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2020-02-15

初期仏教の主旋律/『初期仏教 ブッダの思想をたどる』馬場紀寿


『原始仏典』中村元
『上座部仏教の思想形成 ブッダからブッダゴーサへ』馬場紀寿

 ・小部は苦行者文学で結集仏典に非ず
 ・初期仏教の主旋律
 ・初期仏教は宗教の枠に収まらず

ブッダの教えを学ぶ

 このように、「成仏伝承」に説かれる「ブッダの悟り」の内容は、「律」の仏伝的記述において説かれる「ブッダの教え」の内容と、よく対応する。すなわち「四聖諦(ししょうたい)」「縁起」「五蘊六処」、および六処と構造を共有する「十二処十八界」は、諸部派の出家教団でともに中心的教理に位置づけられているのである。

【『初期仏教 ブッダの思想をたどる』馬場紀寿〈ばば・のりひさ〉(岩波新書、2018年)以下同】

 六処以降は私もよく知らず。特に知る必要もないと考える。ブッダが説いた教理は四諦・縁起・五蘊と覚えておけばよろしい。

 テキストの成立という点では、こうして重要な点が不明なままである。しかし、思想の成立という点では、かなりの程度はっきりとしたことが言える。諸部派、少なくとも上座部大寺派化地部法蔵部説一切有部大衆部の結集仏典で共通して伝承される「布施」「」「四聖諦」「縁起」「五蘊」「六処」などの教えは、初期仏教の時代、すなわち遅くとも紀元前後までに成立していたといえる。
 というのは、紀元後1-2世紀のガンダーラ写本にも、2世紀に訳出された漢訳仏典にも、1-2世紀に著されたアシュヴァゴーシャ(馬鳴)の作品にも、これらの教えは広く説かれているからである。(中略)
 以上の事実をふまえると、諸部派がブッダの教えとして共有した「布施」「戒」「四聖諦」「縁起」「五蘊」「六処」などの教えは、紀元前に、かつ大乗仏教の興起以前に存在していたことがわかる。これらが初期仏教で広く伝承されていた思想であることは確実である。初期仏教の思想における「主旋律」があったとすれば、これらを措いて他にない。

 ガンダーラ写本については以下の記述がある。

 1990年代中頃に始まるガンダーラ写本の発見は、近代仏教学の歴史のなかでも衝撃的なものだった。なぜなら、ネパールや中央アジアのサンスクリット写本の作られた年代が古くともせいぜい紀元後7-8世紀なのに対し、ガンダーラ写本は紀元前後から紀元後3-4世紀のものと考えられ、それまでの年代をはるかに遡るものだったからである。

 ウーム。もしも古い写本が見つかるたびに教理が変わるとしたら、仏教は既に宗教ではなく歴史なのだろう。「教え」が与えた余韻は長く響き渡り、人々の心を震わせたはずだと私は考える。

 もう一つは北伝仏教をどう捉えるかという問題がある。ブッダの教えからどんどん乖離して変形していった背景にはまず気候の違いがある。文化を支配するのもまた気候である。仏教東漸の歴史を思えば日本仏教までの道程は進歩史観さながらである。

 問われるべきは「悟ったかどうか」であり「悟りの中味」である。そう考えると禅宗を除いた鎌倉仏教は悟りから離れていったように見えてならない。

 今後あるべき日本仏教の姿としては鎌倉仏教から密教要素を取り除くか、あるいはルネサンス運動として部派仏教に回帰するのが望ましいと思う。もちろん「密教の正当化」という方向性もあるが、これだとヒンドゥーイズムに取り込まれてしまうだろう。

 鎌倉仏教が日本思想の精華であるのは確かだが、当時の情報量の少なさを思えば現代の仏教徒はもっともっと知的格闘を行う必要があろう。

2020-02-14

小部は苦行者文学で結集仏典に非ず/『初期仏教 ブッダの思想をたどる』馬場紀寿


『原始仏典』中村元
『上座部仏教の思想形成 ブッダからブッダゴーサへ』馬場紀寿

 ・小部は苦行者文学で結集仏典に非ず
 ・初期仏教の主旋律
 ・初期仏教は宗教の枠に収まらず

ブッダの教えを学ぶ

 このように五部派で一致して、結集仏典の「法」に位置づけられる四阿含(四部)が成立した後に、「小蔵」(または「小部」「小阿含」)という集成が「法」に追加されたということは、「小蔵」に収録されている仏典がもともと結集仏典に位置づけられていなかったことを示している。実際、この集成に収録されているのは、基本的に韻文仏典であり、経蔵の「四阿含」の諸経典が用いる定型表現を用いていない。まったく異なる様式のものなのである。
 以下に説明するように、韻文仏典のなかには紀元前に成立したものが含まれているが、元来、結集仏典としての権威をもたず、その外部で伝承されていたのである。
 このことは、かつて中村元らの仏教学者が想定していた、韻文仏典から散文仏典(三蔵)へ発展したという単線的な図式が成り立たないことを意味する。韻文仏典に三蔵の起源を見出すことには、方法論的な誤りがあるのである。

【『初期仏教 ブッダの思想をたどる』馬場紀寿〈ばば・のりひさ〉(岩波新書、2018年)以下同】

犀の角のようにただ独り歩め
ただ独り歩め/『日常語訳 新編 スッタニパータ ブッダの〈智恵の言葉〉』今枝由郎訳
『スッタニパータ[釈尊のことば]全現代語訳』荒牧典俊、本庄良文、榎本文雄訳

 馬場紀寿が「初期仏教」としたのは「原始仏教」に対する批判が込められている。更に小部(しょうぶ/パーリ五部のうち半分以上の量がある)は苦行者文学で結集(けつじゅう)仏典に非ずとの指摘は『ブッダのことば スッタニパータ』が「ブッダの言葉ではない」と断言したもので、少なからず中村元〈なかむら・はじめ〉に学んだ者であれば大地が揺らぐような衝撃を覚えるだろう。

 『犀角』も、『経集』と同様に「小部」に収録されている『義釈』において『到彼岸』とともに注釈されており、『経集』のなかでも成立の古い偈である。おそらく紀元後1世紀頃に書写されたと考えられるガンダーラ写本が見つかっているから、その成立は紀元前に遡ると考えてよい。
 しかし、これらの仏典には、仏教特有の語句がほとんどなく、むしろジャイナ教聖典や『マハーバーラタ』などの叙事詩と共通の詩や表現を多く含む。仏教の出家教団に言及することもなく、たとえば『犀角』は「犀の角のようにただ一人歩め」と繰り返す。多くの研究者が指摘してきたように、これらの仏典は、仏教外の苦行者文学を取り入れて成立したものである。

 古いから正しいわけではない。これは「小乗非仏説」といってよい。小部には「スッタニパータ」以外にも「ダンマパダ」「テーラガーター」「テーリーガーター」を含む。

「いやあ参ったなー」と思うのは私だけではないだろう。困惑のあまり不可知論に陥りそうだ。

 ま、言われてみれば「犀の角のようにただ一人歩め」というのは単なる姿勢であって教理ではない。「自ら反(かえり)みて縮(なお)くんば、千万人(せんまんにん)と雖(いえど)も吾(われ)往(ゆ)かん」(『孟子』公孫丑篇)と同工異曲だ。クリシュナムルティの仏教批判は正当なものであった(『ブッダとクリシュナムルティ 人間は変われるか?』J・クリシュナムルティ)。

2020-01-31

サンカーラ再考/『反応しない練習 あらゆる悩みが消えていくブッダの超・合理的な「考え方」』草薙龍瞬


『無(最高の状態)』鈴木祐
『マンガでわかる 仕事もプライベートもうまくいく 感情のしくみ』城ノ石ゆかり監修、今谷鉄柱作画
『ザ・メンタルモデル 痛みの分離から統合へ向かう人の進化のテクノロジー』由佐美加子、天外伺朗
『無意識がわかれば人生が変わる 「現実」は4つのメンタルモデルからつくり出される』前野隆司、由佐美加子
『ザ・メンタルモデル ワークブック 自分を「観る」から始まる生きやすさへのパラダイムシフト』由佐美加子、中村伸也
『ブッダは歩むブッダは語る ほんとうの釈尊の姿そして宗教のあり方を問う』友岡雅弥
『仏陀の真意』企志尚峰

 ・サンカーラ再考

『悩んで動けない人が一歩踏み出せる方法』くさなぎ龍瞬
『自分を許せば、ラクになる ブッダが教えてくれた心の守り方』草薙龍瞬
『手にとるようにNLPがわかる本』加藤聖龍

ブッダの教えを学ぶ
必読書リスト その五

 仏教には「心の反応は連鎖する」という発想があります。伝統的には“縁起論”(えんぎろん)と呼ばれていますが、心のからくりを理解するために、いっそう「本質」が浮かび上がるように表現すると、次のようになります。

 無明(むみょう/無理解)の状態において、心は反応する。刺激に触れたとき、心は反応して感情が、欲求が、妄想が結生(けっしょう)する。結生した思いに執着することで、ひとつの心の状態が生まれる。その心の状態が新たな反応を作り出す。その反応の結果、さまざまな苦悩が生まれる。     ――菩提樹下の縁起順観 ウダーナ

 つまり、(1)触れて、(2)反応して、(3)感情や欲求や妄想や記憶などの「強い反応のエネルギー」が生まれます。この強い反応を“結生”と表現することにします(元のパーリ語では「サンカーラ」sankhara。英語だと「心の形成」mental formaitionと訳されています)。これは「記憶に残る」「表情や行動に出てしまう」ような強い反応です。
 そして、これらの結生した反応が、新しい刺激に反応して、(4)同種の反応を作り出す、というサイクルです。(中略)
 この結生した反応は、新しい刺激に触れて作動する「地雷」みたいなものです。よくある「怒りっぽい」「やたら神経質」「落ち込みやすい」「対人恐怖症」といった気質の奥には、こうした“結生した反応”があったりするのです。

【『反応しない練習 あらゆる悩みが消えていくブッダの超・合理的な「考え方」』草薙龍瞬〈くさなぎ・りゅうしゅん〉(KADOKAWA、2015年)】

 あまり考えすぎると思弁に傾いてしまうので感じたことを書き残しておく。友岡本と併読することで後期仏教(大乗)と初期仏教の違いが浮き上がってくる。本書を読んでカテゴリーの「初期仏教」を「ブッダの教え」に変えた。仏教と表現すれば宗教としてキリスト教やイスラム教、ユダヤ教やヒンドゥー教と同列の扱いとなってしまう。ブッダの隔絶した理知を思えば、それは宗教というよりも「教え」とするのが相応しいと感じる。

日常の重力=サンカーラ(パーリ語)、サンスカーラ(サンスクリット語)/『ブッダは歩むブッダは語る ほんとうの釈尊の姿そして宗教のあり方を問う』友岡雅弥
真の無神論者/『ブッダは歩むブッダは語る ほんとうの釈尊の姿そして宗教のあり方を問う』友岡雅弥

 仏教用語のサンカーラ(Saṅkhāra)、サンスカーラとはパーリ語およびサンスクリット語に由来し、一緒になったもの、纏めるものという意味合いである。典型的には行(ぎょう)と訳される。

 一つ目の意味合いでは、サンカーラは一般的に「条件づけられたものごと」「因縁によって起こる現象、はたらき、作用」をさすのだが、とりわけ全ての精神的な気質を指すことが多い。これらは意志の結果として形成されるものであり、将来における意欲的な行動の発生原因であるため「意思による形成」と呼ばれる。

