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2021-07-01

田中清玄の右翼人物評/『田中清玄自伝』田中清玄、大須賀瑞夫


『日本の秘密』副島隆彦
『ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書』石光真人
『守城の人 明治人柴五郎大将の生涯』村上兵衛
『自衛隊「影の部隊」 三島由紀夫を殺した真実の告白』山本舜勝
『消えたヤルタ密約緊急電 情報士官・小野寺信の孤独な戦い』岡部伸
『日本のいちばん長い日 決定版』半藤一利
『機関銃下の首相官邸 二・二六事件から終戦まで』迫水久恒
『昭和陸軍謀略秘史』岩畔豪雄

 ・会津戦争のその後
 ・昭和天皇に御巡幸を進言
 ・瀬島龍三を唾棄した昭和天皇
 ・田中清玄の右翼人物評

『陸軍80年 明治建軍から解体まで(皇軍の崩壊 改題)』大谷敬二郎
『軍閥 二・二六事件から敗戦まで』大谷敬二郎
『徳富蘇峰終戦後日記 『頑蘇夢物語』』徳富蘇峰

日本の近代史を学ぶ
必読書リスト その四

 ――話は飛びますが、安岡正篤氏とはお付き合いがありましたか。

 全然ありません。そんな意思もありませんしね。有名な右翼の大将ですね。私が陛下とお会いしたという記事を読んで、びっくりしたらしい。いろいろと手を回して会いたいといってきたけど、会わなかった。私は当時、アラブ、ヨーロッパなどへ言ったり来たりで、寸刻みのスケジュールだったこともありましたが、天皇陛下のおっしゃることに筆を加えるような偉い方と、会う理由がありませんからと言ってね(笑)。私には自己宣伝屋を相手にしている時間の余裕などなかった。

【『田中清玄自伝』田中清玄〈たなか・きよはる〉、インタビュー大須賀瑞夫〈おおすが・みずお〉(文藝春秋、1993年/ちくま文庫、2008年)以下同】

「筆を加えるような」とは終戦詔書(=玉音放送)を校閲したことを指す(『機関銃下の首相官邸 二・二六事件から終戦まで』迫水久恒)。細木数子が結婚騒動を起こして安岡の晩節を汚している。多分そういう人物だったのだろう。戦前戦後を通して長く政治家の指南役を務めた人物だ。田中の人物評は寸鉄人を刺す趣がある。しかも直接見知っているのだからその評価は傾聴に値する。

終戦の詔書 刪修 | 公益財団法人 郷学研修所・安岡正篤記念館

 児玉(誉士夫)は聞いただけで虫唾(むしず)が走る。こいつは本当の悪党だ。児玉をほめるのは、竹下や金丸をほめるよりひでえ(笑)。赤尾敏というのもいたな。彼をねじあげて摘み出したことがあった。俺がまだ学生の頃です。

 児玉誉士夫〈こだま・よしお〉は特攻生みの親・大西瀧治郎〈おおにし・たきじろう〉の自決(介錯なしの十字切腹)に立ち会ったエピソードが有名だ。児玉も後に続こうとしたが「馬鹿もん、貴様が死んで糞の役に立つか。若いもんは生きるんだよ。生きて新しい日本を作れ」と大西は諫(いさ)めた。首と胸を刺したが大西は半日以上も苦痛の中で生きた。いかなる悪事に手を染めようと児玉の心中では大西が生きているのではないかと私は考えてきた。が、違ったようだ。

 ――戦後の右翼はどうですか。

 ほとんど付き合いはありません。土光さんが経団連会長の時に、野村秋介(しゅうすけ)が武器を持って経団連に押し入り、襲撃したことがありましたね。政治家と財界人の汚職が問題になった時のことでした。どこかの新聞社の電話と野村とが繋がっていると聞いたので、俺はすっ飛んで行って、その電話を横取りするようにひったくって、こう言ってやった。
「おい、野村、貴様、即刻自首しろ。貴様は土光さんに会いたいというなら、それは俺が取り計らってやるとあれほど言ったじゃねえか。それを、約束を破って経団連を襲うとは何ごとだ」
 そうしたら、野村はつべこべ言った揚げ句に、謝りに来ると言うから「貴様は約束を反古にした。顔も見たくねえ」と言って、それっきり寄せつけない。約束を守らないようなやつは駄目だ。その前に藤木幸太郎さんに一度会わしたことがあったが、藤木さんは「あいつは小僧っ子だな」って、そう言ったきりだったな。

