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2011-12-09

無記について/『人生と仏教 11 未来をひらく思想 〈仏教の文明観〉』中村元


 数年前に初めて『ブッダのことば スッタニパータ』(中村元訳、岩波文庫、1958年)を飛ばし読みした。「フーン」とは思ったものの、さほど心は動かなかった。その後、クリシュナムルティと遭遇する。私は乾いた砂が水を吸うように貪り読んだ。気がつくとブッダの言葉は激変していた。雷光の如く胸に突き刺さった。

 言葉はシンボルだ。仏教では文・義・意という立て分け方がある。経文、教義、真意という意味で、一つの言葉を三重に深めている。

 シンボルの究極は数式とマンダラである。詩歌や名言がこれに次ぐ。要は抽象度が高いのだ。

 なぜ私はブッダの言葉を理解できなかったのだろう? それは文(もん)だけ読んで、義意に辿りつけなかったためだ。そして今、義意をわかったように思っている。しかし実は違う。もしも義意がわかったとすれば、私はブッダと同じ悟りに達したことになるからだ。

 おわかりになっただろうか? 言葉とは翻訳機能にすぎないのだ。我々は日常の対話においてすら言葉というシンボルを手繰り寄せながら、コミュニケーションを図っているのである。ゆえに時折誤解や行き違いが生じる。

日本に宗教は必要ですか?/『クリシュナムルティの教育・人生論 心理的アウトサイダーとしての新しい人間の可能性』大野純一著編訳
教育の機能 2/『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ

 言葉がコミュニケーションのツールであるならば、マンダラも悟りのための道具なのだろう。

 前置きが長くなってしまった。シリーズ『人生と仏教』は全12巻となっている。中村元が担当しているのは本巻だけのようだ。温厚な人物だけに時折盛り込まれる手厳しい指摘が鞭のように唸(うな)る。

 中村が20年かけ1人で執筆していた『佛教語大辞典』(東京書籍)が完成間近になったとき、編集者が原稿を紛失してしまった。中村は「怒ったら原稿が見付かるわけでもないでしょう」と怒りもせず、翌日から再び最初から書き直し、8年かけて完結させ、1・2巻別巻で刊行。

Wikipedia

 前半の初期仏教に対して、後半の鎌倉仏教&その他は失速した観がある。やはり些末な教義が言葉の抽象度を低くしているように感じてならない。中村は初心者にもわかる言葉で、深遠な仏法哲理を自在に語る。

 したがって、ゴータマは形而上学的な問題については解答を与えることを拒否した。原始仏教聖典を見ると、「我(=霊魂)および世界は常住であるか?(=時間的に局限されていないか?)あるいは無常であるか?(=時間的に局限されているか?) 我および世界は有限であるか、あるいは無限であるか、身体と霊魂とは一つであるか、あるいは別のものであるか? 完全な人格者(タターガタ〈「如来」と訳される〉)は死後に生存するか、あるいは生存しないのか?」などの質問が発せられたときに、かれは答えなかったという。このような問いが14あり、それに対してイエスともノーとも答えを記さないから、漢訳仏典では〈十四無記〉という。また返答を与えないで捨てて置くことが、実は一つのはっきりした立場を表明していることになるので、これを〈捨置記〉(しゃちき/『倶舎論』〈くしゃろん〉における訳語)ともいう。(ここではカント哲学などにおけると相似た二律背反〈アンチノミー〉の問題が想起されているのである)。(句点ママ)
 では、なぜ答えを与えなかったのかというと、これらの形而上哲学的問題の論議は益の無いことであり、真実の認識(正覚〈しょうがく〉)をもたらさぬからであるという。(ジャイナ教徒は仏教徒を「不可知論者」とみなしていた)。懐疑論者サンジャヤは懐疑論的立場に立って、このような質問に対しては曖昧模糊(あいまいもこ)たる返答をして問題の焦点をはずしたが、ブッダはそれとは異なって、明確な自覚に基づいて返答を拒否した。この点について興味深いのは毒矢の譬喩(ひゆ)である。

