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2014-01-19

残置諜者の任務を全うした男/『たった一人の30年戦争』小野田寛郎、『小野田寛郎の終わらない戦い』戸井十月


『小野田寛郎 わがルバン島の30年戦争』小野田寛郎

 ・陸軍中野学校の勝利と敗北を体現した男
 ・残置諜者の任務を全うした男

『小野田寛郎の終わらない戦い』戸井十月
・『奇蹟の今上天皇』小室直樹
『秘境 西域八年の潜行』西川一三

 残置諜者(ざんちちょうじゃ)――何と酷(むご)い言葉だろう。残の字が無残を表しているようで「惨」にも見えてくる。日本の敗戦を知らず、30年もの長きにわたって残置諜者の任務を全うした男が16日黄泉路(よみじ)へと旅立った。小野田寛郎、享年91歳。

 小野田は1944年(昭和19年)情報将校としてフィリピンに派遣される。陸軍中野学校二俣分校で育成された彼はサバイバル技術と遊撃戦(ゲリラ戦)の訓練を受けていた。スパイは死ぬことを許されない。たとえ捕虜になろうとも生還して報告する義務があるからだ。そもそも小野田が派遣された時点で日本の敗戦は織り込み済みであった。中野学校では米軍が原子爆弾を投下することまで予想していた(『小野田寛郎の終わらない戦い』戸井十月)。

 残置諜者の任務は情報収集と共に敵へ撹乱(かくらん)攻撃を加えることであった。ルバング島での敵とは米軍を指す。これは終戦後も変わらなかった。小野田は米軍基地から弾薬を奪い、いつでも使用できるように手入れを行っていた。体力の限界を60歳と定め、その時が来たら単独で米軍基地を奇襲する覚悟を決めていた。

 そして1974年(昭和49年)3月10日、遂に「参謀部別班命令」が口達(こうたつ)され任務解除~投降となる。

 一 大命ニ依リ尚武集団ハスヘテノ作戦行動ヲ解除サル。
 二 参謀部別班ハ尚武作命甲第2003号ニ依リ全任ヲ解除サル。
 三 参謀部別班所属ノ各部隊及ヒ関係者ハ直ニ戦闘及ヒ工作ヲ停止シ夫々最寄ノ上級指揮官ノ指揮下ニ入ルヘシ。已ムヲ得サル場合ハ直接米軍又ハ比軍ト連絡ヲトリ其指示ニ従フヘシ。

  第十四方面軍参謀部別班班長 谷口義美

 小野田はそれまでに百数十回に及ぶ戦闘を展開し在比アメリカ軍およびフィリピン警察軍関係者を30名殺傷していた。またルバング島で殺人事件があるたびに「山の王」「山の鬼」(現地人がつけた小野田の渾名〈あだな〉)の仕業とされた。投降した小野田は処刑されると思っていた。

 翌3月11日朝、小塚の墓標にひざまずいたあと、私はマニラのマラカニアン宮殿にヘリコプターで運ばれた。マルコス大統領が待っていた。
 大統領は私の肩を抱き、こういった。
「あなたは立派な軍人だ。私もゲリラ隊長として4年間戦ったが、30年間もジャングルで生き抜いた強い意志は尊敬に値する。われわれは、それぞれの目的のもとに戦った。しかし、戦いはもう終わった。私はこの国の大統領として、あなたの過去の行為のすべてを赦(ゆる)します」

【『たった一人の30年戦争』小野田寛郎〈おのだ・ひろお〉(東京新聞出版局、1995年)】


 眼光の鋭さが多くを物語る。小野田は30年間にわたって油断とは無縁であった。風呂どころか行水(ぎょうずい)すら一度もしていない。眠る時は常に傾斜のある場所で敵を見下ろせるようにしていた。これが祟(たた)って帰国後、平らなベッドで眠ることができなかったほどである。厚生省によって3週間入院させられたが、ドアの外に看護師の気配がしただけで目が醒めた。

 マニラでは軍楽隊が小野田を送り、羽田ではわずか1本のラッパだけが小野田を迎えたという(『小野田寛郎の終わらない戦い』戸井十月)。日本は平和という温もりの中で背中を丸めていた。