 昨今、ネット上で児玉誉士夫や野村秋介を持ち上げる人物がいるので、慌てて書評をアップした次第である。新右翼は「左翼への対抗」を目的としており理論武装せざるを得ない。そして左翼と同じ体臭を放つようになる。

 ――三島由紀夫という人物をどう評価されますか。

 剣も礼儀も知らん男だと思ったな。自衛隊に入りたいというので、世田谷区松原にあった僕の家に、毎日のように来ていたんだが、2回目だったか、「稽古の帰りですので、服装は整えてませんが」とか言って、紺色の袴に稽古着を着け、太刀と竹刀を持って寄ったことがある。不愉快な感じがした。これは切り込みか果し合いの姿ですからね。人の家を訪ねる姿ではありませんよ。

 生真面目な三島がそれを知らなかったとは思えない。悪ふざけか冷やかしのつもりだったのだろう。それが通用する相手ではなかった。三島が田中に胸襟を開いていれば長生きした可能性はあっただろうか? 否、長く生きて輝きを失うよりは、花の盛りで散ってゆくことが彼の願いであったに違いない。

 私が本当に尊敬している右翼というのは、二人しかおりません。橘孝三郎さんと三上卓君です。二人とは小菅で知り合い、出てきてからも親しくお付き合いを致しましたが、お二人とも亡くなられてしまった。橘さんは歴代の天皇お一人お一人の資料を丹念に集めて、立派な本を作られた。そのために私もいささかご協力をさせていただきました。

 三上卓については『五・一五事件 海軍青年将校たちの「昭和維新」』(小山俊樹〈こやま・としき〉著、中公新書、2020年)が詳しい。野村秋介の師匠である。

2021-06-30

瀬島龍三を唾棄した昭和天皇/『田中清玄自伝』田中清玄、大須賀瑞夫


『日本の秘密』副島隆彦
『ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書』石光真人
『守城の人 明治人柴五郎大将の生涯』村上兵衛
『自衛隊「影の部隊」 三島由紀夫を殺した真実の告白』山本舜勝
『消えたヤルタ密約緊急電 情報士官・小野寺信の孤独な戦い』岡部伸
『日本のいちばん長い日 決定版』半藤一利
『機関銃下の首相官邸 二・二六事件から終戦まで』迫水久恒
『昭和陸軍謀略秘史』岩畔豪雄

 ・会津戦争のその後
 ・昭和天皇に御巡幸を進言
 ・瀬島龍三を唾棄した昭和天皇
 ・田中清玄の右翼人物評

『陸軍80年 明治建軍から解体まで(皇軍の崩壊 改題)』大谷敬二郎
『軍閥 二・二六事件から敗戦まで』大谷敬二郎
『徳富蘇峰終戦後日記 『頑蘇夢物語』』徳富蘇峰

日本の近代史を学ぶ
必読書リスト その四

 もう一つ彼(※中曾根康弘首相)に言っているのは、付き合う人間を考えろということです。彼の周りにはいろんな人間がいましたからねえ。
 例えば瀬島龍三がそうだ。第二臨調の時に彼は瀬島を使い、瀬島は土光さんにも近づいて大きな顔をしていた。伊藤忠の越後(正一元会長)などは瀬島を神様のように持ち上げたりしていたが、とんでもないことだ。かつて先帝陛下は瀬島龍三について、こうおっしゃったことがあったそうです。これは入江さんから僕が直接聞いた話です。
「先の大戦において私の命令だというので、戦線の第一線に立って戦った将兵達を咎(とが)めるわけにはいかない。しかし、許しがたいのは、この戦争を計画し、開戦を促し、全部に渡ってそれを行い、なおかつ敗戦の後も引き続き日本の国家権力の有力な立場にあって、指導的役割を果たし、戦争責任の回避を行っている者である。瀬島のような者がそれだ」
 陛下は瀬島の名前をお挙げになって、そう言い切っておられたそうだ。中曾根君には、なんでそんな瀬島のような男を重用するんだって、注意したことがある。私のみるところ瀬島とゾルゲ事件の尾崎秀実は感じが同じだね。

