2011-05-31

ひらめき=適応性無意識/『第1感 「最初の2秒」の「なんとなく」が正しい』マルコム・グラッドウェル


 不況が続くとインチキや引っ掛け、詐欺・窃盗の類いが増える。普段は善良な人々がちょっとした誤魔化しを行い、平均的な人物は悪事に手を染めやすい。悪い連中に至っては被災者を騙すくらいのことを平然とやってのける。

 出版不況も長期化している。で、このようなデタラメ極まりない副題をつけるに至るってわけだよ。まあ酷いね。悪質だ。せっかくの内容を台無しにしてしまっている。

 そもそも原題は「“blink”=ひらめき」(訳者あとがき)である。マルコム・グラッドウェルは「ひらめきが正しい」と主張しているわけではない。「正しい場合もあるし、誤るケースもある」と書いているのだ。このため副題を刷り込まれた読者は、内容にチグハグな印象をもってしまう。後半になると「あれ、どっちなんだ?」と混乱するのだ。光文社の罪は大きい。

 これから本書を読もうとする人には、「副題をマジックで消すこと」をお勧めしておこう。

 フェデリコ・ゼリもイブリン・ハリソンもトマス・ホービングもゲオルギオス・ドンタスも、みんなそれを見たとき「直感的な反発」をおぼえた。そのひらめきに狂いはなかった。わずか2秒、文字通り一目で、その像(※紀元前530年頃に作成されたとするクーロス像)の正体を見抜いたのである。ゲッティ美術館の鑑定チームは14か月かけて調べ上げたが、彼らの2秒にかなわなかった。
 本書『第1感』は、この最初の2秒にまつわる物語である。

【『第1感 「最初の2秒」の「なんとなく」が正しい』マルコム・グラッドウェル:沢田博、阿部尚美訳(光文社、2006年)以下同】

 紛(まが)い物といえば骨董品である。有名な美術館であっても偽者をつかませられることがあるようだ。ま、書画骨董の類いは、どことなく信仰と似ている。自分が信じる限りは救われるのだ。

 ところが一流の目利きといわれる人は一瞬で真贋(しんがん)を見分ける。見分けるのだが、具体的な言葉で説明することができない。言葉は思考であり意識であるから、きっと無意識領域で違和感を覚えるのだろう。確かに胡散臭い人物と出会った時などは、「どこがどうってわけじゃないんだが、あの野郎は嘘の臭いがプンプンしていやがるぜ」ってなことが多い。

 果たして脳機能から見ると、どのようなメカニズムが働いているのか?

 このように一気に結論に達する脳の働きを「適応性無意識」と呼ぶ。心理学で最も重要な新しい研究分野のひとつである。適応性無意識は、フロイトの精神分析で言う無意識とは別物だ。フロイトの無意識は暗くぼんやりしていて、意識すると心を乱すような欲望や記憶や空想をしまっておく場所だ。対して適応性無意識は強力なコンピュータのようなもので、人が生きていくうえで必要な大量のデータを瞬時に、なんとかして処理してくれる。

 わかりにくい説明だ。これではヒューリスティクスと変わりがない。コンピュータのようなもの、とは並列処理ができるという意味だろう。取り敢えず「ひらめき=適応性無意識」と憶えておけばいいと思う。

 次に具体的な実験例を示す。

 初対面の人に会うとき、求職者を面接するとき、新しい考えに対処するとき、せっぱつまった状況でとっさに判断しなければならないとき、そういうときに、私たちは適応性無意識に頼る。たとえば学生の頃、担当教官が有能かどうかを判断するのに、私たちはどれくらいの時間を費やしただろう。最初の授業で? それとも2回目の授業のあと? 1学期の終わり?
 心理学者のナリニ・アンバディによれば、学生たちに教師の授業風景を撮影した音声なしのビデオを10秒間見せただけで、彼らは教師の力量をあっさり見抜いたという。見せるビデオを5秒に縮めても、評価は同じだった。わずか2秒のビデオでも、学生たちの判断は驚くほど一貫していた。さらに、こうした瞬時の判断を1学期終了後の評価と比べてみたところ、本質的な相違はなかったという。(中略)これが適応性無意識の力である。

 ここがポイントだ。経験や学習の後に下した判断と、第一印象の判断に相違はない。つまり相手を判断するための情報は量よりも質が問われることを意味する。

 綿密で時間のかかる理性的な分析と同じくらいに、瞬間のひらめきには大きな意味がある。このことを認めてこそ、私たちは自分自身を、そして自分の行動をよりよく理解できる。

 女の直感だ。そして女は直感の奴隷でもある(笑)。

 横方向に合理の世界は広がり、縦方向に直観的英知(ひらめき)が走るのだろう。稲妻のように。

 実験例をもう一つ紹介しよう。

 この実験(サミュエル・ゴスリング)から、一面識もない人物のことを15分間部屋を観察しただけで、長年の知りあいよりも理解できるものだということがわかる。ならば「相手をよく知る」ために会合や昼食を重ねても無駄だ。私を雇っても大丈夫かどうか知りたければ、私の家を訪ねてきて、部屋を見ればいい。(中略)
 この実験も「輪切り」の一例にすぎないのだ。

「輪切り」とはMRI(磁気共鳴画像)に掛けた言葉だ。英知の閃光が見えない内部をも照らすってわけだ。要は「一をもって万(ばん)を知る」ということなんだが、どこに注目するのかが問題だ。しかも相関関係はあったとしても、そのまま因果関係と断定するわけにはいかない。

相関関係=因果関係ではない/『精神疾患は脳の病気か? 向精神薬の化学と虚構』エリオット・S・ヴァレンスタイン

 医者の訴訟リスクは何に由来するのか? この辺りから副題が邪魔になってくる。

 実を言うと、医者が医療事故で訴えられるかどうかは、ミスを犯す回数とはほとんど関係ない。訴訟を分析したところ、腕のいい医者が何度も訴えられたり、たびたびミスしても訴えられない医者がいることがわかった。一方で、医者にミスがあっても訴えない人がかなりの数に上ることもわかった。要するに、患者はいい加減な治療で被害を受けただけでは医者を訴えない。訴訟を起こすのにはほかに「わけ」がある。
 その「わけ」とは何か。それは、医者から個人的にどんな扱いを受けたかである。医療事故の訴訟にたびたび見られるのは、医者にせかされたとか、無視されたとか、まともに扱ってもらえなかったという訴えだ。

 具体的なミスと訴訟に関連性がないとすれば、患者が受けた印象に合理性はない。しかし別の見方をすれば、医師-患者という人間関係において「軽んじられる」ことは患者側のリスク要因となる。だから医学的合理性を欠いてはいるが、社会的な意味合いはあるのかもしれない。

 それにしても驚きだ。訴訟が「好き嫌い」のレベルで行われているというのだから。

 だとしたら、訴えられる可能性を知るのに手術がうまいか下手かを調べても意味がない。医者と患者の関係さえわかればよいのだ。
 医療について研究しているウェンディ・レビンソンは医者と患者の会話を何百件も録音した。ほぼ半数以上の医者は訴えられたことがない。あとの半数は二度以上訴えられている。レビンソンは彼らの会話だけを頼りに、二つのグループの医者に明らかな違いがあることを見つけた。
 訴えられたことのない外科医は、訴えられたことのある外科医よりも、一人の患者につきあう時間が3分以上長かったのだ(前者が18.3分に対して後者は15分)。

 更に補強されたよ(笑)。何だか、ますます民主主義が信用できなくなってきたな。大衆とはポピュリズムの異名だ。

 判断材料は外科医の声を分析した結果だけ。それで十分、威圧感のある声の外科医は訴えられやすく、声が威圧的でなく患者を気遣うような感じの外科医は訴えられにくかった。これ以上【薄い】輪切りがあるだろうか?

 困ったね。何を隠そう私は昔から威圧的な口調で有名なのだ(笑)。その上口が悪い。態度も横柄だ。そのうち誰かから訴えられることだろう。

 他にもウォーレン・ハーディングは見栄えがよかったおかげで、第29代アメリカ大統領になれたという話も出てくる。ま、詐欺師ってえのあ、大体感じがいいからね。

 私は直感的なタイプだ。そして気が短い。時折、「どうしてそんなに怒っているのかわからない」と言われる。説明すると相手は納得するのだが、「そんなことを一々説明させるな!」とまた怒る羽目になる。

 会って話をすれば、かなりのことがわかる。メールやツイッターでも結構わかる。「小野さんと話していると、自分が丸裸にされるようで怖い」と言われたこともある。

 私は昔から違和感を言葉にする努力を自らに課してきた。もちろん時間が掛かった場合もあるが、大体は言葉で説明できる。

 顔色や目つき、声の抑揚、身のこなし方などから伝わってくる情報は意外と多いものだ。クルマに詳しい人であれば、必ずエンジン音に耳を傾けている。

 でも直観を鍛えるのは難しい。だから感情や本能を磨くことを心掛けたい。具体的には感受性である。道を歩きながら光を感じているか。走り出した時の風を感じているか。木を見た時に根の存在を感じているか。二度と見ることのない雲の形に不思議を見出しているか。そんなことが大切なのだろう。



『急に売れ始めるにはワケがある ネットワーク理論が明らかにする口コミの法則』(旧題『ティッピング・ポイント』)マルコム・グラッドウェル
災害に直面すると人々の動きは緩慢になる/『生き残る判断 生き残れない行動 大災害・テロの生存者たちの証言で判明』アマンダ・リプリー

2011-05-30

グレッグ・ルッカ


 1冊挫折。

 挫折20『天使は容赦なく殺す』グレッグ・ルッカ/佐々田雅子訳(文藝春秋、2007年)/50ページほどでやめる。程度の低い娯楽ミステリーとしか思えない。しかも上下二段とはいえ、370ページのソフトカバーで2700円という値段。文藝春秋社はよほどこの本を売りたくないのだろう。表紙に配されたイラストは漫画そのもので持ち歩くことを困難にしている。タラ・チェイスという女性版007のようなシリーズらしい。設定も現実離れしていて、あざとさを感じる。今後、私がこのシリーズを読むことはなさそうだ。

2011-05-29

素粒子衝突実験で出現するビッグバン/『物質のすべては光 現代物理学が明かす、力と質量の起源』フランク・ウィルチェック


『ホーキング、宇宙を語る ビッグバンからブラックホールまで』スティーヴン・ホーキング
『エレガントな宇宙 超ひも理論がすべてを解明する』ブライアン・グリーン
『ブラックホール戦争 スティーヴン・ホーキングとの20年越しの闘い』レオナルド・サスキンド

 ・素粒子衝突実験で出現するビッグバン

・『量子力学で生命の謎を解く 量子生物学への招待』ジム・アル=カリーリ、ジョンジョー・マクファデン
『サイクリック宇宙論 ビッグバン・モデルを超える究極の理論』ポール・J・スタインハート、ニール・トゥロック
『すべては量子でできている 宇宙を動かす10の根本原理』フランク・ウィルチェック

「あ、そうだ。画像を探さなくっちゃ……」と思い立ってから既に1時間以上経過している。前に保存しておいたのだが、パソコンが成仏してしまったのだ。目的の画像を見つけるまで、それほど時間はかからなかった。何の気なしに「Big Bang」で画像検索をし、更に「LHC」(大型ハドロン衝突型加速器)で調べたのが過ちであった。あるわあるわ(笑)。おかげで動画まで辿ることができた。そして書く気が完全に失せてしまった(笑)。

 著者のフランク・ウィルチェックは2004年にノーベル物理学賞を受賞している。だからいい加減なことは書いていないはずだ。多分。私程度の知識ではかなり難しかった。それでも何とか読み終えることができたのだから、わかりやすく書いてあるのだろう。

感覚と世界模型

 そもそもわたしたち人間というものは、奇妙な原材料を使って自分たちの世界の模型を作っている。その原材料を収集しているのが、情報に溢れた宇宙にフィルターをかけて、数種類の入力データの流れに変えられるように、進化によって「設計」された信号処理ツールだ。
「データの流れ」といっても、ぴんとこないかもしれない。もっと馴染み深い呼び名で言えば、視覚、聴覚、嗅覚などのことだ。現代では、視覚とは、目の小さな穴を通過する電磁輻射の幅広いスペクトルのなかで、虹の七色に当たる狭い範囲だけを取り上げて標本抽出するもの、と捉えられている。聴覚は、鼓膜にかかる空気の圧力をモニターし、嗅覚は、鼻粘膜に作用する空気の化学分析を提供するが、その分析は不安定なこともある。ほかに、体が全体としてどんな加速をしているか(運動覚)や、表面の温度や圧力(触覚)について大雑把な情報を与えるもの、舌のうえに載った物質の化学組成について数項目の粗雑な判定を行なうもの(味覚)、そして、ほかにも数種類の感覚系統が存在する。

【『物質のすべては光 現代物理学が明かす、力と質量の起源』フランク・ウィルチェック:吉田三知世〈よしだ・みちよ〉訳(早川書房、2009年)以下同】

 既に何度も書いてきた通り、感覚されたもの=世界である以上、世界とは感覚された情報空間を意味する。つまり世界は目前に開けているわけではなく、感覚の中にのみ存在するのだ。世界とは感覚であると言い切ってしまっても構わない。目をつぶれば全くの別世界が立ち上がってくる。光のない世界だ。しかしながら構成が変わっただけで感覚がある限り世界は厳然とある。

 世界の深奥(しんおう)にある構造は、その表面構造とはまったく異なる。人間に生まれつき備わっている感覚は、人間が作り上げた、最も完全で正確な世界模型にはうまく対応できない。

 マクロ宇宙では時空が歪んでいるし、ミクロ宇宙では光子が粒なのか波なのかすら判然としない。人間の感覚で知覚できるサイズは限られている。物質に固体・液体・気体という位相があるように、宇宙にも位相があるのだろう。