 私が知っているのは、戦争と自然だけである。
 帰還直後は、とにかく人間が怖かった。

【『たった一人の30年戦争』小野田寛郎〈おのだ・ひろお〉(東京新聞出版局、1995年)以下同】

 小野田は背筋を伸ばしたまま上体を少し傾けて礼をし、そして、ゆっくりタラップを下りた。小野田が地面に足をつけるなり、政治家たちが先を争って名刺を差し出し、自分の名前や肩書きを口にした。昨日まで何の関係もなかった人間たちが群がってくる──これから始まる大騒ぎの、それが最初の洗礼だった。訳も分らぬ小野田は、傲慢で破廉恥な政治家たちの自己宣伝にも、いちいち「お世話になりました」と丁寧な挨拶で応えた。

【『小野田寛郎の終わらない戦い』戸井十月〈とい・じゅうがつ〉(新潮社、2005年)】

 カメラの前で「天皇陛下万歳」をしたことが一部の人々の神経を逆撫でした。知識人がまだ左翼を気取っている時代であった。小野田は政府から支給された見舞金100万円と全国から寄せられた義援金のすべてを靖国神社に奉納した。待ってましたとばかりに小野田を叩く連中が現れた。また帰国後、元々ウマが合わなかった父親と口論し切腹未遂にまで至っている。

 色々と調べているうちに最初の著作『わがルバン島30年戦争』(講談社、1974年/日本図書センター、1999年、『小野田寛郎 わがルバン島の30年戦争』と改題)をゴーストライターが書いた事実を初めて知った。その後この人物は臆面もなく舞台裏を本に著した。子息が全文を公開している。

『幻想の英雄 小野田少尉との三ヵ月』津田信〈つだ・しん〉(図書出版社、1977年)

 行間から異臭が漂う。津田の瞳は当初から先入観で曇っていた。かつて文学賞候補となった人物の思い上がりもあったことだろう。人の悪意は心の中で生まれ、あっという間に泥沼が形成される。国家間が平和な時代は人と人との間で戦争が行われるのだろう。

 昨日、戸井十月のインタビュー動画を視聴した。


 小野田に理解を示した戸井でさえ、「敵を殺す」ことに思いは至っても、「常に殺される状況にある」事実にまで想像が及んでいない。生きるか死ぬかを迫られている時に罪悪感の出番などあるはずもない。

 私はかつてこう書いたことがある。

 本書を読みながら、とめどなく涙がこぼれる。だが、私の心を打つものの正体がいまだにつかめないでいる。

陸軍中野学校の勝利と敗北を体現した男/『たった一人の30年戦争』小野田寛郎

 動画を見てやっとわかった。


 小野田の話は実にわかりやすい。小難しい論理や複雑性がまったくない。そこには明快な原理・原則がある。

 日本に嫌気が差してブラジルへ渡った小野田が数年後日本へ戻ってくる。神奈川金属バット両親殺害事件(1980年)に衝撃を受けた彼は日本の子供たちを放っておけなかった。そして1984年にサバイバル塾「小野田自然塾」を開講した。

 かつて国家から見捨てられた男は追い詰められた子供たちを見捨てなかった。残置諜者が「心の長者」となった瞬間である。



小野田寛郎関連動画
小野田寛郎の盟友・小塚金七の最期
人物探訪:小野田寛郎の30年戦争 - 国際派日本人養成講座

2012-10-02

小野田寛郎の盟友・小塚金七の最期


 小野田寛郎〈おのだ・ひろお〉がルバング島で任務解除~投降(※横井庄一と異なり発見されたわけではない)したのが1974年のこと。実はその2年前に盟友であった小塚金七がフィリピン警察によって射殺された。小野田の著作では触れられていないが、吉村昭著『漂流』(新潮社、1976年/新潮文庫改版、1980年)でフィリピン法医学官の検視証明書が紹介されている。吉村は被弾した小塚が島民の手で撲殺されたとしているが、実際は遺体損壊だったのではないか。いずれにしても小野田の手記を読んできた一人として歴史の事実に粛然とせざるを得なかった。

陸軍中野学校の勝利と敗北を体現した男/『たった一人の30年戦争』小野田寛郎
言葉の重み/『小野田寛郎 わがルバン島の30年戦争』小野田寛郎
小野田寛郎を中傷した野坂昭如/『小野田寛郎の終わらない戦い』戸井十月
ザ・ラスト・サムライ~小野田寛郎

漂流 (新潮文庫)