【『田中清玄自伝』田中清玄〈たなか・きよはる〉、インタビュー大須賀瑞夫〈おおすが・みずお〉(文藝春秋、1993年/ちくま文庫、2008年)】

 かような人物が「昭和の参謀」と持て囃(はや)され、2007年(平成19年)まで生きた。これが「日本の戦後」であった。その狡猾と無軌道ぶりこそ戦後日本の歩みであった。国防を蔑(ないがし)ろにしながら経済一辺倒の政治を国民の支持し続けた。安倍政権は戦後レジームからの脱却を目指したが、瀬島龍三の影響を払拭していなかった。日本の弱さ、デタラメさがここにある。

 祖国を貶(おとし)める反日勢力を一掃できるかどうかに日本の命運が掛かっている。作家風情の丸山健二三島由紀夫を小馬鹿にするような風潮を見逃してはならないのだ。戦後教育の巧妙な刷り込みに気づかぬ国民が国を亡ぼすと銘記せよ。

2021-06-29

昭和天皇に御巡幸を進言/『田中清玄自伝』田中清玄、大須賀瑞夫


『日本の秘密』副島隆彦
『ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書』石光真人
『守城の人 明治人柴五郎大将の生涯』村上兵衛
『自衛隊「影の部隊」 三島由紀夫を殺した真実の告白』山本舜勝
『消えたヤルタ密約緊急電 情報士官・小野寺信の孤独な戦い』岡部伸
『日本のいちばん長い日 決定版』半藤一利
『機関銃下の首相官邸 二・二六事件から終戦まで』迫水久恒
『昭和陸軍謀略秘史』岩畔豪雄

 ・会津戦争のその後
 ・昭和天皇に御巡幸を進言
 ・瀬島龍三を唾棄した昭和天皇
 ・田中清玄の右翼人物評

『陸軍80年 明治建軍から解体まで(皇軍の崩壊 改題)』大谷敬二郎
『軍閥 二・二六事件から敗戦まで』大谷敬二郎
『徳富蘇峰終戦後日記 『頑蘇夢物語』』徳富蘇峰

日本の近代史を学ぶ
必読書リスト その四

 ――『入江日記』によれば、お会いになったのは、1945(昭和20)年12月21日ですね。

 ええ。場所は生物学御研究所の接見室で、石渡荘太郎宮内大臣、大金益次郎次官、藤田尚徳侍従長、木下道雄侍従次長、入江相政侍従、徳川義寛侍従、戸田康英侍従らがご臨席でした。大金さんは「君が思うことをお上にお話ししてくれて結構だ。君は思うことをズバズバ言う方だから、その通りにやってもらいたい」と言われた。

【『田中清玄自伝』田中清玄〈たなか・きよはる〉、インタビュー大須賀瑞夫〈おおすが・みずお〉(文藝春秋、1993年/ちくま文庫、2008年)以下同】

 これほど面白い人物はそうそういない。小室直樹池田大作を軽く凌駕していると思う。元々は瀬島龍三の部分だけ確認するつもりで読んだ。ところが一気に引きずり込まれた。大言壮語や嘘がつきまとう人物だが、それを割り引いても圧倒的な面白さがある。

 それから私は三つのことを申し上げた。一つは、
「陛下は絶対にご退位なさってはいけません。軍は陛下にお望みでない戦争を押し付けて参りました。これは歴史的事実でございます。国民はそれを陛下のご意思のように曲解しております。陛下の平和を愛し、人類を愛し、アジアを愛するお心とお姿を、国民に告げたいと思います。摂政の宮を置かれるのもいけません」
 ということ。当時、退位論が盛んでしたから、摂政の宮をおけという議論もあった。もう一つは、
「国民はいま飢えております。どうぞ皇室財産を投げ出されて、戦争の被害者になった国民をお救いください。陛下の払われた犠牲に対しては、国民は奮起して今後、何年にもわたって応えていくことと存じます」
 ということ。三つ目は、
「いま国民は復興に立ち上がっておりますが、陛下を存じ上げません。その姿を御覧になって、励ましてやって下さい」
 というものだった。

 ――それに対する昭和天皇のお答えは。

「うーん、あっ、そうか。分かった」と。そりゃあ、もう、びっくりしたような顔をされて、こっちがびっくりするぐらい大きく頷かれたなあ。その後、これを陛下はすべて御嘉納になられて、おやりになった。

 田中清玄(きよはる)が本当に日本のことを考えていたことがよくわかる。しかも自分を大きく見せようとする姿勢が微塵もない。昭和天皇の御巡幸を日本国民は伏し目がちに迎え、声の限りを尽くして万歳を叫んだ。この陛下と国民との邂逅(かいこう)が復興の転機となるのである。