【『人生と仏教 11 未来をひらく思想 〈仏教の文明観〉』中村元〈なかむら・はじめ〉(佼成出版、1970年)以下同】

 以下、無記に関するリンク。

原始仏教の教理
無記説の考察
輪廻思想は仏教本来の思想か(舟橋尚哉)
連続ツイート 無記(茂木健一郎)
茂木健一郎氏の連続ツイート「無記」に関する違和感

 続いて「毒矢の喩え」が引用される。

「ある人が毒矢に射られて苦しんでいるとしよう。かれの親友・親族などはかれのために医者を迎えにやるであろう。しかし矢にあたったその当人が、『わたしを射た者が王族であるか、バラモンであるか、庶民であるか、奴隷(どれい)であるか、を知らない間は、この矢を抜き取ってはならない。またその者の姓や名を知らない間は、抜き取ってはならない。またその者は丈が高かったか、低かったか、中位であったか、皮膚の色は黒かったか、黄色かったか、あるいは金色であったか、その人はどこの住人であるか、その弓は普通の弓であったか、強弓であったか、弦(弓づる)や■(竹冠+幹)箭(矢柄)やその羽根の材料は何であったか、その矢の形はどうであったか、こういうことがわからない間は、この矢を抜き取ってはならない』(カギ括弧ママ)と告げたとする。しからばこの人は、こういうことを知り得ないうちにやがて死んでしまうであろう。それと同様に、もしもある人が「尊師がわたくしのために〈世界は常住なものであるか、無常なものであるか〉などということについて、いずれか一方に定めて応えてくれない間は、わたしは尊師のもとで清浄(しょうじょう)行をしないであろうと語ったとしよう。しからば師がそのことを説かれないから、その人はやがて死んでしまうであろう」(MN.I.pp.429-30)

 西洋で形而上学が発展したのは、教会がアリストテレスを採用したためだ。多分。キリスト教は砂漠で生まれた。砂漠には何もない。そこに広がっているのは天だけだ。だからキリスト教は自然環境を征服する対象と見なした。これは建築様式にも反映されていて、多くの教会が尖塔(せんとう)となって天を目指している。

「毒矢の喩え」は広く知られているが実に鮮やかな反論である。我々は生まれてから歴史、文化、伝統などの条件づけによって数えきれないほどの小さな毒矢を射(う)たれている。生の本質に暗い理由はそこにある。資本主義が世界を席巻してからというもの、人間の悩みは経済的なものに限定されてしまった。収入、対価、コスト、合理性など、あらゆることが経済的尺度に置き換えられる。

 人生で本質的なこと、とりわけ、自らの行動原理にかかわることについて「無記」が大切なのは、言葉に表すことでかえって「動き」が止まってしまうから。

 言葉で「こうだ」と決めつけてしまうことは、うごめく生命体をスケッチするようなもの。

茂木健一郎

 これは卓見だと思う。生は瞬間瞬間とどまることがない。そのダイナミズムを言葉が止めてしまうというのだ。教義に額づく宗教者が愚かであるのも同じ理由だ。生を教義の中に閉じ込めることは本末転倒である。仏教は啓典宗教ではない。