 二つ目の意味では、サンカーラは行蘊として業(カルマ)をさし、それらは縁起の原因とされる。

Wikipedia

 五蘊(ごうん)の項目には「行蘊(ぎょううん、巴: saṅkhāra, 梵: saṃskāra) - 意識を生じる意志作用。意志形成力。心がある方向に働くこと」とある。図がわかりやすいので拝借しよう。


三科」の図も参照せよ。認識作用の細分化であり、感覚に対する科学的アプローチである。幸不幸や喜怒哀楽のメカニズムを五つの段階で捉えたのが五蘊であり、これを五蘊仮和合(ごうんけわごう)と達観すれば無我である。

 受(感覚)→想(知覚)→行(指向作用)の流れは、感じて、快不快を想って、好き嫌いの態度を表明するという理解で構わないだろう。つまり行とは「スタイル」(石川九楊)に置き換えることが可能で業(ごう)の本質もここにある。

 我々が「生き方」と錯覚しているのは単なる五蘊の反応に過ぎないわけだ。それを個性とか自分らしさとか呼んだところで同じところをグルグル回っているだけの話だ。「因果はめぐる糸車、明日はわからぬ風車、臼で粉引く水車、我が家の家計は火の車、車は急には止まれない、すべて世の中堂々巡り」(『新八犬伝』)とはよく言ったものだ。

 私はかつて「同じ過ちを繰り返す」という意味で業(カルマ)を捉えていたのだがそうではないことに気づいた。私はいまだに昔買ったレコードをデジタル音源で聴いている。レコード(record)の「re」は「何かを取り戻す、行って帰ってくる」(「レコード」の原義)という意味だから繰り返しを表す。単純な訳だと「再」である。リフレイン(refrain)、リプレイ(replay)などの言葉は見事なまでに業を指し示している。

 つまり「快」を繰り返そうとする「行」にサンカーラの正体があるのだろう。その基盤にあるのが「自我」なのだ。我々は色や形の異なったネズミ車のようなものだ。繰り返しに対する強迫観念が過去世・来世の物語を生むのは自然なことである。自我は死後にまで延長しようと目論む。とはいえ石に名前を刻んだり(墓)、名誉などで名を残そうとしたりするのは、逆説的ではあるが死後の存在を信じていないためだろう。

 サンカーラから離れた瞬間に過去から自由になった現在が現れるはずだ。早速試してみよう。

2020-01-26

過去世と来世/『死後はどうなるの?』アルボムッレ・スマナサーラ


『出家の覚悟 日本を救う仏教からのアプローチ』アルボムッレ・スマナサーラ、南直哉
『希望のしくみ』アルボムッレ・スマナサーラ、養老孟司

 ・過去世と来世

『沙門果経 仏道を歩む人は瞬時に幸福になる』アルボムッレ・スマナサーラ
『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ
『怒らないこと2 役立つ初期仏教法話11』アルボムッレ・スマナサーラ
『心は病気 役立つ初期仏教法話2』アルボムッレ・スマナサーラ
『苦しみをなくすこと 役立つ初期仏教法話3』アルボムッレ・スマナサーラ

 インドの社会では宗教に励む人が精神的な修行をして、認識の範囲をものすごく広げてみたのです。居ながらにしてその場所にないものを見たり聞いたりする能力を開発して、認識の次元を伸ばしたのです。現代風に言えば超能力です。普通の人間の能力を超越したのです。それは修行によって、訓練によって得たものです。そういう人々が初めて、死後の世界、というよりは過去の世界について語り始めた。それはほとんど自分自身の過去のことなのです。「自分は過去世でこんなふうに生きていました」と。そこで過去世があるのだから、推測によって未来世もあるだろうと言い出したのです。

【『死後はどうなるの?』アルボムッレ・スマナサーラ(国書刊行会、2005年/角川文庫、2012年)以下同】

 この件(くだり)を読んで私はスマナサーラに疑問を抱き、南直哉〈みなみ・じきさい〉との対談を読んで性根を垣間見た。もともと彼の声が好きになれなかった。ティク・ナット・ハンは見るからに誠実だがスマナサーラには隠しきれない胡散臭さがある。

 認識は脳で行われる。「居ながらにしてその場所にないものを見たり聞いたりする能力」は確かにある。夢は目をつぶっているのに「見る」ことができる。幻聴・幻覚も同様だ。イマジネーションとは像を想い描く力である。ユヴァル・ノア・ハラリはその像が実は「虚構」であると指摘した(『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』)。認知は歪み記憶は錯誤する。事実は脳によって解釈される。ヒトは幻想を生きる動物なのだ。

 お釈迦さまのことばを伝えているパーリ経典では経典を5種類に分けて編集していて、その第一は長部経典(ディーガニカーヤ)といいます。その町歩経典に収められた最初のお経は『梵網経(ぼんもうきょう/ブラフマジャーラスッタ)』です。この長い経典のなかで、お釈迦さまは古代インドにあったとされる62種類の宗教哲学を分析しています。その経典では62種類の宗教哲学を大きく分けて、過去を超能力で見て宗教哲学を論じる人々と、未来を考えて宗教哲学を論じる人々との二つのカテゴリーに分類してあります。過去を見て宗教哲学をつくったものだけで44種類あります。面白いことに、お釈迦さまはこの62種類の教えが正しいとは言わないのですが、頭から間違っているとも言ってはいません。
 お釈迦さまは、行者たちがさまざまな行をして、超能力を得て過去を観察して、このような教えを話しているのだとおっしゃいます。一度も「これはインチキだ」とは言っていないのです。確かに彼らは何劫年(こうねん)も自分の過去を見るのだとおっしゃいます。(中略)お釈迦さまは、彼らが発見したものが正しいと認めるけれど、それを哲学的に語る部分だけを批判します。(中略)
 お釈迦さまの批判は少々ややこしいのです。仙人たちの超能力はすべて認めたうえで、超能力から導き出した結論だけはよくないと言う。

 梵網経の六十二見はティク・ナット・ハン著『小説ブッダ いにしえの道、白い雲』で知った。六十二見 - 古今宗教研究所のページが参考になる。

 過去世については『スッタニパータ』に「六四七 前世の生涯を知り、また天上と地獄とを見、生存を減し尽くすに至った人、──かれをわたくしは〈バラモン〉と呼ぶ」とある。ただし直前では「六三四 現世を望まず、来世をも望まず、欲求もなくて、とらわれのない人、──かれをわたくしはバラモンと呼ぶ」とも言っている。形而上学的な疑問には無記で臨むのが正しい。厳密に読めば「前世の生涯を知り」とはあるが、「前世が存在する」とまでは言っていない。カーストは過去世をもって現世を支配するシステムである。つまり与奪(よだつ)の「与える」立場(容与)で教えたものと私は考える。過去世と昨日に大差はない。

 私はかつて仏教徒であった。現在は違う。ブッダの古い言葉は真理への梯子となるのは確かだが、訓詁注釈の罠にはまるとブッダが指し示すものが見えなくなる。スマナサーラの言葉はよき参考書であるが全てを鵜呑みにするつもりはさらさらない。

 死者を仏と呼ぶのは案外正しいのかもしれない。死の瞬間に脳は永遠を体験する(『スピリチュアリズム』苫米地英人)。一生が走馬灯のようにありありと見え、身口意(しんくい)の三業(さんごう)まで感じることだろう。そこでたぶん凡夫は深い悔悟の中で悟りに至るのだ。その後はない。深い眠りが永遠に続く。

2020-01-20

一切皆苦/『苦しみをなくすこと 役立つ初期仏教法話3』アルボムッレ・スマナサーラ


『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ
『怒らないこと2 役立つ初期仏教法話11』アルボムッレ・スマナサーラ
『心は病気 役立つ初期仏教法話2』アルボムッレ・スマナサーラ

 ・一切皆苦

『無(最高の状態)』鈴木祐

 では、仏教が生きることを研究して出た答えはなんでしょうか?
 それが「苦」という答えなのです。「生きることはとても苦しい」ということです。
 ヨーロッパ人は、形而上学的な立場で生きることについて、命について、いろいろ考えています。一方、仏教はとても具体的に合理的にこの問題を考えます。どちらかというと、経験論に基づいて生きるとは何かと発見するのです。それで「生きるとは感じることである」と語っています。それは感覚のことです。感覚があることが生きることです。物事を感じたり考えたりすることは生きることです。人は「感じては動く、感じては動く」ということです。
 ではなぜ動くのでしょうか? それは、感じることが苦しいからです。
 ずっと立っていると苦しくなるから歩く。ずっと歩いていると苦しくなるから座る。ずっと座っていると苦しくなるから寝る。ずっと寝ていたら苦しくなるからまた起きる。お腹が空くと苦しくなるから食べる。食べると苦しくなるから止める……。これが生きることなのです。息を吸うだけだと苦しいのです。だから吐くのです。吐いたら苦しいから吸うのです。
 このように感覚はいつでも「苦」なのです。
 だから必死に動いています。生きることは「動き(モーション)」でもあります。こう考えると、我々が思っている「生きる」という単語は曖昧で正しくありませんね。

【『苦しみをなくすこと 役立つ初期仏教法話3』アルボムッレ・スマナサーラ(サンガ新書、2007年)】

 スマサーラを初めて読んだのは2012年のこと。私が受けた衝撃は大きい。日本仏教の欺瞞が暴かれたような心地がしたものだ。クリシュナムルティを知ったのが2009年で仏教に対する熱はかなり冷めていた。しかしながら仏教とブッダの教えは違った。南伝仏教(上座部、テーラワーダ)は生き生きとしたブッダの言葉を伝える。

 日本の仏教界が私ほどの衝撃を受けたかどうかは知らぬが、今や仏教系信徒でスマナサーラを読まぬ者は田舎者(←差別用語)と蔑まれても致し方ない。仮にもブッダを師と思うのであれば胸襟を開いて傾聴すべきだ。

 スマナサーラ本を読んで私は初めて四法印の「一切皆苦」(いっさいかいく)がわかった。しかもパーリ語のドゥッカに「不完全」というニュアンスがあるとすれば、それこそ「満たされない」状態を示しているのであろう。苦と苦の合間を我々は快楽と錯覚するのだ。夢や希望が苦からの逃避であるケースがあまりにも多い。

 生の実相が苦であることは病院や老人ホームに行けば誰もが理解できよう。誰の役にも立てなくなった時、人は絶望を生きるしかない。

 現実の苦に対する無自覚こそが現代人の不幸なのだろう。だからこそ病んで死を宣告された時に命の尊さを知り、残された時間を嘆くのだ。我々は漫然と「永久に生きられるかのように生きている」(セネカ)。

 苦は欲望という油を注がれて深刻の度合いを増す。日蓮は「苦をば苦とさとり、楽をば楽とひらき、苦楽ともに思ひ合はせて、南無妙法蓮華経とうちとなへゐさせ給へ。これあに自受法楽にあらずや」(「八風抄」真蹟は断簡のみ)と書いているがそれは自受法楽ではない。わかりやすい教えには落とし穴がある。

 苦しみをなくすためには欲望の火を消す他ない。これを涅槃(ねはん)とは申すなり。(amazonの価格が1880円になっているのはどうしたことか?)

