2001-04-07

目撃された人々 2


 人の好い親父さんだった。

 年の頃は還暦を越えたほどであろうか。小太りの身体に赤ら顔が乗っかっていた。商売っ気抜きの笑い声が豪快な人だった。以前、私が勤務していた会社の下請けの社長さんだ。誰からも好かれていた。いなくなった途端その人の陰口を叩くような手合いとは全く違っていた。

 その頃私は、職人同士の間で見受けられる低俗な駆け引きや、足の引っ張り合いに業を煮やしていた。黙っていれば幾らでもつけ上がる。怒鳴りつければ下手に出る。そんな大人どもに向って唾を吐きかけてやりたい衝動に駆られたものだ。

 下請け会社の社長さんは、必ず私に声を掛けてくれた。若かった私はよく愚痴を吐いた。「こんなクズみたいな連中と働くのは御免こうむりたい。こっちまで人間が愚劣になってしまいそうだ」。親父さんはニコニコしながら黙って私の話しに耳を傾けてくれた。

 建築業界は羽振りが好い時は飛ぶ鳥落とす勢いがあるものの、景気が低迷し出すと真っ先に打撃を受ける。バブルが弾けたある日のことだった。

 いつもは工場で納品をして帰る親父さんが事務所に現れた。私が振り向き「毎度っ!」とドラ声を上げると、いつになく沈痛な面持ちで作業帽を両手で握り締めて立っていた。

「社長、ちょっと宜しいですか」。親父さんはそういうなり社長の前に歩んでいった。突然大きな声で「社長、仕事を回して下さい。お願いします。社長、本当に……どうかお願いします」。深く腰を折り曲げた悲痛な姿を正視することはできなかった。世の中の厳しさを目の当たりにした私は、食ってゆくとはこういうことなのだと悟った。事務所を出てゆく時に見せた笑顔は、いつものそれとは違った。

 バブルの絶頂期には1000万円を軽く上回るドイツ製のクルマを2台も購入した我が社の社長の運も尽きた。彼は最後の最後までクルマを手放すことなく、社員を次々と解雇した。今では残った従業員はわずかに4人しかいないという。

 時流の変化、人生の有為転変は誰しも避けられない。クルクルと波の向きに合わせて小ざかしく泳ぎ渡るような人間も数多く見た。

 私は今でも時たま、あの親父さんの笑顔を胸に浮かべることがある。あの人の笑顔は、どんな時でも変わらないだろう。否、苦境にあればあるほど輝きを増してゆくに違いない。