 実際、質量保存則が、ものの見事に成り立たない場合もある。ジュネーヴ近郊のCERN研究所で1990年代に稼働していた大型電子陽電子コライダー(LEP)では、電子と陽電子(電子の反粒子)が、光速の99.999999999パーセントに迫る速度に加速される。この速度で逆向きに回転する電子と陽電子を衝突させると、衝突の残骸が大量にできる。典型的な衝突ではπ中間子が10個、陽子が1個、そして反陽子が1個生じる。さて、衝突の前後の送出量を比べるとどうなるだろうか?
(式、中略)
 でてくるものが、入ってきたものの約3万倍も重いことになる。

 表紙に配されているのは高エネルギーで重イオンを衝突させた実験の画像である。


 誰もが「何じゃ、これは!」とジーパン刑事の台詞(せりふ)を口にしたことと思う。確かに我々の感覚世界を超越してますな。しかも、1×1の衝突が3万となるのだ。願わくは1円玉と1円玉をぶつけて、3万円にして欲しいものだ。

 この状態を「スモール・ビッグバン」と称する。動画があったので紹介しよう。


 いやあ興奮してくる。だが、この実験に反対する科学者もいる。素粒子の衝突で生じた莫大なエネルギーがブラックホールを生成する可能性があるというのだ。

超大型粒子加速器でブラックホール製造実験

 自然界の基本相互作用は四つの力で、強い力・弱い力・電磁力・重力で構成されている。強い力は距離に反比例して離れれば離れるほど強くなる。原発事故を見てもわかるように、微小な世界にとんでもない力が隠れている。

 では、他の画像も紹介しよう。詳細は不明だが、いずれもスモール・ビッグバン直後の様相を撮影(またはモデル化)したものと思われる。


 ねー、凄いでしょー。しかし何なんだろうな、この感動は。「神は言われた。『光あれ』。こうして、光があった」(旧約聖書、創世記)ってな感じだわな。

 一般的に、運動している物体や、相互作用する物体の場合、エネルギーと質量は比例しません。E=mc²は、まったく成り立たないのです。

 静止状態と関係性が織り成す現実世界との相違。

 じつのところ、光そのものが、たいへん印象的な例だ。光の粒子、光子は、質量がゼロである。なのに、光は重力によって曲がってしまう。と言うのも、光子のエネルギーはゼロではなく、重力はエネルギーに作用するからだ。

 ってことは光の場合、E=cになるってことなのか? 頭の中にフックが引っ掛かるのだが、如何せん知識が追いつけない。

 すべてのものは電子と光子でできている。原子は、電子と原子核でできている。原子核は、すべての電子が集まった電子殻よりもはるかに小さい(原子核の半径は、電子殻のそれの約10万分の1)が、そこに正の電荷がすべて存在し、また、原子の質量のほとんど全部──99.9パーセント以上──が集中している。電子と原子核が電気的に引き付け合うことで、原子は一体に保たれている。最後に、原子核は陽子と中性子でできている。原子核を一体に保っているのは、電気力とはまた違う、はるかに強いが短い距離しか働かない力である。

原子の99.99パーセントが空間

 つまり、パチンコ玉(11mm)の向こう側にサッカー場の長い方を30個並べた状態で、質量はパチンコ玉に集中しているわけだ。

 クォークとグルーオン──厳密には、クォークとグルーオンの場──は、完璧で完全な数学的対象物だということだ。クォークとグルーオンの性質は、サンプルを提供したり、測定したりすることは一切必要なしに、概念だけを使って、完全に記述することができる。そして、その性質は、変えることができない。方程式をいじくりまわせば、式を損なわずには済まされない(実際、式は矛盾するようになってしまう)。グルーオンは、グルーオンの方程式に従うものなのだ。ここでは、物質(イット)がビットそのものなのである。

 クォークが素粒子の一種であることは知っているが、グルーオンというのがわかりにくい。膠着子(こうちゃくし)だってさ。動きの悪そうな名前だよね。

 ジョン・ホイーラーが「世界のありとあらゆるものは情報であり、その情報(bit)を観測することによって存在(it)が生まれる」と提唱した(宇宙を決定しているのは人間だった!?  猫でもわかる「ビットからイット」理論、を参照した)。

 ところが、ミクロ世界においてはイット=ビットとなる場合があるというのだ。いやはや驚いた。きっと万物は情報なのだろう。存在=情報。

1ビットの情報をブラックホールへ投げ込んだらどうなるか?/『ブラックホール戦争 スティーヴン・ホーキングとの20年越しの闘い』レオナルド・サスキンド
生命とは情報空間と物理空間の両方にまたがっている存在/『苫米地英人、宇宙を語る』苫米地英人

 で、本書を読めば「物質のすべては光」であることが理解できるかというと、そうは問屋が卸さない。やや尻すぼみになっている印象もある。ただ、科学が全く新しい宇宙の前に立っていることだけは凄まじい勢いで伝わってくる。

 知性は前へ進み続ける。宇宙の成り立ちを理解した時、人間の内なる宇宙も一変するに違いない。



ブラックホールの画像
大型ハドロン衝突型加速器(LHC)とスモール・ビッグバン

2011-05-28

皮肉な会話と皮肉な人生/『奪回者』グレッグ・ルッカ


 皮肉な科白(せりふ)に込められた諧謔(かいぎゃく)は高い知性に支えられている。聞き手を選ぶような側面もある。説明を求められてしまえば台無しだ。「クックックッ」と笑ってもらうのが望ましい。皮肉とは会話におけるスパイスであり、洒脱なフェイントでもある。グレッグ・ルッカは、皮肉な人生と皮肉な会話を描くの巧みだ。

 前作で親友を喪ったアティカス・コディアックはうらぶれた姿で、ボンデージ・クラブのパート用心棒をしていた。

 用心棒(バウンサー)とは、人を見る稼業だ。注視し、そして無視することの繰り返し。厄介ごとになりそうな人間を探す──厄介ごとの種(トラブル)を選びだす。そして待つ。自分が抱えている相手がほんとうに厄介ごとになると確信するまで、行動は起こせないからだ。

【『奪回者』グレッグ・ルッカ:古沢嘉通〈ふるさわ・よしみち〉訳(講談社文庫、2000年)以下同】

 そこへ、かつて警護をしたことがあるワイアット大佐の娘が現れた。エリカはまだ15歳だった。酔客から襲われそうになったエリカをコディアックが守る。エイズで死に掛けていた父親からエリカの警護を依頼される。エリカを付け狙う敵は、なんとSAS(英国陸軍特殊空挺部隊)のチームだった。

 ワイアット大佐一家との過去と前作での精神的ダメージが伏線となっており、SASの存在が謎となっている。

 ワイアット大佐は傲慢を絵に描いたような人物で、離婚したダイアナは何でも割り切るタイプだ。で、娘のエリカは小生意気ときている。幼い頃、アティカスに約束を破られたことが心の傷となっていた。

 われわれのどちらも身動きせず、じっとしていた。みぞれと川、その水音に耳を傾けているのは、この世でわれわれだけのようだ。ハドソン川沿いのこの部屋で3個の暖房機とうんざりするほどの過去を抱えたふたりの男だけ。

 中年と書かないところがミソ。

「アティカス!」やたら嬉しそうな声だった。「まいったな、きょう電話しようと思っていたんだ。今晩バー巡りをして、アメリカの若者を腐敗させたいかどうか訊こうとしてな」

 一杯呑みにゆく、とも書かない(笑)。いやあ、上手いよねー。

 恋人のブリジット・ローガンも中々振るっている。

「これはなんだい?」わたしは訊いた。
「『プレゼント』と呼ばれているやつだよ。いいかい、ある種の文化では、だれかが別の人を好きになり、当該(とうがい)人物になにかすてきなことをしたくなったときに、贈り物を贈るというという純然たる喜びのため、商品の形を借りて相手にお金を支払うのさ。古くからあり、尊ばれている資本主義の伝統なんだ」
「ご説明ありがとう、マーガレット・ミード人類学者殿」

 マーガレット・ミードはルース・ベネディクトと並んで米国を代表する文化人類学者だ。そしてブリジットはぶっ飛んだ私立探偵である。エリカとブリジットの罵り合いも見ものだ。

「『そして死は汝(なんじ)を恐れん、汝(なんじ)が獅子(しし)の心を持つがゆえに』」そう言って、ヨッシは砂糖とクリームをまぜた。「アラブのことわざだよ。気に入ってるんだ」

 この言葉が相応(ふさわ)しい男がアティカスだった。

 ダイアナは一度わたしを撃ったのだ。腹を撃ったのだった。
 両脚が痛かった。筋肉痛だ。それで思いだして、腹部の痛みがひどくなり、痛みは体のなかをきままに動きまわった。わたしは横になったまま、なんとか落ち着こうとしていた。両脚が震えてきており、すすり泣きが聞こえた。自分が泣いているのか、冬の風が吹いているのか。
 風であってほしいと神に祈った。
 血がこぼれていく音が聞こえる気がした。

 かつて愛し合った女性からアティカスは撃たれた。名場面といってよい。ハードボイルドの文体も決まっている。彼は生き永らえることを神には祈らなかった。ただ、自分が泣いていないことを願った。

 ドロドロした家族関係、やさぐれた少女、そしてブリジットとの関係も気まずくなる。更に実力ではSASに敵うべくもない。クライマックスは重火器戦となる。

 グレッグ・ルッカはこのシリーズで、パーソナル・セキュリティ・エージェント(ボディガードと呼ばれることをアティカスは好まない)をトリックスターにしながら、実は「家族の物語」を描いている。前作は堕胎で、第2弾は離婚がテーマだ。この主旋律を見落とすと味わいが薄れてしまう。

 登場人物の誰もが上手く生きられないことで懊悩(おうのう)している。そして行き場をなくした途端、大きな決断を迫られる。ラストシーンにはそんな著者の思いが込められている。

 警護に関して絶対的な真実がひとつある。その真実とは、単純なもので、だれかを完璧に警護するのは不可能だということだ。できっこないのだ。ボディガードにできることは、オッズを減らし、予防措置をほどこし、敵対勢力よりもずるがしこくなろうとすることだけだった。それだけなのだ。なぜなら、最終的に、時間とほかのあらゆることが相手チームの味方につくからだ。彼らは待つことができる。計画を練ることができる。警護側がけっして寄せ集めることのできないであろう時間と金、調査と人員を投下することができる。すべての努力を払ったあと、差を生じさせるのはそこなのだ。

 人生も同じだ。できることを淡々とやり抜くだけだ。もしも取り返しのつかないことをしてしまったなら、またそこからやり直せばいい。

妊娠中絶に反対するアメリカのキリスト教原理主義者/『守護者(キーパー)』グレッグ・ルッカ
グレッグ・ルッカにハズレなし/『暗殺者(キラー)』グレッグ・ルッカ
作家の禁じ手/『耽溺者(ジャンキー)』グレッグ・ルッカ

小沢批判と小沢礼賛


 小沢一郎である。小沢批判と小沢礼賛とが同じ程度に薄気味悪いのは、そこに自分を投影しているためだろう。ま、その意味で小沢は鏡の役割を果たしているといってよい。

2011-05-27

よい制度


 よい制度は素晴らしい家のようなものだ。そこに住む家族が円満であるとは限らない。

属人主義と属事主義/『無責任の構造 モラル・ハザードへの知的戦略』岡本浩一


「偶像崇拝」について書こうとしていたのだが、色々と調べているうちにこちらを先に紹介する必要が生じた。ま、人生が旅のようなものであるなら、なにも目的地を目指して最短距離をゆくこともあるまい。寄り道こそが旅を豊かにするのだから。

 岡本浩一の著作には注意を要する。極めて説明能力が高いにもかかわらず、低俗な結論に着地する悪い癖があるからだ。たぶん野心に燃えている人物なのだろう。社会秩序に寄り添うような考え方が目立つ。だから、批判力を欠いた人には不向きだ。読書会のテキストなどに向いていると思われる。

 本書の中で属人主義と属事主義というキーワードが出てくる。

 最後に、とくに日本の職場風土の問題として顕在性が高いと著者が判断する、二つのトピックを「無責任の構造」の病理としてとりあげる。権威主義と属人主義である。権威主義は、社会心理学で多くの研究がなされて熟した用語であり、属人主義は、著者が評論などで用いている著者の造語である。権威主義は、国籍、文化に特定されず、広く見られる問題であるが、属人主義は、権威主義の日本的な現れ方の代表的なものだと考えればよいだろう。
 この二つは、日本の職場風土において、「無責任の構造」への服従を強いるとき、あるいは、盲従を宣揚するときに、その文法構造として機能する。その文法構造は、会議の発言や政策という具体的な形以外にも、目立たない形でなかば無意図的に用いられていることがある。稟議などの形式や、回覧順、書類の欄の構成、会議の席順、発言順、書類やお茶を配る順など、非言語的で非明示的なところにまで、権威主義、属人主義が紋切り型に浸透していることがある。「無責任の構造」を自覚し、そのなかで、良心を維持するということは、このようなところにまで浸透している権威主義や属人主義をも自覚することなのである。

【『無責任の構造 モラル・ハザードへの知的戦略』岡本浩一〈おかもと・こういち〉(PHP新書、2001年)以下同】

 つまり、「誰が」言ったか、「誰が」行ったかという視点が属人主義である。

 ネーミングとしてはよくない。なぜなら法律用語として別の意味があるからだ。私がアメリカ国内で犯罪をおかしたとする。この場合に日本の法律を適用するのが属人主義で、米国法を適用することを属地主義という。

 そもそも属人的視点あるいは価値観というべき性質であって、「主義」とは言いがたい。

「属事主義」とは、私の造語である。ことがらの是非を基本としてものを考えるのを属事主義と呼ぶことにした。

 話した「内容」、行った「事柄」に注目するのが属事である。

 属人と属事を一言で表せば「人」と「事」ということになる。このどちらに注目するか?