2010-05-29

小野田寛郎を中傷した野坂昭如/『小野田寛郎の終わらない戦い』戸井十月


『小野田寛郎 わがルバン島の30年戦争』小野田寛郎
『たった一人の30年戦争』小野田寛郎

 ・小野田寛郎を中傷した野坂昭如

・『奇蹟の今上天皇』小室直樹

 ルバング島のジャングルで30年の長きにわたって戦い続けた小野田寛郎は、帰国後メディアから集中砲火を浴びる。小野田は格好の標的となった。物珍しければ何にでも飛びつくのがメディアの習性だ。連中は野良犬のように鼻が利き、野良犬のようにしつこい。

 野坂昭如(のさか・あきゆき)が小野田寛郎を中傷した――

(野坂昭如による“談話筆記”〈『週刊ポスト』8月16日号〉)
 小野田さんはいろいろ偉そうなことをいっているけど、そして偉い面もあるけど、游撃戦にしろ、残置諜報者にしろ、その本分は何も果たしていないじゃないか。
 彼は自分の頭の中に艦船の出入りとか、飛行機のなんとかというものをしっかり納めていたという。それがやがて来たるべき日本の反撃に備える自分の任務だった、というが、じゃ、それを書いてみろといったら、おそらく書けないのではないか。
 横井さんの場合は、「あれは逃亡兵だ、逃げ回った人間だった」という決めつけ方をされていて、小野田さんの場合には「闘った」というふうにいわれている。しかし、状況判断の悪さからいうと、あれは闘ったことにはならない。
 そのことはさておき、彼は、自分の判断が間違っていたために、小塚さんがどうした、島田さんがどうしたとかいっているが、この文章を読んだ範囲においては、その判断の誤りについてほんとうの後悔は何もない。いやしい感じの方が強い。

【『小野田寛郎の終わらない戦い』戸井十月〈とい・じゅうがつ〉(新潮社、2005年)以下同】

 私は以前から野坂という人物に嫌悪感を抱いてきた。見るからに薄汚い風体で、妙にヘラヘラしている。本人はニヒルを気取っているつもりだったのだろう。

 多分この記事は、国民の多くが小野田を礼賛することに背を向けるような格好で発信したのだろう。また小野田が陸軍中野学校出身であったことに警戒感を抱いていたのかもしれない。だが野坂は口の軽い男だった。そう。彼はただの酔っ払いなのだ。そして相手が悪かった。

 例えば、この記事の殆どの部分が、憶測と思い込みによって成立している。あらかじめ、自分の頭の中で描いた絵に結論を引き寄せようとしていると言ってもいい。少なくとも野坂は、小野田から直接話を聞いてもいないし、中野学校のことを調べてもいないし、ルバング島へ取材にも行っていない。その意見の殆どの部分は想像と感想の域を出ていない。いわば、言い放し、書き放しといっていい。しかし、そんなものでも活字になってメディアに載れば力が生まれる。なるほど、そうかと思う人間が出てくる。そうやって、ある人間や、ある出来事のイメージがつくられてゆく。
 小野田は、会ったこともない人間やメディアによって空気がつくられ、知らぬ間にそれが既成事実になってゆくような曖昧さといい加減さが許せなかった。それでは、戦前の日本と同じではないか。野坂の記事を読んだ小野田は、「言いたいことがあるなら、黒眼鏡を外して堂々と言え」と激怒したという。

 野坂は明らかに思い上がっていた。スポットライトを浴びた者は逆光で客席が見えなくなる。目に映るのはライトが当たっている自分の周囲だけだ。傲(おご)りという病(やまい)は治し難い。肥大した自我を正当化するために彼等はひたすら前進するのだ。

 国のために戦い続けてきた男は見世物にされた。小野田の中で日本のイメージが激しく揺れ動いた。彼が守ろうとした国も国民も既に消え失せていた。小野田は帰国から一年を経ずして長兄次兄のいるブラジルへ移住する。

 軽薄な売れっ子であった野坂に対し、小野田はどんな人物だったのか。以下に小野田自身が書いた手紙を紹介する――

 しばらくして週刊誌から手記連載の申し入れがあり、小野田は、代筆者や編集者たちと共に伊東市の出版社寮に缶詰めになった。その頃、小野田は、励ましの手紙をくれた戦争遺族たちに次のような礼状を送っていた。