 ――昭和天皇のほうからは、どんなお話があったのですか。

 次々と御下問がありました。私の出身の会津藩のことや、土建業をおこして、戦後の復興に携わっていることなど、いろいろ聞かれ、「田中、何か付け加えることはあるか」とおっしゃった。それで私は「昭和16年12月8日の開戦には、陛下は反対であったと伺っております。どうしてあの戦争をお止めにはなれなかったのですか」と伺った。一番肝心な点ですからね。そうしたら言下に、
「自分は立憲君主であって、専制君主ではない。憲法の規定もそうだ」
 と、はっきりそう言われた。それを聞いて私はびっくりした。我々は憲法を蹂躙(じゅうりん)して勝手なことをやって、俺なんか治安維持法に引っかかっている。そんなにも憲法というものは守らなければいかんものなのかと(笑)。最初は20~30分ということでしたが、結局、1時間余りですかねえ。それで僕は、お話し申し上げていて、陛下の水晶のように透き通ったお人柄と、ご聡明さに本当にうたれて、思わず「私は命に懸けて陛下並びに日本の天皇制をお守り申し上げます」とお約束しました。そうしたら、終わって出てきてから、入江さんに「あなた、大変なことを陛下にお約束されましたね」って言われたなあ。それと「我々が言えないことを本当によく言ってくれました」とね。

 これまた重要な歴史的証言である。田中の率直な問いに、陛下は率直な答えで応じている。天皇が神であるのは、一切の人間らしさを捨てて原理に生きているためなのだろう。私は「人間ではない」という意味において天皇陛下は神であると受け止めている。

2020-11-10

混迷する米国大統領選と今後の国際社会


掛谷英紀コラム 2020年11月08日 21時40分

 5回読んだ。大きな溜め息を吐いた。ツイッターで「CFR(外交問題評議会)がバイデンをバックアップした」との情報を見かけた。だとすればキッシンジャーも二股をかけていたのだろう。

 新しい世界秩序を構築するためには規制秩序の破壊が前提となる。その意味で米大統領選挙の混乱とバイデン新大統領の登場は最も相応しい出来事といえよう。

 大統領選の裏側ではユダヤの左右勢力による綱引きが行われてきたが、旧勢力である軍産複合体が勝利を収めたと見るべきか。

 歴史を振り返ればフランス革命を支えたのはユダヤ人(『エンデの遺言 「根源からお金を問うこと」』河邑厚徳、グループ現代)であり、ロシア革命もまたユダヤ人の手で行われた。アメリカにはイスラエルの人口に匹敵するユダヤ人が住んでいる(イスラエル614万人、アメリカ543万人)。就中ニューヨークに集中しており以前から「ジューヨーク」と揶揄されているほどだ。

 かつてのコミンテルンを思えば、現代にあってもっと巧妙かつ緊密なネットワークが構築されていてもおかしくはない。今回の米大統領選挙によって世界は全体主義としての社会主義傾向に拍車がかかることだろう。格差がここまで拡大すれば一般大衆はさしたる疑問を挟むことなく諸手を挙げて賛同するはずだ。

 GHQは皇室制度改革を通して戦後日本を改造した。敗戦のショック状態にあって政治家も国民もそれまで守り通した国体を見失った。左翼言論人は皇室制度を階級闘争の槍玉に上げ、あたかも権力者であるかのように吹聴した。


 あの天皇陛下をお慕い申し上げ、声の限りに「万歳」を叫んだ国民感情はどこへ行ったのか? 一君万民は民主主義なる言葉で塗り替えられてしまった。

 マスコミの影響も見過ごせない。

-(関連質問=ロンドン・タイムス中村浩二記者)天皇陛下はホワイトハウスで、「私が深く悲しみとするあの不幸な戦争」というご発言がありましたが、このことは戦争に対して責任を感じておられるという意味と解してよろしゅうございますか。また、陛下はいわゆる戦争責任について、どのようにお考えになっておりますかおうかがいいたします。

天皇 そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしていないのでよくわかりませんから、そういう問題についてはお答えが出来かねます。

1975年、天皇記者会見一問一答の中身

 文字では伝わらないが、あまりにも不躾なものの言い方であった。

 更に昭和天皇が1989年に崩御され、これをきっかけとしてマスコミが暴走を始めた。1990年、共同通信鹿児島支局が「皇室敬語の廃止」を訴えた。続いて沖縄タイムスが天皇陛下が沖縄を初訪問した1993年、敬語抜きの報道を実践した。そして同年、朝日新聞がこれに同調する。更には北海道新聞が足並みを揃えた(「皇室敬語報道の行方 - 鹿児島大学リポジトリ」を参照した)。左翼の寝技は実に巧妙である。