 本書は権威について書かれた本なので、当然の如く属事的な判断ができないところに組織崩壊の原因があるとしている。確かにそうなんだが、これでは足し算・引き算程度の計算である。

(※属人主義的情報処理のもとでは)誰かが自分の意見を支持してくれると、意見の正邪による発言とみなさず、「自分の味方をしてくれた」という対人的債務のようにみなす風土が発生することが少なからずある。そうすると、その相手が、今度、間違った意見を言っているときでも、「彼にはこのあいだ自分の意見を支持してもらった借りがある」という理由で、間違ったことがわかっていながら、支持を「返済する」ということが起こる。同様に、自分の意見を支持してくれなかった相手に、不支持による報復をするということも起こるわけである。

「対人的債務」というのは絶妙な例えだ。恩の貸し借り。結局、コミュニティ内部の同調圧力と権威が織り成すハーモニーが「服従」の曲を奏でるのだろう。

 私が民主主義を信用できないのは、判断材料が乏しいことと、人間の判断力に疑問を抱いているからである。高度情報化社会となると、メディアから垂れ流される恣意的な情報によって一票を投ずるしかない。現状はといえば、好き嫌いや損得で判断している人が多いのではなかろうか。だからこそ、恩の貸し借り=票の貸し借りみたいな情況がいつまで経ってもなくならないのだ。

 そして一番肝心なことは、誰人に対しても「そんな投票の仕方は間違っている」と言う資格はないのだ。いかなる判断を行使しても構わないし、投票へ行かないのも自由だ。

 大体、政治に「正しさ」を求めること自体がナンセンスなのかもしれない。「国益こそ正義」なあんてことになったら大変だ。

 私は民主主義に不信感を抱く一方で、政党政治を心の底から嫌悪している。ああ、そうだとも。でえっ嫌いだよ(←江戸っ子下町風)。党議拘束で自由な意見を封ずる政党政治は、属人主義というよりは属党主義である。「何でも党の言いなりになるんじゃ、党の犬と言われても仕方がないよ」と告げたら、彼らは「ワン」と返事をすることだろう。

 そう考えると国民は属国主義となりますな(笑)。マイホームパパは属家主義。

 でもさ、自我を支えているのって実は帰属意識なんだよね。

 属人主義的な感覚の人は、善悪などの判断も、じつはかなりの程度に対人依存していると考えてよい。つまり、もしあなたが属人主義なら、いまの職場に「『無責任の構造』がある」と考えて苛立つあなたの義憤そのものが、職場でかつて実力派閥だったグループの考え方を受けているだけのものであったり、あるいは、いま、職場を牛耳っているとあなたが感じているグループに対する反感が核になっているだけのものである可能性がある程度以上に高い。

 コミュニティ内部の敵味方意識が反対意見を排除する。このため組織というネットワークは必ず人々を隷属させる方向へと進む。ピーターの法則によれば、無責任どころか無能へ至るのだ。

残酷なまでのユーモアで階層社会の成れの果てを描く/『ピーターの法則 創造的無能のすすめ』ローレンス・J・ピーター、レイモンド・ハル

 岡本はあとがきにこう記している。

 真摯な判断を目指す人は、自己の選択が「良心的」であるかどうか日々懊悩しては懐疑し、葛藤するものだから、真摯であればあるほど、「自分が良心的だ」という自信からは遠ざかるはずである。
「自分が良心的な人間だ」などと公言できる人は、「良心」の基準がよほど甘いか、現実の複雑な厳しさに気がつかないほど脳天気な人なのだ。この種の公言が、真に良心的たり得ぬ人物の第一条件であるのは、「嘘をついたことがない」という公言がその公言そものを裏切っている無自覚と似ている。

 文章は上手いのだが、正義と善を混同している節が窺える。正義は立場に基づいている。泥棒にとっては盗むことが正義だ。資本家にとっての正義は金儲け(搾取)であろう。ビンラディンを殺害することがアメリカの正義で、そのアメリカに報復するのがアルカイダの正義だ。正義は集団の数だけ存在する。一方、善は異なる。善というのは万人にとって望ましい価値を意味するのだ。

 属事的判断は大変重要ではあるが、実践するのは至難である。それから、詐欺師だってもっともらしいことを言うのだから言葉を過信するのも危険だ。

権威主義と属人主義
脆弱な良心は良心たり得ない/『無責任の構造 モラルハザードへの知的戦略』岡本浩一
民主主義の正体/『世界毒舌大辞典』ジェローム・デュアメル

2011-05-26

ウイルスとしての宗教/『解明される宗教 進化論的アプローチ』 ダニエル・C・デネット


神経質なキリスト教批判/『神は妄想である 宗教との決別』リチャード・ドーキンス

 ・ウイルスとしての宗教

進化宗教学の地平を拓いた一書/『宗教を生みだす本能 進化論からみたヒトと信仰』ニコラス・ウェイド
キリスト教を知るための書籍

 ここにビーカーがある。中には世界が入っている。今から2000年ほど前を境にして、ビーカーの内部は3色に染められた。後世の人々はこれを世界三大宗教と呼んだ。科学的視点とはこういうものだ。客観性に裏打ちされた俯瞰。

 で、色が広がる様相をウイルスの猛威に例えることは決して奇想天外のものではない。人々の間で心から心へと伝達や複製をされる情報の基本単位を表す概念をリチャード・ドーキンスは「ミーム」と名づけた。

ミーム:Wikipedia

 過激な保守や革新、原理主義的色彩の強い宗教、短絡的なレイシスト(人種差別主義者)を見ていると、ウイルスという考えが腑に落ちる。ストンと落ちるね。声高な主張はいかなる内容であったとしてもどこか病的だ。彼らの思想は、心を病んだ連中がもたれかかる杖のように映る。

 ミームとは多くの人々の脳内情報を書き換えるウイルスと考えればわかりやすい。

 これ(※寄生虫にコントロールされるアリ)と似たようなことが、そもそも人間に起こるだろうか。まったくその通り、起こるのである。私たちは、しばしば、人間が自分の個人的な利益や、自分の健康や子どもを持つ機会を顧みず、自分の中に寄宿している【観念】の利益を増加させることに全人生を棒げるのを見る。【イスラーム】というアラビア語は「服従」を意味し、良きイスラム教徒(ムスリム)は皆、証人(あかしびと)となり、1日に5回祈りを捧げ、施しを与え、ラマダンの時間には断食し、メッカへの巡礼の旅をしようと努力する。すべて、アラーという観念のため、そして、アラーの言葉を伝えるマホメットという観念のためである。もちろん、キリスト教徒やユダヤ教徒も、同様のことをする。彼らは、〈御言葉〉を広めるために生涯を捧げ、一つの観念のために多大な犠牲を払い、苦しむこと厭わず、命を危険にさらす。シーク教徒もヒンドゥー教徒も仏教徒も同じだ。さらに、〈民主主義〉や〈正義〉、さらに明白な〈真理〉のために自らの命を捧げた、何千もの世俗のヒューマニストも忘れてはなるまい。そのために死ねるような観念は、たくさんあるのである。

【『解明される宗教 進化論的アプローチ』ダニエル・C・デネット:阿部文彦訳(青土社、2010年)以下同】

寄生虫は人間をマインドコントロールするか 英研究

 似たような動画があるので紹介しよう。


カタツムリの行動を支配するゾンビ


アリを支配するゾンビのような菌類

 ゾンビに支配されると長生きできることが前もってわかっていれば、あなたはどうするだろうか? 最近だと少量の放射線が健康にいいという論調もある。免疫学者の藤田紘一郎〈ふじた・こういちろう〉は15年間で6代にわたってサナダムシを飼育している。自分の腸内で。ビフィズス菌になら支配されてもいいよ、俺は。

 いずれにせよ人々に犠牲を命ずる思想は、「人間を手段化する」と考えてよろしい。必ずプロクルステスのベッドみたいな状況が出てくる。ほんの少しでも殉教を美化する宗教は危険だ。

 観念というものは、どのようにして心によって創造されるのだろうか。奇跡的な霊感(インスピレーション)によってかもしれないし、もっと自然な手段によってかもしれないが、いずれにせよ、様々な観念は、心から心へと広がり、異なる言語間の翻訳で生き残り、歌や聖像や彫像や儀式に乗ってヒッチハイクし、特別な人々の頭の中で思いがけない結合状態を作り出す。この結合状態において、観念は、自らを刺激した諸観念と親和的類似性を持つことによって、しかしまた、新しい特徴と前進する新しい力を持つことによって、さらに新しい「創造」を成し遂げる。

 社会も脳もネットワークで構成されている。システムの変更には必ずフィードバックを伴う。つまり現実との双方向性の中で観念は構築されるのだ。インスピレーションは無意識領域から湧くものだ。何かと何かがつながる瞬間であり、それ自体が新たなネットワークと化す。流行が受け入れられるのは、それだけ同じ無意識領域を共有している人が多いことを示している。

 ダニエル・C・デネットはアメリカの哲学者なので、キリスト教を俎上(そじょう)に乗せていると考えられる。だが、鋭い切っ先は全ての宗教が受け止めなくてはならない。

 では宗教をどのように定義するのか?

 さらに言えば、定義というものは修正を受けるものであり、それは出発点であって、石に深く刻まれたもののように消滅の危険から守られているものではない。先の定義に従えば、エルヴィス・プレスリー・ファンクラブは宗教ではない。なぜなら、そのメンバーは確かにエルヴィスを【崇拝している】かもしれないが、エルヴィスを文字通り超自然的なものとは考えてはおらず、とりわけすばらしい人間だったと考えているからである(そしてもしも、エルヴィスは真に不死なるもの、神的なものであると判断するファンクラブが現れるなら、その時には、そのファンクラブはまさに新しい宗教への歩みをはじめたことになる)。

「永遠なるものへの崇拝が宗教である」と。上手い。論理を超越した非科学性に額づかせるのが宗教の仕事だ。「黙って私についてきなさい」と。で、ついてゆくと、そこには募金箱があるという寸法だ。

 人間が有限性を自覚した時、神が誕生したのだろう。神は不老不死であり、永遠を体現している。だが永遠というものは概念であって実体はない。無限の数と一緒で、数える人がいなくなった時点で永遠の息の根は絶たれる。っていうか、時間そのものが概念なのだ。

月並会第1回 「時間」その一

 第一の呪縛(スペル)――タブー――と、第二の呪縛――宗教それ自身――は、たがいに結びつき、奇妙な合体状態を形成している。宗教の持つ強さの【一部】は――おそらく――タブーによる庇護であるかもしれない。

 これまた見事な指摘である。「タブーによる庇護」と。どんな教団でも神聖さを冒すような質問は許されない。神への冒涜は信仰者が最も恐れる罪状だ。

 誰でも聖書を引用して、どんなことでも示すことができるが、だからこそ、自信過剰を憂慮すべきなのだ。
 あなたは今まで、【自分が間違っていたらどうなるのだろう】と自問したことがあるだろうか? もちろん、あなたのまわりにはあなたの確信を共有しているたくさんの仲間たちがいるだろう。これが責任の所在を分散し――そして、悲しいことに、責任を軽くしている。だから、これからあなたが後悔の言葉を口にする機会があっても、簡単に言い訳をすることができるだろう。自分は狂信者たちに引きずられていただけだ、と。しかし、あなたは、悩ましい事実にきっと気づいていたはずだ。歴史は、お互いに扇動し合って破滅への道を突き進んだ勘違いしたら大集団のたくさんの実例を、教えてくれる。あなたはそのような集団に属しているのではないと、どうして確信を持って言うことができるのだろうか? 私個人としては、あなたの信仰に畏敬の念を抱いてはいない。私は、あなたの傲慢さに、すべての答えを知っているという無責任な確信に、本当に驚かされる。〈終わりの時〉を信じる人々は、この本を読み通す知的な誠実さや勇気を持てるだろうか?

 アメリカは世界でも珍しい宗教風土で、科学が否定された中世的な色彩が濃い。例えば日本では公開されていないが、こんな映画もある。

映画『ジーザス・キャンプ アメリカを動かすキリスト教原理主義』


 虐待に等しい洗脳教育をされた挙げ句に、幼い子供たちが喜悦の涙で頬を濡らしている。これほど醜悪な映像もあるまい。閉ざされた環境におかれると人間は簡単にコントロールされる。

 宗教とは確信の異名でもあろう。そこに懐疑が入り込む余地はない。信仰という情念が知性を封ずる。

 更にいえば、教義の絶対性に依存することで、宗教者は自我の脆(もろ)さを補完していると考えることができよう。

 本のつくりが素晴らしく青土社(せいどしゃ)の気合いが伝わってくる。後半はやや失速しているが、十分お釣りがくる内容だ。


宗教とは何か?
キリスト教の「愛(アガペー)」と仏教の「空(くう)」/『日本人のための宗教原論 あなたを宗教はどう助けてくれるのか』小室直樹
デカルト劇場と認知科学/『神はなぜいるのか?』パスカル・ボイヤー
読後の覚え書き/『ドアの向こうのカルト 九歳から三五歳まで過ごしたエホバの証人の記録』佐藤典雅
人間は世界を幻のように見る/『歴史的意識について』竹山道雄
寄生生物は人間を操作し政治や宗教にまで影響を及ぼす/『心を操る寄生生物 感情から文化・社会まで』キャスリン・マコーリフ
昆虫を入水(じゅすい)自殺させる寄生虫/『したたかな寄生 脳と体を乗っ取り巧みに操る生物たち』成田聡子

2011-05-24

オートバイと自転車の違い


 オートバイと自転車は違う。オートバイにはエンジンが付いている。だが、二輪車という括りで見ると大差はない。オートバイも自転車も知らない人が見れば、その違いは理解できないことだろう。つまり同じ乗り物として認識するはずだ。仮に宗教を知らない人々がいたとしよう(例えば火星人)。彼らからすれば、仏教、キリスト教、イスラム教は同じものに見えることだろう。テキストを読んで祈りを捧げるという点で一致している。

あまりにも恐ろしくて読み終えることのできなかった本


 人生は「私」という形によって限定されている。だからこそ人と会い、本を開くのだ。コミュニケーションとは交換の異名だ。そして心が通い合うと、交換は交感~交歓へと高まる。つまり双方向で変容が起こるのだ。読書という営みは書き手との対話といえよう。国を飛び越え、時代を超越してコミュニケーションが可能となるのだから凄い。とはいえ、あまりにも恐ろしくて読み終えることのできなかった本が2冊だけある。