 拝啓
 御健勝の御事喜ばしく存じます。
 私 帰還に際してはわざわざ御親切なお祝のお便りを頂き誠に有りがたく存じて居ります。今日、生きて日本に帰り得たことはひとえに亡くなられた戦友のお蔭と国民皆様の努力の賜で何とお礼を申し上げてよいものか言葉もなき次第でございます。
 帰られぬ戦友、帰り得た私、その運命の非情さを考えれば帰還の喜びは一瞬に失せ、思いは再び戦場に還ってしまいます。全く相済まぬ事をいたしました。肉親の皆様方に深くお詫びいたしお叱りを受けて、そのお赦しを願わねばなりません。
 肉親の皆様は終戦後の毎日をさぞおつらくお苦しく続けられたことでしょう。よくお耐え下さいました。
 男一匹の私らとは比べものにならない年月をお送りなされたことでございましょう。よく生き貫いて下さいました。
 今、御遺族の貴方様から御慰め頂きましたがこれは全く逆でございます。お慰め申し上げなければならぬのはこの私でございます。何と申し上げても申し上げきれないのはこの私でございます。本当に申し訳ございません。私の今日が祝福されればされる程、私はますます御詫び申し上げなければならないのです。お願いでございます。私の心をお察し下さってお赦し頂きとうございます。
 お互いに死を誓って戦場に出たとは申せあくまでも死は死、生は生でございます。亡くなられた方は再び生きてかえらず、生き帰ったものは全く倖せなのです。戦争の悲劇、全く言い様のない気持です。今迄生き貫かれた貴方様、尚も強く生き通して下さい。それが私にとって最もうれしくお祝の言葉、お慰めの贈りものでございます。
 私の社会復帰について御心配を頂きますがそんなことは第二第三の問題です。私の第一は遺族の皆様のお赦しを頂くことです。どうぞ御健康に御多幸に一日も早く遺族の苦しみ悲しみから抜け出して下さい。それで私は心から解放されるのでございます。右御詫びかたがた御礼まで。
 昭和49年5月
      海南市  小野田 寛郎

 何がここまで私の心を打つのか。私は戦争という戦争を忌み嫌い、戦争へ行ったことを得々と語る老人に対して、「お前は平然と人を殺し、何の躊躇(ためら)いもなくレイプに加担したような人物だろう。たとえお前がやらなかったとしても、周囲で行われたことを黙認するような卑劣漢だ」と心で罵るような人間なのだ。

 私が嫌悪する戦争、私が嫌悪する時代から、なぜこのような人物が生まれたのか。礼儀や人の振る舞いに着地するのは簡単だ。しかし、そんな皮相的なレベルで30年もサバイバル生活を生き延びることは不可能だ。

 小野田の時計は30年前に止まっていた。人間を人間たらしめていたのが30年前の記憶であったとすれば、30年間に及ぶ社会の変化は人間性を失わせるものだったことになる。

 そしてやはり陸軍中野学校の教育が大きかったことだろう。教育というものは例外なく、国家という枠組みに適応させる目的で施される。しかし中野学校では戦時中にもかかわらず、天皇よりも日本国民を重んじる教育を叩き込んだ。その意味では国家を超越する思想を提示したといえよう。

 小野田寛郎の偉大さは、時代や社会から取り残されたジャングルで人間として生き、人間を貫いたところにある。

2010-04-14

言葉の重み/『小野田寛郎 わがルバン島の30年戦争』小野田寛郎


 ・言葉の重み

『たった一人の30年戦争』小野田寛郎
『小野田寛郎の終わらない戦い』戸井十月
・『奇蹟の今上天皇』小室直樹

 本書がルバング島から帰還して、最初に発表された手記である。簡潔にしてハードボイルドのような文体、的確な状況掌握、作戦を遂行するための強靭な意志──発見直後の写真と同じ小野田の鋭い視線が読者に注がれ、行間からは歯ぎしりする音が聞こえてくる。

 小野田は少年時代から負けん気が強かった。当然ではあるが、そんな性質も陸軍中野学校入りした要因であったのだろう。そうでありながらも彼は極めて理知的だった──

 5年生の冬──中学最後の寒稽古のとき、私は古梅(こばい)に言った。
「このまま、お前に負けっぱなしで卒業したんじゃ、俺の立つ瀬がない。すまんが、もう一度、立ち合ってくれ」
「よし、なんべんでも相手になってやるぞ」
 防具をしっかりつけ直して、二人は対峙(じ)した。剣道部の全員がかたずをのんで私たちの決戦を見守った。きょうばかりは断じて負けられなかった。古梅が面をとりにきた一瞬、私はななめ右前へ飛んだ。古梅の胴が鳴り、確かな手ごたえが竹刀の先から伝わった。
「小野田、すごい抜き胴だったぞ」
 あとで古梅が恬淡(てんたん)と言った。それを聞いたとたん、私は全身が赧(あか)くなった。技の優劣にこだわっていた自分が、たまらなくはずかしかった。