 戦前の武装共産党のリーダーだった田中清玄〈たなか・きよはる〉は獄中で尊皇の精神に目覚めた(『田中清玄自伝』)。徳富蘇峰は終戦後に血を吐く思いで日記を認めた(『徳富蘇峰 終戦後日記 『頑蘇夢物語』』)。だが現在(いま)、田中も徳富もいない。

2020-09-26

『田中清玄自伝』は戦後史の貴重な資料/『日本の秘密』副島隆彦


『暴走する国家 恐慌化する世界 迫り来る新統制経済体制(ネオ・コーポラティズム)の罠』副島隆彦、佐藤優

 ・片岡鐵哉『さらば吉田茂』の衝撃
 ・『田中清玄自伝』は戦後史の貴重な資料

『日本永久占領 日米関係、隠された真実』片岡鉄哉
『國破れて マッカーサー』西鋭夫
『田中清玄自伝』田中清玄、大須賀瑞夫

 60年安保闘争で、「全学連主流派」という、元祖・過激派学生運動を、背後から使嗾(しそう/あやつり、そそのかす)したのは、まず岸信介を政権の座から追い落とそうとして動いた、自民党・吉田学校(宏池会〈こうちかい〉)の人々であった。その証拠となる文献を、以下にいくつか挙げることにする。
 まず、どうしても、田中清玄(せいげん)氏の『田中清玄自伝』(大須賀瑞生インタビュー、文藝春秋、1993年刊)からである。この本は、きわめて重要な本である。日本の戦後史を検証してゆく上で、陰画(ネガ)のような役割を果たす貴重な回顧録である。田中清玄の死に際の遺言集である。田中清玄は本書の中で、かなり大胆に正直に多くの歴史証言を行っている。しかし肝心の、日本の戦後史の大きな核心部分については、狡猾にも歴史の闇に葬るべく、いくつかの重要事実の公開を慎重に避けていると私は判断する。
 それ以外では、嘘は書かれていない本だ。

【『日本の秘密』副島隆彦〈そえじま・たかひこ〉(弓立社、1999年/PHP研究所新版、2010年)】

 うっかりしていた。私は田中清玄〈たなか・きよはる〉を本書で知った。2015年12月に読了。随分と遠回りしてしまった。ただし意味のある遠回りであった。副島隆彦には一部のコアなファン層がいるが私はあまり好きではない。この人はともすると過激に傾く嫌いがある。穏健なオールドリベラリズムとは反対の性質を感じる。

「戦後史の大きな核心部分」とはCIAによる工作のことか。アメリカは1947年、マーシャル・プランで反共に舵を切った。翌1948年1月6日、アメリカのロイヤル陸軍長官は「日本を共産主義の防波堤にする」と宣言した。同年、朝鮮戦争が勃発。GHQの占領が終了した1952年以降はCIAが様々な工作をしたと仄聞(そくぶん)する。日本が安全保障すら自前で賄(まかな)えないのは自民党が甘い汁を吸いすぎたためだろう。この国は右も左も売国奴だらけだ。

 私は三島由紀夫の純情には惹かれるが非常に危うい性質をも感じる。三島の見識と切腹には飛躍がありすぎる。田中清玄は三島のことを「礼儀知らず」と一言で切り捨てた。

2020-09-25

会津戦争のその後/『田中清玄自伝』田中清玄、大須賀瑞夫


『日本の秘密』副島隆彦
『ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書』石光真人
『守城の人 明治人柴五郎大将の生涯』村上兵衛
『自衛隊「影の部隊」 三島由紀夫を殺した真実の告白』山本舜勝
『消えたヤルタ密約緊急電 情報士官・小野寺信の孤独な戦い』岡部伸
『日本のいちばん長い日 決定版』半藤一利
『機関銃下の首相官邸 二・二六事件から終戦まで』迫水久恒
『昭和陸軍謀略秘史』岩畔豪雄