 プリーモ・レーヴィの『溺れるものと救われるもの』は読んでいると死にたくなってくる本だ。底知れぬ人間の絶望に私はたじろいだ。本を投げるようにして閉じた。ひょっとすると50歳をすぎても読めないかもしれない。

 もう1冊は、P・マルヴェッツィ、G・ピレッリ編『イタリア抵抗運動の遺書 1943.9.8‐1945.4.25』だ。絶版になるのを恐れて3冊買った覚えがある。祖国解放のために若き命を散らしていった青年たちの清らかさを、私は直視することができなかった。彼らはあまりにも眩(まぶ)しすぎた。今ようやく半分ほど読み終えたところだ。私の子供であってもおかしくない若者たちの遺書である。キリスト教が慰めとなっている事実を批判する気も起こらない。ただ静かに、じっくりと彼らの今際(いまわ)の言葉に耳を傾けよう。

溺れるものと救われるもの イタリア抵抗運動の遺書―1943・9・8‐1945・4・25 冨山房百科文庫 (36)

若きパルチザンからの鮮烈なメッセージ/『イタリア抵抗運動の遺書 1943.9.8-1945.4.25』P・マルヴェッツィ、G・ピレッリ編

目的や行為は集団に支配される


 医療はどこに存在するのか? 病院だ。労働は会社に、教育は学校に、信仰は教団においてのみ存在する。おかしいと思わないか? 目的や行為が特定の場所にしかない実態が。人間と人間との間で機能してきた本来の営みが集団や組織に支配されているのだ。

「手当て」という言葉は、額に手を当てて熱を計ったり、患部をさすったり、傷を保護することに由来しているのだろう。ところが医学技術が発達した現在では、勝手な医療行為は法律で規制されており、例えばヘルパーなどには認められていない(救命措置を除く)。

 結局のところ、人間は国家というシステムに隷属せざるを得ないのだ。危急存亡の秋(とき)とあらば、国民は喜び勇んで国家の捨て石となる。その意味で国家とは「祖国のために死ね」と命ずる装置といえよう。

 目的や行為が集団に支配されるのは資本主義の末路と考えられる。全ての関係性が消費に収斂(しゅうれん)され、経済的な対価が求められるのだ。

 かつて国家が国民のものであったことは一度もない。その意味では民主主義を論じること自体が、国家を正当化する論調となってしまう。民主主義は単なる概念であって、現実には単なる多数決を意味する言葉だ。つまり政治は国会においてのみ存在する。

 宗教だともっとわかりやすい。入会を強要する行為が信仰であるはずがない。教えを広めるはずの布教が勢力拡大に堕している。これはマーケットの論理だ。大きな教団が多額の金を払ってメディアに広告を打つのも同様である。教勢拡張を狙ったプロパガンダにすぎない。

 資本主義が一切を消費対象に変え、人間関係を商行為に貶(おとし)めている。恋愛ですら、ドラマや流行歌の歌詞に合せようと精一杯の努力を傾ける。文明は生活を豊かにしたが、生き方を貧しくした。

民主主義の正体/『世界毒舌大辞典』ジェローム・デュアメル

2011-05-23

ファイナンシャル・リテラシーの基本を押さえる


 これは左から順番に読むこと。『金持ち父さん 貧乏父さん』はシリーズ化されているが1冊読めば十分だ。

バビロンの大富豪 「繁栄と富と幸福」はいかにして築かれるのか金持ち父さん貧乏父さん世界にひとつしかない「黄金の人生設計」なぜ投資のプロはサルに負けるのか?― あるいは、お金持ちになれるたったひとつのクールなやり方

2011-05-22

放射線と寿命に関する覚え書き


 寿命に及ぼす放射線の影響について調べた。「いたずらに不安を煽るな」という声と「リスクに備えて迅速な行動を」という声がウェブ上でも交錯している。高度情報化社会とは情報に翻弄される社会情況を意味する。ま、そんなわけで当然のごとく広告代理店が幅を利かせることと相成る。情報には意図が込められ、加工され、修正を加え、割愛し、手直しが施され、彼らが望む方向へと人々は誘導される。現代においては戦争の演出まで広告代理店が行っている

 いずれにせよ、「何もわからない」ことが一番怖い。「わからない状態」にどっぷりと首まで浸(つ)かって、テレビを観ながら笑っていることが恐ろしい。

 以下は全て各サイトからの抜粋である。当たり前の話だが、我々はデータの真偽を確認することができない。つまり、100%正しい判断を下すことは不可能だ。



被爆者平均年齢、75.92歳に上昇 厚労省まとめ

 平均年齢は全国統計を取り始めた2000年度(70.86歳)以降、上昇を続けている。今年3月末の被爆者は広島市内で7万3388人、広島県全体では10万6415人だった。

中國新聞 2009年7月22日



被爆者手帳、早く取るほど長生き 男性の統計解析

 被爆者の男性では被爆者健康手帳を早く取得したほど長生きする傾向があることが7日、広島大原爆放射線医科学研究所(広島市)の大谷敬子研究員(統計学)らが広島県内の被爆者約16万人を対象に実施したデータ解析で分かった。
 1957年に施行された原爆医療法(現・被爆者援護法)に基づき、国から被爆者と認められ手帳を交付された人は、年2回の定期健康診断を公費で受診でき、医療費負担も大幅に軽減される。
 大谷研究員は「病気の早期発見・治療につながるため、取得時期によりその後の死亡リスクに差が出た」と分析。「援護制度が被爆者の健康維持に有効だという証左になる」と話している。(共同通信)

琉球新報 2011年1月7日



原爆被爆者の平均余命に関する研究

 長崎原爆による被爆者を用いて研究が行われている長崎大学原爆後障害医療研究施設でも、高線量被爆者は死亡リスクが高く、寿命は短い傾向にあることが報告されている。しかし、低線量から中程度の線量で被爆した男性では、3km以遠で被爆した者と比べて死亡率が有意に低く、寿命が長い傾向にあった。また、50-99cGyで被爆した男性の平均余命は長い傾向も認められている。

末永昌美



cGyという単位/組織によって放射線に耐える量(cGyで計測されます)が異なります。たとえば、肝臓は3,000 cGyまで放射線に耐えられますが、腎臓は、わずか 1,800 cGyしか耐えれません。放射線の総線量は通常、より少ない線量に分けられ(分割といいます)、特定の期間毎日照射されます。これにより癌細胞の破壊を最大限に、健常組織の障害を最低にできます。

海外癌医療情報リファレンス



癌(白血病)発生率

(1)長崎で310-690mSvの被曝をした人々(2,527名)に白血病での死者は0
(2)長崎で390mSvの被爆者(25,643名)に白血病での死者は0
(3)広島・長崎で260mSv以下の被爆者は白血病死亡率は平均値(1万人に18名)以下
(4)1950-78年でガン死亡率は1.2Sv以下の被爆者は年平均(2.3人/1000人)以下の年2.1人/1000であった。
(5)1950-78年で広島・長崎の250mSv以下の被爆者のガン死亡率は一般平均を1とすると0.9となる。
(6)長崎では3Sv以下の被爆者のガン死亡率は一般平均を上回ることはなかった。
(7)広島・長崎でのガン死亡率は60mSvを被曝したグループ23,000名は一般平均より低く、かつ平均寿命が長い。
(8)広島・長崎でのガン死亡率は20mSvを被曝したグループ7,400名ではさらに著しい低下があった。

トーマス・ラッキー(ミズーリ大学名誉教授)2008年の論文より



近藤宗平

・放射線は少し浴びたほうが健康によい
・適量の放射線は健康に良い有力な証拠
・線量限度50mSvのリスクはゼロ
・放射線は少しなら健康に全く害はない

近藤宗平先生の提言



放射線は体にいいか?

 近藤宗平のグラフは統計的に有意ではなかったのか? それはこういうことなのだ。さまざまな期間、長崎と広島、男性と女性などを組み合わせれば個々のデータの傾向はバラつく。問題はその中から恣意的に特定の傾向を示すデータだけをピックアップしていることに問題がある。上記のような特殊な条件のデータだけを抜き出さないと、「期待した」傾向を示さないのだ。

疑似科学ニュース



「人は放射線になぜ弱いか」(近藤宗平)

 放射性物質ではなく、放射能に対する恐怖が甲状腺癌を増加させたと言っているようなのだが、俺にはなんとも信じがたいし、それを裏付ける根拠も特に示されていない。まあ「5年で影響が出るのは早すぎる」とは言っているが、一方で放射能に対する恐怖が甲状腺癌を引き起こすという根拠は何も示されてない。

 これはトンデモさんがよく使う論法そのものだ。通説で説明できない事例を上げ、それゆえ自説が正しいと主張する。しかし自説が正しいという積極的な根拠(この場合なら恐怖心が癌を引き起こす)は提示しない。

疑似科学ニュース



広島・長崎の原爆体験者、少量の被爆でも寿命が短縮

 広島と長崎の原爆体験者では、少ない被爆量でも寿命が短縮するという影響が出ているようだ。先に発表された研究結果では、被爆量が少量の人は逆に寿命が長くなるとしていたが、これを否定する結果となった。
 日米共同の研究機関である放射線影響研究所のJohn B Cologne氏らが、12万321人の被爆者について45年間追跡し明らかにした。

【日経BPネット 2000年7月27日/※過去記事のキャッシュ情報】



日本の原発奴隷

 日本の原子力発電所における最も危険な仕事のために、下請け労働者、ホームレス、非行少年、放浪者や貧困者を募ることは、30年以上もの間、習慣的に行われてきた。そして、今日も続いている。慶応大学の物理学教授、藤田祐幸氏の調査によると、この間、700人から1000人の下請け労働者が亡くなり、さらに何千人もが癌にかかっている。

エル・ムンド[EL MUNDO:スペインの新聞 ]2003.6.8



胎内被爆調査

 原爆被爆時に母親の胎内で被曝した胎内被爆者の研究から、被曝線量が増加するにつれて小頭囲(頭のまわりのサイズが小さいもので、小頭症あるいは精神遅滞を伴うことがある)や、重度精神遅滞の頻度に増加のあることが判明した。妊娠8~25週に被爆した人には脳の発育に対する放射線の影響が認められた。とくに8~15週で被爆した人たちの間では放射線線量が増加するにつれて、知能指数値が減少する傾向がみられる。なお妊娠8週以前あるいは25週以降ではこのような影響は認められない。重度の精神遅滞*の影響のしきい値の有無に関してはこれまでに論議のあったところであるが、UNSCEAR(1986)、ICRP Pub.60(1990)では一応しきい値(0.1~0.2Gy)の存在を認めるという結論がでている。

原爆被爆生存者における放射線影響(09-02-07-08)



低線量放射線の生物影響-寿命への影響

(1)自然放射線の20倍程度の照射である0.05mGy/日照射群(集積線量20mGy)では、オス、メス共に寿命に影響は認められなかった(統計的な有意差はない)。
(2)1mGy/日照射群(集積線量400mGy)では、オスで寿命に影響は認められなかったが、メスでは、約20日の寿命短縮が認められた。
(3)20mGy/日照射群(集積線量8,000mGy)では、オス、メス共に100日以上の寿命短縮が認められた。

(財)環境科学技術研究所の研究結果

2011-05-21

統合失調症への思想的アプローチ/『異常の構造』木村敏


『死と狂気 死者の発見』渡辺哲夫

 ・統合失調症への思想的アプローチ

『時間と自己』木村敏
『新版 分裂病と人類』中井久夫

 統合失調症を思想面から捉え、システムとして読み解こうとしている。文学的情緒からアプローチした渡辺哲夫と正反対といっていいだろう。

 実は読み始めて直ぐ挫折しそうになった。文章が才走り、ツルツルしすぎているためだ。簡単に言えることを、わざわざ小難しくしているような印象を受けた。1973年から版を重ねてきた理由を知りたくて何とか読み通した。

 木村は精神分析の世界に道元や西田哲学を持ち込んだことで名を知られているようだが、あまりよくわからなかった。そもそもユング唯識(ゆいしき)は親和性が高いし、仏を医師に譬(たと)える経文も多いのだから、さほど驚くことでもあるまい。

 心理学は学問の世界で長きにわたって低い位置にあった。現在でも低いかもしれない。まず、この分野が果たして学問たり得るのか? という根本的な問題がある。フロイトを占い師みたいに扱う人も多い。因果関係の特定が困難なこともさることながら、心理療法として考えると「治ればオッケー」みたいなところもある。

 精神疾患のことを昔は精神病と言った。精神異常とも気違いとも言っていた。日本の人権感覚は現在の中国と遜色がなかったと考えてよかろう。たかだか30年ほど前の話だ。

 本書のタイトルは精神異常と、異質なものを排除する社会構造とを掛けたものだ。

 異常とは「常と異なる」ことだ。異常気象など。ところがこの「常」が普段や普通を意味すると、「あいつは普通じゃない。異常だ」となる。つまり、皆と同じではないこと=異常という図式である。昔はまだ「はみ出し者」がドラマの主人公たり得た。ところが社会が高度に情報化されると、極端にドロップアウトを忌避するムードが蔓延した。学校におけるいじめとの関連性もあるかもしれない。