2019-12-10

ブッダが悟った究極の真理/『ゴエンカ氏のヴィパッサナー瞑想入門 豊かな人生の技法』ウィリアム・ハート


『マインドフルネス瞑想入門 1日10分で自分を浄化する方法』吉田昌生
『マインドフルネス 気づきの瞑想』バンテ・H・グナラタナ

 ・ブッダが悟った究極の真理

『呼吸による癒し 実践ヴィパッサナー瞑想』ラリー・ローゼンバーグ
『「瞑想」から「明想」へ 真実の自分を発見する旅の終わり』山本清次

 ブッダはからだを観察しながら、心も観察した。そして、心が意識(ヴィンニャーナ)、知覚(サンニャー)、感覚(ヴェーダナー)、反応(サンカーラ)という、大きくわけて四つのプロセスから成り立っていることを発見した。

【『ゴエンカ氏のヴィパッサナー瞑想入門 豊かな人生の技法』ウィリアム・ハート:日本ヴィパッサナー協会監修、太田陽太郎訳(春秋社、1999年)以下同】

ホモ・デウス』の扉でユヴァル・ノア・ハラリが「重要なことを愛情をもって教えてくれた恩師、S・N・ゴエンカ(1924~2013)に」と献辞を捧げている。私はたまたま3年前に本書を読んでいた。ハラリがヴィパッサナー瞑想を行っていることを知ったのもつい最近である。ユダヤ人とは人種概念ではなくユダヤ教信者を指す(厳密には違うが→ユダヤ教~ユダヤ人とユダヤ教~:イスラエル・ユダヤ情報バンク)。寡聞にして知らなかったのだがイスラエルのユダヤ教人口は75.4%であるという(2011年)。つまりユダヤ人ではない人々が存在する(※母親がユダヤ人であれば子供はユダヤ人と認められる。父親だけの場合は不可)。20%はアラブ系らしいがパレスチナ人なのかもしれない。ひょっとするとハラリは内面において既にユダヤ人ではない可能性もある。

 原題は『The Art of Living: Vipassana Meditation: As Taught by S. N. Goenka』(1987年)である。アート・オブ・リビングは通常「生の技法」と訳される。日本語の技はテクニックに近いイメージがあるので「生きる業(わざ)」としてもいいのだが、今度は業(わざ)が業(ごう)につながってしまう。とはいえ「生の芸術」だと直訳すぎるし、「生の嗜(たしな)み」だと控えめすぎる。ここは思い切って「洗練された生き方」でどうだ? 個人的には「流れるように生きる」と受けとめている。

 この後、「意識は心のアンテナ」「知覚は、認識をする」「データ識別~価値判断~快・不快の感覚」「心は好き嫌いという形で反応する」というプロセスが示される。認識を深めたのが唯識(ゆいしき)だ。


 五つの感覚器官のどこでなにを受信しても、それはかならず、意識、知覚、感覚、反応というプロセスを通ることになる。この四つの心のはたらきは、物質をつくる微粒子よりスピードが速いという。心がなんらかの対象物に接触すると、その瞬間、電光石火のごとく四つのプロセスが走る。つぎの瞬間、また接触が起こり、同じようなプロセスが走る。これをつぎつぎにくりかえしてゆくのである。そのスピードがあまりにも速いため、人はそのことに気がつかない。ある反応が長時間くりかえされて強化されたとき、はじめてそれが意識のなかにあらわれ、気がつくのである。
 人間をこのように説明してゆくと、その実体というよりも、その虚体とでもいうべき事実におどろかされる。わたしたちは、西洋人であれ、東洋人であれ、キリスト教徒、ユダヤ教徒、イスラム教徒、ヒンドゥー教徒、仏教徒、無神論者、そのほかどんな人間であれ、だれもが自分のなかに「わたし」という一貫したアイデンティティー(主体)を持ち、それを生来信じて疑わない。10年前の人間が本質的には今日なお同じ人間であり、10年後も同じ人間であり、さらに死んだあとの来世も同じ人間でありつづけるだろう、とばくぜんと仮定して生きている。どのような人生観、哲学、信仰を持っていたとしても、実際はめいめいが「過去の自分、いまの自分、将来の自分」というものを中心にすえて生きているのである。
 ブッダはこのアイデンティティーという直観的な概念に挑戦した。だからといって、あらたに独自の概念をつくり、理論に理論をぶつけたわけではない。ブッダは何度もこう念を押している。自分は意見を述べているのではない。実際に体験した事実、だれもが体験できる道、それを述べているにすぎない、と。「さとりを開いた者は、すべての理論を放棄する。なぜなら彼は、物質、感覚、知覚、反応、意識、それらの本質およびその生成と止滅を見きわめているからである」外見はどうであれ、人間は一つ一つの密接に関係した減少が連なって起こる存在でしかない。ブッダはそのことに気づいたのである。個々の減少はその直前の現象の結果であり、直前の現象のあと間髪をいれずに起こる。酷似した現象が切れ目なく起こると、連続したもの、一つのアイデンティティーを持つもののように見える。しかし、それはうわべの真理にすぎず、究極の真理ではない。
 川とわたしたちが呼ぶものは、実はたえまない水の流れである。ローソクの火は止まっているように見えるが、よく見るとローソクの芯から生じた炎がつぎからつぎへと燃えている。一つの炎が燃え、その瞬間またつぎの炎が燃える。一瞬一瞬、炎が燃えつづけている。電球の光も川のように連続した流れである。フィラメントのなかの高周波によって生じるエネルギーの流れなのである。しかし、わたしたちはいちいちそこまで考えない。一瞬一瞬、過去の産物として新しいものが生まれ、つぎの瞬間、またべつの新しいものが生まれる。この現象はとてつもないスピードで切れ目なく起こり、わたしたちには感じ取る力がない。このプロセスのある一瞬をとらえて、その一瞬の現象が直前の現象と同じだともいえないし、また同じでないともいえない。だが、いずれにしろプロセスは進行してゆく。
 同様に人間は完成品でも不変の存在でもなく、一瞬一瞬、休みなく流れつづけるプロセスにすぎない、とブッダはさとった。ほんとうに「存在している」ものなどなにもない。ただ現象のみが起こりつづけている。ひたすら何かに「なる」というプロセスが起こっているにすぎないのである。(中略)より深いレベルの現実を見れば、生物、無生物を問わず、宇宙全体がたえずなにかに「なる」というプロセスの集まりであり、生まれては消える現象なのである。(中略)
 これこそが究極の真理である。だれもがいちばん関心を持っている「自分」というものの現実である。これこそが、わたしたちが巻き込まれた世界のからくりだ。この現実を自分でじかに体験し、正しく理解することができたなら、苦から抜け出すいとぐちを見つけることができるだろう。

川はどこにあるのか?
現象に関する覚え書き
湯殿川を眺める

死別を悲しむ人々~クリシュナムルティの指摘」は自我という現象が川そのものであり、思い出(記憶)に潜む六道輪廻まで明らかにしている。

 アントニオ・ダマシオ著『進化の意外な順序』を読めなくなるのも当然だろう。現代社会のホメオスタシスを成り立たせているのは知識と技術であり、我々は言葉という幻想を共有しながら進化に進化を遂げて地球環境を破壊するまでに至った。

「サティア・ナラヤン・ゴエンカ(英: Satya Narayan Goenka、1924年1月30日 - 2013年9月29日)は、ミャンマー出身のヴィパッサナー瞑想の在家指導者。レディ・サヤド系の瞑想法の伝統を、その孫弟子にあたるサヤジ・ウ・バ・キンから受け継ぎ、欧米・世界に普及させた」(Wikipedia)。ほほう。在家指導者なのね。現代のミリンダ王の一人か。

 これは簡単そうで実に難しい作業である。一言でいえば「映画を見るように現実を見ることができるかどうか」である。例えばあなたのことを誰かが馬鹿にしたとする。「何だコラ、てめえは喧嘩を売ってんのか?」と応じるのが私の常であるが、ここで「馬鹿にする人がいる」とただ見つめるのが瞑想である。瞑想とは観察なのだ。殴られた時に「殴る人がいる」と観察するのはかなり難しい。病苦も同様で「苦しさ」を客観的に見つめる視点が求められる。見るためには距離が必要である。この距離こそが「私という自我から離れる」ことを意味する。

 苦楽に永続性はない。喜怒哀楽は刻々と流れ去る。確かに存在するのは現在だけだが、今この一瞬は次々と過去のものとなってゆく。

 死を前にして苦しむことは多い。むしろありふれた光景と言ってよい。なぜ苦しむのであろうか? それは苦こそが生の本質であるからだ。登山は山頂が最も苦しいし、長距離走も短距離走もゴールが一番苦しい。我々は苦しむために生きているのだ。苦しみが薄いと味気ない人生となってしまう。そうであれば自ら勇んで走り出すことだ。ただ独り己(おの)が道を。

2019-11-16

イスラエル人歴史学者の恐るべき仏教理解/『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』ユヴァル・ノア・ハラリ


物語の本質~青木勇気『「物語」とは何であるか』への応答
『ものぐさ精神分析』岸田秀
『続 ものぐさ精神分析』岸田秀
『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』ジュリアン・ジェインズ
『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』トール・ノーレットランダーシュ

 ・読書日記
 ・目次
 ・マクロ歴史学
 ・認知革命~虚構を語り信じる能力
 ・イスラエル人歴史学者の恐るべき仏教理解

・『ハキリアリ 農業を営む奇跡の生物』バート・ヘルドブラー、エドワード・O・ウィルソン
『身体感覚で『論語』を読みなおす。 古代中国の文字から』安田登
『文化がヒトを進化させた 人類の繁栄と〈文化-遺伝子革命〉』ジョセフ・ヘンリック
『家畜化という進化 人間はいかに動物を変えたか』リチャード・C・フランシス
『人類史のなかの定住革命』西田正規
『反穀物の人類史 国家誕生のディープヒストリー』ジェームズ・C・スコット
『文明が不幸をもたらす 病んだ社会の起源』クリストファー・ライアン
『ポスト・ヒューマン誕生 コンピュータが人類の知性を超えるとき』レイ・カーツワイル
『AIは人類を駆逐するのか? 自律(オートノミー)世界の到来』太田裕朗
『Beyond Human 超人類の時代へ 今、医療テクノロジーの最先端で』イブ・ヘロルド
『ホモ・デウス テクノロジーとサピエンスの未来』ユヴァル・ノア・ハラリ
『21 Lessons 21世紀の人類のための21の思考』ユヴァル・ノア・ハラリ
『われわれは仮想世界を生きている AI社会のその先の未来を描く「シミュレーション仮説」』リズワン・バーク

世界史の教科書
必読書リストその五

 以上のような立場から、宗教や哲学の多くは、幸福に対して自由主義とはまったく異なる探求方法をとってきた。なかでもとくに興味深いのが、仏教の立場だ。仏教はおそらく、人間の奉じる他のどんな信条と比べても、幸福の問題を重要視していると考えられる。2500年にわたって、仏教は幸福の本質と根源について、体系的に研究してきた。(中略)
 幸福に対する生物学的な探求方法から得られた基本的見解を、仏教も受け容れている。すなわち、幸せは外の世界の出来事ではなく身体の内で起こっている過程に起因するという見識だ。だが仏教は、この共通の見識を出発点としながらも、まったく異なる結論に行き着く。
 仏教によれば、たいていの人は快い感情を幸福とし、不快な感情を苦痛と考えるという。その結果、自分の感情に重要性を認め、ますます多くの喜びを経験することを渇愛し、苦痛を避けるようになる。脚を掻くことであれ、椅子で少しもじもじすることであれ、世界大戦を行なうことであれ、生涯のうちに何をしようと、私たちはただ快い感情を得ようとしているにすぎない。
 だが仏教によれば、そこには問題があるという。私たちの感情は、海の波のように刻一刻と変化する、束の間の心の揺らぎにすぎない。5分前に喜びや人生の意義を感じていても、今はそうした感情は消え去り、悲しくなって意気消沈しているかもしれない。だから快い感情を経験したければ、たえずそれを追い求めるとともに、不快な感情を追い払わなければならない。だが、仮にそれに成功したとしても、ただちに一からやり直さなければならず、自分の苦労に対する永続的な報いはけっして得られない。(中略)
 喜びを経験しているときにさえ、心は満足できない。なぜなら心は、この感情がすぐに消えてしまうことを恐れると同時に、この感情が持続し、強まることを渇愛するからだ。
 人間は、あれやこれやのはかない感情を経験したときではなく、自分の感情はすべて束の間のものであることを理解し、そうした感情を渇愛することをやめたときに初めて、苦しみから解放される。それが仏教で瞑想の修練を積む目的だ。(中略)
 このような考え方は、現代の自由主義の文化とはかけ離れているため、仏教の洞察に初めて接した西洋のニューエイジ運動は、それを自由主義の文脈に置き換え、その内容を一転させてしまった。ニューエイジの諸カルトは、しばしばこう主張する。「幸せかどうかは、外部の条件によって決まるのではない。心の中で何を感じるかによってのみ決まるのだ。富や地位のような外部の成果を追い求めるのをやめ、内なる感情に耳を傾けるべきなのだ」。簡潔に言えば、「幸せは身の内に発す」ということだ。これこそまさに生物学者の主張だが、ブッダの教えとはほぼ正反対だと言える。
 幸福が外部の条件とは無関係であるという点については、ブッダも現代の生物学やニューエイジ運動と意見を同じくしていた。とはいえ、ブッダの洞察のうち、より重要性が高く、はるかに深遠なのは、真の幸福とは私たちの内なる感情とも無関係であるというものだ。事実、自分の感情に重きを置くほど、私たちはそうした感情をいっそう強く渇愛するようになり、苦しみも増す。ブッダが教え諭したのは、外部の成果の追求のみならず、内なる感情の追求をもやめることだった。