 私はやはり「毒矢の喩え」を忠実に読むことが大事であると考える。要はブッダが斥(しりぞ)けたのは「死から目を背け、死から遠ざかる思考」であったといえまいか。

 時間は概念であるゆえ、永遠は存在しない。観測者がいなくなった時点で時間は消失する。変化という諸行無常の姿が時間の本質なのかもしれない。

月並会第1回 「時間」その一

 我々は限定された時間を生きる。その限界性を打ち破るものは思考ではない。なぜなら言葉はシンボルにすぎないからだ。

 そもそも言語機能は脳の部分的な働きであり、しかも後天的に獲得されたことを見落としてはなるまい。人間を深いところで支えているのは脳の古い皮質大脳辺縁系)なのだ。

 ブッダが見つめたのは生と死であった。形而上学は生と死を見失わせる。

 ブッダは、しばしば良い医者に喩(たと)えられている。
 そうして聖典の語るところによると、ゴータマは「わが道は真理である」と主張することなく、また「汝(なんじ)の説は虚妄(もう)である」といって相手を非難することもない(『スッタニパータ』八四三)。他の学説と衝突することもない(同上、八四七)。かれは一つの立場を固守して他の者と争うことがないのである。
 したがってブッダの教えは、他の教えと「等しい」とか「勝(すぐ)れている」とか「劣っている」とかいって比較することもできぬものである(『スッタニパータ』、八四二以下、八五五、八六〇参照)。比較ということは、共通の場面の上に立っている者どもの間でのみ可能なのである。次元を異にする者どもの間では、比較は成立し得ない。世の哲人は〈真理の一部分を見る者〉であるが、ブッダは真理そのものを見る者である。この趣意を明かすために群盲が象を評するという譬喩が述べられている(『義足経』巻上。「鏡面王経」第五。大正蔵・四巻、178ページ上-下)。ゴータマ・ブッダは、種々の哲学説がいずれも特殊な執着に基づく偏見である、ということを確知して、そのいずれにもとらわれず、みずから省察しつつ、内心の寂静の境地に到着しようとした(『スッタニパータ』、八三七など)。「無争論」というのが根本的立場であった。「世間はわれと争えども、われは世間と争わず」。――このような「争わない」という立場が原始仏教経典のうちの最古層に表明されているのであるから、ゴータマは、当時の諸哲学説と対立する、なんらか特殊な哲学説の立場に立って、新しい宗教を創始しようとする意図もなく、また新しい形而上学を唱導したのでもない。ゴータマは二律背反に陥るような形而上学説を能(あた)うかぎり排除して、真実の実践的認識を教示したのである。
 かれは、みずから〈真実のバラモン〉または〈道の人(沙門)〉となる道を説くのだ、ということを標榜していた。かれは徳行の高い昔の聖仙を称賛していた。ゆえにゴータマ・ブッダには、新しい別の宗教の開祖であるという意識は無かったようである。

 私はクリシュナムルティを学んでから、ブッダや日蓮などには「教義を説いた自覚がなかったに違いない」と思うようになった。なぜなら一切の束縛から人間を自由にしようとした彼らが「私の教義に従え」と言うわけがないからだ。それが証明された。

 例えば自殺についても無記と同様だと思われる。

仏教は自殺を本当に禁じているのか?
自殺を止められた釈尊の譬え話
自殺についての仏教の視点 現実感覚の確立とあの世への連続感(PDF)
自殺と向き合えない仏教

 私も元々は自殺に絶対反対であった。その理由は強い者よりも弱い者を殺す罪は重く、男性よりも女性を殺す罪は重く、大人よりも子供を殺す罪は重く、他人よりも自分を殺す罪は重いというものであった。

 もう10年以上前になるが後輩の父親が自殺をした。行方不明になってから半年後に青木ヶ原の樹海で発見された。掛ける言葉が見つからなかった。ただ一緒に泣いた。

 もちろん「自殺するのも自由だ」と言うことは困難だ。しかし「自殺はいけない。自殺は悪である」という単純な論理が、どれほど遺族を苦しめることだろう。「自殺を止められなかったのは家族の落ち度だ」と自分たちを責めているにもかかわらず。

 また喫煙や飲酒、コーヒーなどの刺激物、甘い物などの嗜好品を好むのは、「緩慢な自殺」と考えることも可能だろう。オートバイの暴走は文字通りの自殺行為である。不摂生、肥満、運動不足、他人の噂話、不勉強、怠惰、鈍感、凡庸……全部自殺行為だよ(笑)。

 事実を見つめてみよう。「自殺した人がいる」「自殺という選択をした人がいる」――それだけの話だ。そこに「余計な物語」を付与してはいけない。

 先日、「怨みはついにやむことがない」というツイートを紹介した。クリシュナムルティを通すと読めるようになる。縁起とは、「罵る人と罵られる人がいる」「害する人と害される人がいる」という事実を達観することだ。そこに強弱、あるいは上下という人間関係の物語を与えるから、自我が立ち上がるのだ。