 木村は「合理性」について疑義を示す。

 現代の科学信仰をささえている「自然の合法則性」がこのような虚構にすぎないとしたら、そのうえに基礎をおくいっさいの合理性はみごとな砂上の楼閣だということになってしまう。そのような合理的世界観は、それがいかに自らの堅固さを盲信しようとも、意識の底においてはつねに、みずからの圧殺した自然本来の非合理性の痛恨の声を聞いているに違いない。それだからこそこの合理的世界観は、いっそう必死になって自らの正当性を主張するのである。それはあたかも、主権の簒奪者(さんだつしゃ)が自己の系譜を贋造して神聖化し、その地位を反対にしようとする努力にも似ている。その裏で、彼はつねにみずからの抹殺した先の主権者の亡霊につきまとわれ、報復を恐れてその一族を草の根をわけても根絶しにしようとするだろう。これは、現代の合理主義者会がいっさいの非合理を許そうとしない警戒心と、あまりにも酷似してはいないだろうか。異常と非合理に対して現代社会の示すかくも大きな関心と不安とは、どうやら合理性が自己の犯罪を隠し、自己の支配権の虚構性を糊塗しようとする努力の反面をなしているように思われるのである。
 さまざまな異常の中でも、現代の社会がことに大きな関心と不安を向けているのは「精神の異常」に対してである。「精神の異常」は、けっしてある個人ひとりの中での、その人ひとりにとっての異常としては出現しない。それはつねに、その人とほかの人びととの間の【関係の異常】として、つまり社会的対人関係の異常として現れてくる。

【『異常の構造』木村敏〈きむら・びん〉(講談社現代新書、1973年)以下同】

 権力者が交代すればルールも変わる。なぜなら権力とは「俺がルールだ」という仕組みであるからだ。猿山のボスと内閣の首相は一緒だ。社会的な意味合いとしては何も変わらない。服を着ているかいないかという程度の違いだ。

 木村は持って回った書き方をしているが、要は権力交代時における暴力性を新勢力がどう正当化するかということだろう。あまり無理無体なことをしてしまうと寝首を掻(か)かれる恐れがある。暴力は数の論理だ。基本的には人数に左右される。

 ここから振り下ろされた刀は更に「常識」へと向かう。

 さてこれが、アリストテレスのいう「共通感覚」すなわちコイネー・アイステーシスのおおよその意味である。さきに述べたように、このコイネー・アイステーシスがラテン語に訳されてセンスス・コムーニスとなり、それがやがて「常識」の意味に用いられるようになって、現代のコモン・センスという言葉になった。元来は一個人内部の感覚としてとらえられていた「共通感覚」が、いつどのような経路をへて世間的な「常識」の意味に転じてきたのかについては、ここでは詮索しない(カントの『判断力批判』においては、すでにセンスス・コムーニスの語が常識に近い意味で用いられている)。だがこのようにして意味の転化は生じたにせよ、私たちの用いている「常識」の概念とアリストテレスの「共通感覚」の概念との間には、どこかに隠された深いつながりが残っているはずである。

 孔子は「己の欲せざるところ、人に施すことなかれ」(『論語』)と教えた。これが常識というものだ。だが、「して欲しくないこと」は人によって異なる。善意が仇をなすこともある。結局、常識は概念なのだ。それゆえ常識に囚われた人ほど異常を恐れる。「非常識よね」を連発する。

 私たちはめいめい、自分自身の世界を持っている。私と誰か別の人物とが同じ一つの部屋の中にいる場合にも、私にとってのこの部屋とその人にとってのこの部屋とは、かならずしも同じ部屋ではない。教師と生徒にとって、教室という世界はけっして同一の世界ではないし、侵略者と被侵略者にとって、戦争という世界はまったく違った世界であるはずである。しかし、このように各人がそれぞれ別の世界を有しているというのは、私たちがこの世界に対して単に【認識的】な関係のみをもつ場合にだけいえることである。私たちが【認識的】な態度をやめて【実践的】な態度で世界とのかかわりをもつようになるとき、私たちはそれぞれの自己自身の世界から共通の世界へと歩みよることになる。

 世界は人の数だけ相対化されるのだ、という私の持論と同じことが書かれている。なぜなら、世界を構築ならしめているのは私の五感であって、知覚されたものが世界であるからだ。もう一歩踏み込むと「知覚された情報空間」が世界の正体だ。だから当たり前の話であるが、あなたと私の世界は違う。それどころか昨日の私と今日の私とでも異なる場合があり得るのだ。

 コミュニティは利益を共有する集団であるゆえ、常識やルールで折り合いをつける必要がある。これを我々は「普通」と称している。

 木村のいう「実践的」とは「主体的なコミュニケーション」と言い換えてよい。ところが我が国には「出る杭は打たれる」という精神風土がある。出るのも引っ込むのも異常ってわけだ。1億人で行うムカデ競争。

 私たちの当面の課題は、常識からの逸脱、常識の欠落としての精神異常の意味を問うことにあるけれども、これは決して常識の側から異常を眺めてこれを排斥するという方向性をもったものであってはならない。私たちはむしろ、現代社会において大々的におこなわれているそのような排除や差別の根源を問う作業の一環として、常識の立場からひとまず自由になり、常識の側からではなく、むしろ「異常」そのもの側に立ってその構造を明らかにするという作業を遂行しなくてはならない。そしてこのことは、ただ、私たちが日常的に自明のこととみなしている常識に対してあらためて批判の眼を向けることによってのみ可能となるのである。

 この言葉からは力が感じられない。熱意も伝わってこない。論にとどまっていて、言葉をこねくり回しているだけだ。例えば先日起こった癲癇(てんかん)が原因とされている交通事故、古くは日航機逆噴射事故(1982年)、あるいは浅草レッサーパンダ事件(2001年)などの痛ましい事故や事件が実際に起こっている。

『自閉症裁判 レッサーパンダ帽男の「罪と罰」』佐藤幹夫

 他人に危害を及ぼさないのであればいくら論じてもらっても構わないが、殺傷事件となれば話は別である。

 精神といったところで脳の機能である。精神疾患が直ちに犯罪の構成要因になるとは思わない。逆説的になるが犯罪という異常行為にブレーキが利かないのは脳に問題があるからだと私は考える。

 これは一筋縄ではいかない問題だ。教育が「常識」を押しつけ、鋳型にはめ込んで整形することによって、異形の人間をつくっている可能性もあるからだ。価値観が多様化してくると、社会そのものからストレスを感じる人も増えてゆく。

 昨今増えている自閉傾向が見られる軽度発達障害LDADHDアスペルガー症候群など)も遺伝要因なのか環境要因なのかすら明らかにはなっていない。などと、書いている自分を疑う必要だってあるのだ(笑)。

 最終的には暴力と抑圧に行き着くテーマである。そして病人とどう付き合うかは、自分が病気とどう向き合うかと同じ問題である。


欲望と破壊の衝動/『心は病気 役立つ初期仏教法話 2』アルボムッレ・スマナサーラ

パスカルの賭け/『異端の数ゼロ 数学・物理学が恐れるもっとも危険な概念』チャールズ・サイフェ


『天才の栄光と挫折 数学者列伝』藤原正彦

 ・ゼロをめぐる衝突は、哲学、科学、数学、宗教の土台を揺るがす争いだった
 ・数の概念
 ・太陽暦と幾何学を発明したエジプト人
 ・ピュタゴラスにとって音楽を奏でるのは数学的な行為だった
 ・ゼロから無限が生まれた
 ・パスカルの賭け

『ゲーデルの哲学 不完全性定理と神の存在論』高橋昌一郎

必読書リスト その三

 amazonレビュー、恐るべし。

パスカルの賭け:Wikipedia

 第10章のパスカルの賭けに、非常に有名な批判が載っていないので書いておく。
「神が存在しても、信じていた神とは違う神(例えば、キリストの神を信じていたら、いたのはイスラムの神だった)、がいた場合、無限の幸福は得られず、おそらく無限の苦しみにあう」。

 なお、パスカルの賭けは、「無限の幸福は無限の価値がある」ということを前提にしているが、将来のことについてはその時間的遠さに基づいて幸福を割り引く(双曲割引など)という考えを導入することで、無限の幸福の価値が現時点では有限になり、この問題は解消される。

神の存在証明、または非存在証明 2007-11-26 By θ

 せっかくなんで、チャールズ・サイフェのテキストも紹介しておこう。

 パスカルの賭けは、このゲームと似ている。ただし、使われる封筒の取り合わせは異なる。キリスト教徒と無神論者だ(実際には、キリスト教徒の場合しか分析していないが、無神論者の場合は論理的な延長にすぎない)。議論の便宜上、差し当たって、神が存在する見込みは五分五分だと想像しよう(神が存在するとしたら、それはキリスト教の神だとパスカルが考えたのは言うまでもない)。ここでキリスト教徒の封筒を選ぶのは、信心深いキリスト教徒であることに相当する。この道を選んだ場合、可能性は二つある。信心深いキリスト教徒なら、神がいない場合、死んだら無のなかへと消え去るだけだ。だが、神がいる場合は、天国にいき、永遠に幸せに生きる。無限大である。したがって、キリスト教徒であることで得るものの期待値は、

 無のなかへ消え去る見込みが1/2……1/2×0=0
 天国に行く見込みが1/2×∞=∞
 期待値=∞

 何しろ、無限大の半分はやはり無限大だ。したがって、キリスト教徒であることの価値は無限大である。では、無神論者だったらどうなるだろう。その考えが正しければ――神などいないのなら――正しいことによって得るものは何もない。何しろ、神などいないのなら、天国もない。一方、その考えが間違っていて、神がいる場合は、地獄にいき永遠にそこで過ごすことになる。マイナス無限大だ。したがって、無神論者であることで得るものの期待値は、

 無のなかへ消え去る見込みが1/2……1/2×0=0
 地獄にいく見込みが1/2×-∞=-∞
 期待値=-∞

 マイナス無限大である。これ以上小さい価値はない。賢明な人なら無神論ではなくキリスト教を選ぶのは明らかだ。
 しかし、私たちはここである仮定をおいている。それは、神が存在する見込みは五分五分だというものだ。もし1/1000の見込みしかなかったら、どうなるだろう。キリスト教徒であることの価値は、

 無のなかへ消え去る見込みが999/1000……999/1000×0=0
 天国にいく見込みが1/1000×∞=∞
 期待値=∞

 やはり同じ、無限大だ。そして、無神論者であることの価値はやはりマイナス無限大である。やはりキリスト教であるほうがずっといい。確率が1/1000でも1/10000でも、結果は同じだ。例外はゼロである。
 パスカルの賭けと呼ばれるようになったこの賭けは、神が存在する見込みがないのなら無意味だ。その場合、キリスト教徒であることで得るものの期待値は0×∞だが、これはばかばかしい。誰も、神が存在する見込みはゼロだとは言わない。どんな見方をするにせよ、ゼロと無限の魔法のおかげで神を信じるほうが常にいい。賭けに勝つために数学を捨てても、どちらに賭けるべきかをパスカルが知っていたのは間違いない。

【『異端の数ゼロ 数学・物理学が恐れるもっとも危険な概念』チャールズ・サイフェ:林大〈はやし・まさる〉訳(早川書房、2003年/ハヤカワ文庫、2009年)】


臨死体験/『生命の大陸 生と死の文学的考察』小林勝

2011-05-20

神智学協会というコネクター/『仏教と西洋の出会い』フレデリック・ルノワール


『読書について』ショウペンハウエル:斎藤忍随訳

 ・神智学協会というコネクター

『ニューソート その系譜と現代的意義』マーチン・A・ラーソン
『エスリンとアメリカの覚醒』ウォルター・トルーエット・アンダーソン
『日常語訳 ダンマパダ ブッダの〈真理の言葉〉』今枝由郎訳
『日常語訳 新編 スッタニパータ ブッダの〈智恵の言葉〉』今枝由郎訳
『ブッダが説いたこと』ワールポラ・ラーフラ:今枝由郎訳

 驚愕の一書である。西洋に与えた仏教の影響、仏教をニヒリズムと断じたショーペンハウアーの過ち、クリシュナムルティを生んだ神智学協会の文明史的意味、西洋からニューエイジ・ムーブメントが台頭した背景などに興味がある人は必読。学術書でありながら驚くほど読みやすい。ただし誤謬もいくつか散見され、出版社宛てにその旨メールを送ったところ直ちに返信があった。

 本書において西洋と仏教が主役を務めているわけだが、見方を変えると神智学協会を取り巻く物語としても読める。

 ロプサン・ランパ(※偽書『第三の眼』の著者)は強力な触媒であるが、この転送をさらに遡ってみるのは、興味深いことと思われた。この歴史的探究で、私は、西洋における秘教主義の系譜をたどってゆくと、オルコット大佐(※ヘンリー・スティール・オルコット)とヘレナ・ブラヴァツキーによって1875年に創設された神智学(しんちがく)協会へと行き着いた。神智学者たちは彼らの教義を正当化するために、謎めいた「チベット人の師」から授けられた秘密の教えをよりどころにすることで、なみはずれた秘密の能力を具え、人類の根源的な叡智を託されたラマと、魔術のチベットという近代の神話を作り上げた。この神話は、20世紀を通じて、大衆的、秘教的フィクション文学の源となった。

【『仏教と西洋の出会い』フレデリック・ルノワール:今枝由郎〈いまえだ・よしろう〉、富樫櫻子〈とがし・ようこ〉訳(トランスビュー、2010年)以下同】

 神智学協会は無節操な多神教で、いいとこ採りのつまみ食い教団だ。教義の幕の内弁当。ま、スケールのでかい幸福の科学と考えてよろしい。典型的な秘教主義であるわけだが、このエソテリシズム(秘教主義)ってのも実は奥が深い。西洋だとグノーシス主義(1世紀)からマニ教に至る系譜があり、魔術、占星術、錬金術を網羅している。

西洋オカルトの源流はカバラとグノーシス思想にある

 話を戻そう。思想が広まるためには人や物の交流が不可欠である。東洋と西洋はどのように出会ったのだろうか。

 まず最初に、ペルシャ帝国、ついでアレクサンドロス大王の帝国、そしてローマ帝国による政治的統一は、東洋と西洋、より厳密にはインドとギリシャのあいだの交流を数世紀にわたって促進した。紀元前546年、未来のブッダが10歳くらいの頃、ペルシャのキュロス大王は、小アジアのギリシャ都市と、インダス河のインド領域を征服し、エジプトからインドにまでまたがる大帝国を打ち立てた。ペルシア人が作った素晴らしい道路と中継地のおかげで、ブッダは3週間の騎馬の旅で、ギリシャの同時代人ピュタゴラスを訪ねていくことも可能であった(現在では、ギリシャとインドのあいだに位置する緩衝国の大半が、不安定で政治的に閉ざされているので、こんな旅行はほぼ不可能である!)。ヘーゲルは、いみじくも、この新しい政治的統一のおかげで、「ペルシャ人が、東洋と西洋とのつなぎ目となった」と述べている。