【『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』ユヴァル・ノア・ハラリ:柴田裕之〈しばた・やすし〉訳(河出書房新社、2016年)】

 読みながら思わずタップした。少なからず30年ほど仏教を学んできたつもりであったが、私のやってきたことは他人の言葉をただなぞっていただけであったと思い知らされた。変質した日本仏教(特にマントラ系)の信徒であれば理解することさえ難しいだろう。

 たった今、Wikipediaを見たところハラリはヴィパッサナー瞑想の実践者らしい。そりゃそうだろう。歴史学者の知識だけで推し量れるほど仏教の世界は浅くない。

 ブッダは繰り返し「捨てよ」と説いた。不幸の原因である欲望や執着の虜となっている我々が一歩前進するためには自ら「つかんで放す」行動が必要となる。しかしながら実態としては、ただ「放す」「落とす」というニュアンスの方が正確だろう。肩に積もった雪を振り払うように執着を払い落とすことができれば苦悩は行き場を失う。

 本書は「21世紀の古典」であり、学問的常識に位置づけられる作品となるに違いない。

2019-10-23

洪水/『ブッダの 真理のことば 感興のことば』中村元


『日常語訳 ダンマパダ ブッダの〈真理の言葉〉』今枝由郎訳

 ・競争と搾取
 ・洪水

『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一話』アルボムッレ・スマナサーラ
『原訳「法句経」(ダンマパダ)一日一悟』アルボムッレ・スマナサーラ
・『法句経』友松圓諦
・『法句経講義』友松圓諦
・『阿含経典』増谷文雄編訳
・『『ダンマパダ』全詩解説 仏祖に学ぶひとすじの道』片山一良
・『パーリ語仏典『ダンマパダ』 こころの清流を求めて』ウ・ウィッジャーナンダ大長老監修、北嶋泰観訳注→ダンマパダ(法句経)を学ぶ会
『日常語訳 新編 スッタニパータ ブッダの〈智恵の言葉〉』今枝由郎訳
『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳
『スッタニパータ [釈尊のことば] 全現代語訳』荒牧典俊、本庄良文、榎本文雄訳
『原訳「スッタ・ニパータ」蛇の章』アルボムッレ・スマナサーラ
『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ
『慈経 ブッダの「慈しみ」は愛を越える』アルボムッレ・スマナサーラ
『怒りの無条件降伏 中部教典『ノコギリのたとえ』を読む』アルボムッレ・スマナサーラ
『小説ブッダ いにしえの道、白い雲』ティク・ナット・ハン
『ブッダが説いたこと』ワールポラ・ラーフラ
・『ブッダとクリシュナムルティ 人間は変われるか?』J・クリシュナムルティ

ブッダの教えを学ぶ

四六 この身は泡沫(うたかた)のごとくであると知り、かげろうのようなはかない本性のものであると、さとったならば、悪魔の花の矢を断ち切って、死王に見られないところへ行くであろう。
四七 花を摘(つ)むのに夢中になっている人を、死がさらって行くように、眠っている村を、洪水が押し流して行くように、――
四八 花を摘(つ)むのに夢中になっている人が、未だ望みを果さないうちに、死神がかれを征服する。(「真理のことば」〈ダンマパダ〉第四章 花にちなんで)

【『ブッダの 真理のことば 感興のことば』中村元〈なかむら・はじめ〉訳(岩波文庫、1978年/ワイド版岩波文庫、1991年)以下同】

 東日本大震災を経験してそれまでとは全く異なった衝撃を受けた一文である。その後も自然災害が止むことはなかった。平成から令和に変わっても容赦なく台風が襲い掛かった。21の河川が氾濫し、堤防の決壊によって浸水した土地は2万5000ヘクタールに及ぶ。今日現在で70人が死亡、行方不明者が12人となっている。

 生きとし生けるものは必ず死ぬ。にもかかわらず災害死は生の基盤を揺るがす恐怖を与える。戦争やメガデス(大量虐殺)と同様に。

 本能なのか。それとも感情なのか。徒死を嫌い、無駄死にを恐れ、酔生夢死を忌(い)む裏側には「掛け替えのない人生」という誰もが信じる虚構が存在する。

 このテキストは「感興のことば」にも登場する。

一四 花を摘(つ)むのに夢中になっている人を、死がさらって行くように、――眠っている村を、洪水が押し流していくように――
一五 花を摘(つ)むのに夢中になっている人が、未だ望みを果さないうちに、死神がかれを征服する。
一六 花を摘(つ)むのに夢中になっている人が、まだ財産が集まらないうちに、死神がかれを征服する。(「感興のことば」〈ウダーナヴァルガ〉第一八章 花)

 花を摘む幸福が生を見失わせるのか。功成り名を遂げた人も、市井に埋没する人も、不遇をかこつ人も死が押し流してゆく。目を開いて周囲を見てみよう。死はありふれている。死はそこここに転がっている。中高年ともなれば親が死に、兄弟が死に、そして友人が次々と死んでゆくことにたじろぐ。だが私が見るのは他人の死だ。果たして「自分が死ぬ」という当たり前の現実を真剣に受け止めている人は少ない。

 人生の総決算が死ぬ姿にあると考えれば、死に方を問う人々が出てきて当然だ。そんな彼らが編み出した一つの解決法がたぶん「殉教」だったのだろう。“大義のために死ぬ”ことは誰が見ても絵になる。それまでの平凡な人生が突如としてドラマチックな色彩を帯びる。キリスト教宣教師は「発見の時代」(Age of Discovery/大航海時代)から近代に至るまで殉教の旗を掲げて世界を駆け巡った。

 ところがそのキリスト教を排除してきた日本にはもっと凄い死に方があった。切腹である。自らの死を苦痛の中で決断する行為は人間の意志の極限に位置するものだ。武士という存在は刀を自他に突きつける中で絶妙なバランスを社会にもたらした。その精神は大東亜戦争の特攻隊にまで引き継がれる。

「感興のことば」は「無常」の章から始まる。ここで説かれる無常とは死を意味する。諸行無常とは「何をやっても(死ぬから)無駄」と言っているようにしか思えない。真実は単純の中にある。人々が思う幸福はきっと不幸の因なのだろう。幸福は真理と懸け離れている。それは単なる欲望に過ぎない。「洪水」とは煩悩の濁流を示している。

 河海の洪水を恐れても、煩悩の洪水を何とも思わぬ己をじっと見つめる。

ブッダの真理のことば・感興のことば (岩波文庫)

岩波書店
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2017-08-23

テーラワーダ仏教の歩み寄りを拒むクリシュナムルティ/『ブッダとクリシュナムルティ 人間は変われるか?』J・クリシュナムルティ


『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ
『ブッダが説いたこと』ワールポラ・ラーフラ

 ・テーラワーダ仏教の歩み寄りを拒むクリシュナムルティ

クリシュナムルティ、瞑想を語る

ジドゥ・クリシュナムルティ(Jiddu Krishnamurti)著作リスト

仏教学者ワルポラ・ラーフラ、イルムガルト・シュレーゲル、及びデヴィッド・ボーム教授その他との第一の対話
          1978年6月22日、ブロックウッド・パークにて

ワルポラ・ラーフラ(以下WR):わたしは若いころからずっと、あなたの教え(と言ってよければ、ですが)を追い続けてきました。ほとんどの著書は多大な深い関心を持って読ませていただきましたし、長いあいだ、このような対話ができたらと願っていました。
 ブッダの教えをそれなりによく知っている者にしてみれば、あなたの教えはとても親近感があって、新奇なものではありません。ブッダが2500年前に教えたことを、あなたは今日、新しい言葉遣い、新しいスタイル、新しい姿で教えている。あなたの本を読んでいるとき、わたしはよく、あなたの言葉とブッダの言葉を比較して余白に書き込みをします。ときには1章あるいは偈をまるごと引用したりもします。それもブッダ自身の教えだけでなく、のちの時代の仏教哲学者の思想も含めて、です。それらについてもまた、あなたは同じやり方で取り上げておられるからです。あなたがそのような教えや思想を、どんなに見事に美しく表現しているかを思うと、驚くしかありません。

【『ブッダとクリシュナムルティ 人間は変われるか?』J・クリシュナムルティ:正田大観〈しょうだ・だいかん〉・吉田利子訳、大野純一監訳(コスモス・ライブラリー、2016年)以下同】

『ブッダが説いたこと』が2月17日で本書が3月1日の刊行となっており、微妙なタイミングのせいかラーフラ(Walpola Rahula)の日本語表記が異なる。対談は5回に渡っており、後半は1970~80年代の講話を収録している。

 ワルポラ・ラーフラは延々とクリシュナムルティを称え、ブッダとの共通点を示す。クリシュナムルティはわずか一言で応じる。

クリシュナムルティ(以下K):失礼でなければ、お尋ねしてもいいでしょうか。あなたはなぜ、対比するのですか?