【『小野田寛郎 わがルバン島の30年戦争』小野田寛郎〈おのだ・ひろお〉(講談社、1974年/日本図書センター、1999年)以下同】

 まるで山本周五郎の『一人ならじ』の世界そのままである。

 諜報戦に求められるのはスーパーマン的な能力ではなく、やはりバランス感覚であろう。小野田には少年時代からそのような性質が顕著であった。

 盟友の小塚とはルバング島で四半世紀以上も一緒に過ごした。男二人となれば、ぶつかり合わないわけがない。まして情況が過酷になればなるほど気も荒くなる。空腹や疲労は人をして畜生道に追い込む。

 ある日のこと、小塚がいきり立った──

「バカ野郎とは何だ、俺の言うことがきけない奴は、もはや味方じゃねえ、敵だ、日本人じゃねえ、殺してやるッ」
「殺す!? よし、殺したいなら殺してみろ。だが、その前にひとこと、言うことがある。それを聞いてから、それでも殺したかったら殺せ」
 私は再び荷物を置き、小塚の目をにらみながら言った。
「俺は命令とはいえ、きさまと長い年月、国のため、民族のために何とかお役に立ちたいと努力してきた。俺は同志であるきさまを、自分の感情だけで傷つけないよう、ずいぶん心をくだいてきたつもりだ。それなのにきさまは、俺の指導がよくないから、多数の投降者を出し、赤津を裏切らせ、島田を殺すはめになったと、これまでに何度も同じことを言った。
 だが、お前がそういうことを言いだすときはきまっている。敵の勢力が強いとき、天候が悪いとき、計画どおりにことが運ばず、心身ともに疲れているとき、食事の時間が遅れて空腹になったとき──きさまはこの四つのうち、何か一つにぶつかると必ず俺を批判し、怒りっぽくなる。きょうの場合は三番目だ。なぜ、もっと冷静になれないんだ。俺たちは二人だけなんだぞ」
「うるせえッ、いまさら、説教なんてたくさんだ」
「そうか、これだけ言ってもきさまは、同志の俺を殺さなければ気がすまないのか。よし、命をくれてやる。俺を殺して、あとはきさま一人で生きぬけ。そして、俺のぶんも戦え!!」
 すぐ眼下には荒波が打ち寄せていたが、私の耳には何も聞こえなかった。小塚も聞こえなかったろう。二人を包むいっさいの物音が絶え、静寂の中で私たちは対峙した。
 何十秒か過ぎた。
「隊長どの」
 目をそらした小塚が言った。
「先に歩いてくれ」
 そのひとことが、私たちを前よりも強い同志にした。
 私は黙ってうなずき、陽に灼(や)けた海岸の小石を踏んで歩きだした。

 小野田は何があろうとも残置諜者(ざんちちょうじゃ)の任務を優先した。祖国から見捨てられた30年もの間、小野田は日本を見捨てなかったのだ。彼は天皇のためではなく日本民族のために戦っていた。

 フィリピン軍は幾度となく討伐隊を派遣するが、ことごとく蹴散らされた。島民は二人を「山の王」「山の鬼」と呼んで恐れた。

 ここにも実は小野田の深慮遠謀があった。完全に隠れてしまっては、日本軍が再びやってきた時に自分達の存在を伝えられなくなってしまう。だから時々姿を現しては住民を威嚇(いかく)し、自分達のテリトリーを知らしめることを意図していたのだ。

 帰国後、マスコミは砂糖に群がる蟻のように小野田を追い回した。高度経済成長に酔い痴れた日本人は、勝手な憶測で面白おかしく小野田を論じた。戦争はルバング島で終わらなかった。

 まるで浦島太郎だった。日本民族のために必死の思いで生きてきたにもかかわらず、玉手箱を開けた途端、「軍人精神の権化」「軍国主義の亡霊」と罵られた。元将校という人物からは「自決すべし」という手紙が寄せられた。小野田は些細なことで父親とぶつかった時、その場で割腹(かっぷく)しようとしたこともあった。