 ここで目から鱗(うろこ)が一枚落ちる。思想はそれ自体がもつ力で広まるわけではない。政治・経済の恩恵に浴する形で伝わってゆくのだ。ヨーロッパの連中は長い間、アフリカやアジアには化け物が棲んでいると考えていた(化物世界誌)。

コロンブスによる「人間」の発見/『聖書vs.世界史 キリスト教的歴史観とは何か』岡崎勝世

 ギリシャがインドを征服したわけだが、東洋と西洋が本格的に交流したのはモンゴル帝国が拡大した13世紀のことである。

 仏教は西洋に多大な影響を与えたのは確かだが、それは思想的というよりは政治的なものだった。

 フランス大革命の理想に熱狂し、反教会に徹した19世紀フランス知識人のもっとも典型的な例であったミシュレは、インド、ことに仏教の発展を喜んだ。彼は、この発展のおかげで、ヨーロッパの文化的地平線は、ユダヤ・キリスト教的ヒューマニズムに比べてもっと普遍的なヒューマニズムへと拡大すると考えた。

 ここから本書の主役はショーペンハウアーにバトンタッチする。

 ニーチェ、フロイト、キルケゴール、ベルクソン、ヴィトゲンシュタイン、モーパッサン、トルストイ、カフカ、マン、プルースト、カミュ、セリーヌ、ボルヘス、ヴァーグナー、マーラー、シェーンベルク、アインシュタイン、チャプリンといった多彩な人たちの間に、どんな共通点があるのだろう。それは全員が、人により浅深の差はあるが、今日ではほとんど完全に忘れ去られたドイツの哲学者アルトゥール・ショーペンハウアー(1788-1860)の思想に、影響を受けたことである。

 で、この小悪魔みたいな風体(ふうてい)のオッサンが仏教をニヒリズムとペシミズムに貶(おとし)めたのだ。

 重要なことは、19世紀後半の教養あるヨーロッパ人の大半、そしてフロイト、マルクス、ニーチェの同時代人に、仏教は、このドイツの哲学者の思想と混同されたということである。この現象は、ヨーロッパで仏教がまだよく知られておらず、この混同が根拠のないものであることが、少数の特別な専門家だけにしかわからなかった時代に起こったがゆえに、いっそう決定的であった。正しい見識がなかったたえに、仏教思想はその後数十年の間、根本的厭世主義の烙印を押された、ショーペンハウアーの哲学と同一視されることになった。

 フレデリック・ルノワールは、苦を相対化したブッダと絶対化したショーペンハウアーの根本的な違いを示し、誤謬がもつ毒性に警鐘を鳴らしている。

 ショーペンハウアーは今日、一般大衆にはあまり知られていないが、彼の根本的に悲観主義的な思想と仏教とを同一視することは、哲学の素養はかなりあるものの自分で仏教を深く勉強する必要を感じない知識人の間では、今(ママ)だに根強く生き残っている。

 著者はここからオカルティズムとスピリチュアリズムに切り込む。

 19世紀最後の30年間に、交霊術はヨーロッパの芸術家、知識人たちのあいだに怒濤のように広まり、ヴィクトル・ユゴーをはじめ数え切れないほどの著名人が、半信半疑ながらも熱狂的に、死者との対話に没頭した。
 交霊術に続いて、ひとつの新たな流れが、この秘教的な成分のただなかに出現した。オカルティズムある。この言葉を創始したのは、『偉大な秘儀の鍵』なる書を1861年に出版したアルフォンス=ルイ・コンスタン、またの名を祭司エリファ=レヴィというフランス人である。オカルティズムは、占星術、タロット、カバラ、魔術、錬金術などといった数々の「伝統的科学」に支えられた探究と実践の、ひとつの総体として出現したのである。
 入れ替わり立ち替わり現れるこの二大潮流、つまり交霊術とオカルティズムは、19世紀最後の30余年間、大いに流行し、その地下組織やクラブは数千を数え、隠れた信奉者は数百万人に上った。

 同時代のトーマス・エジソンがあの世に通じる電話を作ろうとしていたことを考えると、さほどおかしなことではない。

かつて無線は死者との通信にも使えると信じられていた/『黒体と量子猫』ジェニファー・ウーレット

 化学(Chemistry)だって錬金術(Alchemy)が産み落としたものだ。

 人間には元々不思議なことを好む性質がある。世界は驚きに満ちていた方がよい。抜きん出た技をもつ人は、どの世界でも重用される。スピリチュアリズムを嫌悪する私ですら、イチローを「フェンス際の魔術師」と呼ぶことに異論はない。

 1961年、インド哲学と、こうした新傾向の心理学に関する研究センターが、カリフォルニアのエサレンに設立された(※エサレン研究所)。これが、のちに「ニュー・エイジ」と呼ばれることになるものの第一の礎石となった。

 これを侮ってはいけない。彼らのヒューマン・ポテンシャル・ムーブメント(人間性回復運動)がマズロー心理学の自己実現理論を布教したのだ。そして、この系譜の末席に自己実現セミナーやワークショップが居座る。

 20世紀に最も影響を与えた心理療法家と称されるカール・ロジャーズもスピリチュアリズムに接近している。

 もう少しアメリカの歴史を辿れば、『若草物語』で知られるルイーザ・メイ・オルコットの父親(※エイモス・ブロンソン・オルコット/オルコット大佐とは別人)に注目する必要がある。このオヤジがエマソンやソローに超越主義を吹き込んだのだ。

ニューエイジで読み解く宗教社会学/『現代社会とスピリチュアリティ 現代人の宗教意識の社会学的探究』伊藤雅之

 それにしても神智学協会がこれほど有名な団体だとは知らなかった。しかも神智学協会は西洋と仏教をつなぐコネクターであったというのだから驚かされる。結果的に「世界における比叡山」のような機能を果たしたわけだ。

 西洋の政治状況とスピリチュアリズム志向の隙間に神智学協会という楔(くさび)が打ち込まれた。そして神智学といういかがわしい沼からクリシュナムルティという花が咲くのだ。なんという不思議であろうか。しかも、あろうことかそのクリシュナムルティがニューエイジの教祖みたいに祭り上げられているのだ。神智学教会は世界の矛盾を体現しているのかもしれない。

 ところが次に見るように、仏教は、人間性の変革を図るにあたって、世界や社会に働きかけることより、自我に働きかけることを優先するという点で、西洋とは正反対の立場をとっている。仏教が推薦する革命とは、まず第一に、そしてなによりも、個人の意識革命なのである。

 本書の後半部分は上座部仏教(いわゆる小乗仏教という名称は大乗仏教が使った蔑称)に傾いている。それでもこの部分は首肯できる。古来、世俗を捨てて仏道に入ることを出世間(しゅっせけん)といった。社会とは複合的な集団であり、ヒエラルキー形成に本質がある。ヒエラルキーは差別であり暴力でもある。社会で生きてゆけば必ず何らかの残酷さと向き合うこととなる。人と人とが行き交う以上、欲望がぶつかり合うのを避けて通ることはできない。

 フレデリック・ルノワールのメッセージに対して、アジアから応答する学者が待たれる。尚、クリシュナムルティに関する記述は少ないことを付言しておく。



星の教団と鈴木大拙
キリスト教の「愛(アガペー)」と仏教の「空(くう)」/『日本人のための宗教原論 あなたを宗教はどう助けてくれるのか』小室直樹
感覚は「苦」/『怒らないこと2 役立つ初期仏教法話11』アルボムッレ・スマナサーラ
西洋におけるスピリチュアリズムは「神との訣別」/『わかっちゃった人たち 悟りについて普通の7人が語ったこと』サリー・ボンジャース
煩悩即菩提/『新板 マーフィー世界一かんたんな自己実現法』ジョセフ・マーフィー

世界史の教科書


     ・キリスト教を知るための書籍
     ・宗教とは何か?
     ・ブッダの教えを学ぶ
     ・悟りとは
     ・物語の本質
     ・権威を知るための書籍
     ・情報とアルゴリズム
     ・悟りの深層
     ・世界史の教科書
     ・日本の近代史を学ぶ
     ・虐待と精神障害&発達障害に関する書籍
     ・時間論
     ・身体革命
     ・ミステリ&SF
     ・必読書リスト

『ニューステージ世界史詳覧』浜島書店
『歴史とは何か』E・H・カー
『歴史とはなにか』岡田英弘
『世界史の誕生 モンゴルの発展と伝統』岡田英弘
『科学と宗教との闘争』ホワイト
『思想の自由の歴史』J・B・ビュァリ
『魔女狩り』森島恒雄
『インディアスの破壊についての簡潔な報告』ラス・カサス
『アメリカ・インディアン悲史』藤永茂
『生活の世界歴史 9 北米大陸に生きる』猿谷要
『聖書vs.世界史 キリスト教的歴史観とは何か』岡崎勝世
『世界史とヨーロッパ』岡崎勝世
『世界システム論講義 ヨーロッパと近代世界』川北稔
・『4日間集中講座 世界史を動かした思想家たちの格闘 ソクラテスからニーチェまで』茂木誠
『科学vs.キリスト教 世界史の転換』岡崎勝世
『奴隷とは』ジュリアス・レスター
『砂糖の世界史』川北稔
『時計の社会史』角山榮
『そうだったのか! 現代史』池上彰
『そうだったのか! 現代史 パート2』池上彰
『世界のしくみが見える 世界史講義』茂木誠
『戦争と平和の世界史 日本人が学ぶべきリアリズム』茂木誠
・『歴史の見方がわかる世界史入門』福村国春
『日本人が知らない最先端の「世界史」』福井義高
・『日本人が知らない最先端の「世界史」2 覆される14の定説』福井義高
『お金の流れでわかる世界の歴史 富、経済、権力……はこう「動いた」』大村大次郎
『「戦争と平和」の世界史 日本人が学ぶべきリアリズム』茂木誠
『お金の流れで探る現代権力史 「世界の今」が驚くほどよくわかる』大村大次郎
『世界史で読み解く「天皇ブランド」』宇山卓栄
『「米中激突」の地政学』茂木誠
『世界史講師が語る 教科書が教えてくれない 「保守」って何?』茂木誠
『環境と文明の世界史 人類史20万年の興亡を環境史から学ぶ』石弘之、安田喜憲、湯浅赳男
『一神教の闇 アニミズムの復権』安田喜憲
『歴史を精神分析する』(『官僚病の起源』改題)岸田秀
『物語の哲学 柳田國男と歴史の発見』野家啓一
『近代の呪い』渡辺京二
『歴史は「べき乗則」で動く 種の絶滅から戦争までを読み解く複雑系科学』マーク・ブキャナン
『一九八四年』ジョージ・オーウェル
『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』ユヴァル・ノア・ハラリ

2011-05-19

ウィリアム・スタイロン


 1冊読了。

 33冊目『ナット・ターナーの告白』ウィリアム・スタイロン:大橋吉之輔〈おおはし・きちのすけ〉訳(河出書房新社、1970年)/重量級の傑作だ。上下2段で370ページ、活字は8ポイントか。読み終えるのに2週間ほど要した。1968年のピュリッツァー賞を受賞している。ナット・ターナーは1831年に武装蜂起した奴隷である。この事件で55人の白人が惨殺された。序文によれば史実に基づいて構成した小説であるとのこと。とにかく文章が素晴らしい。詩的な修飾が次々と現れ、文章が香気を放っている。そこに技巧のあざとさがない。21世紀となった今読むと、「テロの情理」が見えてくる。宗教という縦糸に、暴力と性の横糸が編み込まれる。こうだ、と決めつけることのできない幅のある物語だ。心の反響が余韻を残すのだが、決して心地いい音色ではない。

ドラえもん冷戦構造論


 もう一つ思いついた。

・のび太――日本
・ドラえもん――アメリカ
・ジャイアン――ソ連
・スネ夫――中国

 ウーン、やっぱり斎藤美奈子の「ウルトラマン=在日米軍」説には勝てないな。

ハサミの値札の法則~報道機関は自分が当事者になった事件の報道はしない/『たまには、時事ネタ』斎藤美奈子

宗教OS論の覚え書き


 私はパソコンに詳しいわけではないので、明らかな見当違いがあればご指摘願いたい。単なる思いつきだ。

・CPU――才能
・メモリ――感受性
・ハードディスク――自我
・マザーボード――家庭環境、地域性
・ディスプレイ――社会的身分
・Windows――キリスト教
・Mac OS X――イスラム教
・PC-UNIX――無神論およびスピリチュアリズム
・Microsoft Office――資本主義および民主主義
・インターネット――世界または宇宙

 ・コピーに関する覚え書き
 ・新興宗教Google教

宗教とは
情報理論の父クロード・シャノン/『インフォメーション 情報技術の人類史』ジェイムズ・グリック

生存適合OS/『無意識がわかれば人生が変わる 「現実」は4つのメンタルモデルからつくり出される』前野隆司、由佐美加子

名誉の殺人


 名誉の殺人――殺されるのは女性に限られる。

Wikipedia

防犯カメラという名称


 監視カメラって、いつの間にか「防犯カメラ」という名称になっていたのね。サラ金が消費者金融になったのと同じ変化。言葉のオブラートで包んで、意味の書き換えを行う政治手法だ。

2011-05-17

遠くにある死


 東日本大震災直後から考え続けてきたことがある。まずはこの映像をご覧いただきたい。


 仙台市名取川河口付近に押し寄せた津波だ。ヘリコプターのカメラは明らかに配慮しており、逃げ惑う車をアップで撮ることはなかった。

 どうして誰も泣かないのだろう? なぜ誰も悲鳴を上げないのだろう? カメラマンもアナウンサーも私も。さっきまで走っていた車の中には人がいる。彼、あるいは彼女が目の前で死につつあるにもかかわらず、「まったく凄いもんだな」と津波を眺めているのだ。