 まさにけんもほろろ。そりゃないよなー、という対応である。最後までこんな調子で話が噛み合わない。実は以前、対談の動画を見ており私は次のように呟いた。


 ま、英語がわからないのでご容赦願おう。

 クリシュナムルティはブッダの権威を否定し、テーラワーダ仏教の伝統と知識を否定し、修行の時間性をも否定する。阿羅漢(アルハット)についてはこう述べる。

K:それ(※自我のかけらもない状態)は可能なのでしょうか? わたしは可能だとか可能でないとか言っているのではありませんよ。わたしたちは探究しているのです。信じる信じないではなく、探索や発見を通じて、わたしたちは前に進んでいるのです。

「信じる信じないではなく」の一言が鍵となる。クリシュナムルティは仏教を信じ、仏教の知識を通して自分が見られることを嫌ったのだろう。そこには「真の出会い」がない。特定のイメージが独り歩きしてしまう。

 正直に申し上げると期待外れであった。そこで「自分の勝手な期待」に気づくのだ。クリシュナムルティの真意は「私を権威に祭り上げてはならない」ということに尽きるのだろう。



2017-05-20

認知革命~虚構を語り信じる能力/『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』ユヴァル・ノア・ハラリ


物語の本質~青木勇気『「物語」とは何であるか』への応答
『ものぐさ精神分析』岸田秀
『続 ものぐさ精神分析』岸田秀
『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』ジュリアン・ジェインズ
『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』トール・ノーレットランダーシュ

 ・読書日記
 ・目次
 ・マクロ歴史学
 ・認知革命~虚構を語り信じる能力
 ・イスラエル人歴史学者の恐るべき仏教理解

・『ハキリアリ 農業を営む奇跡の生物』バート・ヘルドブラー、エドワード・O・ウィルソン
『身体感覚で『論語』を読みなおす。 古代中国の文字から』安田登
『文化がヒトを進化させた 人類の繁栄と〈文化-遺伝子革命〉』ジョセフ・ヘンリック
『家畜化という進化 人間はいかに動物を変えたか』リチャード・C・フランシス
『人類史のなかの定住革命』西田正規
『反穀物の人類史 国家誕生のディープヒストリー』ジェームズ・C・スコット
『文明が不幸をもたらす 病んだ社会の起源』クリストファー・ライアン
『ポスト・ヒューマン誕生 コンピュータが人類の知性を超えるとき』レイ・カーツワイル
『AIは人類を駆逐するのか? 自律(オートノミー)世界の到来』太田裕朗
『Beyond Human 超人類の時代へ 今、医療テクノロジーの最先端で』イブ・ヘロルド
『ホモ・デウス テクノロジーとサピエンスの未来』ユヴァル・ノア・ハラリ
『21 Lessons 21世紀の人類のための21の思考』ユヴァル・ノア・ハラリ
『われわれは仮想世界を生きている AI社会のその先の未来を描く「シミュレーション仮説」』リズワン・バーク

世界史の教科書
必読書リストその五

 今からおよそ135億年前、いわゆる「ビッグバン」によって、物質、エネルギー、時間、空間が誕生した。私たちの宇宙の根本を成すこれらの要素の物語を「物理学」という。
 物質とエネルギーは、この世に現れてから30万年ほど後に融合し始め、原子と呼ばれる複雑な構造体を成し、やがてその原子が統合して分子ができた。原子と分子とそれらの相互作用の物語を「化学」という。
 およそ38億年前、地球と呼ばれる惑星の上で特定の分子が結合し、格別大きく入り組んだ構造体、すなわち有機体(生物)を形作った。有機体の物語を「生物学」という。
 そしておよそ7万年前、ホモ・サピエンスという種に属する生き物が、なおさら精巧な構造体、すなわち文化を形成し始めた。そうした人間文化のその後の発展を「歴史」という。
 歴史の道筋は、三つの重要な革命が決めた。約7万年前に歴史を始動させた認知革命、約1万2000年前に歴史の流れを加速させた農業革命、そしてわずか500年前に始まった科学革命だ。三つ目の科学革命は、歴史に終止符を打ち、何かまったく異なる展開を引き起こす可能性が十分ある。本書ではこれら三つの革命が、人類をはじめ、この地上の生きとし生けるものにどのような影響を与えてきたのかという物語を綴っていく。

【『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』(上下)ユヴァル・ノア・ハラリ:柴田裕之〈しばた・やすし〉訳(河出書房新社、2016年)以下同】

 高い視点が抽象度を上げる(『心の操縦術 真実のリーダーとマインドオペレーション』苫米地英人)。しゃがんだ位置から見える世界と高層ビルから見下ろす世界は異なる。宇宙空間から俯瞰すれば全くの別世界が開ける。

 約7万年前から約3万年前にかけて、人類は舟やランプ、弓矢、針(暖かい服を縫うのに不可欠)を発明した。芸術と呼んで差し支えない最初の品々も、この時期にさかのぼるし、宗教や交易、社会的階層化の最初の明白な証拠にしても同じだ。
 ほとんどの研究者は、こられの前例のない偉業は、サピエンスの認知的能力に起こった革命の産物だと考えている。(中略)
 このように7万年前から3万年前にかけて見られた、新しい思考と意思疎通の方法の登場のことを「認知革命」という。


 歴史の痕跡が人類における革命を物語っている。認知革命とは言葉の獲得によって虚構(フィクション)を想像し、虚構を共有することで集団の協力が可能となったことを意味する。言語-社会化という図式は誰もが何となく気づくことだが、実は言語そのものが虚構である。

 共同が協働に結びつき、その過程で表現する力が養われたのだろう。「見てくれる人」がいなければ表現という欲求は生まれない。そして新たな表現が言葉をより豊かに発展させ神話や宗教が生まれる。

 伝説や神話、神々、宗教は、認知革命に伴って初めて現れた。それまでも、「気をつけろ! ライオンだ!」と言える動物や人類種は多くいた。だがホモ・サピエンスは認知革命のおかげで、「ライオンはわが部族の守護霊だ」と言う能力を獲得した。虚構、すなわち架空の事物について語るこの能力こそが、サピエンスの言語の特徴として異彩を放っている。
 現実には存在しないものについて語り、『鏡の国のアリス』ではないけれど、ありえないことを朝食前に六つも信じられるのはホモ・サピエンスだけであるという点には、比較的容易に同意してもらえるだろう。(中略)
 だが虚構のおかげで、私たちはたんに物事を想像するだけではなく、【集団】でそうできるようになった。聖書の天地創造の物語や、オーストラリア先住民の「夢の時代(天地創造の時代)」の神話、近代国家の国民主義の神話のような、共通の神話を私たちは紡ぎ出すことができる。そのような神話は、大勢で柔軟に協力するという空前の能力をサピエンスに与える。アリやミツバチも大勢でいっしょに働けるが、彼らのやり方は融通が利かず、近親者としかうまくいかない。オオカミやチンパンジーはアリよりもはるかに柔軟な形で力を合わせるが、少数のごく親密な個体とでなければ駄目だ。ところがサピエンスは、無数の赤の他人と著しく柔軟な形で協力できる。だからこそサピエンスが世界を支配し、アリは私たちの残り物を食べ、チンパンジーは動物園や研究室に閉じ込められているのだ。

 たぶん宗教は天候不良や災害の説明から始まったのだろう。雷を「天(神)の怒り」と想像するのはそれほど難しいことではない。日本では稲妻(元は稲夫〈いなづま〉)が受精して米という実りをもたらすと考えられてきた。

 岸田秀が語った「共同幻想」をユヴァル・ノア・ハラリはより学術的に精緻な検証を試みる。信仰や政治、そして恋愛や戦争もフィクションなのだろうか? そうだとすれば我々が感じる幸不幸は妄想である可能性が高い。

 我々は何となく言葉の虚構性に気づいている。だからこそスポーツに熱狂し、歌詞のない音楽の虜(とりこ)となり、性行為に溺れるのだろう。本来であれば言葉はコミュニケーションの道具に過ぎないのだが、言葉以外のコミュニケーションを失ってしまった。

「理解というものは、私たち、つまり私とあなたが、同時に、同じレベルで出会うときに生まれてきます」(『自我の終焉 絶対自由への道』J・クリシュナムーティ)。人間と人間の出会いを言葉が妨げている。知識はあっても知性を欠き、語られる愛情は欲望に基づいている。

 虚構は国家という大きさにまで拡張した。更に大きな虚構を人類は手にすることができるのだろうか? それとも虚構を捨て去って全く新しい生き方に目覚めるのだろうか?



信じることと騙されること/『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』内山節
現代の華厳経/『アファメーション』ルー・タイス
人種差別というバイアス/『隠れた脳 好み、道徳、市場、集団を操る無意識の科学』シャンカール・ヴェダンタム

2017-05-14

仏教における「信」は共感すること/『出家の覚悟 日本を救う仏教からのアプローチ』アルボムッレ・スマナサーラ、南直哉


『知的唯仏論』宮崎哲弥、呉智英
『日々是修行 現代人のための仏教100話』佐々木閑

 ・仏教における「信」は共感すること

『希望のしくみ』アルボムッレ・スマナサーラ、養老孟司
『死後はどうなるの?』アルボムッレ・スマナサーラ

(※上座部仏教に魅惑されながらも)では、なぜ、再出家を実行しなかったのか。
 道元禅師に帰依したが故、と言えば格好がつくのだろうが、実は最大の理由はそれではない。そうではなくて、私自身の仏教に対する身構えの問題である。
 この対談でもふれているが、私は仏教、釈尊や道元禅師の教えが「真理」だと思って出家したのではない。私は、自分自身に抜き差しならぬ問題を抱えていて、これにアプローチする方法を探し求めた果てに、仏教に出合ったのである。つまり、仏教は問題に対する「答え」としての「真理」ではなく、問題解決の「方法」なのだ。

【『出家の覚悟 日本を救う仏教からのアプローチ』アルボムッレ・スマナサーラ、南直哉〈みなみ・じきさい〉(サンガ選書、2011年)以下同】

 言葉に哲学的な明晰さがあるのは南が病弱で幼い頃から死を凝視してきたためだろう。自分がよく見えている文章だ。

 今回のスマナサーラ長老との対談で、話が噛み合わないところが見えるとしたら(見えるはずだが)、その理由は、我々の民族・文化・宗教の違いだけではない。多数派における、ほとんど完璧な論理と実践を体得した指導者と、足もと覚束ないままに開き直った少数派修行僧の間の、懸隔であろう。
 今、私は忍耐強く私との対談に付き合ってくださった長老に深く感謝申し上げたいと思う。
 私たちの間には、今述べたような身構えの違いが厳然とあった。それは、対談開始直前に、
「さあ、何でも質問してください。答えますから」
 と言われた瞬間にわかったことだった。長老は「真理」の教師であり、私は「問題」に迷う生徒だったのだ。

 私はたちどころに卑屈の匂いを嗅ぎ取った。しかも怜悧な卑屈である。だが注目すべきはそこではない。数十年の修行を経ても尚且つ保ち得た「率直さ」が侮れないのだ。南は自分に対して正直に生きてきたのだろう。ここには名の通った僧侶にありがちな見栄や傲岸さは微塵もない。スマナサーラの言葉に悪意はなかったことだろう。そして私は南の率直さを通してスマナサーラの傲慢が見えた。南のことを「先生」とは呼びながらも、養老孟司の対談とは全く違った態度を取っている。仏教に対するアプローチが異なる二人の対談が噛み合うわけもない。

スマナサーラ●「『信じる』とはどういうことですか?」と尋ねられたとき、「共感することです。それしかないのです」と答える。それが、仏教の言う「信」――「信仰」ではなくて「信」なのです。

ブッダは信仰を説かず/『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一話』アルボムッレ・スマナサーラ

「信仰」とは一神教の神を仰ぐ姿勢である。日本の仏教だと「信心」だ。「信じる」とは何も考えないことである。疑えば信は生じない。鎌倉仏教で信心を説いたのは法然(浄土宗)・親鸞(浄土真宗)と日蓮だ。いずれもマントラ仏教といってよい。信じる→呪文を唱える→悟る、との三段論法である。

 法華経に信解品第四があり、涅槃経には「信あって解(げ)なければ無明を増長し、解あって信なければ邪見を増長する。信解円通してまさに行の本(もと)と為る」とある。法華経の成立年代については諸説あるが西暦40~150年である。ブッダ滅後400~550年となる。三乗(声聞・縁覚・菩薩)を否定的に捉え一乗を説いたのは初期仏教(上座部)に対する後期仏教(大乗)の政治的な戦略であろう。そのためにわざわざ「信」を強調したとしか思えない。三乗を悟っていない存在に貶め、人智の及ばぬ高み(一仏乗)を設定した上で「信」を勧めるのである。日蓮は信解(しんげ)・理解(りげ)と分けたがそうではあるまい。信と理の対立よりも「解」に重みがあると私は考える。