 我々は過去の物語に生きている。諸法無我とは「私」という連続性から離れることである。なぜなら過去を死なせることなしに、現在を生きることは不可能であるからだ。

あなたは「過去のコピー」にすぎない/『私は何も信じない クリシュナムルティ対談集』J.クリシュナムルティ
意識は過去の過程である/『生と覚醒のコメンタリー 2 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ

 言葉ではなく沈黙の中に無量のものがある。無記という静謐の宇宙を味わう。

人生と仏教〈第11〉未来をひらく思想 (1970年)

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ブッダのことば―スッタニパータ (岩波文庫)

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ドゥッカ(苦)とは/『ブッダが説いたこと』ワールポラ・ラーフラ
道教の魂魄思想/『「生」と「死」の取り扱い説明書』苫米地英人
死別を悲しむ人々~クリシュナムルティの指摘
クリシュナムルティは輪廻転生を信じない/『仏教のまなざし 仏教から見た生死の問題』モーリス・オコンネル・ウォルシュ
自殺は悪ではない/『日々是修行 現代人のための仏教100話』佐々木閑
臨死体験/『死 私のアンソロジー7』松田道雄編集解説

2011-11-15

教義、学問、知識、戒律、道徳

839 「教義によって、学問によって、知識によって、戒律や道徳によって清らかになることができる」とは私は説かない。「教義がなくても、学問がなくても、知識がなくても、戒律や道徳を守らないでも清らかになることができる」とも説かない(スッタニパータ)
Nov 15 via twittbot.netFavoriteRetweetReply


ブッダのことば―スッタニパータ (岩波文庫)

2011-11-01

縁起に関する私論/『仏教とはなにか その思想を検証する』大正大学仏教学科編


 ヴェーダウパニシャッド(ヴェーダの一部)を参照し、インド哲学から六派哲学六師外道に至り、輪廻解脱を確認し、梵我一如に辿りついたところで既に1時間以上を経過している。

 ものを書く行為には正確さが求められるが、書こうと思っていたことを失念しそうだ。大体、今更私がインド思想史を正確に記述したところで何の意味もない。少々の間違いがあったとしても独創的な見解を示すのが先だ。

 もう疲れてしまったのでメモ書き程度にとどめておく。

 まず現在の私の見解を述べておこう。日本の仏教はその殆どが鎌倉仏教といってよい。最大の問題はなにゆえ鎌倉時代から宗教的進化が見られないのかということに尽きる。本来であればニュートン力学や、アインシュタインの相対性理論、はたまたゲーデルの不完全性定理、ハイゼンベルクの不確定性原理量子力学超弦理論などに対して応答する必要があった。

 これを避けたことによって全ての宗教は文学レベルに堕したと私は考える。物語力は既に宗教よりも科学の方が上回っている。

 前置きが長くなってしまった。本書は仏教入門として非常に優れている。記述も正確だ。

 アーリヤ人のインド侵入以前にインダス河の流域に高度な文明が発達していたことが、インド考古学調査団の発掘調査によって判明した。ハラッパーモヘンジョダロを二大中心地として、紀元前2300年ころから1800年ころまでの間栄えていたとされる。
 その出土品によれば、シュメール文化との関係が深く、アーリヤ文化とはまったく性質が異なっている。この文明の担い手は現在南インドに居住するドラヴィダ人の祖先であったとする説が有力であるが、確実なことはいまだ不明である。

【『仏教とはなにか その思想を検証する』大正大学仏教学科編(大法輪閣、1999年)以下同】

インドに歴史文化がない理由

 インダス文明は、アーリア人が五河(パンジャブ)地方に侵入する以前に衰えてしまっていたといわれるが、現段階ではよくわかっていない。ともあれ、鉄器をもちいるアーリア人が、銅器をもちいていたムンダ人やドラヴィダ人などのインドの原住民たちを圧倒し、支配したことは事実である。
 紀元前1500年ごろ――あるいは紀元前13世紀ごろ――インド・ヨーロッパ語族に属するアーリア人たちは、ヒンドゥークシュ山脈を越えて五河地方を占拠した。これ以後、今日にいたるまで、インド文化の中核となっているのは、このインド・アーリア人である。彼らはギリシア人やゲルマン人と同じ祖先をもつ人種であり、インド人の思弁の中には、ギリシア哲学やドイツ哲学の思索の道筋と似たものが見出される。