 被災者が撮影した動画も同様だ。被害の惨状に悲鳴を上げることはあっても、流されている人や車を見て泣いた人はいなかった。

東日本大震災まとめ30本

 それどころか逃げ遅れた人々を見て「馬鹿だな」と言う声も聞かれた。

 不思議なもので閉ざされた空間には安心感を与える何かがある。車や家の中にいると何となく大丈夫なような気がする。たぶん母親の胎内にいた頃の記憶が喚起されるためなのだろう。パソコンやヘッドホンにも同じ効果があると思う。

 津波に流されたからといって死んだかどうかはわからない――心のどこかでそんなふうに誤魔化している自分がいる。そもそも「流された」という事実に対して想像力が及ばない。

 苦悶の表情、断末魔の叫び声、途絶える息……そうした情報からしか我々は死を感じ取れないのだろうか。

 もう一つ。我々は自分との距離に応じて悲哀の度合いが変わる。道端に見知らぬ人の遺体があっても、我々が泣くことはない。つまり、身内や友人など自我の延長線上にある人間関係の中で我々は悲しむのだ。

 私も実際に経験しているが、多くの死に接すると心のどこかが擦り切れてくる。そして涙が涸れ果てる頃には胸の奥で噴き上げたマグマが岩のように変質して何も感じなくなってしまうのだ。私の心は悲しむ機能を失った。

 例えば目の前で妻が死んだとしよう。それでも私は傍観者以外の立場をとることができない。なぜなら経験したことのない死を想像することは不可能だからだ。

 死は遠くにある。私の死も。

 永遠に続く物語。そんなものは誰も読まないことだろう。朝が夜となるように、そして夜が朝となるように物語には区切りがある。

 終わりはいつくるのだろう? 「今が終わりである」というのがブッダの教えである。止観(しかん)とは時間の連続性を断つ行為である。明日はない。あるのは今この瞬間だけだ。生は現在の中にしか存在しない。

 終わった生と流れる生とがある。そうであるならば、終わった死と流れる死もあることだろう。見える世界と見えない世界がある。実はまばたきするたびに新しい世界が立ち上がっているかもしれないのだ。

 死という現実と生という現実がある。豊かな生があるのだから、豊かな死だってあるはずだ。生の光で死者を照らすしか道はない。だから、苦しくとも生の焔(ほのお)を絶やしてはならない。亡くなった人々と共に生きてゆこう。

2011-05-16

憎悪/『蝿の苦しみ 断想』エリアス・カネッティ


 憎悪には独特の心拍数がある。

【『蝿の苦しみ 断想』エリアス・カネッティ:青木隆嘉〈あおき・たかよし〉訳(法政大学出版局、1993年)】

 これを「不正脈」と名づけよう。鼓動はマイナスからカウントされ、ゼロで悪事に至るのだ。

ローラン・トポール「知性は才能の白い杖である」/『世界毒舌大辞典』ジェローム・デュアメル


 知性は才能の白い杖である。知性がなければ才能は転んでしまう。
(ローラン・トポール/ポーランド出身のフランスの作家・画家。ブラックユーモアで知られる〈原文表記はロラン・トポール〉)

【『世界毒舌大辞典』ジェローム・デュアメル/吉田城〈よしだ・じょう〉訳(大修館書店、1988年)】

 一寸先は闇だ。予測はできても見ることはかなわない。だから「白い杖」となる。知性がなければ、手探りで匍匐(ほふく)前進する羽目となる。才に任せて走ってしまえば石につまずいてしまうことだろう。

 アントニオ・R・ダマシオによれば存在の背景にあるのは感情である。だが知性や理性がなければ「話し合う」ことが成り立たなくなる。感情は条件反射的であるが、知性は調和を目指す。

 学ばずしてせっかくの才能を腐らせている人の何と多いことか。子供たちは、学校教育というベルトコンベアーの上で才能を殺され、記憶競争によって知性すら抑圧されている。(参照:ケン・ロビンソン「学校教育は創造性を殺してしまっている」

毒舌というスパイス/『世界毒舌大辞典』ジェローム・デュアメル
民主主義の正体/『世界毒舌大辞典』ジェローム・デュアメル

2011-05-14

軍司貞則


 1冊挫折。

 挫折19『ナベプロ帝国の興亡』軍司貞則〈ぐんじ・さだのり〉(文藝春秋、1992年/文春文庫、1995年)/大手芸能プロダクションを描いたノンフィクション。面白い。時間がないため半分でやめる。戦後史として読むことも可能だ。もっと芸能界の暗部に踏み込めば売れただろうに。

日本に宗教は必要ですか?/『クリシュナムルティの教育・人生論 心理的アウトサイダーとしての新しい人間の可能性』大野純一著編訳


世界中の教育は失敗した
手段と目的
理想を否定せよ
創造的少数者=アウトサイダー
公教育は災いである
・日本に宗教は必要ですか?
目的は手段の中にある

 面白い動画があったので紹介しよう。


 問題はこの問いを「誰が」発しているのか、である。番組内ではムスリムとクリスチャンだ。つまり、「宗教が必要だ」と説く人物は宗教者に限られる。

 彼らは当然の如く宗教を語る。だが肝心なことが抜け落ちている。宗教の定義が示されていない。ま、アブラハムの宗教(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教)にとっては聖典ということになるのだろう。すなわち「教義」である。

 数千年間にわたって続いたから、それを「正しい」とするのであれば、最も正しい人類の行為は「戦争」ということも可能だ。確かに教義は変わらないかもしれないが、「解釈」は時代によって変わる。そして思想的に袂を分かった人々が分派を形成するのが宗教の歴史であった。

 よく考えてみよう。宗教は教義とそれに基づく行為と考えられているが実際は違う。いかなる宗教であれ、人々を支配しているのは教団である。そして教団が勢力の拡張を目指すところにプロパガンダが生じる。布教とはマーケティング、宣伝、顧客開拓の異名だ。教義に基づくはずの信仰が、教団の政治性に取り込まれているのが実態だ。

 教義は言葉にすぎない。言葉は人間にとってコミュニケーションの道具であり、翻訳機能として働く。同じ言葉であっても、人によって意味が微妙に異なるものだ。それゆえ対話とは互いに歩み寄りながら、言葉を手掛かりにして心を探る行為といってよい。

 我々は衝撃を受けると「言葉を失う」。あるいはモヤモヤした思いや不安は「言葉にならない」。もの凄いありさまは「筆舌に尽くし難い」。結局、言葉は氷山の一角であり、象徴(シンボル)にすぎないのだ。

 言葉で織り成されるのは「思考」である。「悟り」から生まれた宗教が思考の範疇(はんちゅう)に収まるわけがない。簡単な例を示そう。美しい夕焼けを見て、何も考えられなくなるほどの感動を覚えたことは誰しもあるだろう。その光景や感動を「言葉で表現する」ことは可能だろうか? ま、不可能だわな。感動を伝えるのは、あなたの興奮の度合いを示す表情や顔つき、身振り手振りであって、言葉ではない。

 じゃ、もう一つ例を挙げるよ。あなたは自転車の乗り方を言葉で説明できるだろうか?

論理ではなく無意識が行動を支えている/『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』トール・ノーレットランダーシュ

 とすると、悟りを説明することには限界があると考えるべきだろう。これが「教義の限界」だ。

 宗教は組織化された信念ではありません。宗教は真理の探究ですが、それはいかなる国のものでも、いかなる組織化された信念のものでもなく、それはいかなる寺院、教会、あるいはモスクの中にもありません。真理の探究なしには、いかなる社会も長くは存続できないのです。そして真理が存在していないかぎり、社会は必然的に災いを起こすのです。

【『クリシュナムルティの教育・人生論 心理的アウトサイダーとしての新しい人間の可能性』大野純一著編訳(コスモス・ライブラリー、2000年)】

「組織化された信念」とは教団性と言い換えてよい。教義に依存し、教団に隷属する宗教は、党の方針に従う政治と瓜二つだ。

 宗教者は「宗教を疑う」ことを知らない。このため論理的な整合性を無視して「信じる」ことで超越する。破綻する論理を信じることで、人格も破綻してゆく。ここから差別が芽生えるのだ。信じる者と信じない者とを分け隔て、冷酷さや暴力性が瀰漫(びまん)しはじめる。

 キリスト教とイスラム教を見よ。彼らは自分たちの歴史を反省することができない。侵略に次ぐ侵略、女性蔑視、性への偏見、同性愛者の抑圧、奴隷制度、魔女狩りなど、その残虐性は類を見ないほどだ。

 かつて宗教が人類を救ったことは一度もなかった。この事実が宗教の無力さを証明している。歴史的な宗教は権力者にとっては抑圧の道具として効果を発揮した。

 真の宗教は自由を目指す。教団に所属することが信仰ではない。単独であることの至福が宗教なのだ。



ただひとりあること~単独性と孤独性/『生と覚醒のコメンタリー 1 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ
無記について/『人生と仏教 11 未来をひらく思想 〈仏教の文明観〉』中村元
党派性
偶然性/『宗教は必要か』バートランド・ラッセル

2011-05-11

9.11テロ以降パレスチナ人の死者数が増大/『アラブ、祈りとしての文学』岡真理


『物語の哲学』野家啓一
『死と狂気 死者の発見』渡辺哲夫

 ・自爆せざるを得ないパレスチナの情況
 ・9.11テロ以降パレスチナ人の死者数が増大
 ・愛するもののことを忘れて、自分のことしか考えなくなったとき、人は自ら敗れ去る
 ・物語の再現性と一回性
 ・引用文献一覧

『プルーストとイカ 読書は脳をどのように変えるのか?』メアリアン・ウルフ
物語の本質~青木勇気『「物語」とは何であるか』への応答
『アメリカン・ブッダ』柴田勝家
『ストーリーが世界を滅ぼす 物語があなたの脳を操作する』ジョナサン・ゴットシャル
『悲しみの秘義』若松英輔

必読書リスト その一

 東日本大震災からちょうど2ヶ月が経った。被災地ではまだまだ不如意を強いられている方々が多いことだろう。家族や友人を喪った人々が、今日も体育館のダンボールで仕切られた空間に閉じ込められている。

 日本全体で苛立ちが募っている。東京電力や原子力安全・保安院の態度に始まり、政府の対応の悪さ、福島原子力発電所の不透明な現状などを見るにつけ、「これで本当に国家といえるのか?」と疑問の念が湧いてくる。

 今日現在でも死者・行方不明者を合わせると2万4834人にのぼる(時事通信)。この事実に対する緊張感が政治家からは殆ど感じられない。顔つきが一変したのは宮城県気仙沼市が地元の小野寺五典〈おのでら・いつのり/自民党〉だけだろう。

 地震も津波も天災である。それでも、やり場のない怒りを抑えることは難しい。もし神様がいるなら、5~6発ほどぶん殴ってやるところだ。

 とりわけ2001年9月11日、ワシントンとニューヨークで起きた同時多発攻撃事件のあと合州国(ママ)政府の「テロとの戦い」に世界が同調していくなかで、イスラエル軍のパレスチナ侵攻も急速にエスカレートし、2002年3月と4月の両月、それまで二桁だったパレスチナ人の死者数は一挙に200名を越えた。
 日常化した銃撃や砲撃、爆撃によって、日々誰かが斃れていく。隣人が、友人が、恋人が、兄弟が、親が、子どもが、夫が……。愛する者を暴力的に奪われるという、人間の生にとって非日常的であるはずの出来事がこの頃のパレスチナでは日常と化し、「遺された者たちの悲嘆はありふれたものとなった」(※アーディラ・ラーイディ著『シャヒード、100の命 パレスチナで生きて死ぬこと』インパクト出版会、2003年)。
 人間にとってそのような生を生きるとはいかなることなのか。パレスチナ人がパレスチナ人であるかぎり、そうした生を生きること――あるいは、死を死ぬこと――は仕方のないことだとでも言うように、世界が彼ら彼女らを遺棄しているとき、だからこそ、彼らが生きることを――あるいは死ぬことを――強いられている生の細部にまで分け入って、その生の襞に折り込まれた思いに私たちが触れることが何にもまして切実に求められているのではないか。

【『アラブ、祈りとしての文学』岡真理(みすず書房、2008年/新装版、2015年)】

 イスラエルへ勝手に入植してきたユダヤ人の手でパレスチナ人は殺されている。実に1948年から殺され続けているのだ。パレスチナ問題という名称は誤魔化しで、その実体はイスラエル問題である。

 イギリスの三枚舌外交ロスチャイルド家の暗躍によってイスラエルは建国した。

 もしも震災ではなく外国の軍隊によって数万人の同胞が殺戮されたとしたら、あなたはどうするだろう? パレスチナ人にとってはそれが現実である。

 60年を経た今も尚ジェノサイド(大量殺戮)は進行中なのだ。既に三代にわたってパレスチナ人は迫害されている。イスラエルに対する憎悪は沸点に近づきつつあることだろう。本物の若きリーダーが登場すれば、怒りのネットワークは中東地域にまで広がることだろう。

 理不尽に耐えることが人類の行く手を阻む。軍の命令とあらば罪なき人々を平然と殺し、他人の家をブルドーザーで破壊するような連中が滅びないわけがない。

 ユダヤ人の歴史は悲劇の連続であった。しかし、それとこれとは別だ。岡真理の繊細な情感には共感を覚えるが、もはや文学を論じている場合ではあるまい。

我々は闇を見ることができない/『暗黒宇宙の謎 宇宙をあやつる暗黒の正体とは』谷口義明


 ・我々は闇を見ることができない

『ゼロからわかるブラックホール 時空を歪める暗黒天体が吸い込み、輝き、噴出するメカニズム』大須賀健
『ブラックホール戦争 スティーヴン・ホーキングとの20年越しの闘い』レオナルド・サスキンド

「宇宙」って時空という意味だったんだね。知らなかったよ。

 私たちは宇宙に住んでいる。「宇」は空間を意味し、「宙」は時間を意味する。宇宙はまさに私たちの住む時空だということになる。しかし、私たちは自分たちの住んでいる宇宙がどういうものであるか、完全には理解しているとは思えない。歯がゆいことである。

【『暗黒宇宙の謎 宇宙をあやつる暗黒の正体とは』谷口義明(講談社ブルーバックス、2005年)以下同】

 で、何が歯がゆいか? 宇宙の目方がわからないのだ。「質量ったって、星の数を勘定すればいい話だろ?」。私もそう思っていた。まず、ばらつきが多すぎる。太陽系9個の惑星の重さは、太陽の質量のたった0.13パーセントにしかならないそうだ。太陽って、そんなに大きかったのか。

太陽系の本当の大きさ/『人類が知っていることすべての短い歴史』ビル・ブライソン

 地球の直径(赤道)は1万2756kmである。太陽までの距離は何と1億4959万7870kmもある。つまり地球を1万1727個並べた距離だ。地球がサッカーボールの大きさ(70cm)であれば、太陽は821m離れていることになる。確かに遠いわな。一体全体どうやって惑星を引っ張っているんだろうね?