 信が共感であれば、クリシュナムルティが説く「理解」と一致する。

南●人間が、何かを考えるときに、必ず言語を使うでしょう? 私が思ったのは、無明というのは、人間が言語を使うときに、必然的に引き起こすある作用だろう、と思ったのです。
スマナサーラ●ああ、なるほど、それもそれで正しいとは思います。しかし、私は認識のほうに行くのです。(中略)そこで、分析してみると、我々の認識全体に、欠陥があることが発見できるのです。
南●私もそう思います。
スマナサーラ●その欠陥が、無明なのです。
南●ああ、わかりました。

 南直哉は僧侶の格好をした哲学者である。彼が仏法に求めたのは『方法叙説』(デカルトの主著。刊行当時の正確なタイトルは『理性を正しく導き、学問において真理を探究するための方法の話(方法序説)。加えて、その試みである屈折光学、気象学、幾何学。』1637年)の「方法」であろう。

 南は最も世間に広く届く言葉を持った宗教者であり、深き思考が世相の思わぬ姿を照射する。私は本書を読んで南を軽んじていたのだが、『プライムニュース』(BSフジ)を見て評価が一変した。

『プライムニュース』動画

 普段は軽薄なフジテレビの女子アナが思わず話に引き込まれ、素の表情をさらけ出している。

 南直哉と友岡雅弥の対談が実現すれば面白い。司会はもちろん宮崎哲弥だ。

2017-05-11

ブッダの遺言「自らをよりどころとし、法をよりどころとせよ」~自灯明・法灯明は誤訳/『ブッダ入門』中村元


『ブッダの 真理のことば 感興のことば』中村元訳
『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳
『人生と仏教 11 未来をひらく思想 〈仏教の文明観〉』中村元
自らを島とし、杭とせよ(自帰依・法帰依)

 ・ブッダの遺言「自らをよりどころとし、法をよりどころとせよ」~自灯明・法灯明は誤訳
 ・村上専精と宇井伯寿

『上座部仏教の思想形成 ブッダからブッダゴーサへ』馬場紀寿
『初期仏教 ブッダの思想をたどる』馬場紀寿

「〈私は修行僧の仲間を導くであろう〉とか、〈修行僧の仲間は私に頼っている〉とか、このように思う者こそ、修行者の集いに関して何ごとかを語るであろう。しかし、向上につとめた人は、〈私は修行僧の仲間を導くであろう〉とか、あるいは〈修行僧の仲間は私に頼っている〉とか思うことがない。向上につとめた人は修行僧の集いに関して何を語るであろうか」
「向上」という言葉、これは禅の言葉にもなっています。修養、修行につとめるという意味です。釈尊には「おれがこの仲間を導くのだ」という意識はなかった。では何が導くのか。それはダルマ(法)である。人間の真実、それが人を導くのである。
「アーナンダよ。私はもう八十となった。たとえば古ぼけた車が革紐の助けによってやっと動いていくように、私の身体も革紐の助けによって長らえているのだ。……。
 この世で自らを島とし、自らをよりどころとし、他人をよりどころとせず、法を島とし、法をよりどころとし、他のものをよりどころとせずにあれ」
 自分に頼れ。他のものに頼るな。「自分に頼れ」というのはどういうことか。それは、自分を自分たらしめる理法、ダルマに頼るということである。
 この強い確信は、ダルマに基づいているという自覚から現われます。「百万人といえども、われ行かん」という言葉がありますね。百万の人がぜんぶ自分に反対しても、自分はこの道を行く。なぜ「この道を行く」とあえて言い切れるのか。自分の行こうとしているこの道が、人間のあるべき道、あるべきすがたにしたがっているからです。だから他の人がどんなに反対しても、自分はこの道を行くのだといえる。すると、「自分に頼る」ということと「法に頼る」ということは、実は同じことなのです。釈尊の説法に、この点が明快に示されています。
 そして「自らを島とせよ」と説かれました。「島」というよりは「洲(す)」といったほうがいいように思います。漢訳にも「洲」という字が出ています。原語はディーパです。
「自らを洲とする」というのはどうもわかりにくいかもしれません。これはインド人の生活環境を念頭において考えれば、理解しやすいと思います。
 インドの洪水は、日本とはずいぶん様子が違うのです。日本は山国で、川もだいたいが急流でしょう。だから洪水が起こると水がどっと流れてきて、何でもかんでも押し流してしまう。ところがインドの洪水は、押し流すというよりも、いたるところで水が氾濫するのです。だだっぴろいところに水がずうっと及んできて、一面が水浸しになる。ものが押し流されることもあるにはありますが、押し流されないでただ水浸しになってしまうという場合が、非常に多いのです。
 インドでは、土地が平らだから、地面に立って向こうを見渡しても、山なんか見えないところが多いのです。日本で山が見えないところというと、たとえば関東平野ですが、それでもお天気のいい日で空気が澄んでいると、秩父の山が見えますね。ところによっては富士山も見えますね。ところがインドだと、ウッタルプラデーシュ州、ビハール州、オリッサ州などでは、山が見えないのです。ただ一面にずうっと地面が広がっている。
 そういうところが水浸しになると、一面の海のようになる。その中で人間はどうするかというと、土地が平らとはいっても多少の高低はあるから、ちょっと高くなっていて水浸しにならない場所で難を避けるのです。それが「洲」です。
 日本で「洲」というと川中島みたいな場所を考えますが、そうではないのです。あたり一面が水浸しになって、ちょっと高いところだけが水につかっていない。そこへみんな逃げていくのです。だから「洲」というのは、頼りになるところという意味になるのです。
 ときにはそこに木がそびえていたりする。退屈すると彼らは木の上に上(ママ)ったり、親しい友だち同士でチェスなんかして遊んでいる。それがインド人にとっての洪水です。釈尊の言葉も、そういうところから来ているのです。
 ところがこれはやはりシナ人には理解しにくかったのでしょう。「ディーパ」には「洲」という意味の他に、もう一つ「灯明」という意味があります。語源は全然違います。同音異義語ですね。ところが、シナ人が漢訳するときには、「ディーパ」をこの意味に解釈して、「自己を灯明とせよ、法を灯明とせよ」とした。この方がシナ人、日本人にはわかりやすい。とくに日本人は圧倒的にわかりやすいですね。

【『ブッダ入門』中村元〈なかむら・はじめ〉(春秋社、1991年)/新装版、2011年】

 後期仏教(大乗)に法四依(ほうしえ)との教えがある。「法に依りて人に依らざれ。義に依りて語に依らざれ。智に依りて識に依らざれ。了義経に依りて不了義経に依らざれ」(『国訳一切経涅槃経部』)と。

 依法不依人(えほうふえにん):真理(法性)に依拠して、人間の見解に依拠しない
 依義不依語(えぎふえご):意味に依拠して、文辞に依拠しない
 依智不依識(えちふえしき):智慧に依拠して、知識に依拠しない
 依了義経不依不了義経(えりょうぎきょうふえふりょうぎきょう):仏の教えが完全に説かれた経典に依拠して、意味のはっきりしない教説に依拠しない

Wikipedia

「依て」は「よりて」とも「よって」とも読むようだ。問題はこれを思想的発展と受け止めるか、あるいは盛り過ぎた脚色と捉えるかである。ブッダの言葉として残っているのは「法に依りて」だけだ。

「依法不依人」は一般的には「経文によって人師(にんし)の解釈によるべきではない」との意である。にもかかわらず「義に依りて語に依らざれ」と続き見過ごせない矛盾をはらんでいる。了義経に至っては初期仏教軽視の言い掛かりとしか思えない。

 極めて巧妙に後期仏教(大乗)を持ち上げようとするプロパガンダであると私は考える。それが証拠に「智慧に依拠して、知識に依拠しない」と言いながら教義論争に明け暮れてきたのが仏教3000年の歴史ではなかったか。

 長い人生を歩む途上で津波に押し流されるような場面は誰にでもあることだろう。我々はある時は医学を頼み、またある時は軍事力をよりどころとし、更にある時はお金や他人を当てにする。人間最後は必ず死ぬ。この人生で確かなことは死ぬことだけである。その最重要の場面でよりどころとなるのは自分だけだ。残念ながら神はいない。

 悟りとは智慧の異名である。そして智慧は自らの内から湧き出るものだ。誰かから授かるものではない。極論すれば智慧とは「ありのままの現実を悟る」ことだろう。自分が当てにならないのは「自我」というフィルターが邪魔をしているためだ。

 ブッダは最初の説法で正見(しょうけん/八正道の一つ)を説いた。天台智ギは『摩訶止観』を講義し、日蓮は『観心本尊抄』(かんじんのほんぞんしょう)を著した。そしてクリシュナムルティは「虚偽を虚偽と見、虚偽の中に真実を見、そして真実を真実と見よ」と教えた。

 すなわち真実の智慧とは「ありのままに見る」ことなのだ。私が見ているのは「世界」ではない。たぶん鱗(うろこ)の裏側なのだろう(笑)。

ブッダ入門

新しい表現/『二十一世紀の諸法無我 断片と統合 新しき超人たちへの福音』那智タケシ

2017-05-08

日本の仏教は祖師信仰/『希望のしくみ』アルボムッレ・スマナサーラ、養老孟司


『出家の覚悟 日本を救う仏教からのアプローチ』アルボムッレ・スマナサーラ、南直哉

 ・日本の仏教は祖師信仰

『死後はどうなるの?』アルボムッレ・スマナサーラ

――日本の仏教とテーラワーダがもっとも違うのは、どこでしょうか。
スマナサーラ●違いはたくさんありますが、いちばんはやはり日本の仏教がいわゆる祖師信仰だという点でしょうね。祖師信仰では、その宗派を開いた祖師さんの言うことは何でも、自分ではちょっとどうかなと思っても、信仰しなさいと強要します。つまり、祖師の色に染まるんですね。

【『希望のしくみ』アルボムッレ・スマナサーラ、養老孟司〈ようろう・たけし〉(宝島社、2004年/宝島SUGOI文庫、2014年)以下同】

 スマナサーラ本の書評はページ末尾のラベルをクリックのこと。養老孟司と編集者の鼎談(ていだん)である。誰に対しても媚びることがない養老に、スマナサーラが低姿勢に出ているのが面白かった(笑)。

 端的な日本仏教批判が本質を鋭く衝(つ)いている。「自らをたよりとして、法をよりどころにせよ」(『ブッダ最後の旅 大パリニッバーナ経』中村元訳)というのがブッダの遺言であった。後期仏教(大乗)の思想的な飛翔が無意味なものであるとは思わないが、ブッダの前に立ちはだかる夾雑物と化している側面が確かにある。

 日蓮宗日興門流の一部では日蓮本仏論を唱えており、ブッダよりも日蓮を上位としている。こうした思想の背景には日本特有の本地垂迹(ほんぢすいじゃく)論があり、神を仏の化身と捉えることで神仏習合を可能たらしめた。つまり日本仏教は父がブッダで母が神道という混血なのだ。

 鼎談の続きを紹介しよう。

――日本の仏教は祖師を信仰しますが、テーラワーダはお釈迦さまを信仰するんですね。
スマナサーラ●いえ、そうじゃないんです。むしろ「お釈迦さまの説かれた教えを信じて実践する」と言ったほうが正しいですね。
 それに、そもそもお釈迦さまは、信仰には断固として反対していたんですよ。私を拝んでどうなるのかと。
――どうして信仰に反対なのですか?
スマナサーラ●お釈迦さまが説いたのは、「真理」です。真理は、誰が語っても、いつの時代でも変わらないものです。お釈迦さまは真理を提示して、「自分で調べなさい、確かめなさい、研究しなさい」という態度で教えたんです。「私を信じなさい」とは、まったく言っていません。