【『はじめてのインド哲学』立川武蔵〈たちかわ・むさし〉(講談社現代新書、1992年)】

インドのバラモン階級はアーリア人だった/『仏教とキリスト教 イエスは釈迦である』堀堅士

 つまり東洋と西洋の文化が激しくぶつかり合い、アーリア人支配という政治的側面からヴェーダが作成された。

 ヴェーダとは本来「知識」を意味する。特に「宗教的知識」を意味し、神々への賛歌・神話・哲学的思惟・祭式の規定などを収載する聖典の総称となった。

 で、インドはカースト制度に束縛されていた。

 なお、四姓の原語はヴァルナといって「色」を意味し、もともとは白色のアーリヤ人とそうでない非アーリヤ人を区別するために用いられたことばである。

 社会の安寧秩序を守るための宗教といってよい。いまだにインドはカースト社会であることを踏まえると、人間の脳は簡単に数千年も縛られることが理解できる。強靭な物語力だ。

 ちょっと気になったのだが、「ヴァルナ」はひょっとすると色法(しきほう)と関係があるかもしれない。

 ウパニシャッドにおける重要な思想の一つに、輪廻(りんね)からの解脱(げだつ)がある。

 これは知らなかった。そうするとブッダが説いた解脱とどう違うのかね? 梵我一如の違いだけだとすれば、実にわかりにくい。

 こうしたテーマが厄介なのは、当時の人々が何に束縛されているかを知らなければ、ブッダの目指した自由がわからないことだ。

 またインド哲学でいうところの「我」と、デカルトが見出した「我」は似て非なるものだと思う。仏教が説く我(が)は当体や主体という意味で、自我とはニュアンスが異なるように感ずる。

 ことに『スッタニパータ』にみられる無我説は極めて数が多い。

 なにものかをわがものであると執着して動揺している人々を見よ。彼らのありさまはひからびた水の少ないところにいる魚のようなものである。(777)

 ここでは、なにものかを「わがもの」「われの所有である」と考えることを否定している。執着、我執、とらわれの否定、超越として無我が説かれている。
 また『律蔵』の中で、釈尊は五比丘(びく)に向かって次のように説いている。

 比丘たちよ、この色は我ではない。もし色が自己であるなら、この色が病いにかかることはないであろう。また、色について、わたしの色はかくあれ(健康であれ)、かくなることなかれ(老いないように、死なないように)といえるであろう。しかし、色は我ではないから、病いにかかるし、あれこれと(自由に)することはできない。……この受が我であろうか。……この想が……この行が……この識が我であろうか。

 このように、色(しき/肉体)及び四種の精神(受・想・行・識)の働きをあげ、そのどれもが我と呼べるものではないとしている。
 無我という語は主に初期仏教や部派仏教で用いられるが、大乗仏教ではこれを「空」の語で表現することが多くなった。

 これで一つわかった。諸法無我であるがゆえに、諸法実相は三諦(さんたい)における縁起となるのだ。大乗仏教は諸法無我=空としたため、中道実相に不要な付加価値を与えてしまったのだろう。

 釈尊の教説「四諦十二因縁八正道」をより深めていくと、その根底には空の論理、仮の論理、中の論理と言うものがある。これは龍樹の言う「縁起は即空、即仮、即中」であり、同じく天台大師智ギ(中国)はこれを「空仮中の三諦」と言った。

三諦説「空・仮・中」:日本タントラヨーガ協会

 つまり実体としては縁起しか存在しないのだ。

 縁起とは「縁(よ)りて起こること」である。「縁りて」とは条件によってということであり、あらゆるものは種々さまざまな条件に縁って(縁)、かりにそのようなものとして成り立っている(起)ことである。

