・『人間の本性について』エドワード・O ウィルソン
・『徳の起源 他人をおもいやる遺伝子』マット・リドレー
・『環境と文明の世界史 人類史20万年の興亡を環境史から学ぶ』石弘之、安田喜憲、湯浅赳男
・『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』ユヴァル・ノア・ハラリ
・共同体のもつ【集団脳(集団的知性)】
・戦争が向社会的行動を促す
・『文化的進化論 人びとの価値観と行動が世界をつくりかえる』ロナルド・イングルハート
・『家畜化という進化 人間はいかに動物を変えたか』リチャード・C・フランシス
・『家畜化という進化 人間はいかに動物を変えたか』リチャード・C・フランシス
・『人類史のなかの定住革命』西田正規
・『反穀物の人類史 国家誕生のディープヒストリー』ジェームズ・C・スコット
・『文明が不幸をもたらす 病んだ社会の起源』クリストファー・ライアン
・『ホモ・デウス テクノロジーとサピエンスの未来』ユヴァル・ノア・ハラリ
このようにして、文化進化によって生まれた【自己家畜化】のプロセスが、ヒトの遺伝的な変化を促し、その結果、私たちは向社会的で、従順で、規範を遵守する動物になっていった。共同体に監視されながら社会規範に従って生きることを、当然のこととして受け入れるようになったのだ。(中略) 人類の成功の秘密は、個々人の頭脳の力にあるのではなく、共同体のもつ【集団脳(集団的知性)】にある。この集団脳は、ヒトの文化性と社会性とが合わさって生まれる。つまり、進んで他者から学ぼうとする性質をもっており(【文化性】)、しかも、適切な規範によって社会的つながりが保たれた大規模な集団で生きることができる(【社会性】)からこそ、集団脳が生まれるのである。狩猟採集民のカヤックや複合弓から、現代の抗生物質や航空機に至るまで、人類の特長とも言える高度なテクノロジーは、一人の天才から生まれたのではない。互いにつながりを保った多数の頭脳が、何世代にもわたって、優れたアイデアや方法、幸運な間違い、偶然のひらめきを伝え合い、新たな組み合わせを試みる中から生まれたものなのだ。 規模が大きく、しかも成員相互の連絡性が高い社会ほど、高度なテクノロジーや、豊富なツールキット、多くのノウハウを生み出せるのはなぜか? 小さな共同体が突如孤立すると、高度なテクノロジーや文化的ノウハウがしだいに失われていくのはなぜか? いずれも、集団脳の重要性で説明できることを第12章で示す。後ほど詳しく述べるが、人類のイノベーションは、個々人の知性よりもむしろ、社会のあり方に依存している。言うまでもなく、共同体の分断や社会的ネットワークの崩壊をいかにして防ぐかということが、長い歴史を通じてずっと、人類にとっての重要な課題だったのだ。
【『文化がヒトを進化させた 人類の繁栄と〈文化-遺伝子革命〉』ジョセフ・ヘンリック:今西康子訳(白揚社、2019年)】
飛ばし読み。再読するかどうかは未定である。脳やメンタルの調子もさることながら、本は読む順序にも大きく影響される。『反穀物の人類史 国家誕生のディープヒストリー』の衝撃が大きすぎて、どうもまったりした印象を拭えなかった。
冒頭の文章は危うい。環境要因と遺伝要因を入れ替えることも可能だろう。定住-農耕から文明が誕生したわけだが、文明の発達は人間を自然環境から遠ざけ、身体性を弱め、思考重視の生活様式に傾斜してゆく。その様相はまさしく「家畜化」と言ってよい。もしも明日、食料品がなくなれば先進国の大半の人々は餓死するはずだ。食べることのできる野草や木の実の種類も知らないのだから。
集団脳だとあたかも中心的な実態や存在があるように感じられるため、集団的知性の方が言葉としては適切だろう。例えば蜂や蟻の社会的生態を想えば腑に落ちる。
下の動画はハキリアリの巨大な巣である。彼らは空調システムを完備(アリ塚と空調、自然に学ぶエネルギー)した巣でキノコを培養する。「廃棄された菌床には窒素などが多く含まれていて、それがやがて土に還り、森をより豊かにする」(第44回 ハキリアリは農業を営む(パート2))。「アリやハチなどの社会性昆虫と同様にシロアリは社会の中で生きているが、そこではコロニーの集団の力が個体の力をはるかに凌駕する。超個体の一部となることで、小さなシロアリは強大な力を得る。しかしシロアリのアリ塚は、監督のいない建設現場のようなもので、計画の責任を担うシロアリは存在しない」(巨大なアリ塚を築くシロアリの集合精神)。「個々のシロアリは考えるというより反応しているだけだが、集団レベルではある意味周囲の環境を認知しているように振る舞う。同様に脳では、個々のニューロンが考えているわけではないが、そのつながりの中で思考が発生する」(同頁)。
集団システムから創発される何かを我々は「社会」(social)と呼ぶのだろう。
社会学者の故・蔵内数太によると、会社も社会も「(同じ目的を持つ人々による)結合の一般概念」で、その起源は中国の「社」に遡ります。その後「company(会社)」は「営利目的の組織」を意味する言葉として、「society(社会)」はより生活をともにする共同体に近い意味に分化していきました。
【「会社」と「社会」と「ソーシャル」:日本経済新聞】
古い本なので致し方ない側面はあるが柳父章〈やなぶ・あきら〉の指摘(『翻訳語成立事情』)が身分を問題視するのはマルクス主義の影響が濃い。むしろ身分そのものが社会的なコミュニケーションの形であり、適応の様態と見るべきではないか。
アルビン・トフラーが「情報革命の波」を示したのが1980年である(『第三の波』)。40年語にGAFAが世界を席巻する時代が到来した。それは言葉と商品を網羅するビッグデータが基本となっている。しかしそれに収まらない情報も存在する。我々がスポーツや音楽を愛してやまないのはそこに言葉以外のコミュニケーションが成立し、論理に収まらない感情の昂(たか)ぶりを感じるためだ。
社会性昆虫が思考を介在させることなくして社会システムを構築できるのであれば、果たして人間に同じことが可能だろうか? サッカーは11人のプレイヤーがいるが、1億人で政治というゲームをプレイしてサッカーの試合のように盛り上がることはできるだろうか?
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