ブッダは信仰を説かず/『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一話』アルボムッレ・スマナサーラ

 西洋で宗教一般を批判する際、仏教を除外するのはこのためである。仏教は宗教というよりも哲学に近いとの見解からだ。その妥当性は不問に付しても仏教の際立った独創性を示す証左にはなるだろう。

 ブッダが悟ったのは「法」である。空海(774-835年)は宗教的天才であったが大日如来を本尊として立てた。やはり異流儀と言わざるを得ない。あれこれ考えると日本仏教で目ぼしいのは道元(1200-1253年)くらいではないだろうか。「ゼン」(禅)が西洋世界に広まったのも思想の普遍性を示しているように思われる。


序文「インド思想の潮流」に日本仏教を解く鍵あり/『世界の名著1 バラモン教典 原始仏典』長尾雅人責任編集、『空の思想史 原始仏教から日本近代へ』立川武蔵
「私」という幻想/『悟り系で行こう 「私」が終わる時、「世界」が現れる』那智タケシ

2017-05-04

悟りには段階がある/『悟りの階梯 テーラワーダ仏教が明かす悟りの構造』藤本晃


 ・悟りには段階がある

『「悟り体験」を読む 大乗仏教で覚醒した人々』大竹晋
『奇跡の脳 脳科学者の脳が壊れたとき』ジル・ボルト・テイラー
『ザ・ワーク 人生を変える4つの質問』バイロン・ケイティ、スティーヴン・ミッチェル
『わかっちゃった人たち 悟りについて普通の7人が語ったこと』サリー・ボンジャース
『悟り系で行こう 「私」が終わる時、「世界」が現れる』那智タケシ
『二十一世紀の諸法無我 断片と統合 新しき超人たちへの福音』那智タケシ

悟りとは

 また、傍目(はため)からはなかなか判断できませんが、それぞれの段階の悟りを開いた人は、自分では自分がどの段階に悟ったか、よくわかるようです。それだけ明確な悟りの「体験」と、それによる心の変化が、悟りの各段階ごとにあるからです。お釈迦さまやお坊様方が、「あなた(あの人)は、悟りのこの段階に悟りました」と、お弟子や信者さんの悟りを認定(授記〈じゅき〉)することもよくありました。

【『悟りの階梯 テーラワーダ仏教が明かす悟りの構造』藤本晃〈ふじもと・あきら〉(サンガ新書、2009年)以下同】

 まったく酷い文章である。言葉の混乱は明晰さと相容れない。説明能力というよりもコミュニケーションの姿勢に問題があるように思う。悟りは明晰さを伴う。だが明晰=悟りではない。詐欺師は皆一様に説明能力が高い。

 後期仏教(大乗)で「授記」とは記別を授けることで、将来的な成仏のお墨付きである。悟りの認定であるとは初めて知った。

 余談となるがブッダに近侍し多聞第一と謳われたアーナンダ(阿難)が阿羅漢果に至ったのはブッダ死後のことである。この事実は悟りに導くことが不可能であることを示すものだ。

 四つの階梯(※預流果〈よるか〉、一来果〈いちらいか〉、不還果〈ふげんか〉、阿羅漢果〈あらかんか〉)に一つずつ悟り、最後に完全な阿羅漢果に悟るとする、いわゆる「漸悟」説です。二つ目の見解は、「一気にパッと完全に悟る」と主張する、いわゆる「頓悟」説です。パッと悟ると主張するのものは、北伝部派仏教の一派・説一切有部(せついっさいうぶ)の『倶舎論』(くしゃろん)に基づく倶舎宗など、いわゆる「小乗」仏教の説です。
 説一切有部と同じく「小乗」に分類される南伝の上座部が保持するパーリ語経典では、『倶舎論』と同様に、預流、一来、不還、阿羅漢の四段階の悟りを説きますから、上の分類に従えば、徐々に悟る「漸悟」説ということになります。

 それぞれの内容については「四向四果」(しこうしか)を参照せよ。

『わかっちゃった人たち』などで紹介されている人々の悟りは預流果(よるか)と考えられる。「預流果で消える煩悩は無知に基づく三つだけ」と藤本は偉そうに述べるが、果たして預流果に至った宗教者はどの程度いるのか? 私は既に半世紀以上生きてきたが一人しか知らない。

 尚、仏道の目的である解脱(げだつ)とは一切の執着から離れて涅槃(ねはん/ニルヴァーナ)に至ることだが禅定には八つの段階がある。

 初禅 → 第二禅 → 第三禅 → 第四禅 → 空無辺処 → 識無辺処 → 無所有処 → 非想非非想処 → 滅尽定(滅尽定とニルヴァーナ

 最後の「滅尽定」が解脱と考えていいだろう。「八解脱」(「ブッダ伝」第17章 ウッダカ仙人にも学ぶ)という言葉もあるようだ。

 非想非非想処が「有頂天」である。

 涅槃とは「吹き消す」意である。つまり悟りの段階とは煩悩が消えてゆく様相を示すもので生命の自由度を表している。

 ブッダ以前にもブッダ(目覚めた人)と呼ばれた人々は存在した。釈迦族のゴータマ・シッダッタ(パーリ語読み。サンスクリット語ではガウタマ・シッダールタ)のみがブッダと呼称されるのはその悟りが空前絶後の深さと高さを伴っていたためだ。ブッダの言葉は経典化された。そしてテキストが重視されればされるほどブッダの悟りは霞(かす)んでいった。

 仏教東漸(とうぜん)の歴史において宗教的天才は何人も登場したが、ブッダと肩を並べる人物は一人も見当たらない。私が知る限りではクリシュナムルティただ一人である。

2017-04-10

マクロ歴史学/『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』ユヴァル・ノア・ハラリ


物語の本質~青木勇気『「物語」とは何であるか』への応答
『ものぐさ精神分析』岸田秀
『続 ものぐさ精神分析』岸田秀
『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』ジュリアン・ジェインズ
『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』トール・ノーレットランダーシュ

 ・読書日記
 ・目次
 ・マクロ歴史学
 ・認知革命~虚構を語り信じる能力
 ・イスラエル人歴史学者の恐るべき仏教理解

・『ハキリアリ 農業を営む奇跡の生物』バート・ヘルドブラー、エドワード・O・ウィルソン
『身体感覚で『論語』を読みなおす。 古代中国の文字から』安田登
『文化がヒトを進化させた 人類の繁栄と〈文化-遺伝子革命〉』ジョセフ・ヘンリック
『家畜化という進化 人間はいかに動物を変えたか』リチャード・C・フランシス
『人類史のなかの定住革命』西田正規
『反穀物の人類史 国家誕生のディープヒストリー』ジェームズ・C・スコット
『文明が不幸をもたらす 病んだ社会の起源』クリストファー・ライアン
『ポスト・ヒューマン誕生 コンピュータが人類の知性を超えるとき』レイ・カーツワイル
『AIは人類を駆逐するのか? 自律(オートノミー)世界の到来』太田裕朗
『Beyond Human 超人類の時代へ 今、医療テクノロジーの最先端で』イブ・ヘロルド
『ホモ・デウス テクノロジーとサピエンスの未来』ユヴァル・ノア・ハラリ
『21 Lessons 21世紀の人類のための21の思考』ユヴァル・ノア・ハラリ
『われわれは仮想世界を生きている AI社会のその先の未来を描く「シミュレーション仮説」』リズワン・バーク

世界史の教科書
必読書リストその五

歴史年表

 135億年前 物質とエネルギーが現れる。物理現象の始まり。
       原子と分子が現れる。化学的現象の始まり。
 45億年前 地球という惑星が形成される。
 38億年前 有機体(生物)が出現する。生物学的現象の始まり。
 600万年前 ヒトとチンパンジーの最後の共通の祖先。
 250万年前 アフリカでホモ(ヒト)属が進化する。最初の石器。
(中略)
 30万年前 火が日常的に使われるようになる。
(中略)
 7万年前 認知革命が起こる。虚構の言語が出現する。
      歴史的現象の始まり。(中略)
 1万2000年前 農業革命が起こる。植物の栽培化と動物の家畜化。永続的な定住。
 5000年前 最初の王国、書紀体系、貨幣。多神教。
 4250年前 最初の帝国――サルゴンのアッカド帝国。
 2500年前 硬貨の発明――普遍的な貨幣。
       ペルシア帝国――「全人類のため」の普遍的な政治的秩序。
       インドの仏教――「衆生を苦しみから解放するため」の普遍的な真理。
 2000年前 中国の漢帝国。地中海のローマ帝国。キリスト教。
 1400年前 イスラム教。
 500年前 科学革命が起こる。
      人類は自らの無知を認め、空前の力を獲得し始める。
      ヨーロッパ人がアメリカ大陸と各海洋を征服し始める。
      地球全体が単一の歴史的領域となる。
      資本主義が台頭する。
 200年前 産業革命が起こる。
      家族とコミュニティが国家と市場に取って代わられる。
      動植物の大規模な絶滅が起こる。
 今日 人類が地球という惑星の境界を超越する。
    核兵器が人類の生存を脅かす。
    生物が自然選択ではなく知的設計によって形作られることがしだいに多くなる。
 未来 知的設計が生命の基本原理となるか?
    ホモ・サピエンスが超人たちに取って代わられるか?

【『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』(上下)ユヴァル・ノア・ハラリ:柴田裕之〈しばた・やすし〉訳(河出書房新社、2016年)】

 致し方なくラベルを「世界史」にしてあるが正確には「人類史」である。恐ろしく抽象度の高い視点で人類の歴史を振り返っても見通せる未来は短い。科学革命~産業革命を経て情報革命に至ると技術進化の速度は限界に近づく。シンギュラリティ(技術的特異点/※想定では2045年)を超えればヒトは主役の座から引きずり降ろされるに違いない。

 ユヴァル・ノア・ハラリが示すマクロ歴史学の視点は人類史を生老病死にまで圧縮する。人生において「虚構の言語が出現する」のは3歳前後であり、「歴史的現象」としての人の一生が始まる。それぞれの革命期は青壮年時代といってよい。今後のイノベーション(技術革新)は老化する肉体を補い、脳を生き永らえさせることが重視される。ヒトは情報として扱われダウンロードやアップロードさえ可能となる。

 人類の進化とは環境への適応だけにとどまるものではない。農業革命、都市革命、精神革命、科学革命という変遷は【むしろ環境をヒトに適応させる営みであった】。ポスト・ヒューマン(人間以後)の時代に到来するのは宇宙革命である。知性とコンピュータを融合し宇宙全体を地球化する壮大な営みが開始されることだろう。

 マクロ歴史学という壮大な時間スケールが自分の存在を一つの点にまで押し縮める。数百億の人々が生まれては死に、歴史は断続的に切り取り線上を進んでゆくのだろう。個々の動きはブラウン運動のようにバラバラでも少し離れて見れば一定の方向に流れているのがわかる。

 原子のような存在でありながらも歴史を自覚し得るのは人間だけである。

2017-03-20

目次/『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』ユヴァル・ノア・ハラリ


物語の本質~青木勇気『「物語」とは何であるか』への応答
『ものぐさ精神分析』岸田秀
『続 ものぐさ精神分析』岸田秀
『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』ジュリアン・ジェインズ
『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』トール・ノーレットランダーシュ
『AIは人類を駆逐するのか? 自律(オートノミー)世界の到来』太田裕朗

 ・読書日記
 ・目次
 ・マクロ歴史学
 ・認知革命~虚構を語り信じる能力
 ・イスラエル人歴史学者の恐るべき仏教理解

・『ハキリアリ 農業を営む奇跡の生物』バート・ヘルドブラー、エドワード・O・ウィルソン
『身体感覚で『論語』を読みなおす。 古代中国の文字から』安田登
『ポスト・ヒューマン誕生 コンピュータが人類の知性を超えるとき』レイ・カーツワイル
『Beyond Human 超人類の時代へ 今、医療テクノロジーの最先端で』イブ・ヘロルド
『遺伝子 親密なる人類史』シッダールタ・ムカジー
『ホモ・デウス テクノロジーとサピエンスの未来』ユヴァル・ノア・ハラリ
『21 Lessons 21世紀の人類のための21の思考』ユヴァル・ノア・ハラリ
『われわれは仮想世界を生きている AI社会のその先の未来を描く「シミュレーション仮説」』リズワン・バーク

世界史の教科書
必読書リストその五

 第1部 認知革命

  第1章 唯一生き延びた人類種
      不真面目な秘密/思考力の代償/調理をする動物/兄弟たちはどうなったか?

