2020-11-09

瞑想の否定/『クリシュナムルティの日記』J・クリシュナムルティ


『クリシュナムルティの神秘体験』J・クリシュナムルティ

 ・人は自分自身の光りとなるべきだ
 ・瞑想の否定

『最後の日記』J・クリシュナムルティ

ジドゥ・クリシュナムルティ(Jiddu Krishnamurti)著作リスト

 どんな形であれ、意識的な瞑想は真実ではない。けっしてそうはありえないのだ。故意に瞑想しようと試みることは、瞑想ではない。それは起こるべきものであって、こちらから招き寄せるものではない。瞑想は精神の遊びではなく、欲望や楽しみでもない。瞑想しようと試みること自体が、まさに瞑想を否定している。ただ、あなたがいま考えていること、行為していることだけに気をとめていなさい。見ること、聞くことは、報いも罰もない行為である。行為の技(わざ)は、見方、聞き方にかかっている。形をとった瞑想はすべて、かならず欺瞞や幻影にいたる。なぜなら欲望は盲目だから。  美しい宵で、春のやわらかい光が地をおおっていた。

【『クリシュナムルティの日記』J・クリシュナムルティ:宮内勝典〈みやうち・かつすけ〉訳(めるくまーる、1983年/原書は1982年)】

 いつの間にか読むものがなくなったので再読した。宮内の訳文は読みやすい。さほどこなれた文章ではないのだが読んでいると気にならない。点線のように言葉が辿りやすいのだろう。

 瞑想の否定である。もちろん瞑想そのものではなく形式・方式に収まった瞑想を指す。これを私は仏教徒への批判と読んだ。悟っていない者が悟った者に額づく時、隷従する精神が悟性の妨げとなる。他人の言いなりになって悟りを開けるのであれば、それは技術となってしまう。よもやブッダが「私に従え」と言うはずもなかろう。

「精神の遊び」という一言が針の如く突き刺さる。悟りへの羨望こそが迷いの本質なのだろう。むしろ迷いをありのままに見つめ、否定も肯定もしないところに悟道がある。

 最後の一行で思弁に基づく批判が封じ込められる。内部が偉大なる空(くう)の境地で占められている人は、ただ世界を受容し、ひたと見つめ、世界そのものと化している。

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