 軍国主義に諸手(もろて)を上げて賛成した人々が、今度はその手で小野田を指差した。何という身勝手であろうか。自分自身の空虚さに耐えられない連中は、いつだって好き勝手な放言を吐くものだ。小野田にケチをつける輩(やから)はルバング島へ島流しにするべきだ。

 小野田はその後、折に触れて保守系論壇に利用されたこともあった。戦前の教育を一身に受け、戦後30年近くにわたって時計が止まっていたのだから致し方ない側面もある。それでも小野田の言葉は清らかで重い。

2010-04-03

陸軍中野学校の勝利と敗北を体現した男/『たった一人の30年戦争』小野田寛郎


『小野田寛郎 わがルバン島の30年戦争』小野田寛郎

 ・陸軍中野学校の勝利と敗北を体現した男
 ・人間が怖かった
 ・残置諜者の任務を全うした男

『小野田寛郎の終わらない戦い』戸井十月
・『奇蹟の今上天皇』小室直樹
『F機関 アジア解放を夢みた特務機関長の手記』藤原岩市
『洞窟オジさん』加村一馬

 1972年(昭和47年)1月24日、横井庄一がグアム島で発見された(画像)。帰国した横井は「恥ずかしながら帰って参りました」と語った。


 それから2年後の1974年3月10日、今度はフィリピンのルバング島で小野田寛郎がフィリピン軍に投降する。戦後29年目のことであった。

 実はこの二人には大きな相違があった。横井は川でエビを採っていたところを地元の猟師に発見され、住んでいた洞窟から救出された。これに対して小野田は戦争が続いているものと確信し、所期の任務を遂行していたのだ。戦後、幾度となく捜索が行われたにもかかわらず、小野田は米軍による偽装行為であると思い込んでいた。接触に成功した鈴木青年のことも小野田は全く信用していなかった。最終的に谷口元少佐が現地を訪れ、新たな命令を口達(こうたつ)し、武装解除、投降に至るのである。

 小野田寛郎は足掛け30年もの長きにわたり、たった独りで戦争を続けていたのだ。

 初めは4人で行動していた。終戦から4年後に一人が逃亡した。9年後には一人が射殺された(島田庄一)。そして盟友の小塚金七も1972年に射殺された。それでも小野田はルバング島の動向を掌握し、日本軍がやって来ることをひたすら信じた。何が彼をしてそこまで駆り立てていたのだろうか。

 私はこの“戦後30年”、必死で、人の2倍のスピードで人生を生きてきた。
 帰還の記者会見で「30年のジャングル生活で、人生を損したと思うか」と聞かれ、「若い、意気盛んな時期に、全身を打ち込んでやれたことは幸福だったと思う」と答えた。

【『たった一人の30年戦争』小野田寛郎〈おのだ・ひろお〉(東京新聞出版局、1995年)以下同】

 二十歳(はたち)の小野田は中国語に堪能であったことから、陸軍中野学校二俣分校で訓練を受けることとなる。

 当時、陸軍には校名を見ても内容がわからない学校が二つあった。「中野学校」と「習志野学校」である。この二校だけは、陸士や歩兵学校、通信学校などと違って、参謀総長の直轄であった。
 わかりやすくいえば、中野学校はスパイの養成機関、習志野学校は毒ガス、細菌戦の専門家教育である。「こりゃ、えらいところへ回された」というのが、私の正直な気持ちだった。
 中野学校の教育方針は「たとえ国賊の汚名を着ても、どんな生き恥をさらしてでも生き延びよ。できる限り生きて任務を遂行するのが中野魂である」というものだ。

 通常、軍人であれば捕虜となった時点で「負け」を意味する。戦陣訓には「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず」と謳われていた。しかし諜報活動を行う中野出身者は違った。捕虜になっても尚、敵軍の情報を収集し、チャンスがあれば偽情報を流すことも可能であった。スパイにとって最大の仕事は「報告すること」である。死ぬことは絶対に許されなかった。