  第2章 虚構が協力を可能にした
      プジョー伝説/ゲノムを迂回する/歴史と生物学

  第3章 狩猟採集民の豊かな暮らし
      原初の豊かな社会/口を利く死者の霊/平和か戦争か?/沈黙の帳

  第4章 市場最も危険な種
      告発のとおり有罪/オオナマケモノの最期/ノアの方舟

 第2部 農業革命

  第5章 農耕がもたらした繁栄と悲劇
      贅沢の罠/聖なる介入/革命の犠牲者たち

  第6章 神話による社会の拡大
      未来に関する懸念/想像上の秩序/真の信奉者たち/脱出不能の監獄

  第7章 書記体系の発明
      「クシム」という署名/官僚制の脅威/数の言語

  第8章 想像上のヒエラルキーと差別
      悪循環/アメリカ大陸における清浄/男女間の格差/生物学的な性別と社会的・文化的性別/男性のどこがそれほど優れているのか?/能力/攻撃性/家父長制の遺伝子

 第3部 人類の統一

  第9章 統一へ向かう世界
      歴史は統一に向かって進み続ける/グローバルなビジョン

  第10章 最強の征服者、貨幣
      物々交換の限界/貝殻とタバコ/貨幣はどのように機能するのか?/金の福音/貨幣の代償

  第11章 グローバル化を進める帝国のビジョン
      帝国とは何か?/悪の帝国?/これはお前たちのためなのだ/「彼ら」が「私たち」になるとき/歴史の中の前任と悪人/新しいグローバル帝国
  第12章 宗教という超人間的秩序
      神々の台頭と人類の地位/偶像崇拝の恩恵/神は一つ/善と悪の戦い/自然の法則/人間の崇拝

  第13章 歴史の必然と謎めいた選択
      1 後知恵の誤謬/2 盲目のクレイオ

 第4部 科学革命

  第14章 無知の発見と近代科学の成立
      無知な人/科学界の教義/知は力/進歩の理想/ギルガメシュ・プロジェクト/科学を気前良く援助する人々

  第15章 科学と帝国の融合
      なぜヨーロッパなのか?/征服の精神構造/空白のある地図/宇宙からの侵略/帝国が支援した近代科学

  第16章 拡大するパイという資本主義のマジック
      拡大するパイ/コロンブス、投資家を探す/資本の名の下に/自由市場というカルト/資本主義の地獄

  第17章 産業の推進力
      熱を運動に変換する/エネルギーの大洋/ベルトコンベヤー上の命/ショッピングの時代

  第18章 国家と市場経済がもたらした世界平和
      近代の時間/家族とコミュニティの崩壊/想像上のコミュニティ/変化し続ける近代社会/現代の平和/帝国の撤退/原子の平和

  第19章 文明は人間を幸福にしたのか
      幸福度を測る/化学から見た幸福/人生の意義/汝自身を知れ

  第20章 超ホモ・サピエンスの時代へ
      マウスとヒトの合成/ネアンデルタール人の復活/バイオニック生命体/別の生命/特異点(シンギュラリティ)/フランケンシュタインの予言

      あとがき――神になった動物

【『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』(上下)ユヴァル・ノア・ハラリ:柴田裕之〈しばた・やすし〉訳(河出書房新社、2016年)】

 2016年に読んだ本第1位である。ユヴァル・ノア・ハラリはイスラエルの歴史学者。まあ凄いのが出てきたもんだ。しかもまだ41歳という若さ。

 今、入力し終えてから気づいたのだが目次はamazonにも掲載されていた。大失敗。当ブログに目次を書くのは飽くまでも自分用で、調べ物があった際の手掛かりとして残すのが目的である。頭の中の空いた抽斗(ひきだし)がかなり少なくなっているため。

 ま、村上春樹の新作なんぞどうでもいいから本書を読むこった。


高砂族にはフィクションという概念がなかった/『台湾高砂族の音楽』黒沢隆朝
『カミの人類学 不思議の場所をめぐって』岩田慶治

2016-06-21

ドゥッカ(苦)とは/『ブッダが説いたこと』ワールポラ・ラーフラ


『仏陀の真意』企志尚峰
『仏教と西洋の出会い』フレデリック・ルノワール:今枝由郎訳
『日常語訳 ダンマパダ ブッダの〈真理の言葉〉』今枝由郎訳
『ブッダの真理のことば 感興のことば』中村元
『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一話』アルボムッレ・スマナサーラ
『原訳「法句経」(ダンマパダ)一日一悟』アルボムッレ・スマナサーラ
・『法句経』友松圓諦
・『法句経講義』友松圓諦
・『阿含経典』増谷文雄編訳
・『『ダンマパダ』全詩解説 仏祖に学ぶひとすじの道』片山一良
・『パーリ語仏典『ダンマパダ』 こころの清流を求めて』ウ・ウィッジャーナンダ大長老監修、北嶋泰観訳注→ダンマパダ(法句経)を学ぶ会
『日常語訳 新編 スッタニパータ ブッダの〈智恵の言葉〉』今枝由郎訳
『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳
『スッタニパータ[釈尊のことば]全現代語訳』荒牧典俊、本庄良文、榎本文雄訳
『原訳「スッタ・ニパータ」蛇の章』アルボムッレ・スマナサーラ
『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ
『慈経 ブッダの「慈しみ」は愛を越える』アルボムッレ・スマナサーラ
『怒りの無条件降伏 中部教典『ノコギリのたとえ』を読む』アルボムッレ・スマナサーラ
『小説ブッダ いにしえの道、白い雲』ティク・ナット・ハン

 ・ものごとが見えれば信仰はなくなる
 ・筏(いかだ)の喩え
 ・ドゥッカ(苦)とは

『無(最高の状態)』鈴木祐
・『ブッダとクリシュナムルティ 人間は変われるか?』J・クリシュナムルティ
クリシュナムルティ、瞑想を語る

ブッダの教えを学ぶ

「ではマールンキャプッタよ、私は何を説明したのか。私は、
(1)ドゥッカの本質
(2)ドゥッカの生起
(3)ドゥッカの消滅
(4)ドゥッカの消滅に至る道
 を説明した。マールンキャプッタよ、私がなぜ説明したのかというと、それは有益であり、修行に本質的に関わる問題であり、人生における苦しみの消滅に繋がるからである。私はそれゆえに説明したのである」

【『ブッダが説いたこと』ワールポラ・ラーフラ:今枝由郎〈いまえだ・よしろう〉訳(岩波文庫、2016年/原書1959年)】

 マールンキャプッタからの形而上学的問いに対してブッダは無記を示し、次に「毒矢の喩え」を説く(『人生と仏教 11 未来をひらく思想 〈仏教の文明観〉』中村元)。続けてブッダは四諦(したい)を確認する。

ドゥッカ
 パーリ語(およびサンスクリット語)のドゥッカは、一般的には苦しみ、痛み、悲しみあるいは惨めさを意味し、幸福、快適、あるいは安楽を意味するスカの反対語である。しかし、四つの真理のうちの第一の真理の場合のドゥッカは、ブッダの人生観、世界観を表わしており、より深い哲学的な意味合いがあり、はるかに広い意味で用いられている。確かに第一の真理のドゥッカには、普通の意味での苦しみも含まれているが、それに加えて不完全さ、無常、空しさ、実質のなさなどといったさらに深い意味がある。それゆえに、第一の真理に用いられているドゥッカが含むすべての概念を一語で表わすのは難しい。そうである以上、ドゥッカを苦しみ、痛みといった、便利ではあるが、不十分で誤解を招く訳語に置き換えないほうがいいだろう。

 皮相的な現在進行形の苦しみではなく、人生の底を絶えず流れる苦悩が「ドゥッカ」である。ま、「苦しい・空しい・悲しい・寂しい」と覚えておけばよい。哲学的なターム(用語)だと孤独・存在の危うさ・不安となる。人生は思うようにならない――これが「ドゥッカ」である。

 ドゥッカの概念は、
(1)普通の意味での苦しみ
(2)ものごとの移ろいによる苦しみ
(3)条件付けられた生起としての苦しみ
 の三面から考察することができる。

 続けて、

 第三の「条件付けられた生起」(訳註:漢訳仏典では「縁起」)としての苦しみという面こそが、「ドゥッカの本質」のもっとも重要な哲学的側面であり、それを理解するのには、一般に存在、個人あるいは「私」とされているものを分析してみる必要がある。

 と。(1)は苦しいという実感、(2)は空しさ、(3)は自我の限界性である。生まれる苦しさ、生きる苦しさ、老いる苦しさ、病む苦しさ、死ぬ苦しさがある(四苦)。そして別れる苦しさ(愛別離苦〈あいべつりく〉)、憎む苦しさ(怨憎会苦〈おんぞうえく〉)、手にはらない苦しさ(求不得苦〈ぐふとっく〉)、私が私である苦しさ(五蘊盛苦〈ごうんじょうく〉)がある(合わせて八苦)。

 五蘊盛苦がわかりにくいと思われるので解説する。私を私たらしめているものは何か? 事実に基いて観察すると五つの集合要素(五蘊)から成っていることがわかる。

アルボムッレ・スマナサーラの解説

 世界は私というフィルターを通して認識される。私を離れて世界は存在しない。そして五蘊という肉体的・精神的な機能・作用は人によって異なる。つまり同じ物事を見ても人それぞれの反応があり、人それぞれの世界がある。そこに人それぞれの苦しみが生まれる(五蘊盛苦)。すなわち自我に基づく苦しみである。「俺の苦しさがあんたにわかってたまるか」と誰かに向かって言う時、人は自分というストーリー設定の中で理不尽さを感じている。自我という初期設定そのものが人生に不具合をもたらす原因になるというのが五蘊盛苦である。

 語源的には五蘊執苦(しゅうく)とするのが正しいのかもしれない。興味(受)・感覚(想)・判断(行)を通して自分らしさ(識)が培われる。私は私にこだわる。アイデンティティ(自己同一性)が揺らぐのは私が無視されるためだ。他人との比較や社会的評価という物語が自我を左右する。国籍という自己規定も見逃せない。アイデンティティには国家が深く関与している(在日韓国・朝鮮人など)。

 ブッダは語った。「弟子たちよ、ドゥッカとは何か。それは執着の五集合要素である」と。今枝由郎は五蘊を「五集合要素」と訳す。私は私のものの見方・考え方、つまり「私という意識」に執着する。私は常に正しい。私は間違っていない。私は悪くない――誰もがそう思っている。そう。悪いのは世界だ(笑)。自我を形成するシステムに苦の原因がある。

 諸行は無常であり、諸法は無我である。我々はここに苦を見る。苦と感じるゆえに現実が見えなくなるのだ。幸不幸は錯覚に過ぎない。その錯覚から逃げ、錯覚を追い求めるところに苦の本質がある。