2014-03-15

稀有な文章/『石に話すことを教える』アニー・ディラード


 ・稀有な文章

『本を書く』アニー・ディラード
『動物たちのナビゲーションの謎を解く なぜ迷わずに道を見つけられるのか』デイビッド・バリー
『悲しみの秘義』若松英輔

動物記』のアーネスト・T・シートンによると、ある人が空からワシを撃ち落とした。死骸を調べたところ、ワシの喉には干からびたイタチの頭蓋骨が顎でぶら下がっていた。想像するに、ワシがイタチに襲いかかるや、イタチはくるっと向きなおって本能の命ずるままにワシの喉に歯を立て、もう少しで勝ちをとるところだったのだろう。わたしは叶うものなら、撃ち落とされる何週間か何か月か前に、天翔けるそのワシを見たかった。ワシは喉元にイタチごとぶら下げて飛んでいたのだろうか。毛皮のペンダントかなにかのように。それとも、ワシはイタチを届くかぎり食べたのだろうか。胸元のかぎ爪を使って生きたまま内蔵をかき出し、首を折るように曲げて肉をきれいについばみ、美しい空中の骸骨に仕立て上げたのだろうか。

【『石に話すことを教える』アニー・ディラード:内田美恵〈うちだ・みえ〉訳(めるくまーる、1993年)以下同】

「イタチのように生きる」と題した一文を紹介する。40年以上に渡って本を読んできたが、これに優るエッセイはない。稀有(けう)といってよい。ソローの超越主義的臭みを感じた私は本書を読み終えてはいない。それで構わない。一篇の随想が稲妻のごとく私の背骨を垂直に貫く。


 彼女は数日前にイタチを見かける。

 4フィート先の、ぼうぼうに生えた野バラの大きな茂みの下から姿を現わしたイタチは、驚いて凍りついた。わたしも幹に坐ってうしろをふり向きざま、同様に凍りついた。わたしたちの目と目は錠をかけられ、その鍵を誰かが捨てたようだった。
 わたしたちの表情は、ほかの考えごとをしていて草深い小道でばったり出食わした恋人どうし、もしくは仇敵どうしのそれだったにちがいない。意識を澄ませる下腹への痛打か、あるいは脳への鮮烈な一撃か。それとも、こすりつけられた脳の風船どうし、出合いがしらに静電気と軋みを発したのか。それは肺から空気を奪い、森をなぎ倒し、草原を震わせ、池の水を抜き去った。世界は崩れ、あの目のブラックホールへともんどり打っていった。人間どうしがそんな見つめ方をすれば、頭はふたつに割れて両の肩に崩れ落ちるほかはない。だが、人はそれをせず、頭蓋骨は守られる。つまり、そういうことだった。

 正直に告白しておくと何も書く気がしない。ただテキストを抜き書きして紹介したい。しかしそれではブログの格好がつかないし、何といっても私の魂の震えが伝わらないだろう。

 ディラードの文章は瑞々しい静謐(せいひつ)に包まれている。そして一瞬の想像力が太陽に向かって跳躍する。その姿は逆光の中で鮮やかな影となって確かな姿を私は捉えることができない。だがそのスピードと高さだけは辛うじてわかる。彼女は「見る」という行為を限りなく豊かに押し広げ、そこに自分を躍らせるのだ。


 どのように生きるか。わたしは学ぶなり思い出すなりできたらと願う。ホリンズ池に来るのは、学ぶためというより、正直言ってきれいさっぱり忘れるためである。いや、わたしは野生動物からなにか特定の生き方を学ぼうなどとは考えていない。このわたしが温かい血を吸い、尾をピンと立て、手の跡と足の跡がぴったり重なるような歩き方をしてどうなるというのだ? けれども、無心ということを、身体感覚だけで生きる純粋さを、偏見や動機なしで生きる気高さを、いくらかなりとも身につけることはできるだろう。イタチは必然に生き、人は選択に生きる。必然を恨みつつ最後にはその毒牙による愚劣な死を遂げる。イタチはただ生きねばならぬように生きる。わたしもそう生きたいし、それはすなわちイタチの生き方だという気がする。時間と死に苦もなく開き、あらゆるものに気づきながらなにものも心にとどめず、与えられたものを猛烈な、思い定めた意志で選択する生き方だ、と。

「偏見や動機なしで生きる気高さ」「時間と死に苦もなく開き、あらゆるものに気づきながらなにものも心にとどめず」との文章がクリシュナムルティと完全に一致している(偏見動機気づき)。「時間と死に苦もなく開き」という言葉は作為からは生まれ得ない。すなわちディラードの文は生きる態度がそのまま表出したものであろう。本物の思想や言葉は生そのものから「滴(したた)り落ちてくる」ものなのだ。


 その機会を、わたしはのがした。喉元に食らいつくべきだったのだ。イタチの顎の下の、あの白い筋に向って突進すべきだった。泥の中だろうが野バラの茂みの中だろうが、食らいついていくべきだった。ただ一心に得がたい生を求めて、わたしたちは連れだってイタチとなり、野バラのもとで生きることもできたろう。ものも言わず、わけもわからずに、いたって穏やかにわたしは野生化することもできたろう。二日間巣にこもり、背を丸め、ネズミの毛皮に身を横たえ、鳥の骨の匂いを嗅ぎながら瞬きし、舐め、麝香(じゃこう)を呼吸し、髪に草の根をからませて。下は行くにいい場所だ。そこでは心がひたむきになる。下へは外へでもあり、愛してやまぬ心から外へ抜け、とらわれのない感覚へと戻ることである。

 見るものは見られるものである。瞳が捉えた対象との間に距離や差異は消え失せて完全にひとつとなる。ディラードの生とイタチの生はDNAのように螺旋(らせん)を描き、分かち難く結びつき新たな生命として誕生する。

 もうこれ以上は書かない。ただただアニー・ディラードの奏でる文章に身を任せ、堪能し、浸(ひた)り、溺れて欲しい。この随想はこう終わる――。

 そうすることもできたはずだ。わたしたちはどのようにも生きられる。人は選んで貧困の誓いを、貞節や服従の誓いを、はたまた沈黙の誓いを立てる。要は、呼ばわる必然へと巧みに、しなやかにしのび寄ることだ。やわらかい、いきいきとした一点を見つけて、その脈に接続することだ。それは従うことであり、抗うことではない。イタチはなにものをも襲わない。イタチはそう生きるべく生きているだけだ、一瞬一瞬、ひたむきな必然の、完全なる自由に身をゆだねて。
 自分のただひとつの必然をつかみとり、それをけっして手放さず、ただぶら下がってどこへなりと連れていかれることは、すばらしくまっとうで従順な、純粋な生き方ではないかと思う。そうすれば、どのように生きようが結局は行きつく死でさえ、人を分かつことはできないだろう。
 つかみとることだ。そしてその爪で空高くつかみ上げられることだ。両の目が燃えて抜け落ちるまで。おのが麝香の身をずたずたに裂かれ、骨は千々に砕かれ、野や森にばらかまれることだ。軽やかに、無心に、望みの高みから、ワシのごとき高みから。




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