 星の距離は光年という単位で表されるが、これ自体が時空を示している。ちなみに1光秒は29万9792.458kmだ。宇宙は気が遠くなるほどの広がりをもつ。

 そして宇宙には目に見えないエネルギーが存在することがわかってきた。しかもこれが宇宙の大半を構成している。

 さらに驚くべき「ダーク」がある。ダークエネルギーである。宇宙全体の73パーセントの質量を担うものは、このダークエネルギーと呼ばれるものである。そしてさらに、ダークマターが23パーセントを占める。つまり、私たちが知っている物質の質量は、宇宙全体の質量のたった4パーセントでしかないことがわかってきたのである。

 ダークエネルギーという言葉はフリッツ・ツビッキーが1933年に提唱したもの。もちろんダークマター(暗黒物質)にちなんでいる。正体はいまだ不明であるが「真空のエネルギー」と考えられている。

 こうなると超ひも理論に近い。

 結局のところ、宇宙のダークマターの探求は、素粒子の世界と力の統一理論に深く関係していることになる。
 マクロの宇宙とミクロの素粒子の交差点にダークマターがいるかのごとくである。

 つまり宇宙を支配しているのは闇なのだ(笑)。

 このように星はその質量に応じてある有限の寿命を全うして死んでいく。では死んだあとはどうなるのだろう? 多くの場合、ダークな残骸を残すことになる。宇宙のダークサイドの一員になる。

 銀河系の中心には太陽の約300万倍のブラックホールがあると予想されている。標準的なブラックホールの質量は何と太陽の10億倍だってさ。「私って何て小さな人間なんだ!」と悩んでいるそこのあなた。あなたは正しい。

 我々は闇を見ることができない。闇は至るところにある。見えている物の裏側は闇なのだ。背後も闇と考えてよかろう。眠っている間も闇に包まれている。もっと凄いのはまばたきという小さな闇だ。映画のフィルムのつなぎ目のように闇が挿入されているのだ。

 結局、宇宙のダークが示しているのは「死のエネルギー」なのだろう。人類悠久の歴史を思えば、生よりも圧倒的に死の方が多い。目に見える生を支えているのもまた数多くの死(食料)である。

 そう考えると、「私」を成り立たせているのは「反私」なのかもしれない。何らかの量子ゆらぎが絶妙なバランスで存在たらしめているのだろう。これが「私」という場である。

 亡くなっていった人々を思う時、単なる思い出以上の不思議なエネルギーを感じる。


ブラックホールの画像
人間に自由意思はない/『脳はなにかと言い訳する 人は幸せになるようにできていた!?』池谷裕二

2011-05-10

クリシュナムルティの縁起論/『人生をどう生きますか?』J・クリシュナムルティ


 戦争は儲かる。アメリカが戦争を始めるたびに日本は経済的な発展を遂げてきた。

アメリカ軍国主義が日本を豊かにした/『メディア・コントロール 正義なき民主主義と国際社会』ノーム・チョムスキー

 高度経済成長(1954-1973年)からバブルの絶頂(1990年)を迎えようとしたその時、オウム真理教が登場した。地下鉄サリン事件(1995年3月20日)の直前に目黒公証人役場事務長拉致監禁致死事件が起こった(2月28日)が、私は被害者の假谷清志〈かりや・きよし〉さんと同じ町内に住んでいた。

 高学歴の若者が新興宗教に取り込まれ、凶悪な犯罪に手を染めた。メディアは色めきたった。誰もが「なぜ?」と口にした。「リアル」という言葉が持てはやされるようになったのは、この頃からだったと記憶している。犯人は宮台真司か。

 経済がズタズタになるのと同時に、引きこもりパラサイト・シングルニートが増殖し始めた。当初は現実を拒否する若者たちという括(くく)り方をしていた。

 バブルに酔い痴れているうちに人々は生(せい)のリアリティを失っていった。金で手に入るものは全てが虚構であった。ふと気づけば終身雇用が崩壊し、リストラされていた。

 資本主義経済というゲームをしているにもかかわらず、日本はいたずらに20年もの歳月を失い続けた。そして東日本大震災に見舞われた。突きつけられたのは「死のリアリティ」であった。

 本書は選集である。初心者には不向きだ。翻訳が読みやすいため、何となくわかったような気になるところが危ない。少なくとも10冊以上は読んでから臨みたい。

なぜ私たちは生きているのか?

質問者●私たちは生きていますが、なぜ生きているのかはわかりません。私たちの大多数には、人生は意味をもたないように思われます。私たちの人生の意味と目的を教えていただけませんか?

クリシュナムルティ●今なぜ、あなたはこの質問をされるのですか? なぜあなたは私に人生の意味、人生の目的をたずねているのでしょう? 人生という言葉で何を指しておられるのですか? 人生は意味を、目的をもつのでしょうか? 人生はそれ自体が目的であり、意味なのではありませんか? 私たちはなぜそれ以上のものを求めるのでしょう? 私たちは自分の人生にたいそう不満なので、人生があまりにも空虚なので、あまりに安っぽく、単調で、同じことを繰り返し繰り返し何度もやっているので、何かそれ以上のものが、私たちがしていることを超えるものがほしくなるのです。自分の毎日の生活があまりに空虚で、味けなく、あまりに無意味、退屈で、たえがたいほど馬鹿げているので、私たちは人生はもっと豊かな意味をもたねばならないと言い、それであなたはこういう質問をされるのです。たしかに豊かな生活をしている人、ものごとをありのままに見て、自分がもっているものに満足している人は、混乱していません。彼は明快なので、だから人生の目的とは何かとはたずねません。彼にとっては、生活そのものが始まりであり終わりなのです。
 私たちの困難は、ですからこういうことです。生活が空虚なので、私たちは人生に目的を見つけたいと思い、そのために苦闘するのだと。そのような人生の目的は何のリアリティももたない、たんなる頭の先の観念にすぎません。人生の目的が愚かな、鈍い精神、空虚な心によって追い求められるとき、その目的もまた空虚なのです。それゆえ私たちの目的は、どのようにして自分の生活を豊かにするか、お金その他の物によってではなく、内面的に豊かにするかということです。それは何か神秘的なことではありません。あなたが人生の目的は幸福になることだと言うとき、その目的は〔たとえば〕神を見出すことです。が、その神を見出したいという願望は、実は人生からの逃避であり、あなたの神はたんなる既知のものでしかないのです。あなたはあなたが知っている物の方に進めるだけです。もしもあなたが神と呼んでいるものに向かって梯子をかけるなら、たしかにそれは神ではありません。リアリティは逃避の中でではなく、生きることの中でだけ理解されうるのです。人生の目的を追い求めるとき、あなたは実際は逃避しているのであって、あるがままの生を理解しているのではないのです。人生とは関係です。人生とは関係の中における行為です。私が関係を理解しないとき、あるいは関係が混乱しているとき、そのときに私はより豊かな意味を求めるのです。なぜ私たちの人生はこうも空虚なのでしょう? 私たちはなぜこんなにも寂しく、欲求不満なのでしょう? それは私たちが自分自身を深く見つめたことが一度もなく、自分を理解したことがないからです。

【『人生をどう生きますか?』J・クリシュナムルティ:大野龍一訳(コスモス・ライブラリー、2005年)】

 原書は『クリシュナムルティ著作集』(邦訳未刊)。「あなたはだれ?」「世界はどこから来たの?」で知られる『ソフィーの世界 哲学者からの不思議な手紙』(ヨースタイン・ゴルデル著、NHK出版、1995年)が本国ノルウェーで出版されたのが1991年のこと。日本では一気に自分探し、自己実現ブームが起こり、現在にまで至っている。

 クリシュナムルティの言葉は我々を混乱させる。というよりは「混乱している我々の思考」を炙(あぶ)り出す。「なぜ生きるのか?」との問いは、生きるに値せぬ現実から生じる。摩擦、混乱、違和感が孤独へ結びつくと、人は世界から拒絶されたような心境になる。

「周囲から大事にされない」事実が、「いてもいなくてもいい存在」へと追いやる。彼は歩いているのではない。倒れそうになる身体を連続的に支えているだけなのだ。そしてリストラや離婚が子供たちに深刻な影響を与えた。

 資本主義経済の競争原理は一切を手段化する。幸福は資本の獲得に収斂(しゅうれん)される。ゲームで問われるのは資本という点数のみである。

 少し質問を変えてみよう。「なぜ私たちは働くのか?」。答え――「食うため」。ハッハッハッ(笑)。おわかりだろうか? 我々は「生きるために食べる」のではなくして、「食べるために生きている」のだよ。何という本末転倒であろうか。「なぜ私たちは起床するのか?」「会社へ行くためだ」(笑)。

 最後の部分はクリシュナムルティの縁起論といってよい。ブッダは「此があれば彼があり、此がなければ彼がない。此が生ずれば彼が生じ、此が滅すれば、彼が滅す」と説いた(『自説経』)。此(これ)に対して彼(あれ)と読むべきか。

 最近になって気づいたのだが、ここで説かれる関係性とは「能動的な関わり」を勧めたものではない。ただ、「これがあれば、あれがある」としているだけである。すなわち教育的な上下関係ではなくして、存在の共時性を示したものと受け止めるべきだろう。

 ブッダもクリシュナムルティも「対話の人」であった。つまりコミュニケーションにこそ生の本質があるのだ。「私」という自我意識が消失した瞬間、そこには関係性しか存在しない。

自我と反応に関する覚え書き/『カミとヒトの解剖学』 養老孟司、『無責任の構造 モラル・ハザードへの知的戦略』 岡本浩一、他
縁起と人間関係についての考察/『子供たちとの対話 考えてごらん』 J・クリシュナムルティ

2011-05-08

異なる世界


 宗教、言語、国家、文化、地域、皮膚の色、世代、性別が違えば世界も異なる。世界は現前にあるのではなく脳内で構成されるからだ。つまり人の数だけ世界が存在する。

2011-05-03

中野剛志、ウィリアム・カムクワンバ、スティーヴン・ウェッブ、大正大学仏教学科、ルネ・フェレ


 過去ログごと引っ越そうとたくらんだのだが、面倒なのでやめた。五十の坂に近づきつつあるので、ムダな仕事に時間を費やすと人生が短くなってしまう。ってなわけで、書評と雑文はこちらに書き、はてなダイアリーはニュースとリンクをメインにする予定。動画は「斧チャン」へ。一つのブログを三本立てにしたってわけ。「クリシュナムルティの智慧」は保留。ま、書評ったってメモ書きに毛の生えたような代物だが参考にしていただければ、これ幸い。

 4冊挫折、1冊読了。

 挫折15『自由貿易の罠 覚醒する保護主義』中野剛志〈なかの・たけし〉(青土社、2009年)/中野はやはり文章がよくない。論文調で読みにくい。もっと軽いものを書いた方がいいと思う。

 挫折16『風をつかまえた少年 14歳だったぼくはたったひとりで風力発電をつくった』ウィリアム・カムクワンバ/田口俊樹訳、池上彰解説(文藝春秋、2010年)/これはいい本だ。ただし50歳近い大人が読むべき作品ではないだろう。アフリカ人の文章は口承の伝統があるので実に読みやすい。気持ちが豊かになる。

 挫折17『広い宇宙に地球人しか見当たらない50の理由 フェルミのパラドックス』スティーヴン・ウェッブ/松浦俊輔訳(青土社、2004年)/フェルミのパラドクスを勉強しようと思って読んでみた。半分過ぎたところで中止。トピックごとの章立てとなっているので全体の物語性に欠け、山がない。科学的思考を学ぶには好著といえる。

 挫折18『仏教とはなにか その思想を検証する』大正大学仏教学科編(大法輪閣、1999年)/前半100ページが素晴らしい。あとの200ページは大体知っているから私には必要がなかった。仏教の入門書としてはよくできている。記述も正確だ。仏教が学問として深まらないのは、宗派や教団が阻害しているため。

 32冊目『クリシュナムルティ 懐疑の炎』ルネ・フェレ/大野純一訳(瞑想社、1989年)/発売元はめるくまーる社。フランス人らしく哲学的アプローチを試みているが上手くいっているとは言い難い。そう思うのは、私が哲学的素養を欠いているためかもしれない。クリシュナムルティ本はこれで48冊目。

2011-05-01

古本屋の殴り書き:リンク集

ここは更新停止➡https://sessendo.hatenablog.jp/entry/2022/03/19/160843

クリシュナムルティ著作リスト 竹山道雄著作リスト 必読書リストその一 その二 その三 その四 その五 キリスト教を知るための書籍 宗教とは何か? ブッダの教えを学ぶ 悟りとは 物語の本質 権威を知るための書籍 情報とアルゴリズム 世界史の教科書 日本の近代史を学ぶ 虐待と精神障害&発達障害に関する書籍 時間論 身体革命 ミステリ&SF Internet Archive: Wayback Machine レシピ 漬け物   ホイル焼き 炊き込みご飯 お茶漬け・おにぎり オートミール 野菜スープ きのこ

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