 校風は当時では考えられないほど自由奔放で、国体を批判しようが、八紘一宇(はっこういちう)を疑おうがおとがめなし。むしろ「天皇のために死なず」という気風すらあった。
 自分たちが命を捧げる対象は、天皇でもなく、政府、軍部でもなく、日本民族である。民族を愛し、民族の捨て石となって喜んで死ぬことができるか──を問うた。
 こんな精神教育の上に立ち、命も名もいらぬ人間として諜報技術を叩き込まれた。
 軍人の規範とされた戦陣訓には「恥を知る者は強し。常に郷党家門の面目を思い、愈々(いよいよ)奮励してその期待に答うべし。生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿(なか)れ」とある。
 しかし中野学校では、「死ぬなら捕虜になれ」と教えた。捕虜になって敵に偽情報をつかませるのだ。そのため“擬装投降”という戦術まであった。
 だが、功績を認めてくれるのは組織上層部だけで、世間には汚名を着せられ、人知れず朽ち果てていく。これが秘密戦士の宿命であった。
 では、秘密戦にたずさわる者は、いったい何をよりどころにすればいいのか。中野学校はこれをひと言で表現した。
「秘密戦とは誠なり」である。

 中野教育は一種のエリート教育であったと考えるべきだろう。一般の軍隊よりも一段高い視点から戦争を捉えていることからそれが窺える。ただし、功に生きることは許されない。飽くまでも黒子であり忍びという存在に徹することが求められる。

 中野の訓練は、「一を見て十を知る」という観察眼に重きが置かれた──

 たまに教官と浜松の街に外出するのも、息抜きでなく“候察”(こうさつ)の実地教育である。
 ある工場の前を通った。煙突から黒煙や黄色い煙があがっていた。
「工場の使用燃料は何か?」「何を生産し、その数量は?」「従業員数は何人か?」
 教官から矢継ぎ早に質問がとぶ。私たちはしどろもどろだった。
 候察ではメモは一切禁止されていた。敵に捕まったとき、証拠を残さないためだ。私はルバング島の30年、この習性で一切メモはとらず、日にちから行動まですべてを頭の中に記録してきた。

 そして小野田に命令が下された──

 私への口頭命令は次のようなものであった。
「小野田見習士官は、ルバン(グ)島へ赴き同島警備隊の遊撃(ゲリラ)戦を指導せよ」
 この命令が、以後30年、私の運命を支配することになる。

 更に付け加えられた──

 小柄で、温和な風貌をした横山師団長は、私にじっと目を注いで静かな口調で命令した。
「玉砕は一切まかりならぬ。3年でも、5年でもがんばれ。必ず迎えに行く。それまで兵隊が一人でも残っている間は、ヤシの実をかじってでもその兵隊を使ってがんばってくれ。いいか。重ねていうが、玉砕は絶対に許さん。わかったな」

 この言葉が小野田を30年間支配したのだ。そして百数十回にわたる戦闘を展開した。

 1972年の捜索には小野田の家族も参加し、拡声器で呼び掛けている。小野田は至近距離から確認した。にもかかわらず小野田は姿を現さなかった。なぜか? それは諜報戦に身を投じた者の宿命であった。小野田はあらゆる情報を「疑う」習性に取りつかれていたのだ。

 小野田寛郎こそは、陸軍中野学校の勝利と敗北を体現した男だった。何という運命のいたずらか。

 彼の30年間を「単なる勘違い」と嘲笑できる人物は一人も存在しないことだろう。彼が不幸であったと言う人すらいないことだろう。同じ30年間を漫然と過ごしてきた日本人の方が圧倒的に多かったはずだ。

 私は軍国主義やナショナリズムに対して常々嫌悪感を抱いているが、小野田の中に結晶した戦前の何かに魅了されてやまない。

 投降後の行動もことごとく軍人の様式に貫かれている。小野田は殺されることを覚悟で軍刀をフィリピン軍司令官に差し出す。司令官は一旦受け取った後、その場で小野田に軍刀を返した。フィリピンのマルコス大統領(当時)は、小野田の肩を抱き「あなたは立派な軍人だ。私もゲリラ隊長として4年間戦ったが、30年間もジャングルで生き抜いた強い意志は尊敬に値する。われわれは、それぞれの目的のもとに戦った。しかし、戦いはもう終わった。私はこの国の大統領として、あなたの過去の行為のすべてを赦(ゆる)します」と語った。小野田は現地住民を殺傷していたため、死刑になってもおかしくはなかったのだ。

 ルール、教育、命令、約束……。これらは日常生活にもあるものだ。そこには往々にして利害が絡んでいるものである。内側から見れば正義だが、外側から見ればエゴイズムに映ることも決して珍しくはない。