 ・会津戦争のその後
 ・昭和天皇に御巡幸を進言
 ・瀬島龍三を唾棄した昭和天皇
 ・田中清玄の右翼人物評

『陸軍80年 明治建軍から解体まで(皇軍の崩壊 改題)』大谷敬二郎
『軍閥 二・二六事件から敗戦まで』大谷敬二郎
『徳富蘇峰終戦後日記 『頑蘇夢物語』』徳富蘇峰

日本の近代史を学ぶ
必読書リスト その四

 ――昭和3年、秩父宮殿下が松平家の勢津子さんと結婚されたとき、会津の人達は「これで賊軍の汚名は晴らされた」と、泣いて喜んだという話を聞いたことがあります。

 その通り。もともと会津武士たちを賊軍扱いにしなかったのは、大本営にいた西郷隆盛さんですよ。実際の司令官で会津まで来ていたのは黒田清隆、その下に板垣退助中島信行がいた。彼等は会津戦争の悲惨さを実際に見て知っている。田中の家の隣が西郷頼母の家で、そのあたり一帯は梅屋敷と呼ばれていたのですが、西郷家などは、12歳の少女まで21名全員が自決し、最後に奥方が命を絶っているんですね。板垣、中島はここへも検分に来ていますが、あまりの悲惨さに、黙って手を合わせただけで出てきたという話も残っています。こうした様子を二人は、大本営にいた西郷隆盛さんにつぶさに報告したんだと思いますね。
 ですからいくさがすんだ後は、函館の五稜郭に立て籠もった榎本武揚大鳥圭介以下、一人も殺されていないし、みな禁錮2年とか4年ぐらいで出てきて、その後、北海道開拓使長官となった黒田清隆が会津の武士たちを積極的に取り立てています。
 しかし、田中家としては中老・玄純は北海道で亡くなり、大老・玄清は会津で腹を切り、一族のものは散り散りばらばらですよ。それは悲惨なものでした。とくに新政府の命令で下北半島の斗南(となみ)にやられた者たちは大変でした。これはもう人間の住むところじゃないですよ。核燃料のリサイクル基地か何かにしようと、今もむつ小川原あたりでやっているが、大変な湿地帯のうえに土地が荒れて作物が育たないから、食べ物に難渋しましてねえ。
 田中玄純の倅に源之進玄直(はるなお)という者がおりますが、これが私の曾祖父です。この人も黒田清隆に取り立てられた一人です。

【『田中清玄自伝』田中清玄〈たなか・きよはる〉、インタビュー大須賀瑞夫〈おおすが・みずお〉(文藝春秋、1993年/ちくま文庫、2008年)】

「戦前に逮捕されて共産主義から転向し、戦後は政商になった人物」程度に思っていた。底の浅い先入観は見事に外れた。まあ、とんでもない人物だ。在野の国士と言ってよい。岩畔豪雄〈いわくろ・ひでお〉は立場上、発言が慎重にならざるを得ないが、田中清玄(1906-93年)はビックリするほど明け透けに語る。筋を通す生き方がいかにも会津人らしい。

 田中は戦前の非合法時代における武装共産党の中央委員長を務めた。学生時代に空手を行っていたので腕っ節も滅法強い。田中が転向したきっかけは実母の諫死(かんし)であった。詳細には触れていないが多分切腹したものと思われる。その瞬間、田中は「やったな!」と直感したという。その後獄中にあってスターリンの胡散臭さを見抜いていた彼は「果たして何が真実なのか?」という哲学的煩悶に取り憑かれる。田中が出した答えは「尊皇」であった。会津士魂が蘇ったとしか思えない。

 長らく抱えていた疑問が氷解した。山川捨松〈やまかわ・すてまつ〉の留学(『現代語縮訳 特命全権大使 米欧回覧実記』久米邦武)も同様の措置であったのだろう。ただし、それで清算できたわけではない。

 1986年に、友好都市提携の申し入れを拒否した。萩市は、戊辰戦争で会津藩と戦った長州藩の本拠地である。萩市から、敵として戦った戊辰戦争から120年を記念しての友好都市提携の申し入れがあったが、会津若松市民の間から「我々は(戊辰戦争の)恨みを忘れていない」、当時の福島県知事松平勇雄を指し「孫がまだ生きている」との意見があったため、これを拒否した。ただ、実際この騒動の後に萩市と会津若松市は友好都市関係を結ぶことこそ無かったが、活発に交流するようになり、この騒動はそのきっかけとなった。

Wikipedia:会津若松市

 会津藩は朝敵となってしまったため靖国神社にも祀(まつ)られていない。靖国神社にとっては瑕疵(かし)で済まされない歴史である。