4つの質問』バイロン・ケイティ、スティーヴン・ミッチェル
『人生を変える一番シンプルな方法 セドナメソッド』ヘイル・ドゥオスキン

 ・西洋におけるスピリチュアリズムは「神との訣別」
 ・悟ると過去が消える

『悟り系で行こう 「私」が終わる時、「世界」が現れる』那智タケシ
『二十一世紀の諸法無我 断片と統合 新しき超人たちへの福音』那智タケシ
『覚醒の炎 プンジャジの教え』デーヴィッド・ゴッドマン


悟りとは
必読書リスト その五

 こういう目覚め、見ること、まあ呼び名はどうでもいいとして、それは過去にどんなことをしてきたとか、逆に何をしてこなかったかということにはまるで関係なく起こる。つまりこれは人が左右できるようなことではないのだ。(ジェフ・フォスター)

【『わかっちゃった人たち 悟りについて普通の7人が語ったこと』サリー・ボンジャース:古閑博丈〈こが・ひろたけ〉訳(ブイツーソリューション、2014年)以下同】

 あまりよくは知らないのだがジェフ・フォスターという人物はノンデュアリティ(非二元)のリーダー的存在のようだ。ついでにもう一つ白状しておくと最近よく目にするノンデュアリティもよくわからない。

 当てずっぽうの説明を試みよう。1960年代にカウンターカルチャーのムーブメントが起こる。ロックが世界を席巻し、若者は髪を伸ばし、ドラッグに手を染めた。ヒッピーはルンペンではない。それまでの西洋のあり方に対するプロテスト(抵抗)行動であった。アメリカはベトナム戦争をする一方で公民権運動というジレンマを抱え込んだ。この時、物から心へという価値観の変化が現れ、ニューエイジが誕生する。我々日本人からするとニューエイジは仏教の基本知識を心理学の言葉で飾り立てたケーキのように見えるが、西洋の歴史においては一つの重要な転換点と見なすことができよう。

 ワンネス(単一性、調和)とかホリスティック(全体性)とかトランスパーソナル(超個的)というキーワードが特徴である(『現代社会とスピリチュアリティ 現代人の宗教意識の社会学的探究』伊藤雅之)。その延長線上にノンデュアリティがあると考えてよかろう。

 ニューエイジの総本山は神智学協会(『仏教と西洋の出会い』フレデリック・ルノワール)であった。そしてクリシュナムルティが祀(まつ)り上げられる。既に神智学協会と袂(たもと)を分かっていたにもかかわらず(『クリシュナムルティ・目覚めの時代』メアリー・ルティエンス)。

 西洋におけるスピリチュアリズムは「神との訣別」であると私は考える。多用されるリアリティという言葉が示すのは「神が支配する世界」の否定であろう。

 本書のタイトル『わかっちゃった人たち』は軽妙よりはやや軽薄に傾いているが、「期せずして悟ってしまった」様子を巧みに表現している。すなわち悟りに修行は必要ない。

 その秘密は想像したのとはまるで違う。それは宗教も、イデオロギーも、信念も、そして「覚醒」や「悟り」といった概念も超越したものだ。自由だ。何の条件もない。その秘密は今にありすぎて、それについて何か言ったところで、そんな言葉はすぐに灰になってしまう。それはどんな目標とも、達成とも、欲求とも、後悔とも、スピリチュアルな成就とも、世俗的な失敗とも、まったく関係がない。自分とはまったく何の関係もないのだ。それは今あって、ここにある。これはトニー・パーソンズの言葉で言えばオープン・シークレット、つまり公然の秘密だ。あまりにうまく隠されていて、あらゆるものとして現れているのに、文字どおりあらゆるものとして現れているのに、人にはそれが見えないのだ。(ジェフ・フォスター)

 もちろん悟りに段階があることは知っている(『悟りの階梯 テーラワーダ仏教が明かす悟りの構造』藤本晃)。だが訳知り顔で「段階がある」と語る人よりも、実際に悟った人の言葉が重い。

 悟りが気づきであれば、単純に「見えるか」「見えないか」の違いしかないのだろう。彼らの言葉は一様に単純でわかりやすく、理窟をこねくり回すような姿勢は微塵もない。何にも増して「静か」である。他人に対して何かを強要するようなところがない。欲望を超越したというよりは、脳のシステム構成が変わったような印象を受ける。欲望から離れることが目的なのではなく、欲望に基づく価値観が真実を見失わせていることに気づかされる。

 クリシュナムルティは訪れる悟りを「他性(アザーネス)」と表現してる(『クリシュナムルティの神秘体験』J・クリシュナムルティ)。クリシュナムルティは理想も努力も否定する(『自由とは何か』J・クリシュナムルティ)。修行は悟りを保証するものではない。

 私が世界であれば(『あなたは世界だ』J・クリシュナムルティ)、欲望に基づく私の行動が世界の混乱を招いている事実に気づく。自(おの)ずから調和を目指す行為や言動となることだろう。過去の怒りや恨みから離れることも可能だ。私は悟っていない。悟っていない瞳に映るのは誤った世界である。だから私の感情は決して正しくない。悟れば世界はありのままに見える。

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