 縁起とは人間関係といった意味での関係性ではない。生命次元の相互性・関連性を意味する。

 この縁起を特に法と名づけ、「縁起を見るものは法を見る。法を見るものは縁起を見る」とも「縁起を見るものは法を見る。法を見るものは仏を見る」とも説かれている。そしてこの縁起の法則は、たとえ仏が世に出ても出てなくても永遠に変わることのない真理であるといわれる。

 縁起がダルマ(法)なのだ。

 私論を開陳させていただこう。大乗仏教は部派仏教に対抗するために、バラモン教的政治性を取り込んでしまったのだろう。また差別化を計る目的で教義も豊穣な――あるいは過剰な――論理構造を築かざるを得なかった。その過程で梵我一如の影響を受けてしまったのだ。これが一念三千であると考えられる。

 諸法無我は現代科学が証明しつつある。量子レベルで見れば我々の肉体は蜘蛛の巣や綿飴みたいにスカスカだ。そこに微弱な電気が流れ、なぜだかわからないが「私」が立ち上がるのだ。そして哲学的に吟味すれば、「私」とは世界から分断された存在に他ならない。

 鎌倉仏教は大乗と密教をミックスした日本オリジナルの宗教である。現代においては大乗から部派仏教、そして初期経典へとさかのぼり、ブッダ本来の教えを辿るべきだと私は考える。大乗仏教から政治性や運動性を除かないと、単純なプラグマティズムに堕す恐れがあるからだ。

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無我なる縁起の「自己」とはいかなる現象か
無我に関するリンク集
ウパニシャッドの秘教主義/『ウパニシャッド』辻直四郎

2011-06-13

犀の角のようにただ独り歩め


『日常語訳 ダンマパダ ブッダの〈真理の言葉〉』今枝由郎訳
『ブッダの真理のことば 感興のことば』中村元訳
『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一話』アルボムッレ・スマナサーラ
『原訳「法句経」(ダンマパダ)一日一悟』アルボムッレ・スマナサーラ
・『法句経』友松圓諦
・『法句経講義』友松圓諦
・『阿含経典』増谷文雄編訳
・『『ダンマパダ』全詩解説 仏祖に学ぶひとすじの道』片山一良
・『パーリ語仏典『ダンマパダ』 こころの清流を求めて』ウ・ウィッジャーナンダ大長老監修、北嶋泰観訳注→ダンマパダ(法句経)を学ぶ会
『日常語訳 新編 スッタニパータ ブッダの〈智恵の言葉〉』今枝由郎訳

 ・犀の角のようにただ独り歩め
 ・蛇の毒
 ・所有と自我
 ・ブッダは論争を禁じた

『スッタニパータ [釈尊のことば] 全現代語訳』荒牧典俊、本庄良文、榎本文雄訳
『原訳「スッタ・ニパータ」蛇の章』アルボムッレ・スマナサーラ
『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ
『慈経 ブッダの「慈しみ」は愛を越える』アルボムッレ・スマナサーラ
『怒りの無条件降伏 中部教典『ノコギリのたとえ』を読む』アルボムッレ・スマナサーラ
『小説ブッダ いにしえの道、白い雲』ティク・ナット・ハン
『ブッダが説いたこと』ワールポラ・ラーフラ
・『ブッダとクリシュナムルティ 人間は変われるか?』J・クリシュナムルティ
ブッダの教えを学ぶ

 水の中の魚が網を破るように、また火がすでに焼いたところに戻ってこないように、諸々の(煩悩の)結び目を破り去って、犀の角のようにただ独り歩め。

【『ブッダのことば スッタニパータ』中村元〈なかむら・はじめ〉訳(岩波文庫、1958年/岩波ワイド文庫、1991年)】

ブッダのことば―スッタニパータ (ワイド版 岩波文庫)

Rhino

宗教とは何か?/『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ
初期仏教の主旋律/『初期仏教 ブッダの思想をたどる』馬場紀寿