 小野田はルバング島の住民を震え上がらせた。帰国後、住民達からのメッセージが伝えられた──

 私が帰還後、厚生省の招待で西ミンドロ州知事夫妻とマニラ地区空軍司令官夫妻が東京にやってきたことがある。私は陸軍中野学校の同期生たちと、彼らを東京の街に案内した。
 銀座のクラブで飲んでいるとき、突然、州知事夫人が改まった顔で「ミスター・オノダに島の女性と子供たちからメッセージがあります」といった。場が一瞬、緊張した。
「島の男たちは30年間、大変怖い思いをしました。不幸な事件も起きました。しかし、オノダは決して女性と子供には危害を加えなかった。彼女たちが子供たちと安心して暮らすことができたのは、大変幸せなことでした」
 私は別にジュネーブ国際条約に定められた事項を守り通そうという意識があったわけではない。性欲は私欲であって、国のために戦うのに必要のないものだ。戦闘力も敵意もない女性や子供は、戦いには無関係だっただけである。

 小野田という人間の真髄がここにある。本書を読みながら、とめどなく涙がこぼれる。だが、私の心を打つものの正体がいまだにつかめないでいる。



小野田寛郎さんという人の、本当の素晴らしいところ
教科書問題が謝罪外交の原因/『この国の不都合な真実 日本はなぜここまで劣化したのか?』菅沼光弘
国益を貫き独自の情報機関を作ったドイツ政府/『菅沼レポート・増補版 守るべき日本の国益』菅沼光弘
靖國神社/『国民の遺書 「泣かずにほめて下さい」靖國の言乃葉100選』小林よしのり責任編集
エキスパート・エラー/『新・人は皆「自分だけは死なない」と思っている 自分と家族を守るための心の防災袋』山村武彦
小善人になるな/『悪の論理 ゲオポリティク(地政学)とは何か』倉前盛通

2010-03-23

小野田寛郎の悟り


 ・小野田寛郎の悟り

『生命力を高める身体操作術 古武術の達人が初めて教える神技のすべて』河野智聖

 小野田さんは、ジャングルの戦いを通じて不思議な能力が発揮された経験を持っています。一度は、夕暮れ時に友軍の周囲を敵軍によって完全に包囲されてしまったときでした。本当に命を賭けなければいけないと必死になったその瞬間、頭が数倍の大きさに膨らんだ感じになって悪寒に襲われて身震いし、その直後、頭が元の大きさに戻ったと感じると、あたりがパーッと明るく鮮明に見えるようになったそうです。

 小野田自然塾でも定番のキャンプファイアー。火を使うことで人間は大きな進化を遂げましたが、小野田さんの体験を聞くと、太古に培った野生的な能力が体のどこかで眠っているような気がします 「夕闇が迫っているのに、まるで昼間のような明るさになりました。そして、遠くに見える木の葉の表面に浮かぶ一つ一つの脈まではっきり認識することができました。そうなると、はるか先にいる敵兵の動きも手に取るように分かります。それこそ、相手が射撃をする直前にサッと身をかわして銃弾を避けることさえできると思いました」

 命を賭ける場面が、命を賭けなくても大丈夫だという自信に変わった小野田さんは、難なくこのピンチを切り抜けることができました。

 もう一度は、日本に帰還して検査のために入院していたときに分かったことでした。たとえ寝ていても、病室にやってくる人の気配を感じることができたのです。

「毎晩3回、巡寮の看護婦さんが部屋に入る前から気配を察し眼を覚ましていました。これは、島の生活を送るなかで知らぬ間に身についていた能力でした。初めての場所を偵察中、道の脇とは知らず仮眠をしてしまい、人の気配で眼を覚まし、別の場所に変えて、敵や住民をかわしたことが何度もありました。寝ていても警戒心は働いていたのです」

 力を合わせてテントを設営する子どもたち。自然のなかでいろいろな体験をすることによって、生きるための知恵や判断力が養われていきます こうした経験から、人間には普段使われていない潜在的な能力がたくさんあるはずだと、小野田さんは考えています。

「特殊な能力は、本当に必死になったときでなければ表に出てきませんから、普通の生活を送るうえで必要はありません。しかし、少なくとも危険から身を守る能力や知恵、判断力は、子どものときに体験するさまざまな動作や遊びのなかで身についていくものだと思います。

ブルーシー・アンド・グリーンランド財団

光り輝く世界/『飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ 若き医師が死の直前まで綴った愛の手記』井村和清